2010年10月10日

いざ鎌倉!

明日(10月11日)、鎌倉街道武者行列があるそうです。
この武者行列は、平成元年(1989)から始まったと聞きますが、23回目なんですね。

第1回目の衣装は業者から借りたそうですが、その後は全て地域の方々の手作りだそうです。

行列の出発は、高崎市立城南小学校を午前10時です。

城南小学校は、校門のすぐ前を電車(上信電鉄)が走り抜ける、ユニークな学校です。




体育館の脇には、明日使う草鞋でしょうか。

雨に濡れてしまったのか、行儀よく干されていました。

校門前の踏切を渡ると、「鎌倉街道記念碑」が建っています。

左の道は城南大橋の下道を越える陸橋ですが、「鎌倉橋」という名前が付いています。




左の道は、多中のこんぴら様を抜けて佐野の渡しに向かいますが、明日の武者行列は逆方向、和田の馬上宿(ばじょうじゅく)へ向かいます。

馬上宿は、現在の高崎市庁舎辺りだったと言われています。
予定では、11時に市庁舎前広場で出陣式を行うそうですので、お時間のある方はどうぞお出かけ下さい。

【鎌倉街道記念碑】




  


Posted by 迷道院高崎at 18:55
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2010年10月12日

見聞!鎌倉街道武者行列

10月11日に行われた、鎌倉街道武者行列に随行させて頂きました。

城南小学校に集結した老若男女の武者たちは、おおよそ200人位でしょうか。




箕輪の武者も、応援に駆けつけていました。
箕輪でも、10月31日(日)に
「箕輪城まつり」があり、武者行列があるようです。


長刀隊の綺麗どころは、城南小学校の先生方です。







ある子どもに「何で新撰組なの?時代が違う。」と突っ込まれていましたが、あとで見事な抜刀術を披露して下さった面々です。→

騎馬武者が、車と一緒に踏切を渡ってるって絵柄が、面白いなぁと思いまして。

このお馬さん、はるばる伊香保からやってきました。
毎回参加している、ライディングファーム角谷さんの馬だそうです。


NHKのカメラ・クルー2名が取材に来ていました。







「沿道の人を撮りたいんですけどねー。」と言ってましたが、絵にならないようで困ってました。

これが、よく言えばシャイ、悪く言えば宣伝下手な高崎人らしいとこです。
それにしても、ラジ高、群テレ、上毛はどうしたんでしょうか。


高崎市庁舎の前に陣を構えた武将たちです。

つくづく、この背景が高崎城だったらなぁって思いませんか?

しつこく言いたいです!
     「もしも、お城があったなら」




でも、参加された方々は、とても楽しそうでした。

いつまでも続いて欲しいイベントですね。


この武者行列を見ながら、思いました。
「中山道旅人(たびにん)行列」ってのがあったら、面白いかなぁ、と。




  


Posted by 迷道院高崎at 08:20
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2010年10月16日

鎌倉街道探訪記(1)

城南地区の「鎌倉街道武者行列」を見て以来、「鎌倉街道」が気になって仕方ありませんでした。

ちょいと調べてみたのですが、これがなかなか手強い相手でした。

何しろ、鎌倉幕府が滅亡してからでも、既に680年くらい経ってる訳ですから、道が残っている方が不思議なくらいで。

芳賀善次郎氏著「旧鎌倉街道探索の旅」によると、左図のように実に沢山の「鎌倉道」があるそうです。

芳賀氏は、上道(かみみち・かみつみち・かみのみち)と呼ばれる、鎌倉から高崎までの約140kmの道すじを実際に歩いて調査しています。

その芳賀氏も、高崎に入ると途端に道筋を探しあぐね、「高崎の散歩道」を頼りに消えた道筋を辿っている様子が文中から見てとれます。

では、地図上で高崎「鎌倉道」の見当を付けてみましょう。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」に載っていた、和田宿の古絵図(16世紀頃)です。「鎌倉道」の文字が見えます。 注目したいのは、左の「小万坂」と中央の「千ケン山」です。
有名な「興禅寺絵図」です。久保田順一氏によると、天文年間1550頃の僧・文瑚為景という僧に興禅寺を引き渡す時に描かれたものだということです。ここにも「浅間(せんげん)宮」「ふじやま」という文字が見えます。
これは、明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に記載されている「鎌倉道」です。「興禅寺絵図」を元に描かれたものと思われますが、ここにも「富士浅間ヲ祀ル土俗浅間山」「小まん坂」という記載があります。
山崎一氏の描いた「高崎城と城下町絵図」によると、現在残るお堀と「富士浅間」の位置が分かり、「鎌倉道」興禅寺威徳寺の間付近を抜けていたのではないかと想像できます。近藤章氏は「高崎の散歩道 第二集」の中で、「(鎌倉道は)三の丸の東南隅から、宮元町の光明寺東側を通り・・・」と書いています。
大正13年の「高崎市全図」では、三の丸東南隅から光明寺東側の道を通った先に、「鎌倉小路」と表記された道が幾本もあります。この辺りの旧町名が鎌倉町だったためです。そして、「鎌倉小路三号」「小万坂」です。
現在の地図で辿ってみると、「三の丸」から「小万坂」までは、おおよそこんな道筋になりそうです。

次回は、実際に歩いてみることに致しましょう。




  


Posted by 迷道院高崎at 00:04
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2010年10月17日

鎌倉街道探訪記(2)

古地図によって、城内にあった「富士浅間(せんげん)山」という古墳が、鎌倉道を辿る基準になりそうです。

この古墳高崎城三の丸の土塁にその面影を留めています。




市庁舎の前を高崎公園側に抜ける切通しの両側が、他の土塁に比べて一段と高くなっています。

この部分が「富士浅間山古墳跡」です。

ただ、鎌倉道はここよりもっと西で北に曲っていたと思われます。
100mほど西の土塁に少し窪んだ場所があるので、この辺ではなかったかと勝手に想像しています。

では、鎌倉を目指して(?)歩き始めることに致しましょう。

堀に沿って東へ向かいます。
正面に見えるのは下横町・向雲寺の甍です。
突き当りを右折します。
曲るとすぐ、道は左折と直進の二又になり、角には、何となく道しるべらしき石が置かれています。
ここは、直進してみましょう。
道なりに進むと、また複雑な分かれ道が出現します。
突き当りまで行って右へ行く道もありますが、その手前の細い道を、右折してみます。
突き当りのフェンスを右に曲がると、光明寺(こうみょうじ)です。
せっかくですので、寄り道をしていきましょう。

光明寺は、至徳二年(1385)の開山といいますから、鎌倉時代(1192-1333)にはまだ無かったということになります。

ということは、それまで鎌倉道はこんなにくねくねと曲がっていなかったんでしょうね。

このお寺、最初は安楽院遍照坊という名前だったそうですから、たぶん小さな寺だったのでしょう。
ところが慶長年間(1604頃)、時の住職が、第二代高崎藩主・酒井家次の嫡子・忠勝の病気を、秘法を以って治癒させたのだそうです。
その褒美として家次は、日天子・月天子を安置した宮殿(くうでん)を建立し、仏殿を修復して、寺の名前も日宮山(ひのみやさん)光明寺と名付けたといいます。

明治初期、この辺りは「明石町」(あかしちょう)という町名でしたが、「明」光明寺「明」
そして「石」は、近くにある和田三石のひとつ「方石」(かくいし)「石」だそうです。
「方石」は別名「化け石」ともいい、源頼朝の馬が化け物と見間違えて、驚いて蹴った石だという伝説が残っています。
いかにも、鎌倉道らしい伝説ではないでしょうか。

