2011年01月29日

鎌倉街道探訪記(18)

「定家神社」の鳥居を背に、新幹線の高架を潜って100mほど東へ進むと、「下佐野第一公民館」の分去れに出ます。




ここに、「放光神社」があります。
社殿は屋根や土台が痛んできたということで、平成22年(2010)に建て替えられたので真新しくなっていますが、由緒はなから古いのです。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」には、このように書かれています。
明治維新に際し再興すといふ。上野国神名帳群馬郡西(東?)部載する所の正四位上放光明神すなはちこれなり。
此処に放光庵と称する仏堂あり。文禄中(1592-96)の建立なりしが、明治九年(1876)に至りこれを廃止、その跡を以て放光神社の神地に併す。
堂は放光山天平寺と称する伽藍の跡なりと。」
平安時代後期に書かれたと思われる、神社のランキング本。

鳥居の横には、「史蹟 放光寺 放光明神跡」と刻まれた、大きな石碑が建っており、裏面には、こう刻まれています。
抑〃(そもそも)吾カ(が)佐野ノ郷ハ 奈良時代既ニ闢(ひら)ク
大化改新前屯倉(みやけ)ヲ設置セラレ 佐野三家ノ首 建守尊(たけもりのみこと)ノ子孫此地ニ住セリ 天平年間(729-49)放光寺ヲ建立シ氏寺トナス 又放光明神ヲ祀リ氏神トナス
彼ノ山上古碑建立者長利僧ハ即チ該寺ノ僧ナリ 尓後悠久千二百年 可惜(おしむべし)史蹟トシテ現存スルモノ唯一祀ノミ
時偶々(たまたま)昭和十四年十月一日 佐野村ノ高崎市ト合併スルヤ 道路ノ拡張ニ依リ地域狭小トナル為ニ 史蹟ノ湮滅(いんめつ)セン事ヲ恐レ記念碑ヲ建立シ両阯ヲ永久ニ保存セントス
 昭和十八年三月二十八日  世話人 赤石治市郎 堀口甚四郎」

「山ノ上碑」の碑文に「佐野」という文字があり、山名とも距離的に近いことから、長利という僧がいた「放光寺」はここ佐野にあったと、長いあいだ信じられていました。

しかし、昭和四十九年(1974)前橋市総社町山王廃寺発掘調査で、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が発見され、今は山王廃寺「放光寺」であったという説の方が有力になっているようです。

高崎人としては実に残念な傾向ですが、「まだ決まった訳じゃねんだんべ?」と強がってみたいところです。

「三家(屯倉)」(みやけ)は、六世紀から七世紀前半にかけて、各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地のことだそうです。

佐野では、健守命という豪族がその管理をしていたということですから、その子孫は代々財産のある長者であったに違いありません。

それを物語るかのように、佐野には「長者屋敷」という字(あざ)がありました。

実は、そこが「佐野の船橋伝説」に出てくる「朝日の長者」の屋敷があった所だという話があります。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」では「夕日の長者邸趾」となっているが、方角的に烏川の東にあたるので「朝日の長者」の誤りと思われる。

ここもまた佐野ならではの、伝説と謎に満ちた地でありました。
いやー、佐野ってほんとに面白いところですね。

【放光神社】



  


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2011年02月11日

鎌倉街道探訪記(19)

久しぶりの鎌倉街道です。

「放光神社」から、新幹線の高架に沿って東へ、ひたすら歩いて1.5kmほど行くと、佐野一本松通り(下佐野・根小屋線)に出ます。

左手を見ると、写真のような立派な石垣があり、その上は神社のようでもあり、建設中の民家のようでもあります。

石段の正面に回ってみると、→
荒れてはいるものの、明らかに神社のように見受けられます。






←危なっかしい石段を上ってみると、「御嶽山」の石碑が建っています。

転がっていた硬貨の表面を擦ってみたら、昭和九年(1934)の一銭硬貨でした。

下佐野第二町内会区長をしていた松田登氏の著書「下佐野町史」(2001年発行)に、同町出身の郷土史家・高山勇氏の調査記録が載っています。

それによると、「御嶽山」碑は安政五年(1858)の銘があり、馬頭観世音は文化七年(1810)、庚申塔は寛政三年(1791)、二十二夜供養塔は天明七年(1787)とあるので、どうやら御嶽信仰が全国に広まった江戸時代に創建されたものと思われます。

「下佐野町史」には、明治二十年前後生まれの人の話として、「御嶽様に関係ある各地の山伏行者が来て、ここで火渡りの行事を取り仕切った。」とあります。
また、御嶽様は明治以前は現在の場所より50m位東に位置していて、明治の末頃現在地に移転したということです。
そして大正七、八年に、地元をはじめ、山名、根小屋、上中居等多くの有力者の寄進によって、石垣を積み、石段・玉垣を整備したと書かれています。

高山勇氏は、「下佐野一本松御嶽山」の見事な毛筆画を残しています。
その一本松の大木は石宮の西前にあったそうですが、台風で倒れてしまったということです。

しかし、その大木があったということは、現在の「一本松橋」の名として、残りました。

この謂れを書いた看板が、どこかに建っていて欲しいものです。

【下佐野一本松御嶽山】



  


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2011年03月06日

鎌倉街道探訪記(20)

いやー、ほんとに久しぶりの鎌倉街道です。
三寒四温の春ですが、取材した日は三寒の真っただ中でした。

佐野から根小屋へ渡る「一本松橋」の上も、強烈な風が吹き抜けていました。
「一本松橋」は、昭和五十三年(1978)にコンクリート造りの永久橋となりましたが、それまでは毎年のように大水で流されていたそうです。

橋のない時には、渡し舟で川を渡っていたようです。
下佐野出身の郷土史家・高山勇氏が、見事な毛筆画でその様子を残して下さっています。

右端に、「川籠石」というのが描かれていますが、「こうご石」と読みます。
川を渡る場所や水嵩の目安にしたそうで、「川越石」とも書いたようです。
「かわごえ石」「かわご石」「こうご石」となったのでしょう。

また、「神籠石」と書くこともあるようです。
「川籠石」「籠」の字に「籠(こも)る」という意味を感じて、「こう」「神々(こうごう)しい」「神」をあて、「神が籠る石」としたものでしょう。
私は、この方が好きです。

「一本松橋」から上流を望むと、
250mほど先に、その「川籠石」が見えます。

昔は、この石の周りを水が渦巻いて流れていたといいます。
また、石が根小屋側へ斜め向きになっているため、大水の時には根小屋側の岸を崩すということで、根小屋下佐野との間では、江戸時代から争いがあったそうです。

昭和二十五年(1950)頃にも、そのことを理由に根小屋の人が20人ほどで「川籠石」の上部を割り取リ始めたことがあり、それを崖上から見た佐野の区長は、火の見の鐘を鳴らして村人を集めて抗議したということです。(下佐野町史)

今は、下佐野側からも根小屋側からも、「川籠石」の近くまで行ける道は見当たりません。
そのためか土地の人も、川の中に大きな石があることは知っていても、「川籠石」という名前をご存知の方は少なくなっているようです。

「川籠石」というのは地名になっていて、昭和十年(1935)の「佐野全図」の右下に、その小字名が見えます。

そしてその左上には、「赤石」という小字名もあります。
赤石という姓の人も住んでいるのですが、この近くの烏川の中に「赤石」という石があるのです。

←分かるでしょうか?
佐野橋から遥か下流500mほど先に、それらしき石がかろうじて見て取れます。


もっと近くで見られないものかと崖上をうろうろし、やっと河原に下りられる道を見つけて、下流側から撮ったのが右の写真です。→

昔はもっと大きかったようですが、「川籠石」と同じ理由で、根小屋側の人に上部を割り取られてしまったということです。

さて、今回ご紹介した「川籠石」「赤石」を知らなかったという方でも、
高崎人なら、「聖石」(ひじりいし)はご存知でしょう。

これら「川籠石」「赤石」「聖石」を称して、「烏川三石」とか「烏川の三名石」とか言うのだそうです。
ご存知でしたか?私は、知りませんでした。

次回は、いったん戻って、この「聖石」を見に行くことと致しましょう。
ぼっとすると、「聖石」を見たことがない高崎人もいるんじゃないかな?


