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2019年11月17日

史跡看板散歩-163 引間の妙見様

前回の「冷水の小祝様」を由縁として建立されたという、引間「妙見様」を訪ねました。
「花園橋」という素敵な響きの橋を渡った所にあります。

かつての「花園邨(村)」にある、「七星山花園妙見寺」(現在は「三鈷山吉祥院妙見寺」)です。

境内に入ると右手に小山があり、頂上にきれいな色と形の祠が建っています。


後でご住職にお聞きしたら、これは「弁才天」の祠で、もとは池に囲まれた中島だったのだそうです。
なるほど、そういえばそんな雰囲気は残ってます。
なんでも、上越新幹線の工事で水脈が枯れてしまって、池はなくなってしまったんだとか。

石段脇に、説明板が建っています。


萩の「花園」だったんですね。

石段左側には、「金刀比羅大権現」


石段を上がると、参道の両側にえらくスマートな石灯籠が建ってて、上を見ると奉納された灯籠がズラーっと参道に吊り下げられています。


少し進むと、参道左側にえらく立派な石祠がありました。

石祠の中に祀られているのは「勢至菩薩」で、地元の人はなぜか「おまんまさま」と呼んでいるそうです。

この「おまんまさま」について、松田直弘氏著「妙見寺誌」に面白い話が載っています。
拝殿に向かって左手前のオマンマさま(室町時代初期と推定の石殿内に納まる勢至菩薩坐像)は、かつては石段下の大欅の根元(現在の琴平宮の南)にあった。
遠い昔のこと、染谷川左岸の霊水(冷水)の小祝の池に金色に光輝く亀が天降り、やがて染谷川を二十町(約二キロ)ばかり流れくだって這い上がった所が大欅の根元だった。
地元の人達は、大欅の根元に石のお宮を造り、この光輝く亀を納めて祀った。
それが、このオマンマさまと呼ばれる石宮で、妙見さまが一番はじめに祀られたお社だと今も信じてお参りする人もいる。
註、この大欅は、昭和三十九年に切り倒され、オマンマさまは現在地に移される。」

「国府村誌」では、もっと面白い話になっています。
昔この池(小祝の池)から七星の金色に輝く亀がはい出して妙見様の大ケヤキのところでとまった。
そこに石宮をたてお祀りしたが、元総社の一・六の市に通った人が馬にのってここを通ったら馬から落ちてしまった。
御姿を見えないところへ移そうというので井戸を掘ってそこにお祀りした。
その上に建てられたのが今の妙見様のお堂のあるところという。」
ここを通る人たちが落馬するのは、石宮の中から亀が放つ金色の光に目がくらんだからだそうです。(地元の古老談)

「妙見寺」のお堂の下には、今でも井戸があって亀が住んでいるんでしょうか。


「妙見寺誌」には、こうあります。
妙見寺行事は、大晦日の「お着替え」から始まる。
この行事は、本殿下の井戸の中に納まる御神体に藁で編んだコモ(衣)を着せ替える神事で「ころもがえ」ともいう。
行事は深夜に暗闇の中を手さぐりで行う。
この御神体は、遠い昔に小祝の池に天から降った亀とされる。
元住職は「隕石と思われる」と語っている。」

おや?
亀じゃなくて、石ですか?
そう、「わたしたちの群馬町 資料集」では、完全に石の話になってます。
この妙見には、星形をした青石の神体があります。
冷水におぼり様の池と言うのがあります。
ある村人がこの池から大きな石を引き上げ家に運んでいました。
ところがどうしたことか妙見の池まで来ると、押せども引けどもどうしても動かなくなりました。
村人は気味が悪くなって、とうとうその場に放置したまま逃げ帰ってしまいました。
そのことがあってからです。妙見の前の箕輪前橋道を馬に乗って通る旅人は、全部落馬してしまいます。
これをあの石のためであると、誰言うとなく信じるようになりました。
そこで村人は集って相談しました。そして石は人々の目に止まらないようにと六尺ほどの穴の中に入れられました。それからは落馬する旅人もなくなりました。
とさ。

さて、「妙見寺」とは言うものの、その堂宇は神仏混淆の姿をそのまま残しています。


ところで。
史跡看板がある筈なのですが、どこを探しても見当たりません。

周辺をウロウロ歩き回ってみたら、ありました。
なんと、「妙見寺」山門から南へ200m、「引間」の交差点の角に、「日本三社之一 妙見尊」という石柱と一緒に建っているじゃありませんか。



ここなんですかねぇ。
うーん。


【史跡看板】

【妙見寺山門】


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Posted by 迷道院高崎 at 07:13Comments(0)◆高崎探訪

2019年11月10日

史跡看板散歩-162 冷水の小祝様

イオンモール高崎から北へ1kmほど行った所に、「冷水」(ひやみず)という信号があります。
その信号を西に入って240m、冷水のバス停を過ぎたすぐ先を南に曲がって100mほど行くと、「おぼりの森公園」があります。


その向かい側に道路下へ降りる所があって、遠くに史跡看板が建っているのが見えます。


きれいに刈られている下草を踏んで近くに寄ると、小さな石祠がポツンと置いてあります。

風化していてちょっと読みにくいのですが、石祠の左正面に「小祝神」、右前面に「妙見宮乳母神」と刻まれているようです。

史跡看板には、こう書かれています。


「金色の光を放つ亀」がいたという「小祝池」は、石祠前のこの池?



「花園星神記」によると、帝に献上した亀はその後「小祝池」に戻されたようです。
亀は忠明卿に帰し給ふ、忠明上刕(しゅう:州)へ下向して、元の小祝池へ帰し納めける。
是より此所を霊水(冷水)村と云ふ。」

天平元年(729)、「小祝池」に異変が起こります。
三月廿二日の夜、小祝の池鳴動いて光明を輝し、上天して北斗七星に入。忠明卿怪しみて其事を帝へ奏しけれバ、帝殿下を召して宣下ありけれバ、此儀を宣して斗うべしと。
依て殿下卜部司官家宜に命じて是を占せけれバ、家宜答えて云ふ様ハ、天津星の化して亀と成、又天上して本の七星に帰る所也。
是妙見尊像ハ亀ノ背ニ立せ給ふ、即妙見社堂ヲ建立すべき裏兆なりと。
依て殿下忠明卿の使者に其旨を命じければ、使者上毛に帰着し、忠明卿に其旨を報言す。
忠明卿聞し召、即妙見堂并(ならび)に七星山息災寺を建立有。」
そこから、「冷水の小祝様」「妙見様の乳母」だということで、石祠に「妙見宮乳母神」と刻まれているらしいです。

