2019年10月13日

史跡看板散歩-159 土俵の八坂神社石宮

金古の信号の30mほど北に「八坂神社の石宮」があります。



なかなか立派な彫り物の石宮です。


昭和四十八年(1973)に、お金を出し合って修理をしているようです。


9年前、ここも記事にしていますので、ご覧ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(16)

なお、その記事中、「諸業高名録を発行した金古宿の医薬業者・天田倉蔵」という人が出てきますが、そのご子孫のお宅が今も金古町にあります。


もっと言ってしまえば、この家の築地塀は、旧高崎城の築地塀を移築したものです。
  ◇三国街道 めぐり会い

三国街道金古宿、けっこう面白いところです。


【土俵の八坂神社石宮】


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Posted by 迷道院高崎at 07:20
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2019年10月06日

史跡看板散歩-158 土俵の庚申塔

三国街道を横切る「牛池川」に沿って東へ下った所に、「庚申塔」とその史跡看板がある・・・はずでした。


痕跡はあるのですが・・・。


道祖神のカップルだけが、不安気な面持ちで手を握り合い、肩寄せ合って佇んでいます。


すぐ近くで史跡の発掘調査をしていたので、聞いてみました。
「そこに、庚申塔がありませんでしたか?」
「あー、ここ、道路ができるんで、先週移動してたよ。」


聞くと、近くの「土俵住民センター」の所にあるというので、行ってみたらありました。

が、あったのは4基だけで、しかも肝心の「庚申塔」がありません。
痕跡の方は7つあったので、3つ足りません。
その3つの中に「庚申塔」があったはずです。

もう一度、発掘現場へ戻って聞いてみました。
「他にもなかったですかね。」
「うーん、よく分かんないけど、ここの土地の所有者があそこん家だから、知ってるんじゃないかな。」

と言うので、行ってみました。

「庚申塔が建ってた土地が、こちらの所有地だということでしたので・・・。」
「昔、道路ができる時に、あちこちにあったのを、ウチの土地を提供してそこへ並べたんだけど、また新しい道路ができるんで移したんだよ。」
「庚申塔があったと思うんですけど。」
「あー、捨てたんじゃないかな。区長さんなら知ってると思うけど。」

えっ!捨てちゃったの?

で、教えて頂いた区長さんの家を訪ねましたが、あいにくお留守です。
帰ってきた頃を見計らってお電話することにして、いったん引き上げてきました。

もしやと思い、家でストリートビューを見てみると、おー、写ってるじゃありませんか!
中央に写ってるのが「庚申塔」でしょう。

ははぁ、一つだけ残ってた「双体道祖神」は一番手前にあったんですね。
そうか、それで橋の名前が「どうそじんはし」(道祖神橋)なんだ。

きっと、この「双体道祖神」は昔からこの場所に建っていたんでしょうね。
だから、住民センターの方に移さなかったんだ。

その日の夕方、区長さんにお電話してお聞きしたところ、
「移設した4基は毎年この地区でお祭りをしてるんで移設して残した。庚申塔二基と石灯籠一基は、引き取り手がなかったので、やむなく廃棄したんです。」
ということでした。
「史跡看板も建っていたと思うんですが。」と言うと、
「それも一緒に廃棄しました。」とのことです。

「じゃ、どんなことが看板に書いてあったかは、分からないですよね。」と言うと、
「いや、申請した時の原稿が残ってますよ。」と言います。
ありがたいことに、写真と一緒にメールで送って下さるとも仰ってくれました。

ということで、これが送って頂いた「庚申塔」の写真です。


史跡看板の文言はこうです。
正徳と文化の庚申塔
当地には、庚申塔や多数の石宮が祭られています。
この石造物は土俵区内各所から集めたもので、この中で特に貴重なものは二基の庚申塔です。
一基は、正面に「庚申供養塔」と刻し、台座に三匹の猿(見ざる聞かざる言わざる)を浮彫りにした立派なもので、右側の面には正徳三年(1713)巳之天開五月吉日、當村施主五拾七人と建立の年代を刻しています。
他の一基は、自然石を台座と竿石として組立てたもので、竿石の正面に「庚申塔」と刻し、判読できないが筆者名を刻しています。
右側の側面に文化八年(1811)辛未天孟春吉日と刻しています。
二基の庚申塔は、金古宿の歴史を語る貴重な文化財です。

その貴重な文化財が廃棄されてしまったとは、何とも残念なことです。

区長さんのお話によると、庚申塔二基と石灯籠は、元々近くの常仙寺の参道にあったものだそうです。
その参道を市道にする時、道を広げたので置けなくなって移設したと。
今回、常仙寺にも打診し、土俵地区の人たち全員を集めて相談もしたが、引き取り手はなかった。
ついに、その集会で廃棄することに決めたとのことでした。
地区の人たちの無念さが、ひしひしと伝わってくるようなお話でした。

それにしても、残念な結果です。
高崎市として何か成す術はなかったのでしょうか。

うーん・・・。


【土俵の庚申塔があった場所】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2019年09月29日

史跡看板散歩-157 神保雪居の碑

前回の「行人塚と大ケヤキ」から南へ150mほどの所に、大きな「神保雪居翁壽碑銘」が建っています。



9年前に来た時には、神保雪居って有名な人らしいけど、特に興味も湧かずスルーしていました。
今も、それほど興味は湧かないのですが、安中文瑛に漢学を教わったということで、多少親しみが持てました。
神保雪居の書と画↓


「神保雪居翁壽碑銘」というこの石碑も、何が書いてあるのやらさっぱりで。
どうしても知りたいという人は、濱口富士雄氏著「群馬の漢文碑」を読んで下さい。


それよりも迷道院が気になったのは、「神保雪居碑」の斜め前にある、この捻じれた塀の方です。


「金古宿の代官所跡」、同じ神保姓です。
旧群馬町の重要文化財のはずなんですが、この有様です。




9年前に来た時も、心配な状況ではありましたが、今から見ればまだ良い状態でした。
その時のブログ記事をご覧ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(20)

これ、いったいどうするんでしょう?
高崎市には文化財保護課という部署があるんですが、この文化財は保護してくれないのかなぁ。

うーん・・・。


【神保雪居の碑】

【金古宿代官所跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2019年09月22日

史跡看板散歩-156 金古町の行人塚と大ケヤキ

旧群馬町、金古町上宿の信号の角に、大きなケヤキの木が立っています。


その根方に史跡看板が建っています。



これが、「真岩常正居士」(しんがん・じょうせい・こじ)の宝篋印塔です。


9年前、旧三国街道を辿って記事を書いてて、ここがシリーズの最終地点だったんですが、あるはずの宝篋印塔が無くなってて、えらいびっくりしたことを憶えてます。
(9年前の写真↓)


その顛末は、過去記事でどうぞ。
 ◇旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)

ということで、近くの石材店さんで修復中だった訳なんですが、その8か月後、石材店さんから記事にコメントを頂戴してびっくりしました。


そしてその5年後、今度は施主様からコメントを頂き、二度びっくりです。


コメント中にある「記念碑」が、これでしょうか。


このブログをやってて本当に良かったと思える、隠居の思い出の地でした。


【金古町の行人塚と大ケヤキ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:24
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2019年09月15日

