「常世神社」から新幹線の高架に沿って南へ300mほど行ったところに、「定家(ていか)神社」があります。
社殿に比べ、境内の広さにびっくりしますが、戦前まで「定家さまの森」と言われるほど、木がこんもり茂っていたそうです。
さて、「定家」とは、小倉百人一首の撰者・藤原定家(ふじわら の さだいえ)のことです。
その藤原定家がこの神社のご祭神なんですが、おそらく全国でも定家を祭神として祀っている神社は、ここだけではないでしょうか。
いつ、どのような経緯で創建されたのでしょう。
「定家神社由緒略記」には、こう書かれています。
「創建年月詳か(つまびらか)ならず。相伝ふ処によると、定家は往時この地に来たり、草菴(そうあん)を結んで暫く居住の後、帰洛に臨みて別れを惜しみ、護持する所の観音像を土人に附与し記念とす。
後土人欽慕の余り祠を建てこれを祭ると。観音像今尚存在せり。」
歌聖・藤原定家がこの地に住んでいたとは、なんと凄いことでしょう!
と思ったら、続けてこう書かれています。
「往時この地を髙田の里と称し、上野國神明帳群馬郡西部に従三位髙田明神あり。
是によって之を観すれば髙田明神は即ち本社にして、而して新古今集の
歌<駒止めて 袖打ちはらふ かげもなし
佐野の渡りの 雪の夕暮れ>
詠ぜし紀伊國佐野を此処と誤認して定家を併祭せしより、後世遂に定家神社と称したるに至りし由、古文書による。
現社殿は元文四己羊年(1739)造営。」
ということで、土地の人の創作だったようです。
ただ、近くの「佐野の舟橋」も「常世神社」も、謡曲と結びついています。
その謡曲の中には、「定家」という演目もあるのです。
おそらく、このつながりで「定家神社」を産み出したのだと思います。
たとえ創作だったとしても、昔の人の教養の高さを讃えるべきではないでしょうか。
高崎としては、全国的にも珍しい「謡曲三名跡」を持つことになった訳ですから。
最近塗り直したのであろう社殿の鮮やかな色は、間近で見ると、まるで奈良か京都にいるような錯覚を覚えます。
その後ろの本殿はさらに鮮やかな極彩色で、見事な彫刻が浮き上がって見えます。
拝殿の中を覗くと、「あるがごとく」と読むのでしょうか、「在如」と書かれた額が掛かっています。
少し褪色している天井画ですが、定家神社らしく和歌も書かれていて、面白いと思いました。
また別の額には、小倉百人一首の中にある定家の唯一の歌、
「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に
焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
が書かれています。
「松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、
来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。」という恋歌ですが、定家神社にはこの歌にまつわる、こんな言い伝えがあります。
「この歌を小さな半紙に書いて拝殿の格子に結んでおくと、恋人を慕う若人は必ず結ばれる。」
というのです。
何とも粋な縁結びの神社ではありませんか。
「定家蔓(ていかかずら)」という植物もあるそうですね。
この名前は、謡曲「定家」に由来するのだそうです。
藤原定家と、後白河法皇の第三皇女・式子内親王との恋物語です。
境内にこの「定家蔓」をたくさん植え、先の言い伝えをもっと広めれば、定家神社を訪れる若者がもっと増えるのではないでしょうか。
境内の中に、ちょっと面白いお堂があります。
昔は、道を隔てた東側にあったそうですが、昭和の初めに定家神社境内に移されたという「仁王堂」です。
仁王様というと、大概はお寺の山門で睨みを利かせているものですが、神社の境内でお堂に入っているというのは珍しいんじゃないでしょうか。
さらに珍しいのは、その配置です。
普通は、向かって右側が口を開いた「阿形(あぎょう)像」、左側が口を閉じた「吽形(うんぎょう)像」ですが、ここの仁王様は左右逆になっています。
どうやら、お堂を移した時に逆に置いてしまったようですが、この配置になっているのは奈良・東大寺の仁王様だけだそうです。
経緯はともあれ、この全国的にも珍しい「定家神社」を、もっと積極的に、もっと大々的に、PRしてもよいのではないでしょうか。
いやー、佐野って面白いところですねー!
