2020年08月02日

史跡看板散歩-199 物見塚古墳

「若田浄水場」入り口の道向こうに、てっぺんに大きな石の乗った見るからに古墳と分かる塚があります。


「物見塚(休み塚)古墳」という史跡看板が建っています。


「塚に登ると展望が良い」と書いてあるので、登ってみました。


石室の石がむき出しになっていますから、もとの塚はもっと高さがあったのでしょうが・・・。


天井石からの眺望は、まぁ、こんなもんです。

昔は高い建物などなかったでしょうから、きっと関東平野も一望できたんでしょうけど。

看板によると、「物見塚古墳は若田古墳群の中の一つ」とありますが、「高崎市内古墳分布図」を見ると、若田、剣崎、八幡の古墳群のちょうど真ん中に、ポツンと独立しているように見えます。


ま、せっかくなので「若田古墳群」を見に行ってみましょう。
「八幡霊園」内の中央公園に、説明板があります。


中央公園のメインに位置する二つの古墳。

左が「楢の木塚古墳」、右が「若田大塚古墳」です。

「若田大塚」は別名「稲荷塚」とも言うらしいので、墳頂にお稲荷さんでも祀られていたんでしょうか。
旧陸軍の砲台・陣地にも使われていたということです。

近くに「峯林古墳」があります。


園内には、古代住居跡というのがいくつかあります。





「縄文時代の住居跡2」以外はみんな埋められちゃってて・・・。
保存のためと言えばそうなんでしょうが、模造石でも並べて発掘時の姿を見せてもらえないものでしょうか。


【物見塚古墳】

【若田原古墳群】


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Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2020年07月26日

史跡看板散歩-198 若田ヶ原古戦場と若田八幡宮

「八幡霊園」の南、「若田町住民センター」の駐車場に、「若田ヶ原古戦場」の史跡看板が建っています。



「若田原台地」「若田支台」とも呼ばれ、「剣崎支台」「八幡支台」とともに烏川碓氷川に挟まれた台地です。


「若田ヶ原合戦」の際、武田信玄が本陣を置いたというのが、前回の「福泉寺」でした。
寺の周辺を土地の人々は「乱闘場」と呼んでいるということでしたが、ここ「若田ヶ原」もまさに「乱闘場」だったのでしょう。
現在その一角に「八幡霊園」が造成されているというのも、何か因縁を感じさせます。

ブランコの向こうに、もうひとつ史跡看板が見えます。




看板の最後に、「弁慶が書いたと言われる額が、八幡宮参道の大鳥居に掲げられていると言います。」と、妙な言い回しで書かれていますが、実はその額は掲げられていません。


8年前は、たしかに掲げられていたんです。→◇伝者繁栄


どうしちゃったんでしょう。
「八幡八幡宮」にお聞きしたら、平成二十八年(2016)の鳥居改修の時に外し、八幡宮で保管しているとのことです。

レプリカでも掲げておけばいいのになぁ。


【若田ヶ原古戦場跡史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:30
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2020年07月19日

史跡看板散歩-197 鼻高小学校跡

「鼻高天満宮」から「鼻高展望花の丘」方面へ440mほど坂を上り、細い道を左へ入って100mほど行くと、「福泉寺」があります。


「鼻高展望花の丘」へは何度も行きましたが、ここにお寺があるということには全く気付きませんでした。
ここが、かつての「鼻高小学校」であったとは、なおさらです。


入口を入った石段の脇に、「鼻高小学校跡」の朽ちかけた木札が転がっています。
史跡看板が建つまでは、この木札が入口に建っていたのでしょう。


境内に入ってまず驚くのは、これです。


草を刈っていたご住職がこちらへいらっしゃったので、「これは何ですか?」とお聞きすると、「むえんさまです。」とのこと。
「地蔵講というのがあって、路傍に捨てられているお地蔵さまや墓石をここに持ってきたんです。」と。
あぁ、「無縁さま」なんですね。

ここにお寺があることに気付かなかったのは、大きな寺院建物が無かったこともあります。

この平屋建ての建物が本堂でした。

写真を撮っていると、奥様が庫裡から出てきて、「これ、どうぞ。」と冷えたサイダーを下さいました。

冷たくて、美味しかったです。
ごちそうさまでした。

「鼻高小学校」が廃止になった後、「福泉寺」はしばらく無住で、安中の「蓮華寺」が兼務していたそうです。
大正年間に放火に遭って本堂を焼失し、昭和二十七年(1952)に一度解散します。
そんな「福泉寺」を再興したのは、千葉県香取郡多古町の「実相寺」から迎えた橋本幸順師(現住職のご父君)でした。
昭和五十七年(1982)に住職となった幸順師は、本堂を再建しますが、「寄付は一切貰うな。」と言って、すべて自費で建立したということです。(奥様談)