本堂の左は、もと古墳だったそうで、愛染明王を安置した「愛染堂」が建っています。

ここにも面白い話が伝わっていて、
安政二年(1855)の大地震で家業が衰退して困っていた、江戸下谷の商人・市野屋善次郎という人が夢の中で、お告げを受けました。

「東方に光明が輝き、仏像あり、上州高崎光明寺という。」
善次郎は、すぐ光明寺を訪ねて、荒れ果てていた地蔵堂を再建したところ、再び家業が繁栄したということです。

明治末期に作られた「高崎唱歌」に、
   ♪若松町に光明寺
     夢に名を得し愛染堂♪

とあるのは、このことだそうです。

光明寺の墓地には、「心の燈台」内村鑑三が建てた、内村家五代の墓があります。

しかし、これを建てた内村鑑三自身は、ここに眠っていません。
クリスチャンだった内村鑑三の墓は、宗旨・宗派を問わない東京多摩霊園にあります。



まだいくらも歩いてないのに、こんなに長くなってしまいました。
続きは、また次回に致しましょう。


【今日の散歩道】





  


Posted by 迷道院高崎at 20:46
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2010年10月20日

鎌倉街道探訪記(3)

光明寺の近くで、こんな素敵な建物を見つけました。

喫茶店かレストランかと思いましたが、看板は出ていません。
ちょうど入口の扉が開いていたので中を覗いてみると、いろんなものが所狭しと置いてあります。
思いきって声を掛けてみると、奥から素敵なお髭の男性が出てきました。

お聞きすると、いろいろな商品のデザインや、商品化のプランニングをしている会社なんだそうです。
こちらでデザインされたものを見せて頂いて驚きました。
詳しくは言えないのですが、皆さんも普段きっと目にしている品々だと思いますよ。
身近な所に、こんなすごい会社があるんですね。

その会社の前は、複雑な五本辻になっています。
左の道を真っすぐ行けば、観音通りへ出ます。
斜め左の細い道は「方石」のある佐藤病院に出ます。
右の道は、光明寺の墓地脇から龍廣寺(りゅうこうじ)の脇を通って、観音通りへ出ます。
今回は、こちらの道を進んでみます。
観音通りへ抜ける手前に、不思議な造作のお宅があります。
大工さんだったご主人が、コツコツと造られたのだそうですが、奥様は「いずれ、区画整理で壊すことになるんですけどね。」と仰ってました。

ちょいと、龍廣寺へ寄っていきましょう。
龍廣寺に来るのは、「高崎に眠るロシア兵」以来です。

今日の目当ては、初代高崎藩主・井伊直政の墓標なんですが、広い墓地で見当がつきません。

ちょうど、石屋さんが工事をしていたので聞いてみようと近寄ったら、なんと、グンブロガーの弥乃助さんじゃありませんか。

仕事をしている弥乃助さんを、初めて見ました。(いや、いつも仕事をしてないという意味じゃなくて・・・。)
で、さすが弥乃助さん、ちゃんとご存知で場所を教えて頂きました。

正面には「慶長七壬寅 二月朔日 當寺開基 祥壽院殿清涼泰安大居士」、側面には「髙嵜城主 兵部少輔 井伊直政」と刻まれています。

井伊直政は慶長三年(1598)に箕輪城から高崎城に移り、慶長五年(1600)には、近江国佐和山城(現・滋賀県彦根市)に移封となり、そこで没しています。

従って、正規の井伊直政の墓は、彦根市清涼寺にあります。

龍廣寺には、村上鬼城の歌碑が2つもあります。

こちらの歌碑には、
「大寺や 松の木の間の 時雨月」 →







←もう一つには、
「泉わくや ときとき高く 吹上くる」



村上鬼城本人のお墓もあります。


そろそろ日も暮れかかり、薮っ蚊には三ヶ所も喰われてしまいました。
あまりにも痒いので、この続きは、また次回ということに。


【今日の散歩道】




  


Posted by 迷道院高崎at 00:31
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2010年10月22日

鎌倉街道探訪記(4)

龍廣寺の東門から観音通りまで、真っすぐ伸びる道があります。






明治四十三年(1910)に造られた道なので、鎌倉道ではありませんが、観音通りを渡った向こう側は鎌倉道「小万坂」の入口です。

「小万坂」へ入る前に、観音通りをちょっと歩いて見たのですが、面白いものを見つけちゃいました。
ちょっとノスタルジックな建物のガラス戸に書かれていた、
     こんな文字です。↓

面白いと思ったのは、右の方に書かれている「全舞」という文字です。
前後の文脈から、バネの「ゼンマイ」だと分かるのですが、漢字でこう書くというのは初めて知りました。

本題からは外れますが、気になったので調べて見ました。
「ゼンマイ」って、何となく外来語だと思っていたのですが、れっきとした日本語でした。
「ゼンマイ」バネは、山菜の「ぜんまい」に形が似ているので、そう呼ばれたということで、山菜の方が先なんですね。

となると、今度は山菜の「ぜんまい」の由来が気になります。

いくつかある説の中で、一番気に入ったのが、
「銭舞(ぜにまい)」説です。

出たての芽の姿が、銭がくるくる回っているように見えるので、「銭舞い」「ぜんまい」となったというのです。

バネの「ゼンマイ」に、なぜ「全舞」という字を充てたのかは定かでありませんが、私はこの字を見た瞬間、「うまいなー!」と膝を叩きました。
「ゼンマイ」の力によって、ての部品が舞い(動き)始めるんですよね。
一方、「ぜんまい」の芽が出るも、野山の全てが動き始めます。
だからでしょうか、「バネ」「春」も、「spring」...(^^ゞ

ってなことを言いながら、鎌倉街道のキーポイント「小万坂」です。→






「小万坂」の名の由来となったのが、「小万地蔵」です。

これについては、以前、記事にしたことがありました。

相変わらず、きれいに手入れがされていて、お参りをしている人の姿にホッとするものを感じます。

傍らの碑によると、現在の堂宇は昭和十一年(1936)に有志の方が再建したものだそうですが、奇しくも、高崎白衣大観音が完成したのと同じ年です。
当時の人々の信心深さを、思わずにはいられません。

祈る姿というのは、美しいものですね。




この方は、毎日散歩の途中でお参りするそうです。
そういう場所が、地域にあるというのも素敵なことです。

さて、「小万坂」をそのまま下って、分去りを右へ行けば国道下、左へ行けば竜見町の中を抜けて、いずれも城南球場に至ります。
昔はお寺でもあったのか「大音寺河原」と呼ばれていたようで、この辺から烏川を渡る鎌倉道もあったようです。
今日は坂を下らずに、「小万地蔵堂」の上の細道を辿ることにしましたが、例によって長くなりましたので、この続きはまた次回。


【今日の散歩道】




  


Posted by 迷道院高崎at 21:15
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2010年11月11日

鎌倉街道探訪記(5)

久し振りに、鎌倉街道です。

「小万地蔵堂」の上の細道、ずーっとこの雰囲気で続いて欲しいところですが、すぐにもう1本北からの道と合流します。
この辺りは、まるで毛細血管のように、細い道が入り組んでいます。
道なりに進んで行ってみましょう。
同じような丁字路が出現しながら、道は下っていきます。
前方の一角を見て、「あれっ?」と思いました。
確か、以前ここにはお堂があったはずなのです。

