2018年09月16日

史跡看板散歩-109 頌徳三碑

吉井町多胡小学校のすぐ北、セイタカアワダチソウの向こうに「頌徳三碑」はあります。


草がなければ、こうらしいです。


ただ、石灯籠は今建ってません。
もしかすると、小学校の通学路なので、子どもが登ったりすると危険だから、かも知れませんね。

史跡看板ですが・・・。


そうですか、としか言いようがないのですが・・・。
三碑です↓


上毛新聞社発行の「群馬県人名事典」を見ると、向井周彌は、
県会議員時代、活発な言論と関羽髯の風貌で鬼将軍と言われた。
与志井銀行甘楽社監査役、帝国農会、地方森林会評議員など産業の改良増産に尽くした。」
と書いてあります。

江原文作については、
甘楽用水、三名川貯水池の建設、十国峠改修、多胡橋架設など公共事業に尽くした。
豪放果断の気質で愛郷の至情にあふれ、皆からの信望を集めていた。」

大澤良太郎については載ってなくて、長男・要八が載っています。
昭和二十一年まで教職を続け、のち多胡村助役、村長、教育長を歴任。
円満高潔な人格者で、子弟教育と教育諸条件の整備改善に情熱を捧げる。」

そんな要八を育てた父・良太郎については、「吉井町誌」に書かれていました。
性温良恭倹(きょうけん:人に対しては恭しく、自分自身は慎み深く)で、人に教えるに春風の如く、世に聞達(ぶんたつ:名が知れわたる)を求めず、愛郷心に富んだ・・・」

  鬼も居り 仏も居りて 泡立草   迷道院

石灯籠があった場所には、こんな石が無造作に置いてありました。


大きな兎が、猫のお尻をかじろうとしてて、それを犬がじっと見ているような・・・。
見えません?


【頌徳三碑】



前の記事へ<< >>次の記事へ
  


2018年09月09日

史跡看板散歩-108 辛科神社禊殿

吉井町神保を流れる大沢川に、「城橋」という橋が架かっています。


「辛科神社」を守護した豪族・神保氏の「植松城」があったので、「城橋」なんでしょう。


その橋の袂に、どういう訳か頂部が雨だれにでも穿たれたような道しるべが建っています。


「左辛科神社」と刻まれています。
「辛科神社」はここから西へ直線距離で1kmほどです。

「城橋」を渡ると道は右にカーブしますが、その正面の石垣の上に建っているのが「辛科神社禊殿(みそぎでん)」です。


一見、民家か集会所のように見えますが、軒下を見るとこんな彫り物があります。


史跡看板には、「辛科神社」から「禊殿」まで「茅の輪」を送る神事のことが書かれています。


「茅の輪神事」が行われるのは7月31日だということで、残念なことに今年はもう終わってます。

どこかに写真でもないかと探してみたら、「吉井町誌」に載ってました。


よくある「茅の輪くぐり」というのは、鳥居とか境内に茅の輪を立てておいて、参拝者が輪の中を潜るというものですが、「辛科神社」のはちょっと違うようです。

「吉井町誌」には、このように書かれています。
みそぎまつり、別称を「茅の輪の神事」といい、太陽暦前は六月三十日であったが現在は七月三十一日夜執行されている。
直径六尺(約1.8m)の「茅の輪」を神主が奉持して「かけながす大山本の五十鈴川、八百万代の罪は残らじ」と神歌を唱えつつ沿道の男女を輪くぐりさせて、その年の疾病災厄をはらい去る神事で、神輿の渡御とともに辛科神社を出発いたし、二粁東方の大沢川に至り、茅の輪を流し去る夏の夜の神事として古くより行われている。」

来年はぜひ行ってみたいなぁと思いました。


【辛科神社禊殿】


【辛科神社】



  


2018年09月02日

史跡看板散歩-107 弥勒寺の応処斎

吉井町穴岡「弥勒寺」に、横尾応処斎の作品はあるのでしょうか。
「弥勒寺」のHPを見てみましたが、応処斎のことはまったく書かれていませんでしたので、電話をかけてお聞きしてみました。

すると、「銘はないのだが応処斎の作品だと言われている掛け軸があって、お盆の時期だけ本堂に掛けます。」ということでした。
そこで、その日を待って行ってみました。

「弥勒寺」は、「応処斎墓碑」から西へ直線距離で1.2kmの所にあります。


参道をずーっと進んだ一番奥に、がっしりした造りの山門が南向きに建っています。


山門を潜って振り向くと、お寺の説明板。


きれいな芝地には、お寺の名前にふさわしく「弥勒菩薩」のブロンズ像があります。


立派な鐘楼の先に、本堂があります。



奥様のご案内で本堂に上げて頂くと、左右にぜんぶで十幅の軸が掛かっていました。



どうやら、亡者が地獄の十王に審判を受けている様子を描いたもののようです。
一見、新しそうに見えますが、つい最近表装をし直したんだそうで、明治期に寄贈した檀家数人の名前が絵の裏に書かれていたということです。

応処斎の銘はありませんでしたが、きっとそうなのでしょう。
これでやっと気が済みました。

まったく知らなかった「横尾応処斎渕臨」、この後どこかでその作品に出合えるかもしれません。
その時を楽しみにしています。


【弥勒寺】



  


2018年08月26日

史跡看板散歩-106 仁叟寺の応処斎

吉井郷土資料館で得た情報から、「穂積神社」近くの直売所のご主人・横尾さんにお会いすることができました。

五代前のご先祖が応処斎で、ご自宅には作品や門人帳などが残っているそうです。
いきなり見せてほしいとも言えなかったのですが、応処斎の作品は神保「仁叟寺」と、穴岡「弥勒寺」にもあるよと教えて頂いたので、まずはそちらを調べてみることにしました。

「仁叟寺」のHPを見ると、たしかに応処斎による天井絵が開山堂鐘楼に施されているとあります。


行ってみると、立派な山門の左奥に鐘楼があります。


雨には直接あたらないものの、風や紫外線の影響でしょう、けっこう褪色しています。


もうひとつの開山堂は、本堂から続く建物で、外から天井絵を見ることはできません。


不躾ではありましたがチャイムを押して奥様に訳をお話しすると、法要が始まる直前であったにもかかわらず、堂内に入れて頂くことができました。

見事な天井絵、しかも絵柄も色もくっきりしていました。


慶応三年(1867)に奉納されたもので、110枚あるそうです。
因みに、鐘楼の天井絵は25枚、嘉永六年(1853)のお釈迦様降誕会の際に納められたものだそうです。

