2018年11月20日

号外!連雀町の百年写真展開催中!

連雀町にある、安政三年(1856)創業の「樋口陶器本店」


今そこで、「連雀町の百年懐かしい写真展」を開催中です。



既存の写真集には載っていない、貴重な写真が展示されていますので、必見です。
また、今は手に入らない昔の陶器が格安で売り出されています。

展示期間は、今月30日(金)までの予定です。
お見逃しなきよう、ぜひ足をお運びください。


【樋口陶器本店】


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Posted by 迷道院高崎at 15:26
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2018年11月18日

史跡看板散歩-116 赤坂町十一面観世音

赤坂町恵徳寺「十一面観音堂」



幟にも染め抜いてありますが、観音堂左手前の石碑にも「上野国三十三番札所」と刻まれています。


「上野国観音札所」は全部で三十四ヵ所あって、高崎市には五ヵ所あります。
・二十番 倉渕町三ノ倉観音堂
・二十一番  榛名町榛名神社
・二十二番 中室田町岩井堂
・三十三番 赤坂町恵徳寺
・三十四番 石原町清水寺

石碑には、
 「めぐりきて
     その名をきけば 赤坂の
         心の月は いまぞはれゆく」

というご詠歌が刻まれています。

毎年八月十日が、大縁日です。


この日は、恵徳寺の奥様が、素敵な笑顔で手首にこよりを結んでくれます。


この日に参詣すると、四萬八千日参詣したのと同じ功徳があるそうです。
東京上野浅草寺四萬六千日より二千日多いと言うんですが、そもそも、その四萬六千日って何だってぇ話です。

一説には、一升枡に米を入れるとそれが四萬六千粒あるんだそうで(誰か数えたのか?)「一升」「一生」に引っかけて四萬六千日なんだとか。
ただ、46,000日を365日で割ると126年になりますので、一生分にたっぷりお釣りがきます。
そこへ二千日多かったところで、さほど違いはなさそうですが・・・。

ご開帳の日でもあるので、三体の観音様のお姿を見ることが出来ます。


左から、千手観音聖観音十一面観音だと思います。

看板にもあるように、この十一面観音は明治四十一年(1908)中山道高崎宿西出入り口のお堂から移されました。
「長松寺」のすぐ坂下にあった、観音堂です。


このシリーズ最初の「番所跡」にも、ちょこっと出てきます。

大縁日は夜祭なので、暗くなってからが本番です。





一生分の功徳を頂きました。


【赤坂町十一面観音堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2018年11月11日

史跡看板散歩-115 六社稲荷

常盤町の信号を西へ15mほど行くと、左へ斜めに入る細い道があります。
60mほど行くと児童公園があり、その一角にあるのが「六社稲荷」です。




史跡看板は2つ建っていて、その1つからは町を愛する思いと願いが伝わってきます。



「六社稲荷」奉賛会の会長は、中村染工場の先代の社長なんですね。

ところで、この近くには「五社稲荷」というのもあるんです。


場所は「高崎神社」境内の北の端、美保大国神社の前。

「五社稲荷」については、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」にこんな話が載っています。
田町に清水関八という人がいた。
それは明治十四年(1881)十月なかばのことだった。
町を歩いていて現金七百円とその他金券などをなくした。
清水関八は五社稲荷さまの信仰者だったので、その金品が出るかどうか、神狐におうかがいを立てた。
『その紛失品は七日間に得させよう。そのかわり、われをこの地に勧請せられよ。』というのが、神のお告げだった。
関八はこれを拝承した。
はたせるかな、その金品は柳川町のある人の庭内で見つかった。
霊験まことにあらたかのことだった。
そこで関八は一社一窟を設け、社守を置こうとしたが、あらたに一社を創建することは許されなかった。
しかしそれでは神様との約束にそむくことになるので、どうしたらよいか、熊野神社(いまの高崎神社)の神主高井東一にはかり熊野神社に移転した上和田稲荷神社を中心に五社稲荷を合祀した。」

民間信仰トップの座を占めるお稲荷さんは、どこの町にもあっていつも庶民とともにあります。
世情混沌とする今こそ、大切にしたい神様のように思えます。

【六社稲荷】

【五社稲荷】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:50
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2018年11月08日

号外!高崎城押し出しウォーキング!

明治二年(1869)十月十七日、柴崎村天王の森(現進雄神社)に集結した高崎藩古領(五万石)の農民約四千人が、年貢減免の願書を手に高崎城大手門へ押し出し(デモ行進)を決行しました。

来年がその150年目ということで、「高崎五万石騒動150周年記念行事」を企画しています。

さて、そのプレイベントとして「高崎城押し出しウォーキング」を実施するため、着々と準備を進めてきました。




そして11月11日(日)、ついにその日がやってきました!