「高崎の散歩道第十一集」に、幸順住職と「無縁さま」のことが書かれています。
そういえば各寺の墓地の整理はまたすさまじい。
無縁の石塔は墓地のすみにコンクリートで固められ、またある寺ではゴミ捨て場にという所もあるという。
福泉寺の住職は、こうした無縁の墓を粗末にするのは、人間を生き埋めにするに等しい。
ただの石ではない。その時の念がこもっているのだ。
こうして無縁の石塔を集めれば、自然と有縁の霊が集まると住職はさわやかに話してくれた。」
それで、このように一基一基大切に建てられて供養されていたのですね。
感動です。

この地域では、今も二十二夜講が続いているそうです。

二十二夜様へのお賽銭は、すべて町内の方に渡すそうです。

幸順住職が建立した「上杉武田両軍戦没者各霊菩提」という供養塔があります。


供養塔の説明板にもありますが、「福泉寺」周辺は「鼻高の砦」だったようです。


内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」には、こんな話が載っています。
中鼻高の福泉寺の東は内出と呼ばれています。
内出とは中心城から派出された出城のことです。
ここは永禄九年(1566)九月、武田信玄が箕輪城攻撃の最後の野戦、若田ヶ原の合戦のとき、甲州軍の本陣を置いた所といいます。
また福泉寺の前の平は乱闘場といって、上杉武田両軍の合戦のあった所だといわれています。
昭和の初め、ここを開墾していて四、五体の戦国時代の人骨が掘り出されました。
その後も牛蒡を作っていて人骨が出たり、梨畑を掘って討ち死にしたらしい人骨が出たりしました。
骨を掘りだした人は良くない事が続くなどといわれ、最近はさまよい歩く戦国の亡霊を見た、などとささやかれるようになりました。(略)
再建なった福泉寺の周囲を戦国の亡霊がさまよう噂が広まって、テレビにも放映されました。
橋本師は、乱闘場に四百年も冥ることの出来ない戦国の武士の霊を鎮めるため、五輪の供養塔を建てました。昭和五十六年五月のことです。
以来亡魂の噂は聞かれなくなったといいます。」

境内には、サクランボやミカンのなる木がありますが、鳥がみんな食べに来て、残りを人間が頂くとのことです。
奥様は、「こういう静かな所に住んでいると、腹が立つことがないんですよ。」と仰います。
「カラスも可愛いんですよね。」とも。

お庭には四季折々いろいろな花が咲きますが、今はちょうど端境期だとか。
お花が咲くころに、またお邪魔したいと思った「福泉寺」でした。




【福泉寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
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2020年07月12日

史跡看板散歩-196 鼻高天満宮

少林山通りを安中方面へ行くと、「鼻高展望花の丘」へ別れる信号があります。
その角にあるのが、「鼻高天満宮」です。


さすが天神様を祀る「天満宮」
石段の途中に梅の種が・・・。


あれ、史跡看板、ここ?!

みなさん、分かりました?左側の植え込みの陰です。

これじゃ、読めないじゃありませんか。


枝を手で掻き寄せ、苦労して写真に収めました。


「天満宮」「菅原道真」については、社殿の横っ腹に詳しい説明板が掛っています。
難しい漢字には仮名が振ってあって、親切です。


社殿の後ろへ回ると、「飛梅」ならぬ「落梅」がいっぱい。
熟した実の、いい香りが漂っています。


境内には「鼻高の石造物」という看板、そして立派な「地蔵和讃碑」が建っています。



碑の隣には、沢山のお地蔵様が捉えられて檻の中に入れられています。


銘版の文字が小さくてちょっと読みにくいので、書き出してみました。
「21世紀 愛と心 結ぶお地蔵さま」
お地蔵さまは地上に現出してあらゆる人々を救護してくださる菩薩様です。
特に子供の守り本尊であります。一心に拝む心がご利益を授けてくださいます。
子供達に「健康と、やさしい心、すなおな心」・・・お地蔵さまはいつもにこにこ見てござる。
お地蔵さまは江戸中期頃碓氷川近くの上川原に建立され、あたりはお米がいっぱい取れ、畔道には花が咲き・・・子供達の遊ぶ声がするのどかな場所でした。
天満宮の近くでは、仲よく、醤油を作り、笑う声が聞こえ・・・その風景をにこにこと・・・お地蔵さまが見守っていてくれました。
しかし、時が流れ子供のころ手を合わせたその場所に行って見たら、お堂も無く、お地蔵さまは土にうもれ首も取れて、そのお姿は大変あわれでした。
そこで私達は修復し鉄のお堂を作り、昭和45年12月末日に長伝寺住職の師にあたる、能登本山総持寺祖院監院黒杉道院老師のもと、上鼻高町内の有志で盛大なる法要を営みました。
その後年月が過ぎ鉄のお堂が古くなったので、ハイレベルな技術でお堂を再建いたしました。歴史あるお地蔵さまに心より手を合わせ、町の発展と子供達の守り本尊として、後世に伝えていきたいと願うものであります。
平成15年7月24日  施主 深堀誠
あぁ、檻じゃなくてお堂だったんですね。
失礼いたしました。