応処斎の銘の入った一枚もあるというのですが、時間がなくてそれを見つけることはできませんでした。
ですが、やっと応処斎に近づけた気がして、少し気分がよくなりました。

そして情報を頂いたもう一か所、「弥勒寺」へも行ってみたいという気持ちが強くなりました。
そのお話は、次回ということに。


【仁叟寺】



  


2018年08月19日

史跡看板散歩-105 辛科神社

前回の続きで、応処斎渕臨(おうしょさい・えんりん)の奉納額があるという、吉井町神保「辛科(からしな)神社」へ行ってみました。

鳥居の左側に史跡看板が建っています。



立派な随神門があります。


ここの随神は珍しくて、狛犬のような金属製の神獣が門番をしています。
右側の神獣の上に板絵がありますが、これが応処斎の奉納額なんでしょうか。


奉納額は左側にもあります。


裏側にもあります。


さらに、社殿の右側面にもあるんですが、これは相当褪色しています。


これらのどれかが、あるいはすべてが応処斎の作なのでしょうが、いずれのものにも銘がありません。

宮司さんは、「随神門裏側のは間違いないと思うが・・・。」と仰るのですが。
うーん、ここでもまた応処斎に近づいたような気がしません。

帰宅して、ネットで応処斎を検索してみましたが、何もヒットしません。
ただ、画像検索でヒットしたものが一枚ありました。
現在リンクが切れてしまっていますが、たしかに「應處齋淵臨筆」と銘が入っています。


弟子が280余人もいたという絵師なのに、残っている作品はこんなもんなんでしょうか。
ここで分からなければもう諦めようかと思いながら吉井郷土資料館へ行くと、これがいい情報をつかむことができたんです。

応処斎のご子孫が、「穂積神社」の近くで直売所をやっているというのです。
これは行かない訳にいかないでしょう。

次回に続きます。


【辛科神社】



  


2018年08月12日

史跡看板散歩-104 横尾応処斎渕臨の墓碑

「横尾応処斎渕臨」って?
と思いつつ、その史跡看板があるという吉井町片山へ行ってみました。

国道254バイパスの西吉井駅入口交差点を北に780mほど、もうこの先は行き止まりという所まで行くと、前方にお堂らしきものが見えます。


ここが横尾家の墓地で、入口正面に墓碑、その脇に史跡看板が建っています。



まず、何て読むんだ・・・でしょ?
「よこお・おうしょさい・えんりん」でよさそうです。
墓碑には、「應處齋教道淵臨」と旧字で刻まれています。
狩野派の絵師で、書家でもあったんですね。

墓地入り口にずらりと並んだ右から二番目の庚申塔の文字が、井池堂こと応処斎の書だそうです。


奉納額があるという「穂積神社」は、「横尾墓地」から南へ直線距離で850m。
すぐ近くなので、行って見ました。


すっかり赤錆びた看板にも、「村の逸材応処斉渕臨に依る横尾要次郎舞う式三番の奉額がある」と書かれています。


社殿を一回りしてみると、南側にすっかり退色しきった絵馬額がひとつありましたが、これなんでしょうか・・・。


吉井町郷土資料館発行の「吉井の史跡・文化財めぐり」に、
拝殿南側に横尾応処斎が慶応三年(1867)に描いた神楽舞の額が掲げてある。」
と書いてあるところをみると、どうやらこれらしいです。
何とも残念なことです。

錆びた看板に「当社(穂積神社)はこの地にあった火蛇(かじゃ)神社に・・・」と書いてあります。
「吉井の史跡・文化財めぐり」によると、その神社があったので、この地は「火蛇森」と呼ばれていたようです。

「火蛇」は落雷が水霊の変化(へんげ)である蛇体になったもので、雷神の怒りを鎮めまた雨乞いを祈って祀ったのが「火蛇神社」だということです。
本殿の側壁に蛇体が描かれているそうです。

これですかね。
アクリルの波板に覆われててよく見えませんが、龍のことみたいです。


庚申塔と甲子塔があるという「弘福寺」へも行ってみました。


六地蔵の向こう側に、たしかに「井池堂」と刻まれている二つの塔が並んで建ってはいましたが・・・。


これだけでは何とも消化不良というか欲求不満というか、もやもやした気分なので、もう一か所看板に書かれていた「辛科神社」へも行ってみることにしました。

次回に続きます。


【横尾応処斎渕臨の墓碑】


【穂積神社】


【弘福寺】



  


2018年08月05日

史跡看板散歩-103 小棚薬師堂

吉井町小棚公民館から40mほど東へ行くと、吉井大橋から来る道に出ます。
そこから60mほど南へ行くと、右前方にお堂らしき屋根が見えてきます。


民家の塀に沿って小道を入ると、「小棚薬師堂」の前に出ます。



堂の中に祀られている薬師像の数の多さが、地域の人々の信仰の深さを物語っているように思います。


この辺りは、中世の時代「小棚城」というのがあったようで、現在もその輪郭を残しています。


鏑川に架かる「吉井大橋」から来る道を跨ぐ、「城裏橋」という名前の橋があります。


「吉井大橋」は昭和十四年(1939)の架橋で、その時に崖地を切り通して道ができたのでしょう。
「吉井大橋」ができるまでは、「城坂」(図の「城板」は誤り)を通って河原へ降り、「穴岡の渡し」を舟で渡ったということです。

図の一番下に「西城橋」というのがありますが、これは「二丈橋」でしょう。
「にじょう」「にしじょう」と見立てたのでしょうが、位置的にも城の西ではありません。
橋の高さが二丈=約6mということで「二丈橋」なのだと思います。


北西の一番奥まったところが「郭八幡」となっていますが、行ってみると石祠などが建っています。
石垣の一段高い所に、「八幡社」でも祀ってあったのでしょうか。


その東に、城主であったという布瀬川家の大きな建物が残っています。


その東は広い農地になっていて、「物見塚」と思しきちょっと高くなっているところが見えます。
この高さでは物見にはならないでしょうから、きっと昔はもっと高くて大きい古墳か何かだったのでしょう。


それにしても、吉井という所は古墳や城跡のなんと多い所でしょう。
古代からの重要な土地柄だったということが、よく分かります。


【小棚薬師堂】



  


