2011年02月11日

鎌倉街道探訪記(19)

久しぶりの鎌倉街道です。

鎌倉街道探訪記(19)「放光神社」から、新幹線の高架に沿って東へ、ひたすら歩いて1.5kmほど行くと、佐野一本松通り(下佐野・根小屋線)に出ます。

左手を見ると、写真のような立派な石垣があり、その上は神社のようでもあり、建設中の民家のようでもあります。

鎌倉街道探訪記(19)石段の正面に回ってみると、→
荒れてはいるものの、明らかに神社のように見受けられます。

鎌倉街道探訪記(19)




←危なっかしい石段を上ってみると、「御嶽山」の石碑が建っています。
鎌倉街道探訪記(19)
転がっていた硬貨の表面を擦ってみたら、昭和九年(1934)の一銭硬貨でした。

下佐野第二町内会区長をしていた松田登氏の著書「下佐野町史」(2001年発行)に、同町出身の郷土史家・高山勇氏の調査記録が載っています。

それによると、「御嶽山」碑は安政五年(1858)の銘があり、馬頭観世音は文化七年(1810)、庚申塔は寛政三年(1791)、二十二夜供養塔は天明七年(1787)とあるので、どうやら御嶽信仰が全国に広まった江戸時代に創建されたものと思われます。

「下佐野町史」には、明治二十年前後生まれの人の話として、「御嶽様に関係ある各地の山伏行者が来て、ここで火渡りの行事を取り仕切った。」とあります。
また、御嶽様は明治以前は現在の場所より50m位東に位置していて、明治の末頃現在地に移転したということです。
そして大正七、八年に、地元をはじめ、山名、根小屋、上中居等多くの有力者の寄進によって、石垣を積み、石段・玉垣を整備したと書かれています。

鎌倉街道探訪記(19)高山勇氏は、「下佐野一本松御嶽山」の見事な毛筆画を残しています。
その一本松の大木は石宮の西前にあったそうですが、台風で倒れてしまったということです。

しかし、その大木があったということは、現在の「一本松橋」の名として、残りました。

この謂れを書いた看板が、どこかに建っていて欲しいものです。

【下佐野一本松御嶽山】
鎌倉街道探訪記(19)



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Posted by 迷道院高崎 at 21:51
Comments(4)鎌倉街道
この記事へのコメント
一本松はやはりあそこにあったんですか。
気にしながら、いつも通過してました。
川を渉ると山名ですね。

川が蛇行していて、佐野が山名の方に突き出しているいる所なんですね。

一本松橋はよく利用させていただいています。
次回がたのしみです。
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2011年02月12日 09:27
>捨蚕さん

はい、一本松はあそこにあったらしいですよ。

川も蛇行してますけど、一本松橋への道もえらく蛇行してますよね。
橋を架けるルートについても、紆余曲折があったようです。

なかなか、山名までたどり着きません(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年02月12日 19:49
昔、母の実家(上中居)から
下佐野の松田へ嫁いでいる人がいて
「松田登」さんという
名前は時々聞くことがありました。

上中居からも寄進があったと言うことは
もしかしたら母の実家も
関係していた可能性も・・・?

一度、一本松御嶽山を
訪れてみようと思います。
Posted by いちじん  at 2011年02月13日 12:28
>いちじんさん

玉垣に、上中居村「清水興吉」「清水由松」「清水浅吉」の名があり、高山勇氏の注釈によると、「清水浅吉は当村松田源四郎妻わきの実父」と記されています。
きっとその、“わき”さんがそうかも知れませんね。

これもまた、不思議なつながりですねー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年02月13日 22:13
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