その地蔵堂の右に、石造物がずらっと並んで建っています。

ひときわ大きな庚申塔は、少林山達磨寺九代住職・東嶽和尚の筆だそうです。

小さいながらも、しっかりと鼻高の地を見守ってくれている「鼻高天満宮」でした。




【鼻高天満宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:15
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2020年07月05日

史跡看板散歩-195 大聖護国寺

「八幡八幡宮」の隣にある「大聖護国寺」



昭和五十三年(1978)に再建されたという本堂は、平成二十八年(2016)の開山八百年を機に改修されて、きれいになりました。
平成二十四年(2012)に撮影した写真に、改修前の本堂が写っていました。


平成二十九年(2017)には客殿、令和元年(2019)には阿弥陀堂書院も建立されました。


史跡看板に、「大聖護国寺」と徳川五代将軍・綱吉の母・桂昌院との関係が書いてありますが、この桂昌院という女性、なかなか興味深い人物です。
寛永四年(1627)の生まれで名前は光子、父親は京都の八百屋だという説があります。
その父が亡くなった後、母は賄い奉公先の本庄宗正と再婚します。
本庄宗正が二条家の家臣だったことからか、光子は六条家のお万の方の輿入れに同行し、江戸城奥勤めになります。
後に春日局の目に止まって、秋野という名前で将軍付き中臈に取り立てられます。
そこで将軍・家光のお手がついて、側室・お玉の方となります。
「玉の輿」という言葉は、ここからきているんだそうで。

そして将軍のお種を宿し、無事男子を授かりたいと、以前から帰依していた「大聖護国寺」二十四世住職・亮賢僧正の祈祷を受けます。
亮賢僧正「将来、天下を取る男子が生まれる。」という予言通り、正保三年(1646)男子・徳松(後の綱吉)を産み、ついには将軍の母・桂昌院にまで上り詰めるという訳です。

この亮賢僧正は、「大聖護国寺」へ来る前は小野小町伝説のある富岡「得成寺」(とくしょうじ)の住職だったということで、同じような話「得成寺」にも伝わっています。

「大聖護国寺」の参道左側、「阿弥陀堂」の横に、徳川綱吉、桂昌院、亮賢僧正の供養塔が並んで建っています。



本堂には、亮賢僧正像の後ろに、桂昌院が寄贈した本尊・不動明王像三十六童子像が祀られています。


三十六童子像は今も修復作業中で、昨年の12月1日~6日の間、その工程が客殿に展示されていました。


その時は、仏師の方々の作業風景も見学することができ、大変感動いたしました。


その外、いろいろお伝えしたいことはあるのですが、あまりにも長くなりそうなのでこの辺に留めておきましょう。
「大聖護国寺」さんのHPが大変すばらしい出来栄えで、沢山の写真・資料も惜しみなく公開されていますので、どうぞそちらをご覧ください。

ところで、昔から参道にあるこの木、面白いんですよね。


伽羅の幹の虚に、楓がちゃっかり根を張って生きてるんです。

これも一つの「玉の輿」・・・?

そして、もうひとつ面白いものを見つけました。
「大聖護国寺」の門前から隣の「八幡八幡宮」境内に続く小道の途中、高台に建ってる大きな石碑。
どこかで見たような・・・。




前回の記事で、「剣崎小路城」跡だという「御嶽山神社」に建っていた石碑とそっくりじゃないですか。

そう言えば「新編高崎市史資料編3」に、「剣崎小路城」「大聖護国寺の東南にあり、この寺のある丘を背負う形になっている。」と書いてありました。
そっくりな二つの「御嶽山座主大権現碑」は、そのことと関係あるのでしょうか。

「剣崎小路城跡」の推定地から、「大聖護国寺」方向を遠望してみました。


道祖神と庚申塔が、疫病の侵入を見張っているようでした。


【大聖護国寺】

【剣崎小路城跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2020年06月28日

史跡看板散歩-194 鳴熊神社

土地勘のない私には説明しにくいのですが、剣崎町小島鉄工所の西300mの所です。

どう見ても、大きな家のアプローチの植え込みなんですが。


そこに、いろいろな石造物が並べられています。


如意輪観音の後方に、「鳴熊神社」という札の掛かったお社があります。


そこに建っている史跡看板を読んでみましょう。

ここには「剣崎小路城」の支城と伝わる単郭の屋敷があったということです。

その屋敷「鳴熊城」の図と、Google Earthの写真を並べてみました。

たしかに、城跡という感じではないですね。

「鳴熊城」について、「新編高崎市史資料編3」にはこう書かれています。
ここは福田氏の城とされているが、福田忠政が永正四年(1507)関東管領上杉顕定の招きに応じて、武蔵国児玉郡福田村から下板鼻鳴熊の地に移り、その子加賀守信義が倉賀野十六騎の筆頭になったと伝えられている。
信義は倉賀野落城後、ここに戻り武田方となり「板鼻陣箕輪先駆相勤め」(上野志)、その功として永禄九年(1566)頃藤塚を与えられて移った。
それまでここを拠点としていたのであろう。」