2018年07月29日

史跡看板散歩-102 八王子神社

吉井小学校北側の道を吉井西中学校に向かって400mほど行くと、右に「魚健」左に「花広場」のある小さな交差点があります。


その交差点を左(南)へ入って50mほど行った所に、「八王子神社」が祀られています。



「八王子」とは、「天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)が誓約(うけい)した時に生まれた五男神と宗像三女神」のことと看板に書かれていますが、もう少し説明を加えましょう。

黄泉の国から逃げ帰ってきた「伊弉諾神」(イザナギノミコト)は、穢れた身体を清めるために禊(みそぎ)をします。
その時、左目から生まれたのが「天照大神」、右目から生まれたのが「月夜見尊」(ツクヨミノミコト)、鼻から生まれたのが「素戔嗚尊」です。

イザナギは、アマテラスに天を、ツクヨミに海を、スサノオに地を治めるように命じます。
ところがスサノオはそれを嫌がり、母・イザナミの居る「根の国」へ行きたいと大声で泣きわめきます。

「どこへでも行ってしまえ!」と追い払われたスサノオは、高天原のアマテラスに別れの挨拶に行きますが、アマテラスは自分の国を奪いに来たに違いないと考え、戦闘準備をして迎えます。

そこでスサノオアマテラスに、そんな異心はないという誓約(うけい)を交わす訳です。
その証として「もし私が女神を生んだら異心があり、男神を生んだら異心はない」と。

スサノオが、アマテラスの身に着けていた玉を噛み砕いて吹き出すと、五柱の男神が生まれました。
アマテラスも、スサノオが腰に帯びていた剣を噛み砕いて吹き出すと、三柱の女神が生まれたので、スサノオへの疑いを解いた。
・・・という話です。(異なる説話もあり)

八王子つまり八柱の神は八方の方位を司るとして、疫病や災厄が村に入って来るのを防ぐ「塞の神」(さいのかみ)として信仰されたようですが、この地域では失せ物を探し出す力も高かったんですね。

さて、吉井町にはいたる所に城館跡があるのですが、ここにも「塩川の砦」というのがあったようです。


「中世吉井の城館跡」によれば、「軍事的に見て平地にあり、わずかな崖端を利用して構築した城であり、居館の趣が強い。」とありますが、「塩川城は全壊しており、城跡にかかわる遺構を発見することは困難である。」ということです。
永禄六年(1563)の武田信玄侵攻に対し、塩川城主・菅沼大善之孝は激しく抵抗したが落城した、と「箕輪軍記」に記されているようです。

図の中央、「平館」とある所には、いま黒澤家の立派な屋敷が建っています。


もっと気になったのが、左上にある「玉子湯」です。
黒澤家の相向いの方にお聞きしてみると、子どもの頃はよく行ってたよ、と仰います。
もうだいぶ前から営業してないけど、建物はまだ残っているといいます。

行ってみると、何となくこれかなぁという建物がありました。


今は空き家になっているらしく、しばらく建物の周りをウロウロしていると、怪しい奴と思われたのでしょう、隣の家の方が出てきました。
いや、実は・・・と訳を話すと、たしかにこの建物が「玉子湯」だと教えて下さいました。

それどころか、この方、「玉子湯」オーナーのお孫さんだったんです。
いや、これは大変失礼しましたとお詫びをしましたが、そのあと、いろいろとお話を伺うことができました。

お話によると、この建物の一階に見える所は実は二階で、その下に川に面した一階部分があるんだそうです。
川の対岸から撮ってみましたが、木に覆われていてよく分かりません。


この建物は湯客のための休憩棟で、浴場は現在住居になっている所にあり、渡り廊下で浴場と休憩所を行き来してたそうです。
川から汲み上げた鉱泉は休憩棟内のボイラーで加熱し、パイプで浴場へ送っていたとか。


不思議なことに、ここの鉱泉は塩分を含んでいたそうで、きっとツルツルの玉子肌になるので「玉子湯」だったのでしょう。
40年ほど前に営業を終え、いまは鉱泉も枯れてしまっているそうです。

そういえば、ここの地名は「塩川」でした。
それに、「玉子」は、「王子」によく似ています。

「八王子神社」「玉子湯」「塩川」と、なんだか三題噺の趣きが・・・。
はい、お後がよろしいようで。


【八王子神社】


【玉子湯跡】



  


2018年07月22日

史跡看板散歩-101 長根神社

国道254号、吉井町長根「西部コミュニティセンター入口」という長い名前の信号を左(南)に入ります。


曲がって170mほど行くと右側に「長根神社」があり、鳥居を潜った左に史跡看板が建っています。



看板に書かれている「獅子舞」については、高崎市のHPにもう少し詳しく書かれています。


社殿は、127段の石段を上った高台にあります。


「境内地は長根城跡の一部で・・・」と看板にある通り、神社は「長根城」の北東の方角、つまり鬼門に位置します。


神社の裏には、見るからに土塁と思しきものが続き、


その土塁が切れた所を入ってみると、


「本丸」跡が広がり、奥の方に「殿様の墓」が見えます。


道なりに進むと、図でいう「横宿」「光円寺」、現在「上の場公民館」の前に出ます。


公民館の前には、六地蔵と何やら東屋のようなのが建っています。
そこに、こんな看板が掛かってました。


つい、右上から縦に読みたくなってしまいますが、左上から横に読んでください。
これで見ると、六地蔵は「光円寺」というお寺の名残り、東屋のようなのは「不動堂」の堂宇だったのかなぁ、と思います。

公民館のすぐ左に、「長根城本丸跡」という石柱と、説明板が建っています。



この道の奥に「殿様(小河原家)の墓」があります。
墓地には、古い石祠や墓石、板碑がたくさん残っています。


「長根城」の図を見ていて気になって仕方なかったのが、右下に書かれている「たもと観音」です。
橋のたもとにでもある観音さまなんでしょうか。

探していると、ちょうどアジサイの剪定をしている方がいたので、「この辺に、たもと観音というのがありますか?」と聞くと、「このすぐ下だよ。右に下りる道があるだろ。」と教えて下さいました。


けもの道のような坂の先にお堂のような建物が見えます。


行ってみると、「元三大師」という扁額が掛かっていて、これではなさそうです。
左手前に折れる石段の先には立派なお堂があって、境内のあちこちに石仏が建っています。
そのどれかが、「たもと観音」なのかなぁ・・・。