ぜひ当日、「高崎城押し出し」を見に来てください。

できれば、あなたも押し出しに参加してみませんか。
参加方法は、二通りあります。

1.フルコース参加 残3人まで
    (途中バス利用 普門寺-義人堂-安国寺-
           高崎城-大森院-進雄神社-普門寺)
・集合場所  下中居町「普門寺」
駐車場有
・集合時間  午前10時
・参加費用  3,000円
・申込み先  実行委員会事務局 吉井一仁    
電話090-1600-4082

2.ショートコース参加(徒歩 安国寺-高崎城)
・集合場所  慈光通り「安国寺」前
駐車場無し
お近くの有料駐車場をご利用ください
・集合時間  午前11時
・参加費用  無料
・申込み先  当日安国寺前にて

みなさんのご参加を、心よりお待ちしております!


【普門寺】

【安国寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 17:57
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2018年11月04日

史跡看板散歩-114 根岸峮太郎翁頌徳碑

国道354号柴崎町の信号を京目町方向へ700mほど、「中大類町公民館」の所にその頌徳碑が建っています。



碑背下部に略歴が刻まれています。
翁は萬延元年九月七日大類村大字柴崎の豪農の家に生まれた、體軀偉大、言行温和、識見髙邁、中庸を處世訓とし、人に怒らず、常に己を空うして社會福祉のため専念した。
郷黨其の徳を敬って慈父の如く、其の業蹟を稱へて慈母の如く慕った。
翁の如きは之を古今に求めて稀に見るところである。

翁は明治十八年廿六歳村會議員を発足とし、県議會議員に五回、衆議院議員に三回當選した。
村長に三回就任、同時に町村長會長を兼ねたのは実に七十四歳の髙齢で始められてゐる。
蓋し翁の足跡を辿れば即ち羣(群)馬郡史であり羣馬県史である。
昭和二十年十二月十五日、その輝ける公生涯を惜しまれつつ八十七歳を以て終焉を告げた。」

根岸峮太郎の家は、前回記事の「大澤雅休頌碑」のすぐ近くです。
「根岸峮太郎翁頌徳碑」が雅休の書であるというのも、当然なのでしょう。

倉賀野から元島名への道は、古くは「米街道」と呼ばれ、前橋渋川を経て越後まで続く道でした。

当時の「米街道」は、くねくねくねくねと曲がりくねった細い道で、翁の働きで開通した「倉賀野-元島名線」の真っ直ぐな道路は、「峮太郎道路」と称賛されるほど交通の便が良くなったのです。


老後は「君山」という号で書を能くし、好きな囲碁を楽しんだということです。
翁は頌徳碑の建つ前年八十七歳でこの世を去りますが、葬儀は一町他四村による組合葬を以て執行されたという一事を以てしても、郷土への貢献度がいかに大きかったかが偲ばれます。

【根岸峮太郎翁頌徳碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2018年10月30日

号外!お茶の水村園で秤の展示会開催!

本町の茶舗「水村園」で、秤(はかり)の展示会が開催されます。
その名も、
  「蔵の中に眠っていたハカリが歴史を語りはじめる」


記事の写真は「上皿竿秤」という種類ですが、展示会ではその他様々な種類の秤が展示されます。
何しろ、以前は売るほどあったんですから。


準備は着々と進んでいます。



中では、美女二人がディスプレイの真っ最中。


実は、歴史民俗資料館の大工原美智子さんが、展示のお手伝いをしてくれています。
素敵な大工原ワールドが、水村園の中に展開されることでしょう。
見逃すと勿体ないですよ。
ぜひ、お出かけください。

期  間: 11月1日(木)~30日(金)10時~15時
 (日曜・祝日・第2土曜・第4土曜は休み)
入場料: 無料
イベント: お茶の計量体験
14日(水)、21日(水)、28日(水)
10時~11時30分
体験者には、水村園オリジナルほうじ茶ティーバッグ(5g入り6袋)プレゼント

そうそう、11月1日が「計量記念日」で、11月が「計量強調月間」ということで、高崎市役所一階ロビーにも、歴史民俗資料館から出張してきた度量衡機器が展示されています。
ぜひ、市役所まで足を延ばしてみてください。


そして、どうせそこまで来たんなら、大信寺にある高崎秤座当主・守随彦三郎のお墓も見に行ってみましょうよ。


どうぞ、お楽しみを!

【水村園】

【守随彦三郎のお墓】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2018年10月28日

史跡看板散歩-113 大澤雅休頌碑

柴崎町南の信号を東に入り、


80mほど行くと、左手奥に大きな石碑が見えてきます。
「大澤雅休」(おおさわ・がきゅう)の頌碑です。


碑へは、もう一つ先の小道から入ります。



「雅休」は雅号だと思っていたのですが、実は本名で「まさやす」と読むのだそうです。

あまり裕福とは言えない農家だったといいますが、名前の「休」「一休禅師」の一字をとったということですから、風雅を好む家柄だったのかも知れません。

看板にも書かれている歌誌「野菊」昭和十六年三月号に自叙伝が載っていて、十六~十八歳の頃をこう回顧しています。
小学校を卒業して、高山社蚕業学校の別科性として春蚕期間だけ三ヶ年、多野郡小野村中村の塚越分教場に入り、養蚕の実習をした。
蚕具洗い、桑摘み、蚕室消毒等三ヶ月間寄宿生活、奉公人と家族と男女の混合生活は幾分世の中のことを知り始める自分にとって無駄事ではなかった。
姉の婿が小学校の教員をしてゐたので、その世話で私が代用教員になったのは、養蚕の学校を卒業した年の九月である。
同郡の金島村の村長の家の一角を借りて自炊してゐたのであるが、この間に姉を死なしてしまった。姉は肺炎であった。
月給は九円であったが、それでも三円くらい家に送ったものだ。」
(みやま文庫「泰一郎・きち・雅休」より)