話に出てくる、「妙見」「花園」「冷水」という小字はこんな位置関係になります。


ところで、「小祝」をなぜ「おぼり」と読むのかは、こちらをご参照ください。 → ◇史跡看板散歩-80 小祝神社

「おぼりの森公園」隣に祀られている「大日堂」


鰐口は、紐に括り付けた石で叩くようです。


叩き過ぎたのか、落っことしたのか、鰐口の裏側は半分欠けちゃってます。


堂内の「大日如来」「お地蔵様」は、まだ新しいもののように見えます。


堂の外に建っているのが、元々の「大日如来」なんでしょうか。


「おぼりの森公園」も、なかなか素敵です。


公園の脇を流れる「染谷川」は、折からの台風の後で、激しく流れ下っていました。



平将門が来て戦になった時、死んだ人の血で真っ赤に染まったので、「染谷川」という名が付いたとか。(群馬町誌資料編4)
こわっ・・・。


【冷水の小祝様】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:25Comments(0)◆高崎探訪

2019年11月03日

史跡看板散歩-161 甲州稲荷大明神と稚産霊神

金古の信号から高崎方面へ170m、岸とうふ店の前の小道を入ると、「甲州稲荷大明神」へ行けます。


背の高い宝篋印塔と墓石(?)の間を通ると広場があって、その向こうに赤い鳥居が並んでいるのが見えます。


ずらっと並んだ鳥居の先に、「甲州稲荷大明神」の赤い社殿があります。



史跡看板は、社殿の左手前に建っています。


誰が何故わざわざ甲州から稲荷神を勧請したのか、それは定かでないようです。

看板の後半に出てくる、「稚産霊神」(わくむすびのかみ)と刻まれた蚕霊供養塔は、社殿の右前に建っています。


日本書紀では、「稚産霊神」の父は火神・軻遇突智(カグツチ)、母は土神・埴山姫(ハニヤマヒメ)となっています。
古事記では、父は伊邪那岐命(イザナギ)、母は伊邪那美命(イザナミ)で、イザナミが火神・火之迦具土神(ヒノカグツチ)を産んだ時に陰部を焼かれ、苦しんだ時の尿から出現した神となっています。
いずれの話も、火、土、尿という、農業に欠かせない要素からなる神様で、食物の神・稲荷との共通性もあります。

「甲州稲荷大明神」の東隣に、「二十三夜堂」が建っています。


中を覗いてみると、かなり立派な彫り物が壁に掛けてあります。

昔のお堂の飾り彫刻か、山車か何かの飾りだったのか。

床には、「安産祈願」と書かれた行燈と、「如意輪観音」の石像が置いてあります。
ただ、二十三夜「勢至菩薩」のはずですが。
(二十三夜については、過去記事「さんや様」をご参照ください。)

と思ったら、「勢至菩薩」らしき木像も置いてありました。

土地によって、二十二夜が女性、二十三夜が男の月待講だと言いますから、このお堂はその両方に使われたのかも知れません。

「二十三夜堂」の右隣にもうひとつお堂があります。


中を覗くと、「薬師様」となっていました。

なぜか、みな、首がありません・・・。

それにしても、この広場、普通の公園とはちょっと違う雰囲気です。
入口の宝篋印塔や墓石のようなのもそうですし、こんな石造物も並んでいたりします。


Googl Earthを見てみると、プレハブの建物に「本光寺珠算教室」と名称が入っています。

どうやらここは、「本光寺」というお寺の跡みたいです。

「群馬町誌」に、こんな記載がありました。
金古字多家1252番地にある新義真言宗豊山派医王山本光寺は、奈良県長谷寺の直末であり、本尊は大日如来である。
『寺院明細帳』によれば、昭和十四年(1939)までは、三ツ寺村の石上寺末で無住寺であって、棟高村大乗寺の住職が兼務していたという。
『金古町誌』には、寛文年間(1661~72)の創立で、開山されたのは高崎城主の安藤対馬守時代という。
また一説には足門徳昌寺の隠居寺で字如来にあったものを現在地に移したともいわれている。当時、信徒170人と書かれている。(略)
山門前には、明和九年(1772)の宝篋印塔があるが、この中から経文が見つかったという。
藁葺きの大きな本堂は、昭和四十四年(1969)十月九日秋祭りの日に全焼、現在は区公民館が建てられ諸種の会議に使用されている。
境内の西側に二十三夜堂があり、勢至菩薩を祀っている。
この二十三夜堂は、戦前三国街道の東100mくらいの所にあったものを戦後この地に移した。」

残念ながら、「甲州稲荷大明神」についての記述はありませんでした。
でも、残すということは、後の人にいろいろなことを伝えてくれるものですね。


【甲州稲荷大明神と稚産霊神】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:21Comments(0)◆高崎探訪

2019年10月27日

史跡看板散歩-160 金古中宿の道祖神

金古小学校の南側の角に、石造物がいくつか建っています。


一番右に建っているのが、「道祖神」です。



天孫降臨型双体道祖神は、鎌倉街道を辿っている時、和田多中町で出会ったことがあります。

 ◇鎌倉街道探訪記(12)

天孫降臨の神話に登場する「天鈿女命」(あめの・うずめのみこと)は、なかなかにセクシーです。


天孫「邇邇芸命」(ににぎのみこと)が天降る時、天の八衢(あめの・やちまた:道がいくつもに分かれている所)に立って一行を待ち受けていたのが、「猿田彦命」(さるたひこのみこと)。
身長七尺(2.1m)、鼻長七咫(ななあた:1m?)、目はホウズキのように赤く照り輝いていたと言うのですから、これは怖い。

そこでセクシーな天鈿女命を使わして、何者かを訊き出すことにした訳です。
きっと一行を追い返そうと待ち受けてたに違いない猿田彦はその色気にすっかり毒気を抜かれ、「天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来た。」などと、調子いいことを言う始末。

おそらく道案内の道中、猿田彦が口説いたのでしょう、二人は夫婦になったらしいです。
ところがその後、猿田彦比良夫貝(ひらふがい)に手を出して、挟まれて溺れ死んでしまったんだとか。
いやはや男というものは・・・。
(注:多分に迷道院の憶測が含まれております。)

ひとしきり写真を撮っていると、交通安全の腕章をした方がずっとこちらを見ているのに気が付きました。
道端に車を止めておいたので、てっきり叱られるのかなと思ったら・・・。
「これも珍しいと思うんだけど。」と、曲がり角の石を指さします。


「道しるべだよ。」
まったく気が付きませんでしたが、持っていた石筆でこすってみると、なるほど、文字が刻んであります。


珍しいことに、向かって前後左右の道案内が刻まれています。
  左 足門-上郊-長野
  右 箕輪縣道-前橋
  前 箕輪縣道-相馬
  後 三国縣道-東國分


時々こうやって、土地の人に教えられることがあります。
ありがとうございます。


【金古中宿の道祖神】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:10Comments(2)◆高崎探訪

2019年10月20日

史跡看板散歩番外編 春の夜嵐お地蔵様

八坂神社石宮の近くにある「常仙寺」は、迷道院にとって思い出深いお寺です。

特にその参道には、興味深いものがたくさんありました。
中でも一番好奇心をそそられたのが、このお地蔵様です。


香炉の台石には、「春の夜嵐 發行紀念」と刻まれています。


ぜひ、このお地蔵さまにまつわる、悲しくも感動的な物語りをお読みください。
ちょっと長い話になりますが。→◇春の夜嵐 昭和のおふさ


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:45Comments(0)◆高崎探訪

2019年10月13日

史跡看板散歩-159 土俵の八坂神社石宮

金古の信号の30mほど北に「八坂神社の石宮」があります。



なかなか立派な彫り物の石宮です。


昭和四十八年(1973)に、お金を出し合って修理をしているようです。


9年前、ここも記事にしていますので、ご覧ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(16)

