2016年08月14日

史跡看板散歩-13 高崎電気館(その2)

山崎正がやっていたという「幌馬車書房」がどこにあったのか、どうしても知りたくて調べを続けました。

いろいろ調べていく内に、山崎正「幌馬車詩人社」という同人会に所属していたことが分かってきました。
もしかすると、「幌馬車書房」「幌馬車詩人社」の誤りなのではないか、と思うようになりました。
「書房」というので「書店」「本屋」をイメージしていましたが、同人会の事務所だったのかも知れません。
であれば、近くの人が知らないというのも肯けます。

さらに調べていくと、その同人誌「幌馬車」が、高崎図書館の書庫に三冊ほど所蔵されていることが分かりました。


昭和十二年(1937)発行のものを見ると、「幌馬車詩人社」の住所は「高崎市江木町二三七(高槻方)」とあり、残念ながら柳川町ではありません。
ということは、山崎正が主宰していた同人会ではないということで、ちょっと落胆しました。
しかし巻末の「消息」欄に次のような記述を見つけ、ささやかな喜びを味わうことはできました。
山崎正
九月二十日以來北支戰線に奮闘中、二十六日病得て○○野戦病院に入院、十月四日更に○○陸軍病院に轉院、砲煙彈雨の中に在りても猶詩作を忘れず、身を以て書いた作品數十篇を歌謡集『漁火』として近日出版の由。」

さらに迷道院を欣喜させたのは、昭和二十一年(1946)発行の「幌馬車」誌でした。
消息
山崎正氏
同氏經營の『幌馬車書房』は九月中旬高崎市柳川町三二番地に移轉、『日本作歌者協會』員に推薦さる。」

やはり、「幌馬車書房」でよかったんです。(後で、古書店であったことが判明します。)
しかも、番地まで書いてあるじゃありませんか。
さらに驚くことに、その番地は、前に教えて頂いた、山崎正の両親が住んでいたという場所だったんです。


史跡看板に書いてある通り、たしかに「電気館の側」でした。

ここで気になったのは、山崎正「粋な黒塀」の所からここへ引っ越したのかということなんですが、同誌の「編輯部員住所錄」を見ると「高崎市柳川町一 松浦方 山崎正」となっているので、32番地はあくまで「幌馬車書房」として使っていて、住んでいたのは1番地、しかもそこは借家だったということも分かりました。

最後に、取材で得たお話を一つ。
あの黒塀の家にはね、ほんとにお富さんという女性が住んでたのよ。見越しの松もあって。
この辺は、ほら、花柳界でしょ。
お富さんもそういう女性だから、ほんとに洗い髪できれいだったの。
だから「お富さん」の歌が出た時、あぁ、ここのことを歌にしたのねって、この辺の人はみんな言ってたの。
お富さんの歳?そうねぇ、50歳くらいだったかねぇ。
でも、借金してね、大変だったみたい。
独り暮らしだったから、亡くなって一週間くらいしてから見つかったのよ。」

お富さんが住んでいたという、黒塀に見越しの松があった家は、現在コイン駐車場になっています。


「お富さん」が発表され大ヒットしたのは、昭和二十九年(1954)のことでした。
「電気館」での歌謡ショーの後に、山崎正の家で撮った写真が残っています。


時はまさに「戦後復興期」から「経済成長期」に入り、人々の娯楽文化が一気に花開く時でありました。

ここに、山崎正の略歴をご紹介しておきましょう。
(参考資料:前橋文学館発行「山崎正・歌謡曲の世界」)

大正五年(1916)東京亀戸に生まれる。本名・松浦正典。
母の再婚により高崎に移住。
高崎中学(現高崎高校)卒業後、東京美術学校入学。
この頃から作詞にも関心を持ち始め、高橋掬太郎の門下生となる。
昭和11年(1936)歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる。
昭和12年(1937)高崎歩兵十五連隊に入隊。
昭和13年(1938)満州チチハル陸軍病院から歌謡集「踊る支那兵」を、見舞いに来た民間人に秘かに託し、内地に投函する。
帰還後、慰問文が縁で前橋の料亭「鳥辰」の長女・ふみ子と結婚。
昭和16年(1942)作詞した「暁の門出」「茶作り次郎長」「軍歌千里」の三曲が、近藤広の作曲でレコード発売。
長男・正幸誕生。
昭和17年(1942)次男・薫(現つくし店主)誕生。
昭和19年(1944)再び招集。東部三八部隊に陸軍兵長として入隊。
三男・義明誕生。
昭和21年(1946)高崎市柳川町に古書店「幌馬車書房」を開店。
昭和22年(1947)自由作詞家連盟の同人誌「歌謡街」を創刊。
昭和26年(1951)単身上京、文化放送に所属。ラジオのコマーシャルソングなどを手掛ける。
個人誌「河童」創刊。
昭和28年(1953)「お富さん」を仕上げたのち、住居を前橋に移す。
昭和29年(1954)渡久地政信作曲で「お富さん」発売。
昭和30年(1955)高崎電気館を借り切り、「お富さん祭り」を開催。
昭和31年(1956)「前橋音頭」作詞。
昭和34年(1959)前橋市石川町に「山崎歌謡教室」を開設。
昭和37年(1962)「太田囃子」「伊勢崎囃子」作詞。
昭和39年(1964)社団法人日本作詞家協会理事に就任。
昭和43年(1968)山崎正永眠。享年52歳。
  

【高崎電気館】


【幌馬車書房があった所】


【お富さんが住んでいた所】


【山崎正が住んでいた所】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:05
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2016年08月07日

史跡看板散歩-13 高崎電気館(その1)

ここを「史跡」と言うのかどうか分かりませんが、柳川町の一角にある映画館「高崎電気館」の史跡看板です。





「電気館」も、ブログ駆け出しの頃に記事にしていました。
   ◇電気館通り(2009年01月10日)

大正二年(1913)開業時の「電気館」の写真が、「高崎百年」に載っています。

確かに、なかなかモダンな建物です。

「高崎百年」によると、当時はまだ「活動写真」と呼んだ無声映画だったが、連日立ち見が出るほどだったとあります。

この後、高崎には次々と映画館がオープンしていきます。

「新編高崎市史 通史編4」には、高崎の映画館の変遷図が載っています。


このように、かつては沢山あった高崎の映画館ですが、昭和後期になると次々と銀幕が閉じられていきます。

その中にあって、高崎の映画館の走りだった「電気館」が最後までその姿を留めているというのは、この高崎においては実に珍しいことなのであります。

そして今もなお、「電気館通り」という看板を付けた街路灯がずらっと残っているというのも、これまた素晴らしいことなのであります。

ずっと残っていてほしいものです。

「電気館」の裏通りへ入ってみると、古き柳川町の佇まいがそこに残っています。


前回の「高崎藩武家屋敷跡」の時に、作詞家・山崎正の話をしましたが、「電気館」の史跡看板にも山崎正の名が出てきます。

看板には「当館の側に書房を開いていた・・・」とあるのですが、その書房はどこにあったのか。
前回の記事で、「幌馬車書房」という名だということまでは分かっているのですが。

