2019年01月20日

史跡看板散歩-125 幸宮神社三碑

下小鳥町「幸宮(さちのみや)神社」のすぐ西に、大きな石碑が二つ建っているのが見えます。


史跡看板は、上の写真で奥の方に見える石碑の前に建っています。



後ろの石碑が、一番の「峯岸先生之碑」です。


この碑の篆額(題字)は、大河ドラマ「いだてん」にも登場する嘉納治五郎の筆です。
加納は武道研究のため明治初期に峯岸道場を来訪しているので、そこからのつながりでしょう。

霞新流森川武兵衛を開祖とし、板鼻真下松五郎という人が峯岸弥三郎に伝えたと碑に刻されています。
この碑で「峯岸先生」とあるのは弥三郎ではなく、その孫にあたる弥作のことです。

弥三郎「やわら弥三郎」と異名を持つ柔術の達人だったようで、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」にそのエピソードが載っています。
峰岸道場は江戸時代からの道場で、道場主弥三郎もふだんは農業に従っていた。
農村では太平洋戦争までは田畑へまく肥料は化学肥料によらず、人糞尿を一般人家から汲んで来てこやしだめにたくわえ、よくこなして使っていた。だから高崎の近村ではみな高崎の人たちと契約して、こやしをくみとりに来た。

弥三郎もこやしをくみに高崎藩士の上村某の家に行った。上村某は高崎藩に柔術をもって仕えていた。だから弥三郎が柔術をやるということを知り、これをためしてみることにした。
で、上がりはなに招じ入れて『まあ、休憩して一服つけろ』という。弥三郎は珍しいことと腰をおろすと、上村某が『今日はお前をしめ殺す』という。
『それはご無用です。私は決して殺されるような罪を犯していません。おゆるしください』
『なあに弥三郎、しめ殺すといってもほんの一時だ。すぐに活かしてやる』
『それなら結構です。死ななければ見られない地獄や極楽が見られるとはありがたいこと』

上村某はたすき十字にあやとり身構えた。弥三郎も臍下丹田に力を入れて上村某をにらみつけた。
このひとにらみに、上村某は動けなくなった。
そこで弥三郎はわざとわき見をした。
上村はここぞとばかり飛びかかった。と思ったのだが、弥三郎はその時すでに片膝を立てて、右拳の当て身は上村の胸をつくところだった。
上村はあわてて三メートルあまり後ろに飛び退いた。
ところが弥三郎の身体もまるでヒモでもついているようにそれだけつき進んだ。それどころか、上村は足蹴にされるところだった。
上村は顔面蒼白になった。しかし弥三郎には上村を蹴倒すつもりはなく、その型をやっただけだった。実際に力を加えたのなら上村の命はなかっただろう。そのことは上村がいちばんよく知っている。

弥三郎は、『まことに失礼いたしました。どうぞご勘弁ください。』と言ってこやしもくまず帰ってしまった。
上村某はそれさえも耳に入ったかどうか、しばらくは茫然自失の態だった。」

この他にも、小幡藩へ乗り込んで武芸達者の藩士達を投げ飛ばした話とか、刀の刃を上にして梯子をつくり、その梯子を裸足でのぼったという話も載っています。

史跡看板の二番が、左隣にある「廣岡歸月翁之壽碑」です。


この碑は明治二十六年(1893)に廣岡高次宅庭に建てられたもので、昭和三十年(1955)頃この場所に移されました。
「歸月」(きげつ)は号で、本名は庫蔵(くらぞう)とあります。
碑文はだいぶ薄れて読みにくいのですが、その撰文はこれも加納治五郎のものです。
歸月の孫にあたる廣岡勇司峯岸道場の高弟でしたが、後に加納の門弟となったことで、撰文を依頼しに来たと碑文にあります。

三番は、三本辻の真ん中に建つ「高木翁之碑」です。


史跡看板に、「小鳥小学校に五十三年間奉職し」とありますが、碑文には「此の間の欠勤僅かに五日を出ず」ということも刻されています。

なお、この碑の篆額は、高崎藩最後の藩主・大河内輝聲(てるな)の長男・輝耕(きこう)の筆です。
輝耕については、過去記事「駅から遠足 観音山(40)」に出てきますので、よかったらどうぞ。

「幸宮神社」には、輝耕の父・輝聲の筆による「淡島神社」の石碑があります。
これもよろしければ、過去記事「続橋から幸宮へ」でどうぞ。

さて、だいぶ長くなりました。
今回はこの辺で。
(参考図書:「高崎市下小鳥町町内誌」)


【幸宮神社境内三碑】


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2019年01月13日

史跡看板散歩-124 日高町の聖蹟碑

旧17号を前橋方面へ向かい、関越自動車道を潜った先に「きものや シモン」という、えらく目立つ看板があります。


今回の史跡「聖蹟碑」は、その左に写っている小さな公園の中にあります。




碑には漢文でこう刻まれています。
  明治十一年戊寅九月
今上巡幸北陸二日車駕入群馬縣四日臨幸厩橋治廳以日高村當輦道新相地架屋以爲駐駕之處後村民相謀建石欲使聖蹟不歸於湮滅蓋新道通高崎一線稱御幸道者此得名云乃屬余紀其事余奉職本縣不辭而書之
 明治十四年十一月三日
     群馬縣令從五位 楫取素彦撰竝書