なお、その記事中、「諸業高名録を発行した金古宿の医薬業者・天田倉蔵」という人が出てきますが、そのご子孫のお宅が今も金古町にあります。


もっと言ってしまえば、この家の築地塀は、旧高崎城の築地塀を移築したものです。
  ◇三国街道 めぐり会い

三国街道金古宿、けっこう面白いところです。


【土俵の八坂神社石宮】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:20Comments(2)◆高崎探訪

2019年10月06日

史跡看板散歩-158 土俵の庚申塔

三国街道を横切る「牛池川」に沿って東へ下った所に、「庚申塔」とその史跡看板がある・・・はずでした。


痕跡はあるのですが・・・。


道祖神のカップルだけが、不安気な面持ちで手を握り合い、肩寄せ合って佇んでいます。


すぐ近くで史跡の発掘調査をしていたので、聞いてみました。
「そこに、庚申塔がありませんでしたか?」
「あー、ここ、道路ができるんで、先週移動してたよ。」


聞くと、近くの「土俵住民センター」の所にあるというので、行ってみたらありました。

が、あったのは4基だけで、しかも肝心の「庚申塔」がありません。
痕跡の方は7つあったので、3つ足りません。
その3つの中に「庚申塔」があったはずです。

もう一度、発掘現場へ戻って聞いてみました。
「他にもなかったですかね。」
「うーん、よく分かんないけど、ここの土地の所有者があそこん家だから、知ってるんじゃないかな。」

と言うので、行ってみました。

「庚申塔が建ってた土地が、こちらの所有地だということでしたので・・・。」
「昔、道路ができる時に、あちこちにあったのを、ウチの土地を提供してそこへ並べたんだけど、また新しい道路ができるんで移したんだよ。」
「庚申塔があったと思うんですけど。」
「あー、捨てたんじゃないかな。区長さんなら知ってると思うけど。」

えっ!捨てちゃったの?

で、教えて頂いた区長さんの家を訪ねましたが、あいにくお留守です。
帰ってきた頃を見計らってお電話することにして、いったん引き上げてきました。

もしやと思い、家でストリートビューを見てみると、おー、写ってるじゃありませんか!
中央に写ってるのが「庚申塔」でしょう。

ははぁ、一つだけ残ってた「双体道祖神」は一番手前にあったんですね。
そうか、それで橋の名前が「どうそじんはし」(道祖神橋)なんだ。

きっと、この「双体道祖神」は昔からこの場所に建っていたんでしょうね。
だから、住民センターの方に移さなかったんだ。

その日の夕方、区長さんにお電話してお聞きしたところ、
「移設した4基は毎年この地区でお祭りをしてるんで移設して残した。庚申塔二基と石灯籠一基は、引き取り手がなかったので、やむなく廃棄したんです。」
ということでした。
「史跡看板も建っていたと思うんですが。」と言うと、
「それも一緒に廃棄しました。」とのことです。

「じゃ、どんなことが看板に書いてあったかは、分からないですよね。」と言うと、
「いや、申請した時の原稿が残ってますよ。」と言います。
ありがたいことに、写真と一緒にメールで送って下さるとも仰ってくれました。

ということで、これが送って頂いた「庚申塔」の写真です。


史跡看板の文言はこうです。
正徳と文化の庚申塔
当地には、庚申塔や多数の石宮が祭られています。
この石造物は土俵区内各所から集めたもので、この中で特に貴重なものは二基の庚申塔です。
一基は、正面に「庚申供養塔」と刻し、台座に三匹の猿(見ざる聞かざる言わざる)を浮彫りにした立派なもので、右側の面には正徳三年(1713)巳之天開五月吉日、當村施主五拾七人と建立の年代を刻しています。
他の一基は、自然石を台座と竿石として組立てたもので、竿石の正面に「庚申塔」と刻し、判読できないが筆者名を刻しています。
右側の側面に文化八年(1811)辛未天孟春吉日と刻しています。
二基の庚申塔は、金古宿の歴史を語る貴重な文化財です。

その貴重な文化財が廃棄されてしまったとは、何とも残念なことです。

区長さんのお話によると、庚申塔二基と石灯籠は、元々近くの常仙寺の参道にあったものだそうです。
その参道を市道にする時、道を広げたので置けなくなって移設したと。
今回、常仙寺にも打診し、土俵地区の人たち全員を集めて相談もしたが、引き取り手はなかった。
ついに、その集会で廃棄することに決めたとのことでした。
地区の人たちの無念さが、ひしひしと伝わってくるようなお話でした。

それにしても、残念な結果です。
高崎市として何か成す術はなかったのでしょうか。

うーん・・・。


【土俵の庚申塔があった場所】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:48Comments(0)◆高崎探訪

2019年09月29日

史跡看板散歩-157 神保雪居の碑

前回の「行人塚と大ケヤキ」から南へ150mほどの所に、大きな「神保雪居翁壽碑銘」が建っています。



9年前に来た時には、神保雪居って有名な人らしいけど、特に興味も湧かずスルーしていました。
今も、それほど興味は湧かないのですが、安中文瑛に漢学を教わったということで、多少親しみが持てました。
神保雪居の書と画↓


「神保雪居翁壽碑銘」というこの石碑も、何が書いてあるのやらさっぱりで。
どうしても知りたいという人は、濱口富士雄氏著「群馬の漢文碑」を読んで下さい。


それよりも迷道院が気になったのは、「神保雪居碑」の斜め前にある、この捻じれた塀の方です。


「金古宿の代官所跡」、同じ神保姓です。
旧群馬町の重要文化財のはずなんですが、この有様です。




9年前に来た時も、心配な状況ではありましたが、今から見ればまだ良い状態でした。
その時のブログ記事をご覧ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(20)

これ、いったいどうするんでしょう?
高崎市には文化財保護課という部署があるんですが、この文化財は保護してくれないのかなぁ。

うーん・・・。


【神保雪居の碑】

【金古宿代官所跡】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:32Comments(2)◆高崎探訪

2019年09月22日

史跡看板散歩-156 金古町の行人塚と大ケヤキ

旧群馬町、金古町上宿の信号の角に、大きなケヤキの木が立っています。


その根方に史跡看板が建っています。



これが、「真岩常正居士」(しんがん・じょうせい・こじ)の宝篋印塔です。


9年前、旧三国街道を辿って記事を書いてて、ここがシリーズの最終地点だったんですが、あるはずの宝篋印塔が無くなってて、えらいびっくりしたことを憶えてます。
(9年前の写真↓)


その顛末は、過去記事でどうぞ。
 ◇旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)

ということで、近くの石材店さんで修復中だった訳なんですが、その8か月後、石材店さんから記事にコメントを頂戴してびっくりしました。


そしてその5年後、今度は施主様からコメントを頂き、二度びっくりです。


コメント中にある「記念碑」が、これでしょうか。


このブログをやってて本当に良かったと思える、隠居の思い出の地でした。


【金古町の行人塚と大ケヤキ】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:24Comments(2)◆高崎探訪

