2021年04月11日

史跡看板散歩-224 弘法の石芋

下室田宮谷戸「諏訪神社」から、国道406号を渡って南へ入ります。



一面の田園風景の中を280mほど行って、右へ入ります。


少し行くと、宮谷戸の簡易水道施設があります。



そのフェンスに沿って進んで行くと、お堂の建つ一角に行きつきます。


小さいながらも形の良い立派なお堂で、扁額には「弘法大師」とあります。


史跡看板の標題は、「弘法の石芋」

なかなか面白い伝説です。

これと同じような話は日本各地にあるようで、「まんが日本昔ばなし」では、神奈川県(やどろぎ)に伝わる「お夏石」という話になっています。

「石芋」にした僧も各地まちまちで、上の動画では単に「旅の僧」ですし、埼玉県戸田の話では日蓮上人になっています。
ここ室田でも、「弘法の石芋」と言いながら、看板の文は「弘法大師(またはきっと弘法大師のような偉いお坊さん)」と、ちょっぴり及び腰です。

「室田町誌」には、その僧は寂然(じゃくぜん)律師だという説も。
なお承久年間(1219-21)寂然律師が諸国行脚の末、地蔵尊を背負って室田の地を訪ね、宮谷戸の地に草庵を結んで村人の病気を癒していました。
律師歿後律師の背負ってきた地蔵尊を本尊に小堂を建てましたが、後、草庵に近い真福寺に移し、真福寺が武田信玄鷹留城攻略の折、兵火に焼けてからは、再び小堂に安置し、その後現在地に移したそうです。
従って、石芋伝説の弘法大師は寂然律師のまちがいとも言われます。」

寂然律師唯心房寂然と号した歌人ですが、もともとは貴族で藤原頼業(よりなり)といい、従五位下壱岐守に任ぜられながらこれを辞退して出家したという人です。
出家後は京都大原に隠棲したとなっているんですが、その人が室田宮谷戸にねぇ。
さて、どうなんでしょう。

看板の冒頭、「堂には、弘法大師作と伝わる地蔵尊と、川からあげたという大師像が安置されている」と書かれています。
どれ、覗いてみましょう。

あれ?三体ありますよ。
どれがどれなんでしょう。

「榛名町誌民俗編」に、ヒントがありました。
室田地区には『室田二十一大師』といって、弘法大師の座像二十一体を二十一ヵ所の寺やお堂に祀り、それをお参りするとご利益があるという大師めぐりがあった。
これは、資料によれば『室田二十一大師、開山、権大僧都阿闍梨法印賢清、足門村徳正寺十九世住僧、文政十亥年三月三十日遷化、当所中町産』とあるところから、『室田二十一大師』を開いたのは足門の徳昌寺の十九世住職であった賢清ということがわかった。(略)
当所中町産とあるので、賢清は室田宿中町の生まれであることも判明した。(略)
これら寺院、堂宇などの中には、すでに廃寺になったものやお堂としての機能を失ったものなどがあり、二十一大師そのものの存在が確認できなくなってしまったものも少なくない。
それらの中で確認できた大師像は、座像で、すべて椅子に坐した同じ姿に造られている。」

ということですから、堂内の一番右端が「二十一大師」なんでしょう。
一番左端の線刻で描かれているのも弘法大師ですから、残る真ん中のが「弘法大師作と伝わる地蔵尊」ということになります。
さきの「室田町誌」の記述と併せると、寂然律師が背負ってきたという「地蔵尊」がこれなんでしょうか。
だとしたら、力持ちだったんですね、寂然律師って。

で、「石芋」ですが。
看板に「お堂東の堀に『弘法の石芋』という里芋が生えている」とあります。
これが、その堀かな?


葉っぱが無いので分かりにくいのですが、たしかに里芋のようなのがありました。

でも、なんか、普段見慣れている里芋とは違うような・・・。

「室田町誌」では、看板とちょっと違う書き方になっています。
堂の附近は湿地帯で、弘法の石芋とよぶ里芋に似た植物が群生しています。」
里芋なんでしょうか、里芋じゃないんでしょうか。

辞書で「石芋」を引くと、「不食芋」(くわずいも)というのも出てきます。
これが、食中毒までおこす、まさに食えない芋でした。

詳しくはこちらから

里芋を「不食芋」に変えられちゃったら、堪ったもんじゃないですね。
いやぁ、食い物の恨みってのは恐ろしいもんですなぁ。


【宮谷戸の弘法大師堂】


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Posted by 迷道院高崎at 07:53
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2021年04月04日