明治天皇がどんな所で休憩したのか興味がありますが、昭和十五年(1940)群馬県発行の「明治天皇聖蹟志」にけっこう詳しく書かれています。
一、 福島權次郎持地畑地凡(およそ)四拾坪借上ケ 其内ニ御座所四坪 臣下ノ控所拾坪假建後 通リ葭簀圍ヒ(よしずがこい) 前四ツ目垣結建ノコト
外ニ御便所四尺(1.2m)四方掘立 廻り葭簀 屋根杉皮葺 漏斗取付ノコト
二、 日高村ニ於テハ 先發官指定ノ外私費ヲ投ジ 御建屋及御便所雨宿四ヶ所 御建屋裏垣ヲ新築シ 御小休及供奉員ノ御休憩ニ供ス
三、 九月三日(前略)高崎驛行在所ヘ着御(ちゃくぎょ:到着) 御晝(昼)食畢(終わり)テ御發車 日高村ニ於テ御小休(福島權次郎持地御小休所官設)云々(北陸東海兩道巡幸日誌)午後一時八分日高村ニ至ル 區長柴田藤次郎等林下ニ假葺セシ小亭ニ就テ御小休

畑の中に建てた仮小屋だったんですね。

「聖蹟碑」を建てた理由についても書かれています。
かくの如く、本御小休所の建物は臨時の御假屋なりししかば、日高村民は御遺蹟の早く湮滅せんことを慮(おもんばか)り、明治十四年十一月楫取群馬縣令の撰竝(ならびに)書に成る聖蹟碑を建設して、之れを不朽に傳へたり、斯(かく:これ)は實に本縣下に於ける聖蹟碑の嚆矢(こうし:最初)なり」

時は過ぎて昭和天皇の御代となり、昭和九年(1934)陸軍特別大演習が群馬県で行われるにあたり、「聖蹟碑」の建つ場所が整備されます。
昭和九年十一月陸軍特別大演習の本縣内に擧行せられ、地方行幸の事あるや、此曠古(こうこ:今までにない)の光榮を記念せんが爲、既設の聖蹟碑を中心に八拾坪の地を買収して村有となし、北及西の村道添には玉垣、東と南との小川邊には石垣を築造し、中に松杉棕櫚等數十株を栽植して風致を添え、又國道より通用道路を新設し、入口に標識石柱を建て、更にこの保存施設を記念するが爲、傍らに一碑を建設したり。
撰文は群馬縣屬吉澤澄治なり。」

吉澤澄治撰文の碑というのがこれです。


この石碑を建てたのは「新高尾村」となっていますが、日高村は、明治二十二年(1889)新保村新保田中村中尾村鳥羽村との合併で、新保の「新」日高の「高」中尾の「尾」をとって「新高尾村」となりました。

余談ですが、この時「鳥羽村」の文字が含まれなかったことが面白くなかったのか、「新高尾村」が昭和三十年(1955)高崎に合併する時、「鳥羽村」だけは前橋と合併したんだとかいう話です。
「旧日高村」は、この時「日高町」になりました。

その後「聖蹟碑」の地は、昭和十五年(1940)の紀元二千六百年記念行事として玉垣を修築したり記念樹を栽植したりしています。
80年近く経った現在も、ほぼその時の姿が残っているというのは、すごいことです。


因みに、昭和九年(1934)当時の旧高崎市の「聖蹟」は、こうだそうです。


天皇が神様だった時代でした。


【日高町聖蹟碑】


  


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2019年01月06日

史跡看板散歩-123 新井堰の分水

三国街道(高崎-渋川線)の大橋町に、「大橋橋」という面白い名前の橋があります。


下を流れるのが「大川」と呼ばれた「長野堰用水」で、その「大川」に架かる橋だから「大橋」と呼んでいました。
ご丁寧にもうひとつ「橋」を付けちゃったんですね。

その橋の上流側に「城峯神社参拝所入口」「住吉町庚申塔入口」という石柱が建っています。


そこを入った左に史跡看板が建っています。



史跡看板の下を流れているのが「新井堰」からの分水で、高崎城下を縦横に走る水路の始まりです。

後ろには、「新井堰」の水門を越える水が、目の回りそうな速さでドードーと音を立てて流れています。


その柵際に、もうひとつ「新井堰」の説明看板が建っており、この辺の昔の写真が下に貼ってあります。
昔の川幅は、倍くらいあったようですね。


双方の看板で食い違うところが一個所あって、気になる方がいるかも知れません。
「新井堰」から高崎城のお堀への経路の中で、史跡看板は嘉多町、説明看板は堰代町を通るように書かれています。
東西に接している町なのでどちらでも良いのですが、万延元年(1860)覚法寺絵図を見ると、水路は嘉多町側を通っています。


さて、「新井堰」を開鑿したという新井喜左衛門という人ですが、ブログ駆け出しのころ記事にしていました。
  ◇「新井堰」の人脈と水脈

史跡看板の一番最後に「高崎初の水道が・・・」とありますが、簡易水道のことです。
昔の人は、「新井堰」の所に設けられた簡易水道施設を、「水漉(こ)し場」と呼んでいました。
明治四十一年(1908)につくられた「高崎唱歌」にも、
  ここは水道 水こし場
住吉町の 西の方
新たに名付けし 台町は
榛名参りの 街道よ
と歌われています。

ただ、簡易水道はあくまで簡易の水道で、なかなか大変な代物だったようです。
  ◇蛇口から魚?