2019年09月15日

史跡看板散歩-155 中新田の秋葉様と石神群

生原の信号から西へ300mほど、箕郷東小学校入口の信号を南へ入ります。


50mほど行くと、右側の一段高い所に石碑がいくつも建っているのが見えます。


史跡看板は、その先。



ま、いろんなのが建ってまして。


これが珍しいな、と思ったんですが。

何だかよく分かりません。
偏平足さんのブログによると、「水雨天」「吹風天」秋葉山十二天の中の神様で、仏教の「水天」「風天」と同じだそうです。

「水天」(すいてん)は、
仏教における天部の一人で、須弥山の西に住んでいるとされる。十二天の一である。
水の神であり、竜を支配するとされる。もともとはインド=イランの古いアスラ族のヴァルナである。 諸ヴェーダにおいて、ヴァルナは重要な位置に置かれ、天空神・司法神(=契約と正義の神)・水神などの属性をもたされた。
東方ではブラフマン(梵天)に始源神としての地位を奪われており、さらに後には死者を裁くヤマ神に司法神としての地位を奪われ、水神としての属性のみが残った。
仏教に取り入れられた頃は、仏教における十二天の一つ、西方を守護する「水天」となった。」(Wikipedia)

「風天」(ふうてん)は、
十二天の一。もとインドの福徳・子孫・長生をもたらす神。のち仏教の守護神となり、西北を守る。
胎蔵界曼荼羅では赤色の身体に白鬚で、冠と甲冑をつけた老人の姿をとる。」(大辞林)

ということなんですが、それと「蚕神」との関係、「船入」(入船?)とは何か・・・、どうもよく分かりません。
隠居の思いつきですが、「農家にとって、雨も水も吹く風も、無ければ困るし過ぎても困る。お蚕さんもお天気次第。宝船に乗った神様が入って来ますように。」ってことなのかなぁ。

現場からは以上なんですが、前回同様なんか物足りません。
周辺を少しほっつき歩いてみました。

石神群から南へ350mほど行った四つ辻の手前に、何だか面白い形をした石碑が建っています。


向こう側へ回ってみると、「痘瘡輕安 守護神」と彫られています。


「痘瘡」(とうそう)というのは「天然痘」のこと、「輕(軽)安」(きょうあん)は「軽やかに安らぐ」ことですから、疫病が村に入って来るのを防ぐ道祖神賽の神のようなものなのでしょう。

その碑背を見て、ちょっとびっくりしました。

「瑾亭道人書」とあります。
おそらく、あの「瑾亭先生」こと安中文瑛の書なんでしょう。
 ◇史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
 ◇史跡看板散歩-番外編 関叟庵
いやー、ここでお目に掛かれるとは。
安政五年(1858)の建立、名医・瑾亭先生らしい書ですね。

その四つ辻の足元に、道しるべがありました。

風化して読めない文字もあるのですが、「左生原経しぶ川榛名山道」かな?
その反対側は、「左保渡田経長野六郷高崎」になってます。

さて、箕郷町の史跡看板はこれで巡り終わったようです。
次回からは、旧群馬町の方へ行ってみたいと思います。


【中新田の秋葉様と石神群】

【痘瘡軽安守護神碑】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:10Comments(0)◆高崎探訪

2019年09月08日

史跡看板散歩-154 生原の厳島神社

生原(おいばら)の信号の南140mほどの所にあるのが、「生原の厳島神社」です。

史跡看板は、参道入り口に建っています。


鳥居の扁額は「弁財天」になっていて、突き当りがその祠のようです。


竹林を背にして、立派な造りの祠です。


看板によれば、この中に石臼の中から発見されたという弁天様が安置されているようですが、そのお姿は拝めません。

池は、この辺にあったんでしょうか。


現場からは以上なんですが、ちょっと物足らなかったので、弁天様について少しググってみました。

いつも池とか水のそばに居らっしゃいますが。
弁才天はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。
原語の「サラスヴァティー」は、12世紀に編集されたと言われるインドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる聖なる河とその化身の名である。」(Wikipedia)


「弁才天」とも「弁財天」とも書かれますが。
漢字表記は中国の義浄という僧侶がインドに仏教留学した際に、弁天様のご利益から弁才天と意訳します。
川の流れるような、弁舌の達者という意味の神様とされます。
一方、弁天様が日本にもたらされてから、財福の神として信仰がされるようになると、弁財天(旧字体では辨財天)と表記されるようになります。」(神仏ネット)
あ、初めは「弁の才」がある神様だったんですね。

いつも琵琶を持ってますけど。
水の女神であるが、次第に芸術・学問などの知を司る女神と見做されるようになった。
琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、『大日経』では、妙音天美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。」(Wikipedia)

祀られているのが、たいがい「厳島神社」なのは何故?
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国とは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される事が多い。
「いつくしま(厳島)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える)+ シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ(市杵島姫)の名に由来するか、少なくとも同根語である。」(Wikipedia)

なるほど。


【厳島神社・弁財天】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:04Comments(0)◆高崎探訪

2019年09月01日

史跡看板散歩-153 今宮八幡宮

生原(おいばら)の信号から、県道123号線(柏木沢・大八木線)を北へ900mほど行くと、左手に「今宮八幡宮」があります。


あるはずなんですが・・・、史跡看板が見当たりません。


社殿の前にもありません。


境内の裏へ回ってみたら、ありました。



「柏木沢」という地名について、「箕輪町誌」にはこう書いてあります。
本村ハ長野郷ニテ青木庄ナリ。
永正ノ比(頃?)本国白井城ヨリ松井田城ヘノ通路ナリシガ、柏木(檞ノ俗字)多ク生ゼシ地ナルヲ以テ村名起レリト称ス。」

京都「石清水八幡宮」から勧請したという1264年は鎌倉時代中期、文永元年です。
社殿の扁額を見ると平成二十九年に七百五十年祭をやってるようですが、1264年から750年目は平成二十六年のはずなんですが・・・。
ま、細かいことはいいでしょう。

「群馬縣群馬郡誌」によると、話しはさらに遡ります。
今宮の古蹟(相馬村)
日本武尊東征のとき、常陸國新治郡筑波を經て甲斐國山梨郡酒折宮に來り玉ひ、更に北に向ひ上野國群馬郡今宮の里に休所を定めらると、この際尊が 天皇より給はれる大國主命が國土經營のとき持ち廻りたる柊の予(矛?)を、この地に奉祭あらせられたりといふ傳説あり。
又白鳳元年(紀元=皇紀千三百三十二年=西暦661年)天武天皇の時、山城國船岡山の北紫野より奉遷すと、これ卽ち今宮と稱する始めなりとも云ふ。(略)
今の大字柏木澤八幡宮境内は日本武尊の遺跡なることは上野風土記に見ゆ。」

社殿の左に祀られているのは、「阿弥陀如来」となっていますが、「病気平癒の神」ということなので、もしかすると「薬師如来」かも知れません。


先の「群馬縣群馬郡誌」には、こんな記述があります。
現今俗に藥師如來と稱する石祠あり、これ白鳳年間奉遷したるを時代の變遷により古名を失ひ、藥師と改稱したるものならんか。」