雅休はもともと絵をかくのが好きだったようですが、歌や書に興味を抱いたのは倉賀野小学校勤務時代の友人たちの影響があったようです。

看板の文中「書の道・墨書での新境地(前衛書道)を拓き」とある雅休の書で、代表的なのはこれでしょうか。


「山嶽重疊」という字だそうです。
この作品について、雅休はこんなことを言っています。
『山嶽重疊』という言葉と取り組んで年余になる。
山を離れると一層山を恋う。ふるさとの山。その畳なわり(たたなわり:重なり合って連なること)、たゝずまい、その現象的なものに取り組んで其の中に浸れるものをという追及を長いことつづけたあげくに、それを超えた別の世界、山嶽重疊の語面と実相そのものを離れて、只管に作者のイメージとしてのそれを表はそうとした。」

雅休の歌碑が、頌碑の左にあります。


  ひたむきに
    ひとつのものを 押しすすめ
      いゆかばよろし ゆきつかずとも


昭和四十七年(1972)に「大澤雅休頌碑」を建立したのは、前々から雅休を敬慕し、生まれも隣村・下大類村であった建設業経営者・信沢克己氏です。
信沢克己氏は、山名丘陵に24基の万葉歌碑を建てて「石碑之路」(いしぶみのみち)を整備した人物です。
   ◇鎌倉街道探訪記(25)

信沢氏が「石碑之路」に建てた碑の内、6基が大澤雅休の揮毫によるものです。





散策にはよい季節になりました。
みなさんも「石碑之路」散策で、「雅休碑」探索はいかがでしょう。


【大澤雅休頌碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
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2018年10月21日

史跡看板散歩-112 旧中山道「左道通行」道標

吉井町を巡ってる間に、ひっそり追加された看板がいくつかありまして。

まずは、倉賀野町「左道通行」道標です。




看板の後半部分に、行方不明になっていたこの道標が発見されて再び設置された旨が記載されていますが、「隠居の思ひつ記」をご愛読いただいている方には、すでにご存知のことでしょう。

ご存じでなかった方は、過去記事をどうぞ。
  ◇幸運を呼ぶ道標 「左道通行」


【「左道通行」の道標】


  


2018年10月14日

史跡看板散歩-番外編 富岡の小野小町(2)

前回に続き、富岡「小町山得成寺」の話です。

「得成寺」には、晩年の小町の姿を彫った、運慶「無我無心像」というのもあります。
これも、徳川家から寄進されたものだそうです。

本物は4月8日の花まつりの時にしか見られないということですが、本堂のガラスケースの中にその写真が飾られていました。


晩年とはいえ、絶世の美女・小野小町とはとても思えない姿ですが、どうやら平安時代に書かれたという「玉造小町壮衰書」に出てくる姿のようです。


漢字がびっしりですが、こんな感じでしょうか。
私が道を行く途中、道の傍らに一人の女人がいた。
容貌は憔悴し、身体は痩せ、髪は霜にあたった蓬のように白い。
肌は凍った梨のように皺が寄り、骨は飛び出し筋が浮き出て、顔の色は黒く歯は黄ばんでいる。
裸形にして衣はなく、履物もなく素足のまま。
声は震えてものを言うこともできず、足は萎えて歩くこともできない。
食べ物は尽きて、朝夕の食も支え難く、糠や屑米も悉く終わり、いつ命が終わるかも知れない。
左のひじには破れた竹籠を懸け、右手には壊れた笠を提げて、首には一つの包みを掛け、背には一つの袋を背負っている。」
(参考:杤尾武校注「玉造小町子壮衰書」)

将軍・徳川家綱が、なぜ全盛期の「小町の襖絵」と晩年の「無我無心像」の二つを寄進したのか、意味深です。

あ、そういえば、横尾応処斎の作品を捜して吉井町穴岡「弥勒寺」へお邪魔した時、本堂の廊下にこんな絵が掛かっていました。


ガラスで反射して見にくいですが、見にくくてよかったかも知れません。
十二単の女性が、おどろおどろしい骸(むくろ)に変化していく様子が描かれています。
「九相図」というらしいんですが、もしかするとこの女性は小町かも知れません。

  花の色は
   移りにけりな いたづらに
    わが身世にふる ながめせしまに

小野小町



【得成寺】


【弥勒寺】



  


2018年10月07日

史跡看板散歩-番外編 富岡の小野小町(1)

吉井町にある「小野小町の休み石」のつながりで、小町が庵を造って仏道修行をしたという、富岡市小野地区(相野田)へ行ってみました。

すると早速、こんなのを見つけました。

なるほど、でしょ?