【川籠石・赤石】



  


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2011年04月03日

鎌倉街道探訪記(21)

月は改まりましたが・・・。
悶々とした気持ちはなかなか改まりません。

大震災の前に書いておいたこの記事も、UPするのをためらっていましたが、ある方から、「とにかく我々は通常の生活を行うのが何よりの支援」というメールを頂戴し、それもそうかと、彼の地のことを心に留めつつUPすることに致しました。

前回の鎌倉街道探訪は下佐野まで進み、「川籠石」と「赤石」をご紹介しました。
今日は、その二つの石と合わせて「烏川三石」と呼ばれるもう一つの石、「聖石」(ひじりいし)のお話をしたいと思います。

「聖石町」「聖石橋」の名前の由来となった「聖石」ですが、今、聖石橋の上からそれを見つけるのは困難な状態です。

←分かるでしょうか?

橋の上からは見えないので、車がビュンビュン走る国道の端から見てみました。→

赤い鳥居と石碑がやっと見えますが、「聖石」そのものを見ることはできません。

←昔は、こんな立派な姿を、橋の上からも土手の上からも見ることができました。

上部に空いている丸い穴は、高瀬舟を繋ぎ止めるためのものだそうで、ここが、烏川最上流の河岸だったという証です。

昭和六年(1931)に、それまでの木橋からコンクリートの永久橋に架け替えられた「聖石橋」は片側一車線、車社会の現代では流石に狭いということで、平成十九年(2007)に拡幅されました。

完成した橋の欄干には、綺麗な御影石にエッチングのデザイン画が埋め込まれています。→

が、残念なことに「聖石」のある側には、「聖石」が描かれていません。
          ↓


「聖石」が描かれているのは、石とは反対の上流側の方です。






しかも、これが「聖石」という表記はなく、観音様との位置関係も実際とは逆になっています。

これはデザイン画であって案内図ではありませんから、位置関係を云々するのは野暮なんですが、知らない人は橋の上流側に「聖石」を探してしまうかも知れません。

しかも、しかも、しかも!
その上流側は、7億2千万円をかけて「高松かわまちづくり」とかいう親水公園の造成中で、川の中には何やらが並べられています。

いつの間にか、この石が「聖石」ということになりはせぬかと、心配になってしまいます。

「聖石」は、弘法大師が腰かけたので、その名が付いたとされています。
また、昭和六年の「聖石橋」架け替え工事は、昭和恐慌による「失業地獄を救え」というスローガンのもとに、多くの失業者を採用しての工事であったと聞きます。
橋の親柱にはその由緒や歴史をこそ、刻み記して欲しかったと思います。

もっと言えば、親水公園整備の一環として、「聖石」を橋から見えるようにして欲しかったなぁ、とも思います。

そして、高崎鎌倉街道とともに、「川籠石」「赤石」「聖石」「烏川三石」を、もう一度「高崎の名所」として復活させたいものです。


【聖石】



  


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2011年04月11日

鎌倉街道探訪記(22)

聖石橋でひとしきり文句を言った後、下佐野まで戻りました。

一本松橋根小屋側へ渡ると、その名も恐ろしい「地獄沢」という看板が目に入ります。
その水路に沿って西南に進むと県道・寺尾-山名線に出ます。

それをちょっと左に曲がると、鹿島山宝性寺への参道前に出ます。






面白いのは、参道の途中を上信電鉄の線路が横切っていることです。

遮断機も警報機もない踏切を渡ると、ほのぼのとしたお顔のお地蔵様と、素敵な言葉が出迎えてくれました。

宝性寺参道入り口から150mほど山名方面に向かって歩くと、鹿島神社の参道前に出ます。





ここも面白くて、60段ほどの石段を上り切ると、いきなり上信電鉄の線路に出ます。
ここは踏切さえもなく、左右をよく見ながら線路をまたいで渡ることになります。

右の社殿が鹿島神社の本殿でしょうが、左にも社殿があります。





その左の社殿の中にもまた、ほのぼのとしたお顔の像が安置されていました。

宝性寺の山号「鹿島」と、この「鹿島神社」、この辺りの字名も「鹿島」です。
「鹿島」といえば茨城県「鹿島神宮」ですが、武芸の神とされる武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祭神とし、蝦夷に対する大和朝廷の前線基地だったそうです。(wikipedia)
全国にある「鹿島」という地名や神社名は、防人を出したところに多いと言われています。(内山信二氏著・徐徐漂たかさき)

鹿島神社の参道前からさらに150mほど行くと、「薬師沢」に出ます。

ここには、「寅薬師」と呼ばれる薬師堂があります。



ブロック積みの小さなお堂の中に、何体もの石仏が安置されていますが、なぜか旧約聖書まで納められていました。

根小屋丘陵には「根小屋七沢」と呼ばれるほど多くの沢があり、大雨が降ると鉄砲水となって大量の土砂を流出させるそうです。

根小屋の県道を車で走った方はお気付きかも知れませんが、やけにアップダウンの多い道です。

これは、沢から流れ出た土砂が堆積して、いわゆる天井川となったために、沢と交差する部分が高くなっているのです。

きっと鉄砲水によって大勢の人が犠牲になったのが、「地獄沢」だったのでしょう。
そして、そんな災害が起きないことを願って薬師様を祀ったのが、「薬師沢」だったのでしょう。

沢には砂防ダムが築かれ、頑丈そうな深い水路が設けられていますが、自然は時として人知を超えた力を見せつけます。
先人は、地名や沢の名前によって、後世にそのことを伝えようとしたのでしょう。
先人の知恵を忘れないためにも、地名や史跡を大切に保存していかなければなりません。

【宝性寺参道入り口】

【鹿島神社参道入り口】

【寅薬師】


  


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2011年04月19日

鎌倉街道探訪記(23)

薬師沢から山名方面に300mほど、向かってくる車に身を細めるようにしながら歩くと、「根小屋七沢」の一番端にある柳沢です。




ここも暴れ沢だったのでしょうか、道の反対側には電話BOXと並んで、観音様?お地蔵様?が建っています。

さらに250mほど歩くと、山名町北の交差点です。

やれやれ、ここまでの道は歩道もなく、身の危険を感じるほどで、散歩道としてはお勧めできません。
できれば、往時の鎌倉街道のように、丘陵沿いに安心して歩ける道を造って欲しいものです。

現代の鎌倉街道は、この交差点を右に曲がります。


上信電鉄の踏切を渡り、道なりに進むと、雰囲気のある崖下の道に出ます。

ハナダイコンの中で、野ぼとけさん達がかくれんぼをしていました。


山名町北交差点からおおよそ800m、坂道をえっちらおっちら上ると「山の上の辻」に出ます。

立派な地蔵堂は平成四年(1992)に新築されたようですが、中のお地蔵様はずいぶん前からここにいるのでしょう。
お疲れと見えて、座ってらっしゃいます。

「山の上の辻」から右の道を行くと、鎌倉街道探訪記(16)の謡曲「鉢木」に登場する「山本の里」です。

山本宿とも呼ばれる鎌倉街道の宿場で、旅籠や寺があったそうです。

春霞に煙る風景を眺めていると、当時の宿場が見えたような気がしました。

山本宿方面へ行ってみたいところですが、明るい内にあの危険な県道を歩いて、車を止めたところまで戻らなくてはなりません。
「山の上の辻」から地蔵堂裏の道を通って、山名八幡宮を目指すことに致しました。
この続きは、また次回。

【柳沢橋】


【山名町北交差点】


【山の上の辻】



  


Posted by 迷道院高崎at 21:58
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2011年04月24日

鎌倉街道探訪記(24)

「山の上の辻」の地蔵堂裏に高崎自然歩道が通っています。

道標には、この道の先は<御野立所 山名八幡宮 山名駅>となっています。

この写真を見ると、すごい山の中へ入っていきそうな感じですが・・・。

100mも行かない内に、民家の裏庭から団地の道路に飛び出てびっくりします。

「高崎自然歩道」の看板を追いながら300mほど歩くと、木々の美しい公園の中に導かれます。

正面の石段を上ってみましょう。

こんもり土を持った上に、大きな「筆塚」の石碑が建っています。

裏面に昭和五十五年(1980)五月五日と刻んであります。

「五」並びの日には、何か意味があるのでしょうか?