社殿の後ろに、看板に書かれている石造物がずらっと並んでいます。


一番道路側に、「二十二夜様」がゆったり座っておられます。

えらいなぁと思うのは、どの石造物も刻まれている文字がみな赤く塗られていて、明瞭に読み取れることです。
そして、主だった石仏や石祠には、その名前とご利益が表示されていること。
いままで、いろいろな所を見てきましたが、ここまできちんとしているところはありませんでした。
この神社が、地域に根差していることがよく分かります。

神社の近くに道しるべがあり、ご先祖様の盆送りをした茄子の馬が置いてありました。

道しるべには、「向 右上郊・高崎 左榛名・伊香保」、側面には「右本村道」と刻んであります。

歴史が、生きてますね。


【今宮八幡宮】

【道しるべ】


  


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2019年08月25日

史跡看板散歩-152 新屋敷の百庚申

箕郷町柏木沢「市立箕郷第二保育園」近くの角地に、「新屋敷(あらやしき)の百庚申」があります。


無造作に置いてあるだけのように見えますが・・・。


近くを流れる「群馬用水」や道路拡幅の工事によって、ここに集められたのだそうです。


「百庚申」前の細道を行くと、「群馬用水」の水路に出ます。

ずーっと向こうに、水路を挟んで左手にお寺の甍、右手には森が見えます。

行ってみると、なかなか立派な山門です。


脚下に、四角と丸と三角が埋め込んであります。

何でも、江戸時代の禅僧・仙厓義梵(せんがい・ぎぼん)の禅画にそういうのがあるそうで、たぶんそれなのでしょう。


NHKの「日曜美術館」で、仙厓のことを取り上げていましたので、一部抜粋してみました。

人間、歳とともに角が取れて丸くなると言われますが、自然とそうなるもんでもなさそうで。

ということでこのお寺、禅宗なのかなと思ったら天台宗でした。


本堂の左手前には、「南瀧不動尊」というのが祀られていました。

「南瀧」というのがあったんですね。

そういえば、「群馬用水」の右手に見えた森は「八幡宮」で、

「向瀧八幡宮」というらしいです。

「南瀧」「向瀧」は、同じ滝なんでしょうか。
「箕郷町誌」を見てみると、「不動寺」の所在地が「柏木沢向滝」となっていましたので、違うみたいです。
神仏混淆時代の名残なんでしょう。

「南瀧」があったという所を見てみたくなって、「不動寺」のすぐ脇を流れる「初瀬川」へ行くと、川辺にたくさんの石碑や庚申塔が建っていました。

新屋敷の百庚申もここへ移せば、もっとゆったりできたろうになぁ。

そしてここにも、「蚕影碑」が建っていました。



ここから東南600mほどの所が、「南瀧」があったという、「初瀬川」「唐沢川」の合流点です。


河川工事で「南瀧」はなくなったということですが、その面影は感じられます。


いやー、今回、「新屋敷の百庚申」を見て、こりゃどうしたもんかと思ったのですが、どうしてどうして、近くに面白いものがたくさんあって助かりました。
流石ですな、箕郷町


【新屋敷の百庚申】

【不動寺】

【向瀧八幡宮】

【南瀧があった場所】


  


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2019年08月18日

史跡看板散歩-151 卜神諏訪神社

箕郷町の、旧矢原村字卜神(ぼくしん)にある「諏訪神社」
石柱の隣に、史跡看板が建っています。



看板には、剣豪・塚原卜伝のことがたくさん書いてあるので、卜伝が祀られているのかと思ってしまいますが、「箕郷町誌」にはこう書かれています。
諏訪神社
祭神 建御名方神、木花之佐久夜毘売命
由緒
永禄三年箕輪城主長野信濃守業政公の建立。
後台風にて社殿が荒廃したが、業政公の家臣上泉伊勢守の臣、塚原卜伝剣道修行のため其の境内の弁才天の池で、二十一日間の水行をし、当社に祈願した処その目的を達した。
故に卜伝礼拝再築した。」

卜伝が水行をしたという「弁才天の池」は、想像してみるしかありません。


看板の冒頭、「石鳥居と石灯籠の間を社殿に進むと、天神鴨流柔術の額」があると書いてありますが・・・、

行ってみると、すっかり退色してしまっていて・・・。
ただ、「天神鴨流」じゃないかも・・・。

辛うじて「天神真楊流」と読めます。
「鴨」はどこから出てきたんでしょう。

境内は子どものよい遊び場でもあるのでしょう、鉄棒やブランコがあります。


拝殿の天井絵や欄間の彫り物も立派です。


境内に建つ「寿詞」碑によると、古老の伝として永禄三年(1560)塚原卜伝の勧請となっていて、明治二年(1869)に社殿改造、大正三年(1914)に改修されたということですが、この天井絵と欄間はいつのものなのでしょう。


本殿の右奥にあるのが、「蠶(蚕)影山」(こかげさん)の石碑です。

「蚕影山」碑はもともと養蚕が栄えることを祈って建てるものですが、災害により投棄せざるを得なかったお蚕様の霊を弔うために建立されたものも少なくないようです。
明治二十年(1887)の雹(ひょう)害は主に榛名山東南麓を、明治二十六年(1893)の大凍霜害は安中地域を中心に県下一円の養蚕農家に大打撃を与えました。

「蚕影山」の築山の左に、木造の祠があります。
棟には「不動尊」という木札が掛けられているのですが、

なぜか肝心のお不動様は祠の後ろで雨ざらしになっています。


本殿の左側に、もうひとつ祠があります。
赤い鳥居が建っているのでお稲荷さんじゃないかと思うのですが、中には不思議なものが祀ってあります。

いったい何なんでしょう?

脇の沢沿いには、「藪茗荷」(やぶみょうが)の群落がきれいな白い花を付けていました。


「卜神諏訪神社」の隣にある山車庫の前にも、史跡看板が建っています。



神社の周辺をうろついていると貯水池があって、大きな石碑が建っていました。


こんなことが刻まれています。
大清水貯水池記念碑
当地域は豊富なる湧水あり地名を大清水と銘名したと伝へらる。
然るに米軍が相馬ヶ原に駐留し、演習砲弾と無数の重車輌のために草木の荒廃甚だしく、水源枯渇して全く保水力を失い、下流住民の死活問題となる。
これが代償として貯水池新設の運動を重ね、関係各庁認むるところとなり、特別損失補償法により、こゝに大清水貯水池建設を見たのである。
尚漏水を完全に防止するために再度改修工事を施工し完成せしものなり。
この貯水池の活用により、箕郷町の発展と地域住民の生活を久遠に潤すことを信じ、碑石に刻んで記念するものである。
昭和四十四年三月吉日

土地に歴史あり、ですね。


【卜神諏訪神社】

【諏訪神社山車庫】

【大清水貯水池】


  