その道路沿いに、「小野小町開基」という、その名も「小町山得成寺(とくじょうじ)」の案内板が建っています。


「得成寺」は、街道から入って200mほど坂を上った所にあります。




「休み石」の史跡看板では「庵を造って仏道修行をした」とだけでしたが、得成寺の由緒看板によれば、ここから「鏑川の岸辺にある薬師如来」まで、千日通って祈願したということなんですね。

石段を上って山門を潜ると、「将軍の命令で建立された」というだけあって、立派な本堂と鐘楼がありました。



本堂と寺務所の間に、「小町の化粧の井戸」というのがあります。



この看板では、「晩年」となっていますが、前回の秋田県湯沢市雄勝町の伝承では36歳の時と伝わっていますから、晩年には早すぎます。
因みに同伝承では92歳まで生きたことになっていますし、能の「卒塔婆小町」は100歳でしたよね。

寺務所へ行き、襖絵を見せて頂けますかとお尋ねすると、突然の訪問にもかかわらず快く本堂に上げて頂き、ご住職自らとても丁寧な説明をして下さいました。

大きな板襖に描かれている小町は、美しさ最盛期の姿だとか。
宮中に仕えたのは十六歳からだそうですから、二十歳前後なのかな。


これは、徳川家四代将軍・家綱から贈られたものだそうです。

由緒看板には、「八代住職は亮賢と言い、五代将軍綱吉の母桂昌院の信任を得・・・」とあるだけですが、ご住職のお話によると、三代将軍家光には子ができても女児ばかり、側室の桂昌院は何としても男児が欲しいとして亮賢に護摩祈祷をしてもらったところ、みごと男児が生まれ、この子が後の綱吉という訳です。

そんな縁で、この寺は以降徳川家の手厚い庇護を受けるようになり、寺院も新しく建て直され、山号に因んだ小町の襖絵が贈られたのだそうです。

由緒看板の最後に、「付近には小町が千日の願をかけた『塩薬師』、抜髪を埋めて塚とした『小町塚』などがある」と書かれています。

ご住職にお聞きすると、「小町塚」「塩薬師」へ行く途中の畑の中にあったが、土地所有者の代が変わった時に、その様な塚だとは知らなかったようで、崩されてしまって今は跡形もないということです。
あぁ、残念なことをしました。
そうならないためにも、史跡の看板というものは必要だな、とつくづく思います。

「塩薬師」はちゃんと残っているというので、行ってみました。
「得成寺」から南へ1.7kmほど、鏑川に架かる「塩畑堂橋」の袂に「塩薬師如来」の案内看板が建っています。


右の道を下りると、山門のようなお堂のような休憩所のような建物が建っていますが、掲げられた扁額にはうっすらと「瑠璃光殿」の文字が読めます。


たぶん、昔はこの中に薬師様が安置されていたのではないでしょうか。
今は、その建物の後ろに「塩薬師」の塔があります。


たくさんの石の薬師像が祀られていて、その昔は「石薬師」と呼ばれていたのだそうです。
きっと、病が治るとお礼に薬師様の石像を供えたものが、これだけの数になったのでしょうね。


看板中ほどに「堂傍の霊水」とありますが、なんでも塩分を含んだ水が川床から湧いていたらしいです。
それで小町はお礼に塩を積み供え、「塩薬師」になったという訳ですね。

そういえば、吉井町には「塩川」という地名があって、その川床からも塩分を含む鉱泉が湧いていて、それを利用した「玉子湯」というお風呂がありましたっけ。
何だか、富岡小町伝説と関係がありそうな。

さて、もう一度「得成寺」へ戻ることといたしましょう。


【得成寺】


【塩薬師】



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2018年09月30日

史跡看板散歩-111 小野小町の休み石

国道254号線の吉井町交差点から富岡方面へ340m、横断歩道先の左側です。


入口右に「安全地蔵尊」の標柱、左に史跡看板が建っています。


その一番奥に、「安全地蔵尊」「小野小町の休み石」が並んでいます。


史跡看板を見てみましょう。


小野小町にまつわる伝承は、それこそ全国津々浦々にあるようですが、生誕の地と言われる秋田県湯沢市雄勝町に伝わる話で見てみましょう。
京の都から小野良実(おののよしざね)という名の貴族が、郡司として出羽国福富の荘桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)にやってくる。
大同四年(809)良実は地元有力者の娘である大町子(おおまちこ)との間に子をもうける。
その子の名は比古姫(ひこひめ)、後の小野小町である。
比古姫を生んだ大町子は間もなく亡くなってしまう。
比古姫自身は良実の教育により卓越した教養を身に着け、弘仁十三年(822)十三歳の時、郡司の任を終えた良実と共に都に上る。
天長二年(825)比古姫十六歳の時、宮中に仕える。
この間に比古姫は「小野小町」と呼ばれるようになる。
承和十二年(845)小町三十六歳の頃、故郷が恋しくなり、出羽国福富の荘に戻る。」
(逆木一(さかき・はじめ)氏「言の葉の穴」より)