史跡看板散歩-155 中新田の秋葉様と石神群

生原の信号から西へ300mほど、箕郷東小学校入口の信号を南へ入ります。


50mほど行くと、右側の一段高い所に石碑がいくつも建っているのが見えます。


史跡看板は、その先。



ま、いろんなのが建ってまして。


これが珍しいな、と思ったんですが。

何だかよく分かりません。
偏平足さんのブログによると、「水雨天」「吹風天」秋葉山十二天の中の神様で、仏教の「水天」「風天」と同じだそうです。

「水天」(すいてん)は、
仏教における天部の一人で、須弥山の西に住んでいるとされる。十二天の一である。
水の神であり、竜を支配するとされる。もともとはインド=イランの古いアスラ族のヴァルナである。 諸ヴェーダにおいて、ヴァルナは重要な位置に置かれ、天空神・司法神(=契約と正義の神)・水神などの属性をもたされた。
東方ではブラフマン(梵天)に始源神としての地位を奪われており、さらに後には死者を裁くヤマ神に司法神としての地位を奪われ、水神としての属性のみが残った。
仏教に取り入れられた頃は、仏教における十二天の一つ、西方を守護する「水天」となった。」(Wikipedia)

「風天」(ふうてん)は、
十二天の一。もとインドの福徳・子孫・長生をもたらす神。のち仏教の守護神となり、西北を守る。
胎蔵界曼荼羅では赤色の身体に白鬚で、冠と甲冑をつけた老人の姿をとる。」(大辞林)

ということなんですが、それと「蚕神」との関係、「船入」(入船?)とは何か・・・、どうもよく分かりません。
隠居の思いつきですが、「農家にとって、雨も水も吹く風も、無ければ困るし過ぎても困る。お蚕さんもお天気次第。宝船に乗った神様が入って来ますように。」ってことなのかなぁ。

現場からは以上なんですが、前回同様なんか物足りません。
周辺を少しほっつき歩いてみました。

石神群から南へ350mほど行った四つ辻の手前に、何だか面白い形をした石碑が建っています。


向こう側へ回ってみると、「痘瘡輕安 守護神」と彫られています。


「痘瘡」(とうそう)というのは「天然痘」のこと、「輕(軽)安」(きょうあん)は「軽やかに安らぐ」ことですから、疫病が村に入って来るのを防ぐ道祖神賽の神のようなものなのでしょう。

その碑背を見て、ちょっとびっくりしました。

「瑾亭道人書」とあります。
おそらく、あの「瑾亭先生」こと安中文瑛の書なんでしょう。
 ◇史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
 ◇史跡看板散歩-番外編 関叟庵
いやー、ここでお目に掛かれるとは。
安政五年(1858)の建立、名医・瑾亭先生らしい書ですね。

その四つ辻の足元に、道しるべがありました。

風化して読めない文字もあるのですが、「左生原経しぶ川榛名山道」かな?
その反対側は、「左保渡田経長野六郷高崎」になってます。

さて、箕郷町の史跡看板はこれで巡り終わったようです。
次回からは、旧群馬町の方へ行ってみたいと思います。


【中新田の秋葉様と石神群】

【痘瘡軽安守護神碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:10
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2019年09月08日

史跡看板散歩-154 生原の厳島神社

生原(おいばら)の信号の南140mほどの所にあるのが、「生原の厳島神社」です。

史跡看板は、参道入り口に建っています。


鳥居の扁額は「弁財天」になっていて、突き当りがその祠のようです。


竹林を背にして、立派な造りの祠です。


看板によれば、この中に石臼の中から発見されたという弁天様が安置されているようですが、そのお姿は拝めません。

池は、この辺にあったんでしょうか。


現場からは以上なんですが、ちょっと物足らなかったので、弁天様について少しググってみました。

いつも池とか水のそばに居らっしゃいますが。
弁才天はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。
原語の「サラスヴァティー」は、12世紀に編集されたと言われるインドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる聖なる河とその化身の名である。」(Wikipedia)


「弁才天」とも「弁財天」とも書かれますが。
漢字表記は中国の義浄という僧侶がインドに仏教留学した際に、弁天様のご利益から弁才天と意訳します。
川の流れるような、弁舌の達者という意味の神様とされます。
一方、弁天様が日本にもたらされてから、財福の神として信仰がされるようになると、弁財天(旧字体では辨財天)と表記されるようになります。」(神仏ネット)
あ、初めは「弁の才」がある神様だったんですね。

いつも琵琶を持ってますけど。
水の女神であるが、次第に芸術・学問などの知を司る女神と見做されるようになった。
琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、『大日経』では、妙音天美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。」(Wikipedia)

祀られているのが、たいがい「厳島神社」なのは何故?
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国とは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される事が多い。
「いつくしま(厳島)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える)+ シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ(市杵島姫)の名に由来するか、少なくとも同根語である。」(Wikipedia)

なるほど。


【厳島神社・弁財天】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:04
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2019年09月01日

史跡看板散歩-153 今宮八幡宮

生原(おいばら)の信号から、県道123号線(柏木沢・大八木線)を北へ900mほど行くと、左手に「今宮八幡宮」があります。


あるはずなんですが・・・、史跡看板が見当たりません。


社殿の前にもありません。


境内の裏へ回ってみたら、ありました。



「柏木沢」という地名について、「箕輪町誌」にはこう書いてあります。
本村ハ長野郷ニテ青木庄ナリ。
永正ノ比(頃?)本国白井城ヨリ松井田城ヘノ通路ナリシガ、柏木(檞ノ俗字)多ク生ゼシ地ナルヲ以テ村名起レリト称ス。」

京都「石清水八幡宮」から勧請したという1264年は鎌倉時代中期、文永元年です。
社殿の扁額を見ると平成二十九年に七百五十年祭をやってるようですが、1264年から750年目は平成二十六年のはずなんですが・・・。
ま、細かいことはいいでしょう。

「群馬縣群馬郡誌」によると、話しはさらに遡ります。
今宮の古蹟(相馬村)
日本武尊東征のとき、常陸國新治郡筑波を經て甲斐國山梨郡酒折宮に來り玉ひ、更に北に向ひ上野國群馬郡今宮の里に休所を定めらると、この際尊が 天皇より給はれる大國主命が國土經營のとき持ち廻りたる柊の予(矛?)を、この地に奉祭あらせられたりといふ傳説あり。
又白鳳元年(紀元=皇紀千三百三十二年=西暦661年)天武天皇の時、山城國船岡山の北紫野より奉遷すと、これ卽ち今宮と稱する始めなりとも云ふ。(略)
今の大字柏木澤八幡宮境内は日本武尊の遺跡なることは上野風土記に見ゆ。」

社殿の左に祀られているのは、「阿弥陀如来」となっていますが、「病気平癒の神」ということなので、もしかすると「薬師如来」かも知れません。


先の「群馬縣群馬郡誌」には、こんな記述があります。
現今俗に藥師如來と稱する石祠あり、これ白鳳年間奉遷したるを時代の變遷により古名を失ひ、藥師と改稱したるものならんか。」

社殿の後ろに、看板に書かれている石造物がずらっと並んでいます。


一番道路側に、「二十二夜様」がゆったり座っておられます。

えらいなぁと思うのは、どの石造物も刻まれている文字がみな赤く塗られていて、明瞭に読み取れることです。
そして、主だった石仏や石祠には、その名前とご利益が表示されていること。
いままで、いろいろな所を見てきましたが、ここまできちんとしているところはありませんでした。
この神社が、地域に根差していることがよく分かります。

神社の近くに道しるべがあり、ご先祖様の盆送りをした茄子の馬が置いてありました。

道しるべには、「向 右上郊・高崎 左榛名・伊香保」、側面には「右本村道」と刻んであります。

歴史が、生きてますね。


【今宮八幡宮】

【道しるべ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:09
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2019年08月25日