「電気館」近くに昔から住んでいる方数人にお尋ねしたのですが、みなさん山崎正はよくご存知でしたが、「幌馬車書房」というのは聞いたことがないと言います。
ただ、思わぬ収穫もあって、山崎正の両親がこの場所に住んでいた、ということを教えて頂きました。


さて、「幌馬車書房」はいったいどこにあったのか。
次回に続きます。


【高崎電気館】


【山崎正の両親が住んでいた所】



  


Posted by 迷道院高崎at 05:34
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2016年07月31日

史跡看板散歩-12 高崎藩武家屋敷跡

この史跡看板も、ちょっと見逃しそうなんですが、高崎神社前の道を南に行って、お堀に出る70mほど手前の駐車場に建っています。





看板に、安政四年(1857)の城下絵図が載っていますが、


字が小さくてどこが武家屋敷なのかよく分からないので、「新編高崎市史 資料編5」の付図「髙崎御城内外畧圖」(年次不詳)で見てみましょう。


「士屋鋪」「士屋シキ」と書いてあるのが、藩士のお屋敷です。
上級職の藩士は城内、それ以下の藩士は城外に住んでいたようで、「長屋」「長ヤ」は下級藩士や足軽クラスなのでしょう。

前回「高崎の根本・本町」の記事で、高崎城を造るために町を移したという話をしましたが、その高崎城も明治五年(1872)に陸軍省の所管になると、今度は城内に住んでいた高崎藩士がすべて城外に移されることになりました。
その辺のことは、過去記事「続・鎌倉街道探訪記(4)」に書いてありますので、よかったらご覧ください。

史跡看板が建っている道向こうは、内村鑑三の居宅跡です。


ここにも史跡看板があって然るべきと思うのですが・・・。

それともう一か所、ぜひ史跡看板を建ててほしい場所が柳川町にはあります。


なぜかという理由は、土屋喜英氏著「高崎漫歩」にある、こんな逸話を読めば分かっていただけると思います。
柳川町の一番地は、柳橋の角の一画で、ここに通称赤門浅井といわれる家老職も勤めたことのある浅井家が移り住んだ。その敷地は六百坪もあったといわれる。
なぜ、赤門と呼ばれていたのか判然としないが、浅井家は城中にいたころは、三の丸の大手門近くの城代屋敷におり、当時赤い門でもあったのであろうか。

現在の一番地には東向きに黒塗りの塀とケヤキ造りの門があり、わずかに面影を残している。(残念ながら今はありません)
この黒塀の屋敷に作詞家の山崎正がいたことがあり、『粋な黒塀、見越しの松に、あだな姿の洗い髪・・・』という『お富さん』の歌詞はここで生まれたのである。

今どき「お富さん」なんて言っても、「イメージキャラクターでしょ?富岡製糸場の。」と言われそうなんで、一応、YouTubeを貼り付けときます。


群馬芸術協会会員・金井恒好氏も、「開化高崎扣帖」山崎正のことを書いています。
山崎正は、高崎を、そして柳川町を、こよなく愛していた。
『粋な黒塀 見越しの松』は、彼が好きだった城下町高崎であると同時に、柳川町のイメージでもあったのだ。
『仇な姿の洗い髪』は、その頃の柳川町を歩けば、ここかしこに見受けられた艶やかな姿でもあった。(略)

戦後復帰した山崎正は、柳川町の一画電気館のそばに『幌馬車書房』を開いた。
ここから、炭坑節、常磐炭坑節をはじめとする多くの民謡、歌謡曲が生まれたことは言うまでもない。

歌舞伎歌謡と銘打った『お富さん』の歌詞を山崎正から手にした渡久地政信は、思案の末、当時人気絶頂の岡晴夫に歌わせようとして作曲したが折も折り、岡はコロンビアレコードへ移籍が決定した直後だった。
止むを得ず、『赤いランプの終列車』でデビューして以来、パッとしないままでいた無名の新人春日八郎に、急きょ変更して吹き込んだ。
その時は、これがまさか六十五万枚も売れるヒット曲になろうとは予想だにしなかった。(略)

かくて、一世を風靡した歌と共に、郷土出身の作詞家山崎正の名は、永く庶民の心の中に生き続けるであろう。」

しかし残念ながら、高崎をこよなく愛した山崎正の名は、わが高崎では忘れられつつあります。
ところが、お隣の前橋のほうで、その名が語りつがれているというのですから、なんともはや。

前橋「東和銀行本店」脇の坂道を下って、馬場川を渡ったすぐ先に、いかにも昭和の風情を漂わせている小料理屋があります。

このお店こそ山崎正の夫人が開き、現在はご子息が跡を継いでいる「つくし」です。

「お富さん」の歌詞を柳川町の居宅で仕上げた山崎正は、昭和二十八年(1953)に前橋へ移り住み、昭和三十一年(1956)に「前橋音頭」(作曲・山口俊郎、歌・三橋美智也)を作詞しています。

現在前橋で盛んに踊られている「前橋だんべえ踊り」は、平成二年(1990)この「前橋音頭」をもとにアレンジされたものだそうです。

また「前橋文学館」では、平成十八年(2006)に「山崎正・歌謡曲の世界」という企画展を実施しています。

その山崎正の原点ともいえるわが高崎の町がピクリとも動いてないことに、実に残念な思いを抱きます。

ぜひ山崎正の居宅跡に「お富さん発祥の地」という史跡看板を建て、高崎が生んだ大作詞家・山崎正を語り継いでいこうではありませんか。


【高崎藩武家屋敷跡史跡看板】


【内村鑑三居宅跡】


【山崎正居宅跡】


【つくし】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:58
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2016年07月24日

史跡看板散歩-11 高崎の根本・本町

今回の史跡看板、どこにあるか分かりますか?



速度取り締まり中のお巡りさんみたいに、こっそり隠れてます。


看板に使われている写真は、ここから100mほど西、本町一丁目の角です。

正面の黒い蔵造りは、壁面に「中仙道、三国道」と道しるべが書いてあったことで有名な、薬種商「大津屋」です。

現在の本町一丁目角がこれ。

となれば、さっきの史跡看板、写真右手前の植え込みあたりに建てるのが、一番いいと思いませんか?