近くに、本城である「剣崎小路城」の跡があるというので、そちらへも行ってみました。
城跡だという「御嶽山神社」「鳴熊神社」の北東400mほど、群馬八幡-剣崎線添いにあります。


石段を上ると、大きな「御嶽山座王大権現」碑が建っています。




碑の前に説明看板が建っていました。


しかし、「新編高崎市史資料編3」の付図を見ると、「御嶽山神社」「剣崎小路城」とは、まったく違った場所になっています。


そして「剣崎小路城」については、こう書いてあります。
現在完全に消滅し、その場所の推定さえ困難である。
大聖護国寺の東南にあり、この寺のある丘を背負う形になっている。
わざわざ丘の上をやめて平地に構えている点、八幡館とは逆に作戦的配慮の薄い築城と考えられる。(略)
丘を背にした中世館から近世陣屋へ移っていったのであろうか。」

ということで、幻の剣崎古城址巡りでありました。


【鳴熊神社】

【御嶽山神社】

【剣崎小路城跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:59
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2020年06月21日

史跡看板散歩-193 剣崎の宝積寺

県道406号線の剣崎バス停から南へ140mほど入った所に、「宝積寺」(ほうしゃくじ)があります。

西側の門扉は針金でガッチリ閉められています。

南側の表門へ回ってみると、

やはりチェーンと門扉で封鎖され、今流行りのロックダウン状態です。

立ち番をしているお地蔵さまと観音さまに聞いてみると、「史跡看板を読みなさい。」ということでした。

あー、板鼻「称名寺」のご住職が兼務していて、普段は無住のお寺なんですね。
「称名寺」については、グンブロ仲間の風子さんが記事にしてますので、そちらをご覧ください。
  ◇板鼻・七不思議伝説〈3〉♪

これ、山門ではなく鳥居と言うらしいんですが、銅板葺きの立派なものです。


右の柱には、「天台宗寶積寺」、左の柱には何やらいろいろと書かれています。


これがなかなか気になります。
上の方の「吾唯足知」は分かりますが、その上にくっついてるマークは何なんでしょう。
「卍」なのかなぁ。

その下に、文字がたくさん書いてあります。
「世間虚仮」「唯佛是真」聖徳太子の言葉で、「せけんこけ・ゆいぶつぜしん」と読むんだそうです。
意味は、「世間は虚しき仮のもの。唯一仏のみが真実である。」ということです。
いかにも、すべてお見通しの聖徳太子らしい言葉ですが、その実は、「仏教で善い世の中をつくろうと力を尽くしてきたのに、世間は相変わらず対立や戦を繰り返している。」と嘆いた言葉らしいです。

「忘己利他」(もうこ・りた)は、「己(おのれ)を忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。」という、天台宗開祖・伝教大師(最澄)の言葉だそうです。
「止悪行善」(しあく・ぎょうぜん)は、読んで字の如く「悪いことは止め、善い行いをする。」
「不思不足」は、「思わざれば足らず」ということなのでしょうか、その後に「創意工夫精進努力」と続きます。

ここまで読んでくると自分にはとても無理なことばかりで、相田みつをの言葉を借りれば、「それがなかなかできねぇんだよなぁ。」ってとこですが、その後に書かれている言葉に、少しホッとします。
「明日は明日の風が吹く
 その風を看(み)て
 其の場に最善の努力する」