そこには、真新しい石柱が建っていて、「薬師如来御堂跡」と刻まれています。

背面には、「平成二十二年四月二十八日」とあります。

どうやら、今年の四月にお堂は取り壊されたようです。

たしか、以前写真に撮っておいたはずなので、家に戻ってからパソコンの中を引っかき回して見ましたが、どうしても見つかりません。
ブログに使わなかったので、どうやら捨ててしまったようです。

諦めきれずに、翌日、ご近所で聞き回ってみましたら、「区長さんが写真を持ってるかも知れない。」という情報を頂きました。
早速お訪ねしたところ、区長の三芳さんはとても親切な方で、お堂を解体した経緯をお話し頂き、解体の様子を撮った何枚もの写真を見せて下さいました。

ありがたいことに、「好きな写真、持ってって下さい。」と仰って頂いたので、お堂の解体供養の時の写真を頂戴してきました。

写真でもお分かり頂けるでしょうが、屋根の瓦は崩れ落ちています。
お堂自体も、手で押すとグラグラする危険な状態だったそうです。

「小万地蔵」と違って、お堂をお守りする人もいなくなった現在、解体するしかなかったと三芳区長さんは仰っていました。
それでも、こうやってきちんと供養し、「薬師如来御堂跡」という石柱を残して頂いたことに、深く敬意を表したいと思います。

「無縁(?)佛供養塔」には「薬師堂宇改築 昭和十四年十一月」と刻まれていますので、少なくともこの頃までは、地域にお堂をお守りしてる方がいたようです。

このお堂がいつ頃建てられたものか、資料は一切残っていないようですが、「月山 湯殿山 羽黒山」と刻まれた石仏には、江戸時代中期の宝暦五年(1755)の文字が見えます。

「薬師如来御堂跡」前の道をさらに下ると、角に道祖神の建つ四つ辻に出ます。
真っ直ぐ進めば国道下、右は「小万坂」へ戻る道です。
道祖神には、「文政己卯仲夏」とあるので、文政二年(1819)のものです。

江戸時代も後期に入った頃ですね。

道祖神の四つ辻を左に進むと、城南球場に至ります。

この辺に鎌倉道が通っていたとすると、烏川の河原の中だったでしょう。

大雨で川の水位が上がった時は、通行できなかったに違いありません。


そんな時、旅人は竜見町の崖上を通ったようです。
次回は、その道を辿ってみることに致しましょう。


【今日の散歩道】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:36
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2010年11月17日

鎌倉街道探訪記(6)

今回は、竜見町の崖上を通る鎌倉道です。

道祖神の四つ辻から薬師堂跡前の坂道を上って振り向いたところです。

で、今度は坂を下らずに左へ行きます。
曲ってすぐ、大きなケヤキの木の下を右に入ります。
その道は細く曲がりくねった、いかにも古の旅人が歩いたであろう面影を残す道です。

「鎌倉街道だ!」と、根拠もなく確信した瞬間です。
古の道は現代の家に阻まれ、道は逆「コ」の字に迂回してここに出ます。

井上保三郎翁の別邸・「観水園」があったのは、この辺だと推定しています。
確かこの先に、素敵な煉瓦倉蔵大正モダン風の家があったはずです。

ありました、ありました。どちらもまだ残っていてくれたことに、嬉しさが込み上げてきます。



田島桂男氏著「高崎町知るべ」によると、この竜見町は、江戸高崎藩邸に勤めていた藩士とその家族が、明治維新によって高崎へ引き上げてくることになり、藩がこの地を買収して藩士の為の住宅を作り、「和田郭」と呼んだそうです。
明治四年(1871)町名を付けるにあたり、高崎城の辰巳の方角(南東)にあたるので、縁起の良い字を当てて龍見町としたといいます。

烏川の河岸段丘上のこの地は、人間にとって暮らしやすかったのか、はるか古代から人々が生活していたようです。

この辺りから、形は弥生式土器で紋様は縄文という、全国的にも珍しい土器が発見されており、その名も「竜見町式土器」と命名されています。

同種の土器は、城南小校庭や競馬場の遺跡発掘でも発見されているそうです。

さて、先へ進みましょう。

前方には城南球場のスタンドとナイター照明が望めます。

崖上の鎌倉道は、細く真っ直ぐ続きます。
細道同士が交差しています。

真っ直ぐ進むのが鎌倉道でしょうが、ちょいと右の道へ曲ってみたくなりました。
これが、なかなかいい雰囲気の下り坂なんです。

もしかすると、これも鎌倉道の一つなのかもしれません。
坂を下りきった草むらの中に、いくつかの石仏がありました。

お地蔵様は頭が取れてしまったのか、石ころが乗せてありますが、赤いお掛けは真新しく、ちゃんとお水も供えてありました。

よく見ると、草むらの中にはいくつもの石仏が隠れていました。

そのひとつは、幼くして亡くなった子どもの供養でしょうか、「故信童子霊位」と刻まれたお地蔵様もあります。

明和三年(1766)とありますから、江戸の中頃です。

さて、また坂の上まで戻って出直しです。
やれやれ・・・。

【今日の散歩道】




  


Posted by 迷道院高崎at 07:54
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2010年11月18日

鎌倉街道探訪記(7)

下った坂をまた上り、細道の十字路まで戻って、南へ進みます。
普通のお宅に見える屋根のてっぺんに、十字架が立っています。

「日本基督教団 高崎南教会」だそうです。
お行儀のいいワンちゃんの親子が、玄関前に座ってました。

いいなぁと思ったのは塀の上の看板です。
日本のお役所のは、どうも説教じみてていけません。

道は左へカーブしますが、コーナーから、城南球場へ降りる石段があります。

鎌倉道は真っ直ぐ崖上に続いていたのでしょうが。
カーブを曲がってすぐ右折すると、「くるみ塚児童公園」の丁字路に出ます。
「くるみ塚児童公園」前の東西の道は、現在「城南野球場通り」となっていますが、他にもいろいろな名前がついています。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、
「城南野球場へ下る坂は稲妻形をした細い道で、振り子のように左右に曲がりながら下りていった。ここに水車があり、通称『車のがけ』と言っていた。」
とあります。

しかし、城南球場は昭和十一年(1936)の完成ですが、大正十三年(1924)、昭和九年(1934)いずれの地図にも稲妻形の道は描かれていません。
もしかすると、前回の記事で紹介した草むらの石仏群のところに下りていく道か、あるいは同じような野道があったのかも知れません。


坂途中の橋には「南二条線」とあり、平成二年(1990)に建てられた標柱には「山茶花(さざんか)坂」と書かれています。


城南球場のモデルは東京神宮球場だそうですが、隣接の城南プールもまた、神宮プールに次ぐ日本水泳連盟公認プールとして、昭和十三年(1938)に完成しました。

ただ、私が子どもの頃は、あまり衛生的とは言えなかったように思います。

水もたぶん1週間に1回くらいしか替えてなかったのではないでしょうか。
井戸水だったのでしょうか、替えた直後はものすごく冷たいのですが、日が経つにつれ温るくなり、水の透明度も悪くなって、底は藻でつるつる滑るありさま、あろうことか、プールの縁にはボウフラまでいました。
今の人なら気絶しそうな水の中で、嬉々として泳いでいた、そんな時代でした。

そんなプールでも、プール開きには必ず神主さんを呼んで、傍らに建つ水天宮様に安全を祈願したそうです。

大正七年(1918)の建立といいますから、城南プールができるずっと前から祀られていたのですね。

塩素滅菌で衛生的なプールとなった現在では、神主さんを呼んで祈願することもなくなったようで、水天宮様もちょっぴり寂しそうに見えました。



【今日の散歩道】



  


Posted by 迷道院高崎at 23:31
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2010年11月21日