ぜひ、再考願いたいものです。

看板の「高崎の根本・本町」というタイトルですが、寛政元年(1789)に高崎藩士・川野辺寛 (かわのべ・かん)が著した「高崎志」に、「本町ハ髙崎根本ノ町也」と書かかれています。


高崎がまだ和田と呼ばれていた頃、和田城の東側を街道が通っており、「金井宿」「馬上宿」という宿場町がありました。
井伊直政箕輪から移るための新しい城(高崎城)を築く時、その宿場町が城域の中に入ってしまうことになりました。


そこで、その宿場町を、新しく開く中山道沿いで城下町の北の入口に位置する場所に移しました。
そして、その町はもともと高崎の根本(こんぽん)の町であったということで、「本町」と名付けたという訳です。

看板には、伊能忠敬小林一茶が泊まったという旅籠「金升屋」のことも書かれてますね。
「金升屋」の広告が、文政十年(1827)に江戸で刊行された「商家高名録」に載っています。

ここには、「金舛屋庄三郎」となっていて、旅籠業の他に「金齢丹」という痰に効く薬も売っていたようですね。

どの辺にあったのかというのは、天保二年(1831)に書かれた「中山道高崎宿往還絵図」というのに載っています。


高札場の角から間口の間数を足していくと30間半(55.45m)になるので、現在の「水村園」の少し西辺りになりそうなんですが。

茶舗「水村園」は、安政四年(1857)創業の老舗です。

「水村園」は、自前の史跡看板を店先に建てています。

実は、この史跡看板が、今回の高崎市による名所旧跡看板設置の原点となったのです。



「水村園」社長・小見勝栄氏の、高崎市観光課への働きかけが実を結んだと聞いております。

「本町は、高崎根本の町」と言われるだけあって、まだまだ多くの名所旧跡があります。
 ・伝馬問屋梶山家と高札場跡
 ・佐渡御金蔵跡
 ・遠構え跡
 ・湯屋横丁

ぜひとも、史跡看板の追加設置をして頂きたいと思います。

またもや注文で終わってしまいますが、今日はここまでと。

【高崎の根本・本町史跡看板】


【水村園】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:15
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2016年06月19日

史跡看板散歩-6 旧群馬県工芸所の塀

「並榎橋」のすぐ近くにあるのが、「ブルーノタウト設計 旧群馬工芸所の塀」という史跡看板です。



看板には「群馬工芸所」とありますが、正しくは「群馬県工芸所」です。


「群馬県工芸所」があった場所は、いま「高崎市勤労青少年ホーム」になっています。


「群馬県工芸所」の建物は一切残っていませんが、塀の一部だけが当時のまま残されています。
この塀が、ブルーノ・タウトの設計だというのですが・・・。


大正十年(1921)四月、前橋「群馬県工業試験場」が設立され、桐生・伊勢崎・邑楽郡にその分場が置かれました。
高崎はやや遅れて、翌十一年(1922)八月に分場が置かれます。

「群馬県工業試験場高崎分場」「群馬県工芸所」と改名され独立したのは、昭和十一年(1936)四月のことです。




上の写真はいつ撮影されたものか分かりませんが、塀のデザインは今と同じです。
ブルーノ・タウト高崎にいたのは、昭和九年(1934)八月から十一年(1936)十月までですが、この塀は、はたしてその二年の間に造られたものなのでしょうか。

昭和十二年(1937)発行の「群馬縣工藝所要覽」に、次のような記述があります。
・・・群馬縣工藝所ハ昭和十一年四月一日ヲ以テ創立サレ、舊(旧)群馬縣工業試驗塲髙崎分場ハ仝(同)年三月末日廢止サレタルニ付、之ガ敷地、建物及設備ヲ繼承シ、同時ニ髙崎市ハ舊構内ニ寄宿舎ヲ新築シテ講習會受講者ノ宿舎トシ、北隣接地ヲ借入レテ染色工塲及汽罐室ヲ新築シ染色工塲内設備ノ大部分ト共ニ之ヲ寄附サレタリ。」

ブルーノ・タウトについての記述もあります。
時適ドイツ伯林(ベルリン)大學教授建築家ブルーノ・タウト博士來朝中ナリシヲ以テ、本縣ハ新工藝指導ヲ嘱託シ、同氏亦熱心ナル指導ヲ試ミ、工藝意匠上一新機軸ヲ開キ、群馬工藝ノ名聲ヲ髙メ又日本全國ノ工藝ニ新指針ヲ與ヘタリ。
昭和十一年九月、仝博士ハ土耳古(トルコ)政府ノ招聘ニ依リ「イスタンブール」大學教授トシテ赴任スル爲轉任セラレタルモ、其方針ヲ踏襲實行シツツアリ。」

ということで、建物と設備は「高崎分場」時代のものを継承したとあります。
塀についての記述は全くありません。
世界的大建築家の設計した塀とあれば、ここに記述しないはずはないと思うのですが・・・。

高崎の、いや群馬県の工芸品開発を牽引してきた「群馬県工芸所」は、昭和四十三年(1968)前橋市鳥羽町「群馬県工業試験場」に統合され、姿を消しました。

ついでですが、「群馬県工業試験場」は平成十五年(2003)「群馬県立産業技術センター」と改称し、前橋市亀里町へ移転しています。
その「群馬県立産業技術センター」には、ブルーノ・タウトの部屋が設けられていて・・・、





タウトの足跡や著作、資料、タウトが指導した工芸品のレプリカなどが展示されています。

そうそう、これもついでの話ですが、「旧群馬県工芸所」前の道を北へ300mほど行くと、「紡績踏切」という面白い名前の踏切があります。
史跡看板を見たついでに、寄ってみてください。

【旧群馬県工芸所の塀】


【紡績踏切】


【群馬県立産業技術センター】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:07
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2016年06月12日

史跡看板散歩-5 神明宮

「高崎中学校跡」の史跡看板から西へ、直線距離で120mほどの所にあるのが、並榎町「神明宮」(しんめいぐう)の史跡看板です。





説明看板にある「榎本於明神」というのは、たぶん「榎本於神明神」で、「神」の字が一つ抜けてしまったのだと思います。
「えのもと・おかみ・みょうじん」と読むのでしょう。

境内にある「神明宮由緒」の看板では、こうなっています。


どちらの看板にも書かれているのが、明応三年(1494)に始まったとされる「獅子舞」です。

「並榎町の獅子舞の流派は黒熊流だったが、明治の初めに稲荷流に変わり現在に至っている。そのせいか、並榎の獅子舞は足を踏みつける半閇(へんばい)の動作が強く、力強い踊りが特徴」
だそうです。(群馬県教育文化事業団「ぐんま地域文化マップ」)

では、その「獅子舞」を動画でご覧ください。
(高崎市の動画を一部編集させて頂きました。)

また、史跡看板には、「狛犬の台座に村上鬼城揮毫の並榎橋の親柱が使われている」とあります。
これがそうです。


橋の親柱ですからあと二本ある訳ですが、それはここから北北東400m、長野堰沿いの新「並榎橋」のところに残っています。


この親柱を使った「並榎橋」が竣工したのは昭和六年(1931)、長野堰の改修に伴い橋が架け替えられたのは昭和五十一年(1976)、使われなくなった親柱を台座に使って「神明宮」の狛犬が奉納されたのが昭和五十二年(1977)でした。

長野堰のほとりに残した二本の親柱も、目立たない場所ではありますが、よく残してもらえました。
欲を言えば、ここにも「名所旧跡看板」を立ててほしかったものです。

「神明宮」境内には、鬼城句碑もあります。
平成二十二年(2010)建立の、まだ新しいものですが。

「大雨に 獅子をふりこむ 祭可南(かな)」 鬼城

並榎町には、村上鬼城の居宅「鬼城草庵」があることから、その縁が深いのです。


「鬼城草庵」の事をブログに書いたのは、もう7年も前。
駆け出しの頃の記事ですが、よかったらご覧ください。
  ◇「崖の上の鬼城先生」

はい、今日はここまで。


【神明宮】


【並榎橋】


【鬼城草庵】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:51
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2016年06月05日

