2009年12月18日

高崎城「乾櫓」顛末記

「飯塚の追分」から、旧三国街道を辿ろうと思いつつ、「続橋」から「幸宮神社」、そして「切干塚(首塚)」へと、随分寄り道してしまいました。
寄り道ついでに、今日はこんなお話を。

改修される前の「首塚」の写真がないかと、当時区長さんとして改修の中心になっておられた梅山太平(たへい)さんをお訪ねしました。
残念ながら、太平さんは病の床に伏しておられ、お会いすることはできませんでしたが、若奥様から一冊の本を頂戴しました。
太平氏が編集委員長となって、10年余りかけて編纂した下小鳥町「町内誌」です。

高崎の歴史好きな方なら、梅山太平氏と聞くと、すぐ高崎城「乾櫓(いぬいやぐら)」を思い出すのではないでしょうか。
あの「乾櫓」梅山太平氏の家に残っていたものだということは、多くの方がご存知だと思います。
このお話は、「民家に残る高崎城」でも、ご紹介しました。

頂戴した「町内誌」の中には、「高崎城乾櫓の顛末」と題して、他の文献にはない興味深い話が出てきます。

明治初年に「乾櫓」の払い下げを受けたのは、当時、高崎領西郷の肝煎名主(きもいりなぬし)・梅山太平とあります。
今いらっしゃる梅山太平氏は大正十二年(1923)生まれですから、その先代ということでしょうか。

実は、梅山家には「乾櫓」だけではなく、「巽櫓(たつみやぐら)」も払い下げられていたようです。
本家には「巽櫓」、分家には「乾櫓」が、それぞれ納屋として使われていたとありますが、「巽櫓」の方は解体されてしまったのでしょうか。
「乾櫓」のあった梅山家は、元は「首塚」の前の北部環状線上にありました。

梅山家の納屋が「乾櫓」と認知されたのは、昭和二十六年(1951)のことですが、昭和四十九年(1974)に群馬県指定重要文化財となります。
ただ、これが梅山家には負担になったのかも知れません。
「乾櫓」の老朽化も進んでおり、梅山家宅が北部環状線の予定地にかかったこともあって、高崎市に寄付することを決めたようです。

寄付を受けた高崎市は、どこへ移築・復元しようか検討をします。

候補に挙がったのは、
専売高松工場跡地(現・高松中付近)
北門テニスコート脇(現・姉妹都市公園付近)
             (※陸軍歩兵第十五連隊北門)

旧・高崎税務署裏(現・市庁舎東南付近)
などでしたが、
最終的に音楽センター脇の現在地になったということです。

昭和五十二年(1979)の落成披露には、高崎藩主大河内家の9代当主輝聴(てるとし)の孫、大河内輝信氏も東京から招かれ出席したそうです。

明治四年(1871)の廃藩置県から、実に108年目のことでした。


さて、寄り道が過ぎました。
次回は旧三国街道を先に進むことにいたしましょう。

  


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2010年04月11日

日本一しょうゆ

3月29日のことです。
「大日如来」のあった場所を取材後、前を通りかかって急に寄ってみたくなったのがこのお店です。

「日本一しょうゆ直売」の幟がはためく、「岡醤油醸造」さんです。

旧中山道赤坂を下りきった、常磐町にあります。

子どもの頃通学していた中央小学校の近くなので、何度も前を通っていたはずなのですが、中へ入ったことは一度もありませんでした。

年季の入った引き戸を開けて、初めて中に入ってみました。

紺の前掛けをしたご高齢の店主か、少し腰の曲がった女将が出てくるものと、勝手に思い込んでいました。

ところが、ところが!

「いらっしゃいませ!」と明るい声で奥から出てきたのは、眩しいほど若くて美しい女性でした。

「あ、ど、どうも・・・、素敵なお店ですね。ちょっと見させてください。」

いろいろ、お話ししたはずなんですが、思い出せません。
とにかく、写真を撮らせて頂いて・・・。


見ているだけで懐かしい気分になる店内です。

オリジナルグッズコーナーに、昔の写真が飾ってありました。

「あ、雪が降ってきました!」という声に外を見ると、ヒラヒラと白いものが舞っています。
いつの間に買ったのか、「唐辛子しょうゆ」と、ここの醤油を使った「田舎あられ」の入った袋を手に提げ、脇には頂いた「日めくりカレンダー」を挟んで外に出ました。

外観の写真を撮っていると、先程の女性が出てきてくれました。
「この文字を書いたのは、近くの看板屋さんなんですよ。簡単に下書きして、筆だけで書いちゃうんです。温泉地の看板も書いてる方なんです。」

「は~。」と間抜けな返事をして、写真を撮ろうとすると、風にはためく幟を抑えて下さいました。
雪混じりの風は冷たかったですが、心はぽっと温まる「岡醤油醸造」の建物と、素敵な女性に出会えた日なのでした。

ただ、帰ってきて気が付いたら、何の取材もしていません。
詳しくは、「岡醤油醸造」さんのHPでどうぞ・・・。

【岡醤油醸造 高崎店】


  


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2010年04月16日

和風図書館

常磐町「岡醤油醸造」の斜向かいにあります。

普通の民家に見えるこの家の母屋には1万4千冊の図書があり、一般の人が自由に閲覧・貸し出しをしてもらえます。

その他、別棟二棟の土蔵内には3万冊を超える蔵書があります。

右の写真の煉瓦塀を見れば、
「あぁ、あそこか。」と分かる方も多いでしょう。

山田勝次郎とく夫妻が自宅に開設した、財団法人「山田文庫」です。

私はずっと、資産家の所有する図書を一般開放したのであろう位に思っていましたが、それはとんだ思い違いでした。

昭和四十九年(1974)発行の、「山田文庫」設立趣意書を見ると、県下学校の図書予算が僅かなために、児童生徒が充分な読書が出来ないことを憂いて、資金協力することを目的としています。
以来、平成十七年(2005)までの31年間で、250校に5千万円を超える助成をしたといいますから、凄いことです。

その資金として、当初は妻・とくさん名義の土地1300万円と預金50万円を基本財産として発足したそうです。
夫の勝次郎氏は「山田文庫」設立の8年後に逝去しますが、その遺言で、社長を務めた高崎倉庫(株)の持ち株と、常磐町の土地建物、合わせて1億100万円を「山田文庫」に寄付しました。
更に平成二年、とくさんが逝去した時にもその遺言で、飯塚町の土地と持ち株、合わせて1億2000万円を寄付しています。
また、高崎倉庫(株)への土地賃貸料まで、「山田文庫」に充てているのです。

ということで、当初は学校への図書購入助成事業だった訳で、ここが図書館として一般開放されたのは平成三年(1991)と、意外にも最近のことなのです。
その図書は、高崎倉庫(株)で社員向けに貸し出していた、勝次郎氏所蔵の本1000冊以上を移設したのだそうです。

「山田文庫」の存在をご存知の方でも、中まで入った方は案外少ないのではないでしょうか。
そういう私も、初めて中へ入りました。

入り口から、というよりも庭から居間へという感じで中に入ると、これまた図書館というよりも事務所のような感じです。

大きな閲覧用のテーブルが置いてあって、ボランティアの女性がお茶まで入れて下さいます。

常連さんが来ると話が弾んで、サロンのようになるといいます。
こんな図書館があってもいいですよね。

でも、意外と本が少ないんだなと思っていたら、「奥にもありますからどうぞ。」と、案内して下さいました。
細い廊下を進むと、意外と奥が深く、迷路のようになった3つの部屋に、所狭しと本が並んでいました。