鎌倉街道探訪記(8)

前回、「山茶花坂」を下ってしまったので、また、坂をえっちらおっちら上る羽目になりました。
上りついでに、ちょいと寄り道をしてみます。

「山茶花坂」を上った先の信号を右折して100mほど行った左に、高崎温泉「さくらの湯」があります。

昔は「不動かくれの湯」といって、夢枕に現れた不動明王のお告げ通りに掘ったら出たという謂れのある温泉でしたが、平成十七年(2005)に閉鎖されてしまいました。

それを、平成二十年(2008)に「さくらの湯」として再開させたのが、高崎市内の「さくら不動産」という会社だそうですから、やはりお不動様のお導きということなんでしょうか。

「さくらの湯」のすぐ隣には、「白木稲荷大明神」の社があります。

なから由緒あるお稲荷さんで、500年ほど前の永正年中(1504-1521)に和田右兵衛大夫信輝という人が、京都・伏見稲荷大社から分祀勧請したと伝わっています。

和田信輝は、高崎城の前身・和田城を築いたとされる和田義信から数えて、五代目にあたります。

境内には大きな石碑が2つ建っていますが、左側が明治三年(1870)建立の「水天宮」です。

「水天宮」の碑は、城南プールの所にもありましたが、水難除けの神様と言われていますので、近くの烏川で水難に遭う人が多かったということなのでしょうか。

和田氏はもともと相模国三浦一族でしたが、建保元年(1213)鎌倉北条氏との戦に敗れて、上野国に逃れてきます。
鎌倉道は、「いざ鎌倉!」の道ですが、「さらば鎌倉!」の道でもあった訳です。

さて、前置きが長くなりました。現代の鎌倉道へ戻りましょう。
「くるみ塚児童公園」の東に接する道が鎌倉道です。(たぶん)

その道を南へ進むと、大きな家に突き当たる丁字路になります。

右へ下ると城南球場からの道に出ますが、鎌倉道は左へ上ります。
すぐに「さくらの湯」から来る道と交わり、そこを右折します。
右前方に「城南児童公園」が見えてきます。

「高崎の散歩道 第二集」によると、昔ここには古墳の一部と思われる小高い山があり、その周囲にキリスト教徒の墓地がある淋しい所だったということです。

公園の角を右折すると城南交差点に出ますが、その途中の石垣を左に入る細い道を見て、これが古の鎌倉道だったのではないかと直感しました。
先ほど大きな家に突き当たりましたが、もしその家がなかったら、ちょうどこの細道につながるのです。
そのまた延長線上にあるのが、城南小学校です。

古には河岸段丘がつながっていて、鎌倉道はここから学校の中を抜けていたようです。
今は、「城南児童公園」東の道を進み、国道を右眼下に見ながら突き当りの線路まで行って右折し、城南橋を渡ります。

城南橋を渡り終えたところに城南小学校の正門があります。

古の鎌倉道は、小学校の中を抜けてこの辺りに出てきたようです。

さて、今日のお散歩は、ここまでにいたしましょう。


【今日の散歩道】



  


Posted by 迷道院高崎at 22:29
Comments(9)鎌倉街道

2010年11月29日

鎌倉街道探訪記(9)

今日は、城南小学校正門前からのスタートです。

グンブロガー捨蚕さんの踏切シリーズ風の写真ですが、上信電鉄・城南小踏切を渡ります。
城南緑地の向こうに見える青色の橋は、昭和六十一年(1986)完成の城南大橋です。

右手前にある石碑が、その城南大橋によって分断された鎌倉街道を、後世に伝えようと建てられた「鎌倉街道記念碑」です。
「鎌倉街道記念碑」から城南大橋の下を潜る人道橋が、その名も「鎌倉街道橋」です。

何となく、鎌倉時代へのタイムトンネルのようです。
橋の途中から左手に見えてくるお寺は、寛永十年(1633)開山の荘厳寺(しょうごんじ)です。

本堂の左手に見える玉垣で囲まれた大きな墓は、井上保三郎翁の眠る井上家の墓です。
右手に見えてくるのが、新後閑(しごか)町にありながら、通称「多中のこんぴらさま」と呼ばれる琴平神社です。
(多中=和田多中町)

「多中のこんぴらさま」は、石段の両脇を天狗が守っているという珍しい神社です。

石段下にある看板には、文化年間(1804~1817)頃、高崎藩士・寺田宗有(むねあり)が、一昼夜讃岐から分霊を勧請したと伝わる、と書かれています。

飛行機のない時代に、四国まで一昼夜で往復したというんですから、これは確かに天狗のなせる技としか思えません。
「高崎漫歩」「高崎の散歩道」「高崎の名所と伝説」では、三昼夜となっています。

この寺田宗有という人、大変な兵法家だったようで、平常無敵流の剣術の他、居合、砲術、槍術、柔術すべて免許皆伝の腕前だったとか。

そんな凄い兵法家なのに、高崎藩は一刀流以外の流派の剣術師範を認めませんでした。
しかし藩としても、よい剣術師範が欲しかったのでしょう、藩主・松平輝和は51歳の宗有に中西派一刀流の再修業を命じ、宗有は56歳で免許皆伝となります。
宗有は、中西道場三羽烏の一人に挙げられ、かの有名な千葉周作にも組太刀を教えたといいます。

「多中のこんぴらさま」勧請の逸話以外にも、いろいろなエピソードをもつ人のようです。
こちらをご覧ください。→Wikipedia「寺田宗有」

天狗像の後ろに、洞穴があります。

中へ入ってみると、「和田稲荷大明神」と書かれた提灯に明かりが灯っていて、幻想的な雰囲気です。

赤坂ノ庄和田城を築いた、和田氏の一族がこの辺りに居住していたので、その屋敷稲荷だったのではないかという説があります。(「高崎漫歩」土屋喜英氏)

境内の隅には、飯玉神社も祀られています。

新後閑という地名の由来は、和田氏の家臣・新後閑左京亮が居住していたことからだそうです。

その新後閑氏の祖先・倉賀野氏が祀る飯玉神を勧請したのが、この飯玉神社だということです。
初めは、現在琴平宮のある山上にあったといいますが、時代の流れでショバを明け渡すことになったようです。

祭神は倉賀野神社と同じ大国主神ということですが、失礼して中を覗くと、えびす様もいらっしゃいますし、金精様のようなのもいらっしゃいます。

これも、時代の流れというものでしょうか。

もうひとつ面白いお社があります。
昭和四十五年(1970)に建立されたらしい「天満宮」です。

面白いと思ったのは、神社額賽銭箱の奉納者です。


賽銭箱大蔵大臣福田赳夫氏というのは、ぴったりです。
その時、中曽根康弘氏が文部大臣だったら、学問の神・天満宮にぴったりだったんでしょうが、あいにく防衛庁長官だったんですね。
ということで、肩書は拓殖大学総長という訳です。
考えましたねー。

見どころ満載の「多中のこんぴらさま」で引っかかり、まだ200mも歩いていません。
ま、今日はこのくらいにしときましょうか。

【今日の散歩道】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
Comments(8)鎌倉街道

2010年12月01日

鎌倉街道探訪記(10)

「多中のこんぴらさま」の境内から、立派な仁王門が見えます。

仁王門というのは、普通はお寺にあって、寺域を守るためのものです。

その仁王門が、こんぴらさまという神社にあるとは不思議です。


ところが、門の反対側に回ると、ちゃんと右大臣(矢大臣)・左大臣がいます。
これは、神社の神域を守る随身門です。

仁王門随身門が背中合わせになっているという、珍しい門ですね。

門を抜けると、荘厳寺前に出ます。

山号は飯玉山とありますので、こんぴらさま境内にある「飯玉神社」と関係がありそうです。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」には、荘厳寺は明治まで琴平神社の別当であったと書かれています。
新後閑氏が飯玉神社を勧請した時に、祈願所として開基したのが荘厳寺だということです。