史跡看板散歩-4 高崎中学校跡

上和田町にある史跡看板は、「群馬県立高崎中学校跡」です。
現在の「群馬県立高崎高等学校」の前身ですね。





現在、その跡地は「高崎市立第一中学校」になっていますが、空から見ると当時の写真とそう変わっていません。


史跡看板には、簡単にしか書かれていませんが、「高崎中学校」がこの地に建つまでには、実に大変な物語があります。

高崎市に於ける中等教育機関としては、明治十年(1877)に創設された「烏川学校」というのがありました。
「烏川学校」はごく短い期間しか存在しなかったためか、どこにあったかすら定かでなく、宮元町であっただとか、下横町興禅寺に置かれただとか、諸説あるようです。

当時、群馬県下の中等教育機関としては前橋にもう一校、「利根川学校」というのがありました。
ところが、明治十二年(1879)両校が県立になる際、予算上の問題で、「前橋と高崎とではわずか二里余の距離しかないので、県立中学校は一か所にまとめる」という県の決議により、「烏川学校」は廃止、「利根川学校」の方を残して「群馬県中学校」と改称します。
という訳で、高崎には中学校が無くなってしまったのです。

再び高崎に中学校が置かれることになったのは、明治三十年(1897)のことです。
すでに「群馬県中学校」「群馬県尋常中学校」という名称になっていましたが、その分校を県下に6校開設することとなり、群馬郡高崎町もその開設地の一つとなりました。

「群馬県尋常中学校群馬分校」は、赤坂「長松寺」に置かれました。

「長松寺」の本堂前に、そのことを示す石碑が建っています。

ところが、その分校開設がまた大変だったようで、初代群馬分校主任となった峰岸米造氏の講演録「高中創立当時の追憶」に、その苦労話が記されています。

時に県学務課の主席属山崎金四郎氏が私の家に来られ、当時高等師範を出てまだ僅か三年しか経たぬ私に向かって六分校の一つを引き受けてくれと云はれた。
私はその任にあらずと言ってお断りしたのだが、澤柳氏(尋常中学校長・澤柳政太郎)自ら出向いて来られて、是非高崎分校を引受けてくれと強談し、承諾するまでは膝詰め談判で動かない。(略)
澤柳氏は私に向かって実質上の校長としてやりたい様にやってくれと云はれ、一年生を二学級募集すると共に、職員を五六名探さねばならなくなった。(略)
愈々高崎へ来て見ると三月も末であったが中学校は何処にあるのか無論校舎の予定も立って居ない。やむなく赤坂町の長松寺の本堂を借りて仕事を始める事になり、又事務をとる部屋に郡役所の一室を借りて事務員と二人で愈々店開きをした。」

その分校の新入生は76名、職員は6名でした。
本堂に幕を垂らして二つの教室に分け、八畳の間を校長室と職員室で兼用するという状態だったそうです。

「長松寺」はあくまでも仮校舎なので、峰岸主任は休む間もなく本校舎建設のために奔走することになります。
しかし、土地探しはもちろん、土地の取得、校舎の建設にかかる資金の調達までしなければならないのですから大変です。

そんなわけで敷地が却々(なかなか)きまらず、現在の此の六千坪が決定したのはやっと一学期も終りになってからの事である。
当時高崎に横浜の茂木銀行の支店があったが、其の支店長の松尾好国といふ人が実に中学教育に熱心で、住居も柳川町の私の隣家にあった関係上、私の宅へ毎晩の様にやって来て激励もし啓発もしてくれたものである。
私は酒は好きではないが松尾さんは大の酒好きで、或る晩私もある程度まで酔って愉快になった時、私はふと機略を弄する気持ちになった。(略)
そこで私は松尾さんの肩を叩いて、中学校が出来ないのは資金の問題なのだから貴方の銀行で極めて低利で金を貸して戴けないでせうかと頼むと、快く承諾して呉れた。
私は安心はしたが、相手が酔客だからと思って翌日大急ぎで銀行へ行って支店長に会った所が、一向話が通じない。酔って約束した事を忘れてゐるのである。
そこで昨夜の話をすると驚いて、支店長にはそんな権限はないから本店へ行って重役と相談して来るとて、結局私の申し出た金額を大変安い利息で高崎町に貸してくれることになった。」

こうやって、明治三十一年(1898)ここ上和田の地に本校舎が建設されたのです。

第一期卒業生の高松彦太氏によると、この地は元田んぼだったので土地は湿り、雨が降ると幾筋もの水流ができて、夜などは足元も危ないくらいであったといいます。
また、夜な夜な校舎の辺りを狐が啼きながら通り、昼でもイタチが顔を出すような寂しい風情だったそうです。

それから37年を経た昭和十年(1935)、校舎の老朽化を理由に校舎の移転・新築が提案されます。
そして、昭和十三年(1938)の暮れも押し詰まった十二月二十八日、乗附の地に造られた新校舎に移ることとなります。

この年は国家総動員法が施行された年で、全校職員と生徒は上和田校舎を出発後高崎神社を参拝、ラッパ隊を先頭に市内を行進して乗附校舎に入り、国旗掲揚の後、御真影を奉迎し、万歳三唱で移転式を終えたということです。

「高崎中学校」が新制の「高崎高等学校」になったのは、戦争も終って落ち着きを取り戻しつつある昭和二十三年(1948)のことでありました。
(参考図書:「高崎高校八十年史」)


【高崎中学校跡の史跡看板】


【長松寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:00
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2016年05月29日

史跡看板散歩-3 岡醬油醸造

「中村染工場」から引き返して、赤坂町の十字路を右へ曲がると・・・。

壁に、こんな絵の描いてある家があります。

塗料の剝がれかかった看板には、「みやざわ」という文字が読めます。








「宮澤工芸」という看板屋さんです。

ガラス戸に、こんなのが貼ってあります。

相撲取りの名前が書いてないのですが、「スロースターター」とあるので、この絵を描いた平成二十四年(2012)から大関になった稀勢の里でしょうか。

「宮澤工芸」の主・宮澤君夫さんは、群馬テレビ「技に迫る」にも出演した看板絵師で、銭湯の風呂場の看板とか、映画の看板とかを描く有名な方だそうです。
残念なことに、昨年亡くなられてしまったそうですが。

「宮澤工芸」のある建物は、雰囲気のある長屋づくりです。

旧中山道の趣を残す建物ですが、いつまで残っているでしょうか。

その長屋の先に、「岡醬油醸造」の倉庫があります。

その倉庫の壁面に描かれた文字こそ、宮澤君夫さんの作品です。
「技に迫る」では、この看板を描いているシーンが放映されたそうなんですが、残念ながら迷道院は見ていません。
いつか再放送してくれるといいんですが。

史跡看板は、「岡醬油醸造」の店舗正面に建っています。




説明文の最後に、「レンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが・・・」と書かれていますが、実は「岡醬油醸造」の煙突は、昭和六年(1931)の「西埼玉地震」で倒・半壊しているんです。


この煙突、「ちい散歩」地井武男さんも、亡くなる一年前に見に来てくれてます。


地井さんが訪問してくれたのは、迷道院が初めて「岡醬油醸造」さんを訪ねた年の翌年、平成二十三年(2011)でした。
そしてその翌年、平成二十四年(2012)に突然帰らぬ人となってしまうなんて、いま思っても気持ちが落ち込みます。

あ、何だかしんみりしちゃいました。
気を取り直して・・・。

レンガ煙突の「岡醬油醸造」のすぐそばに、「山田文庫」のレンガ塀もあります。

このレンガ塀もまた、面白い歴史を持っています。
   ◇和風図書館と茂木銀行

散歩っていいですよー!
さあみなさん、史跡看板散歩に出かけましょう!