今はほとんど暗渠になってしまいましたが、「新井堰」から「お堀」まで、水路を探りながらの散歩もまた面白いのではないでしょうか。


【新井堰の史跡看板】


  


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2018年12月30日

史跡看板散歩-122 チンチン電車の軌道跡

大橋町長野堰沿いに、史跡看板が建っています。
かつて、チンチン電車が川を渡っていた場所です。



かつて軌道だった場所に造られた細長い児童公園には、「電車通り公園」という名前が付けられています。


振り向けば、三国街道から斜めに入ってくる軌道跡の道とつながります。
三国街道拡幅に伴い一部代替地分に充てられて、半分ほどの幅になっていますが。


チンチン電車の通る道を、「電車みち」と呼んでいました。
9年も前に記事にしていましたので、ご覧ください。
  ◇「電車みち」

チンチン電車が走っていた昭和9年(1934)の地図と、現在の地図を並べて見ると、今も軌道の痕跡が見事に残っているのが分かります。


三国街道から長野堰鉄橋へ曲がる所で生まれ育った西山保さんが、「チンチン電車の思い出」という一文を書いています。
その中から、いくつかご紹介しましょう。
一番記憶に残っているのは、朝、家を出て幼稚園へ行かずに飯塚に有った電車の車庫へ行って遊んでいた事である。そこには予備の枕木や電柱が重ねておいてありで、遊ぶにはもってこいの場所だった。
更に必ず整備のための電車や独特の形をした貨物電車があり、好奇心の塊の子供にはうってつけの場所だった。
しかしそれも3日目には幼稚園から来ていないと連絡されて、叔母が探しに来てばれてお終いとなった。

車庫へ向かう途中の右側に電車池が有ったが、正直あまりよく覚えていない。田んぼ二枚くらいの広さで大人の人が釣りをしていたのは見てます。掘ったままの岸に草がぼうぼうと生えていて、何か子供には不気味な気配で近寄らなかった。
長じてこれが電車山をつくる土を掘った穴だと知った次第である。」

ある時、壁に掛かっている電話機で飯塚車庫へ電話する母『住吉町の西山だけど次の電車止めてくれる』
すると次の電車が表通りに出る手前カーブで速度ゆるめるどころか止まって、駅方面へ行く母が乗込んでいました。
今なら大変と言うより、当時も相当人様に迷惑を掛けた勝手な振る舞いが通った時代だった。」

区画整理によって、昔の道が跡形もなくなってしまうことが多々ありますが、史跡看板が建てられたことで、この「電車みち」だけは残ってくれるのではないかと、心より願っております。


【チンチン電車軌道跡史跡看板】


  


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2018年12月23日

史跡看板散歩-121 放光神社

下佐野第一公民館の所にある、「放光神社」です。



看板にあるように、「放光神社」「山ノ上碑」に刻まれている「放光寺」の跡だと長らく伝わってきました。
それが、昭和五十六年(1981)に発掘された前橋「山王廃寺」跡から、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が出てきたことで、俄かに放光寺=山王廃寺説が有力となってしまいました。

史跡看板最後の「山王廃寺の場所が長利の勤めていた放光寺と推定される説があります。」という書き様に、悔しさがにじみ出ているように感じられます。
過去記事「鎌倉街道探訪記(18)」も、併せてご覧ください。

かつて、気付いたら「県庁」前橋へ行っていたという歴史がありましたが、「放光寺」もまた・・・。
平成二十七年(2015)に前橋市文化財保護課で発行した「山王廃寺跡」のパンフレットでは、はっきり「山王廃寺は放光寺だった!」となっています。


いま前橋市は、歴史文化を軸に町づくりを考えているようで。


高崎市も後れを取らないよう、歴史文化に力を入れて取り組んでいって欲しいものです。


【放光神社】

【山王廃寺跡】


  


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2018年12月16日

史跡看板散歩-120 江木町の薬師如来

江木町の細道の角に祀られている「薬師如来」




板碑の裏側には、「薬師如来」再建の日の思いが刻まれていました。
私達有志は世話人となって
その功徳を永遠に留める為
御姿の再建を思い立ち
本日その竣功に当たって
厳に開眼の儀を挙行する」

秋のお祭りの後なのでしょう。園内はきれいに掃除され、きちんと忌竹注連縄、供え物もしてあって、大切にされていることがよく分かります。
史跡看板も建って、これからも地域の人たちに伝え継がれていくことでしょう。

2019.12.16追記
ブログ仲間のいちじんさんから、薬師如来の春のお祭り風景の写真を頂きました。


なんでも、ここのすぐ近くに住むご友人宅へ行ったら、偶然お祭りをやっていたのだとか。
いちじんさん、ありがとうございました。


【薬師如来】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
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2018年12月09日

史跡看板散歩-119 飯玉町の天王さまと道祖神

飯玉町公民館の敷地内、鳥居の奥の石祠に祀られているのが「天王さま」です。



「天王さま」とは「牛頭(ごず)天王」で、疫病を追い払ってくれる神様なんですが、けっこう怖い神様でもあります。
過去記事「追分の八坂大神」でご覧ください。

お祭りの時に幟旗の先に付けた「魔除けの頭」というのが、これです。


看板中ほどにある「道祖神」は、これです。


なお看板のふりがなで、「戊寅」「つちのとら」とあるのは「つちのとら」「赤土邑」「あかむら」とあるのは「あかつちむら」の誤りでしょう。

看板の最後の方に「妙信庵」というのが出てきますが、この辺にあったようです。


塚沢村時代は、この「妙信庵」が役場として使われていて、「夜泣き地蔵」は、そのそばに建っていたらしいです。

看板には文字数の関係で書けなかったのでしょうが、このお地蔵さまは夜泣きをする子が帰った後、その子と同じ声でかすかに泣くんだそうです。
そして翌朝見ると、お地蔵様の頬はびっしょり濡れていたという話も伝わっています。