プロレタリア研究者であった勝次郎氏らしい図書も並んでいますし、鞍馬天狗の大ファンだったという勝次郎氏らしい本もあります。

蔵書に無くても、リクエストをすれば予算内で購入もして頂けるそうです。

まだお話ししたいことがあるのですが、長くなってしまいました。
次回、続編としてお話したいと思います。

(参考図書:「山田文庫三十年の歩み」)


【山田文庫】


  


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2010年04月18日

続・和風図書館

常磐町和風図書館「山田文庫」玄関左脇に、金網フェンスで遮られてはいますが、瀟洒な潜り門があります。

この中は日本庭園になっていて、その奥にこれまた瀟洒な日本家屋が建っています。

これは茶室として、明治十六年(1883)に長野県から移築したと伝えられています。
もとは江戸時代の建物なのでしょう。

普段は雨戸を建て回してあるのですが、ちょうどこの茶室を利用したいという方が打合せに見えていて、関恒雄館長(事務局長)が雨戸を開けて見学をさせて下さいました。

茶室の床面積は、約13坪。
その奥に見える漆喰壁の土蔵は二階建てで、延べ床面積約14坪。
その奥にもう一棟二階建ての土蔵があって、こちらは約7坪です。
右端に見えるのが母屋で、二階建ての土蔵造りに後で平屋を増築しています。(延べ床面積約55坪)

外廊下をぐるっと回った一番端に、雪隠があります。
芸術的な「あさがお」「きんかくし」
まさに、「トイレの神様」の神殿です。

中から庭園を眺めると、こんな風景になってます!

欄間の組子障子、どうです!

敢えて「硝子」という文字を使いたいガラスは、切子細工のように模様が入っています。

←部屋の中です。

茶の湯のと、水屋です。

私の写真技術(カメラのせいだと思いますが・・・)では、上手く伝えられないのが残念です。

ところで「山田文庫」の象徴といえば、何といっても立派な「煉瓦塀」です。
次回は、この「煉瓦塀」にまつわるお話をしたいと思います。

(参考図書:「山田文庫三十年の歩み」)


【山田文庫】


  


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2010年04月21日

和風図書館と茂木銀行

常磐町「山田文庫」を象徴する「煉瓦塀」を中から見ると、こんな景色です。

塀の向こうに見える土蔵と煉瓦煙突は、「岡醤油醸造」のものです。

この景色には、電線が地中化していて欲しいところです。


植え込みの右にあるのが、本来の出入り口でした。

高さ3.5m、瓦屋根も付いた実に重厚な「煉瓦塀」ですが、和風のこの家にはちょっと不似合いにも思えます。

しかも、敷地全体を囲んでいる訳でもなく、中途半端な長さです。

これ、もとは九蔵町にあった「茂木銀行」の塀を、移築したものだそうです。
移築時期は定かでありませんが、昭和の初めだったのではないかと推定されています。
その塀がなぜここに移築されたかという訳は、長い話になりそうです。

「山田文庫」創設者の山田勝次郎氏は、旧姓を蝋山(ろうやま)と言いますが、結婚を機に山田姓となります。
妻のとくさんは、高崎倉庫(株)社長・山田昌吉氏の長女でした。
その昌吉氏は、高崎産業界において様々な中心的活動をした人物です。
グンブロガー捨蚕(すてご)さんの「上信電氣鐵道」や、拙ブログ「さすらいの春靄館」にも登場しています。
そして、前述の「茂木銀行」支店長を務めていたこともあって、「煉瓦塀」を自宅に移築することになったようです。

明治三十三年(1900)発行の「高崎市街商家案内寿語録(すごろく)」に、「合名會社茂木銀行高嵜(たかさき)支店」のコマ挿絵があります。

松の木の向こうに描かれているのが、「山田文庫」に移設したという「煉瓦塀」じゃないかと思われるのですが、どうなんでしょう。

ところでこの「茂木銀行」「横浜銀行」の前身だということをご存知の方は、少ないかも知れません。
そもそも、埼玉県にすら支店の無い「横浜銀行」が、なぜ遠い高崎に?という話です。

明治五年(1872)に制定された「国立銀行条例」に基づき、第一国立銀行(現みずほ銀行)に次いで、明治七年(1874)横浜の豪商たちが中心になって第二国立銀行が設立されます。
そのメンバーの中に、高崎出身の生糸貿易商・茂木惣兵衛(そうべえ)がいました。

高崎・九蔵町「第二国立銀行高崎支店」が開設されたのは、明治八年(1875)です。
群馬県で最初の銀行となる訳ですから、実に素早い動きです。
当時、生糸といえば上州、その上州の大商都である高崎と貿易港の横浜を結ばんとする、惣兵衛の力が大きく働いたことは、間違いありません。
本店を群馬県に置いた最初の銀行は、館林の第四十国立銀行。

惣兵衛らは、明治十一年(1878)横浜にもうひとつ銀行を設立します。
74番目だったので第七十四国立銀行といいますが、明治十七年(1884)には、やはり高崎九蔵町に支店を開設します。

さらに惣兵衛は、明治二十八年(1895)、自前ブランドの「茂木銀行」横浜に設立し、第七十四国立銀行をも統合します。
これにより高崎の支店は、「茂木銀行高崎支店」となる訳です。

さらに時を経て、大正後期の第一次世界大戦による不況で打撃を受けた「茂木銀行」は、再び第七十四国立銀行へ、さらに横浜興信銀行となって第二国立銀行とも合併し、現在の横浜銀行へと変遷していきます。
おそらく、この変遷の過程で旧・茂木銀行「煉瓦塀」が、常磐町山田昌吉氏邸宅に移築されたものと思われます。

右の写真は、昭和十五年(1940)頃の九蔵町交差点付近を、東から見た風景だそうです。

中央の時計台が高崎商工会議所、その右は第二国立銀行高崎支店、左が旧・茂木銀行(横浜興信銀行)高崎支店です。


残っていれば、↑こんな建物群が、
↓この一角にあったんだと想像してみて下さい。

(参考図書:「山田文庫三十年の歩み」「高崎市史」「高崎の産業と経済の歴史」)


【「茂木銀行高崎支店」があった所】


  


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2010年04月23日

煉瓦つながり

常磐町「山田文庫」の角を北に曲がって、歌川町に入った取っ付きに、趣きのある「煉瓦倉庫」があります。

「たかさき都市景観賞」にもなっている、美峰酒類(株)「煉瓦倉庫」です。

昭和五十四年(1979)発行の「高崎の散歩道 第十集」には、右のような写真が掲載され、「・・・土蔵造りの美峰酒類株式会社がある。」と記述されています。

右端に黒っぽく写っているのが、「煉瓦倉庫」ではないかと思いますが、その並びにあったはずの土蔵造りの店は、取り壊されてしまったようで、今はありません。

この店は、「高崎の散歩道 第十集」の表紙にも描かれています。

暖簾の文字を見ると、「?山」と書かれていますが、おそらく「蝋山」(ろうやま)と書かれているのです。
ここは、明治二十六年(1893)蝋山政右衛門、政次郎父子が新潟から移って来て、「蝋山酒造」として酒造りを始めた所なのです。