【岡醬油醸造】


【山田文庫】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:19
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2016年05月22日

史跡看板散歩-2 中村染工場

「番所跡」から50mほど坂を下ると、左へ入る小道の角にこんなものが立っています。


「公共栓」なんて知ってる人は、相当なご年配だと思うのですが、それを知ってる迷道院は・・・。

長屋などで共同で使う水道栓で、蛇口を開け閉めする取っ手が、取り外しできるようになってましたね。
水を使う人は、専用の取っ手を持ってきて蛇口を開け、水を汲んだら取っ手を外して持って帰るという仕組みです。
懐かしいなぁ。

その先の十字路を右に曲がると、「中村染工場」の高い干し台が見えてきます。


その塀の内側に、史跡看板が立っています。


創業時の「中村染工場」は、たぶん高崎城「遠構え」の水を利用して染物を洗っていたのだと思います。


「遠構えの」の水路も今はみな暗渠になってしまいましたが、長松寺の北側には「遠構え」の水が滔々と流れ、それを利用した水車もあったのです。


「中村染工場」の北に「神武坂」という坂があるんですが、ここにその水車がありました。


「長松寺車(ぐるま)」と呼ばれたこの水車は、元禄三年(1690)に造られ昭和二十五年(1950)くらいまで使われていたようです。

三基の水車で40本の杵を搗いていたといいますから、結構な規模です。

「長松寺車」のあった場所は現在こうなっていますが、何となく面影が残っているように思えます。





「長松寺車」の水車を回していた心棒は、長松寺の庫裡の柱となってその姿を留めています。

話は戻りますが、迷道院と「中村染工場」さんとのお付き合いは、けっこう長いのです。
6年前に書いた記事「高崎の誇る注染工場」がきっかけで、それがご縁で「上州弁手ぬぐい」を染めて頂くことになったのです。
その辺のことは、「上州弁手ぬぐい物語(3)」に書いてありますので、よかったらご覧ください。

2年前、とても素敵なお店にリニューアルされました。


店内には、どれもこれも欲しくなってしまいそうな、洒落た手拭いや、手拭いを使った可愛い手作りグッズが沢山並んでいます。
まだ行ったことがないという方は、ぜひお出かけくださいますようお勧めいたします。


【中村染工場】


【「長松寺車」があった場所】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:03
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2016年05月15日

史跡看板散歩-1 番所跡

今回から、新シリーズの始まりです。

「祝!名所旧跡案内板設置完了」の記事でもご紹介しましたが、新しく高崎の名所旧跡看板が183か所に設置されました。
それを、一つ一つ訪ね歩くシリーズです。

今回は、その第一回として赤坂町「番所跡」を訪ねました。


赤坂町公民館の前に建てられているのですが、道からちょっと凹んだところなので、街道歩きの人は気づいてくれるでしょうか。

隣りの、ねず色の建物は赤坂町の山車倉です。

「萬延元年覺法寺繪圖」(1860)に、番所が描かれています。


元禄十六年(1703)に描かれた「高崎宿倉賀野宿往還絵図」では、番所長松寺側にあります。


ここにあった木戸は「内木戸」と呼ばれたもので、坂を下ったところにはもう一つ、「外木戸」というのがあったようです。

詳しくは、過去記事「続・鎌倉街道探訪記(7)」をご覧ください。

「外木戸」「内木戸」の間に、「観音堂」がありました。


ここには十一面観音が祀られていて「赤坂下町観音」と呼ばれていましたが、後に「恵徳寺」境内に移設されました。


また、「赤坂下町観音」の境内には、弘法大師が腰かけたという「大師石」というのがありました。
この石が、有名な「和田三石」のひとつ「立石」で、これも現在「高崎神社」の境内に移されています。

この近辺、見所はまだまだ沢山あるのですが、きりがないのでここまでにしておきましょう。


【番所跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:03
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2013年11月29日

「JJ & BB Cafe 」 オープン間近!

ここは、オープン前の
「JJBB cafe」。

「ジジババ」かな・・・?

グンブロ「黄昏て“爺放談”」でお馴染みの昭和24歳さんの夢を実現させようと、お仲間と立ち上げたNPO法人「キネヅカ倶楽部」によって、九蔵町の一角にオープンする、中高年のための喫茶・サロン兼ライブハウスです。

その昭和24歳さんの夢とは、「昔の高崎の賑わいをただ懐かしむだけでなく、その町で暮らしてきた中高年者が支え合い、癒やし合い、交流できる場をつくりたい。」というもの。

その夢に賛同したのが、昔取った杵柄(きねづか)で定期的にコンサートを開いていた音楽仲間、「キネヅカ倶楽部」のメンバーです。
昨年の11月にNPO法人を起ち上げることを決意し、今年の8月、みごと認証されました。

その間、事務所を改装して、こんなお洒落なサロンに変身させました。

こちらを向いて座っているのが、理事長の町田貞行さんです。

この日は、オープンを前に訪問して、美味しいコーヒーを頂き、いろいろなお話を聞かせて頂きました。

NPO法人「キネヅカ倶楽部」事業の三本柱は、

 (1)中高年齢者のための喫茶・サロン事業
 (2)音楽・コンサート・文化事業
 (3)買い物サポート・ご用聞き事業


だそうです。

サロンは、高崎の街なか活性化のために、新・旧・現住人の交流を図る場として。
文化事業では、現代版「ここに泉あり」よろしく、昔取った杵柄のおじいちゃんバンドが市内の学校へ「出前JAZZ教室」も目論んでいるとか。
さらには、柳家紫文師匠にご協力いただきながら、定席の「九蔵寄席」の開設も視野に。
そして、買い物難民となった中高年齢者を支えるための、ご用聞き事業など。

歴史ある町、九蔵町が、このサロンを基点に変わってきそうな予感がします。







12月6日(金)
AM11:00、オープンです!



ジジ&ババはもちろん、チチ&ハハ、若いヒコ&ヒメも大歓迎!

これからの「JJBB cafe」の発展に、大いに期待している迷道院高崎からのお知らせでした!