「妙信庵」は九蔵町「正法寺」の末寺であったことから、お地蔵さまは「正法寺」「九蔵稲荷」の近くに移されました。


近代医学によって病気の多くが治療できるようになった今も、私たちの心の奥深くには、神仏の加護に縋る昔の人の心が息づいているように思います。


【飯玉町の天王様と道祖神】

【夜泣き地蔵】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
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2018年12月02日

史跡看板散歩-118 雀宮神社

芝塚町公民館に張り付くように建っている、「雀宮(すずめのみや)神社」です。



「雀宮神社」は、昭和三十九年(1964)公民館を造る時にそこから移設し建て替えられたのですが、なぜか公民館の中からしかお参りできない構造にしちゃったらしいんです。
それでは具合が悪かったんでしょう、昭和五十年(1975)に造り直して、外からお参りできるようになりました。
(「わたしたちの塚沢」)

おしゃれだなぁ、と思ったのは、側面に描かれた雀の乱舞です。


看板中ほどに、神社敷地内の石造物のことが出てきますが、神殿の後ろに並んでいます。



一番右にあった「双体道祖神」は、盗まれちゃったんですね。平成二十三年(2011)のことだそうです。
今頃、神罰が下ってるんじゃないかと思いますが。

看板の最後に、「雀宮神社」「雀」というのは「鎮め」(しずめ)が変化したんだろうと書いてあります。
たしかに、なんで「雀」なんだろうと思いますが、ブログ「前橋周辺の史跡散歩」氏が、なかなか興味深い探究をされています。

氏は、各地にある「雀」の名が付く神社の多くが「少彦名命」を祭神としていることから、こう推理します。
日本書紀に・・・鷦鷯(さざき)の羽を以て衣とした小男の神が到来したとあり、それが少彦名命だとされる。
鷦鷯はミソサザイのことで、スズメ目ミソサザイ科の小さな鳥である。古代、鷦鷯に「雀」の漢字を当てたらしい。
鷦鷯に「雀」の文字を当てたことで「すずめ」になったのだと思う。」
全文は、氏のHPから「雀神社の由来(少彦名命・雀部)」をご覧ください。

史跡看板に、「江木町の江木神社も元は『雀宮神社』と称した」とあるので、行ってみました。


手水舎の脇に建つ看板を見ると、たしかに「もとは雀の宮と号し少彦名命を祭れり」とあります。


拝殿にも、「雀之宮」の扁額が掲げられています。


さらに、すぐ隣の「真楽寺」の山号は「雀宮山」でした。


芝塚町「雀宮神社」の幟旗には「雀鏡宮神社」と記してあるといいますが、どうして「鏡」が取れたのか。
江木町「雀宮神社」とはどういう関係なのか。
謎はまだまだ解けていなそうです。


【雀宮神社】

【江木神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2018年11月25日

史跡看板散歩-117 旧第二国立銀行と茂木銀行跡

普通に歩いていたら、まず気付かないと思います。


こんな奥まった所に建ってるんで。



明治三十年(1897)の地図で見ると2つの銀行はこんな位置関係で、史跡看板は「第二国立銀行」の跡に建っていることになります。


この二つの銀行開業に大きな力を果たしたのが、高崎出身の茂木惣兵衛(もぎ・そうべえ)です。
茂木氏は横浜在住ながら、高崎最初の図書館設立や八幡八幡宮の「唐銅燈籠」寄進など、高崎発展のための援助を惜しみなく施した人物です。

しかし不思議なことに、というか残念なことに、そのことを知る高崎市民はあまり多くなさそうです。

高崎にはありませんが、遠く熱海の梅園には茂木氏の功績を称える大きな顕彰碑が建っています。
過去記事「惣兵衛の梅」で、茂木惣兵衛という人物の人となりを知って頂けたら嬉しいです。

看板には「横浜興信銀行」の写真が載っていますが、その前身「茂木銀行」の姿が明治三十三年(1900)発行の「高崎市街商家案内寿語録(すごろく)」に描かれています。


絵の右端に描かれている茶色のレンガ塀(着色は迷道院)は、現在常盤町「山田文庫」に移築され現存しています。


移築された経緯ははっきりしませんが、「第二国立銀行」「茂木銀行」の歴史を見ると、何となく分かってきます。
過去記事「和風図書館と茂木銀行」をご覧ください。

そしてこれは余談ですが、高崎には茂木惣兵衛が経営していた製糸所もあったんです。
  ◇高崎の絹遺跡(第三話)

高崎の偉人として、もっと知られてよい人物ではないでしょうか。


【旧第二国立銀行と茂木銀行跡の史跡看板】


  


2018年11月20日

号外!連雀町の百年写真展開催中!