史跡看板散歩-152 新屋敷の百庚申

箕郷町柏木沢「市立箕郷第二保育園」近くの角地に、「新屋敷(あらやしき)の百庚申」があります。


無造作に置いてあるだけのように見えますが・・・。


近くを流れる「群馬用水」や道路拡幅の工事によって、ここに集められたのだそうです。


「百庚申」前の細道を行くと、「群馬用水」の水路に出ます。

ずーっと向こうに、水路を挟んで左手にお寺の甍、右手には森が見えます。

行ってみると、なかなか立派な山門です。


脚下に、四角と丸と三角が埋め込んであります。

何でも、江戸時代の禅僧・仙厓義梵(せんがい・ぎぼん)の禅画にそういうのがあるそうで、たぶんそれなのでしょう。


NHKの「日曜美術館」で、仙厓のことを取り上げていましたので、一部抜粋してみました。

人間、歳とともに角が取れて丸くなると言われますが、自然とそうなるもんでもなさそうで。

ということでこのお寺、禅宗なのかなと思ったら天台宗でした。


本堂の左手前には、「南瀧不動尊」というのが祀られていました。

「南瀧」というのがあったんですね。

そういえば、「群馬用水」の右手に見えた森は「八幡宮」で、

「向瀧八幡宮」というらしいです。

「南瀧」「向瀧」は、同じ滝なんでしょうか。
「箕郷町誌」を見てみると、「不動寺」の所在地が「柏木沢向滝」となっていましたので、違うみたいです。
神仏混淆時代の名残なんでしょう。

「南瀧」があったという所を見てみたくなって、「不動寺」のすぐ脇を流れる「初瀬川」へ行くと、川辺にたくさんの石碑や庚申塔が建っていました。

新屋敷の百庚申もここへ移せば、もっとゆったりできたろうになぁ。

そしてここにも、「蚕影碑」が建っていました。



ここから東南600mほどの所が、「南瀧」があったという、「初瀬川」「唐沢川」の合流点です。


河川工事で「南瀧」はなくなったということですが、その面影は感じられます。


いやー、今回、「新屋敷の百庚申」を見て、こりゃどうしたもんかと思ったのですが、どうしてどうして、近くに面白いものがたくさんあって助かりました。
流石ですな、箕郷町


【新屋敷の百庚申】

【不動寺】

【向瀧八幡宮】

【南瀧があった場所】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:07
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2019年08月18日

史跡看板散歩-151 卜神諏訪神社

箕郷町の、旧矢原村字卜神(ぼくしん)にある「諏訪神社」
石柱の隣に、史跡看板が建っています。



看板には、剣豪・塚原卜伝のことがたくさん書いてあるので、卜伝が祀られているのかと思ってしまいますが、「箕郷町誌」にはこう書かれています。
諏訪神社
祭神 建御名方神、木花之佐久夜毘売命
由緒
永禄三年箕輪城主長野信濃守業政公の建立。
後台風にて社殿が荒廃したが、業政公の家臣上泉伊勢守の臣、塚原卜伝剣道修行のため其の境内の弁才天の池で、二十一日間の水行をし、当社に祈願した処その目的を達した。
故に卜伝礼拝再築した。」

卜伝が水行をしたという「弁才天の池」は、想像してみるしかありません。


看板の冒頭、「石鳥居と石灯籠の間を社殿に進むと、天神鴨流柔術の額」があると書いてありますが・・・、

行ってみると、すっかり退色してしまっていて・・・。
ただ、「天神鴨流」じゃないかも・・・。

辛うじて「天神真楊流」と読めます。
「鴨」はどこから出てきたんでしょう。

境内は子どものよい遊び場でもあるのでしょう、鉄棒やブランコがあります。


拝殿の天井絵や欄間の彫り物も立派です。


境内に建つ「寿詞」碑によると、古老の伝として永禄三年(1560)塚原卜伝の勧請となっていて、明治二年(1869)に社殿改造、大正三年(1914)に改修されたということですが、この天井絵と欄間はいつのものなのでしょう。


本殿の右奥にあるのが、「蠶(蚕)影山」(こかげさん)の石碑です。

「蚕影山」碑はもともと養蚕が栄えることを祈って建てるものですが、災害により投棄せざるを得なかったお蚕様の霊を弔うために建立されたものも少なくないようです。
明治二十年(1887)の雹(ひょう)害は主に榛名山東南麓を、明治二十六年(1893)の大凍霜害は安中地域を中心に県下一円の養蚕農家に大打撃を与えました。

「蚕影山」の築山の左に、木造の祠があります。
棟には「不動尊」という木札が掛けられているのですが、

なぜか肝心のお不動様は祠の後ろで雨ざらしになっています。


本殿の左側に、もうひとつ祠があります。
赤い鳥居が建っているのでお稲荷さんじゃないかと思うのですが、中には不思議なものが祀ってあります。

いったい何なんでしょう?

脇の沢沿いには、「藪茗荷」(やぶみょうが)の群落がきれいな白い花を付けていました。


「卜神諏訪神社」の隣にある山車庫の前にも、史跡看板が建っています。



神社の周辺をうろついていると貯水池があって、大きな石碑が建っていました。


こんなことが刻まれています。
大清水貯水池記念碑
当地域は豊富なる湧水あり地名を大清水と銘名したと伝へらる。
然るに米軍が相馬ヶ原に駐留し、演習砲弾と無数の重車輌のために草木の荒廃甚だしく、水源枯渇して全く保水力を失い、下流住民の死活問題となる。
これが代償として貯水池新設の運動を重ね、関係各庁認むるところとなり、特別損失補償法により、こゝに大清水貯水池建設を見たのである。
尚漏水を完全に防止するために再度改修工事を施工し完成せしものなり。
この貯水池の活用により、箕郷町の発展と地域住民の生活を久遠に潤すことを信じ、碑石に刻んで記念するものである。
昭和四十四年三月吉日

土地に歴史あり、ですね。


【卜神諏訪神社】

【諏訪神社山車庫】

【大清水貯水池】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2019年08月04日

史跡看板散歩-番外編 群馬松

「月波神社」の拝殿に飾ってあった写真。

右書きで「群馬松」と書いてありますが、「くるまのまつ」と読むようです。

「久留馬村誌」に、その由緒が書かれています。
抑々(そもそも)群馬の松は豊城入彦命(とよき・いりひこの・みこと)御手植にかゝる由緒ある霊樹なり。
命は人皇十代崇神(すじん)天皇の長皇子にましまして東国統治の大任を帯びさせ給い、詔を奉じて遙かに東国に下向、上毛野十文字邑(むら)に地を相し、城を築き、居を定め給う。
即ち東国統治の政府とも称すべきものなり。
命の御統治長からず。申すも畏し終に此の地に崩れさせ給う。御墓は実に此処に在りと承る。
御築城の砌(みぎり)、この地水便無きにより、北方久留馬(くるま)川より新たに水路を開き水を引き御飲料に供せらる。其の堰址今尚存す。
工を起こすに当り、命は水神の加護を祈り、御神木として一本松を植え給う。この松こそ我が名勝霊木群馬の松なれ。(略)
明治維新上毛野一帯の地は一県として立ち、其の名を選ぶに当り、群馬の松が其の昔豊城入彦命の思召しにより生い立ちたる由緒に因みて、県名を群馬と命じたるものにして、村名久留馬も亦同じ。
経路を辿るに県名も郡名も村名も、その全てが群馬の松より出で、群馬の松が其の発祥樹として天下に其の名を成せること亦宣(むべ)ならず。」

「群馬」をなぜ「くるま」と読むのか、「群馬県史通史編2」にこう書いてあります。
群馬県の県名は群馬郡から取られたものであり、これを「ぐんま」と呼ぶことに誰も疑いをもっていない。
この「群馬郡」は、七世紀末までは「車評(くるまこおり)」と書き表されており、和銅六年(713)五月甲子に出された制によって「車」から「群馬」に改められたものとみられる。
そして、10世紀頃に作成された「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」によると、「群馬」は「久留末(くるま)」と呼ばれていたことが分かり、同じく「三宝絵詞(さんぽうえことば)」でも「くるまの郡」と書かれている。
これはもともとの「車」によった呼び方であり、このことは「群馬」が「くるま」という音への当て字であることを示している。」