そう考えると、先述の門がこんぴらさま側から見たら寺域を守る仁王門で、荘厳寺側から見たら神域を守る随身門となっているのも、納得がいきます。

荘厳寺の一角に、立派な地蔵堂が建っています。

このお地蔵様は、以前、城南小学校下の国道に面したところにあったものを、国道の改修時にここへ移転したのだそうです。

地蔵堂の傍らに、「地蔵菩薩建立縁起」と刻んだ石碑が建っています。

そこには、こう刻まれています。
抑々茲に厄除地蔵菩薩を建立さるの所以は この地にて遭難せる横死者各々の精霊並びに旧避病院跡にまつわる有無両縁の萬霊成佛供養のためなり」

ここに出てくる「避病院」というのは、伝染病患者の隔離病棟のことです。
明治十五年(1882)「高崎伝染病院」として設立され、昭和三年(1928)には「市立城南病院」と改められます。
しかし、人々の間では「避病院」という名で呼ばれていました。
当時の地図を見ると、その名の如く人々が近づかないような場所に置かれていたことが、よく分かります。

昭和二十六年(1951)その「避病院」の跡地に、南小学校の分校として建てられたのが、現・城南小学校です。
「避病院」の西側には深い谷がありました。
学校建設にあたって、この谷にごみを捨てて埋め立て、その上に土盛りをして校庭にしたのでした。
これが、後に悲劇を生むこととなります。

碑文の続きを読んでみましょう。
偶々昭和三十四年四月二十八日夕 城南小学校々庭の西北隅の土砂崩潰により同校学童四名その下敷きとなり惨死す」

その日、子供たちは校庭で野球をしていましたが、落ちたボールを拾うために崖を下りたところ、もろい埋め土が崩れ、四人の命を奪ったのでした。
地蔵堂の中には、その時の写真が掲げられています。

このような悲劇が再発せぬようにとの願いから、広く市民に浄財を募って建立されたのが、このお地蔵様だということです。
取材中にもお参りをする人の姿を見かけましたが、今も多くの方がお参りするようで、堂内には供物や線香が置いてありました。

さて、今日もほとんど歩いていませんが、長くなりましたのでこの辺にしておきましょう。
(参考図書:「高崎漫歩」)


【今日の散歩道】




  


Posted by 迷道院高崎at 19:38
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2010年12月03日

鎌倉街道探訪記(11)

荘厳寺の駐車場の片隅に、大きな石碑が二つ転がって(?)います。

「横澤先生建碑寄附者芳名」と刻まれた二つの石碑には、びっしりと寄付金額と氏名が刻まれています。

その寄付者は、ざっと2000人弱、広範囲な地域の方々です。

不思議なのは、寄付者の石碑があるのに、肝心の「横澤先生」石碑がどこにも見当たらないことです。

近くに古くからあると思われる商店があったので、飛び込んでお聞きしてみると、
「大っきい碑があったんだいね。養蚕の先生の碑だとか言ってたけど、お寺さんに聞いてみ。」
ということで、荘厳寺さんをお訪ねしました。

幸い、ご住職がいらっしゃって、お話を聞くことができました。
「横澤さんという人は、群馬県内の繭の指導者だったんです。横澤さんという人がいて初めて、この辺で桑を栽培し蚕を飼っていたという、大先生だったらしいんです。」

問題の石碑については、このようなお話でした。
「3mくらいの碑があったんです。その碑が建ったのは昭和三年(1928)頃で、脇碑にある方たちの寄付を募って建てて、その寄付の残ったのを、この寺の本堂を建て直す方にも回して頂いたんです。
長い間補修もされずにいて危険な状態になったので、7年ほど前に倒しました。」


「あー、じゃ、もうどこにもないんですね?」
と、がっかりして言うと、意外なお答えが。
「いや、埋まってます。県に寄付するといっても要らないというし、市も要らないという。大き過ぎて砕石にすることもできないんです。結局お寺持ちだからというので、仕方なく埋めました。お金かかりましたよ。」

どこに埋めたかというと、
「駐車場の貯水槽の右側、地下1m位のところに埋まってますよ。また何かの時に、建てる気になった時には、掘り起こしてみるということは、可能性としては残っています。」
ということでした。

その、埋めた石碑にどんなことが書かれていたか、お尋ねしてみると、
「いや、横澤先生顕彰碑としか書かれていなかったです。」
写真や拓本も残っていないそうです。

もっと横澤先生のことが知りたくなって、ネットや図書館で調べてみましたが、出てきません。
ぼっとして(上州弁:もしかして)、金古町「県立日本絹の里」なら分かるかも知れないと思い行ってみましたが、ご存知ありませんでした。

群馬県中から寄付が集まって、大きな顕彰碑を贈られた人物です。
有名な方だったに違いありません。
もし、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ、情報をお寄せ願いたいと思います。

芳名碑にある情報は次の通りです。

昭和三年十一月建立
発起人 勢多郡 田中政徳 群馬郡 関口菊太郎
建方 陸前石巻 岡田谷組

刻まれている地域名で、読み取れたものは次の通りです。
群馬郡六郷村、長野村、相馬村、堤ヶ岡村、国府町、惣社町、清里村、駒寄村、明治村、車郷村、箕輪町、豊秋村、佐野村、岩鼻村、大類村、瀧川村
勢多郡北橘村、敷島村、方賀村、木瀬村
前橋市
多野郡吉井町、多胡村、神流村、八幡村、美土里村、平井村、小野村、入野村、新町
碓氷郡東横野村、八幡村、川田村
佐波郡玉村町
埼玉県児玉郡、大里郡
門弟
技術員
長野県、群馬県、朝鮮

今日は、この碑のことで終わってしまいました。
次回は、鎌倉街道を少し先に進むことにいたしましょう。

【「横澤先生建碑寄附者芳名」碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 17:34
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2010年12月13日

鎌倉街道探訪記(12)

殿様の記事が続きまして、久々の鎌倉街道ネタとなります。

荘厳寺前の、こんぴらさま参道です。

右側の木の塀とブロック塀に挟まれた細い道。
これが鎌倉街道だと言われています。

今日は、ここからスタートです。
すぐに、新幹線の高架でちょん切られてしまいます。
新幹線の下を潜ると、ちょん切られた先の道が見えてきます。
昔は緩やかにカーブしていたんでしょうが、今は不自然にカクカクと曲がっています。

カクンと曲がった生垣の陰に、双体道祖神が建っています。

双体道祖神にしては珍しく、あまりイチャイチャしていません。
天保四年(1833)建立で、僧形の男女が雲の上に乗っている、天孫降臨型と言われるものだそうです。


そのちょっと先へ行くと、「秩父巡礼の道しるべ」という標柱が建っています。




馬頭観世音の台石には、「左婦ぢおか(藤岡) ちゝぶミち(秩父道) 右髙﨑」と刻まれているそうですが、ちょっと判読できません。

200mほど道なりに歩くと、「高崎市佐野長寿センター」という看板の下に、うっかりすると見落としてしまいそうな「天満宮入口」と書かれた標柱が建っています。


角を曲がって程なく、右側に「太天神天満宮」(だいてんじん・てんまんぐう)と書かれたこじんまりした神社があります。

書かれている説明によると、謡曲「鉢の木」で有名な、佐野源左衛門常世が創建したと伝わっているそうです。
昔は境内ももっと広く、荘厳な杉の木立に囲まれていたといいます。