連雀町にある、安政三年(1856)創業の「樋口陶器本店」


今そこで、「連雀町の百年懐かしい写真展」を開催中です。



既存の写真集には載っていない、貴重な写真が展示されていますので、必見です。
また、今は手に入らない昔の陶器が格安で売り出されています。

展示期間は、今月30日(金)までの予定です。
お見逃しなきよう、ぜひ足をお運びください。


【樋口陶器本店】



  


Posted by 迷道院高崎at 15:26
Comments(4)高崎町なか◆高崎探訪

2018年11月18日

史跡看板散歩-116 赤坂町十一面観世音

赤坂町恵徳寺「十一面観音堂」



幟にも染め抜いてありますが、観音堂左手前の石碑にも「上野国三十三番札所」と刻まれています。


「上野国観音札所」は全部で三十四ヵ所あって、高崎市には五ヵ所あります。
・二十番 倉渕町三ノ倉観音堂
・二十一番  榛名町榛名神社
・二十二番 中室田町岩井堂
・三十三番 赤坂町恵徳寺
・三十四番 石原町清水寺

石碑には、
 「めぐりきて
     その名をきけば 赤坂の
         心の月は いまぞはれゆく」

というご詠歌が刻まれています。

毎年八月十日が、大縁日です。


この日は、恵徳寺の奥様が、素敵な笑顔で手首にこよりを結んでくれます。


この日に参詣すると、四萬八千日参詣したのと同じ功徳があるそうです。
東京上野浅草寺四萬六千日より二千日多いと言うんですが、そもそも、その四萬六千日って何だってぇ話です。

一説には、一升枡に米を入れるとそれが四萬六千粒あるんだそうで(誰か数えたのか?)「一升」「一生」に引っかけて四萬六千日なんだとか。
ただ、46,000日を365日で割ると126年になりますので、一生分にたっぷりお釣りがきます。
そこへ二千日多かったところで、さほど違いはなさそうですが・・・。

ご開帳の日でもあるので、三体の観音様のお姿を見ることが出来ます。


左から、千手観音聖観音十一面観音だと思います。

看板にもあるように、この十一面観音は明治四十一年(1908)中山道高崎宿西出入り口のお堂から移されました。
「長松寺」のすぐ坂下にあった、観音堂です。


このシリーズ最初の「番所跡」にも、ちょこっと出てきます。

大縁日は夜祭なので、暗くなってからが本番です。





一生分の功徳を頂きました。


【赤坂町十一面観音堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2018年11月11日

史跡看板散歩-115 六社稲荷

常盤町の信号を西へ15mほど行くと、左へ斜めに入る細い道があります。
60mほど行くと児童公園があり、その一角にあるのが「六社稲荷」です。




史跡看板は2つ建っていて、その1つからは町を愛する思いと願いが伝わってきます。



「六社稲荷」奉賛会の会長は、中村染工場の先代の社長なんですね。

ところで、この近くには「五社稲荷」というのもあるんです。


場所は「高崎神社」境内の北の端、美保大国神社の前。

「五社稲荷」については、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」にこんな話が載っています。
田町に清水関八という人がいた。
それは明治十四年(1881)十月なかばのことだった。
町を歩いていて現金七百円とその他金券などをなくした。
清水関八は五社稲荷さまの信仰者だったので、その金品が出るかどうか、神狐におうかがいを立てた。
『その紛失品は七日間に得させよう。そのかわり、われをこの地に勧請せられよ。』というのが、神のお告げだった。
関八はこれを拝承した。
はたせるかな、その金品は柳川町のある人の庭内で見つかった。
霊験まことにあらたかのことだった。
そこで関八は一社一窟を設け、社守を置こうとしたが、あらたに一社を創建することは許されなかった。
しかしそれでは神様との約束にそむくことになるので、どうしたらよいか、熊野神社(いまの高崎神社)の神主高井東一にはかり熊野神社に移転した上和田稲荷神社を中心に五社稲荷を合祀した。」

民間信仰トップの座を占めるお稲荷さんは、どこの町にもあっていつも庶民とともにあります。
世情混沌とする今こそ、大切にしたい神様のように思えます。

【六社稲荷】

【五社稲荷】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:50
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2018年11月08日

号外!高崎城押し出しウォーキング!

明治二年(1869)十月十七日、柴崎村天王の森(現進雄神社)に集結した高崎藩古領(五万石)の農民約四千人が、年貢減免の願書を手に高崎城大手門へ押し出し(デモ行進)を決行しました。

来年がその150年目ということで、「高崎五万石騒動150周年記念行事」を企画しています。

さて、そのプレイベントとして「高崎城押し出しウォーキング」を実施するため、着々と準備を進めてきました。




そして11月11日(日)、ついにその日がやってきました!


ぜひ当日、「高崎城押し出し」を見に来てください。

できれば、あなたも押し出しに参加してみませんか。
参加方法は、二通りあります。

1.フルコース参加 残3人まで
    (途中バス利用 普門寺-義人堂-安国寺-
           高崎城-大森院-進雄神社-普門寺)
・集合場所  下中居町「普門寺」
駐車場有
・集合時間  午前10時
・参加費用  3,000円
・申込み先  実行委員会事務局 吉井一仁    
電話090-1600-4082

2.ショートコース参加(徒歩 安国寺-高崎城)
・集合場所  慈光通り「安国寺」前
駐車場無し
お近くの有料駐車場をご利用ください
・集合時間  午前11時
・参加費用  無料
・申込み先  当日安国寺前にて

みなさんのご参加を、心よりお待ちしております!