さて、ここまで予備知識を得たうえで、「群馬松」を見に行きましょう。

「月波神社」から、県道126号線(榛名山箕郷線)を約2km行った所に、「群馬の松」の入り口があります。


ところが、かつての入り口はここではなかったようです。
さらに200mほど行った先に、その名も「群馬の松入口」というバス停があるのです。


本居豊穎(もとおり・とよかい)という人の歌碑の隣に、「上墅名所 霊木 群馬の松入口」という石碑も建っています。


その歌碑の脇から「車川」に下りてったらしいのですが、今は草ぼうぼうで廃道になっているみたいです。


ということで元に戻り、長靴に履き替えてこちらも草ぼうぼうの道を下って行くと、「車川」に架かる石橋がありました。

この日は水量もそれほどありませんでしたが、多い時は「沈下橋」になるのでしょう。

石橋を渡ると、ちょっと開けた所があって、手作り風の看板が建っています。



「初代の松については文献がない為不詳である」とありますが、「久留馬村誌」には初代松の絵が載っています。


看板にある「霊松=古松(二代目)、神松=新松(三代目)」については、「箕郷町誌」に詳しく書かれています。
水廻る巌根上の霊松の側らに、享保年代(1725)、善地駒寄の霊松の信仰者である伊藤弥七によりて若松が祈願のうえ植えられ、さらに車川東対岸に水難防除の大水上神社が祀られた。
若松が献植されてから十余年を過ぎた寛保二年(1742)に、全国に亘っての大洪水があった。
古松とその側に植付けられた若松のある巌根の西淵は水が廻って流れていたのに洪水によって流出した土砂に埋まって、水の流れを悪くした。
巌上の古松はそれにもかかはらず生育もよく盆栽型の姿を保った。
しかも若松は流積した土砂の養分を受けて成長を早め、成長し六丈(約18m)余りの喬木型の大松となった。
是より霊松(古松)に神松(新松)の大樹を双幹の霊木群馬の松と呼ばれるようになった。」

「車川」の中州の岩の上に、二本の松の大木が聳えていたという訳です。
その絵が「群馬縣群馬郡誌」に載っていました。

手前の岸との間に注連縄が張られているのが二代目の「霊松」、後ろの背の高いのが三代目の「神松」のようです。

ところが、
霊松は明治三十九年に地籍の争いが起こり、同四十一年の静夜に倒伏し去った。
神松も昭和十一年十一月雪害をうけ倒伏した。」
と、看板に書いてあります。
さらに、
霊巖にそびえていた双幹の霊木ゆえに、地籍の争いに身をもって『和の心』を持って警告して生命を終えた。」
とあります。

ここでいう「地籍の争い」というのは、「群馬の松」が車川の中州にあるため、その地籍が久留馬村大字十文字なのか善地村大字善地なのかという争論で、実に元禄十六年(1703)から続いていたそうです。

また、「身をもって・・・警告」というのは、「群馬の松」には七不思議というのがあって、そのひとつ「事件あれば松に必ず警告あり」のことです。
「箕郷町誌」によると、明治五年(1872)「群馬の松」を御料地に編入するかどうかの争論が起きた時も、晴天無風の夕刻に大音響と共に松の大枝が川底に落ちたということがあったそうです。
上の絵で、「霊松」の幹に黒く塗られている部分が、その時落ちた大枝の跡なんだとか。

さて、冒頭の「群馬松」の写真ですが、これは倒伏する前の「神松」のようです。
「久留馬村誌」に、こうあります。
昭和九年十一月我が群馬の野、陸軍特別大演習の挙あり。
今上天皇陛下親しく大演習を御統監あらせられたり。
県民歓喜して鳳輦(ほうれん:天皇の乗り物)を迎え奉り、御巡幸を拝す。寔(まこと)に是れ昭代の盛事、千古の偉観なり。
久留馬村民亦皆この盛事に感激し、相謀り、我霊樹群馬の松を写し、其の真影を謹製し、之れを畏きあたりに献上したり。」

手作り看板には、「現在の松は四代目か五代目にあたる」とあって、はっきりしません。
それもそのはず、昭和十一年に二代目松が倒伏した後、実生により世継ぎの松を植えたが、四回にわたり切り捨てられるという事件が起きたというのです。(箕郷町誌)
両地区が和議を結び、長い長い地籍争いに終止符が打たれたのは、平成十三年(2001)とのことです。

では、現在の松に会いに行ってみましょう。
手作り看板のところからずーっと奥へ入っていくと、ベンチのある広場になります。

その先に、石祠や石碑、標柱の建つ塚がありますが、それらしい松の大樹は見当たりません。

塚に近寄って見ると、「群馬の松七代目」という標柱の後ろに、よくよく見ないと分からないくらいの、まだ植えて間もなさそうな若松が植わっています。

標柱の感じからすると、もしかすると「七代目」も枯れてしまっていて、この若松は「八代目」なのかも知れません。
大きな杉たちに囲まれて、何となく弱々しく見える若松に、「頑張れよ!」と声を掛けたくなります。
もう少し日が射しこむようにしてあげるといいんでしょうかね。

さてさて、そろそろ帰ろうと高崎に向かって3.5kmほど下ると、道路の左側にある三基の石碑が目に入りました。


その一つには、「群馬松」と刻まれています。


碑背には、こう刻まれていました。
霊木群馬の松のあった中州は今は崩れて松の姿を見ることはできない。
旧車郷村はこれを惜しみて、明治十五年三月宮中御歌所長本居豊穎先生の歌碑を建て、その後天覧記念碑を中州に建立し、霊松眞種は月波神社境内に芽生えて繁り、神霊宿りて平和の象徴とし、土地の人に親しみ敬われ、郷土の繁栄を永久に護り続けることであろう。」
     群馬の松保存会長故後藤平太郎
  昭和四十四年十一月十五日
            箕郷町群馬松保存会建立
            箕郷町教育委員会後援

さらに下って、「鳴沢湖」の入口、「車郷小学校」の手前にも「靈木群馬松」への道路元標が建っていて、「是より善地車郷村線を経て七粁(km)」と刻まれています。


こうやって見てくると、箕輪の人たちにとって「群馬松」はまさに象徴たるべき存在なんですね。
いつまでも護り続けていって頂きたいと思います。

長文にも関わらず最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。


【「群馬の松」入口】

【バス停「群馬の松入口」】

【「群馬松」石碑】

【「群馬松」道路元標】


  


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2019年07月28日

史跡看板散歩-150 月波神社

前回記事「治尾の牧」の史跡看板から西へ240mほど行くと、「月波神社」(つきなみじんじゃ)参道入り口の石段があります。


大きな石灯籠。

嘉永五年(1852)と刻まれています。

石段を上ると、一の鳥居。


その先にある二の鳥居。

額は「月並神社」となっています。

さらに進むと、県道・新井下室田線が参道を横切っています。
手前の庚申塔を、きれいな紫陽花が彩っていました。


県道を渡って、踏み面のやけに狭い急な石段を上ったところに、史跡看板が建っています。



「車持君」(くるまもちの・きみ)は、「上毛野君」(かみつけのの・きみ)と同じ「豊城入彦命」(とよき・いりひこの・みこと)を祖先に持ち、雄略天皇の代に乗輿(じょうよ:天皇の乗り物)を供進(献上)したため「車持公」という姓(かばね)を賜ったという人らしいです。



その子孫だという「風の三郎」という人物ですが、坂上田村麻呂の時代にしてはやけに洒落た名前です。
「箕郷町誌」には、里伝としてこう書かれています。
里伝ニ昔時勘解由三郎ナル者ココニ居リ、上野君某ニ仕ヘ善知ノ姓ヲ賜ワル、後坂上田村麻呂ニ属シテ京師ニ趨(赴)ク、土人氏ノ姓ヲ慕フテ村名トナスト云、本村車持社ハ善知氏ノ始祖ヲ祀リシ者ト云、上野伝説雑記国君王紀ニ群馬郡・善地トアリ」
ということで、「風の三郎」でなく「勘解由(かげゆ)の三郎」となっています。
音は何となく似ています・・・。

