久しぶりの鎌倉街道です。
「放光神社」から、新幹線の高架に沿って東へ、ひたすら歩いて1.5kmほど行くと、佐野一本松通り(下佐野・根小屋線)に出ます。
左手を見ると、写真のような立派な石垣があり、その上は神社のようでもあり、建設中の民家のようでもあります。
石段の正面に回ってみると、→
荒れてはいるものの、明らかに神社のように見受けられます。

←危なっかしい石段を上ってみると、「御嶽山」の石碑が建っています。

転がっていた硬貨の表面を擦ってみたら、昭和九年(1934)の一銭硬貨でした。
下佐野第二町内会区長をしていた松田登氏の著書「下佐野町史」(2001年発行)に、同町出身の郷土史家・高山勇氏の調査記録が載っています。
それによると、「御嶽山」碑は安政五年(1858)の銘があり、馬頭観世音は文化七年(1810)、庚申塔は寛政三年(1791)、二十二夜供養塔は天明七年(1787)とあるので、どうやら御嶽信仰が全国に広まった江戸時代に創建されたものと思われます。
「下佐野町史」には、明治二十年前後生まれの人の話として、「御嶽様に関係ある各地の山伏行者が来て、ここで火渡りの行事を取り仕切った。」とあります。
また、御嶽様は明治以前は現在の場所より50m位東に位置していて、明治の末頃現在地に移転したということです。
そして大正七、八年に、地元をはじめ、山名、根小屋、上中居等多くの有力者の寄進によって、石垣を積み、石段・玉垣を整備したと書かれています。
高山勇氏は、「下佐野一本松御嶽山」の見事な毛筆画を残しています。
その一本松の大木は石宮の西前にあったそうですが、台風で倒れてしまったということです。
しかし、その大木があったということは、現在の「一本松橋」の名として、残りました。
この謂れを書いた看板が、どこかに建っていて欲しいものです。


左手を見ると、写真のような立派な石垣があり、その上は神社のようでもあり、建設中の民家のようでもあります。

荒れてはいるものの、明らかに神社のように見受けられます。

←危なっかしい石段を上ってみると、「御嶽山」の石碑が建っています。

転がっていた硬貨の表面を擦ってみたら、昭和九年(1934)の一銭硬貨でした。
下佐野第二町内会区長をしていた松田登氏の著書「下佐野町史」(2001年発行)に、同町出身の郷土史家・高山勇氏の調査記録が載っています。
それによると、「御嶽山」碑は安政五年(1858)の銘があり、馬頭観世音は文化七年(1810)、庚申塔は寛政三年(1791)、二十二夜供養塔は天明七年(1787)とあるので、どうやら御嶽信仰が全国に広まった江戸時代に創建されたものと思われます。
「下佐野町史」には、明治二十年前後生まれの人の話として、「御嶽様に関係ある各地の山伏行者が来て、ここで火渡りの行事を取り仕切った。」とあります。
また、御嶽様は明治以前は現在の場所より50m位東に位置していて、明治の末頃現在地に移転したということです。
そして大正七、八年に、地元をはじめ、山名、根小屋、上中居等多くの有力者の寄進によって、石垣を積み、石段・玉垣を整備したと書かれています。

その一本松の大木は石宮の西前にあったそうですが、台風で倒れてしまったということです。
しかし、その大木があったということは、現在の「一本松橋」の名として、残りました。
この謂れを書いた看板が、どこかに建っていて欲しいものです。
【下佐野一本松御嶽山】