「筆塚」のちょっと先に、高崎自然歩道の道標に書いてあった、「山名御野立所跡」の石碑が建っています。

まだ郷土の歴史を何にも知らない頃は、ここで大規模な野外の茶会でもあったのかと思ってました。

昭和九年(1934)烏川の河原で行われた陸軍大演習の様子を、昭和天皇がこの野に御立ちになって観戦した所だそうです。

お茶の方は「野点」(のだて)で、ここは「野立」(のだち)だったんですね(^^ゞ

昭和九年といえば、金融・世界恐慌、満州事変を経て、日本が国際連盟を脱退した翌年です。
この陸軍特別大演習は、この後、日本が突き進んでいく道を予感してのものだったのかも知れません。

近衛師団と第十四師団(高崎第十五連隊を含む)が西軍、東京の第一師団と仙台の第二師団が東軍に分かれ、栃木県佐野市付近で始められた演習は、茨城埼玉と所を変え、夜戦も含めて3日間という大規模かつ実戦的なものでした。
その最終日、東軍は高崎方面から烏川を越え、西軍は藤岡方面から鏑川を超えて、当時の多野郡八幡村(現・南八幡)での決戦となりました。
このような大演習はこれが最後となり、日本は支那事変から太平洋戦争に入っていくことになります。

「山名御野立所跡」の石碑は、二・二六事件のあった昭和十一年(1936)に、八幡村の人々により建てられました。
碑に刻まれた文字は、西軍を率いた荒木貞夫陸軍大将の揮毫です。


同じ年に建てられた碑が、近くにもう一つあります。

群馬県神職会が天皇陛下行幸を記念して、県内各地の万葉集上野国歌に因んだ場所に万葉歌碑を建てることを計画し、その第一号として建てられたものです。
万葉仮名と平仮名の両方で書いてあるのですが、悲しいかな読めません。

「さぬやまに うつやおのとの とおかども
         ねもとがころが おもにみえつる」

と書いてあるのだそうです。
文学博士・髙墅辰之書とあります。
高野辰之氏は国文学者で、文部省唱歌「故郷」の作詞者でもあります。

訓読では、
「佐野山に 打つや斧音の遠かども 寝もとがころが 面に見えつる」
となり、
「佐野山に打つ斧の音の如くに遠いけれども、寝ようというのであろうか、おとめが面影に見えましたよ。」
という意味だそうです。

山名にあって「佐野山」とは妙ですが、「山ノ上碑」にあるように古くは「佐野三家」(さののみやけ)の領地です。
古の昔から、様々な人がこの佐野山に立ち、様々な思いを以て眼下の景色を眺めたのでしょうね。


(参考図書:「新編高崎市史」「みなみやはたの歩み」「徐徐漂たかさき」「高崎漫歩」)


【今日の散歩道】


  


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2011年04月27日

鎌倉街道探訪記(25)

「山名御野立所跡」碑のすぐそばに、「石碑(いしぶみ)の路」碑が建っています。

碑文は、
信沢克己さんは土建会社の社長さんである。信沢さんは古代の人々が佐野山と呼んだ今の山名丘陵の麓、根小屋に住んでいた。」
という書き出しで始まります。

信澤克己氏は高崎市の建設業・信澤工業(株)の二代目社長さんです。
昭和四十七年(1972)高崎市役所を訪れた信澤氏は、「万葉集上野国歌の歌碑を四十基ほど山名丘陵に建てたいのだが、用地の大部分が国有林なので協力して頂きたい。」と、自然歩道歌碑設立願を提出しました。

信澤氏がそう思った動機が「石碑の路」碑に刻まれています。
一九七二年、丘陵は二か所でブルドーザーが唸り、無残に山肌が削られていた。
丘陵には山ノ上の碑や金井沢の碑があり、万葉集に収められた上野国歌の幾つかは、この付近で唄われた古代歌謡とされる。ここは私たちの心のふるさと、緑の丘陵である。
信沢さんはこの心のふるさとを大切に保存するため、万葉歌碑を建てることにした。佐野山の路にである。山ノ上の碑も金井沢の碑も、千年以上そこにある。歌碑の造立は古代のロマンを伝え、石がそこにある限り、人々はこの路を大切にするだろう。」

一基目の石碑が昭和五十年(1975)根小屋城址に建ち、二十九基目が金井沢の碑入り口付近に建ったのが、平成十三年(2001)のことでした。
信澤氏は既に故人となっていますが、運び込まれた歌碑は三十四基ほどあったといいます。
まだどこかに未設置の歌碑があるのかもしれません。

信澤氏は歌碑に名を刻むこともなく、除幕式を行うこともなく、26年間、ただ黙々と私費を投じて建て続けたのです。
昭和六十一年(1986)高崎市は、信澤氏の業績を後世に残すため「石碑の路」碑を設置しました。

当時、沼賀健次市長のもとで高崎市の観光行政を担当していたのが、「徐徐漂(ぶらり)たかさき」など高崎に関する多くの著書を残した内山信次(のぶつぐ)氏で、「石碑の路」碑の碑文は内山氏の撰です。
その碑もまた、市長・沼賀健次とも、撰文・内山信次とも刻まず、ただ「高崎市」となっています。

沼賀氏も内山氏もすでに彼岸に渡っていますが、今頃、信澤氏と共に高崎の文化について語り合っているのではないでしょうか。
願わくば、嘆き合っていませんことを・・・。   合掌。

(参考図書:「続・徐徐漂たかさき」「みなみやはたの歩み」)


【「石碑の路」碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 20:04
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2011年05月01日

鎌倉街道探訪記(26)

「山名御野立所跡」から山名双葉保育園前を通って下りる道です。

昭和九年(1934)の陸軍特別大演習にあたって、急遽造られた道です。

演習を見渡せる丘の上に野外統監部を設営し、天皇陛下をお迎えするためです。

当時、野外統監部の設営候補地としては、観音山山名の二ヶ所が上がっていましたが、最終的に山名と決まったのは前日のことだったそうです。
そのため県警からの警備手配が遅れ、群衆を規制する綱も張れないまま、天皇陛下をお迎えする事態になってしまいました。

山名駅でお召列車を降りた天皇陛下は、愛馬・白雪にまたがってこの坂道を上っていきましたが、沿道に詰めかけた群衆が手を伸ばせば触れられるほどの近さであったといいます。
演習後、この不手際の責任を感じた駐在巡査が、割腹自殺を図ろうとする事件まで起きてしまう、そんな道だったのです。

