信州シリーズ1回お休みしましたが、妻籠宿の続きです。
町の魂を感じる妻籠宿。
←こんなところにそれを感じます。
ポスターをベタベタ貼るでもなく、幟旗を林立させるでもなく、それでいて各家々の気持ちがひとつになって訪問者をもてなしている、そう感じさせてくれる町です。
「火乃要鎭」・・・火の用心でしょうね。
充てた漢字にも、魂を感じます。
たしかに、消火栓は「火を鎮めるのに必要」ですよね。
左端の郵便受けも、いいなー。
郵便受けといえば、妻籠では郵便局も魂が入っています。
すごいのは、現役の郵便局でありながら、「郵便史料館」でもあることです。
↓
旧吾妻村警察署として明治三十年(1897)に建てられた建物は、村役場に使われた後、昭和五十四年(1979)に「観光案内所」となり、現在は「(財)妻籠を愛する会」の事務所にもなっています。
その先に、「ます形」と刻まれた自然石の道標がありました。
風合いや刻まれた文字からして、最近建てられたものでしょう。
傍らに、
「寺下は、1968年、日本で最初に町並み保存工事を始めた。」
という看板があります。
江戸と京を結ぶ中山道と、信州と三河を結ぶ伊那街道が交差する妻籠宿は、交通の要衝として大層賑わっていましたが、明治になり新道や鉄道ができると宿場としての機能を失って、急速に衰退していきました。
下って昭和三十年(1955)代になると、若者の外部流出もあって、ますます過疎化・衰退していったといいます。
そこで住民たちが考えたのが、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みを保存し、観光に力を入れることでした。
その後押しをすることになったのが、昭和四十三年(1968)に全国で取り組まれた、「明治百年記念事業」でした。
長野県は記念事業の一環として、妻籠宿寺下地区の町並み保存を行うことにしたのです。
中心となって活躍したのが「妻籠を愛する会」で、学識経験者や専門家の意見を聞きながら、三ヵ年計画で町の復元・修景を行ったということです。
その時、住民たちで取り決めたのが、「売らない、貸さない、壊さない」という町並み保存の三原則で、今も「妻籠宿住民憲章」として頑なに守られています。
そして、その努力が実って、昭和五十一年(1976)「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
「桝形」を通って、寺下地区へ入ってみましょう。
道路さえコンクリートでなければ、そこはもう間違いなく江戸時代です。
寺下地区を抜けたら、こんな素敵なコンクリート橋に出会いました。
独特なアーチがとても懐かしい感じを抱かせる「尾又橋」は、昭和三十二年(1957)の築造です。
「告 通行人は左の橋を渡るべし 妻籠宿役人」
という立札が建っていましたが、誰もいなかったので、アーチ橋の方を渡ってみました。
一応、「左の端(はし)」を・・・。
「尾又橋」の下を流れるのは、名前も素敵な「蘭(あららぎ)川」。
ここは、左上に見える「妻籠発電所」の放水口でもあり、下流にある「蘭川発電所」の取水口でもあります。
昭和九年(1934)開設の、なぜか
関西電力の「妻籠発電所」です。
↓
レトロな趣きと色をした建物や、黒く塗られた門と塀が、妻籠宿の風景によく溶け込んでいます。
水の豊富な木曽川水系には、長野県側だけでも24基の水力発電所があります。
と、「水五訓」の中で詠まれた水は、古くて新しい究極の再生可能エネルギーではないでしょうか。
あわや過疎の村として消え去らんとした妻籠宿も、見事に再生しました。
住民一人一人の「郷土の歴史を愛する思い」もまた、町の再生可能エネルギーです。
「水五訓」の、残りの四訓を見てみましょう。
いろいろなことを考えさせられた今回の信州旅行のルポも、ここでひとまず筆を置きます。
長い間お付き合い頂いた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
町の魂を感じる妻籠宿。
←こんなところにそれを感じます。
ポスターをベタベタ貼るでもなく、幟旗を林立させるでもなく、それでいて各家々の気持ちがひとつになって訪問者をもてなしている、そう感じさせてくれる町です。
おやおや、猫ちゃんまでが・・・。
「火乃要鎭」・・・火の用心でしょうね。
充てた漢字にも、魂を感じます。
たしかに、消火栓は「火を鎮めるのに必要」ですよね。
左端の郵便受けも、いいなー。
郵便受けといえば、妻籠では郵便局も魂が入っています。
すごいのは、現役の郵便局でありながら、「郵便史料館」でもあることです。
↓
↑ .