「勘解由」というのは「勘解由使」(かげゆし)の略で、国司交替の際に前任者が交替完了の証明のため発給して後任者に与える「解由状」(げゆじよう)の「勘査」を行う役人だそうです。
前任国司は「解由状」が受理されて初めて次の官職に就くことができるのですが、前・後任国司の利得の調整で揉めてしまって、後任国司が「解由状」を受け取らないことも多かったらしいです。
「勘解由使」はその正否の判断をするのですから、重要な役目なんですね。

また、「善知」という姓は、看板では坂上田村麻呂から賜ったように書いてありますが、「箕郷町誌」では上毛野君からとなっていますし、「善知」田村麻呂に属したのも京師(けいし:京都)に行ってからということで、少し食い違いがあります。

ま、いずれにせよ、そんな由緒ある「月波神社」なんですが、境内は荒れていました。



社殿のすぐそばに丸太の蜂胴が置いてあって、蜂がブンブン飛んでますし。


米粒が入るとご利益があるという「十三重の塔」の穴の中にも、たぶん巣があるんでしょう、大群が塔を取り囲み、恐くて近づけません。


社殿の彫刻は素晴らしいんですがね。



拝殿の中に、こんな写真が飾られてました。

「群馬松」、県の名称と関係あるらしいです。
番外編で取り上げてみたいと思っています。

帰ろうとすると、ユニークな表情の狛犬が、見送ってくれました。
わっはっは!


いっひっひ。




【月波神社】


  


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2019年07月21日

史跡看板散歩-149 治尾の牧

箕郷-榛名山線(県道126号)中善地を過ぎて直ぐ、「Jows-Factory」という車屋さんの向かい側に、「治尾の牧」(はりおのまき)の史跡看板が建っています。



この史跡看板の後方にあるのが「治尾の滝」「歌碑」なんです。
とすれば、この史跡看板、ほんとは「治尾の滝」とすべきだったように思います。

ただ、この季節は雑草が生い茂っていて滝の姿が見えません。

近くまで行ってみたいのですが、手前はカボチャ畑、その向こうは民家の庭になっていて近づけません。
瓜田に履を入れる訳にもいかず、気も弱いが欲望にも弱い迷道院が、民家のチャイムを押してました。

ご主人に訳をお話しすると、「ああ、いいよ。いい写真撮ってってくんない。」ということで、お庭に入らせてもらうことができました。

「歌碑」の建立は明治十七年(1884)、歌の作者は参事院議官従四位勲二等・福羽美静(ふくば・びせい)となっています。

史跡看板の左下にも、小さな石碑が建っています。

延喜式馬寮上野國九牧之中治尾牧
古はりを(治尾)の志みず(清水)
此瀧より水源へ百五十五間三尺」
と刻まれています。(155間3尺は、約282.7m)

「上野国九牧」のひとつ「治尾牧」は、「群馬県史」では「沼尾牧」となっていて、看板にもあるように推定地は3ヵ所あるようです。


推定地の地図を見ても、なぜか「善地」だけがポツンと孤立してて・・・。


大正十四年(1925)発行の「群馬縣群馬郡誌」には、こんな記述があります。
治尾牧蹟と治尾泉(車鄕村)
大字善地の中央なる地を延喜式九牧中の一なる治尾の牧の遺跡なりと傳ふ。
今字名に駒寄・牧場等あり、尚駒寄の西北一帶に亙りて駒隱(こまかくし)谷と稱す、
往古良馬の徴發頻りにして民其の繁に堪へず、密かに附近の陰谷に駒を隠し以て徴馬の難を避けたるを以てこの名ありといふ。
此に治尾泉といふ冷泉あり、水源湧口太くして水登ること尺餘掘抜井戸の如し。
傍に高さ八尺餘の大石あり震石(ゆるぎいし)といふ、昔時は僅に指先を以て動かし得たるを以て此の名ありと傳ふ、」
馬を隠したというのは、面白い話ですね。

「治尾泉」にも興味津々です。
史跡看板には「月波神社の東30mの道下」とありますから、探しに行ってみましょう。

「治尾の滝」から370mほど行くと、相馬が原方面へ行く丁字路があって、右折すればすぐ「月波神社」です。


そこから30m行った道下というんですが、その辺にはそれらしいものは見当たりません。
さらに180mほど進むと、道路右下の鬱蒼たる木々の中に何やら怪しいものが見えました。



ところが、そこへ行こうと思うとけっこう大変で。
高く伸びた雑草の急斜面を下りると、その先の雑草の下にはズボっと嵌まる湿地帯が隠れていたりして・・・。
やっとこさっとこ、それらしき所に辿り着きました。

「宝山龍神」という石碑の向こうに小さな石祠があり、そこから水が流れ出ています。

「水登ること尺餘掘抜井戸の如し」という程でもなく、ポコッ、ポコッという水の音が聞こえるだけです。


水路の先に、大きなオニギリ形をした石があります。


これが「震石」(ゆるぎいし)なんでしょうか、押しても微動だにしませんが。
「古治尾牧地」という文字が彫られています。


水は、そのちょっと先で二つに分かれて草むらの中へ消えていくんですが・・・。


驚いたことに、ここに水が湧き出しているんです。

たしかに、ここは「牧」だったのかも知れません。


高原の爽やかな風が、吹き抜けていきました。


【治尾の牧 史跡看板】

【治尾の泉】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:12
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2019年07月14日

史跡看板散歩-148 中善地の善念寺跡

「箕輪小学校前」の信号から、箕郷-榛名山線(県道126号)を榛名山方面へ約2.5km、県道を外れて右へ入ったところが、箕郷町中善地の集落です。


140mほど行った所にあるのが、「中善地集会所」

玄関の脇に、「中善地盆踊り」の史跡看板が建っています。


集会所の前が盆踊り会場になるようで、ストリートビューには、祭りの後でしょうか解体途中らしき櫓が写っています。


やぐらの後ろに見えるお堂の横に、もうひとつ史跡看板が建っています。



ここにあったという「善念寺」は、看板に書かれている寸法からすると、こんな大きさだったようです。


「薬師堂」の中に納められている、石仏たち。
二十二体以上ありそうですが・・・。

厨子の中のが「薬師様」なんでしょうか。

「二十二夜様」は、文政五年(1822)の建立。
なかなかいいお顔をしてらっしゃいます。

月待講で多いのは、月齢二十三日目の「さんや様」ですが、ここではその一日前の「にや様」が行われていたんですね。

「二十二夜塔」の隣には、これまた立派な「女人講」の塔が建っています。

こちらは、明治十六年(1883)の建立です。

彫られている像は、月待塔によく見られる「如意輪観音」ではありません。
よく見ると、右の腕で抱えているのは赤子らしいので、たぶん「子安(こやす)様」でしょう。

「子安様」は、十九夜の月待(女人講)塔に刻まれることが多く、文字通り子授け・安産・子育てを願うものです。
左手に載せているのは、ザクロに似た「吉祥果」(きちじょうか)という実で、実の中にたくさんの種を宿した果肉があるので、子だくさん・子孫繁栄をもたらすシンボルなんだそうです。

まさに、「女人講」にふさわしい塔ですね。


【中善地の善念寺跡】



  