前回の記事をご覧になった方は、「山田文庫」の創設者・山田勝次郎氏の旧姓が、「蝋山」であったことをご記憶でしょうか。

「蝋山酒造」社長・政次郎氏の次男が、勝次郎氏です。
つまり勝次郎氏は、「煉瓦倉庫」のある蝋山家から、「煉瓦塀」のある山田家へ婿入りしたということになります。

「蝋山酒造」は、昭和十六年(1941)戦局の進展による経済統制で原料不足となり、サツマイモを原料とする焼酎の製造に転換します。
そして、昭和二十三年(1948)社名も「美峰酒類」と改めて、現在に至っています。

土蔵造りの店がいつ頃取り壊されたのか知りたくなって、美峰酒類さんをお訪ねしてみましたが、「古いことは分からないんです。」というお話でした。
せめて社史でもあればと思ったのですが、ちょっぴり残念でした。

近くには、こんな素敵な家とお米屋さんが残っていました。


(参考図書:「高崎の散歩道 第十集」「高崎の明治百年史」)


【美峰酒類(旧・蝋山酒造) 煉瓦倉庫】


  


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2010年04月25日

「神武坂」界隈

「神武(じんむ)坂」という坂だそうです。

どこと言えばいいのでしょう。
赤坂町長松寺の裏と言えば見当がつくでしょうか。
相生町「八十二銀行」脇の細い道を、西に入って真っ直ぐ来ると、この坂を下ることになります。

上の写真を拡大すると、道の左側に赤い鳥居がちょこっと見えます。

「得利(とくり)稲荷」と言います。

「神武坂」「得利稲荷」、どちらも随分ご利益がありそうな名前で、今流行りの「パワースポット」に名乗りを上げてもいい位です。

で、「神武坂」ですが、かつて、この辺りに「神武神社」というのがあったので、そう呼ばれていたようです。

明治三十年(1897)の、赤坂町から上和田町付近の地図です。

中央の、「遙拝所」と書かれた所が、「神武神社」のあった場所です。

点線で表した参道が、川を渡って「神武坂」に至っているのが分かります。

地図と同じ年に発行された「高崎繁昌記」に、「遙拝所」の風景が描かれた挿絵があります。
正しくは、「神武天皇遙拝所」というのですね。

余談ですが、遠くに煙をたなびかせる煙突が描かれていますが、文化六年(1809)創業の鋳物工場「鍋屋」(現・小島鉄工所)のものと思われます。

話を戻しますと、「神武天皇」はご存知、日本の初代天皇です。
即位されたのが紀元前660年2月11日とされていて、明治六年(1873)にこの日を「紀元節」として、祝日に定めます。
戦後、GHQにより廃止されますが、昭和四十二年(1967)に「建国記念日」として復活したことは、ご存知の通りです。

明治六年の「紀元節」当日は、全国各地に於いて、橿原の「神武天皇御陵」に向かっての遙拝式が取り行われたということです。
それに先立って、各地では遙拝に適する地をを選んで祭壇を設ける必要があった訳ですが、高崎では上和田の高台にあるこの地を、「遙拝所」用地として選択したのです。
ここには、もともと「禊教(みそぎきょう)」という民間の宗教施設があったのですが、その土地を譲り受けて社殿を作るなど整備したのだそうです。

明治・大正頃撮影されたという、「神武遙拝所」の様子が分かる写真が残っています。

「得利稲荷」の脇を通って、川に架かったこの「畝傍(うねび)橋」を渡り、石段を登ると「神武神社」の境内でした。

今は、川も、橋も残っていませんが、
石段だけは残っていました。→

←石段側から見ると、こんな感じです。

正面の赤い屋根の家に向って、橋が架けられていたのでしょう。

境内の様子が分かる写真も残されています。
鳥居の向こうが社務所で、左端の建物が社殿です。

境内には桜の大樹が多く、花の季節になると篝火(かがりび)を焚いて、夜桜を楽しんだといいます。

終戦の年、昭和二十年(1945)に、「遙拝所」とともに「神武神社」も解体されました。

残念ながら、今は住宅が建ち並び、神社の面影を残すものは全く残っていません。

どなたか、ご存知の方がいないかと思い、ちょうどお庭で片づけごとをされていた奥様に、声を掛けさせて頂きました。

「昔、この辺に神武遙拝所というのがあったようですが、ご存知ですか?」
と、お尋ねすると、
「あ、よく知ってる人がいますよ、こっち、こっち。」
と、先に立って案内をして下さいました。
着いた先は、酒井さんという区長をされている方のお宅でした。

さて、ここから、今は無き「神武遙拝所」と、その周辺のことが明らかになってくるのですが、それは、次回のお楽しみということに。

(参考図書:「高崎の散歩道 第十集」「解説 高崎繁昌記」)


【神武坂】

【神武神社の石段】


  


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2010年04月28日

続・「神武坂」界隈

なんと!酒井区長さんのお宅は、「神武神社」の社務所だったのです。
「あそこに鳥居があって、あそこに社殿があって・・・」
と、実によくご記憶でした。

お話を聞いていると、それまで見えなかった面影が、見えるような気がしてくるのが不思議です。


「神武遙拝所」周辺のことも、いろいろ教えて頂きました。
「神武三階湯」「上和田鉱泉」「鯉池(こいけ)」など、「高崎の散歩道」にその名前が出てくるのですが、場所が分かりませんでした。
それらも、酒井区長さんのおかげで、場所を特定することができました。

遙拝を済ませた後、湯に入って一杯飲めるという、「神武三階湯」です。
ここが、その跡地です。↓


もうひとつの湯が、明治三十年(1897)発行の「高崎繁昌記」にも記されている「上和田鑛泉」です。
「奥の湯」とも呼ばれていたようで、ここが、その跡地です。

「神武遙拝所」参道に架かっていた「畝傍(うねび)橋」の下にあったのが、「鯉池(こいけ)」という川魚料理屋でした。

当時、ここは湿地のような堀で、鯉の泳ぐその上に建つ料亭ですから、さぞかし風情があったに違いありません。

「神武坂」に戻って改めて辺りを見回すと、ちょうど坂の分去りの角に、こんな素敵な佇まいの家がありました。

もう一度、酒井区長さんのお宅に押し掛けて確認したところ、この家が「鯉池」さんの建物に間違いないことが分かりました。
面影を残してくれていて、とても嬉しい気持ちになりました。

こう見てくると、往時の「神武坂」界隈は、一大リゾート地だったことが分かります。
ご利益のある神社・仏閣、美味い料理と日帰り温泉、季節の花と水の流れ、そして遥か彼方を見晴らす眺望。
今、賑わっている観光地の要素が、すべて揃っていた訳です。


  


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2010年05月07日

いいねー!見せる山車蔵!

5月5日の上毛新聞「オピニオン21」に、「上州の山車と屋台」と題して、桐生市奈良彰一さんの一文が掲載されていました。
その中に、高崎市新(あら)町「山車(だし)蔵」が紹介されています。


←これが、新(あら)町「山車蔵」です。
素敵じゃありませんか!