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2019年08月04日

史跡看板散歩-番外編 群馬松

「月波神社」の拝殿に飾ってあった写真。

右書きで「群馬松」と書いてありますが、「くるまのまつ」と読むようです。

「久留馬村誌」に、その由緒が書かれています。
抑々(そもそも)群馬の松は豊城入彦命(とよき・いりひこの・みこと)御手植にかゝる由緒ある霊樹なり。
命は人皇十代崇神(すじん)天皇の長皇子にましまして東国統治の大任を帯びさせ給い、詔を奉じて遙かに東国に下向、上毛野十文字邑(むら)に地を相し、城を築き、居を定め給う。
即ち東国統治の政府とも称すべきものなり。
命の御統治長からず。申すも畏し終に此の地に崩れさせ給う。御墓は実に此処に在りと承る。
御築城の砌(みぎり)、この地水便無きにより、北方久留馬(くるま)川より新たに水路を開き水を引き御飲料に供せらる。其の堰址今尚存す。
工を起こすに当り、命は水神の加護を祈り、御神木として一本松を植え給う。この松こそ我が名勝霊木群馬の松なれ。(略)
明治維新上毛野一帯の地は一県として立ち、其の名を選ぶに当り、群馬の松が其の昔豊城入彦命の思召しにより生い立ちたる由緒に因みて、県名を群馬と命じたるものにして、村名久留馬も亦同じ。
経路を辿るに県名も郡名も村名も、その全てが群馬の松より出で、群馬の松が其の発祥樹として天下に其の名を成せること亦宣(むべ)ならず。」

「群馬」をなぜ「くるま」と読むのか、「群馬県史通史編2」にこう書いてあります。
群馬県の県名は群馬郡から取られたものであり、これを「ぐんま」と呼ぶことに誰も疑いをもっていない。
この「群馬郡」は、七世紀末までは「車評(くるまこおり)」と書き表されており、和銅六年(713)五月甲子に出された制によって「車」から「群馬」に改められたものとみられる。
そして、10世紀頃に作成された「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」によると、「群馬」は「久留末(くるま)」と呼ばれていたことが分かり、同じく「三宝絵詞(さんぽうえことば)」でも「くるまの郡」と書かれている。
これはもともとの「車」によった呼び方であり、このことは「群馬」が「くるま」という音への当て字であることを示している。」

さて、ここまで予備知識を得たうえで、「群馬松」を見に行きましょう。

「月波神社」から、県道126号線(榛名山箕郷線)を約2km行った所に、「群馬の松」の入り口があります。


ところが、かつての入り口はここではなかったようです。
さらに200mほど行った先に、その名も「群馬の松入口」というバス停があるのです。


本居豊穎(もとおり・とよかい)という人の歌碑の隣に、「上墅名所 霊木 群馬の松入口」という石碑も建っています。


その歌碑の脇から「車川」に下りてったらしいのですが、今は草ぼうぼうで廃道になっているみたいです。


ということで元に戻り、長靴に履き替えてこちらも草ぼうぼうの道を下って行くと、「車川」に架かる石橋がありました。

この日は水量もそれほどありませんでしたが、多い時は「沈下橋」になるのでしょう。

石橋を渡ると、ちょっと開けた所があって、手作り風の看板が建っています。



「初代の松については文献がない為不詳である」とありますが、「久留馬村誌」には初代松の絵が載っています。


看板にある「霊松=古松(二代目)、神松=新松(三代目)」については、「箕郷町誌」に詳しく書かれています。
水廻る巌根上の霊松の側らに、享保年代(1725)、善地駒寄の霊松の信仰者である伊藤弥七によりて若松が祈願のうえ植えられ、さらに車川東対岸に水難防除の大水上神社が祀られた。
若松が献植されてから十余年を過ぎた寛保二年(1742)に、全国に亘っての大洪水があった。
古松とその側に植付けられた若松のある巌根の西淵は水が廻って流れていたのに洪水によって流出した土砂に埋まって、水の流れを悪くした。
巌上の古松はそれにもかかはらず生育もよく盆栽型の姿を保った。
しかも若松は流積した土砂の養分を受けて成長を早め、成長し六丈(約18m)余りの喬木型の大松となった。
是より霊松(古松)に神松(新松)の大樹を双幹の霊木群馬の松と呼ばれるようになった。」

「車川」の中州の岩の上に、二本の松の大木が聳えていたという訳です。
その絵が「群馬縣群馬郡誌」に載っていました。

手前の岸との間に注連縄が張られているのが二代目の「霊松」、後ろの背の高いのが三代目の「神松」のようです。

ところが、
霊松は明治三十九年に地籍の争いが起こり、同四十一年の静夜に倒伏し去った。
神松も昭和十一年十一月雪害をうけ倒伏した。」
と、看板に書いてあります。
さらに、
霊巖にそびえていた双幹の霊木ゆえに、地籍の争いに身をもって『和の心』を持って警告して生命を終えた。」
とあります。

ここでいう「地籍の争い」というのは、「群馬の松」が車川の中州にあるため、その地籍が久留馬村大字十文字なのか善地村大字善地なのかという争論で、実に元禄十六年(1703)から続いていたそうです。

また、「身をもって・・・警告」というのは、「群馬の松」には七不思議というのがあって、そのひとつ「事件あれば松に必ず警告あり」のことです。
「箕郷町誌」によると、明治五年(1872)「群馬の松」を御料地に編入するかどうかの争論が起きた時も、晴天無風の夕刻に大音響と共に松の大枝が川底に落ちたということがあったそうです。
上の絵で、「霊松」の幹に黒く塗られている部分が、その時落ちた大枝の跡なんだとか。

さて、冒頭の「群馬松」の写真ですが、これは倒伏する前の「神松」のようです。
「久留馬村誌」に、こうあります。
昭和九年十一月我が群馬の野、陸軍特別大演習の挙あり。
今上天皇陛下親しく大演習を御統監あらせられたり。
県民歓喜して鳳輦(ほうれん:天皇の乗り物)を迎え奉り、御巡幸を拝す。寔(まこと)に是れ昭代の盛事、千古の偉観なり。
久留馬村民亦皆この盛事に感激し、相謀り、我霊樹群馬の松を写し、其の真影を謹製し、之れを畏きあたりに献上したり。」

手作り看板には、「現在の松は四代目か五代目にあたる」とあって、はっきりしません。
それもそのはず、昭和十一年に二代目松が倒伏した後、実生により世継ぎの松を植えたが、四回にわたり切り捨てられるという事件が起きたというのです。(箕郷町誌)
両地区が和議を結び、長い長い地籍争いに終止符が打たれたのは、平成十三年(2001)とのことです。

では、現在の松に会いに行ってみましょう。
手作り看板のところからずーっと奥へ入っていくと、ベンチのある広場になります。

その先に、石祠や石碑、標柱の建つ塚がありますが、それらしい松の大樹は見当たりません。

塚に近寄って見ると、「群馬の松七代目」という標柱の後ろに、よくよく見ないと分からないくらいの、まだ植えて間もなさそうな若松が植わっています。

標柱の感じからすると、もしかすると「七代目」も枯れてしまっていて、この若松は「八代目」なのかも知れません。
大きな杉たちに囲まれて、何となく弱々しく見える若松に、「頑張れよ!」と声を掛けたくなります。
もう少し日が射しこむようにしてあげるといいんでしょうかね。