社の後ろに、これも「秩父巡礼の道しるべ」という馬頭観世音があります。



この台石にも、「右やまな ふぢおか ちゝ婦」と刻まれているらしいのですが、判読できません。
しかも、方向が逆になっているようです。

昔、この天満宮前の道は「天神沢」と呼ばれ、佐野窪へ下り、烏川を渡って根小屋・山名へ通ずる重要な道だったそうです。
先ほどの馬頭観世音は、天神沢から左折する小道の角に建てられていたものを現在地へ移設したので、方向が逆になったということです。

天満宮から少し道を下ると、また右側に小さな祠がありました。

中にはお地蔵様が祀られていて、お花や供物も供えられています。







よく見ると、お地蔵様の顔から胸にかけて、白粉でも叩いたように白くなっています。

何か謂れがあるようで気になります。

お隣の家に飛び込んで、お尋ねしてみました。
「よく分かんねぇんだけど、薬師地蔵っつうんで、おしろい地蔵さんつうんで、昔、高崎の芸者さんだかなんかのを祀ってあるんじゃねぇんかねぇ。」

たまたま道を通りかかったご婦人にも、お尋ねしてみました。
「あー、昔からあらいねぇ。はぁ、ここで生まれて70年の上いるけど、分かるようになった時ゃ、はぁ、あったいねぇ。だけど、白いなぁ塗っちゃぁなかったよ。こういうんなぁ、最近じゃねぇんかねぇ。」

荘厳寺「横澤先生」といい、この「おしろい地蔵」といい、どうも鎌倉街道には謎の物が多いようです。
どなたかご存知の方がいたら、ぜひ情報をお寄せください。

この先へ行くと、上信電鉄の線路に出てしまうので、戻ることにいたします。
その続きは、また次回。

(参考図書:「高崎漫歩」「高崎の散歩道 第二集」)


【今日の散歩道】




  


Posted by 迷道院高崎at 07:44
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2010年12月16日

鎌倉街道探訪記(13)

「天満宮入口」の角から南へ、さして面白そうなものもない道を、500mほどひたすら歩きます。

左上に、消えそうな字で「西光寺」と書かれた看板がありました。






殺風景な参道の向こうに見える本堂は、新しく建てたもののようで、「西光寺」と刻まれた石板も、コンクリートの参道も、最近造られたもののようです。

境内に入ると、えらく大きな台石に乗った句碑が目に留まります。

「寒椿 赤し一揆の 血を享(う)けて」という句が刻まれています。
作者は、「ふさの」とあります。

群馬県俳句作家協会々長の、関口ふさのさんです。

関口ふさのさんは、句会「麻苧」(あさお)の主宰でもあり、出版社「あさを社」の社長さんでもあります。
「あさを社」高崎市乗附町にあり、群馬県の郷土書籍をたくさん出版されているので、ご存知の方も多いと思います。
私も、よく昔の写真を「あさを社」さんにお願いして、ブログに使わせて頂いております。

ちょっと話しが横道にそれますが、「あさを社」という社名も、「麻苧」という句会の名前も、横川にある「麻苧の滝」からきています。

「麻苧の滝」の吊り橋を渡ったところの大岩に、「あさを俳句會發祥之地」という石板が埋め込まれています。




由来の石板には、こう刻まれています。
「ここ松井田町横川に生まれ育った清水寥人(しみず・りょうじん)が、俳句誌を同好とともに創刊するに当たって、仰ぎ見ていた麻苧の滝の精の、啓示にも似たひらめきによって誌名を「あさを」と名づけた。創刊は昭和二十八年一月のことである。」
その俳句詩の450号刊行を記念して、碑を建立したものだそうです。

清水寥人氏の句も、埋め込まれています。
                「 天眷の 瀧ひっさげて 裏妙義」

話を戻しましょう。
関口ふさのさんの「寒椿 赤し一揆の 血を享けて」という句ですが、ここにある「一揆」とは高崎五万石騒動のことです。
ここ、西光寺五万石騒動の舞台となったお寺のひとつです。

「高崎五万石騒動かるた」に、
  「抜いたなと、大根投げは 西光寺」
というのがあります。
かるたをクリックして解説をご覧ください。

西光寺は平成十二年(2000)に、開山400年を記念して本堂を改築していますが、その時に、西光寺を菩提寺とする関口ふさのさんの句碑を建てたのだそうです。
驚いたことに、ふさのさんの曽祖父が五万石騒動の旗頭だったんだということを、ふさのさんご自身が仰っています。

そういえば、細野格城「五万石騒動」には、高崎藩の大目付たち役人が、西光寺に百姓たちを集めて説明する中、上佐野村関口源七という人が立ち上がると、居合わせた数百人の者が一度に立ち上がった、という件りがあります。
そのあとに、かるたにある「大根投げ」騒動が起きるわけです。
もしかすると、その関口源七さんが、ふさのさんの曽祖父なんでしょうか。
他にも上佐野関口弥蔵関口久次郎という人もいますので、そちらかも知れません。
いちじんさんのコメントにより、関口弥蔵さんであることが分かりました。(12月17日追記)

西光寺では、「大根投げ」騒動に因んで、毎年11月に五万石騒動犠牲者の追悼法要を行い、その時に婦人会が慰霊の「大根炊き」をするそうです。

とても美しい曲線の屋根を持つ本堂です。







中へ入ると、「欅根七福神」と書かれた、ものすごい彫刻が奉納されていました。
右下の大理石の球は、水に浮いてくるくると回っています。

本堂の正面に、昔からの参道と立派な山門がありました。
どうやら、脇から境内に入ってきてしまっていたようです。

正門の掲示板には、「善因善果・悪因悪果」という言葉がありました。

すべて、自分のせいなんですね。

【今日の散歩道】



【麻苧の滝】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:31
Comments(4)鎌倉街道

2010年12月27日

鎌倉街道探訪記(14)

ご無沙汰をしておりました。
その間も、拙ブログにご訪問いただいた皆さんに、厚く御礼申し上げます。
今までのように頻繁な更新はできなくなりましたが、記事は少しづつ書いております。
忘れた頃に、こそっとUPするかも知れませんが、気付いた時にご覧頂けたら嬉しいです。

では、鎌倉街道の続きです。

西光寺のすぐ西に、有名な「佐野の舟橋歌碑」があります。






歌碑に刻まれた文字はすっかり薄れていますが、その拓本が「高崎の散歩道 第二集」に掲載されていました。

上部には、「舩木(ふなき)観音」という文字と、そのお姿が刻まれています。
「舩木」というのは、舟を繋ぎ止めるための樹のことだそうです。

昔々この辺りに、舟を並べて橋にした「舟橋」というのがありました。

葛飾北斎「諸国名橋奇覧」の中に、その姿が描かれています。

はなはだ危なっかしい橋ですが、その安全を祈って祀ったのが「舩木観音」なのでしょう。

この「佐野の舟橋」には、こんな悲しい伝説があります。
烏川を挟んで、東の佐野には「朝日の長者」と呼ばれた飯野主馬、西の片岡には「夕日の長者」と呼ばれた片岡民部という者がいました。
朝日の長者には那美(なみ)という娘、夕日の長者には小次郎という息子がいます。
若い男女は、いつしか親の目を忍んで夜毎に逢引きをするような仲となりますが、それを知った親は二人が会えなくしようと、橋の板を何枚か外してしまいます。
それとは知らず、いつもの通り闇夜の逢引きに来た二人は、足を踏み外して川の中へ。
翌日の川下で、しっかりと抱き合ったままの二人の死体が発見されました。