この「山車蔵」は、群馬県地域コミュニティ支援事業として、平成十九年(2007)に完成したものです。

「山車蔵」の右に見える、これまた素敵な形のお社は、新(あら)町の氏神「諏訪神社」です。
武田氏が信州諏訪から48個の 宝石を勧請して、上州各地に祀った神社の一つで、今も、その宝石は御神体として安置されているそうです。

「山車蔵」の中には、大正六年(1917)に造られた山車が、格納されています。

山車には各町内毎に異なる人形が飾られていますが、新(あら)町の山車は「健御名方冨命」(たけみなかた・とみのみこと)です。

この方は、大国主命の子供で、出雲の国から信州へ行って、「諏訪神社」を開いた神様です。
「山車蔵」と、隣の「諏訪神社」は、結びつきがあった訳ですね。

山車は流石に長年の傷みが目立つようになったので、平成十八年(2006)から4年掛かりで修繕が行われました。

その姿を写真に収めようとしたのですが、ガラス面の反射でうまく撮れませんでした。

幸い、新(あら)町在住のグンブロガー・元気が一番!さんが、「あら町の山車の内覧会」という記事で、修繕後の写真を公開してらっしゃいましたので、そちらでご覧ください。

いつも嘆き節ばかりの迷道院なのですが、ここのところ、何となく町の様子が変わってきたような気がしています。
それも、いい方向に。
城下町高崎らしい店づくりや、歴史を紹介する案内板を、ちらほらと見かけるようになってきました。
市民の意識が、少しづつ、少しづつ、古き良き高崎を意識し始めたのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、これほど嬉しいことはありません。

新(あら)町の素敵な「山車蔵」を見て、ちょっぴり嬉しくなった一日でした。

【新(あら)町の山車蔵】


  


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2010年05月16日

町の元標、道の元標

高崎の町なかへよく行く人は、どこの交差点かすぐ分かるのでしょうね。
注目して欲しいのは、写真右下の石柱です。
写真をクリックすると、何が写っているのか分かります。

歩道側からは文字が見えませんので、もしかすると、初めて見た方もいるんじゃないでしょうか。

ここは、連雀町交差点です。
「雀が連なる」と書くだけあって、いつも沢山の人が行き交うところです。
アングルに人が入らないタイミングを待つのに、一苦労しました。

井伊直政高崎の城下町を整備するにあたり、箕輪城下の住人や町名まで移設したことは、よく知られています。

箕輪城下には、現在高崎の町なかに使われているのと同じ旧町名がありました。

連雀町もその一つで、城の大手前から一直線に伸びていることが分かります。

高崎城下の町割りをする時も、まず大手門から真っすぐ伸びる連雀町の位置を決め、そこから南北に地割をしたのだそうです。 →

ところで、「連雀」とは「連尺」とも書いて、荷物を背負うのに使う「背負子(しょいこ)」のことだそうです。
その「連尺」を背負った各地の行商人が城下町に集まって、物を売っていた所が「連尺町」だということです。
集まって来る沢山の行商人の様を、沢山の雀と見て「連雀」の字を充てたのではないでしょうか。

高崎城大手門前から連雀町をまっすぐ進んで中山道に交わった所が、現在の連雀町交差点です。
ここに、冒頭の「高崎市道路元標」が建てられている訳ですが、連雀町「町の元標」とあれば、「道の元標」をここに選んだのも理解できます。

「道路元標」とは、明治六年(1873)に政府が各府県の道程(みちのり)を計測するため、道路の起点・終点となる場所に設けたものです。
ただ、現行の道路法による起点・終点は、必ずしも「道路元標」に拠らないため、撤去されてしまったものも多いそうです。
古いものに執着しない高崎市に於いて、「道路元標」が残っているのは奇跡かも知れません。

実は、大正六年(1917)頃に撮影された「高崎市道路元標」の写真が残っています。

写っている店舗は、連雀町交差点の東南角にあった、「なべや支店」という、牛肉屋と西洋料理店を兼ねた店です。

二階の天井にも届こうという立派な「道路元標」で、今残っていたら、さぞかし名物になっていたことでしょう。

「なべや支店」は、昭和三年(1928)、蕎麦店「甲子(きのえね)食堂」に建物を譲ります。

右の写真は、昭和十年(1935)頃に撮られたものですが、既に立派な「道路元標」は姿を消しています。
この間に、小さなものに置き換えられたと思われます。

現在の「道路元標」は、最近作られたもののようですから、三代目なのでしょうか。
よく残して頂いたと、拍手したい気持ちではありますが・・・。

(参考図書:「高崎の散歩道 第十二集下」「たかさき町知るべ」「高崎百年」)


【高崎市道路元標】


  


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2010年06月13日

号外!「みずむら やよいさん 藍染め展」

6月4日付のTAKATAIに、高崎の染色家 “みずむら やよい”さんの藍染め展が、6月10日から15日まで、本町の茶舗・水村園で開かれるという記事が掲載されていました。

お茶屋さんとしての水村園さんは以前から知っていたのですが、藍染めをされる方がいらっしゃるとは知りませんでした。

かねてから、高崎の町名を活かした中心市街地活性化ということを考えていました。
せっかく紺屋町という名前の町があるのに、染物屋さんが無いのを残念に思っていたのですが、紺屋町ならぬ本町にあることを知り、嬉しく思いました。

“みずむら やよい”さんと、そんなお話が出来るといいなと思いながら、藍染め展に行ってみました。

店構えはとてもモダンですが、水村園さんの歴史は古く、創業は安政四年(1857)です。
高崎市のHPにも、国登録有形文化財「小見家住宅」として紹介されています。

普段は非公開となっていますが、この期間だけは展示室として蔵の中を見ることが出来ます。

店を通り抜けて奥へ行くと、「レンガ蔵」の二階へ上がる、ちょっと急な階段があります。

上がり口の下には、瓦を敷き詰めた洒落た履脱ぎがありました。

写真を撮らせて頂けるか訊ねると、お仕事の手を止めてやよいさんがお見えになり、承諾を頂くことができました。

ただ、作品を撮影することは勿論出来ません。
ぜひ、期間中にご自身の眼でご覧ください。

私には、染色の知識も美術的センスもないのですが、その私が見てもただの藍染めではないことが分かります。
私の知る藍染めは、藍色と白のグラデーションの素朴なデザインものですが、ここに展示されているものは、デザインの斬新さもさることながら、赤や金の色を使って塗り上げていて、まるで絵画のような藍染めです。

藍染めに造詣の深いお客様が続く中、知識の無い私は気後れし、目は自然と窓の外の古い建物に向いてしまいます。


思っていた話も出来ないまま、階下の写真を撮らせて頂いて、おいとましようかと思いました。


写真を撮っていると、やよいさんが「こんなのがあるんですよ。」と、一冊の本を持って来て下さいました。

「想いが残る 思いが残す -上州の歴史的建造物1-」という題です。

ぱらぱらとめくってみると、高崎に残る「豊田屋旅館」「金沢米穀店」「旧・千歳屋旅館」「旧・山源漆器店」、そして「水村園」の歴史的建物が、写真入りで詳しく掲載されています。