最後に、「倫理実践」と結んであります。

「宝積寺」、境内には入れませんでしたが、門前の小僧よろしく勉強させて頂きました。


【宝積寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2020年06月14日

史跡看板散歩-192 藤塚の皇大神宮

「藤塚の浅間神社」から板鼻方面へ約450m、道路から一段低い所に「天照皇大神宮」(てんしょう・こうたいじんぐう)の社があります。


史跡看板は、社のすぐ前に建っています。



社に向かって右に建っているのが「洪水記念之碑」

史跡看板では「洪水祈念・・・」になっていますが、洪水を祈念しちゃいけません。
これはちょっとまずい誤字ですね。

この洪水を小学二年生で体験した吉田良太郎氏の回顧談が、「高崎の散歩道第十集」に載っています。
この年は八月上旬毎日雨模様の天気で、地面が本当に湿っていた。
そのうえ十二日からは豪雨となり、まる一日降り続いた。
そのため十三日の夜明け近く上流に降った雨水を集めた碓氷川は、急激に増水し河原いっぱいに広がったと思う間もなく、堤防を乗り越えた濁流は中山道に押しよせ、道が碓氷川本流のようになって藤塚村を襲ったのであった。
私の家は当時中山道の南側にあったが、この濁流は家々を見るまに呑み込んでしまい、隣のおしんこ屋(米の粉でおしんこを作り、赤黄の色付けをしたお菓子)は見ている間に家人もろとも流されてしまった。
たまたま二階家で当時としては比較的大きい家だった私の家へ近所の人々が助けを求めてやって来た。
増水するにしたがいみんな二階へ避難した。
しかし勢いづいた濁流はみるみる中に床下から畳を持ち上げ、一階の天井近くまで水につかってしまった。
やがて朝明けと共に雨も小やみになり水勢はいくらかやわらいだようだ。
階段口(二階)より村の他五朗さんが深さを測ろうとして竹竿を下へおろした所、途中でつかえて下に行かない。
他五郎さんが『大丈夫だぞ、泥が下にたまってこの家は助かるぞ』とこれを聞き、みんな狂喜するのだった。
時間が過ぎると水もひけたので、二階から下りながら一階天井近くまで埋まった泥の中を、天井に頭をぶつけながらはいまわった。」

そしてその10年後、藤塚村はまたもや洪水に襲われます。
今度は大雨ではなくて、地滑りが原因でした。
そのことを記しているのが、「射水神」碑です。

どんなことが碑に刻まれているのかは、過去記事をご参照ください。
  ◇藤塚の洪水碑

ところで、「射水神」ってどんな神様なんでしょう。
富山県に射水市という町があり、その隣町の高岡市に「射水神社」というのがあるそうです。
現在「射水神社」の祭神は「ニニギノミコト」ですが、古くは高岡市と氷見市にまたがる「二上山」(ふたがみやま)をご神体とする「二上神」(フタガミノカミ)だったそうです。
その「二上神」を祖神とするのが、「伊弥頭国造」(いみづのくにのみやつこ)という豪族だったと言います。

ということで、どうやら「射水神」という神様はいないようなのです。
ただ、「射水(いみず)」「出ずる水」=「洪水」とも取れますし、字面からは「水を射る」=「水をやっつける」とも取れところから、「水を司る神」として村を洪水から護ってほしいという思いで「射水神」としたのかも知れません。

さて、大正九年(1920)の洪水は、地滑りの土砂が碓氷川を堰き止めたのが原因だった訳ですが、昭和の半ばになって妙な地滑りがこの辺りに起きました。
過去記事でご覧ください。
  ◇隆起した国道18号

「天災は忘れた頃にやってくる」
近頃は、「疫病は忘れたコロナやってくる」と言われているとかいないとか。


【天照皇大神宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2020年06月07日

史跡看板散歩-191 藤塚の浅間神社

国道18号線を挟んで、藤塚「一里塚」「浅間神社」が向きあっています。


今回は、「浅間神社」の方です。



ここからは浅間山が良く見えるので、「あさま神社」かと思いきや、富士山「せんげん神社」です。


Wikipediaには、こんな記述があります。
  「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。
「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られている。

「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」(コノハナサクヤヒメ)ということで、社殿の中に姫の絵が掛かっています。


なぜ「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」なのかというのも、Wikipediaに書いてあります。
富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。
「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとされる。
また、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も、火にまつわる事象として意識されたと見られる。」

「浅間神社」のある塚は、もともとが「一里塚」の片方だった訳ですから、塚の上には椋の木が立っていたはずです。
「豊岡誌」によると、藤塚の住人が「富士浅間神社」の神霊を勧請したのは、元禄期だったとあります。
場所も何度か北へ北へと移動して、今の位置になったのは、国道が拡幅された昭和六十三年(1988)のことです。
拡幅前の一里塚と浅間神社の姿が「豊岡誌」に載っていました。


向かい側にある「一里塚」については、過去記事をご覧ください。
   ◇藤塚の一里塚

では、本日はこの辺で。


【藤塚の浅間神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
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2020年05月31日

史跡看板散歩-190 下豊岡の団地稲荷大明神

ここも史跡看板が無かったら、分かりづらい所です。



看板にあるように、昭和三十四年(1959)に造成された豊岡団地に因んで、「団地稲荷大明神」となっています。

この鳥居は平成三十年(2018)に奉納されています。

お社の中には、なるほど「団地稲荷」らしく、お稲荷さんが密集していました。


昔は、「ハケノ山稲荷」とか「原の稲荷」とか呼ばれていたと書いてあります。
境内に、「果之山正一位稲荷大明神」の石碑が建っています。

いつ建てたものなのかなぁ、と思って碑背を見たら、昭和三十八年(1963)でした。

「果」「ハケ」は、崖の端を意味するということで、上空から見てみると確かにそんな感じです。


だったら、そのまま「ハケノ山稲荷」の方がよかったんじゃないでしょうか。

ちょっと物足らなかったので、この近くの「姫宮神社」もご紹介しておきます。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(11)