史跡看板散歩-223 下室田の諏訪神社

国道406号線の宮谷戸(みやがいと)バス停の北に、「諏訪神社」があります。


史跡看板は、鳥居の右に建っています。



元は「八幡宮」だったんですね。
「諏訪神社」の石段前をぐるっと右へ回ると石段があって、「八幡宮」の鳥居を潜って境内へ上ることもできます。



この八幡宮は、「上野国の守護安達九郎(安達藤九郎?)盛長が祀らせたと伝わっている」と看板にあります。

「大森神社」社記の中には、こう書いてあるそうです。
古書にいう、そもそも、ここに八幡宮の創立あるものは、往昔、建久六年(1195)の頃とかや、右大将源頼朝の三原に狩あるの途上、安らひ玉ひし地なるにより、管領藤九郎盛長の令に任せ、尊き鶴岡の宮の分霊を遷し祀れるものなり」
(榛名町誌民俗編)
安達盛長に祀らせたのは、源頼朝だったという訳です。
頼朝が三原の巻狩に出掛けたのは建久四年(1193)で、その帰リ道に室田を通って、ここで休憩したのでしょう。


その「八幡宮」の境内に「諏訪神社」を祀ったのは、武田信玄配下の内藤修理亮だと看板に書いてあります。



「室田町誌」には、こんなことも書いてあります。
武田、長野両氏の連年の攻防戦によって、社殿も戦災をうけたので、武田氏が、西上州を治めることになったとき、信玄は、報賽の心から、八幡宮の境内地に遷座し奉ったのが今の諏訪明神であるという。」

箕輪落城の永禄九年(1566)に「諏訪神社」の社家となったのが、弘治四年(1558)に備前から来て上州に住していた大澤内記藤原貞友でした。
その後、大澤家は代々「諏訪神社」に仕える家柄となります。

「諏訪神社」の東にある「宮谷戸住民センター」の脇に、「大澤呈延碑」という大きな石碑が建っています。


大澤呈延貞友の五世孫であると、碑に刻まれています。
呈延は文化八年(1811)生まれ、小笠原流礼式や関流の和算を習得し、三十歳頃「森下塾」という私塾を開きました。
弟子は近隣の子弟に限らず、安中、高崎、三ノ倉など広範にわたり、数千名に及んだといいます。
明治十五年(1882)七十二歳で歿し、明治四十四年(1911)子孫と門人達によって生家跡に建立されたのが、「大澤呈延碑」です。(榛名町誌通史編下)

看板の後半に、「現在諏訪の原という地名が残っていて、そこから遷座したのが今の諏訪神社だ」と書いてあります。
その「諏訪の原」下室田にあるのかと思ったのですが、なんと上里見にありました。


「榛名町誌通史編上」には、こんな記述があります。
『上野国郡村誌』群馬郡・碓氷郡によると、榛名町には本郷・三ツ子沢・十文字・下室田(二社)・上室田・下里見(二社)・中里見・上里見(二社)など十一社が見える。
これらのうち、下室田・上里見の諏訪神社については武田信玄の箕輪城攻略によって勧請されたという伝承を持つ。
諏訪を崇敬した信玄が支配地に諏訪神社を祀らせたことは否定できないが、それ以前から諏訪信仰が当地に広がっていた可能性は高い。
諏訪神は農業神であるとともに狩猟神・軍神であり、山地が多い榛名町域では狩猟民や武士団に信仰されたと考えられる。(略)
なお、十文字に諏訪原・諏訪谷、下里見に諏訪山、上里見に諏訪ノ原などの字名がみえ、これらは中世に遡る可能性が高い。」

長くなってしまいましたが最後に、「宮谷戸」(みやがいと)という字名についてです。
「谷戸」は、「がいと」「やと」などと呼ばれ、丘陵地や台地が湧き水や水の流れによって浸食され、浅い谷となって樹枝状に刻まれている地形のことだそうです。
たしかに、上空から見るとそういう地形です。

「宮」のある「谷戸」だから、「宮谷戸」なんですね。

因みに、下里見「郷見神社」があるのは「諏訪山」で、その近くにも「宮谷戸」という字があります。


いろいろ勉強になった、下室田宮谷戸「諏訪神社」でした。


【諏訪神社】

【大澤呈延碑】


  


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2021年03月28日

史跡看板散歩-222 大和田の化粧水(3)

「大和田の化粧水」の取水口を探しに、上室田町大和田へやって来ました。


「滑川」は、ここでは「大和田沢」と呼ばれているようです。


川べりへ下りてみると、「滑川」の本流から分かれている細い流れを見つけました。
あ、ここが「化粧水」の取水口かと、余りにもあっけない発見に、嬉しいような、物足らないような、ビミョーな気分です。


ところが、その流れを辿って行くと、また本流に戻ってしまいました。
ありゃ。


がっかりして川べりから上がってくると、なんと!段々畑の中腹から滾々(こんこん)と水が流れ出てるじゃありませんか。


そして、細い水路を勢いよく流れていくじゃありませんか。
水路は、ずーっと先まで続いています。


一度、地面の下へ潜りますが。



また出てきて、先の方まで流れていってます。


やがて水路は、「滑川」の河岸段丘のへりを進んで行きます。



水路の巾や水量、流れていく方向からして、これが「大和田の化粧水」と思って間違いないでしょう。
前回、下流側から辿ってきて見失ってしまった水路は、「滑川」に沿って来ていたんですね。