レンガ蔵の前に腰かけさせてもらって本を見ていると、水村園小見社長が前を通って行きました。
頃合いを見計らって、「素敵な建物ですねぇ。」と声をかけると、
「いやぁ、古いだけで。」とご謙遜です。
「柳家紫文さんから、社長さんのことをよく伺ってますよ。」と言うと、びっくりされていましたが、そこから俄かに親しみを感じて頂けたようでした。
人のつながりというのは、ありがたいものです。

いろいろお話を伺っている内に、先ほどの本を発行した「上州歴史的建造物所有者の会」の代表者は、何と!やよいさんだというのです。

本の巻頭には、代表であるやよいさんの、こんな言葉が載っていました。

「長年の風雪に耐えた建物が、朽ちて雨ざらしとなり、やがて青いビニールシートがかぶせられ、ショベルカーの轟音と共に一瞬の間に取り壊されていく場面に出会ったことはありませんか。
更地になってしばらくすると新しい建物が建ち、もとの古い建物は人々の脳裏からも消えてゆきます。
そして、画一的で面白見のない町並みに変わっていくことにだれも疑問を感じないまま、今まで長い間をかけて受け継がれ、築き上げられてきた地域独特の歴史を有する大切なものを、いつのまにか失ってきているのです。
(略)
歴史ある建物や、それを支える伝統的技術は、町づくりのための魅力的な資産として、地域社会に寄与し、地域の歴史、文化を継承してゆく大切な宝として考えられるのではないでしょうか。」


しかし同時に、「所有者が、実際に歴史的建造物を維持管理してゆくことの難しさもある」といいます。
そこで、「まずは同じ悩みを持つ所有者が集まって、交流を深め語り合う場として、平成十五年(2003)に設立したのが・・・所有者の会」なのだそうです。

まさに私が、いや私如きが、このブログで訴えてきたことを、実際に行動に移している会があることに、正直驚きました。
いろんな方とのつながりを経て、ついに到着すべき所に辿り着いたという気持ちです。
この会は、「歴史的建造物所有者の会」とはいうものの、所有していない人も会員になれて、いろいろなイベントや勉強会に参加できるのだそうです。
一見(いちげん)さんの私でも参加できるものなのかお聞きすると、検討して後ほどご連絡を頂けるとのことでした。

そんなことで、思いがけず長居をしてしまいました。
ブログの記事も大分長くなってしまいましたが、
「藍染め展」は、6月15日(火)までです。
みなさん、お見逃しないように、お出かけ下さい!

「みずむらやよい工房」HP


【水村園】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:19
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2010年07月01日

号外!高崎駅に総合観光案内所

愛読している高崎新聞に、「高崎駅中央改札前に総合観光案内所」という記事が載りました。
また、その後「高崎ぷらっとまち歩きマップ作成」という記事も載りました。

この「高崎ぷらっとまち歩きマップ」のvol.1「ぶらり中山道高崎宿」に興味を惹かれ、高崎駅へ行ってみました。


期せずして、ちょうどオープニングセレモニーの真っ最中でした。






お歴々がロープを引くと幕が除かれ、総合案内所が姿を現しました。
額に白い布片が残ってしまったのが、何ともですが。

早速、気になっていた「高崎ぷらっとまち歩きマップ」をもらいに、カウンターへ向かいました。

「一番目のお客様ですので。」と、記念のタオルを頂きました。

楽しみにして、家に帰ってから広げて見ると、無地の白いタオルでした。
あー、引越しのご挨拶用だったんですね。
ありがとうございました。

「ぶらり中山道高崎宿」のマップです。↓


私が旅人だったら、このコース歩くかなぁ?
貸自転車屋さんは、何処にあるんだろう?
お土産屋さん街は、何処なのかなぁ?
私が案内人だったら、どう案内するかなぁ?
もっと面白いポイント、面白いコースはないかなぁ?


いろいろと考えさせられるマップでした。

「総合観光案内所」というハードはできました。
あとは、旅行者を満足させるソフトの充実ですね。

  


Posted by 迷道院高崎at 20:02
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2010年07月25日

参加!ぶらり高崎城下町めぐり

高崎市主催の「ぶらり中山道高崎宿城下町の面影と老舗めぐり」に参加してきました。
それにしても、お役所の付ける名前は長いですね(笑)
ブロガー泣かせです。

熱中症のリスクを物ともしない歴史好きが、20人くらい参加していました。

【コース】↓


飛び飛びに点在するスポットをどのようなストーリーで案内されるのか、興味を持って参加したのですが、中山道という街道をコアにして、実に上手につなげて案内して頂きました。

こうなってくると、町そのものに歴史案内板がほとんどないことが、実に物足りなく感じます。
また、配布されたマップには、肝心の街道名も、城下町の町割りも、武家屋敷や諸機関があった位置も、まったく記載されていません。
高崎は、城下町の町割りや町名がそのまま残っている、全国的に見ても珍しい町だと思います。
その意味で、改訂第二版マップの発行を期待するところであります。

今回の城下町めぐりで、いいなぁと思ったこともあります。
それは、江戸時代から続く老舗を案内スポットに組み入れたことです。
元紺屋町「糀屋」(創業430年)
本町三丁目「金澤屋」(創業170年)
本町一丁目「水村園」(創業150年)

「糀屋」さんと「水村園」さんでは、それぞれのご主人が店の歴史や商品の説明をされて、試食・試飲のサービスも頂きました。
この、ご主人のお話が、ガイドブックでは知ることのできない、実に興味深いもので、楽しかったです。
「金澤屋」さんの七代目ご主人も、高崎をこよなく愛すバイタリティ溢れる方なのですが、ちょうど来客中でお話が聞けなかったのは残念です。

参加者の中には、その場で商品を買い求める方も多く、観光と店をつなぐとても良い企画だと思いました。
できれば、このようなイベントの時だけでなく、普段から町全体で観光客への「お接待」ができるようになると、素晴らしいと思います。

最後に、これは史跡めぐりに参加される方に、お願いがあります。
参加者の中には、とても歴史に詳しい方がいて、ガイドさんそっちのけで、その知識を披露して下さります。
気持ちは分かりますが、能ある鷹はなんとやら。
案内はあくまでガイドさんにお任せするのが、マナーかと思います。

今日ご案内して頂いた、「高崎観光ガイドの会」の皆さん、ありがとうございました!