と思ったら、このお堂がそうでした。


ただ、肝心の「袂観音」の由来が書いてありません。
「上野国志」にあるから、それを見ろという訳です。

しかたなく「上野国志」を見てみると、たしかに多胡郡の項に「袂之観世音菩薩縁起」という記述がありました。

毛呂權蔵著「上野国志」(明治43年発行)より

ただ、すべて漢文で、素養を持ち合わせない迷道院には読み下しができません。
どなたか漢文にお強い方、ご教示頂けたら幸いです。

ま、字面から推測すると、大体こんなことが書かれてるんじゃないかと思います。(間違ってたらごめんなさい。)
法界の数多くの衆生を救おうと、大和の国の機が熟したのを見て、千手観音菩薩は本邦の至る所に聖閣を設けた。
当寺の本尊は行基大士が彫った千手千眼観音で、その妙なるお姿と威厳は四方の人々から信仰された。
堂宇は飛騨の匠により造営されてから数百年数十世になる。

法灯が灯されたのは一千年の昔、信州伊奈郡の伊藤長者の娘の話に始まる。
その娘は玉のように艶やかで、花のように美しく、父母親族の深く厚い愛情を受けて育った。
しかし、この娘は幼い頃から仏を崇敬し、長じてくると出家をしたいと言い出して、父母の制止の言葉も聞こうともしなくなった。

娘が十七歳になった時、父母は強引に結婚をさせようとするが、娘はその日のうちに家を出て行ってしまう。
驚いた父母は親族とともに後を追い、多胡郡長根村大悲閣の近くでようやく娘に追いつき、なおも逃げようとする娘の袂を捕らえて引っ張ったところ、袂は千切れてしまった。
千切れた袂が寺の窓から堂内に入ったと見るや、娘の姿が見えなくなってしまった。
堂内には、ただ千手観音の尊像があるだけだった。
人々は大変不思議がって、それ以後、袂之観世音と呼ぶようになった。」

失礼をして堂内を覗いてみると、千手観音像の前に白い布が巻き付けてあります。
もしかすると、これが千切れた「袂」


因みに、ここ「常行院」は、樹齢600年と言われる「ラカンマキ」があることでも有名です。


大変長い記事になってしまいましたが、なかなか奥深い歴史スポットでした。


【長根神社】


【長根城本丸跡】


【袂観音】



  


2018年07月15日

史跡看板散歩-100 奥平城跡

場所の説明が難しいのですが、多胡橋北詰の岩崎の信号を富岡方面へ右折して2.7km、岩平小学校を過ぎたら上奥平方面へ右折します。

そこから250mほど行くと、左側にポツンと史跡看板が建っています。
後ろのこんもりした所が「奥平城跡」です。



看板から70mほど行くと、「奥平城跡」の入り口です。


道の草は払われているんですが、奥へ行くとすっかり竹林になってしまっていて、城跡らしき姿はわかりません。


「中世吉井の城館跡」に載っている図で見ると、大手を上って来て、八幡社付近で佇んでいるようです。


「申田川」(さるたがわ)越しに、武家屋敷があったという「九台」(くだい)が望めます。


南側の「桜沢」も深い谷になっていて、敵は容易に登れそうにありませんが、すぐ近くにある「ゴルフ城」から飛び道具を使って玉を撃ち込んでくるようです。


「九台」の集落への入り口に、「史蹟奥平公廟所」の石柱が建っています。


「奥平城」の主・奥平氏は、看板に「十四世紀の末に三河国に移った」と書いてありますが、「中世吉井の城館跡」には、
天授年間(1375~80)三河国作手(つくで)に移った。
その後もこの地に奥平氏は残ったが、永禄六年(1563)武田軍の攻撃を受け落城した。」
とあります。

集落入り口から150mほど上って右へ曲がり、さらに30mほど行くと墓地があります。
そこに、「奥平家発祥之地」という大きな石碑が建っています。


隣に、「奥平氏開基 仁叟寺跡地碑」という標柱が建っていますが、現在吉井町神保にある「仁叟寺(じんそうじ)」のことで、同寺の開基は応永年間(1394~1427)と言いますから、この地に残ったという奥平氏が開基したのでしょう。
因みに「公田院仁叟寺」「公田」は、「九台」のことらしいです。

一方、三河に移って命脈を保ってきた奥平氏は、天正三年(1575)の長篠の合戦に於いて目覚しい武功を上げ、一気に家運を上げます。
長篠合戦の功により(奥平)信昌は上野国宮崎へ三万石を以て封ぜられ、次男家治は長根、四男忠明は小幡を与えられ松平を姓として故地に錦を飾った。
以後十万石の大名として系を伝えて現在まで二十六代、大分県中津城内に居住する。」
(中世吉井の城郭跡)

ご近所の方のお話では、今もご子孫の方が墓参に見えるそうです。

人と土地それぞれに歴史あり。
すごいことだなぁ。


【奥平城の史跡看板】


【奥平家発祥之地碑】



  


2018年07月08日

史跡看板散歩-99 天久沢観音堂

吉井インター直近の「牛伏山自然公園」入口に、「天久沢(あまくざわ)観音堂」の史跡看板が建っています。



「天久沢観音堂」は、ここから直線距離で400m、道のりでは800mも離れた所にありますので、現在地から観音堂までの略地図が描いてあります。
ぜひ行ってほしいという、地元の方々の気持ちがよく伝わってきます。

ただ欲を言えば、略図の向きを左に90度回転させると図と現地の方向が合うので、より分かり易くなったと思います。
ついでに言えば、案内ルート(赤線)が上信越自動車道の下を潜ってるように描かれてますが、実際は上を跨いでいますので、何かの折に修正して頂けたらと思います。
すみません、部外者がつべこべと。

その上信越自動車道を跨ぐ橋を渡ると、小高い丘の中腹に「天久沢公園」の看板が見えてきます。


駐車場に車を止めて、けっこうな鉄製の階段を上ると・・・、


なかなか、いい眺めです。


そりゃ眺めもいいはずで、武田信玄がここに陣を構えたというんですから。
実は、桜の季節も静かでいい穴場なんですよ。

(2006年4月撮影)