社殿に比べ、境内の広さにびっくりしますが、戦前まで「定家さまの森」と言われるほど、木がこんもり茂っていたそうです。
さて、「定家」とは、小倉百人一首の撰者・藤原定家(ふじわら の さだいえ)のことです。
その藤原定家がこの神社のご祭神なんですが、おそらく全国でも定家を祭神として祀っている神社は、ここだけではないでしょうか。
いつ、どのような経緯で創建されたのでしょう。
「定家神社由緒略記」には、こう書かれています。
「創建年月詳か(つまびらか)ならず。相伝ふ処によると、定家は往時この地に来たり、草菴(そうあん)を結んで暫く居住の後、帰洛に臨みて別れを惜しみ、護持する所の観音像を土人に附与し記念とす。
後土人欽慕の余り祠を建てこれを祭ると。観音像今尚存在せり。」
歌聖・藤原定家がこの地に住んでいたとは、なんと凄いことでしょう!
と思ったら、続けてこう書かれています。
「往時この地を髙田の里と称し、上野國神明帳群馬郡西部に従三位髙田明神あり。
是によって之を観すれば髙田明神は即ち本社にして、而して新古今集の
歌<駒止めて 袖打ちはらふ かげもなし
佐野の渡りの 雪の夕暮れ>
詠ぜし紀伊國佐野を此処と誤認して定家を併祭せしより、後世遂に定家神社と称したるに至りし由、古文書による。
現社殿は元文四己羊年(1739)造営。」
ということで、土地の人の創作だったようです。
ただ、近くの「佐野の舟橋」も「常世神社」も、謡曲と結びついています。
その謡曲の中には、「定家」という演目もあるのです。
おそらく、このつながりで「定家神社」を産み出したのだと思います。
たとえ創作だったとしても、昔の人の教養の高さを讃えるべきではないでしょうか。
高崎としては、全国的にも珍しい「謡曲三名跡」を持つことになった訳ですから。
最近塗り直したのであろう社殿の鮮やかな色は、間近で見ると、まるで奈良か京都にいるような錯覚を覚えます。
その後ろの本殿はさらに鮮やかな極彩色で、見事な彫刻が浮き上がって見えます。
拝殿の中を覗くと、「あるがごとく」と読むのでしょうか、「在如」と書かれた額が掛かっています。
少し褪色している天井画ですが、定家神社らしく和歌も書かれていて、面白いと思いました。
また別の額には、小倉百人一首の中にある定家の唯一の歌、
「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に
焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
が書かれています。
「松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、
来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。」という恋歌ですが、定家神社にはこの歌にまつわる、こんな言い伝えがあります。
「この歌を小さな半紙に書いて拝殿の格子に結んでおくと、恋人を慕う若人は必ず結ばれる。」
というのです。
何とも粋な縁結びの神社ではありませんか。
「定家蔓(ていかかずら)」という植物もあるそうですね。
この名前は、謡曲「定家」に由来するのだそうです。
藤原定家と、後白河法皇の第三皇女・式子内親王との恋物語です。
境内にこの「定家蔓」をたくさん植え、先の言い伝えをもっと広めれば、定家神社を訪れる若者がもっと増えるのではないでしょうか。
境内の中に、ちょっと面白いお堂があります。
昔は、道を隔てた東側にあったそうですが、昭和の初めに定家神社境内に移されたという「仁王堂」です。
仁王様というと、大概はお寺の山門で睨みを利かせているものですが、神社の境内でお堂に入っているというのは珍しいんじゃないでしょうか。
さらに珍しいのは、その配置です。
普通は、向かって右側が口を開いた「阿形(あぎょう)像」、左側が口を閉じた「吽形(うんぎょう)像」ですが、ここの仁王様は左右逆になっています。
どうやら、お堂を移した時に逆に置いてしまったようですが、この配置になっているのは奈良・東大寺の仁王様だけだそうです。
経緯はともあれ、この全国的にも珍しい「定家神社」を、もっと積極的に、もっと大々的に、PRしてもよいのではないでしょうか。
いやー、佐野って面白いところですねー!
【佐野の謡曲三名跡】