【普門寺】

【安国寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 17:57
Comments(2)高崎五万石騒動◆高崎探訪

2018年11月04日

史跡看板散歩-114 根岸峮太郎翁頌徳碑

国道354号柴崎町の信号を京目町方向へ700mほど、「中大類町公民館」の所にその頌徳碑が建っています。



碑背下部に略歴が刻まれています。
翁は萬延元年九月七日大類村大字柴崎の豪農の家に生まれた、體軀偉大、言行温和、識見髙邁、中庸を處世訓とし、人に怒らず、常に己を空うして社會福祉のため専念した。
郷黨其の徳を敬って慈父の如く、其の業蹟を稱へて慈母の如く慕った。
翁の如きは之を古今に求めて稀に見るところである。

翁は明治十八年廿六歳村會議員を発足とし、県議會議員に五回、衆議院議員に三回當選した。
村長に三回就任、同時に町村長會長を兼ねたのは実に七十四歳の髙齢で始められてゐる。
蓋し翁の足跡を辿れば即ち羣(群)馬郡史であり羣馬県史である。
昭和二十年十二月十五日、その輝ける公生涯を惜しまれつつ八十七歳を以て終焉を告げた。」

根岸峮太郎の家は、前回記事の「大澤雅休頌碑」のすぐ近くです。
「根岸峮太郎翁頌徳碑」が雅休の書であるというのも、当然なのでしょう。

倉賀野から元島名への道は、古くは「米街道」と呼ばれ、前橋渋川を経て越後まで続く道でした。

当時の「米街道」は、くねくねくねくねと曲がりくねった細い道で、翁の働きで開通した「倉賀野-元島名線」の真っ直ぐな道路は、「峮太郎道路」と称賛されるほど交通の便が良くなったのです。


老後は「君山」という号で書を能くし、好きな囲碁を楽しんだということです。
翁は頌徳碑の建つ前年八十七歳でこの世を去りますが、葬儀は一町他四村による組合葬を以て執行されたという一事を以てしても、郷土への貢献度がいかに大きかったかが偲ばれます。

【根岸峮太郎翁頌徳碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2018年10月30日

号外!お茶の水村園で秤の展示会開催!

本町の茶舗「水村園」で、秤(はかり)の展示会が開催されます。
その名も、
  「蔵の中に眠っていたハカリが歴史を語りはじめる」


記事の写真は「上皿竿秤」という種類ですが、展示会ではその他様々な種類の秤が展示されます。
何しろ、以前は売るほどあったんですから。


準備は着々と進んでいます。



中では、美女二人がディスプレイの真っ最中。


実は、歴史民俗資料館の大工原美智子さんが、展示のお手伝いをしてくれています。
素敵な大工原ワールドが、水村園の中に展開されることでしょう。
見逃すと勿体ないですよ。
ぜひ、お出かけください。

期  間: 11月1日(木)~30日(金)10時~15時
 (日曜・祝日・第2土曜・第4土曜は休み)
入場料: 無料
イベント: お茶の計量体験
14日(水)、21日(水)、28日(水)
10時~11時30分
体験者には、水村園オリジナルほうじ茶ティーバッグ(5g入り6袋)プレゼント

そうそう、11月1日が「計量記念日」で、11月が「計量強調月間」ということで、高崎市役所一階ロビーにも、歴史民俗資料館から出張してきた度量衡機器が展示されています。
ぜひ、市役所まで足を延ばしてみてください。


そして、どうせそこまで来たんなら、大信寺にある高崎秤座当主・守随彦三郎のお墓も見に行ってみましょうよ。


どうぞ、お楽しみを!

【水村園】

【守随彦三郎のお墓】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2018年10月28日

史跡看板散歩-113 大澤雅休頌碑

柴崎町南の信号を東に入り、


80mほど行くと、左手奥に大きな石碑が見えてきます。
「大澤雅休」(おおさわ・がきゅう)の頌碑です。


碑へは、もう一つ先の小道から入ります。



「雅休」は雅号だと思っていたのですが、実は本名で「まさやす」と読むのだそうです。

あまり裕福とは言えない農家だったといいますが、名前の「休」「一休禅師」の一字をとったということですから、風雅を好む家柄だったのかも知れません。

看板にも書かれている歌誌「野菊」昭和十六年三月号に自叙伝が載っていて、十六~十八歳の頃をこう回顧しています。
小学校を卒業して、高山社蚕業学校の別科性として春蚕期間だけ三ヶ年、多野郡小野村中村の塚越分教場に入り、養蚕の実習をした。
蚕具洗い、桑摘み、蚕室消毒等三ヶ月間寄宿生活、奉公人と家族と男女の混合生活は幾分世の中のことを知り始める自分にとって無駄事ではなかった。
姉の婿が小学校の教員をしてゐたので、その世話で私が代用教員になったのは、養蚕の学校を卒業した年の九月である。
同郡の金島村の村長の家の一角を借りて自炊してゐたのであるが、この間に姉を死なしてしまった。姉は肺炎であった。
月給は九円であったが、それでも三円くらい家に送ったものだ。」
(みやま文庫「泰一郎・きち・雅休」より)

