山名八幡宮へ行ったら、ぜひ見てみたいと思っていたものがありました。
グンブロガー・捨蚕さんに教えて頂いた、
「中村家三世の碑」です。
石段と社務所の間の坂道を上って行った左手に、その大きな碑は建っています。
その三世の中で、最も興味あるのが中村俊達という人です。
過去記事「嗚呼、高崎藩士」の中で下仁田戦争のことをちょこっと書きましたが、それに従軍した山名村の医師です。
下仁田へ向かう高崎藩勢が山名村を通過する時、その中に医師が二人しかいないのを見て自ら志願し、引き留める妻を振り切って従軍したという人物です。
もっと知りたい方は、捨蚕さんの記事をご覧ください。
◇山名八幡物語(七)・中村俊達のこと(1)
◇山名八幡物語(八)・中村俊達のこと(2)
◇山名八幡物語(九)・中村俊達のこと(3)
参道に戻って手水舎の前に来ると、いきなり水が出てきたのでびっくりしました。
天井を見て、分かりました。
龍が見張ってたんですね。
手水舎の隣には、大きな馬の銅像があります。
傍らの看板には、
「 | この神馬像は、全国の山名氏の末裔が奉納したもので、神馬は西国を向いている。」 |
山名八幡宮の由緒が、HPに書かれています。
「 | 社伝によればこの八幡宮は源氏の一族新田氏の祖義重の子、義範が山名城にあって安元年中(1175~77)に豊前の国(大分県)の宇佐八幡宮を勧請して社殿を造営し武神として崇敬したのを始めとしている。」 |
兄二人が新田姓を継ぎ新田の所領を分与されているのに対し、義範は、新田から離れた片岡郡山宗(やまな)郷のわずかな所領に移り、自らを山名三郎と名乗って山名氏の祖となります。
どんな事情があったか分かりませんが、あまり優遇されていたとは言えないようです。
その山名氏が大きく興隆したのは、八代目・時氏の時代からです。
足利尊氏に従った山名時氏は、数々の戦功により建武四年(1341)伯耆国(現・鳥取県)の守護職に任ぜられます。
その後、益々力を付けた山名氏の一族は、さらに丹後・紀伊・因幡・丹波・山城・和泉・美作・但馬・備後・播磨と、合わせて11ヶ国もの守護に納まります。
当時は全国が66ヶ国に分けられており、山名氏はその6分の1の国を治めていたことから、「六分の一殿」と言われたそうです。
奉納された神馬は、かつて山名氏が隆盛を誇っていた山陰・山陽地方を向いているということでしょう。
武運の神・八幡神は、白馬に乗って現れるといいます。
そのためか、山名八幡宮の随身門は白馬が前面に安置され、お馴染みの矢大臣・左大臣は裏側に控えているという、珍しいものです。
そういえば、昭和九年(1934)に山名八幡宮の裏山に御野立された
昭和天皇も、白雪という名の白馬に乗った現人神(あらひとがみ)でした。
【中村家三世の碑】