20mほど坂を下ると、山名八幡宮裏へ抜けられる急坂の細道がありますが、今日はこのまま広い道を下ります。




坂道を下ると、大きな「忠霊塔」が建っています。

昭和十九年(1944)に、日清・日露から大東亜戦争までの戦没者を慰霊するために建てられたもので、裏には陸軍大臣東條英機謹書と刻まれています。

忠霊塔の相向かいの坂道を下ると、山名八幡宮の横っちょから境内に入ることができます。





神楽殿のガングロ般若が、笑顔で迎えてくれました。

本殿の裏には、「裏神様」がいらっしゃいます。






疳の虫を喰い切って下さるとかで、なるほど丈夫そうな歯をお持ちです。

石段の頂上付近に面白いものがあります。








台石には、
「戰利兵器奉納ノ記」
是レ明治三十七八年役戰利品ノ一トシテ我ガ勇武ナル軍人ノ熱血ヲ濺ギ大捷ヲ得タル記念物ナリ・・・
明治四十年三月 陸軍大臣寺内正毅」
と刻まれています。

「明治三十七八年役」とは、日露戦争のことです。
敵軍の砲弾が、大捷(大勝利)の記念となった時代だったのですね。

山名八幡宮は、平和な現代にあっては「安産・子育て」の宮ですが、戦の時代に於いては「武運長久・戦勝祈願」の宮でした。
いつまでも、「安産・子育て」山名八幡宮であってほしいと思います。

(参考図書:「新編高崎市史」「みなみやはたの歩み」)


【今日の散歩道】


  


Posted by 迷道院高崎at 21:31
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2011年05月08日

鎌倉街道探訪記(27)

山名八幡宮の石段の下に、2つのお稲荷さんがあります。

名前がいいです。
「妻戀稲荷」というんですね。

「戀」という旧字もいいです。
「糸し糸し(愛し愛し)と言う心」と書くんだと、むかし聞いたことがあります。

「妻戀稲荷」の近くに、金の御幣が巻かれた石があります。

うーん、これって、あれですよね・・・。

その石は、目の前のムクノキの洞を狙っているんだという話があります。



さすがに、そんなことは大っぴらに書けないので、こんな書き方になっていますが。

子を宿し、無事出産し、その子が健やかに育つということは、神代の昔から変わらぬ願いです。


祭器庫の看板にも、ちゃんと「ふたまた大根」が描かれていました。

先人の、素朴でユーモアに満ちた信仰心に触れることができる、山名八幡宮です。


【山名八幡宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 23:07
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2011年05月15日

鎌倉街道探訪記(28)


山名八幡宮へ行ったら、ぜひ見てみたいと思っていたものがありました。

グンブロガー・捨蚕さんに教えて頂いた、
「中村家三世の碑」です。

石段と社務所の間の坂道を上って行った左手に、その大きな碑は建っています。

その三世の中で、最も興味あるのが中村俊達という人です。

過去記事「嗚呼、高崎藩士」の中で下仁田戦争のことをちょこっと書きましたが、それに従軍した山名村の医師です。
下仁田へ向かう高崎藩勢が山名村を通過する時、その中に医師が二人しかいないのを見て自ら志願し、引き留める妻を振り切って従軍したという人物です。

もっと知りたい方は、捨蚕さんの記事をご覧ください。
    ◇山名八幡物語(七)・中村俊達のこと(1)
    ◇山名八幡物語(八)・中村俊達のこと(2)
    ◇山名八幡物語(九)・中村俊達のこと(3)

参道に戻って手水舎の前に来ると、いきなり水が出てきたのでびっくりしました。

天井を見て、分かりました。
が見張ってたんですね。


手水舎の隣には、大きな馬の銅像があります。

傍らの看板には、
この神馬像は、全国の山名氏の末裔が奉納したもので、神馬は西国を向いている。」
と書かれていますが、意味がよく分かりません。

山名八幡宮の由緒が、HPに書かれています。
社伝によればこの八幡宮は源氏の一族新田氏の祖義重の子、義範が山名城にあって安元年中(1175~77)に豊前の国(大分県)の宇佐八幡宮を勧請して社殿を造営し武神として崇敬したのを始めとしている。」

兄二人が新田姓を継ぎ新田の所領を分与されているのに対し、義範は、新田から離れた片岡郡山宗(やまな)郷のわずかな所領に移り、自らを山名三郎と名乗って山名氏の祖となります。
どんな事情があったか分かりませんが、あまり優遇されていたとは言えないようです。

その山名氏が大きく興隆したのは、八代目・時氏の時代からです。
足利尊氏に従った山名時氏は、数々の戦功により建武四年(1341)伯耆国(現・鳥取県)の守護職に任ぜられます。
その後、益々力を付けた山名氏の一族は、さらに丹後・紀伊・因幡・丹波・山城・和泉・美作・但馬・備後・播磨と、合わせて11ヶ国もの守護に納まります。
当時は全国が66ヶ国に分けられており、山名氏はその6分の1の国を治めていたことから、「六分の一殿」と言われたそうです。

奉納された神馬は、かつて山名氏が隆盛を誇っていた山陰・山陽地方を向いているということでしょう。


武運の神・八幡神は、白馬に乗って現れるといいます。

そのためか、山名八幡宮随身門白馬が前面に安置され、お馴染みの矢大臣・左大臣は裏側に控えているという、珍しいものです。

そういえば、昭和九年(1934)に山名八幡宮の裏山に御野立された
昭和天皇
も、白雪という名の白馬に乗った現人神(あらひとがみ)でした。


【中村家三世の碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:33
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2011年05月22日

鎌倉街道探訪記(29)

山名駅北側の踏切脇に、「迎光碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。

「侍従長海軍大将鈴木貫太郎書」とあり、
裏面には、
昭和九年十一月 大元帥陛下親シク群馬栃木埼玉茨城四縣ノ野ニ臨マセラレ(略)
御召列車ハ高崎ヨリ山名ニ至ルマテヲ上信電氣鐡道ニ依テ運轉シ山名停車場ハ畏クモ御乘降ヲ賜フノ光榮ニ浴セリ(略)」
とあります。

昭和九年(1934)の陸軍特別大演習の際、昭和天皇御召列車を運行し随従した上信電氣鐡道山田昌吉社長が、その栄を記念して建てたものです。
山田昌吉氏は、過去記事「和風図書館と茂木銀行」にも登場した、高崎の大物経済人です。

この御召列車運行に際しての並々ならぬ苦労を、平成七年(1995)発行の「上信電鉄百年史」が書き残しています。

万が一にも事故や運行時刻の遅早がないよう、見苦しいところが目に留まることのないよう、鉄道省監督局の厳重な路線監査があり、施設全般にわたる大掛かりな改修工事が命じられました。
 ・枕木1万3600本の交換
 ・橋梁枕木の修理交換
 ・転轍機(ポイント)、轍叉(レールの交差部分)の修理交換
 ・軌条(レール)の交換
 ・道床砂利の補給
 ・各駅建物の塗替え、清掃、消毒
 ・駅舎内外の目障りな障害物の取り消し
 ・塗装が剥脱した電車の再塗装

などですが、折からの昭和恐慌の影響でこれらの費用を捻出するのが困難だった上信電氣鐡道は、金融業者からの借り入れにより、これを賄ったそうです。

大変な思いをしたのは、社員も同じでした。
会社から全社員に向けて、次のような申し渡しが出ました。
 ・各自は常に言語を慎み、
   かりそめにも不敬の言語動作があってはならない。
 ・従業員は常に摂生に留意し、
   健康体を以てこの光栄なる名誉を分担すること。


関係者は全員、厳重な健康診断を受け、赤痢、チフスなど5,6種類の予防注射と検便が義務付けられ、警察特高課による、全従業員の身元・思想調査も厳しく行われたといいます。
また、県でも特別衛生警備隊を組織して、大演習の数週間前から道筋の両側3町(330m)以内にある民家を、徹底的に検病調査しています。