「ぶらり中山道高崎宿城下町の面影と老舗めぐり」は、
       7月24日~8月1日の土、日曜日
       8月21日~8月29日の土、日曜日
     に、開催されています。
       ・時間:午前9:40~午後0:30
       ・集合場所:高崎駅観光総合案内所前
     事前申し込みは不要です。

ぜひ、ご参加ください。
いつもと違う高崎が見えるかもしれません。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:46
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2010年07月28日

気になる一角

田町を通りかかる度に、気になっている一角があります。

天保年間(1830~43)創業の老舗、旧・天田屋漆器店の跡地です。

平成18年(2006)に榛東村に移転しましたが、幸いラジオ高崎が、移転前の姿をビデオに残してくれていました。→「店舗訪問 天田安平商店」

移転先の榛東村では、「うるし工房 木地呂」として桐タンスや無垢家具の修理、漆器の修理、陶磁器の金つぎ、うるし塗教室などの活動を行っています。

今、天田屋跡は、道に面した店舗部分が取り壊され、明治期に造られたという、奥の土蔵が見える状態になっています。

あー、また伝統的建物がひとつ失われるのか、と心配されたかと思いますが、今、この土蔵を利用して「すもの食堂」プロジェクトというのが進行中なのです。

なぜ「すもの」かというのは、群馬県人なら、ピンと来るかも知れませんね。
ここは敢えて、クイズということにしておきましょう。

このプロジェクトを推進しているのは、「高崎CIP」(Community talent Incubation Project )のメンバーです。
例の、中山道恋文横丁を仕掛けたのも、このメンバーの方々です。
一般市民には、「高崎CIP」の活動を知る機会があまり設けられてないのですが、*ここ*を見ると少し垣間見ることができるかも知れません。
もっと、一般市民を巻き込む活動になって欲しいなぁと思います。

「高崎CIP」によると、
「すもの食堂」は、上州一円のこだわり野菜を作っているネットワークを利用した、産直・惣菜・軽食を提供する場として、考えているそうです。
行く行くは、中山道から珍竹林画廊裏にあった旧・高崎絹市場まで、一本の道で繫がるように造作する予定だとか。

田町から高崎城下町が再生してきそうな、そんな予感がしてきました。
楽しみです。


  


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2010年07月30日

眠室(ねむろ)のある布団屋さん

本町三丁目にある、天保七年(1836)創業の寝具店・金澤屋さんです。

漆喰の白壁と黒い板壁のコントラスが実に美しい、風格ある建物です。

かつての中山道沿いには、このような建物が建ち並んでいたのでしょう。

現在の建物は平成15年(2003)に改装されていますが、梁や柱は昔のまま使っているので、昭和三年(1928)築造当時の風格をよく残しています。

改装にあたっては、七代目店主・本木毅さんの、昔のものを残そうという強いこだわりがあったようです。

入口を入って真っ先に目に留まるのが、昔懐かしいレジスターです。
なんと、昭和40年くらいまで使っていたそうですが、さすがに、お釣りが正しく出てこなくなったので、現役を退いたのだとか。

右の写真で、間柱のようなの、何だかお分かりでしょうか。→

私も知らなかったのですが、「唐弓」(とうゆみ)といって、弓のように弦を張って、綿をほぐす道具だそうです。

店舗の改装時、七代目はここに流木をあしらおうかと思ったようです。
ところが、その流木が意外と値段が高かったので、じゃあと、家に沢山残されていた「唐弓」を使ってみたら、これが意外にいい雰囲気だったとか。
「唐弓」は、綿打ち職人さん各々が持っていたもので、よく見ると夫々職人さんの名前が入っています。

昔は、多くの職種で「西行」(さいぎょう)と呼ばれる、全国を旅しながら仕事をする「渡り職人」がいたそうです。
職を求める時は、「手前生国と発しますは・・・。」と仁義を切って、身分を明らかにしたといいます。(履歴書じゃなかったんですね。)
綿打ち職人にもその西行さんが多く、金澤屋さんにも多い時で20人くらいの職人さんがいたそうですが、機械化が進んで大正年間にはその姿を消します。

2階も、店舗というより、風情たっぷりな古民家のようです。

障子に貼られているのは、昔の注文請台帳です。
             ↓



〇に横一本棒が引かれているのは、納品済みという印だそうです。

組子細工の欄間が、とてもお洒落です。 →

「眠室」(ねむろ)は、このドアの向こうです。↓


実際に、この部屋で眠りを体験することができるんです。

部屋のカーテンが自動で閉まり、照明がだんだん暗くなって睡眠を誘い、30分ほど眠ると、また段々照明が明るくなって、心地よい目覚めができるようになっているそうです。
ちゃんと、パジャマまで貸してもらえるんですよ。
おどろきでしょう?!

平成二十年(2008)にオープンしたこの「眠室」は、店舗2階の改装に合わせて造られた、七代目こだわりの「睡眠ルーム」です。

昔の佇まいで、最新の商品を提供する。
これからの、城下町高崎再生のお手本になりそうな金澤屋さんでした。

【金澤屋】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:57
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2010年08月06日

すもの食堂から絹市場へ

「すもの食堂」の改装工事現場に、「今日もお仕事がんばってね」と、可愛い応援看板が立っていました。

ちょっとお邪魔して、中を覗かせて頂きました。

ずいぶん整ってきたように思いますが、目標にしていた「高崎まつり」に間に合わず、残念そうでした。

でも、改装中だということを通りがかりの人に見てもらえるように、敢えてシャッターを開けているのだそうです。
もしも、前を通って頑張っている姿が見えたら、激励の声を掛けてあげてください。

「すもの食堂」から100mほど南へ行くと、高崎市民にはお馴染の「珍竹林(ちんちくりん)画廊」があります。

その脇の小路を挟んで左隣が、「高井京染店」です。
明治からの老舗の佇まいを残しながら、ウィンドウには、こんなお洒落なディスプレイがされています。↓



この、「珍竹林画廊」「高井京染店」の間の小路を入った奥に、戦後しばらくまで「高崎絹市場」があったそうです。↓



この建物は、明治二十七年(1894)に建設されたものですが、もともと高崎藩は城下政策として、旅籠本(もと)町新(あら)町連雀町、そして絹・綿田町と、商いができる場所を制限していました。

元禄三年(1690)から田町「絹市場」で取引されていた「高崎絹」と呼ばれていましたが、群馬・碓氷・多野・北甘楽・埼玉県北部と、広範囲にわたる地域の養蚕農家で生産されていたものです。

農民は、毎月5のつく日と10のつく日に開かれる市に絹を持ちこみ、仲買商に委託して市場で取引をしてもらいます。
取引が終わるまでの間、町で買い物などをして時を過ごすことになるので、市の立つ日は大変賑わったそうです。

その、仲買商のひとつが、先にご紹介した「高井京染店」さんです。

お店にお邪魔して、「絹市場」の痕跡がどこかに残っていないか、奥様に伺ってみました。
「あー、前はそこに説明板が立っていたんですけど、壊れてしまったみたいですね。」
と、仰います。

その説明板というのがこれなんですが、歩道側に背を向けて立っているので、車道側からでないと見えません。(誰に見せようとしているのでしょう?)