【JJBB cafe】



  


Posted by 迷道院高崎at 17:48
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2013年08月13日

ヤマダ電機の作陶二人展

ヤマダ電機2階で催されている、佐藤烓(けい)・森乃めぐみご両人の陶芸展を、こそっと見に行ってきました。

案内の女性には言いませんでしたが、佐藤烓氏は、不肖迷道院の中学同窓生でありまして。

合唱部で一緒に歌った仲でありまして。

一風変わったところは当時からありましたが、まさか、こんな陶芸の大家になるとは思いもしなかったのでありまして。

よき伴侶を得て、一つ家で同じ陶芸の道を歩んでいるとは、何ともうらやましい。

地球物理学者の竹内均氏の言葉を思い出していました。

「好きなことをする、それで食べていけて、いささか社会の役に立つ、そんな人生が送れたら幸せである。」

佐藤烓氏の作品森乃めぐみさんの作品

【佐藤烓・森乃めぐみ 作陶二人展~花に遊ぶ~】
  ◇会場:ヤマダ電機LABI1高崎2F Art Gallery
  ◇期間:8月18日(日)まで
  ◇時間:10:00~19:00(最終日は17:00まで)
  ◇入場料:無料


  


Posted by 迷道院高崎at 20:41
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2013年06月02日

水村園「小さな歴史展示会」

高崎本町にある安政四年(1857)創業の茶舗・水村園で、「小さな歴史展示会」が開かれます。
不肖、迷道院もほんの少しだけお手伝いをさせて頂きました。


水村園の土蔵にしまわれていた茶箱の中から、昭和初期の領収書等がたくさん発見されました。
初めは捨ててしまおうかと思っていたそうですが、元高崎市史編纂委員の方達のご協力を得ながら調べてみると、当時の町の様子や暮らしの様子、物価などが分かってきました。

水村園には、高崎で最初の水道栓や、江戸後期から明治時代に建てられたとみられる5棟の土蔵(新座敷、着物蔵、味噌蔵、新蔵、前蔵)、展示会場となるレンガ蔵など、見どころが沢山あります。
それと、湯殿はフランス積み、レンガ蔵はイギリス積み、中庭から見える隣家の煉瓦塀がドイツ積みと、一度に3種類の煉瓦の積み方も見られます。

普段は非公開ですから、ぜひ、このチャンスを逃しませんよう!

期間:6月5日(水)~10日(月)
時間:午前10時~午後4時半
料金:無料
場所:茶舗・水村園
     高崎市本町123 ☎027-322-3213

【茶舗・水村園】



  


Posted by 迷道院高崎at 21:58
Comments(6)高崎町なか

2013年05月29日

今日から「群馬の職人展」!

今日から、高崎スズラン「群馬の職人展」が開催されています。

なぜか、新聞にもネット上にも情報が出ていないのですが、興味があるので行ってみました。







エスカレーターを地下2階で降りた正面に、「竹皮編み」の伝統工芸士・前島美江さんがいらっしゃいました。
普段なかなか目の前で見る事が出来ない、制作中のお姿です。
お断りして、写真を撮影させて頂きました。

そのお隣が、「上州弁手ぬぐい」で大変お世話になっている中村染工場さんです。

今日は、伝統工芸士のご主人は工場でお仕事だとかで、会場では美人の奥様と、若きお弟子さんの鎌田さんが対応されていました。

素敵なデザインや可愛いデザインの手ぬぐいが、たくさん並べられています。

今の時期お奨めなのは、夏らしい色とデザインの「あじさい」「あさがお」「金魚」かな?

←そして、最新作がこれ。

今、人気上昇中の「ぐんまちゃん」

私が気に入ったのは、「ぐんまにも うみ ほしい。」というツブヤキ。
この遊び心がいいじゃありませんか。

ぐんまちゃんの花火柄も、ぼかしを入れた藍色がとても素敵です。


中村染工場
さんの奥様お奨め、伊勢崎「ひょうたんアートクラブ」かざりひょうたんです。






カラフルでお洒落なひょうたんの数々、一見の価値ありです。

「ひょうたんアートクラブ」会長・島田雅行さんの作品。

この他、染物、木工品、アクセサリーなど群馬の伝統工芸品の数々が展示・即売されています。
6月4日(火)までです。
高崎スズラン地下2階の大催場まで、ぜひ、足をお運びください!


  


Posted by 迷道院高崎at 19:58
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2013年05月01日

高チャリ いいかも!

4月27日からスタートしたという、「高チャリ」を見に行ってきました。

町なかを歩くと、乗ってる乗ってる!
了解を頂いて、後姿をパチリっ!

若者も、中年の方も、けっこう利用していました。

スズラン前の「高チャリ」ポートです。
これ、なかなかいいシステムなんですよ。  ↓


専用ポート以外の所に駐輪する時のために、前かごには環錠も入っています。

こんなポートが、現在12か所あるそうです。







とかく頭の固さを感じる高崎に於いて、柔軟かつ大胆な素晴らしいシステムだと思います。

ま、これからいろいろ課題も出てくるのでしょうが、多少のトラブルは市民力で乗り越えて、自慢できる高崎システムとして育てていきたいものです。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:52
Comments(4)高崎町なか

2012年10月21日

♪泉に水汲みに来て♪

音楽センターを目的に来るのは、久しぶりのような気がします。

今日は、おもちゃの兵隊さんのようないでたちをした人が、たくさん集まっていました。
マーチングフェスティバルの日だったんですね。

私の目的は、こちら。
「ここに泉あり」の上映会です。

マーチングフェスティバルの盛大な盛り上がりを横目に、じみーな案内ビラが貼られていました。
収容人数二千人の観客席に、百人ほどの方が入ってました。

何度かこの映画を見たはずなのですが、初めて見るようなとても新鮮な感動を覚えました。
モノクロで所々傷が入り、音もブツブツと雑音が混じりますが、それすら子どもの頃に見た映画の懐かしさを、思い出させてくれます。

今はもう見られない高崎の町なかの風景、懐かしい高崎駅の駅舎、アパートのようになっていた連隊の中の風景、楽団が訪れる山村の風景、貧しさの風景、どれもこれもが記憶の中から蘇ってきます。

それにしても、岸恵子さんは美しい。
大滝秀治さんの映画デビューが、この「ここに泉あり」だったと、亡くなってから知りました。
ヴァイオリン弾きの役で出ていたんですね。

この映画を音楽センターで見ることに、意味があるように思います。
もっと頻繁に上映して、高崎市民はもちろん、高崎を訪れた人もひょいと見られるようにしたら、良いのではないでしょうか。
せめて「高崎音楽祭」期間中の、土日だけでも。

今日の次なる目的は、ここ。
「高崎まちなか寄席」です。

元ヤマハ音楽教室が使っていた、小泉ビル





この後も、こんなことを考えて
           いるようです。→

幟と暖簾は下がっていますが、なんか盛り上がりに欠けるなぁと思っていたら、スタッフの方もそれを感じたようです。

すぐに、寄席のお囃子のCDを用意して、流し始めました。
その、気の利き方と行動の速さがいいですねー、気に入りました!