【団地稲荷大明神】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
Comments(0)◆高崎探訪

2020年05月24日

史跡看板散歩-189 中豊岡の毘沙門堂

ここは史跡看板が建ってなかったら、まず分かりません。


うっかり入り込むと、住居侵入罪で捕まりそうな・・・。


その奥に空き地があって、傾きかかったお堂が建っています。



その中に「毘沙門天」(びしゃもんてん)が祀られています。


史跡看板にはいろいろ書かれていますが、この毘沙門天がなぜここに祀られているのかまでは書かれていません。

「施主飯野善左衛門」とあるので、上豊岡茶屋本陣の飯野家が建立したものです。
「寛政九年」ということは、二代目の善左衛門でしょう。

飯野家は、三代にわたって掛屋・御用達役を務めた名家です。
「新編高崎市史通史編3」に、次のような記載があります。
飯野家の由緒書によると、寛保元年(1741)善次郎が御城方御材木御用・御払米御用役となり、宝暦四年(1754)から十人扶持・御用之節帯刀御免となり、御領分御米御用役に任命されている。(略)
飯野善次郎は、その後、平日帯刀御免、並代官格、中小姓加扶持十人扶持、御勝手御用役などを経て、宝暦十三年(1763)には江戸表で郡奉行席となり新知二百石、以後、元締御用役勤めの武家として城内に居屋敷が与えられた。
これにより、善次郎の弟善左衛門が上豊岡村の飯野家を受け継ぐと同時に、藩から御用達・御払米世話役を命ぜられ、安永六年(1777)に名字御免、同八年に三人扶持・帯刀御免、天明三年(1783)十一月から地役人上席に任ぜられたのである。
寛政四年(1792)二月、善左衛門の跡を継いだ二代善左衛門も御用達として三人扶持であったが、同十年九月に御掛屋・御用達を命じられ、以後、飯野家は嘉永三年(1850)九月まで三代にわたり掛屋・御用達役を務めた。」

いつの世も、権力と財力は、持ちつ持たれつなんですなぁ。
藩にとって飯野家は「余人をもって代えがたい」存在だったのでしょう。


【毘沙門堂史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2020年05月17日

史跡看板散歩-188 上台の地蔵堂

「血書理趣分塔」のある「下台公民館」から北へ、道なりに450mほど行くと、「上台公民館」があります。


史跡看板が、桜の木の下に建っています。


今は公民館となっていますが、ここに「常安寺」七世住職が建てたという「地蔵堂」があった訳ですね。
現在は、公民館の建屋の中に地蔵尊が祀られているようです。


「豊岡・八幡の民俗」には、上台の地蔵祭について、こんな記載があります。
子供達は一人で一個、大きい子は二個のあんどんを作る。
公民館の庭の桜の木にひもを張って、あんどんを吊り下げる。
三時頃、六時頃、八時頃の三回、庭で花火を上げる。(子供用花火を大人があげてやる)。
午後五時から常安寺の和尚さんにお経をあげてもらい、その後大人の代表が線香をあげる。
次に子供の世話役があげ、お経の間、二列に並んで待っていた子供達が一人一人線香をあげる。
子供達に、赤飯、西瓜、ジュースを与え食べさせる。
お母さん方が七~八人と男の世話役で面倒を見る。
子供達は小学生だけである。」

この日は、子どもたちがお客様なんですね。

そういえば、お地蔵さまの前で遊ぶ子どもの姿というのは、ほのぼのとした農村の原風景です。
「地蔵菩薩」のことを、サンスクリット語で「クシティガルバ」と言うそうで、「クシティ」「大地」「ガルバ」「胎内」とか「子宮」のことだそうです。

なるほど、「大地」という「子宮」「蔵」するから「地蔵」か。
だから、子どもの守り仏なんですね。

お地蔵さま、子どもたちをよろしくお願いいたします。(合掌)


【上台の地蔵堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2020年05月10日

史跡看板散歩-187 下台薬師堂の血書理趣分塔

「中豊岡の道しるべ」が建っていたであろう辻から北へ200mほど行くと、「お堂踏切」という面白い名前の踏切があります。

それを見たせいか、踏切を渡った左角の建物が何となくお堂っぽく見えてしまいます。

しかしその感覚は間違いではなかったようで。
建物には「下台公民館」という看板が掛かっていますが、そこにある石碑には「薬師堂」云々と刻まれています。
もとは「薬師堂」だったのでしょう。

よく見ると、前庭に香炉と花立てが備わっていました。

公民館の裏と左側は墓地になっていて、道路に面して史跡看板が建っています。


ちょっとケアレスミスの多い看板です。
パソコンの誤変換と、漢字を出す時の読みがそのまま振り仮名になってるのに、気付かなかったのでしょう。

看板の後ろにいくつかの石造物が建っていますが、その内の一つが「血書理趣分塔」です。


調べてみると「理趣経」というのは3000字以上あります。
「血書」とは言うものの、その全文を血で書いたら、行人塚に入る前に失血死しちゃいそうです。
墨に血を混ぜて書いたものも「血書」と言うらしいですから、きっとそれなんでしょう。