金属の説明板が貼ってあるのですが、文字が薄くて、書いてあるのかどうかも分からないくらいです。

画像処理をして、やっと「珍竹林画廊」の由来が書いてあることをご紹介できました。

で、その隣に棒だけ立っているのが、「絹市場」の説明板だったんだそうです。
「珍竹林」さんにも行って、説明板の所在をお聞きしましたが、分かりませんでした。
もしかすると、どなたかが保管しているのかもしれませんが、できれば復元して欲しいものです。

「絹市場」の跡は、現在、広い駐車場になっています。
通りからはほとんど分かりませんが、この駐車場から見ると沢山のが見えることに驚きます。

撮影ポイントを変えながら、まだ残っていたの風景を楽しんでみましょう。

皮肉なことですが、通りに面した近代建築が取り壊されたおかげで、奥に残っていた昔の建物が再び姿を現してくれました。
「人間万事塞翁が馬」と言いますが、この言葉は町の姿にも当てはまるようです。

今度こそこれらの建物を活かして、城下町高崎の再生をして頂きたいと、心から願っています。

(参考図書:「新編高崎市史 通史編4」)



  


Posted by 迷道院高崎at 21:03
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2010年08月11日

とある商店と、旧貿易会館

「一路堂と一路居士」の記事に、雀の子さんからこんなコメントを頂きました。
   「一路さんの観音像の絹本の掛軸、
    現在とある商店のウインドウに展示してあります。
    場所は、私の名前がヒントです。」


このヒントで、私の脳裏には、すぐに一軒のお店が思い浮かびました。
で、早速、出かけてみたのです。

連雀町「さいち民芸店」さんです。

ウィンドウを覗くと、あるある、ありますよ、一路さんの掛け軸。

写真を撮っていると、中からご主人が出てきました。
おそらくこの方が雀の子さんだろうと見当を付けて、
「こんにちは、迷道院高崎です。」と言うと、
「あーー!」とすぐに分かって頂きました。

実はこのお店、私の同級生のお家で、ご主人はそのお兄さんでした。
またも、不思議なご縁で繋がりました。

店名の「さいち」は、あの井上房一郎さんの命名だそうです。
昭和四十二年(1967)に、ご主人のお父上がクリーニング店から和紙・民芸品店に商売替えをする時、お父上の苗字と名前を組み合わせて考えてくれたのだとか。
文化人と親しかったこともあって、その人達の作品が沢山残っているようです。

ご主人は、昔の高崎のことも良くご存知で、今、連雀町の昔を偲ぶ写真や資料を集めている最中だそうです。
ここにもひとり、城下町高崎の再生に力を発揮されそうな方がいたことを、嬉しく思います。

私が子どもの頃、この近くに「貿易会館」と呼んでいた建物がありました。
正式には、「高崎観光貿易館」というそうです。

記憶に残っているのは、街頭テレビです。
もしかすると、貿易会館の中にあったのかもしれません。

まだ一般家庭にテレビが入ってなかった頃、みんなここへ来て、力道山を応援してたんです。

貿易会館は、朝鮮戦争の特需に沸く昭和二十六年(1951)、高崎の産業振興拠点として開館しました。

様々な催し物会場としても使われた貿易会館ですが、昭和三十二年(1957)には、「音楽センター建設促進委員会」の事務局も、会館内に設置されています。

その貿易会館も、次第にその役目を終え、昭和三十七年(1962)には競売に出されます。
折りしも、高崎で初めての本格的百貨店「藤五デパート」の建設が進んでおり、市内の中小小売業者は危機感を覚えていました。
そこで、自分たちで貿易会館を買い取り、寄り合いデパート形式・二階建ての「中央デパート」を開店します。
「藤五デパート」開店の二年前ですから、高崎で初めてのエスカレーターをもつデパートは、この「中央デパート」だった訳です。

「藤五デパート」が開店すると、それに対抗して昭和四十三年(1968)、地下一階、地上九階の本格的なビルに建て替え、名前も「スカイビル」と改めます。

この時、北関東初の回転式展望喫茶室「高崎スカイラウンジ」が設けられました。

現在、回転はしていませんが、最上階の円形部分がその喫茶室です。

その後、高崎以外の外来資本大型店が相次いで進出してくると、さしも斬新な「高崎スカイビル」も経営不振に陥り、昭和五十六年(1981)店舗を閉じて、「高崎スカイラウンジ」の回転も止まってしまいました。

もう回すことは出来ないのでしょうか。
高崎の名物になること、間違いないのですが。

(参考図書:「新編高崎市史 通史編4)


【さいち民芸店】

【スカイビル(旧・高崎観光貿易館)】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:50
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2010年08月22日

高崎町役場と町奉行所

連雀町「さいち民芸店」さんに、こんな椅子が置いてあります。↓

古いものであることは分かりますが、一見、取り立てて何の変哲もない椅子に見えます。

ご主人曰く、
「これ、昔の町役場で使ってた椅子なんだよ。」
「え?どこの町役場?」
「ここに、焼き印があるんだけどね。」

見ると、「高崎町役場」と焼き印が押してありました。

そうそう、明治三十三年(1900)に高崎市になるまでは、高崎町だったんです。

明治二十二年(1889)に高崎町になったんですが、その前はというと、明治十一年(1878)に高崎驛になっています。
といっても、鉄道のではなく、宿(しゅく)に替えてそう呼んだのです。

だから、明治十七年(1884)に上野―高崎間に鉄道が開通して、鉄道の高崎駅ができた時は、きっと混乱したんでしょう。
しょうがなく、鉄道ののことは、「停車場」とか「ステンション」とか呼んだようです。

話が、脇道へ逸れました。

これが、高崎町役場の写真です。→

市制が施行された時に、そのまま高崎市役所として使われました。
前述の椅子も、きっと、高崎町役場の焼き印を付けたまま使われていたのでしょう。

この頃の市役所は、ちょうど今のスカイビルの場所にありました。

ですので、貿易会館も市役所の跡地に建てられた訳です。

スズランデパートのある所には、高崎区裁判所がありました。
俳人・村上鬼城は、ここで代書人をしていたのです。

あ、また横道へ逸れちゃいました。

明治四十四年(1911)に建て替えられた2代目市役所は、こんなモダンな建物でした。
高崎町役場の椅子は、この時も使われていたかも知れません。

ところが、昭和22年(1947)に火災に遭い、本町にあった公会堂を仮庁舎として移転しますが、そこでも火災が起きてしまいます。
たぶん、この辺りで高崎町役場の椅子は、払い下げになったものと思われます。

そして、昭和二十九年(1954)に高松町に4代目の庁舎を建てますが、そこが現在の「もてなし広場」になっています。
場所を転々とする度に大きくなって、平成十年(1998)に建てられた5代目の現・市庁舎は、高崎城の天守閣を遥かに凌ぐ21階建となりました。

「さいち民芸店」を出ようとした時、ご主人がこう言いました。
「この先に、町奉行所跡の標柱があるんだよ。」

それは初耳と、探しに行ってみたのですが分かりませんでした。
もう一度戻ってお聞きしたら、お忙しい中、一緒に来て下さいました。

この奥の木の後ろだというんですが、これは分かりっこありません。

よく見ると、ありました、ありました!