御召列車運行当日ともなると、関係者の緊張はピークに達したことでしょう。
運行の前後1時間は、すべての列車を運転休止にし、万が一を用心して架線への送電も停止しています。
また御召列車には、不慮の事故に備え、宮内省から辞令を受けた電気技術者が、緊急連絡用の有線手回し式通信機を持って、デッキに同乗していたそうです。

まさに、あらゆる危機を想定して準備し、身の縮む思いで天皇陛下をお迎えしたということがよく分かります。

今は、そんなことがなかったかのように静かな山名駅です。






学生さんの利用が多いのでしょうか、こんな看板があって笑いました。

こちらはご年配の方の作品でしょうか。

待合室に貼ってありました。

山名駅は、明治三十年(1897)に開通した上野(こうずけ)鉄道の、高崎~下仁田間8駅の一つです。

当時は、小さな蒸気機関車が、高崎~下仁田間を2時間30分かけて、
26人乗りの客車を引いていたそうです。
電化して、社名を上信電氣鐡道と改めたのは大正十年(1921)。
上州下仁田駅から、信州佐久羽黒下駅まで延伸する予定での社名変更でした。

折悪しく世界恐慌の嵐に巻き込まれ、信州までの鉄道延伸は叶いませんでしたが、今も社名を「上信」のままにしているのは、当時の高崎人の気概を、後世に伝えようとしたものでしょうか。
そして、それは伝わっているのでしょうか。

【迎光碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 23:18
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2011年06月05日

鎌倉街道探訪記(30)

山名八幡宮の本殿と裏山の間が鎌倉街道だったという説もありますが、今は通れませんので踏切を渡っていきます。

左に「迎光碑」、右に山名八幡宮を見ながら、神社の景観に合わせた赤塗の柵の間を抜けて行きます。


この付近、鎌倉街道と伝わる道があちらこちらにあるようですが、まともに残っている道は一つもありません。
今日は私の当てずっぽうで、それらしい道を辿ってみることにします。

素人考えですが、昔の人だって何か目標物を目指して、なるべく直線的に歩こうとしたはずです。
この辺の目標物といえば、たぶん山名古墳だろうと見当をつけました。


踏切を渡ってすぐの丁字路を、左に曲がります。→






←道なりに150mほど進むと遮断機のない踏切があります。
それを渡って真っ直ぐ行くと「雷光院西臺寺」の門前に出ます。↓

直感では、この西臺寺付近から真っ直ぐ山名古墳を目指す道が通っていたのではないかと思うのですが、今は、ぐるっと迂回しなければなりません。





地図の、撮影場所から西の方角を見たところです。↓







右の道へ入ると、「山名古墳群」の真ん中を抜ける細い道が続いています。
昔の道も、こんな感じじゃなかったんでしょうか。

現在は、残土置き場のような様相ですが、将来は史跡公園として整備する予定になっているそうです。


残土の山のような古墳も、ブログ仲間の夢寅さんにかかればこんな素敵な風景になります。
   ◇お散歩趣味『高崎 山名の「水仙古墳」再び。』

「山名古墳群駐車場」の前を真っ直ぐ南へ進み、突き当りの丁字路を左に曲がります。
80mほど行くと、鋭角に右へ入る小道があります。










「山名南住民センター」への入り口で、その先には鏑川が流れています。

川の中に、地元の人が「猫岩」と呼ぶ石があります。

「聖石」「赤石」「川越石」同様、旅人が川を渡る時の目安にした石だと言われています。



どうでしょう、に見えますか?→

のようにも見えますが・・・。

この日は雨の後だったので水量が多く、石の全容が見られませんでした。
水が引けたらもう一度訪ねてみたいと思います。

     ※その後の「猫岩」です。

「山名八幡宮」「猫岩」を直線で結ぶと、ちょうどその線上に「山名古墳群」があります。
そしてその先には、次の目標物にしそうな藤岡「七輿山古墳」があります。
古の鎌倉街道は、それらを結ぶ線に沿っていたのではないかというのが、私の当て推量です。

さて、次回はもう一つの当てずっぽうルートを歩いてみることにいたします。

【山名古墳群】

【猫岩】


  


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2011年06月12日

鎌倉街道探訪記(31)

「山ノ上古墳」の麓の集落が古の「山本宿」であり、そこから「山の上の辻」を通る道が「鎌倉街道」だというのは、異論のないところのようです。

「山の上の辻」までは、寺尾、根小屋、山名の丘陵を通る幾つかのルートがあったと言われていますが、わざわざきつい思いをして山越えをしなくとも、丘陵に沿って山裾を巻くルートも当然あったのではないかというのが、私の当て推量です。

山名八幡宮から山裾に沿って1kmほど歩くと、「山の上の辻」から下りてくる道と交差します。



鏑川方面に行くにはここを左折しますが、ちょっと寄り道をしたくなったので、右折して「山の上の辻」の方へ行ってみることにしました。

150mほど坂を上ると、「山ノ上天水」というおとぎ話に出てくるような名前の公民館があります。

「山ノ上」「天水」も近くの集落の字名ですが、「天水」とは雨水のことです。

昔から水の便が悪く、生活も農業も天からの水に頼るしかない土地だったようです。

眼下に広がる田圃は「天水田圃」と呼ばれ、米を作るには困難な土地でした。

明治三十年(1897)切実な水利問題を解消しようと、五三山(ごさんやま)にトンネルを掘り抜き、「山ノ上」地区を流れる柳沢川の水を「天水」地区の貯水池まで導水するという、大工事を成し遂げました。

当時は土木機械も精密測量機器もない時代、手工具だけで長さ223mのトンネルを素掘りしたのです。
先人の知恵と技術、努力の偉大さには本当に驚きます。

が、そこはやはり素掘りのトンネル。
長い年月に崩落や陥没を繰り返し、危険な状態になってきたということで、平成二年(1990)「山ノ上貯水池」の大改修に併せて、トンネルの改修が行われました。

素掘りだったトンネルと水路はコンクリートで補修され、「山名隧道」と名付けられました。

トンネル出口は個人のお宅の裏にありますが、ご厚意でお庭に入って見させて頂くことができました。

「せっかく来たんだから、トンネルの反対側も見てきたら?」と言われ、行ってみることにしました。

さらに250mほど坂を上ると、「山の上の辻」に出ます。

ここから真っ直ぐ坂を下ると、「山ノ上集落」です。



「集落に入って坂を上りきった辺りだよ。」と教わったのですが、民家へ入る道しかありません。

近くで草刈りをしている方にお尋ねすると、「ここん家の裏なんだよ。」と、ずんずん先に立って案内してくださいました。

この辺だけ、柳沢川がぐるっと山側に迂回していて、そこに水門が設置されています。

正面の穴が「山名隧道」の取水口で、田植えの時期になると左の水門を閉めて、隧道の方に水を流すのだそうです。

「いつもなら、はぁ、水ぅ通してんだけどなぁ。」と、仰ってました。
今年は麦の成長が遅く、刈取りが遅れているのだとか。

水が通ったら、また見に来てみたいなぁと思いました。

【山名隧道トンネル出口】


【山名隧道トンネル入口】


  


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2011年06月18日

鎌倉街道探訪記(32)