回廊状になってる桜の並木道から石段を上ると、「天久沢観音堂」があります。



昭和五十九年(1984)に改修された堂には、平成元年(1989)美しい天井絵と欄間絵が施されました。


観音堂の脇に、詳しい由来を書いた看板が建っています。


看板表題の「天久沢陣城」跡が、現在の「天久沢公園」です。


文中の「一郷山城」牛伏山に、



「新堀城」多比良(たひら)の普賢寺の所にあった砦です。


位置関係はこうなります。


それにしても、信玄はよくまあここまで出張ってきたものです。
「天久」という馬は、きっと天翔けるように速く走れたのでしょう。
馬に乗れる人はいいけど、ついてくる徒歩きの兵隊さんはさぞ大変だったでしょうね。

大変といえば、観音堂の正面にものすごく急な石段があります。

きっと昔はこれが参道だったんでしょう。

やめようかと思ったんですが、覚悟を決めて下りてみると、「牛伏大橋」の袂に出ました。


やれやれ、また上るしかありません。


162段ありました。
ふー。


【天久沢観音堂の史跡看板】


【天久沢観音堂】


【一郷山城跡】


【新堀城跡】



  


2018年07月01日

史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑

吉井町の東のはずれ、国道254号線の「黒熊」の信号を南へ入った所に、今回の史跡看板が建っています。


看板は、2つ並んで建っています。



「浅間(せんげん)神社」はここから南へ800m、「入野(いりの)碑」は南へ1kmの所にあると書かれています。

狭い上り坂をくねくねと「入野碑」の矢印看板に導かれながら進み、上信越自動車道の下を潜ると「浅間神社」があります。


歴史のありそうな石の鳥居を二つ潜って、石段を上ります。


社殿まで、107段ありました。


「浅間神社大綱」という、立派な石碑が建っています。


史跡看板より詳しく「浅間神社」へのことが刻まれていて、後半部分に「ゴルフ場開発に伴い、奥浅間にあった石殿を境内に移した」とあります。

これが、その石殿です。


「浅間神社大綱」碑の前を進んで境内を抜けると、「入野碑」への道があります。


うへーっという感じの上りです。


ふくらはぎがつりそうになる頃、「入野碑」に辿り着きます。





ふと足元を見ると、「ゴルフ」という無粋な標杭が埋もれてました。


平成三年(1991)発行の「中世吉井の城館跡」によると、この場所は「黒熊中城」「第二砦」で、「第一砦」「浅間神社」、かつて「石殿」があったという「奥浅間」「第三砦」で、物見台・狼煙(のろし)台として使われていたということです。


ところで、地名の「黒熊」が気になって仕方ありません。
山ですから、熊が生息していたんでしょうか。

昭和五十三年(1978)発行の「多野郡誌」を見ると、こう書いてあります。
大字黑熊村
天正年間ノ頃ハ黑駒ノ稱ヲ用ヒタリトイフ
或云(或いは言う)小幡未大夫(羊太夫)家臣黑駒太郎ノ居リシ處ナレハ採リテ以テ村名トナシタリト」

「羊太夫」の家臣に「黒駒太郎」という人がいた、という訳です。

へ~、と思って調べてみました。
羊太夫伝説を伝える書き物はいくつかあるようですが、「羊太夫栄枯記」「黒熊太郎」という人物が出てきます。

羊太夫が従者・小脛(こはぎ)の脇の羽を抜いてしまったために都へ参内することができなくなり、謀反を疑われて兵を差し向けられます。
その時、羊太夫の命を受けて敵陣視察に行ったのが、黒熊太郎です。
敵陣ノ間(ま)モ何程共(いかほどとも)知レサレハ、黒熊太郎政利ヲ召(めさ)レ、汝敵陣ニ至(いたり)テ、陣古屋(小屋)ノ様子、又者(は)道ノ交(まじわ)ヒ、何程乎(か)見テ参レト有ケレハ、畏(かしこま)リ奉リ候ト、一騎乗リヌケ、敵陣近ク成リケレハ、馬ヨリ飛下リ、忍ヒ足ニテ立回クリ・・・」

戦闘の場面にも登場します。
官軍ノ前備(まえぞなえ)、岡山平治兵衛ハ、諸勢ニ後(おく)レテ打ケルカ、臼井川(碓氷川?)ヘ颯(さ)ット乗リ込ミ、向ノ岸ヘ上ラントスル處(ところ)ヘ、黒熊太郎同ク馬ヲ乗リ込ミ、續テ岸ニテ追ッ付、後ロヨリ引組ンテ、兩馬カ間ニ落ルト等ク、押ヘテ首ヲ掻キ落ス・・・」

「黒熊」というだけあって、けっこう強者だったようですが、最後は討ち死にしてしまいます。

一族郎従が皆討ち死にしたのを見た羊太夫は、金色の蝶となって天引山の方へ舞ったと見えたが、突然鴟(とび)に変じて池村の方角へ飛び去ったそうな。
黒熊太郎は、村の名に残っていつまでもいつまでも村を守ったとさ。(迷道院の想作です)
おしまい。


【浅間神社と入野碑の史跡看板】


【浅間神社】


【入野碑】



  


2018年06月24日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(2)

「新町商工会館」「新町公民館」の建物の先にあるのが「堂場墓地」です。


「境野翁顕彰碑」は、墓地北の三差路にありました。
正確には、「境野清衛翁碑」でしたが。


養蚕技術の研究と伝習に生涯を尽くした人物のようです。


おどろきました。
墓地の北西角に「閻魔堂」があるんですが・・・、


その脇に、「神流川合戦戦歿者供養塔」というのが建ってるじゃありませんか。


その左側面には、
天正十年盛夏 滝川北条両軍六万数千 神流川ヲ中心ニ合戦ス 多数の戦歿将士ハ 茲ニ埋葬サルト伝ハル
当山四百二十年祭式典に嚴修スルニ当リ 供養塔一基建立シ回向ヲ呈ス
昭和三十九年四月二十一日 宝勝寺」
と刻んであります。
前回の「新町明治百年史」の記載とぴったし合うじゃありませんか。
再掲します。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

たしかに、ここ「堂場墓地」の所なら、塚を崩した土で道を補修したという「泉横丁」はすぐ近くです。


因みに、「宝勝寺」小判供養塔のあるお寺、「泉横丁」はその小判が発見されたところです。

それにしても、「首塚八幡宮」近くの字「堂場」から遠く離れたこの墓地が、なぜ同じ「堂場」なんでしょう。
「閻魔堂のある場所」「堂場」なんでしょうか。
ということは、「字堂場」にも何らかの「お堂」があったんでしょうか。
それとも、首を失った「胴」が散らばっていた「胴場」なんでしょうか。
うーん、わからん。