さてさて、そろそろ帰ろうと高崎に向かって3.5kmほど下ると、道路の左側にある三基の石碑が目に入りました。


その一つには、「群馬松」と刻まれています。


碑背には、こう刻まれていました。
霊木群馬の松のあった中州は今は崩れて松の姿を見ることはできない。
旧車郷村はこれを惜しみて、明治十五年三月宮中御歌所長本居豊穎先生の歌碑を建て、その後天覧記念碑を中州に建立し、霊松眞種は月波神社境内に芽生えて繁り、神霊宿りて平和の象徴とし、土地の人に親しみ敬われ、郷土の繁栄を永久に護り続けることであろう。」
     群馬の松保存会長故後藤平太郎
  昭和四十四年十一月十五日
            箕郷町群馬松保存会建立
            箕郷町教育委員会後援

さらに下って、「鳴沢湖」の入口、「車郷小学校」の手前にも「靈木群馬松」への道路元標が建っていて、「是より善地車郷村線を経て七粁(km)」と刻まれています。


こうやって見てくると、箕輪の人たちにとって「群馬松」はまさに象徴たるべき存在なんですね。
いつまでも護り続けていって頂きたいと思います。

長文にも関わらず最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。


【「群馬の松」入口】

【バス停「群馬の松入口」】

【「群馬松」石碑】

【「群馬松」道路元標】


  


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2019年07月28日

史跡看板散歩-150 月波神社

前回記事「治尾の牧」の史跡看板から西へ240mほど行くと、「月波神社」(つきなみじんじゃ)参道入り口の石段があります。


大きな石灯籠。

嘉永五年(1852)と刻まれています。

石段を上ると、一の鳥居。


その先にある二の鳥居。

額は「月並神社」となっています。

さらに進むと、県道・新井下室田線が参道を横切っています。
手前の庚申塔を、きれいな紫陽花が彩っていました。


県道を渡って、踏み面のやけに狭い急な石段を上ったところに、史跡看板が建っています。



「車持君」(くるまもちの・きみ)は、「上毛野君」(かみつけのの・きみ)と同じ「豊城入彦命」(とよき・いりひこの・みこと)を祖先に持ち、雄略天皇の代に乗輿(じょうよ:天皇の乗り物)を供進(献上)したため「車持公」という姓(かばね)を賜ったという人らしいです。



その子孫だという「風の三郎」という人物ですが、坂上田村麻呂の時代にしてはやけに洒落た名前です。
「箕郷町誌」には、里伝としてこう書かれています。
里伝ニ昔時勘解由三郎ナル者ココニ居リ、上野君某ニ仕ヘ善知ノ姓ヲ賜ワル、後坂上田村麻呂ニ属シテ京師ニ趨(赴)ク、土人氏ノ姓ヲ慕フテ村名トナスト云、本村車持社ハ善知氏ノ始祖ヲ祀リシ者ト云、上野伝説雑記国君王紀ニ群馬郡・善地トアリ」
ということで、「風の三郎」でなく「勘解由(かげゆ)の三郎」となっています。
音は何となく似ています・・・。

「勘解由」というのは「勘解由使」(かげゆし)の略で、国司交替の際に前任者が交替完了の証明のため発給して後任者に与える「解由状」(げゆじよう)の「勘査」を行う役人だそうです。
前任国司は「解由状」が受理されて初めて次の官職に就くことができるのですが、前・後任国司の利得の調整で揉めてしまって、後任国司が「解由状」を受け取らないことも多かったらしいです。
「勘解由使」はその正否の判断をするのですから、重要な役目なんですね。

また、「善知」という姓は、看板では坂上田村麻呂から賜ったように書いてありますが、「箕郷町誌」では上毛野君からとなっていますし、「善知」田村麻呂に属したのも京師(けいし:京都)に行ってからということで、少し食い違いがあります。

ま、いずれにせよ、そんな由緒ある「月波神社」なんですが、境内は荒れていました。



社殿のすぐそばに丸太の蜂胴が置いてあって、蜂がブンブン飛んでますし。


米粒が入るとご利益があるという「十三重の塔」の穴の中にも、たぶん巣があるんでしょう、大群が塔を取り囲み、恐くて近づけません。


社殿の彫刻は素晴らしいんですがね。



拝殿の中に、こんな写真が飾られてました。

「群馬松」、県の名称と関係あるらしいです。
番外編で取り上げてみたいと思っています。

帰ろうとすると、ユニークな表情の狛犬が、見送ってくれました。
わっはっは!


いっひっひ。




【月波神社】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:07Comments(0)◆高崎探訪

2019年07月21日

史跡看板散歩-149 治尾の牧

箕郷-榛名山線(県道126号)中善地を過ぎて直ぐ、「Jows-Factory」という車屋さんの向かい側に、「治尾の牧」(はりおのまき)の史跡看板が建っています。



この史跡看板の後方にあるのが「治尾の滝」「歌碑」なんです。
とすれば、この史跡看板、ほんとは「治尾の滝」とすべきだったように思います。

ただ、この季節は雑草が生い茂っていて滝の姿が見えません。

近くまで行ってみたいのですが、手前はカボチャ畑、その向こうは民家の庭になっていて近づけません。
瓜田に履を入れる訳にもいかず、気も弱いが欲望にも弱い迷道院が、民家のチャイムを押してました。

ご主人に訳をお話しすると、「ああ、いいよ。いい写真撮ってってくんない。」ということで、お庭に入らせてもらうことができました。

「歌碑」の建立は明治十七年(1884)、歌の作者は参事院議官従四位勲二等・福羽美静(ふくば・びせい)となっています。

史跡看板の左下にも、小さな石碑が建っています。

延喜式馬寮上野國九牧之中治尾牧
古はりを(治尾)の志みず(清水)
此瀧より水源へ百五十五間三尺」
と刻まれています。(155間3尺は、約282.7m)

「上野国九牧」のひとつ「治尾牧」は、「群馬県史」では「沼尾牧」となっていて、看板にもあるように推定地は3ヵ所あるようです。


推定地の地図を見ても、なぜか「善地」だけがポツンと孤立してて・・・。


大正十四年(1925)発行の「群馬縣群馬郡誌」には、こんな記述があります。
治尾牧蹟と治尾泉(車鄕村)
大字善地の中央なる地を延喜式九牧中の一なる治尾の牧の遺跡なりと傳ふ。
今字名に駒寄・牧場等あり、尚駒寄の西北一帶に亙りて駒隱(こまかくし)谷と稱す、
往古良馬の徴發頻りにして民其の繁に堪へず、密かに附近の陰谷に駒を隠し以て徴馬の難を避けたるを以てこの名ありといふ。
此に治尾泉といふ冷泉あり、水源湧口太くして水登ること尺餘掘抜井戸の如し。
傍に高さ八尺餘の大石あり震石(ゆるぎいし)といふ、昔時は僅に指先を以て動かし得たるを以て此の名ありと傳ふ、」
馬を隠したというのは、面白い話ですね。

「治尾泉」にも興味津々です。
史跡看板には「月波神社の東30mの道下」とありますから、探しに行ってみましょう。

「治尾の滝」から370mほど行くと、相馬が原方面へ行く丁字路があって、右折すればすぐ「月波神社」です。


そこから30m行った道下というんですが、その辺にはそれらしいものは見当たりません。
さらに180mほど進むと、道路右下の鬱蒼たる木々の中に何やら怪しいものが見えました。