ということになると、この「休み石」に小町が腰かけたのは、今から1,170年も前です。
よくまあ、今日まで連綿と語り継がれてきたもんです。

そういえば、「卒塔婆」に腰かけた小町の話というのもあるんですね。
ブログをやってると、時々あまりのタイミングの良さに驚くことがありますが、9月25日の上毛新聞に、その「卒塔婆」に腰かけた小町の話が載っていました。


「休み石」に腰かけたのは36歳の小町、「卒塔婆」に腰かけたのは100歳の小町ですけどね。

ところで、36歳の小町は、なぜ急に故郷が恋しくなったのでしょう。

絶世の美女であった小町ですから、言い寄ってくる男は数多いましたが、その誰にもなびくことはなかったそうです。
袖にされた男どもは面白くありません。
男だけじゃありません、そんな小町を妬ましく思っていた女性だって少なくなかったに違いありません。
そういう人たちが陰に陽に、あることないこと言いふらすのは昔も今も同じ。
きっと、都という所につくづく嫌気がさしちゃったんでしょうね。

それにしても、の都から秋田までの女旅、さぞ大変だったことでしょう。
看板にあるように、「富岡市小野地区で病に倒れ」てしまい、そこで「庵を造り、仏道修行をした」というのです。

から中山道を通り信州から姫街道を通ってきたとすると、「休み石」で休んだのは、病み上がりの小町ということになります。

富岡まで、足を延ばそうかな。

それじゃあ、次回。


【小町の休み石】



  


2018年09月23日

史跡看板散歩-110 舟石と住吉神社

頌徳三碑から南へ2.3km、見逃しそうな所に「舟石」と史跡看板が乗っかってます。


車を止めて石垣の上に登ってみると、けっこう大きな石で、たしかに舟の形をしてます。



ま、後ろの山から転げ落っこってきたに違いないと思うのですが、石の大きさといい、形といい、昔の人の想像力を刺激するには充分なものがあります。
羊太夫伝説が、古くから人々の心に根付いている土地ならではのことでしょう。

「舟石」から40mほど先にあるのが、「住吉神社」です。


史跡看板は、境内裏側のバス停のとこに建ってます。



看板には、「羊太夫の時代までには鎮座していた」とありますが、「吉井町誌」にはこんな風に書かれてます。
当神社は創建年代不詳なるも、伝えによれば奈良期のころ羊の大夫謀反の期、官軍しばしば利を失い、ために朝敵討滅を当社に祈誓せしに、効験により八束城落城し羊氏滅びたり、よって官軍の将これを建立すという。」

あれ?
羊太夫は、この神社に祈誓しなかったんでしょうか・・・。

また看板には、「神社の東を流れる大沢川を渡った所に、不動様の奥の院があった」と書かれています。

その大沢川に向かって下りる細い道があります。


看板が欠け落ちてしまってますが、「東谷渓谷」という名前がついているようです。


石が苔むして滑りやすい道を、柵につかまりながら下りていくと、予想外にすごい渓谷が現れます。


向こう岸に向かって突き出た橋の先に、お不動様が祀られていました。


崖のくぼみには、お地蔵さまも祀られています。


小さいながら、なかなかの渓谷美、恐れ入りました。



お礼を言おうと拝殿を見ると、賽銭箱が朽ちてしまったのか、紙箱にむき出しのお賽銭が入ってました。


この大らかさ、いいなぁ。


【舟石と住吉神社】



  


2018年09月16日

史跡看板散歩-109 頌徳三碑

吉井町多胡小学校のすぐ北、セイタカアワダチソウの向こうに「頌徳三碑」はあります。


草がなければ、こうらしいです。


ただ、石灯籠は今建ってません。
もしかすると、小学校の通学路なので、子どもが登ったりすると危険だから、かも知れませんね。

史跡看板ですが・・・。


そうですか、としか言いようがないのですが・・・。
三碑です↓


上毛新聞社発行の「群馬県人名事典」を見ると、向井周彌は、
県会議員時代、活発な言論と関羽髯の風貌で鬼将軍と言われた。
与志井銀行甘楽社監査役、帝国農会、地方森林会評議員など産業の改良増産に尽くした。」
と書いてあります。

江原文作については、
甘楽用水、三名川貯水池の建設、十国峠改修、多胡橋架設など公共事業に尽くした。
豪放果断の気質で愛郷の至情にあふれ、皆からの信望を集めていた。」

大澤良太郎については載ってなくて、長男・要八が載っています。
昭和二十一年まで教職を続け、のち多胡村助役、村長、教育長を歴任。
円満高潔な人格者で、子弟教育と教育諸条件の整備改善に情熱を捧げる。」

そんな要八を育てた父・良太郎については、「吉井町誌」に書かれていました。
性温良恭倹(きょうけん:人に対しては恭しく、自分自身は慎み深く)で、人に教えるに春風の如く、世に聞達(ぶんたつ:名が知れわたる)を求めず、愛郷心に富んだ・・・」

  鬼も居り 仏も居りて 泡立草   迷道院

石灯籠があった場所には、こんな石が無造作に置いてありました。


大きな兎が、猫のお尻をかじろうとしてて、それを犬がじっと見ているような・・・。
見えません?