さて一方、「首塚八幡宮」のある「実見塚」からは、どうも骨は見つかってなさそうです。
新町10区実見塚地内にある塚は、昔から神流川合戦の首塚と伝えられている。
塚の上に古い石のほこらがあるも文字等の刻まれた形跡はない。
昔は塚の上に老松あり、塚の高さも2丈近く(6m余)あったので、武州児玉町から塚の上にある老松が見渡せたと言われている。
明治、大正の頃、ひそかに塚を掘りかえし、刀剣類を捜す人達があって、塚がくずれ、現在は低い。
昭和37年(1962)建碑当時は、塚とは名ばかりで台地となっていた。
塚一面に雑木、雑草がおい茂るヂャングルであった。
それでもこのほこらに願かける人もあって、草むらをかき分け、参拝に見えられた跡がある。首から上の病には祈願すれば効験があると言われている。
建碑の有志の方々が、このヂャングルの雑木、雑草を除き、かやの古木(相当年数を経過したもの)1本を残し、合戦の由来を刻した首塚跡と首塚八幡宮の石碑2基の建設に奉仕した。」
(新町明治百年史)

ここ、本当に「首塚」だったんでしょうか?


ま、その昔、数人の支配者の野望によって、将兵、軍馬、それに巻き込まれた住民が、この一帯で多くの命を落としたことは事実なのでしょう。

最後に、神流川合戦の顛末をうまくまとめてある、「胴塚稲荷古墳」の説明板をどうぞ。



【神流川合戦戦没者供養塔】


【境野清衛翁碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年06月17日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(1)

新町の南端と言っていいでしょう、藤岡に近い字「実見塚」(じっけんづか)に、「首塚八幡宮」があります。



「実見塚」という字名は、看板にもあるように、神流川合戦で討ち取った者の「首実見」をし、それを埋めた「塚」があったという言い伝えからきているようです。

前からある史跡看板には、ここの西に「胴塚」もあると書いてあります。


行って見ると、民家と民家の間の路地の奥に、それらしい鳥居が見えます。


そこは藤岡市の指定史跡で、「胴塚稲荷古墳」となっています。


こちらの看板には、逆に「首塚」のことが書かれています。

ところがその「首塚」ですが、どうも首を埋めたのはここじゃなさそうなんです。
「新町明治百年史」に、こんな話が載っています。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

ということで、骨が出てきたのは「堂場」という所だそうなんです。


崩した塚があったのは「境野翁頌徳碑」あたりだというので、字「堂場」と思しき地域を歩き回ってみましたが、その碑が見つかりません。
「堂場郵便局」や、昔からやっていそうな店に飛び込んで聞いてみましたが、そんな碑は見たことがないと言います。

新町支所へも行ってお尋ねしましたが、初めて聞く話だということです。
それでも、調べてみて分かったら連絡を頂けるというので、名刺を渡しておきました。
すると1時間ほどして電話があり、「碑のある場所が分かった。」というのです。

新町商工会の所に「堂場墓地」というのがあり、そこに「境野清衛」という人の碑が建っているということでした。
しかし、そこは字「堂場」から北へ直線距離で1kmも離れています。
「?」とは思いましたが、行って見ることにしました。

長くなりそうなので、次回へ続けます。


【首塚八幡宮】


【胴塚稲荷古墳】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年06月10日

史跡看板散歩-96 神流川合戦古戦場

新町の東端、「神流川橋」の袂に、「神流川合戦古戦場跡」の石碑やら、史跡看板やら、いろんなものが建っています。




これらが建っている場所は、小字名で「陣馬」と呼ばれ、滝川方が陣を構えた場所と伝えられています。
その場所にいま自衛隊が陣を構えているというのも、なにやら面白いことです。


その対岸の小字「勝場」北条方が勝鬨を上げたところ、本庄の小字「御陣馬」北条方が陣を構えたところと伝わるなど、神流川合戦に由来するとされる字名が残っています。

「新町七区の諏訪神社」に出てくる「毘沙吐村」は、まさに主戦場であったに違いありません。
「神流川合戦」の看板に書かれている「東歌」(あずまうた)について、「毘沙吐村」から移された「七区の諏訪神社」に説明看板が建っています。


お時間のある方は、動画でご覧ください。


次回は、北条方が滝川方の首実見を行ったという「首塚八幡宮」を訪ねてみます。


【神流川合戦古戦場史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:08
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年06月03日

史跡看板散歩-95 新町五区の諏訪神社

前回の「諏訪神社元宮」の場所から移設されたのが、五区にある「諏訪神社」です。


「元宮」の史跡看板は、ここに建てれば説明文そのままでよかったのにと思います。


旧中山道沿いの一の鳥居から参道を50mほど進むと、境内に入ります。


二の鳥居を潜って直角に曲がると神殿があるような配置になってますが、これについては、こんな話があります。
伝えによると中山道の南側に小千木良と呼ばれた旧家が北向きに参道の直前にあった。
笛木村からこの神社が遷座される際、神殿と向きあう形になるので、不敬に当たらぬようにと神社を東向きにしたのだという。」
(新町の神社と寺院)

拝殿前に、石造りの立派な由来碑が建っています。


最後の段に、明治三十九年(1906)の社殿全焼のことが刻まれていますが、日露戦争大勝祝賀会の神社の提燈が火元だったそうです。(新町の神社と寺院)

昭和十年(1935)に再建された本殿には、素晴らしい彫刻が施されています。



花咲か爺にしちゃ変だな、と思いつつ他の二面を見ると・・・、

楠木正成新田義貞だったので、児島高徳だと分かりました。
「太平記」がモチーフだったんですね。

境内の一番奥へ行って見ると、こんなのがありました。


洪水で埋まっちゃったのかと思いましたが、そうじゃありませんでした。


後ろ側に埋まっているのが、昔の「二の鳥居」、こんな風に建っていました。


手前に埋まってるのが、昔「一の鳥居」です。


新町「残す文化」を代表するような鳥居ですね。
すばらしい!