「山名隧道」の取水口まで来たので、折角だからとその上の「山名貯水池」にも行ってみることにしました。

鎌倉街道「山本宿」の趣きを感じさせる石垣の先に、高崎市の指定文化財「来迎(らいごう)阿弥陀画像板碑」があります。
石段の所です。

グンブロガー・捨蚕さんが、ちょっと深い推察をされてます。
   ◇「山名八幡物語( 六)あやしの堂は阿弥陀堂」

板碑のちょっと先の右に、「山ノ上碑」への入り口があります。

「山ノ上碑」のあるところには、昔、山名にあった宝積寺持ちの観音堂があって、「窟(いわや)堂」と呼ばれていたそうです。

緑野・多胡・甘楽三郡坂東三十三観音の四番札所だったとかで、今、「山ノ上古墳」の玄室に安置されている馬頭観音がそれだそうです。

「山ノ上碑」入口を素通りして120mほど先へ行くと、「大山祇(おおやまつみ)神社」があります。

木々の緑と、鳥居や出猩々(でしょうじょう)の赤とのコントラストがとてもきれいで、一瞬、秋の日のような錯覚に陥ります。


「山名貯水池」は、その先100mほどです。

貯水池のほとりに大きな石碑と、万葉歌を書いた看板が建っています。

「いにしへの 古き堤は年深み
 池のなぎさに 水草生ひにけり」


「石碑(いしぶみ)の路」に設置されている万葉歌碑29基の内の1基として登録されていますが、「石碑の路」からは外れているし、肝心の万葉歌裏面にひっそり刻まれているなど、他の歌碑とちょっと感じが違います。

もしかすると、碑の側面に刻まれている文字が、その違いのヒントかもしれません。

「吉井弾薬支所周辺 障害防止対策事業
  着工 昭和五十五年十月
  竣工 昭和五十七年三月」

と刻まれています。

昔から水の便が悪いこの地区には、貯水池隧道、暴れ沢の柳沢川があって、大雨や台風の時には災害の危険が常に付きまとっていました。

地元の人々も自然災害に耐えられる施設に改築したいという思いはあれど、先立つものはその財源。小さな集落にはなかなか困難な問題でした。
そんな時浮上してきたのが、自衛隊吉井弾薬補給所施設周辺整備計画です。
地域の人はその機を逃さず、様々な陳情を重ねることによって、貯水池周辺の大改築を実現しています。

この大きな石碑には、改築費用を負担してくれた吉井弾薬支所への感謝、古からの土地や先祖への感謝、そして人々の知恵と努力が込められていると感じました。

さて、もう少し先へ行ってみましょう。

石碑から150mほど行くと道は二又に分かれ、「右 高崎森林公園入口」という、素朴な手書き看板が立っています。


道なりにずんずん奥へ入っていくと、300mほどで東屋の建つ広場にたどり着きます。

昨年まで、「高崎里山の会」というボランティアグループの人たちが、こんな活動こんな活動をしていました。

もとは「高崎市自然植物園」建設予定地で、いっとき「高崎市民の森」と呼んでいたこともありました。

今は訪れる人も少ないのでしょうか、整備された遊歩道もすっかり草に隠れ、まさに自然植物園状態です。
この日は人っ子一人おらず、小鳥のさえずり、虫の羽音、心地よい風にそよぐ木の葉のささやき、みんなみんなひとり占めにできました。

草をかき分けて斜面を上れば高崎自然遊歩道・石碑の路に出られますが、今日はここで引き返すことに致します。

(参考図書:「みなみやはたの歩み」)


【来迎阿弥陀画像板碑】


【大山祇神社】


【山名貯水池】


【高崎森林公園】


  


Posted by 迷道院高崎at 21:42
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2011年06月24日

鎌倉街道探訪記(33)

「山の上の辻」から南へ、坂を下って600mほど行くと、上信電鉄の小さな無人駅「西山名駅」に出ます。




素朴な駅舎の多い上信電鉄の、しかも無人駅にしては、えらくハイカラな感じのする駅です。

10年前までは何もない空き地の駅前でしたが、隣にある「県立高崎産業技術専門校」の学生さん達が実習を兼ねて、こんな素敵な駅に生まれ変わらせたのです。

技術専門校の7つの科が、それぞれの専門技術を生かして、待合室をはじめ、花壇、噴水、スロープ、自転車置き場などを、平成十三年(2001)から2年がかりで造り上げました。

黒塗りのお洒落な待合室に掲示してある駅長さんのメッセージから、感謝の気持ちが伝わってきます。

駐輪場にあるこれも、きっと技術専門校の方が設置したものでしょう。→
 ハイテク空気入れ 明治維新
この機械は自動車のエンジンを使って作られた自転車用の空気入れです。
空気入れの口を自転車タイヤの空気入れ口に取り付けて、右に回してください。
と、説明板に書いてあります。

さらに、こうも。
空気を入れなくても回してみると、ピストンが動いてなんだかちょっと面白いかも。」
遊び心満点で、いいですねぇ。

自由に入れる駅のホームに、新聞受けみたいな木箱が取り付けられていました。

「上野三碑・山上碑及び古墳案内図」と書いてあります。





箱の中には、高崎市観光課作成の「上野三碑を歩こうマップ」が入っていて、自由に頂戴できるようになっています。

さて、この「西山名駅」ですが、上信電鉄の全線電化(大正十三年・1924)後6年経ってから、新設された駅です。
当時の駅名は、なんと「水泳場前停留場」といいました。

海無し県の、それも水の便が悪いというこの地の、どこに水泳場があったのかと思うでしょうが、近くを流れる鏑川に、人工の天然水泳場(?)があったのです。

←造ったのはこの人、上信電鉄の第10代社長・山田昌吉氏です。

山田昌吉氏は、このブログにたびたび登場して頂いております。

2009年09月30日 さすらいの「春靄館」
2010年04月21日 和風図書館と茂木銀行
2011年05月22日 鎌倉街道探訪記(29)

山田昌吉氏が、上信電鉄の前身である上野(こうずけ)鉄道の社長に就任したのは、大正十年(1921)のことです。

明治三十年(1879)開業の上野鉄道は徐々に経営難に陥り、大正二年(1913)には6万円の借金のために、東京安田銀行に経営を委ねなければならないという状態にまで追い込まれていました。
当時、茂木銀行高崎支店の支配役であった山田昌吉氏は、
「地元の鉄道事業を、わずかな金額で中央資本に売り渡すべきではない。」と主張し、6万円を融資して上野鉄道の窮状を救ったのです。

しかし、その後も上野鉄道の経営悪化は止まらず、ついに、辣腕振りを見込まれた山田昌吉氏に、白羽の矢が立ったわけです。

社長に就任した山田氏が真っ先に取り組んだのは、路線の軌間拡幅と電化(大正十三年・1924)で、社名も上信電氣鐡道と改めました。
これにより、国鉄線との相互乗り入れが可能となり、輸送力増強と動力費の節減が図れたのです。
それまで20万円程度であった資本金は、一気に200万円に増資されています。

次に山田氏が取り組んだのが沿線の観光振興による旅客数向上で、「山名水泳場」の開設はその一環でした。

昭和四年(1929)に開設した「山名水泳場」は、自然の景観の良さに加え、流れの変化もあり、山名駅から近いということもあって、予想外の大好評を博したということです。

そして翌・昭和五年(1930)、より近くにと開設したのが「水泳場前停留場」で、当時はプラットホームだけの仮設駅だったそうです。

さて、では「山名水泳場」はいったいどんな水泳場で、どの辺にあったのか、それは次回のお楽しみということに。

(参考図書:「上信電鉄百年史」)


【西山名駅】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:57
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2011年07月02日

鎌倉街道探訪記(34)

「山名水泳場」だったところを、探しに行ってみました。

西山名駅を東南に向かって真っすぐ280mほど行くと、主道は大きく左にカーブします。

カーブから30m行った左に、民家の庭先へ入ってしまいそうな小道がありますが、「その先に水泳場があったんだって、おばあちゃんから聞いたよ。」と、教えて頂きました。

川のほとりにヘルメットをかぶった若い女性がいたので、「すみませーん。」と猫撫で声を掛けたのですが、振り向いてもくれません。

どこが水泳場だったのか、痕跡は全く見当たりません。

ちょうど庭いじりをしていたご婦人がいたので、声を掛けて聞いてみました。

「あー、ちょうど家の前だったんだそうですよ。
えらい賑わってね、田中絹代とか映画俳優も来て・・・。
ウチも、店、出してたらしいですよ。
私は後から(嫁いで)来たんで知らないんですけどね。」