3階に設けられた会場は、お年寄りにはちょっと階段がきつかったようで、もう少し低い階の方が良かったでしょうね。

高座も、その名のとおり高かったですねぇ―。
噺家さんがトンネルでも潜るように高座に上がって、首が金屏風の上に出ちゃってましたからね。
ま、おかげで客の方からは、よく見えてよかったんですが。

古今亭今輔さんの創作落語、よかったです!
演題も「群馬伝説」
そうそう、今輔さんのブログ「上州弁手ぬぐい」を紹介して頂いております。
今日、お礼を申し上げることができました。

師匠の古今亭寿輔さん、なんとも飄々としたいい味の噺家さんです。
私、こういう芸風、好きですねぇ。
噺の締めで、こんなことをおっしゃっていました。
古典落語ってのはね、素晴らしいんですよ。
だけどね、噺家の「噺」ってのは、「口偏に新しい」って書くんですよ。
古いものをただそのまんまやってたんじゃ、ダメなんですよ。若い人に分かってもらって、面白いと思ってもらわなきゃダメ。
そのためには、古いものに新しいものを入れていくんです。
新しいことをやるのは苦しいんです。苦しくってもやらなきゃダメなんです。
「高崎まちなか寄席」も、これからもっと沢山の噺家を呼んで、定席の寄席ができるようにしてって下さい。
それは、お客様の力、特に若い方の力ですよ。」

ここのところ、高崎の町なかが変わってきたように感じています。
というか、変えようという雰囲気、風を感じられるようになってきました。

「ここに泉あり」に終戦直後のバイタリティを感じ、「高崎扇亭」高崎の若いエネルギーを感じました。

今日は、泉に水を汲みに来てよかった。

  


Posted by 迷道院高崎at 20:54
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2012年05月22日

街角ミュージアム 第二弾!

連雀町の空き店舗を利用して、3月に試みた「街角ミュージアム」

その第二弾「チンチン電車」編が、町行く人の目を引いています。

高崎「チンチン電車」写真の第一人者、田部井康修氏が自ら選んで展示しています。

田部井氏撮影による写真は、いくつもの写真集や絵ハガキになっていますが、今回展示中の写真はそれらには掲載されていない未公開写真です。
例えば、「観音山山頂に置かれたチンチン電車」など、見たことないものばかりです。

今月末までの展示だそうですので、ぜひ、ぜひ、お見逃しなきよう!

そうそう、「チンチン電車」の動いている往時の姿を見たい方は、過去記事「紫文ライブ 高崎市民新聞に掲載!」中の動画をご覧ください。
1つ目の動画1分25秒あたりと、3つ目の動画53秒あたりに出てきます。


【街角ミュージアム】



  


Posted by 迷道院高崎at 22:04
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2012年03月28日

街角ミュージアム

商店街が一斉に休日となる水曜日。

人通りもまばらな町なかの一角に、立ち止まって何かに見入る人たちがいます。↓




「懐かしい高崎 昔の絵ハガキ展」と書かれていて、大きく引き伸ばされた絵ハガキが、ウィンドウの内側にずらーっと並べられています。

この絵ハガキ、連雀町にある「さいち民芸店」のご主人が、コツコツと収集していたものなんです。
膨大な枚数の絵ハガキを、すべて見せて頂いたことがあるんですが、今回はその中から20数点を選んだということです。

展示している所は、旧アサヒ商会のビル1階の空き店舗です。
「さやもーる」連雀町通りの角地という一等地ながら、なかなかテナントが入らず、シャッターが下りたままでは町の印象が損なわれてしまうと、商店街の方々が頭をひねったようです。

昨年の10月には、ここで「高崎まちなか寄席」なども開いておりますが、永続性をという考えで今回の「昔の絵ハガキ展」を企画したとのことです。
この話を聞いた時、すごくいい企画だと思いましたし、心底嬉しかったです。

「お金を掛けない、手づくりの展示で恥ずかしい。」と仰りますが、どうしてどうして立派なもんです。

人力車までディスプレイに使っていますし、「高崎のラストサムライ」が写っている絵ハガキもありまして、これなどはぜひご覧頂きたい一枚です。

一応、展示期間は4月14日(土)くらいまでを予定しているようですが、注目度が高ければ、第二弾、第三弾と続けていくそうですので、沢山の方のお越しをお願い申し上げます。
また、「さいち民芸店」さんはすぐ真ん前ですので、寄り込んでみてください。
面白い話が、沢山聞けると思いますよ。

この「街角ミュージアム」が発展して、町歩きの人たちの「お休み処」として使われるようになったらいいな、と思います。
そして、高崎のあちこちに、このような「街角ミュージアム」ができることを、心から願っている迷道院高崎です。


【街角ミュージアム】


  


Posted by 迷道院高崎at 17:33
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2012年01月10日

藤五のこと

過去記事「とある商店と、旧貿易会館」に、偶然ご来訪頂いたというJKさんからコメントを頂きました。

はじめまして。
藤五について調べていて、ここに辿り着きました。
少々お知恵をお貸し下さい。
藤五デパートは昭和39年に開業しましたが、 それ以前も様々な商品を扱うお店として営業していたと聞きます。
そのお店がどんな形態で、いつから始まり、どのへんにあったか、ご存知ないでしょうか?
倒産してかなりの歳月が流れており、なかなか調べることができません。覚えていることがおありでしたら、どうぞお教え下さい。」


「藤五デパート」の前身については、他のことを調べている時にサラッと通過読みした覚えがあるのですが、確かなことが分からず、JKさんには少しお時間を頂くことに致しました。

図書館で調べると、いろいろな本に「藤五」や創立者の「野口貞一」氏のことが出てくるのですが、どれも概略で、JKさんのご要望を満足させる記述ではありませんでした。

そんな時思い出したのが、連雀町の語り部・雀の子さんのことです。
メールを差し上げると、早速素晴らしい情報が返ってきました。
昭和三十五年(1960)発行の、吉野五郎氏著「商人物語」に、野口貞一氏と「藤五」のことが詳しく書いてある、とのことでした。
繊維問屋・国光(株)の創業者、高崎商工会議所副会頭の時に、(株)「藤五」の立ち上げに関わった。

では、その中に書かれている野口貞一氏と「藤五」について、かいつまんでご紹介します。

野口貞一は明治四十五年(1912)四月七日、野口定次郎・春子の次男として、東京花川戸に誕生。
八歳の時に父と母を続けて亡くし、父の出身地甘楽郡新屋村の伯父(父の実兄)・和三郎に預けられることととなります。
しかしその伯父も、田畑・土地の一切を知人の借金のかたに取られ、赤貧洗うが如しという悲惨な生活に陥り、毎日のヤケ酒がたたってついに命を落としてしまいます。

小学6年生にして天涯の孤児となった貞一は、隣町福島町「塚本呉服店」に店員として住み込むことになりました。
これが、後に独立して「藤五」を創設する第一歩となった訳です。
幼い頃からの苦労と勉強熱心さが、貞一「塚本呉服店」第一の働き手に成長させました。

昭和七年(1932)「塚本呉服店」は、高崎鞘町に出張所を出すことになり、二十歳の貞一が責任者として采配を振るいましたが、運転資金が回らず、8年程で内整理のやむなきに至ってしまいます。
しかし、この時の商店経営や従業員を使うという経験は、貞一に大きな力をつけさせたようです。

太平洋戦争が始まると、貞一「塚本呉服店」から横須賀の海軍工廠に徴用されます。
終戦になって、奥さんの実家のある前橋に住んでいましたが、高崎に戻って昭和二十一年(1946)に松本という人と服地店を協同経営します。
屋号は、松本「松」と、野口「野」をとって「松野屋」と名付けました。

「松野屋」は服地店といいつつも、戦後の物資不足のために、食料品、菓子、八百屋となんでも商ったようです。
貞一は5年間この「松野屋」で手腕を振るいますがこれに満足せず、独立するのに適当な場所を物色していたところ、卸業・正木屋商店高橋社長の好意で、中紺屋町の角に店舗を借りることができました。