【五区諏訪神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
Comments(6)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年05月27日

史跡看板散歩-94 新町宿諏訪神社元宮

新町駅の線路向こうにある「諏訪神社元宮」


史跡看板は、2つ建っています。
ほほーと思ったのは、この看板が敷地に対してちょっと斜めに建っていることでした。
つまり看板の面が道の方向を向くようにしてあるんです。
新町らしい、細やかな気遣いだなと思いました。




ただ、この「諏訪神社元宮」の看板、後半の説明文については、ちょっと残念に思います。
「新町町誌」にある「諏訪神社(五区)」についての説明文をそのまま使ってしまったので、「元宮」の地で読むとこんがらがっちゃいます。

こんな風に書き換えるとよかったんじゃないでしょうか。
元宮の石祠があるここ小字本屋敷には、旧笛木村の鎮守諏訪神社が建っていました。
承応三年(1654)落合村と笛木村が合併して新町宿になった時、諏訪神社は街道の北に移されました。
現在5区にある諏訪神社です。
元あった場所には石祠を祀り、これを元宮としました。」

字図に両社の位置を書き込むと、こんな感じになります。


ところで、「元宮」の隣の建物なんですが、すごく素敵だと思いませんか。


「岡崎醤油株式会社」の建物です。

倉庫か物置として使ってるのかなと思って窓から覗くと、人の姿が見えます。
目が合ってしまったので、一応会釈をしてすぐ離れたのですが、どうにも好奇心が抑えられません。
しばらく外でウロウロしてましたが、意を決して、木製のドアをガタン!と押して中へ入りました。

瞬間、小津安二郎の映画の中に飛び込んでしまったような感覚でした。
事務所の中の趣きも、振り向いた若い女性の清楚で美しい顔だちも、まるで映画のワンシーンのようでした。

会社のパンフレットがあれば頂きたかったのですが、パンフレットはないけどもと、A4一枚にまとめた会社概要をコピーしてくれました。

パンフレットに書いてある会社の歴史は、
 創業 1751年(宝暦元年)8月 群馬県新田郡
 移転 1923年(大正12年)5月 群馬県多野郡新町
とあるだけでした。

もっと詳しく知りたくなったので、調べてみました。
(「新町町史」、「近江日野の歴史第七巻」)

創業者は蒲生郡内池村(現滋賀県日野町)の岡崎傳左衛門という、いわゆる近江商人です。
宝永元年(1704)上州新田郡本町村(藪塚本町)に、「近江屋」という名前で酒造業を始めます。
宝暦元年(1751)に醤油・味噌の醸造も始めたので、「岡崎醤油」としてはこの年を創業年としたのでしょう。

文化十四年(1817)に、藤岡上町(現藤岡市)の近江商人小沢武右衛門から店と蔵を譲り受け、「近江屋孫九郎」という店を開きます。
大正三年(1914)に「近江屋」「岡崎商店」と改称、大正十二年(1923)新町に新工場を建設して藤岡から移転し、藪塚にあった本店も新町に移します。

ということで、この素敵な建物は大正十二年当時のものだそうです。
いつまでも使い続け、残していってほしいと切に思います。

「岡崎醤油」の建物があまりにも素敵だったので、つい「諏訪神社」の話が雑になってしまいました。
次回は、「元宮」の引っ越し先、5区の「諏訪神社」の話をしたいと思います。


【諏訪神社元宮】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:00
Comments(4)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年05月20日

史跡看板散歩-93 新町七区の諏訪神社

上武大学の東にある「諏訪神社」です。


ここには、史跡看板が2つ建てられています。



どちらの看板にも、「毘沙吐村」(びさどむら/びしゃどむら)という地名が出てきます。

変わった地名ですが、韮塚一三郎氏著「埼玉県地名誌 名義の研究」によると、
ビシャトのビシャは歩射(ブシャ)の転訛で、村の社の春祭りに歩射を行なったためにおこった。
なおビシャトのトは処の意である。
なお、歩射田はビシャのための行事の共有田をいう」
ということです。

その「歩射」が分からなかったのですが、こういうものらしいです。
御歩射(オビシャ)
騎射(ウマユミ)に対して、歩射(徒弓/カチユミ)で的を射る行事。
関東地方東部の神社で主に年頭に行われていた悪魔をはらい豊作を祈る農村行事。
弓で奉射的(ブシャマト)と呼ばれる大的を射て、当たった矢数でその年の天候や作物の出来具合を占った。 」
(ことばさあち)

「毘沙吐村」ですが、2つの看板に書かれていることを合わせると、「安政七年(1860)まで神流川の東、埼玉県上里町にあったが、弘化三年(1846)の大洪水で壊滅状態となり、神流川の西、新町下河原に村を移した。」ということです。

元禄十五年(1702)の絵図では、たしかに神流川の東に描かれています。


絵図で見る通り、烏川神流川の合流点に突き出しているような村で、まさに「歩射」によってその年の天候を占い、悪魔を祓わずにはいられない「処」だった訳です。

「毘沙吐村」が如何に川に翻弄されたか、「新町町誌」から、拾ってみましょう。
毘沙吐村は、古くは45町歩の耕地を所有していたが、年々の洪水による川欠け(土地流失)の連続によって、承応四年(1655)の検地帳によると、24町8反8畝24歩と約半分に減少していた。
その後の洪水によって17町歩の耕地を失い、さらに文政七年(1824)には畑2町6畝を洪水によって失い、この段階で耕地は5町2反2畝24歩と、(略)八分の一に減少している。
このような村柄に追い詰められた毘沙吐村は天保十三年(1842)には、次に掲げる隣接村々へ出作することになった。(略)
当時の村の耕地面積5町2反歩、出作面積22町3反歩余という極めて不均衡の所有形態であった・・・」

そこへ追い打ちをかけたのが、弘化三年(1846)の大洪水です。
この年の6月中旬から7月上旬にかけて大雨が降り続き、実に66%の土地が流失し、神流川に面した家25軒、烏川通りの家2軒が濁流に呑まれました。
その年の10月、村民は神流川対岸の笛木新町字下河原への全村移住を決意します。

笛木新町側との交渉や、代官への願書提出を経て、岩鼻陣屋から正式に移住許可が出たのは、嘉永元年(1848)のことでした。
そしてまず龍光寺諏訪神社を遷座し、新しい土地での平安な暮らしを祈ったのです。

しかし、全村民が移住するというのはそう簡単ではありません。
移住を逡巡する村民もいる中、安政三年(1856)またもや神流川の濁流が村を襲い、残っていた家の内4軒が流されます。
全村民の移住が完了したのは安政四年(1857)、実に9年の歳月が必要でした。