看板の文面からすると、その「血書」は残ってないようで、きっと、僧が入定する時、携えていったのでしょう。
そして、その代わりに建てたのが「血書理趣分塔」なのかも知れません。

看板に載っているこの写真、何の説明もないんですが。

薬師堂のご本尊である「薬師像」らしいです。

高崎市教育委員会発行の「豊岡・八幡の民俗」に、こんな記載があります。
下台の薬師
目の神様である。
十月十三日が縁日で、「おさご」「おさいせん」を進ぜる。
お堂の扉に「め、め」と半紙に書いて貼る。
以前は木彫りの薬師像があったが盗まれてしまった。
現在は石仏である。」

きっと薬師様は「めっ!」と叱ったのでしょうが、盗人猛々しいとはよく言ったものです。


【血書理趣分塔】


  


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2020年05月03日

史跡看板散歩-186 中豊岡の道しるべ

あれ?
無くなってる!


8年前、ここに転がってたんだけどなぁ。

これ、「高崎最古の道しるべ」というものなんです。
史跡看板が建ったというんで来てみたんですが。
あれぇ?

あーっ、あったあった、ありました!
ずーっと奥の塀の陰の畑の畔に。

気付くかなぁ、これ。



看板の冒頭、「この場所は」って書いてありますが、文末には「現在は道路改修に伴い、ここに移されています。」と書いてあります。
じゃ、「ここ」「この場所」じゃないってことですよね。

看板の文面から、元あった場所を推定してみました。


なぜ、元あった場所に建てられなかったのかなぁ。
スペースは充分あるように思いますがねぇ。


ま、でも、無造作に転がっていたのをきちんと起こして、史跡看板まで建てて頂き、8年前の望みは叶いました。
ありがとうございます。

「向 右野道 前中仙道 後下台 左中仙道 通」
転がってた時には隠れてた面の文字も、見えるようになりました。
「右 室田 者(は)るな 神山 ??? 道」
ただ、最後が読めません。
「三之くら」「西よくら」

うーん・・・。


【中豊岡の道しるべ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2020年04月26日

史跡看板散歩-185 笛吹塚

場所の説明がちょっと難しいんですが、「豊岡中学校」の西150mくらいの所です。


牛若丸伝説としてしか知りませんでしたが、源頼義説もあったんですね。

看板の冒頭に「花見堂」という名称が出てきますが、この名称は源頼義の子・義家伝説から来ているのだとか。
   ◇続・鎌倉街道探訪記(17)

また、「塚のあった場所はここから西に約50mの所でした」とありますが、その場所はこの記事に書いてあります。
   ◇続・鎌倉街道探訪記(16)

史跡看板が建ったことで、懐かしい場所を再訪することができました。


【笛吹塚】


  


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2020年04月19日

史跡看板散歩-184 金ヶ崎不動尊

「湯沢のお地蔵様」から西へ200mほど行った所に、「金ヶ崎(かねがさき)不動尊」があります。



飾り気のない木造堂宇には、


不釣り合いなくらい立派なお不動様が祀られています。

いま気づいたんですが、お不動様の足元に小さなお不動様が二体座ってらしたんですね。

史跡看板に、「明治四十三年の大水害で流されて、現在地に建てられた」と書いてありますが、その辺の経緯を8年前に記事にしてますので、読んでみてください。
  ◇2つの金ヶ崎不動尊

そう言えば、史跡看板に「清流が中山道沿いに流れていた」と書いてあるので思い出したんですが、たぶんその清流を利用したんでしょう、この辺に「草木染研究所」というのがありました。
全国的にも珍しい、観音山の「染料植物園」の原点でした。

土地に歴史ありですなぁ。


【金ヶ崎不動尊】


  


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2020年04月12日

史跡看板散歩-183 湯沢のお地蔵様

「石神社」から西へ200mほど行くと、国道406号と旧中山道の分去れに「下豊岡の道しるべ」が建っています。


ここから左の旧中山道へ入って、「若宮八幡宮」「上豊岡の茶屋本陣」を楽しみながら1.2kmくらい歩くと、道路右側に石造物が並んでいます。

一番左のが「湯沢のお地蔵様」です。


おや?