【頌徳三碑】



  


2018年09月09日

史跡看板散歩-108 辛科神社禊殿

吉井町神保を流れる大沢川に、「城橋」という橋が架かっています。


「辛科神社」を守護した豪族・神保氏の「植松城」があったので、「城橋」なんでしょう。


その橋の袂に、どういう訳か頂部が雨だれにでも穿たれたような道しるべが建っています。


「左辛科神社」と刻まれています。
「辛科神社」はここから西へ直線距離で1kmほどです。

「城橋」を渡ると道は右にカーブしますが、その正面の石垣の上に建っているのが「辛科神社禊殿(みそぎでん)」です。


一見、民家か集会所のように見えますが、軒下を見るとこんな彫り物があります。


史跡看板には、「辛科神社」から「禊殿」まで「茅の輪」を送る神事のことが書かれています。


「茅の輪神事」が行われるのは7月31日だということで、残念なことに今年はもう終わってます。

どこかに写真でもないかと探してみたら、「吉井町誌」に載ってました。


よくある「茅の輪くぐり」というのは、鳥居とか境内に茅の輪を立てておいて、参拝者が輪の中を潜るというものですが、「辛科神社」のはちょっと違うようです。

「吉井町誌」には、このように書かれています。
みそぎまつり、別称を「茅の輪の神事」といい、太陽暦前は六月三十日であったが現在は七月三十一日夜執行されている。
直径六尺(約1.8m)の「茅の輪」を神主が奉持して「かけながす大山本の五十鈴川、八百万代の罪は残らじ」と神歌を唱えつつ沿道の男女を輪くぐりさせて、その年の疾病災厄をはらい去る神事で、神輿の渡御とともに辛科神社を出発いたし、二粁東方の大沢川に至り、茅の輪を流し去る夏の夜の神事として古くより行われている。」

来年はぜひ行ってみたいなぁと思いました。


【辛科神社禊殿】


【辛科神社】



  


2018年09月02日

史跡看板散歩-107 弥勒寺の応処斎

吉井町穴岡「弥勒寺」に、横尾応処斎の作品はあるのでしょうか。
「弥勒寺」のHPを見てみましたが、応処斎のことはまったく書かれていませんでしたので、電話をかけてお聞きしてみました。

すると、「銘はないのだが応処斎の作品だと言われている掛け軸があって、お盆の時期だけ本堂に掛けます。」ということでした。
そこで、その日を待って行ってみました。

「弥勒寺」は、「応処斎墓碑」から西へ直線距離で1.2kmの所にあります。


参道をずーっと進んだ一番奥に、がっしりした造りの山門が南向きに建っています。


山門を潜って振り向くと、お寺の説明板。


きれいな芝地には、お寺の名前にふさわしく「弥勒菩薩」のブロンズ像があります。


立派な鐘楼の先に、本堂があります。



奥様のご案内で本堂に上げて頂くと、左右にぜんぶで十幅の軸が掛かっていました。



どうやら、亡者が地獄の十王に審判を受けている様子を描いたもののようです。
一見、新しそうに見えますが、つい最近表装をし直したんだそうで、明治期に寄贈した檀家数人の名前が絵の裏に書かれていたということです。

応処斎の銘はありませんでしたが、きっとそうなのでしょう。
これでやっと気が済みました。

まったく知らなかった「横尾応処斎渕臨」、この後どこかでその作品に出合えるかもしれません。
その時を楽しみにしています。


【弥勒寺】



  


2018年08月26日

史跡看板散歩-106 仁叟寺の応処斎

吉井郷土資料館で得た情報から、「穂積神社」近くの直売所のご主人・横尾さんにお会いすることができました。

五代前のご先祖が応処斎で、ご自宅には作品や門人帳などが残っているそうです。
いきなり見せてほしいとも言えなかったのですが、応処斎の作品は神保「仁叟寺」と、穴岡「弥勒寺」にもあるよと教えて頂いたので、まずはそちらを調べてみることにしました。

「仁叟寺」のHPを見ると、たしかに応処斎による天井絵が開山堂鐘楼に施されているとあります。


行ってみると、立派な山門の左奥に鐘楼があります。


雨には直接あたらないものの、風や紫外線の影響でしょう、けっこう褪色しています。


もうひとつの開山堂は、本堂から続く建物で、外から天井絵を見ることはできません。


不躾ではありましたがチャイムを押して奥様に訳をお話しすると、法要が始まる直前であったにもかかわらず、堂内に入れて頂くことができました。

見事な天井絵、しかも絵柄も色もくっきりしていました。


慶応三年(1867)に奉納されたもので、110枚あるそうです。
因みに、鐘楼の天井絵は25枚、嘉永六年(1853)のお釈迦様降誕会の際に納められたものだそうです。

応処斎の銘の入った一枚もあるというのですが、時間がなくてそれを見つけることはできませんでした。
ですが、やっと応処斎に近づけた気がして、少し気分がよくなりました。

そして情報を頂いたもう一か所、「弥勒寺」へも行ってみたいという気持ちが強くなりました。
そのお話は、次回ということに。


【仁叟寺】



  