時は明治に変わり、行政区や税制が改められると、「毘沙吐村」にまた問題が持ち上がります。
上野国新町字下河原に移住しながら、武蔵国賀美郡毘沙吐村となっているのは名実に反し不都合であると、新町側からの合併話が出てきます。

毘沙吐村側では今まで通りにしたいと武蔵国の方に嘆願をしますが、新町側は明治九年(1876)から毎年のように県や郡に願書を出し続け、ついに明治十二年(1879)合併が決定します。

合併後は「川岸町」と改称され、「毘沙吐村」という地名は失ってしまうことになりました。
明治十八年(1885)の「二万分一迅速図」には、「旧毘沙吐村」と表記されています。


この歴史が、「諏訪神社」境内の「沿革之碑」(昭和十年/1935建立)に刻まれています。


新町へ移住した「毘沙吐村」はこうして消滅しましたが、実は「毘沙吐」という大字は、まだ埼玉県側に残っているんです。


現在だれも住んではいませんが、平成二十二年(2010)時点では2世帯あったらしいです。

平成22年(調査日 2010年10月1日)の国勢調査(総務省統計局)による

ということで、史跡看板の主題は「海老虹梁」「笠付庚申塔」なんですが、なぜか「毘沙吐村」の方がすごく気になった迷道院でした。


【新町七区の諏訪神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:10
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年05月13日

史跡看板散歩-92 柳茶屋の芭蕉句碑

新町宿の東の端にある「八坂神社」です。


その「八坂神社」の鳥居の横に、「芭蕉句碑」と史跡看板が建っています。



近くには、史跡看板は要らなかったんじゃないの?と思うくらいの、立派な説明看板が建っています。




双方の看板を見ると、芭蕉がこの場所にあったという「柳茶屋」に来て句を詠んだようにも思えちゃいますが、そうではないみたいです。

江戸時代の俳人・柏木素龍という人がまとめた句集「炭俵」に、芭蕉庵によく通っていた俳人たちと詠み交わした内の一句として載っています。
傘に 押わけみたる 柳かな

こんな意味だそうです。
春雨のしとしとと降る中を、傘をさして外出していると、道端に大きな柳の木があり、もう若芽がだいぶんふくらんで、道の方にまで枝が垂れている。
ほかの樹木の枝なら、傘が破れるので避けて通るところだが、柔らかそうな、しなやかな柳の枝なので、わざと開いたままの傘で、垂れている柳の枝を押し分けてみた。
傘の紙にふれる柳の小枝、はらはらと落ちる雨雫、まさに雨中の春の柳であることだ。
季語は〈柳〉で春。〈押わけみたる〉の〈みたる〉は、〈してみた〉の意で、〈押し分けて〉柳をつくづくと見たというのではあるまい。」
(「新編日本古典文学全集 松尾芭蕉集」小学館)

看板によると、「柳茶屋の芭蕉句碑」は寛政五年(1793)~天保五年(1834)に、「柳茶屋」のそばに建てられたとあります。

「中山道分間延絵図」では、「八坂神社」「天王」と表記されてます。
「延絵図」は、寛政十一年(1799)に実地検分されて、文化三年(1806)に完成されたというんですが、「柳茶屋」らしきものは見当たりません。


「芭蕉句碑」も、けっこう転々としたらしいです。
「新町明治百年史」に、こんなことが書かれています。
(芭蕉句碑の)建主の湛水は医者で小淵健夫氏の先祖、白水は笛木玄次郎氏先祖で共に郷土の俳人である。(略)
明治の末に藤岡市の浅見作兵衛翁が、行楽園の築庭をする時、神流川近い田野に倒れていた碑石を発見し、其の地主から譲りうけ、行楽園の林中に建てたのがこの句碑だ。
浅見翁歿後昭和26年、藤岡市、原歯科医院主・原徳人氏が譲りうけて、氏の庭園に移し、句会を催して愛蔵していた。
当町史編纂委員はこれを聞き、町の文化財として永久に新町で保存したい希望のところ、原氏はこの気持ちをよく理解されすすんで寄贈された。
(昭和29年/1954)地元有志の奉仕作業で八坂神社の境内中山道に面して建てられた。」

昭和四十二年(1967)八坂神社境内に児童遊園地が設けられたということで、面白いものが滑り台に這い上がってます。


感心したのは、社の前にポリ箱が置いてあって、その中に「八坂神社」の謂れを書いた説明文が入っていたことです。


なかなかやるもんです、新町


【柳茶屋の芭蕉句碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:30
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年05月06日

史跡看板散歩-91 新町宿高札場跡

「ハラダのラスク」発祥の中山道店の斜向かいに、同店の駐車場がありますが、そこに「高札場跡」の史跡看板が建っています。



看板に「高札場」の写真が載っていますが、これは新町宿のものではなさそうです。
たぶん、信州・追分宿のものだと思うのですが、注釈を付けておかないとまずいのではないでしょうか。

史跡看板が建てられる前にも、「高札場跡」を示す標柱は建っていたのですが、民家の敷地内でした。


その標柱もあたらしくなっていますが、前あった標柱には高札場の大きさが、
 高さ一丈二尺(約4m)
 長さ三間(約5.5m)
 巾一間(約2m)
と記載されています。
追分宿の高札場は、
 高さ九尺(約2.7m)
 長さ九尺(約2.7m)
 巾一間(約1.8m)
だそうですから、
新町宿のはけっこう大きかったんですね。

「中山道分間延絵図」に、新町宿「高札場」が描かれています。


「高札場」の左側(倉賀野側)が「落合新町」、右側(本庄側)が「笛木新町」です。

もともと、この両町は「落合村」「笛木村」という独立した村でしたが、慶安四年(1651)に両村が伝馬役を命ぜられて宿場として成立し、「新町」とか「新宿」とか呼ばれたようで、正式に「新町宿」となったのは元文年間(1736~41)だそうです。(日本歴史地名体系)

中山道の整備が終わったのは慶長九年(1604)頃と言われますから、「新町宿」はまさに「新しい宿場」ということになります。

その「新町」が、古き宿場の面影を残していて、街道歩きを楽しむ人の姿が絶えない町になっているのは、嬉しいことです。


【高札場跡】




  


Posted by 迷道院高崎at 07:34
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板