繊維小売店「藤五」の誕生です。
昭和二十六年(1951)[昭和二十五年説もある。]貞一四十歳の時です。
因みに、「藤五」という屋号は、野口家の先祖が東京花川戸で回漕問屋を営んでおり、藤屋五郎次という名から「藤五」という屋号を使っていたので、これを踏襲したのだそうです。

売場面積15坪弱の「藤五」でしたが、貞一の才覚で、開業第1期7ヵ月間で6千万円の売り上げ、4年後には年間1億5千万円を記録しています。
高崎の同業小売店100店を追い抜き、堂々第一位の売り上げとなった「藤五」は、売場面積の限界に達したため、昭和三十二年(1957)鞘町「有賀百貨店」を買収して移転し、さらに売り上げを伸ばしていきます。

そして昭和三十九年(1964)には、旧高崎警察署のあった連雀町の大敷地に、本格的な百貨店「藤五デパート」を誕生させます。

「藤五デパート」は地下1階、地上5階で屋上には遊園地を設けて集客力を増し、年商100億円を突破する勢いでした。

その後、昭和四十四年(1969)「伊勢丹」と資本提携し、昭和四十八年(1973)には「藤五伊勢丹」と改称することになります。
昭和五十四年(1979)貞一が六十七歳で他界した後、昭和五十七年(1982)「高崎伊勢丹」となって「藤五」の名が消え、昭和六十年(1985)にはついに店は閉じられてしまいました。

ここに、ある方から頂いた一枚の風呂敷があります。

5本の藤の房が描かれ、「高崎 藤五」と染め抜きがあります。

昭和の高崎を駆け抜けた立志伝中の人物、野口貞一氏を偲び、私の宝物にしたいと思います。

野口貞一氏のことを、もっと知りたいと思われた方は、ぜひ、図書館で吉野五郎氏著「商人物語」をお読みください。
「約束・励行」を経営信条とした、野口貞一氏の人となりがよく分かる一冊です。
また、かつての高崎商人の心意気も感じられると思います。

最後になりましたが、「藤五」野口貞一氏の素晴らしい歴史を調べるきっかけを与えて下さったJKさん、そして雀の子さんに、心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。

【関連ブログ】
 ◇「“藤五”高崎百貨店百花繚乱にて候・・・・」(黄昏て“爺放談”)



  


Posted by 迷道院高崎at 22:15
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2011年11月03日

風船爆弾と高崎高等女学校(2)

シュワちゃんさんのコメントがきっかけで、「風船爆弾」のことをもう少し知りたくなりました。

「風船爆弾」という言葉は、ずいぶん前に聞いていました。
アメリカ「原子爆弾」というとてつもない兵器を開発している時に、日本では「紙風船」に爆弾をくくりつけて風任せとは・・・、なんて思ってました。

何となく、風船に花の種やメッセージを結びつけて飛ばし、それが遠く離れた地に落ちて・・・などという、そんな絵柄とも重なって。

「風船爆弾」については、無差別攻撃兵器として戦犯問題が起こることを恐れ、終戦時、陸軍省の証拠隠滅命令によってすべて処分され、関係者もずっと口を閉ざしてきたということです。

そんなことで、「風船爆弾」の実態が明らかにされてきたのは、昭和も終わりに近い頃だったとか。

「風船爆弾」を使ったのは日本が初めてではなく、1849年(嘉永二年)のイタリア独立戦争において、オーストリア軍がベニス攻撃に使っています。
日本では、満州事変後の昭和八年(1933)頃、国境を越えて相手側に宣伝ビラを撒くことを目的とした小気球が開発されていました。
この開発をしたのが、旧陸軍第九技術研究所(通称「登戸研究所」)第一課第一班で、後に「風船爆弾」を開発することとなる部署です。

「風船爆弾」アメリカ本土を目指して発射されたのは、敗戦色の濃くなった昭和十九年(1944)、神風特別攻撃隊が初出撃した直後の11月3日でした。
このことから、「風船爆弾」はいかにも負け戦のやぶれかぶれで行われたように思っていたのですが、その開発を始めたのは日米開戦から10カ月後、まだ日本側に勢いが残っていた昭和十七年(1942)の9月頃だったようです。

同年12月に、千葉県一宮海岸から直径5mの気球を試験的に飛ばし、飛行時間5時間を計測しています。
当時の上空の風速が時速100kmだったので、飛行距離は500kmと推測していますが、アメリカまでは遥か7,000km以上あります。
翌年春の実験により、気球の直径を6mにすれば1,000kmの飛行は可能として、潜水艦でアメリカ西海岸の沖数百kmまで近づき、そこから発射する案も出ましたが、いよいよ「玉砕」の語も聞かれ始める戦況となり、潜水艦を使う余裕は既にありませんでした。

気球の高度維持装置の発明と、直径10mの気球採用による実用試験の結果、日本本土からアメリカ本土まで到達できる見込みがついたのは、開発開始から1年以上も経過した昭和十八年(1943)の末でした。

そして、決戦兵器として2万発の「風船爆弾」を製作することが決まった時は、すでに昭和十九年(1944)の夏になっていました。

そこから、わずか数カ月で1万発の「風船爆弾」を完成させたのです。
全国の手漉き和紙の産地では民間用の生産をすべて中止し、「風船爆弾」用和紙の大量生産を始めました。
気球1個当たり、使用する和紙は約600枚だというのです。

また、気球を貼り合わせるためのコンニャク糊製造のため、全国の店頭からコンニャクが姿を消したとも言われます。

そして全国でおびただしい数の勤労動員が始まり、女子挺身隊、学徒隊の乙女達が昼夜二交代12時間労働の突貫作業で、1万発の気球が造られていくのです。

送風機で空気を入れる満球テストに合格すると、彼女たちは「万歳」を叫び、逆に破裂したりすると口惜しがって泣き崩れたそうです。

完成した「風船爆弾」は昭和十九年(1944)11月3日、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の発射基地から、初めてアメリカ本土へ向けて放たれました。

翌年の春までに放球した「風船爆弾」は9,300個、そのうち約1,000個がアメリカ大陸に到着したと推計されています。

しかしその到着状況を日本軍に知られることを恐れたアメリカが、徹底的な報道管制を布いたため、「風船爆弾」の成果はよく分かっていないようです。
唯一報道されたアメリカ側の人的被害は、報道管制のため「風船爆弾」のことを知らずに不発弾に触れた、ピクニック中の民間人6人(女性1人と子供5人)の爆死です。
昭和二十年(1945)5月5日とされていますので、偏西風が弱まって「風船爆弾」を放球できなくなってから2カ月も経った時のことです。
そしてその3カ月後、日本広島には、原爆が投下されました。

いろいろなことを考えさせられる、「風船爆弾」でした。

                     ◇Wikipedia「風船爆弾」
                     ◇「高崎女子高校同窓会報」より

(参考図書:林えいだい氏著「写真記録 風船爆弾 乙女たちの青春」
元第九陸軍技術研究所少佐・武田照彦氏著「ふ号兵器の開発」)


  


Posted by 迷道院高崎at 17:15
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