ところが、そこへ行こうと思うとけっこう大変で。
高く伸びた雑草の急斜面を下りると、その先の雑草の下にはズボっと嵌まる湿地帯が隠れていたりして・・・。
やっとこさっとこ、それらしき所に辿り着きました。

「宝山龍神」という石碑の向こうに小さな石祠があり、そこから水が流れ出ています。

「水登ること尺餘掘抜井戸の如し」という程でもなく、ポコッ、ポコッという水の音が聞こえるだけです。


水路の先に、大きなオニギリ形をした石があります。


これが「震石」(ゆるぎいし)なんでしょうか、押しても微動だにしませんが。
「古治尾牧地」という文字が彫られています。


水は、そのちょっと先で二つに分かれて草むらの中へ消えていくんですが・・・。


驚いたことに、ここに水が湧き出しているんです。

たしかに、ここは「牧」だったのかも知れません。


高原の爽やかな風が、吹き抜けていきました。


【治尾の牧 史跡看板】

【治尾の泉】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:12Comments(0)◆高崎探訪

2019年07月14日

史跡看板散歩-148 中善地の善念寺跡

「箕輪小学校前」の信号から、箕郷-榛名山線(県道126号)を榛名山方面へ約2.5km、県道を外れて右へ入ったところが、箕郷町中善地の集落です。


140mほど行った所にあるのが、「中善地集会所」

玄関の脇に、「中善地盆踊り」の史跡看板が建っています。


集会所の前が盆踊り会場になるようで、ストリートビューには、祭りの後でしょうか解体途中らしき櫓が写っています。


やぐらの後ろに見えるお堂の横に、もうひとつ史跡看板が建っています。



ここにあったという「善念寺」は、看板に書かれている寸法からすると、こんな大きさだったようです。


「薬師堂」の中に納められている、石仏たち。
二十二体以上ありそうですが・・・。

厨子の中のが「薬師様」なんでしょうか。

「二十二夜様」は、文政五年(1822)の建立。
なかなかいいお顔をしてらっしゃいます。

月待講で多いのは、月齢二十三日目の「さんや様」ですが、ここではその一日前の「にや様」が行われていたんですね。

「二十二夜塔」の隣には、これまた立派な「女人講」の塔が建っています。

こちらは、明治十六年(1883)の建立です。

彫られている像は、月待塔によく見られる「如意輪観音」ではありません。
よく見ると、右の腕で抱えているのは赤子らしいので、たぶん「子安(こやす)様」でしょう。

「子安様」は、十九夜の月待(女人講)塔に刻まれることが多く、文字通り子授け・安産・子育てを願うものです。
左手に載せているのは、ザクロに似た「吉祥果」(きちじょうか)という実で、実の中にたくさんの種を宿した果肉があるので、子だくさん・子孫繁栄をもたらすシンボルなんだそうです。

まさに、「女人講」にふさわしい塔ですね。


【中善地の善念寺跡】



  


Posted by 迷道院高崎 at 07:24Comments(0)◆高崎探訪

2019年07月07日

史跡看板散歩-番外編 法峰寺

「箕輪小学校」へ来たついでに、すぐ裏の「法峰寺」(ほうぼうじ)へ行ってみました。
校庭とグランドの間を参道が抜けています。


長い参道で、入口から240mほど入ってようやく参道らしくなります。


こんな石碑が建っています。

「水汲みに 行くのが地獄の 一の木戸
         行くとは見えて 帰る人なし」

どういう意味なんでしょうか。

ちゃんと碑背に刻んでありました。

ほー、なるほど。

「箕輪城」の案内看板に、現在地が記されています。

現在地の下んところは、かつて「椿名沼」(つばきなぬま)という泥湿地帯で、敵がここから侵入するのは困難だったそうです。

その「椿名沼」の跡は、いま「蛍峰園」(けいほうえん)という蛍の名所になっています。





その先の石段を上ると、「法峰寺」です。

貞観六年(864)慈覚大師の開基、ご本尊は阿弥陀如来だそうです。

横から見ると、すぐ後ろに「箕輪城」の城山が迫っているのがよく分かります。


「箕郷町誌」に、「法峰寺」の由来がこう書かれています。
天安年中に天台座主慈覚大師の開基にかかり、戦国の武将長野伊予守信業初めて箕輪城を築く際、寺の境内地が城郭内に亘る故に、交渉の結果、東方十数町に替地を出して寺の移転を行った。
慶長三年高崎城に移封した際、旧縁の地なるを以て現在地に復した。」

「箕輪城」築城の際に立ち退かせた後、城の「水の手曲輪(郭)」として防御の要としたようです。

この廓は南側の土居を構えた弦に当る部分の長さ80mの半円形である。
奥行30m、土居の外側は三段の小崖の外に、当時は椿名沼の泥湿地が迫り近接を許さなかった。
全く絶好の水の手だったのである。」
(箕郷町誌)

本堂脇の「夏椿」がきれいでした。


本堂左の小さな社に・・・、

お不動様がいらっしゃいました。


隣にもうひとつお堂があって・・・、

中には結構な彫刻のお宮が安置されています。

ご住職にお尋ねしたら、山王様だそうです。
神仏混淆時代の名残なんでしょうね。

その「山王堂」の前の石段を上った所に、もうひとつ大きなお堂があります。



聖観音を祀った「観音堂」で、旧群馬郡三十二番札所になっています。


本堂裏に、湧水を利用した小さな池があります。

「箕輪城」があった時はもっと大きかったようで、上方に水櫓を建て、つるべで水を城に揚げたといいます。(箕郷町誌)

その池の上の崖に、ぽっかり開いた穴があります。


前出の「水汲みに・・・」碑の碑背に、こんな文言があったのを思い出してください。
法峰寺境内には、横井戸と称する横穴がある。
寺の口伝によれば、城の本丸から水汲みに往復するために掘り始めたが、落城によって中止した遺跡とのことである。」

これが、その横穴なんだそうです。


うーん、面白い!


【法峰寺】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:37Comments(0)◆高崎探訪

2019年06月30日

史跡看板散歩-147 箕輪小学校

「箕輪小学校」の正門脇にも、史跡看板が建ちました。



「龍潜淵虎籠窟」(りょうせんえん・ころうくつ)の掲額がこれです。


この掲額の元になった「龍潜淵」という額があると書いてあるので、見たいという気持ちがムクムクと湧き起こり、抑えられなくなっちゃいました。
小学校へお電話したら、その額はいま校長室にあるということなので、「見せて頂くことはできますか?」とお聞きすると即座に快諾を頂き、お邪魔して写真を撮らせてもらいました。

これです。

漆喰の鏝絵のようなつくりです。

「箕郷町誌」を見ると、「龍潜淵」の額が旧校舎のどこに掲げられていたのかが分かります。



「箕輪小学校」は、いま新校舎建設に向けて工事中です。
こんな素晴らしい木造校舎に変わるそうです。


新しい校舎からも、きっとたくさんの優れたが生まれてくることでしょう。


【箕輪小学校】


  


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