「書状集箱」も、
現役です。
現役です。
これは「観光案内所」! →
旧吾妻村警察署として明治三十年(1897)に建てられた建物は、村役場に使われた後、昭和五十四年(1979)に「観光案内所」となり、現在は「(財)妻籠を愛する会」の事務所にもなっています。
その先に、「ます形」と刻まれた自然石の道標がありました。
風合いや刻まれた文字からして、最近建てられたものでしょう。
傍らに、
「寺下は、1968年、日本で最初に町並み保存工事を始めた。」
という看板があります。
江戸と京を結ぶ中山道と、信州と三河を結ぶ伊那街道が交差する妻籠宿は、交通の要衝として大層賑わっていましたが、明治になり新道や鉄道ができると宿場としての機能を失って、急速に衰退していきました。
下って昭和三十年(1955)代になると、若者の外部流出もあって、ますます過疎化・衰退していったといいます。
そこで住民たちが考えたのが、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みを保存し、観光に力を入れることでした。
その後押しをすることになったのが、昭和四十三年(1968)に全国で取り組まれた、「明治百年記念事業」でした。
長野県は記念事業の一環として、妻籠宿寺下地区の町並み保存を行うことにしたのです。
中心となって活躍したのが「妻籠を愛する会」で、学識経験者や専門家の意見を聞きながら、三ヵ年計画で町の復元・修景を行ったということです。
その時、住民たちで取り決めたのが、「売らない、貸さない、壊さない」という町並み保存の三原則で、今も「妻籠宿住民憲章」として頑なに守られています。
そして、その努力が実って、昭和五十一年(1976)「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
「桝形」を通って、寺下地区へ入ってみましょう。
道路さえコンクリートでなければ、そこはもう間違いなく江戸時代です。
寺下地区を抜けたら、こんな素敵なコンクリート橋に出会いました。
独特なアーチがとても懐かしい感じを抱かせる「尾又橋」は、昭和三十二年(1957)の築造です。
「告 通行人は左の橋を渡るべし 妻籠宿役人」
という立札が建っていましたが、誰もいなかったので、アーチ橋の方を渡ってみました。
一応、「左の端(はし)」を・・・。
「尾又橋」の下を流れるのは、名前も素敵な「蘭(あららぎ)川」。
ここは、左上に見える「妻籠発電所」の放水口でもあり、下流にある「蘭川発電所」の取水口でもあります。
昭和九年(1934)開設の、なぜか
関西電力の「妻籠発電所」です。
↓
レトロな趣きと色をした建物や、黒く塗られた門と塀が、妻籠宿の風景によく溶け込んでいます。
水の豊富な木曽川水系には、長野県側だけでも24基の水力発電所があります。
「 | 洋々として大洋を充たし |
発しては雲となり雨と変じ | |
凍りては玲瓏たる氷雪と化す | |
然もその性を失わざるは水なり」 |
と、「水五訓」の中で詠まれた水は、古くて新しい究極の再生可能エネルギーではないでしょうか。
あわや過疎の村として消え去らんとした妻籠宿も、見事に再生しました。
住民一人一人の「郷土の歴史を愛する思い」もまた、町の再生可能エネルギーです。
「水五訓」の、残りの四訓を見てみましょう。
一、 | 自ら活動して他を動かしむるは水なり |
一、 | 常に己の進路を求めて止まざるは水なり |
一、 | 障害に遭いて激して勢を百倍するは水なり |
一、 | 自ら潔うして他の汚濁を洗い 然も清濁併せ容るるは水なり |
いろいろなことを考えさせられた今回の信州旅行のルポも、ここでひとまず筆を置きます。
長い間お付き合い頂いた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。