と、仰っていました。

南八幡郷土史会編「みなみやはたの歩み 第二集」に、上信電鉄が群馬県知事に提出した、河川占用許可願の付図が掲載されています。→

脱衣場や救護所、倶楽部ハウスまで備えた、本格的な水泳場だったんですね。

救護所の東側一帯には、茶店や売店、露店が並び、高島屋ストアの出店まで出たそうです。

その「山名水泳場」の姿が、↓です。


「山名水泳場」は川底が砂利なので水が濁らず、よく澄んでいたそうです。
大部分は泳ぐのにちょうどよい深さですが、二丈(6.6m)位の深いところもあって飛び込み台が3つあり、断崖には梯子も設けられていてそこからも飛び込めるようになっていました。
水泳場の幅は半町(50m)、長さは二町余り(200m)で、一度に400人くらいは利用できるという規模でした。

サービスも実に徹底しています。
シーズンには、臨時電車を5本から8本増発し、運賃も特別割引料金にしています。
水泳場にある5隻のは自由に乗ることができ、河原には土俵が二つあって相撲もとれるようになっていたとか。
休憩所では麦湯も飲めて、電車の発車20分前になると予報の鐘まで鳴らすというきめ細やかさです。

日曜日ごとに、いろいろなイベントが行われ、田中絹代など銀幕の人気スター10人を呼んだ時は、憧れのスターの水着姿が見られるということで、1万人もの来場客が押し掛けたといいます。
      ↑
肩を組んでポーズをとっているのが、田中絹代鈴木傳明です。(だそうです。)

水泳場開設の2年後(昭和六年:1931)には、川上に約3000坪の児童遊園地を整備し、ウォーターレーススライド、ウェーブスライド、回転いす、迷路、鉄棒などの遊具を配し、釣り堀キャンプ場まで設けています。

後に上信電鉄は、観音山で開催された「新日本高崎こども博覧会」後の児童遊園地を、フェアリーランドカッパピアとして引継ぐことになりますが、その下地となるノウハウは既に「山名水泳場」で培われていたのかも知れません。

上信電鉄の観光振興による旅客数増加策は、「山名水泳場」の成功を皮切りに、次々と斬新なアイデアを生み出してゆきます。

車内の座席をそっくり取り払って畳を敷き、天井に青竹を組んで提灯やヘチマを提げた「お座敷列車」を走らせたのは、昭和五年(1930)です。

国鉄「お座敷列車」を走らせる30年も前のことです。

「お座敷列車」は、夏の間だけ、最終列車の後に走らせた特別列車で、「山名水泳場」の特設舞台の夜間演技を鑑賞してもらったり、鏑川の鉄橋上に停車させて、川風と渓谷美を楽しみながら一杯やってもらうという、粋な趣向で好評を博しました。

様々なアイデアで活況を呈していた「山名水泳場」でしたが、昭和十二年(1937)日中戦争下の自粛ムードを受けて、やむなく閉鎖せざるを得なくなりました。
翌年、水泳場は中国大陸で傷ついた傷病兵を慰める施設となり、「水泳場前停留場」は、近くに出来た「陸軍試射場」(現・自衛隊吉井弾薬支処)への砲弾を運ぶ貨物駅となり、駅名も「入野(いりの)駅」と変わります。

余談ですが、「陸軍試射場」では岩鼻火薬製造所でつくられた砲弾の、性能試験をしていたそうです。
また、その試験には、日露戦争の戦利品として二百三高地から持ち帰った大砲が使われていたといいます。
そこでハタと思い出したのは、山名八幡宮に奉納されていた砲弾のことです。
そうかー、そんな関係があったのですね。

話を「入野駅」に戻しましょう。
高崎市にありながら隣の吉井町に属する「入野」という地名を駅名に用いるのは如何なものかということで、昭和六十一年(1986)「西山名駅」と改称されて今日に至ります。

平成二十一年(2009)に吉井町高崎市になりましたが、再び「入野駅」に戻そうという話は聞こえてきません。

(参考図書:「みなみやはたの歩み」「上信電鉄三十年誌」「上信電鉄百年史」)


【山名水泳場跡】




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Posted by 迷道院高崎at 06:51
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2011年08月20日

鎌倉街道探訪記(35)

久々の鎌倉街道です。
「鎌倉街道探訪記(34)」から続けてご覧ください。

西山名駅から真っ直ぐ東南へ向かったところの三叉路です。

ここを右に入ります。




曲がるとすぐ、大きな石碑がありました。
よく分からないのですが、富士山に八十回登ったという記念碑のようです。

三叉路から100mほど行くと、左に入る道があります。






この道が鎌倉街道のようです。→


水路に架かる橋のたもとに、「山名八幡宮 塞三柱大神守護處」と書かれたオンベロの付いた笹竹が建っていました。

悪霊や疫病神に、「三柱の塞の神が守護している土地だから、入ってくるんじゃないよ。」と言ってるわけですね。    ※塞三柱神

240mほど行くと、大正十二年(1923)の道標が建っています。

今来た方は「福言寺 山名」とあり、このまま行けば「渡船場ヲ経テ三ツ木」、右に曲がると「小暮 馬庭」になっています。

「渡船場」へ向かいましょう。


100mほどで新しくできた広い道に出ます。





少し進むと、道の向こう側に、新しい道で分断されてしまった旧道が、再び姿を現します。→

旧道の傍らに、道祖神がひっそりと建っています。
裏面に「寛政十二庚申」(1800)と刻まれていますので、200年以上もの間、雨風に耐えて立ち続けていたんですね。


道祖神から100mほど行くと、左前方にお寺の屋根が見えてきます。




吉井町岩井「稲荷山聖天院眞光寺」です。

山号が「稲荷山」というので、寺には珍しくお稲荷さんでも祀ってあるのかと思いましたが、ご本尊は「十一面観世音菩薩」だそうです。
この一帯あちこちに古墳があるので、もしかすると「稲荷山」という古墳でもあったのでしょうか。

院号の「聖天院」は、秘仏「歓喜天」(聖天)からでしょう。
上毛新聞社発行の「ぐんまのお寺」によると、「風紀上の観点からか、現在は見当たらない。」とあります。
「風紀上」なんですね。
そういえば、足門徳昌寺にある「聖天様」も、やはり秘仏になっていましたっけ。↓
   ◇旧三国街道 さ迷い道中記(14)

真新しい本堂ですが、開山は寛永年間(1624~44)だそうです。

岩井村へ布教に訪れた深誉上人の説法を聞いて仏門に帰依した名主・岡野氏が、上人を迎えるために建立したということです。

寺伝によると、当初は別の場所(古屋舗)にあったようですが、元禄十三年(1700)現在地に移したとあります。
昭和二年(1927)に改修された本堂も傷みが激しくなったため、住民や檀家の浄財により平成二十二年(2010)に建て替えられました。
手前の旧本堂を取り壊して間がないので、新本堂の開眼式はまだ行っていないとのことです。

眞光寺に沿った旧道は、ここで新道と合流します。

「マックス吉井工場」建設のために開通した(?)新道ができるまでは、ちょうど砂利敷きの部分が旧道だったと、地元の方に教えて頂きました。
これが鎌倉街道だったようです。

長くなりました。今日はここまでと致します。


【今日の散歩道】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:00
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2011年09月04日

鎌倉街道探訪記(36)