碑に刻まれている歌は、この伝説を詠った万葉歌だそうです。
   「かみつけの 佐野のふなはし とりはなち
                親はさくれど わはさかるがへ」


では、いったいどちらの親が舟橋の板を取り外したのか、ということをグンブロでもお馴染みの温泉アドバイザー・小暮淳さんが推理しています。
◇「高崎版ロミオとジュリエットの悲劇」

万葉集が編纂されたのは奈良時代の759年頃だそうですから、佐野の舟橋の悲恋物語は少なくともそれ以前から語り継がれていたのでしょう。

時は下って室町時代の1300年代中頃、ご存知、観阿弥・世阿弥がこの悲恋物語を謡曲「舟橋」として演じています。

なんと、四大悲劇で有名なシェイクスピアが生まれる200年も前に、既に日本では能舞台で悲恋物語が上演されていたのですから、驚きです。

「佐野の舟橋歌碑」の裏面の文字は何とか読み取れて、「古道佐野渡 文政丁亥孟冬延養寺良翁識」とあります。
文政の丁亥(ひのと・い)の年は文政十年(1827)、孟冬(もうとう)は陰暦の十月だそうです。
新(あら)町延養寺の住職・良翁という人が、この歌碑を建立したのです。
それにしても、新町上佐野とはえらく離れており、しかもすぐ近くに西光寺があるにも拘らず、なぜ延養寺の住職が建立したのか不思議です。

良翁師は、歌碑を建てる前年の文政九年(1826)に隠居して、延養寺の末寺である新後閑村荘厳寺に入っています。
荘厳寺西光寺も宗派は同じ高野山真言宗ですから、西光寺荘厳寺の兼務寺だったのかも知れません。
だとすれば、良翁師があそこに歌碑を建てたのも合点がいきます。

さて、やっと一記事書き終えました。
次回のUPがいつになるか分かりませんが、読んで頂けることを楽しみに、ぼちぼちと書き続けて参ります。
よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げますm(__)m

【佐野の舟橋歌碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 22:11
Comments(6)鎌倉街道

2011年01月02日

鎌倉街道探訪記(15)

みなさん、明けましておめでとうございます!
今日は1月2日で「書きぞめの日」、今年最初のブログ記事にはちょうどよい日かも知れません。
どうぞ、どなたにも幸多き年となりますように。

「佐野の舟橋」歌碑の建っている辺りにあったといいますが、ここから川の姿は見えません。

長い年月の間に、川も流れを変えたのでしょう。
現在の烏川は、ここよりずーっと西(左)を流れています。

川を目指して歩いてみましょう。

墓地の角を左に曲がり、さらに左に曲がり、歌碑の下の坂道を下ります。


新幹線の高架下を潜ると、左前方にとてつもなく大きなマンションがそびえています。
ある年代以上の方には、「山崎病院のあったところ」と言えば、分かるでしょうか。

まっすぐ進むと、今どき珍しい、木の橋が現れます。
上佐野寺尾をつなぐ「佐野橋」です。

「高崎百年」に、昔の「佐野橋」の写真が載っていました。↓

欄干もなく、かつての舟橋に毛が生えたような趣きですが、川が増水した時には取り外して下流に流し、後で引き揚げて元に戻せるようになっていたそうです。

平成六年(1994)に、鉄の橋脚に木造の橋桁という現在の構造になりますが、平成十九年(2007)にはまた流されて架け直されています。

なぜか懐かしーい気持ちになる「佐野橋」
そこに佇むといつまでも景色を眺めていたくなります。
軽四以上は通れませんきっと昔もこんな風景
滔々と流れる烏川
横たわる山名丘陵
上信電鉄の鉄橋と
観音様浅間山
激流に思いを馳せる
那美小次郎の物語
気付けばいつしか
日は西に
帰ろかなー
帰るのよそうかなー

いつまでも、残っていてほしい橋です。

【今日の散歩道】



  


Posted by 迷道院高崎at 18:47
Comments(25)鎌倉街道

2011年01月07日

情報ありがとうございます!

ありがたいことに、拙ブログを読んで下さってる方から、貴重な情報を提供して頂きました。

ひとつは鎌倉街道探訪記(11)でご紹介した、あの、謎の横澤先生の石碑の写真です。

城南プールの真上がご実家だったとコメントをくださった、ちゃかぼーさんから、
「古い写真を整理していましたら、荘厳寺の駐車場にあった横澤先生の石碑が写っている写真がありましたので・・・」
と、左の写真を提供して頂きました。

この写真のおかげで、横澤先生の下のお名前が「友壽」だということが分かりました。

これを手掛かりに、また調査の足を進めることができそうです。
もし、「横澤友壽」という方をご存知の方がいらっしゃいましたら、また情報をご提供願いたいと思います。

もうひとつは、いつも高崎五万石騒動のことを教えて頂いてるいちじんさんが、わざわざ私の家まで届けてくれました。

細野格城著「高崎五万石騒動」を、あさを社が復刻出版した際に、各氏が寄稿した文を栞にしたものだそうです。

その中に、鎌倉街道探訪記(13)で、五万石騒動に関わったという関口弥蔵について、その曾孫にあたる関口ふさのさんが書いた「曽祖父 関口弥蔵」という一文があります。

文中で最もびっくりしたのは、鎌倉街道探訪記(10)に出てくる「避病院」は、もと牢獄の跡だったと書いてあることです。
今まで「避病院」のことを書いてある資料はいくつか見ましたが、牢獄があったという記述には行き当たったことがありません。
もしかすると、敢えて触れることを避けていたのかも知れません。

いつもいつも、読者の皆様のおかげで、拙いブログに深みと広がりを持たせることができています。
本当にありがとうございます。

これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。



  


Posted by 迷道院高崎at 22:05
Comments(6)鎌倉街道

2011年01月16日

鎌倉街道探訪記(16)

佐野橋の近くに、「常世(つねよ)神社」があります。

謡曲「鉢木」で有名な、佐野源左衛門常世の居宅跡と伝えられています。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、こんな記述があります。

喬木脩竹に介し、鬱蒼たり。中に小石祠あり。土人之を常世神社と称す。
上野風土記上野志ならびにいふ、常世は下野佐野の人なり。その領地伯父源藤太常景の横領する所となり、この地に来たり蟄居すと。
或いは然
(さ)らん。(もしかするとそうかも知れない)

狭い参道を進むと、「お願い 扉を開けて自由にご覧ください。
お帰りの時閉めて下さい。」
という、風変わりな看板が建っています。



言われる通り左の掲示板のような扉を開けると、佐野源左衛門常世が鉢の木を鉈で伐っているところの絵が現れました。

謡曲「鉢木」のあらすじは皆さんご存知と思いますが、原文はこんな粋な文句で始まります。

信濃なる、浅間の岳に立つ煙、遠近人(おちこちびと)の袖寒く、吹くや嵐の大井山、捨つる身になき伴の里。今ぞ憂き世を離れ坂、墨の衣の碓氷川、下す筏の板鼻や、佐野の渡りに着きにけり。
急ぎ侯ふほどに、これははや上野の国佐野のわたりに着きて候、あまりの大雪にて候ふほどに、この所に宿を借り泊まらばやと思ひ候。

佐野源左衛門常世の墓といわれるものが、栃木県佐野市鉢木町願成寺にあるので、謡曲「鉢木」の舞台は栃木県佐野だと思っている人もいるようですが、上の文からもはっきりと高崎佐野であることが分かります。

