「山の上の辻」の地蔵堂裏に高崎自然歩道が通っています。
道標には、この道の先は<御野立所 山名八幡宮 山名駅>となっています。
この写真を見ると、すごい山の中へ入っていきそうな感じですが・・・。
100mも行かない内に、民家の裏庭から団地の道路に飛び出てびっくりします。
「高崎自然歩道」の看板を追いながら300mほど歩くと、木々の美しい公園の中に導かれます。
正面の石段を上ってみましょう。
こんもり土を持った上に、大きな「筆塚」の石碑が建っています。
裏面に昭和五十五年(1980)五月五日と刻んであります。
「五」並びの日には、何か意味があるのでしょうか?
「筆塚」のちょっと先に、高崎自然歩道の道標に書いてあった、「山名御野立所跡」の石碑が建っています。
まだ郷土の歴史を何にも知らない頃は、ここで大規模な野外の茶会でもあったのかと思ってました。
昭和九年(1934)烏川の河原で行われた陸軍大演習の様子を、昭和天皇がこの野に御立ちになって観戦した所だそうです。
お茶の方は「野点」(のだて)で、ここは「野立」(のだち)だったんですね(^^ゞ
昭和九年といえば、金融・世界恐慌、満州事変を経て、日本が国際連盟を脱退した翌年です。
この陸軍特別大演習は、この後、日本が突き進んでいく道を予感してのものだったのかも知れません。
近衛師団と第十四師団(高崎第十五連隊を含む)が西軍、東京の第一師団と仙台の第二師団が東軍に分かれ、栃木県佐野市付近で始められた演習は、茨城、埼玉と所を変え、夜戦も含めて3日間という大規模かつ実戦的なものでした。
その最終日、東軍は高崎方面から烏川を越え、西軍は藤岡方面から鏑川を超えて、当時の多野郡八幡村(現・南八幡)での決戦となりました。
このような大演習はこれが最後となり、日本は支那事変から太平洋戦争に入っていくことになります。
「山名御野立所跡」の石碑は、二・二六事件のあった昭和十一年(1936)に、八幡村の人々により建てられました。
碑に刻まれた文字は、西軍を率いた荒木貞夫陸軍大将の揮毫です。
同じ年に建てられた碑が、近くにもう一つあります。
群馬県神職会が天皇陛下行幸を記念して、県内各地の万葉集上野国歌に因んだ場所に万葉歌碑を建てることを計画し、その第一号として建てられたものです。
万葉仮名と平仮名の両方で書いてあるのですが、悲しいかな読めません。
「さぬやまに うつやおのとの とおかども
ねもとがころが おもにみえつる」
と書いてあるのだそうです。
文学博士・髙墅辰之書とあります。
高野辰之氏は国文学者で、文部省唱歌「故郷」の作詞者でもあります。
訓読では、
「佐野山に 打つや斧音の遠かども 寝もとがころが 面に見えつる」
となり、
「佐野山に打つ斧の音の如くに遠いけれども、寝ようというのであろうか、おとめが面影に見えましたよ。」
という意味だそうです。
山名にあって「佐野山」とは妙ですが、「山ノ上碑」にあるように古くは「佐野三家」(さののみやけ)の領地です。
古の昔から、様々な人がこの佐野山に立ち、様々な思いを以て眼下の景色を眺めたのでしょうね。
道標には、この道の先は<御野立所 山名八幡宮 山名駅>となっています。
この写真を見ると、すごい山の中へ入っていきそうな感じですが・・・。
100mも行かない内に、民家の裏庭から団地の道路に飛び出てびっくりします。
「高崎自然歩道」の看板を追いながら300mほど歩くと、木々の美しい公園の中に導かれます。
正面の石段を上ってみましょう。
こんもり土を持った上に、大きな「筆塚」の石碑が建っています。
裏面に昭和五十五年(1980)五月五日と刻んであります。
「五」並びの日には、何か意味があるのでしょうか?
「筆塚」のちょっと先に、高崎自然歩道の道標に書いてあった、「山名御野立所跡」の石碑が建っています。
まだ郷土の歴史を何にも知らない頃は、ここで大規模な野外の茶会でもあったのかと思ってました。
昭和九年(1934)烏川の河原で行われた陸軍大演習の様子を、昭和天皇がこの野に御立ちになって観戦した所だそうです。
お茶の方は「野点」(のだて)で、ここは「野立」(のだち)だったんですね(^^ゞ
昭和九年といえば、金融・世界恐慌、満州事変を経て、日本が国際連盟を脱退した翌年です。
この陸軍特別大演習は、この後、日本が突き進んでいく道を予感してのものだったのかも知れません。
近衛師団と第十四師団(高崎第十五連隊を含む)が西軍、東京の第一師団と仙台の第二師団が東軍に分かれ、栃木県佐野市付近で始められた演習は、茨城、埼玉と所を変え、夜戦も含めて3日間という大規模かつ実戦的なものでした。
その最終日、東軍は高崎方面から烏川を越え、西軍は藤岡方面から鏑川を超えて、当時の多野郡八幡村(現・南八幡)での決戦となりました。
このような大演習はこれが最後となり、日本は支那事変から太平洋戦争に入っていくことになります。
「山名御野立所跡」の石碑は、二・二六事件のあった昭和十一年(1936)に、八幡村の人々により建てられました。
碑に刻まれた文字は、西軍を率いた荒木貞夫陸軍大将の揮毫です。
同じ年に建てられた碑が、近くにもう一つあります。
群馬県神職会が天皇陛下行幸を記念して、県内各地の万葉集上野国歌に因んだ場所に万葉歌碑を建てることを計画し、その第一号として建てられたものです。
万葉仮名と平仮名の両方で書いてあるのですが、悲しいかな読めません。
「さぬやまに うつやおのとの とおかども
ねもとがころが おもにみえつる」
と書いてあるのだそうです。
文学博士・髙墅辰之書とあります。
高野辰之氏は国文学者で、文部省唱歌「故郷」の作詞者でもあります。
訓読では、
「佐野山に 打つや斧音の遠かども 寝もとがころが 面に見えつる」
となり、
「佐野山に打つ斧の音の如くに遠いけれども、寝ようというのであろうか、おとめが面影に見えましたよ。」
という意味だそうです。
山名にあって「佐野山」とは妙ですが、「山ノ上碑」にあるように古くは「佐野三家」(さののみやけ)の領地です。
古の昔から、様々な人がこの佐野山に立ち、様々な思いを以て眼下の景色を眺めたのでしょうね。
(参考図書:「新編高崎市史」「みなみやはたの歩み」「徐徐漂たかさき」「高崎漫歩」)