雅休はもともと絵をかくのが好きだったようですが、歌や書に興味を抱いたのは倉賀野小学校勤務時代の友人たちの影響があったようです。

看板の文中「書の道・墨書での新境地(前衛書道)を拓き」とある雅休の書で、代表的なのはこれでしょうか。


「山嶽重疊」という字だそうです。
この作品について、雅休はこんなことを言っています。
『山嶽重疊』という言葉と取り組んで年余になる。
山を離れると一層山を恋う。ふるさとの山。その畳なわり(たたなわり:重なり合って連なること)、たゝずまい、その現象的なものに取り組んで其の中に浸れるものをという追及を長いことつづけたあげくに、それを超えた別の世界、山嶽重疊の語面と実相そのものを離れて、只管に作者のイメージとしてのそれを表はそうとした。」

雅休の歌碑が、頌碑の左にあります。


  ひたむきに
    ひとつのものを 押しすすめ
      いゆかばよろし ゆきつかずとも


昭和四十七年(1972)に「大澤雅休頌碑」を建立したのは、前々から雅休を敬慕し、生まれも隣村・下大類村であった建設業経営者・信沢克己氏です。
信沢克己氏は、山名丘陵に24基の万葉歌碑を建てて「石碑之路」(いしぶみのみち)を整備した人物です。
   ◇鎌倉街道探訪記(25)

信沢氏が「石碑之路」に建てた碑の内、6基が大澤雅休の揮毫によるものです。





散策にはよい季節になりました。
みなさんも「石碑之路」散策で、「雅休碑」探索はいかがでしょう。


【大澤雅休頌碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
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2018年10月21日

史跡看板散歩-112 旧中山道「左道通行」道標

吉井町を巡ってる間に、ひっそり追加された看板がいくつかありまして。

まずは、倉賀野町「左道通行」道標です。




看板の後半部分に、行方不明になっていたこの道標が発見されて再び設置された旨が記載されていますが、「隠居の思ひつ記」をご愛読いただいている方には、すでにご存知のことでしょう。

ご存じでなかった方は、過去記事をどうぞ。
  ◇幸運を呼ぶ道標 「左道通行」


【「左道通行」の道標】


  


2018年10月14日

史跡看板散歩-番外編 富岡の小野小町(2)

前回に続き、富岡「小町山得成寺」の話です。

「得成寺」には、晩年の小町の姿を彫った、運慶「無我無心像」というのもあります。
これも、徳川家から寄進されたものだそうです。

本物は4月8日の花まつりの時にしか見られないということですが、本堂のガラスケースの中にその写真が飾られていました。


晩年とはいえ、絶世の美女・小野小町とはとても思えない姿ですが、どうやら平安時代に書かれたという「玉造小町壮衰書」に出てくる姿のようです。


漢字がびっしりですが、こんな感じでしょうか。
私が道を行く途中、道の傍らに一人の女人がいた。
容貌は憔悴し、身体は痩せ、髪は霜にあたった蓬のように白い。
肌は凍った梨のように皺が寄り、骨は飛び出し筋が浮き出て、顔の色は黒く歯は黄ばんでいる。
裸形にして衣はなく、履物もなく素足のまま。
声は震えてものを言うこともできず、足は萎えて歩くこともできない。
食べ物は尽きて、朝夕の食も支え難く、糠や屑米も悉く終わり、いつ命が終わるかも知れない。
左のひじには破れた竹籠を懸け、右手には壊れた笠を提げて、首には一つの包みを掛け、背には一つの袋を背負っている。」
(参考:杤尾武校注「玉造小町子壮衰書」)

将軍・徳川家綱が、なぜ全盛期の「小町の襖絵」と晩年の「無我無心像」の二つを寄進したのか、意味深です。

あ、そういえば、横尾応処斎の作品を捜して吉井町穴岡「弥勒寺」へお邪魔した時、本堂の廊下にこんな絵が掛かっていました。


ガラスで反射して見にくいですが、見にくくてよかったかも知れません。
十二単の女性が、おどろおどろしい骸(むくろ)に変化していく様子が描かれています。
「九相図」というらしいんですが、もしかするとこの女性は小町かも知れません。

  花の色は
   移りにけりな いたづらに
    わが身世にふる ながめせしまに

小野小町



【得成寺】


【弥勒寺】



  


2018年10月07日

史跡看板散歩-番外編 富岡の小野小町(1)

吉井町にある「小野小町の休み石」のつながりで、小町が庵を造って仏道修行をしたという、富岡市小野地区(相野田)へ行ってみました。

すると早速、こんなのを見つけました。

なるほど、でしょ?

その道路沿いに、「小野小町開基」という、その名も「小町山得成寺(とくじょうじ)」の案内板が建っています。


「得成寺」は、街道から入って200mほど坂を上った所にあります。




「休み石」の史跡看板では「庵を造って仏道修行をした」とだけでしたが、得成寺の由緒看板によれば、ここから「鏑川の岸辺にある薬師如来」まで、千日通って祈願したということなんですね。

石段を上って山門を潜ると、「将軍の命令で建立された」というだけあって、立派な本堂と鐘楼がありました。



本堂と寺務所の間に、「小町の化粧の井戸」というのがあります。



この看板では、「晩年」となっていますが、前回の秋田県湯沢市雄勝町の伝承では36歳の時と伝わっていますから、晩年には早すぎます。
因みに同伝承では92歳まで生きたことになっていますし、能の「卒塔婆小町」は100歳でしたよね。