宿を借りたいと思っているのは、最明寺入道という修行僧。
その実は、鎌倉幕府第五代執権の北条時頼です。
病に倒れたため、執権職を義兄の北条長時に譲って出家し、諸国を巡歴していました。
常世は一夜の宿を乞われますが、こういって断ります。

易きほどのおんことにて侯へども、あまりに見苦しく候ふほどに、お宿はかなひ候ふまじ、この山端をあなたへ十八町ほどおん出で候へば、山本の里と申して泊まりの候、日の暮れぬ先にただひと足もおん急ぎ候ヘ
おん痛はしくは侯へども、われら二人さへ住みかねたる体にて候ふほどに、なかなか思ひも寄らず侯。

「山本の里」というのは、山名「山ノ上碑」の下辺りだったそうです。
一旦は断ったものの気の毒に思った常世は、僧の後を追って連れ戻します。
修行僧に、わずかに残る粟(あわ)飯をふるまい、大切にしていた鉢の木を切って囲炉裏にくべ、「いざ鎌倉」の心意気を語るクライマックス・シーンとなります。

それがしもと世にありし時は、鉢の木に好きあまた持ちて侯へども、かやうに散々の体と罷り成り、いやいや木好きも無用と存じ、皆人に参らせて候ふさりながら、いまだ三本持ちて侯、あの雪持ちたる木にて侯、これは梅桜松にて、それがしが秘蔵にて候へども、今夜のおもてなしに、この木を切り火に焚いてあて申さう。

かやうに落ちぶれては侯へども、今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともこの具足取つて投げ掛け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に弛せ参じ着到に付き、さて合戦始まらば、敵大勢ありとても、一番に破(わ)つて入り、思ふ敵と寄り合ひ、打ち合ひて死なんこの身の、このままならば徒らに、飢ゑに疲れて死なん命、なんぼう無念のことざうぞ。

さて、それから暫く日が経って、鎌倉幕府から諸国へ非常招集がかかります。
粗末な装備で駆け付けた常世は、あの雪の夜の修行僧が北条時頼であったことを知ります。
時頼は、常世に親しく声を掛け、横領された領地を戻し、さらに、常世が薪にした梅桜松の鉢の木に因んで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝(松井田)をも所領として与えたというお話です。

参道のいちばん奥に、こじんまりとした社があります。







この中に、「土人之を常世神社と称」したという石祠が納められています。

石祠の前には、「佐野源左衛門常世神社」と書かれたお札と、「いざ鎌倉」常世の姿と思われる絵札とがあります。

また石祠の上には、観世流長野滔声会の奉納額と、赤坂町の老舗菓子店・七ふく(現・鉢の木七冨久)の奉納額が掲げられていました。

「常世神社」「鉢の木七冨久」さんも、どちらかといえば町の中心から離れてはいますが、由緒ある歴史に因んだ名所と銘菓です。
高崎の観光資源として、もっともっと市民に知られていてもよいように思います。

【常世神社】


【鉢の木七冨久】




  


Posted by 迷道院高崎at 21:33
Comments(16)鎌倉街道

2011年01月23日

鎌倉街道探訪記(17)

「常世神社」から新幹線の高架に沿って南へ300mほど行ったところに、「定家(ていか)神社」があります。

社殿に比べ、境内の広さにびっくりしますが、戦前まで「定家さまの森」と言われるほど、木がこんもり茂っていたそうです。

さて、「定家」とは、小倉百人一首の撰者・藤原定家(ふじわら の さだいえ)のことです。
その藤原定家がこの神社のご祭神なんですが、おそらく全国でも定家を祭神として祀っている神社は、ここだけではないでしょうか。
いつ、どのような経緯で創建されたのでしょう。

「定家神社由緒略記」には、こう書かれています。

「創建年月詳か(つまびらか)ならず。相伝ふ処によると、定家は往時この地に来たり、草菴(そうあん)を結んで暫く居住の後、帰洛に臨みて別れを惜しみ、護持する所の観音像を土人に附与し記念とす。
後土人欽慕の余り祠を建てこれを祭ると。観音像今尚存在せり。」


歌聖・藤原定家がこの地に住んでいたとは、なんと凄いことでしょう!
と思ったら、続けてこう書かれています。

「往時この地を髙田の里と称し、上野國神明帳群馬郡西部に従三位髙田明神あり。
是によって之を観すれば髙田明神は即ち本社にして、而して新古今集の
歌<駒止めて 袖打ちはらふ かげもなし
            佐野の渡りの 雪の夕暮れ>
詠ぜし紀伊國佐野を此処と誤認して定家を併祭せしより、後世遂に定家神社と称したるに至りし由、古文書による。
現社殿は元文四己羊年(1739)造営。」


ということで、土地の人の創作だったようです。
ただ、近くの「佐野の舟橋」「常世神社」も、謡曲と結びついています。
その謡曲の中には、「定家」という演目もあるのです。
おそらく、このつながりで「定家神社」を産み出したのだと思います。
たとえ創作だったとしても、昔の人の教養の高さを讃えるべきではないでしょうか。
高崎としては、全国的にも珍しい「謡曲三名跡」を持つことになった訳ですから。

最近塗り直したのであろう社殿の鮮やかな色は、間近で見ると、まるで奈良京都にいるような錯覚を覚えます。






その後ろの本殿はさらに鮮やかな極彩色で、見事な彫刻が浮き上がって見えます。

拝殿の中を覗くと、「あるがごとく」と読むのでしょうか、「在如」と書かれた額が掛かっています。

少し褪色している天井画ですが、定家神社らしく和歌も書かれていて、面白いと思いました。



また別の額には、小倉百人一首の中にある定家の唯一の歌、
「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に
   焼くや藻塩の 身もこがれつつ」

が書かれています。
「松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、
    来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。」
という恋歌ですが、定家神社にはこの歌にまつわる、こんな言い伝えがあります。
「この歌を小さな半紙に書いて拝殿の格子に結んでおくと、恋人を慕う若人は必ず結ばれる。」
というのです。
何とも粋な縁結びの神社ではありませんか。

「定家蔓(ていかかずら)」という植物もあるそうですね。

この名前は、謡曲「定家」に由来するのだそうです。
藤原定家と、後白河法皇の第三皇女・式子内親王との恋物語です。

山本純士氏のサイトでご覧ください。
     ◇定家葛(「季節の花 300」より)

境内にこの「定家蔓」をたくさん植え、先の言い伝えをもっと広めれば、定家神社を訪れる若者がもっと増えるのではないでしょうか。

境内の中に、ちょっと面白いお堂があります。

昔は、道を隔てた東側にあったそうですが、昭和の初めに定家神社境内に移されたという「仁王堂」です。




仁王様というと、大概はお寺の山門で睨みを利かせているものですが、神社の境内でお堂に入っているというのは珍しいんじゃないでしょうか。

さらに珍しいのは、その配置です。
普通は、向かって右側が口を開いた「阿形(あぎょう)像」、左側が口を閉じた「吽形(うんぎょう)像」ですが、ここの仁王様は左右逆になっています。
どうやら、お堂を移した時に逆に置いてしまったようですが、この配置になっているのは奈良・東大寺仁王様だけだそうです。
経緯はともあれ、この全国的にも珍しい「定家神社」を、もっと積極的に、もっと大々的に、PRしてもよいのではないでしょうか。

いやー、佐野って面白いところですねー!

【佐野の謡曲三名跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 21:22
Comments(4)鎌倉街道