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2019年07月07日

史跡看板散歩-番外編 法峰寺

「箕輪小学校」へ来たついでに、すぐ裏の「法峰寺」(ほうぼうじ)へ行ってみました。
校庭とグランドの間を参道が抜けています。


長い参道で、入口から240mほど入ってようやく参道らしくなります。


こんな石碑が建っています。

「水汲みに 行くのが地獄の 一の木戸
         行くとは見えて 帰る人なし」

どういう意味なんでしょうか。

ちゃんと碑背に刻んでありました。

ほー、なるほど。

「箕輪城」の案内看板に、現在地が記されています。

現在地の下んところは、かつて「椿名沼」(つばきなぬま)という泥湿地帯で、敵がここから侵入するのは困難だったそうです。

その「椿名沼」の跡は、いま「蛍峰園」(けいほうえん)という蛍の名所になっています。





その先の石段を上ると、「法峰寺」です。

貞観六年(864)慈覚大師の開基、ご本尊は阿弥陀如来だそうです。

横から見ると、すぐ後ろに「箕輪城」の城山が迫っているのがよく分かります。


「箕郷町誌」に、「法峰寺」の由来がこう書かれています。
天安年中に天台座主慈覚大師の開基にかかり、戦国の武将長野伊予守信業初めて箕輪城を築く際、寺の境内地が城郭内に亘る故に、交渉の結果、東方十数町に替地を出して寺の移転を行った。
慶長三年高崎城に移封した際、旧縁の地なるを以て現在地に復した。」

「箕輪城」築城の際に立ち退かせた後、城の「水の手曲輪(郭)」として防御の要としたようです。

この廓は南側の土居を構えた弦に当る部分の長さ80mの半円形である。
奥行30m、土居の外側は三段の小崖の外に、当時は椿名沼の泥湿地が迫り近接を許さなかった。
全く絶好の水の手だったのである。」
(箕郷町誌)

本堂脇の「夏椿」がきれいでした。


本堂左の小さな社に・・・、

お不動様がいらっしゃいました。


隣にもうひとつお堂があって・・・、

中には結構な彫刻のお宮が安置されています。

ご住職にお尋ねしたら、山王様だそうです。
神仏混淆時代の名残なんでしょうね。

その「山王堂」の前の石段を上った所に、もうひとつ大きなお堂があります。



聖観音を祀った「観音堂」で、旧群馬郡三十二番札所になっています。


本堂裏に、湧水を利用した小さな池があります。

「箕輪城」があった時はもっと大きかったようで、上方に水櫓を建て、つるべで水を城に揚げたといいます。(箕郷町誌)

その池の上の崖に、ぽっかり開いた穴があります。


前出の「水汲みに・・・」碑の碑背に、こんな文言があったのを思い出してください。
法峰寺境内には、横井戸と称する横穴がある。
寺の口伝によれば、城の本丸から水汲みに往復するために掘り始めたが、落城によって中止した遺跡とのことである。」

これが、その横穴なんだそうです。


うーん、面白い!


【法峰寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2019年06月30日

史跡看板散歩-147 箕輪小学校

「箕輪小学校」の正門脇にも、史跡看板が建ちました。



「龍潜淵虎籠窟」(りょうせんえん・ころうくつ)の掲額がこれです。


この掲額の元になった「龍潜淵」という額があると書いてあるので、見たいという気持ちがムクムクと湧き起こり、抑えられなくなっちゃいました。
小学校へお電話したら、その額はいま校長室にあるということなので、「見せて頂くことはできますか?」とお聞きすると即座に快諾を頂き、お邪魔して写真を撮らせてもらいました。

これです。

漆喰の鏝絵のようなつくりです。

「箕郷町誌」を見ると、「龍潜淵」の額が旧校舎のどこに掲げられていたのかが分かります。



「箕輪小学校」は、いま新校舎建設に向けて工事中です。
こんな素晴らしい木造校舎に変わるそうです。


新しい校舎からも、きっとたくさんの優れたが生まれてくることでしょう。


【箕輪小学校】


  


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2019年06月23日

史跡看板散歩-146 箕輪の安国寺跡

前回の「妙福寺」参道入り口から南へ40m、住宅と住宅の間の細道を入ると割と急な坂になります。
その坂を下りきった所に、「安国寺跡」の史跡看板が建っています。



看板にあるように、420年も前に高崎城下へ移ってしまったので、今は何の痕跡もありません。


という訳で、ここからは高崎城下「安国寺」を見てみましょう。
安政三年(1856)の絵図を見ると、大手門から真っ直ぐの道は、「安国寺」でどん突きになっています。
「大信寺」と隣接していて、けっこう大きな敷地です。


明治になると、敷地は大幅に小さくなり、北側に小道が抜けます。


時代はだいぶ下って昭和初め頃の風景ですが、突き当りの大屋根が「安国寺」です。


兵隊さんが何人か歩いている右側に白い柱が建ってますが、たぶんこれは「道路元標」だと思います。
大正時代に建てられたものはもっと大きな「道路元標」でした。→◇町の元標、道の元標

昭和二十八・九年の都市計画事業により、どん突きだった道は「安国寺」を割くように東に抜け、本堂も解体・新築せざるを得なくなりました。
解体前の旧本堂です。


そうして出来た道路は、「安国寺」の山号・慈光山から取って「慈光通り」と名付けられ、「安国寺」「慈光通り」の南側にビルを建て、本堂は二階に新築して現在に至っています。



本堂への坂の途中に、由緒を刻んだ石碑があります。
手前の植木で字が読みにくいですが。


墓地は当時「慈光通り」を挟んだ北側にありましたが、平成八年(1996)に若田町「八幡霊園」隣接地に造成した「安国寺別院」に移転しています。



その墓地に、面白い人物のお墓がありますので、ご紹介いたします。



「滅法弥八」(めっぽう・やはち)と呼ばれたその人物の逸話を、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から転載します。
滅法弥八、本名は長野弥八郎、高崎藩士の家に生まれ、親譲りの勇猛果敢な男だったとある。武技に練達し、奉公の念がはなはだ厚かったという。
時の藩主大河内輝延は馬術に長じており、馬を駆って、高崎から百キロ余の道程を、一日で江戸藩邸に達した。
弥八郎は徒歩でこれに従い、輝延が江戸藩邸に着いてふと見ると、弥八郎もあとに従っていた。
これには輝延もたいへん驚き、『滅法早かったな』とおほめの言葉をかけたという。
この後、『滅法弥八』の名が一藩に高まった。」

この滅法弥八、足も速いが喧嘩っ早いところもあったようで。
この弥八が江戸在番の日、輝延に従って郊外に遊んだ。
たまたま幕府の鷹匠が二人いたので、輝延も鷹狩りに興味があったから、その鷹を借りようとした。
一方は大名、一方は幕臣、身分のちがいはあるが、鷹匠は将軍家直属の臣たることをかさに着て、『将軍家に対して無礼だぞ』と横柄にとがめた。
輝延の家臣は事面倒と、平あやまりにあやまったが、彼らはこれにつけあがって聴かないばかりか、まいない金を強要した。
輝延の従臣はそれに従って、金子若干を与えて事をおさめようとした。
この様子を見て、おさまらないのは剛直な弥八郎である。
自分が処理するからと、輝延主従の一行を立ち去らせ、大喝一声、鷹匠の鷹をうばってこれをひねり殺した上、鷹匠をも一刀のもとに惨殺してしまった。」

これが、弥八郎の身の不運となります。
輝延のために義をつくした弥八郎ではあったが、輝延は幕府をはばかり、弥八郎を追放した。
この命(めい)を弥八郎に伝えたのは国家老深尾又右衛門だが、弥八郎はこの命を受けると、『貴殿はかって暴漢に会ったとき、小生がこれを助けた。
その恩を忘れないならば、貴殿がここに伝えず、他の人に代わってもらって君命を伝えるべきだろう。
いま得々として来るとは、恩義を忘れたたわけ者だ。とっとと帰れ。』
そう言ってこれを追い帰し、その夜、深尾家に行ってこれを殺してしまった。
実に文政六年(1823)十一月のことだった。
弥八郎はこれから逃れて京都に入ったが、匕首(あいくち)一丁で捕吏八人とたたかい、数人を殺したのち捕えられ、高崎に押送された上、処刑された。
これは文政八年(1825)二月二日のことだという。」