トックリバチも、お地蔵様の裾におすがりしています。

そうだ、私もおすがりしておこう。
「人類の欲望とともに世界中に蔓延した疫病が、一日も早く鎮まりますように。」


【湯沢のお地蔵様】


  


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2020年04月05日

史跡看板散歩-182 下豊岡の石神社

君が代橋西の信号から国道406号線に入って160m、うっかりすると見過ごしてしまいそうなのが、旧豊岡村字尺地(しゃくじ)の「石神社」(しゃくじ・じんじゃ)です。



「石神社」ですから、どんな石が祀られているのかと中を覗いてみると・・・。



石は見当たらなくて、神像が一体祀られています。
御祭神は「八衢比古神」「八衢比賣神」となっています。
木簡には「やくさひこ」「やくさひめ」と仮名が振ってありますが、「やちまたひこ」「やちまたひめ」ではないでしょうか。
疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされる神様です。

神像左側の木簡を見ると、
1910年(明治四十三年)三月二十六日勅令第二二〇号に基き豊岡若宮八幡宮に合併」
1960年(昭和三十五年)七月三十日地元信徒の要望により尺地境内に遷宮」
1973年(昭和四十八年)九月二十九日地元崇敬者の寄付により上屋葺替補修完了」
とあります。

史跡看板の中ほどに、「万日堂」というのが出てきますが、8年前、「鎌倉街道」を訪ね歩いている時、ここへ寄っています。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(8)

そしてそのあと、「石神社」へも行きました。
看板の後段に「昔は社殿にシャモジを寄進」したとありますが、その理由も過去記事に書いてありますので、探して見て下さい。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(9)


【石神社】


  


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2020年03月29日

史跡看板散歩-181 西うらの池と鴫上の道祖神

ここ何回かおなじみの「白川辻集会所」から、西へ道なりに430mほど行くと、「ほたるの里自然公園」という看板が目に入ります。


ベンチがあって、手押しポンプの口からきれいな水が出っ放しになっています。


ほほー、「鴫の里 手水処」だそうです。

パット見「カモの里」と間違えましたが、「シギ」だそうです。

近くに、もう一つ手作り案内板が建っていました。



この先100mの所に、「西うらの池と鴫上道祖神」があると書いてあるので、行ってみました。

道路工事をしていて分かりにくかったのですが、かろうじて史跡看板と石造物がいくつか並んでいるのに気付きました。

正面の「小堀川」の谷間を跨ぐ高架橋は、いま工事真最中の「西毛広域幹線道路」だそうです。


工事前の、のどかな風景が、ストリートビューに残っていました。

石造物は、もっと曲がり角に近い所にあったんですね。

工事の時に移動したのでしょう、史跡看板と一緒にお行儀よく並べられています。



真ん中の「道祖神」は、だいぶ風化が進んでいます。


左端の「道しるべ」に刻まれている文字は、看板とだいぶ違ってますね。
「大字 向 右經下芝至前橋 左經本郷至室田」です。


相向いに、柵に括り付けた手作り案内板がありました。



フェンスの内側の小さな水たまりが、「西うらの池」でした。

「湯前の弁天池」のようにポコポコと湧き出してはいませんが、きっと、じわーっと滲み出ているのでしょう。

「西うらの池」の水は、道路の下を抜けて「小堀川」に注いでいました。


「小堀川」の清浄な水に、クレソンも嬉しそうです。


地球上の水の約97.5%は海水で、淡水は2.5%にすぎない。しかも淡水のほとんどは南極や北極の氷で、利用しやすい河川や湖沼などの水は0.01%にすぎない。
(日本ダム協会 「21世紀は水の世紀」

地球上の水を200リットルのお風呂一杯分とすると、人間が利用できる淡水は、大さじ2杯分程度しかないんだそうですよ。
だいじにしなくちゃね。


【鴫の里 手水処】

【西うらの池】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:33
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2020年03月22日

史跡看板散歩-180 塚の越の宝塔

「白川辻集会所」のフェンスに建っている、もう一つの案内板。


集会所の西側道路の角に、またも道しるべがあります。

「向 右經本郷至室田 左經楽間至前橋」となっています。

そこから南へ140mほど行った所を右に曲がると、赤い屋根のお堂がある斎藤家の墓地です。


史跡看板は、その入り口に建っています。


お堂の左手前にあるずんぐりむっくりしたのが、「塚の越の宝塔」です。


看板に「甫秋津師が建立した」と書かれていますが、たぶん「律師(りっし)」だろうなと思って、念のため基礎(地輪)に刻まれた文字を確認してみると、やはり「律師」のようです。
戒律の師の意で,徳望の高い持律の僧に対する尊称。


その時、おや?っと思ったんですが、律師の名前、ほんとに「甫秋」ですか?
そう見えないんですが・・・。

はっきりしませんが、「靜哉」のように見えます。
どうなんでしょう・・・。

こんな、謎の「如意輪観音」もありました。

普通は右手を右頬に当ててるように思うのですが、これは左手を左頬に当てています。
何か意味があるのでしょうか。

看板には、「『榛南文化』では箕郷七古塔の・・・」とあって、これも気になったのですが、「榛南文化」に辿り着けず、「箕郷七古塔」も分からずじまいです。

辻々に道しるべの建つ「白川辻」ですが、謎を解く道しるべも欲しくなった迷道院でした。


【塚の越の宝塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:30
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