寺務所へ行き、襖絵を見せて頂けますかとお尋ねすると、突然の訪問にもかかわらず快く本堂に上げて頂き、ご住職自らとても丁寧な説明をして下さいました。

大きな板襖に描かれている小町は、美しさ最盛期の姿だとか。
宮中に仕えたのは十六歳からだそうですから、二十歳前後なのかな。


これは、徳川家四代将軍・家綱から贈られたものだそうです。

由緒看板には、「八代住職は亮賢と言い、五代将軍綱吉の母桂昌院の信任を得・・・」とあるだけですが、ご住職のお話によると、三代将軍家光には子ができても女児ばかり、側室の桂昌院は何としても男児が欲しいとして亮賢に護摩祈祷をしてもらったところ、みごと男児が生まれ、この子が後の綱吉という訳です。

そんな縁で、この寺は以降徳川家の手厚い庇護を受けるようになり、寺院も新しく建て直され、山号に因んだ小町の襖絵が贈られたのだそうです。

由緒看板の最後に、「付近には小町が千日の願をかけた『塩薬師』、抜髪を埋めて塚とした『小町塚』などがある」と書かれています。

ご住職にお聞きすると、「小町塚」「塩薬師」へ行く途中の畑の中にあったが、土地所有者の代が変わった時に、その様な塚だとは知らなかったようで、崩されてしまって今は跡形もないということです。
あぁ、残念なことをしました。
そうならないためにも、史跡の看板というものは必要だな、とつくづく思います。

「塩薬師」はちゃんと残っているというので、行ってみました。
「得成寺」から南へ1.7kmほど、鏑川に架かる「塩畑堂橋」の袂に「塩薬師如来」の案内看板が建っています。


右の道を下りると、山門のようなお堂のような休憩所のような建物が建っていますが、掲げられた扁額にはうっすらと「瑠璃光殿」の文字が読めます。


たぶん、昔はこの中に薬師様が安置されていたのではないでしょうか。
今は、その建物の後ろに「塩薬師」の塔があります。


たくさんの石の薬師像が祀られていて、その昔は「石薬師」と呼ばれていたのだそうです。
きっと、病が治るとお礼に薬師様の石像を供えたものが、これだけの数になったのでしょうね。


看板中ほどに「堂傍の霊水」とありますが、なんでも塩分を含んだ水が川床から湧いていたらしいです。
それで小町はお礼に塩を積み供え、「塩薬師」になったという訳ですね。

そういえば、吉井町には「塩川」という地名があって、その川床からも塩分を含む鉱泉が湧いていて、それを利用した「玉子湯」というお風呂がありましたっけ。
何だか、富岡小町伝説と関係がありそうな。

さて、もう一度「得成寺」へ戻ることといたしましょう。


【得成寺】


【塩薬師】



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2018年09月30日

史跡看板散歩-111 小野小町の休み石

国道254号線の吉井町交差点から富岡方面へ340m、横断歩道先の左側です。


入口右に「安全地蔵尊」の標柱、左に史跡看板が建っています。


その一番奥に、「安全地蔵尊」「小野小町の休み石」が並んでいます。


史跡看板を見てみましょう。


小野小町にまつわる伝承は、それこそ全国津々浦々にあるようですが、生誕の地と言われる秋田県湯沢市雄勝町に伝わる話で見てみましょう。
京の都から小野良実(おののよしざね)という名の貴族が、郡司として出羽国福富の荘桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)にやってくる。
大同四年(809)良実は地元有力者の娘である大町子(おおまちこ)との間に子をもうける。
その子の名は比古姫(ひこひめ)、後の小野小町である。
比古姫を生んだ大町子は間もなく亡くなってしまう。
比古姫自身は良実の教育により卓越した教養を身に着け、弘仁十三年(822)十三歳の時、郡司の任を終えた良実と共に都に上る。
天長二年(825)比古姫十六歳の時、宮中に仕える。
この間に比古姫は「小野小町」と呼ばれるようになる。
承和十二年(845)小町三十六歳の頃、故郷が恋しくなり、出羽国福富の荘に戻る。」
(逆木一(さかき・はじめ)氏「言の葉の穴」より)

ということになると、この「休み石」に小町が腰かけたのは、今から1,170年も前です。
よくまあ、今日まで連綿と語り継がれてきたもんです。

そういえば、「卒塔婆」に腰かけた小町の話というのもあるんですね。
ブログをやってると、時々あまりのタイミングの良さに驚くことがありますが、9月25日の上毛新聞に、その「卒塔婆」に腰かけた小町の話が載っていました。


「休み石」に腰かけたのは36歳の小町、「卒塔婆」に腰かけたのは100歳の小町ですけどね。

ところで、36歳の小町は、なぜ急に故郷が恋しくなったのでしょう。

絶世の美女であった小町ですから、言い寄ってくる男は数多いましたが、その誰にもなびくことはなかったそうです。
袖にされた男どもは面白くありません。
男だけじゃありません、そんな小町を妬ましく思っていた女性だって少なくなかったに違いありません。
そういう人たちが陰に陽に、あることないこと言いふらすのは昔も今も同じ。
きっと、都という所につくづく嫌気がさしちゃったんでしょうね。

それにしても、の都から秋田までの女旅、さぞ大変だったことでしょう。
看板にあるように、「富岡市小野地区で病に倒れ」てしまい、そこで「庵を造り、仏道修行をした」というのです。

から中山道を通り信州から姫街道を通ってきたとすると、「休み石」で休んだのは、病み上がりの小町ということになります。

富岡まで、足を延ばそうかな。

それじゃあ、次回。


【小町の休み石】