うーん、さてもさても・・・。


【箕輪の安国寺跡】

【安国寺】

【安国寺別院】


  


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2019年06月16日

史跡看板散歩-145 鬼子母神の妙福寺

箕郷町西明屋の東端に、「妙福寺」があります。
史跡看板は、参道入り口右側、石標の隣に建っています。



看板真ん中の段落、「鬼子母神は、・・・夜又女でした。」には、吹き出しました。
夜鷹じゃあるまいし、夜の又の女はないでしょう。
たぶん「夜叉女」(やしゃおんな)の誤字でしょうね。

そういえば、石標の「鬼」の字も変ですよね。


「鬼子母神」「鬼」の字は、てっぺんの「´」が無い字を使うことが多いようです。
Wikipediaによると、
「鬼子母神」の「鬼」の表記について、寺院によっては、第一画目の点がない字を用いる場合がある。
これは、鬼子母神が釈尊に諭されて改心した結果、角が外れたためである。
ということです。

ただ、多機能事典Wiktionaryを見ると、漢字の元となる甲骨文字には、はなから「´」はありません。


それにしても「妙福寺」「鬼」の字は変わってますが、「鬼」の異体字はたくさんあるようで、その中から説話に都合のよい字をとったというところなんでしょう。


「妙福寺」本堂前の枝垂れ桜が有名らしいのですが、すでに散りきっていました。
その代わり、「出猩々」(でしょうじょう)の真っ赤な葉っぱが迎えてくれました。


本堂南に中山安兵衛が造った築庭があるというので、行ってみました。


中山安兵衛が浪人時代、江戸へ向かう途次に箕輪の下田家へ身を寄せ、吉井の馬庭念流道場へ通って剣術修行をしたと伝わっています。
浪人の安兵衛がどこで築庭技術を習得したのか不思議ですが、その時に造ったと言われているのが下田邸の庭園です。

世話になった下田家へのお礼だと思っていたのですが、「妙福寺」の庭も造ったとなると、もしかすると江戸への路銀調達のためだったのかも知れませんね。

失礼して本堂の中を覗かせて頂きましたが、「鬼子母神」らしき仏像は見当たりませんでした。


毎年、十一月十二日が縁日だそうですから、その日にご開帳されるのでしょう。
「箕郷町誌」に載っていた「鬼子母神」の写真を転載させて頂きました。


お釈迦様に諭された後なのでしょう、優しいお顔をされています。

近頃世間では、いたいけな我が子を虐待するという、何とも哀れな事件を見聞きします。
「鬼子母神」の昔話を見てもらって、もう一度優しい心を取り戻してほしいと、切に願う日々です。



【妙福寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2019年06月09日

史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地

箕郷町図書館の相向いに、伝説のテニスプレーヤー・清水善造生誕地の史跡看板が建っています。



看板の冒頭、「やわらかなボールの逸話」というのが出てきます。
この話は、倉賀野出身で当時体操界の著名なリーダーであった矢島鐘二が、大正十三年(1924)に著した「スポーツマンの精神」の中で「美はしき球」(うるわしきたま)という題で初めて世に紹介されます。



ちょっと字が読みにくいので、色を付けた部分だけ書き出してみましょう。
一心不亂(らん)に身入って据えた瞳に、傷はしや(いたわしや)チルデン君の片足辷(すべ)らして、取り亂した姿が寫(うつ)りました。
米人は驚倒しました。躍氣となりました。
この時淸水君は、チルデン君の血走った眼元に、取り亂した脚元に、柔らかい程のよい球を送ってやりました。
この瞬間の君の心には、優勝した時の名礜感情も、自尊感情も、全く捨てられてあります。
ミスターシミツ!!!の歓呼の聲と共に、燃ゆるが如き米人三萬の手が、林の如く一齋に振り上りました。」

「美はしき球」の話は、昭和八年(1933)に文部省検定教科書「新制女子国語読本」に掲載されたのを初めに、戦前・戦後にわたって多くの教科書に取り上げられることになります。


取り上げられる度に、微妙に内容や表現が変化しているのですが、肝になる部分は「体勢を崩した相手選手に対し、敢えて打ちやすいゆるいボールを送ったフェアプレー」です。

ところが、ノンフィクション作家・上前淳一郎は、昭和五十七年(1982)に発行した著書「やわらかなボール」の中で、独自な描写をしています。
チルデンの返球は、ふらふらネットを越えてきた。拾うために、清水は前へ出る。視野のすみに、起き上がろうとするチルデンが入っている。
どちらのコーナーへ打ち返すべきか---瞬間清水は迷った。左はがら空きだ。しかし、相手は起き上がるとすぐ、左へ球が来ることを予測して、走り出すだろう。それならば裏をかいて、いまチルデンがいる右コーナーへ打つか・・・・・。
十分決断しないまま、ラケットを振った。球は右コーナー、チルデンがいる側へ、いつもの清水の打球と同じように、ゆっくりと飛んだ。
それを見ながら起き直ったチルデンは、激しく叩き返した。球は鋭いパスになって、一直線に清水のわきを抜けていった。」
つまり、清水はわざとゆるい球を返したのでなく、迷いによりゆるい返球になったという訳です。

上前淳一郎は、この本を書くにあたって国内外の関係者に丹念な取材をしており、こんなエピソードも紹介しています。
『そんなことが、あったのですか』
教科書のエピソードが有名になるにつれて、しばしばたずねられるようになった。
そのつど彼(清水)は、かつて講演会のあとで聞かれてそうしたのと同じように、肯定も否定もせず、ただ笑っていた。
『ほんとうのところは、どうだったのですか』
ごく親しいテニスの後輩たちは、世間の人々とは少し違う関心から、熱心にたずねた。
彼らにとって清水は、その一挙手一投足にさえ従うべき偉大な先輩である。相手が足を滑らせたときにゆるい球を返してやるのがテニスのマナーであるならば、自分たちもそうしなければならないのだ。
後輩たちに問いただされると、笑ってばかりいるわけにはいかない。清水はいかにも彼らしいいい方で答えた。
『もともとぼくの球はゆるいからね。そんなふうに見えることがあったかも知れない。』
それを聞いて後輩たちは、意図的にゆるい球を返すような出来事はなかったのだ、ということを即座に理解した。

また、平成二十年(2008)上毛新聞社が10回にわたり清水善造ら群馬のテニスプレーヤーを取り上げた特別記事を掲載しましたが、その中でも「やわらかなボール」の真相について触れています。


野暮な詮索はこの辺にしておきましょう。
矢島鐘二は、当時のスポーツ青年に対しての憂いとも怒りとも取れる思いを、「スポーツマンの精神」の中で述べています。
私はかつて或る郡の青年連合運動会に、立合った事がありますが、競技運動半ばにして、不平不服の抗議が混線した揚句、或る村の青年や父兄は、喇叭(ラッパ)に歩調を揃えて、会場から引き揚げて仕舞いました。
又、いつかは中等学校の野球試合に於いて、その下劣なる弥次(やじ)、粗放なる選手の態度に、冷や冷や思わされたこともあります。
即ち動(やや)もすれば今日の体育が、其の内容を欠き、目的の人間を忘れて、旗をとりたい、勝ちたいの形式に陥って居るのみならず、延(ひ)いて村と村、学校と学校、団体と団体との仲違(たが)いとなるような、忌む可き副産物をさえ醸しているのであります。」

矢島は、それらの青年や父兄・指導者たちに考えてもらう材料として清水善造というスポーツマンを取り上げたのであって、多少の誇張や脚色は本質を伝えるための手法だったのでしょう。