2018年08月19日

史跡看板散歩-105 辛科神社

前回の続きで、応処斎渕臨(おうしょさい・えんりん)の奉納額があるという、吉井町神保「辛科(からしな)神社」へ行ってみました。

鳥居の左側に史跡看板が建っています。



立派な随神門があります。


ここの随神は珍しくて、狛犬のような金属製の神獣が門番をしています。
右側の神獣の上に板絵がありますが、これが応処斎の奉納額なんでしょうか。


奉納額は左側にもあります。


裏側にもあります。


さらに、社殿の右側面にもあるんですが、これは相当褪色しています。


これらのどれかが、あるいはすべてが応処斎の作なのでしょうが、いずれのものにも銘がありません。

宮司さんは、「随神門裏側のは間違いないと思うが・・・。」と仰るのですが。
うーん、ここでもまた応処斎に近づいたような気がしません。

帰宅して、ネットで応処斎を検索してみましたが、何もヒットしません。
ただ、画像検索でヒットしたものが一枚ありました。
現在リンクが切れてしまっていますが、たしかに「應處齋淵臨筆」と銘が入っています。


弟子が280余人もいたという絵師なのに、残っている作品はこんなもんなんでしょうか。
ここで分からなければもう諦めようかと思いながら吉井郷土資料館へ行くと、これがいい情報をつかむことができたんです。

応処斎のご子孫が、「穂積神社」の近くで直売所をやっているというのです。
これは行かない訳にいかないでしょう。

次回に続きます。


【辛科神社】



  


2018年08月12日

史跡看板散歩-104 横尾応処斎渕臨の墓碑

「横尾応処斎渕臨」って?
と思いつつ、その史跡看板があるという吉井町片山へ行ってみました。

国道254バイパスの西吉井駅入口交差点を北に780mほど、もうこの先は行き止まりという所まで行くと、前方にお堂らしきものが見えます。


ここが横尾家の墓地で、入口正面に墓碑、その脇に史跡看板が建っています。



まず、何て読むんだ・・・でしょ?
「よこお・おうしょさい・えんりん」でよさそうです。
墓碑には、「應處齋教道淵臨」と旧字で刻まれています。
狩野派の絵師で、書家でもあったんですね。

墓地入り口にずらりと並んだ右から二番目の庚申塔の文字が、井池堂こと応処斎の書だそうです。


奉納額があるという「穂積神社」は、「横尾墓地」から南へ直線距離で850m。
すぐ近くなので、行って見ました。


すっかり赤錆びた看板にも、「村の逸材応処斉渕臨に依る横尾要次郎舞う式三番の奉額がある」と書かれています。


社殿を一回りしてみると、南側にすっかり退色しきった絵馬額がひとつありましたが、これなんでしょうか・・・。


吉井町郷土資料館発行の「吉井の史跡・文化財めぐり」に、
拝殿南側に横尾応処斎が慶応三年(1867)に描いた神楽舞の額が掲げてある。」
と書いてあるところをみると、どうやらこれらしいです。
何とも残念なことです。

錆びた看板に「当社(穂積神社)はこの地にあった火蛇(かじゃ)神社に・・・」と書いてあります。
「吉井の史跡・文化財めぐり」によると、その神社があったので、この地は「火蛇森」と呼ばれていたようです。

「火蛇」は落雷が水霊の変化(へんげ)である蛇体になったもので、雷神の怒りを鎮めまた雨乞いを祈って祀ったのが「火蛇神社」だということです。
本殿の側壁に蛇体が描かれているそうです。

これですかね。
アクリルの波板に覆われててよく見えませんが、龍のことみたいです。


庚申塔と甲子塔があるという「弘福寺」へも行ってみました。


六地蔵の向こう側に、たしかに「井池堂」と刻まれている二つの塔が並んで建ってはいましたが・・・。


これだけでは何とも消化不良というか欲求不満というか、もやもやした気分なので、もう一か所看板に書かれていた「辛科神社」へも行ってみることにしました。

次回に続きます。


【横尾応処斎渕臨の墓碑】


【穂積神社】


【弘福寺】



  


2018年08月05日

史跡看板散歩-103 小棚薬師堂

吉井町小棚公民館から40mほど東へ行くと、吉井大橋から来る道に出ます。
そこから60mほど南へ行くと、右前方にお堂らしき屋根が見えてきます。


民家の塀に沿って小道を入ると、「小棚薬師堂」の前に出ます。



堂の中に祀られている薬師像の数の多さが、地域の人々の信仰の深さを物語っているように思います。


この辺りは、中世の時代「小棚城」というのがあったようで、現在もその輪郭を残しています。


鏑川に架かる「吉井大橋」から来る道を跨ぐ、「城裏橋」という名前の橋があります。


「吉井大橋」は昭和十四年(1939)の架橋で、その時に崖地を切り通して道ができたのでしょう。
「吉井大橋」ができるまでは、「城坂」(図の「城板」は誤り)を通って河原へ降り、「穴岡の渡し」を舟で渡ったということです。