「史跡旧藩町奉行邸阯」と刻まれています。

側面には、「昭和二年 荻田建司建之」「道幅 貮間二尺」と見えます。

古城塁研究家の山崎一氏の描いた図によると、この標柱が立っている場所は「奉行所」で、「奉行邸」は、スズランデパートの所にあったようです。

いずれにしても、「町奉行所」の跡に「町役場」が、「町奉行屋敷」の跡に「裁判所」が建てられたというのは、歴史を大事にする昔の人の文化だったのでしょう。

今また、その文化が町を救う、そんな時代になってきたような気がします。


【高崎町役場跡・町奉行邸阯】



  


Posted by 迷道院高崎at 00:31
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2010年08月25日

上州銀行と箕輪の密議

群馬銀行田町支店の傍らに、高札のような看板がひっそりと立っています。





長らく、ほったらかしにされているので、文字がすっかり薄れてしまっていますが、かろうじて「上州銀行田町支店」と読めます。

ティッシュペーパーで表面の粉を拭き取り、画像処理をするとこんなことが書かれていました。

看板には、さらっと歴史が書いてありますが、調べてみると、実は大変な物語があったようです。

「上毛貯蔵銀行」という面白い名前の銀行が出来たのは、大正四年(1915)のことです。
「普通銀行」に対する「貯蓄銀行」というもので、「元来は19世紀に欧米諸国に広まった、庶民に対して倹約を奨励し貯蓄により生活を安定させるための公益的な金融機関であった。」(wikipedia)そうです。

当時、高崎には地元資本による貯蓄銀行がなかったため、地元有力者十数人が発起人になって設立されたのが「上毛貯蔵銀行」です。
本店は、九蔵町に置かれました。
ちょうど、現在の「九蔵町ハイツ」の辺りです。

いかにも、両替商という佇まいですね。

その支店は、本町、田町、新(あら)町、旭町、大橋町にあったそうです。

その後、前橋「群馬銀行」と競うかのように、高崎の政財界有力者が発起人となって、大正八年(1919)に設立したのが「上州銀行」です。

その「上州銀行」は、小資本の「高崎積善銀行」「高崎銀行」「上毛貯蔵銀行」を吸収合併して、ここに高崎資本による大銀行が発足することになります。

発足当初の「上州銀行」は、「上毛貯蔵銀行」の本店内で営業を始めますが、大正十一年(1922)に田町市田商店の跡地に新築・移転します。

その「上州銀行」が発足した頃、第一次世界大戦後の世界恐慌が、日本にも押し寄せていました。
大正九年(1920)、横浜に本店のあった「七十四銀行高崎支店」が、突如、3週間の休業をすることになります。

「上州銀行」もその余波を受け、健全な業務内容であったにも拘らず、預金者の取り付け騒ぎにあって、3日間の休業を余儀なくされます。

当時の小沢宗平頭取は、群馬県知事・大芝惣吉に働きかけ、大蔵省や日本銀行に交渉して、150万円の特別融資を受けて危機を脱します。

この時、日本銀行には高崎市出身の深井英五が理事として勤めており、この力に因る処が大きかったと言われています。

世界恐慌は昭和になっても回復することはありませんでした。
この昭和恐慌を抜け出すためには金融統制が必要であるとして湧き起こったのが、高崎「上州銀行」と、前橋「群馬銀行」の大合併計画です。

この計画実現の中心となったのが、時の群馬県知事・金沢正雄でした。

過去に県庁の誘致合戦で遺恨の残る、高崎・前橋の両大銀行の合併とあって、本店をどちらに置くのか、頭取はどちらから出すのか等、一筋縄ではいかない困難な問題を有していました。

さらに、県議会の与党・政友会と、野党・民政党の対立が加わり、より一層、困難さを増すことになります。

もうひとつの懸念は、もしも、この計画を報道機関に察知されて報道でもされると、その報道を見た庶民が取り付け騒ぎを起こすに違いないというものでした。

そこで、要人による両銀行合併に関する協議は、人目に付かないところで秘密裏に行われたようです。
箕輪のアンティークギャラリー「蔵人」には、その証拠となる書簡が残っています。

金沢正雄・県知事と、深井英五・日銀副総裁の密議の場となったのが、当時の箕輪町長だった宮川家でした。
写真の書簡は、その場を借りたことへの礼状だそうです。

苦難の末、昭和七年(1932)、両銀行の大同合併によって開業したのが、「群馬大同銀行」でした。

本店は、前橋市本町群馬銀行本店の建物を使用しました。
これは、明治十一年(1878)に設立された第三十九国立銀行の建物で、昭和二十年(1945)の前橋大空襲で焼失するまで、使用されました。

そして、「群馬大同銀行」「群馬銀行」と改称されたのは、昭和三十年(1955)のことでした。

何気なく利用している銀行にも、波乱万丈の歴史があったのですね。

参考図書:「群馬県史 通史編8」「前橋市史第五巻」
「高崎市史 通史編4」「群馬銀行五十年史」
「群馬大同銀行二十年史」


【旧・上州銀行田町支店】

【上毛貯蔵銀行があった場所】



  


Posted by 迷道院高崎at 21:44
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2010年09月01日

高崎の誇る注染工場

「注染」(ちゅうせん・そそぎぞめ)というのは染物の手法のひとつで、手ぬぐいや浴衣地を染めるのに用いられるのだそうです。

生地の上に顔料を塗布する「捺染」(なっせん)と違い、生地の目を潰さずに染め上げるので、肌触りがよく吸水性に優れているのが特徴だとか。

型紙を使って一枚づつ糊を置き、生地を重ねた上から染料を注いで染める「注染」は、職人の腕に頼る伝統技法です。
今、「注染」によって染めているところは、群馬県ではただ1軒だけなんだそうです。
その誇るべき、ただ1軒というのが、実は、この高崎にあるんです。

常磐町(ときわちょう)にある、明治三十年(1897)創業の「中村染工場」さんです。

赤坂下の横丁を入った奥にあるので、私も今まで知りませんでした。

その存在と価値を知ったのは、本町金澤屋さんで「高崎で注染をしているのは、ここだけなんですよ。」とお聞きしたからです。

いや、もうひとつありました。

高崎の物産やイベントを紹介してくれているブログ「物産日記」の、
「高崎歴代藩主の家紋入り手ぬぐいが、中村染工場で発売された。」という記事を読んだからでもあります。

お店の外から見るだけでも、お洒落な手ぬぐいを楽しむことができます。


工場の玄関先なので、小じんまりした売り場ですが、思わず欲しくなるデザインの手ぬぐいが並んでいます。



←私が一番感動したのは、これです。

手ぬぐいそのものは、白地に黒で猫がデザインされているのですが、意図せず、後ろの絞り柄が透けて見えて、実にいい味を出しています。

「注染」は、染めた部分の裏・表が同じ濃さで、しかも光を通すから、こんな味が出るんですね。

試しに、「歴代高崎藩主の家紋手ぬぐい」を、我が家の玄関に下げてみました。

こちら側が手ぬぐいの裏面なんですが、こんなにはっきり模様が出るんですね。



因みに、高崎藩歴代藩主家紋の説明書きも頂きましたので、ご紹介します。

中村染工場さんでは、マイ・オリジナル手ぬぐいの注文もできるそうです。

デザインや枚数によって料金は変わりますが、おおよそ、型代が2万円位、50枚くらい染めて、染め代が1枚300円位とのことでした。
最近では、結婚式とか記念日とかでの注文も多いそうです。
みなさんも、そんな時には記念品として、いかがですか?

県内で唯一の注染工場、「中村染工場」

ぜひ一度、お出かけになってみてください。

そうそう、9月22日(水)~28日(火)には、高崎スズランで開催される「大群馬展」にも出品されますので、そちらでもどうぞ。

どうしても出かけられないという人には、インターネット・ショップもありますよ。

「中村染工場」付近の見どころ》
   ◇日本一しょうゆの「岡醤油醸造」
   ◇和風図書館「山田文庫」
   ◇清水先生の「お城のような家」
   ◇一路居士の石碑とお墓がある「恵徳寺」


【中村染工場】



  


Posted by 迷道院高崎at 18:43
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