さて、それから95年を経た現在、矢島鐘二の思い願ったスポーツ界は、はたして実現されているのでしょうか。

清水善造についてもっと知りたいという方は、「日本テニス協会」のHPに、上毛新聞「山河遥か 上州・先人の軌跡」の連載記事が転載されていますので、そちらをご覧ください。


【清水善造生誕の地】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2019年06月02日

史跡看板散歩-143 東向八幡宮の二十三夜塔

箕郷町西明屋(にしあけや)に、「東向八幡宮」があります。


「二十三夜塔」と史跡看板は、玉石垣の内側に建っています。




「二十三夜」については、このシリーズ36話「さんや様」に詳しく書きましたので、どうぞご覧ください。

ところで「東向八幡宮」、なかなか由緒ある神社のようです。


霊験灼(あらた)かということで、お百度参りをする方も多いのでしょうか。


その作法も、けっこう細かいです。

最後の「注」まで読んで、ホッとしましたが。

社殿も立派です。


拝殿の虹梁鼻が面白い。
何となく鮭が口を開けたような形で、木の節がちょうど目になるように細工してあるみたいで。


本殿の彫刻。


本殿の玉垣の中に、町の重要文化財がありました。

「石幢」(せきどう)は死者の霊を供養するもので、ここの「石幢」に刻まれている仏様は「十三仏」と言って、初七日から三十三回忌までの追善供養を司っているんだそうです。

「東向八幡宮」の通りは、箕輪城下町の「鍛冶町通り」だそうです。


通りのあちこちに看板があって、雰囲気を醸し出しています。



広く知られているように、高崎城下の町は箕輪から移ってきたので、同じ町名がたくさんあります。

高崎にも、箕輪と同じような町名看板が欲しいもんです。

「鍛冶町通り」沿いのお花畑に、心が癒されました。




【東向八幡宮の二十三夜塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:18
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2019年05月26日

史跡看板散歩-番外編 関叟庵

「関叟庵」(かんそうあん)、憶えてらっしゃるでしょうか。

4月14日の記事「瑾亭先生墓碣銘」で、保渡田村瑾亭先生こと安中文瑛が晩年に移り住んだという、箕輪村「関叟庵」です。

その「関叟庵」箕輪のどこにあったのか、記事をUPした後もずっと気になっていました。
箕郷図書館箕郷支所にも行ったんですが、分かりません。
町で出会ったお年寄りにも聞いてみたんですが、分かりません。
そこで、ふと思いついたのが宮川さんでした。

箕輪の町のとっつきにある、日本酒 岩戸川 醸造元という看板をご覧になってる方も多いでしょう。

そこが、代々箕輪で造り酒屋をしていた宮川さんのお宅です。

初めて宮川さんのお宅を訪問したのが、2010年でした。
そのときに驚いたのが、ご当主・宮川雅次さんの無尽蔵の博識ぶりでした。
その後も何度かお邪魔しましたが、その都度、面白いお話が尽きることなく出てきます。
きっと、宮川さんなら「関叟庵」もご存じじゃないかと思って、久しぶりに訪ねてみました。

宮川さん、しばし記憶を紐解いてらっしゃったようですが・・・。
「うーん、下田の墓地の所に何か建ってたな。それが関叟庵かどうかは分からないが。」
と仰います。
さらに、「安中という家も、近くにあるよ。」と言うのです。

まずは、その安中さんを訪ねてみようと思って伺ったのですが、あいにくお留守でした。
ではということで、下田家の墓地を訪ねてみました。
下田家の墓地は、箕郷支所のすぐ東にあります。


草の生えた細道を通って墓地に足を踏み入れるとすぐ、大きな宝篋印塔が建っています。


その左に立っている石碑を見て、思わず「おーっ!」と声を上げそうになりました。

なんと、「關叟林鐡居士」(関叟林鉄居士)と刻まれてるではないですか。

たぶん、下田家のどなたかの戒名あるいは雅号で、それを冠した庵が「関叟庵」だったのでしょう。
宮川さん、流石です!

となると、今度はどなたが建てたのかが気になってきます。
そこで、「箕輪町誌」をペラペラめくっていると、「人物編 下田連蔵」の項に下田本家の系譜が載っていました。
すると、なんと、三代目・忠炬重兵衛の注記にこう書いてあるではありませんか。
西明屋村田町の墓地に院寮を建て、関叟庵と号した。
酒造を初めたとも伝う。
享保九年四月十一日卒。七十九才。」

「関叟林鉄居士」碑は、下田忠炬重兵衛の墓石でした。
そして、「関叟庵」「院寮」として建てられたということです。

さらに「箕輪町誌人物編」を見ていくと安中文瑛の項もあり、そこに「関叟庵」のことも書かれていました。
明治五年(1768)医を廃業し、箕輪西明屋、関叟庵に隠居し(下田本家の墓地の隣り)悠々自適の生活を送り、吟咏などを楽しんで居られた。
この間にも、下田純一郎・竹腰徳蔵等は先生を慕われて、教を乞われたのであった。(安中球一郎の妹、八十七才健在の談)」

これを見ると、「関叟庵」下田家墓地の隣にあったありますが、宮川さんは墓地の中にあったと言っているので、少し食い違いがあります。

その安中球一郎についても記載がありました。
大阪の実業界で名をなした安中球一郎は、明治八年九月九日、熊谷県北第十六区壱小区西明屋一四六の貞三郎の長男として生まれた。
血の気は争えないもので、文瑛の孫である。幼少より聡明で温順、朋友の下田純一郎は、文瑛に近くの関叟庵で共に薫陶を受けた間柄、安中家に出入りする多くの人は、名士か文人で実に恵まれた雰囲気であった。
長じて十一屋にお手伝いとして入居し、先輩である徳蔵(先代)よりは、肉親にまさる寵愛を受け、身の廻り一切に至るまでお世話になり、氏もまた父とも兄とも慕う程であった(八七歳の妹の談)。」
そして竹腰徳蔵の応援もあって、球一郎は東京帝大法学部を卒業後、大阪に東亜鉄工所を建設し取締役社長を務めるまでになります。

こうなるとますます、箕郷に居るという安中さんを訪ねてみたくなり、5度目の訪問でようやくご主人とお会いすることができました。
お話を伺うと、やはり、この安中さんが文瑛のご子孫でした。

現当主・安中文雄さんのお父さんが瑛一氏で、瑛一氏のお母さんが前述の安中球一郎氏の妹・ウラさんです。
因みに、文雄さんの「文」と、瑛一氏の「瑛」は、文瑛の名前から一字づつもらっているそうです。

さて、「瑾亭先生墓碣銘」によると、安中文瑛「関叟庵」に隠居したのは、「老いて世事を厭(いと)い」ということでしたが、文雄さんはその経緯も「関叟庵」のことも知らないと言います。
ただ、父・瑛一氏から聞いている話しとして、文瑛の子・禎三郎が保渡田村長だった時、その部下が使い込みをした始末を全部することになり、保渡田の家屋敷を引き払って箕輪へ移ったということです。
その時、箕輪の酒造家・竹腰徳蔵の世話になり、「竹腰酒造」の道向こうに住まわせてもらったと言います。

ということは、「関叟庵」には文瑛だけが移り住んでいて、その後、貞三郎の家族が揃って「竹腰酒造」の所に移ってきたということなのかも知れません。

そう言われてみれば、「関叟庵」の間取り図を見ると、二世帯全員が住まうにはちょっと狭すぎる感じがします。


斎藤勲氏著「みさと散策」には、「関叟庵」は大正の頃まであったらしいと書いてありますが、現八十二歳の宮川さんが見たことがあるということなので、少なくとも昭和十年代までは残っていたのではないでしょうか。

ともあれ、胸につかえていた「関叟庵」のことがようやく腑に落ちて、今夜はよく眠れそうです。


【下田家墓地】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:54
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