またまた、しばらく間の空いてしまった鎌倉街道です。

吉井町岩井「眞光寺」まで来たところでした。

舗装されてない部分が旧道で鎌倉街道だったというので、少し進んでみましょう。

100mほど歩くと、道端に小さな祠が建っていました。

失礼して中を覗きこんでみると、木のお宮の中に大黒様がいらっしゃいましたが・・・。


その下に、ぽっかりと穴が開いています。

どうやら、井戸の跡のようです。

これは、あとで地元の方から教えて頂いたのですが、「飯野の井戸神様」と呼んでいるものだそうです。

命の源である水を与えてくれていた井戸は、大切にされ、井戸神様の住む神聖な場所とされていました。
昔から、「使わなくなった井戸をそのまま埋めてはいけない。」と言われています。

そういえば、ここの地名は「岩井」といいますが、これも井戸に関係するようです。

明徳年中(1390~93)新田の浪人で岡野という人がこの地に住み、岩の間から滴り落ちる水を見て井戸を掘り、この地を「岩井」と名付けたと伝えられています。(入野村郷土誌)
岡野という名で思い出すのは、「眞光寺」を建立したのも、名主の岡野氏でした。

もしかすると、「飯野の井戸神様」ではなくて、「岡野の井戸神様」かも知れないと勝手に思ってみたのですが・・・。

「井戸神様」のすぐそばの石垣に、ちょっと不自然な石があるのを発見しました。

ひとつだけ大きくて、他の石組みに較べてやけに飛び出しています。

しかも、模様が何となくの頭に見えませんか?

井戸にはよくが住みついていたりするもんですが、昔の人は、それを水を守る龍神の化身として崇めたようです。
の頭に似たこの石も、きっとそんな意味があるに違いない、と、またまた勝手に思ってみました。

新道は真っ直ぐ続いていますが、この道ができるまでの旧道は、「飯野自動車修理工場」の角から右へカーブしていたそうです。

そのことを教えてくれたのは、社長の飯野忠治さんでした。
この辺を行ったり来たりしている私を見て、よっぽど気になったのでしょう。

曲がるとすぐ十字路があって、飯野さんのお話しではカーブミラーの角を左に入るのが、鎌倉街道と伝承されているそうです。




うーん、そう見ればそんな雰囲気でもあるような・・・。

土の道を進んでいくと、どうみても畑の中の農道へ出てきてしまった感じです。

あー、やっぱり幻の鎌倉街道か、と諦めかけたのですが・・・。

その先の草むらに、道祖神が隠れていました。
ここが昔、街道であったことの証でしょう。

ここまで来ると、鏑川は目と鼻の先です。
ここから渡船場へ下りたとも思われますが、飯野さんの話では渡船場はもう少し上流だったそうです。
そう言われてみると、畑道は前方の白い家に向かってまだ続いています。

白い家の向こう側へ回ってみると、途切れた道の延長線上にまた道があり、教えて頂いた渡船場跡に真っ直ぐつながる感じです。




ここに、昭和の初期まで「岩井の渡し」と呼ばれる渡船場があったのだそうです。

明治三十五年(1902)対岸の三ツ木撚糸工場ができ、女工さんたちが通うために「岩井の渡し」ができたたといいます。
渡し舟が出たのは春から秋までで、水の減る冬には平板二枚を並べただけの仮橋を、太い針金につかまりながら渡ったようです。(春山基二氏著「三ツ木物語」)

鏑川を渡れば藤岡市です。
三ツ木→白石→緑埜から庚申山の麓を通って本郷へ向かうのが、鎌倉街道の一つと伝わっています。

さて、昨年10月から歩き始めた鎌倉街道、やっと高崎の南端にたどり着きました。
途中ずいぶん寄り道をしましたが、ずっとお付き合い頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。

願わくば、鎌倉街道の案内板が整備され、多くの方に楽しみながら歩いて頂けたらな、と思います。


【今日の散歩道】


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Posted by 迷道院高崎at 12:13
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2011年09月10日

鎌倉街道探訪記のおまけ

鎌倉街道探訪は、前回で一応高崎の南端に到達したのですが、対岸の藤岡に入ってからの道もざっと調べていると、とても興味を引かれるものがありました。
しかもそれは、高崎にも大いに関係のあるものなんです。

藤岡緑埜(みどの)にある、
「千部(せんぶ)供養塔」です。

「千部」というのは、供養のために千人の僧が同じお経を一部づつ読むことだそうです。
何の供養なのかは、看板を読んでみてください。↓

天明三年(1783)の浅間山は、四月に大きく噴煙を上げて各地に灰を降らし、五月、六月と噴火はさらに激しさを増していきます。

そしてついに、七月八日の大爆発により、1400人余という死者を出す大災害となりました。

噴石・溶岩流・火砕流による直接被害、それらが吾妻川を堰き止めて引き起こした洪水による二次被害、そして、遠く離れた地域にまで降り積もった火山灰による農作物被害も甚大でした。

藤岡近辺でも、田畑を埋め尽くした降灰のため農作物が実らず、大勢の人々が飢餓に苦しみ、数えきれないほどの餓死者も出ました。
この時、この地の代官を務めていた斎藤八十右衛門雅朝(さいとう・やそえもん・まさとも)は、自分の蔵を開いて近郷近在の人々に米・麦などの穀物や金品を無償で施し、人々を救済したのです。

その八十右衛門が、噴火から9年後の寛政四年(1792)に、災害や飢饉で亡くなった人々の供養のために建立したのが、「千部供養塔」です。

「千部供養塔」には、噴火の様子や各地の降灰量、降灰による凶作がもたらした物価高騰の状況が、石碑の三面いっぱいに克明に刻まれています。

天明の大噴火の貴重な記録ですが、時の経過とともに刻字が不鮮明になったということで、昭和十二年(1937)に再刻されています。

後世の人に伝えるのが八十右衛門の切なる願いで、刻まれた文の最後にその気持ちが込められています。

「しるし(記し)おく凶事は 末(すえ)の吉事なれ
   親のしかる(叱る)も かわゆさ(可愛さ)のまま」


「早く忘れてしまいたい不幸な災害のことを、敢えて記し残しておくのは、後世の人が教訓として活かしてほしいからである。
親が子を叱るのも、可愛いからこそで、それと同じである。」

という意味でしょう。

さて、その八十右衛門高崎の関係ですが。

「千部供養塔」建立の4年後、蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで、八十右衛門が管内の名主・百姓等280余名の発起人となって、観音山清水寺観音堂脇に、鋳銅製の「露天聖観世音立像」を寄進しているのです。
おそらく、災害後の田畑の復旧がなって、その喜びと感謝を表したものでしょう。

しかしこのことが、八十右衛門の身に不幸をもたらしてしまいます。
その辺のことは、過去記事「幻の鋳銅露天大観音」をご覧ください。

「千部供養塔」の刻文の中に各地の降灰の量が記されていますが、高崎の状況も記されています。

「藤岡高崎 一尺」とあるのが、読めますでしょうか。
約30cm積もったんですね。

高崎柴崎町に、この時の灰を掻き集めて塚にした、「浅間山(せんげんやま)」というのが残っています。

これも、過去記事「浅間のいたずら」をご覧ください。

ここのところ、地が、海が、天が、川が、荒ぶる神となって人々に大きな試練を与えています。
願わくば、火の山を司る神には、しばし鎮まっていて頂きたいものです。
ましてや人間が、欲や恐怖に駆られて愚かしき災害を引き起こさんことを。
切に、切に。

(参考図書:「ふるさと人ものがたり 藤岡」「多野藤岡地方誌」
「旧鎌倉街道探索の旅」「歴史の道調査報告書 鎌倉街道」)


【千部供養塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:12
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