図の一番下に「西城橋」というのがありますが、これは「二丈橋」でしょう。
「にじょう」「にしじょう」と見立てたのでしょうが、位置的にも城の西ではありません。
橋の高さが二丈=約6mということで「二丈橋」なのだと思います。


北西の一番奥まったところが「郭八幡」となっていますが、行ってみると石祠などが建っています。
石垣の一段高い所に、「八幡社」でも祀ってあったのでしょうか。


その東に、城主であったという布瀬川家の大きな建物が残っています。


その東は広い農地になっていて、「物見塚」と思しきちょっと高くなっているところが見えます。
この高さでは物見にはならないでしょうから、きっと昔はもっと高くて大きい古墳か何かだったのでしょう。


それにしても、吉井という所は古墳や城跡のなんと多い所でしょう。
古代からの重要な土地柄だったということが、よく分かります。


【小棚薬師堂】



  


2018年07月29日

史跡看板散歩-102 八王子神社

吉井小学校北側の道を吉井西中学校に向かって400mほど行くと、右に「魚健」左に「花広場」のある小さな交差点があります。


その交差点を左(南)へ入って50mほど行った所に、「八王子神社」が祀られています。



「八王子」とは、「天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)が誓約(うけい)した時に生まれた五男神と宗像三女神」のことと看板に書かれていますが、もう少し説明を加えましょう。

黄泉の国から逃げ帰ってきた「伊弉諾神」(イザナギノミコト)は、穢れた身体を清めるために禊(みそぎ)をします。
その時、左目から生まれたのが「天照大神」、右目から生まれたのが「月夜見尊」(ツクヨミノミコト)、鼻から生まれたのが「素戔嗚尊」です。

イザナギは、アマテラスに天を、ツクヨミに海を、スサノオに地を治めるように命じます。
ところがスサノオはそれを嫌がり、母・イザナミの居る「根の国」へ行きたいと大声で泣きわめきます。

「どこへでも行ってしまえ!」と追い払われたスサノオは、高天原のアマテラスに別れの挨拶に行きますが、アマテラスは自分の国を奪いに来たに違いないと考え、戦闘準備をして迎えます。

そこでスサノオアマテラスに、そんな異心はないという誓約(うけい)を交わす訳です。
その証として「もし私が女神を生んだら異心があり、男神を生んだら異心はない」と。

スサノオが、アマテラスの身に着けていた玉を噛み砕いて吹き出すと、五柱の男神が生まれました。
アマテラスも、スサノオが腰に帯びていた剣を噛み砕いて吹き出すと、三柱の女神が生まれたので、スサノオへの疑いを解いた。
・・・という話です。(異なる説話もあり)

八王子つまり八柱の神は八方の方位を司るとして、疫病や災厄が村に入って来るのを防ぐ「塞の神」(さいのかみ)として信仰されたようですが、この地域では失せ物を探し出す力も高かったんですね。

さて、吉井町にはいたる所に城館跡があるのですが、ここにも「塩川の砦」というのがあったようです。


「中世吉井の城館跡」によれば、「軍事的に見て平地にあり、わずかな崖端を利用して構築した城であり、居館の趣が強い。」とありますが、「塩川城は全壊しており、城跡にかかわる遺構を発見することは困難である。」ということです。
永禄六年(1563)の武田信玄侵攻に対し、塩川城主・菅沼大善之孝は激しく抵抗したが落城した、と「箕輪軍記」に記されているようです。

図の中央、「平館」とある所には、いま黒澤家の立派な屋敷が建っています。


もっと気になったのが、左上にある「玉子湯」です。
黒澤家の相向いの方にお聞きしてみると、子どもの頃はよく行ってたよ、と仰います。
もうだいぶ前から営業してないけど、建物はまだ残っているといいます。

行ってみると、何となくこれかなぁという建物がありました。


今は空き家になっているらしく、しばらく建物の周りをウロウロしていると、怪しい奴と思われたのでしょう、隣の家の方が出てきました。
いや、実は・・・と訳を話すと、たしかにこの建物が「玉子湯」だと教えて下さいました。

それどころか、この方、「玉子湯」オーナーのお孫さんだったんです。
いや、これは大変失礼しましたとお詫びをしましたが、そのあと、いろいろとお話を伺うことができました。

お話によると、この建物の一階に見える所は実は二階で、その下に川に面した一階部分があるんだそうです。
川の対岸から撮ってみましたが、木に覆われていてよく分かりません。


この建物は湯客のための休憩棟で、浴場は現在住居になっている所にあり、渡り廊下で浴場と休憩所を行き来してたそうです。
川から汲み上げた鉱泉は休憩棟内のボイラーで加熱し、パイプで浴場へ送っていたとか。


不思議なことに、ここの鉱泉は塩分を含んでいたそうで、きっとツルツルの玉子肌になるので「玉子湯」だったのでしょう。
40年ほど前に営業を終え、いまは鉱泉も枯れてしまっているそうです。

そういえば、ここの地名は「塩川」でした。
それに、「玉子」は、「王子」によく似ています。

「八王子神社」「玉子湯」「塩川」と、なんだか三題噺の趣きが・・・。
はい、お後がよろしいようで。


【八王子神社】


【玉子湯跡】