さて、そうなると、どうしても見つけたいのは「滑川」からの取水口です。
段々畑から出ていた水の位置からすると、取水口はもっと上流のようです。

「滑川」に架かる、名前のない橋の上流を探してみることにしました。


右岸を160mほど行くと、本流から分かれる細い水路がありました。

ただ、あまりにも頼りない程の細さで、違うかなぁという気持ちの方が強くなります。

擁壁に沿ったコンクリート製の細い水路を流れている水は、少し先でやはり本流に戻ってしまっています。


しかし、よーく見ると、右奥に暗渠の水路があって、水はそちらへも流れ込んでいます。


暗渠は、右岸の道の下を通っているようです。


おそらくこの後、水はずーっと暗渠の中を隠れ下って、段々畑の中腹でその姿を現すのでしょう。
そして、2km離れた「上の原」まで流れ下って行くわけです。

細い水路とはいえ土木機械もない時代、さぞや難工事だったことでしょう。

娘を思う父の愛情の深さと強さを実感できた、「大和田の化粧水」でした。


【大和田の化粧水 取水口】

【段々畑の化粧水出口】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2021年03月21日

史跡看板散歩-222 大和田の化粧水(2)

「大和田の化粧水」が、どこから、どういう経路で流れてきているのか、上流へ遡ってみました。


史跡看板が建っている所から、畑の中を抜けて。


道路を横切って、民家の横を通リ抜け。


梅林の中へ。


暗渠の中から流れてきています。


暗渠は、向こうの竹藪の方からつながっているようです。


竹藪の中を水路が走っているのは確認できますが、人が入っていくことはできません。


迂回して県道211号(安中-榛名湖線)に出ると、深い水路「追分沢」が道と並行しています。


ということは、「化粧水」は県道側には流れてないということか。
だったら、もう辿ることはできないじゃないか。
でも、ま、「化粧水」の水路だけでも見てみようと思って、杉林の中へ入って行きました。


すると、「追分沢」を跨ぐ橋のようなものが見えます。


おお!水が流れてる!
「懸樋」(かけひ)ってやつですね。

水は、竹藪の方に向かって流れています。
「大和田の化粧水」に違いありません。

その水は、金毘羅神社の脇から流れてきています。


さらに上流に遡ると再び藪の中へ消えますが、藪の先はここで、水は県道211号の下を潜って来ているようです。



県道の反対側の水路は、梅林の端を伸び伸びと走っています。


しかし、ここで水路はまたもや道路の下へ潜り込み、その姿を隠してしまいます。


道路の反対側に続く林の先には、「化粧水」を引いたという「滑川」が流れているんですが、標高的に相当下を流れているので、この先に「化粧水」の水路があるとは思えません。


ま、ここまで辿れたからいいか、と自分を慰めかけましたが、でもな、ともう一人の自分がブツブツ言っています。
そうだ、逆に「大和田」の取水口から下流に向けて辿ってみようか。

ということで、また次回に続きます。(引っ張るなぁ)


【「大和田の化粧水」史跡看板】

【金毘羅神社】

【県道211号横断地点】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:41
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2021年03月14日

史跡看板散歩-222 大和田の化粧水(1)

中室田「榛名荘病院」手前のカーブを、左に入ります。


100m先を右に。


50m先を左に。


そこから100mほど行った、民家へのアプローチ角に史跡看板が建っています。



アプローチの左側の溝が、看板による「この水路」

細い水路ながら、水は勢いよく流れてます。

看板に、この水路を「薬研堀」(やげんぼり)と呼ぶと書いてあります。
「薬研」というのは、薬草などをすり潰して粉にするのに使う道具で、その器は断面がV字形の狭い溝になっています。
「薬研堀」というのは、そのような形状をした堀の一般名称です。
現在のこの水路の形状は、U字形ですけど。

「大和田の化粧水」というから、看板の建っているここが「大和田」という地名だと思ったのですが、「大和田からの化粧水」ということなんですね。


「滑川」のどこから取水して、どういう流路でここまで来ているのか知りたかったのですが、地図上の水路はプツンと切れてしまっています。


こりゃ、水路を辿ってみるしかなさそうです。


ご報告は、次回ということに。


【「大和田の化粧水」史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:01
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2021年03月07日

史跡看板散歩-221 中室田の大沼大明神

前回の「おねがい地蔵尊」から北西へ道なりに900mほど行くと、右側に大きな「馬頭観世音」の碑が建っています。


そのすぐ先を右に入り、


真っ直ぐ270mほど行くと、丁字路に史跡看板が建っています。



「大沼大明神」とありますから大きな沼があるはずですが、見回してもそれらしいものはありません。
看板のすぐ左に水路があるので、たぶんこの先の山の中にあるのだろうと歩き始めました。


歩き始めてすぐ、右手にちょっと気になるフェンスがあります。


それを目指して杉林の中に入って行くと、


あっ、やっぱり。

でも、「大沼」という感じじゃないなぁ。
ここじゃないのか?

フェンスに沿ってもう少し行ってみると、思いの外大きな面積でした。
これなら「大沼」と呼んでもいいでしょう。

よく見ると、対岸に石碑のようなものが建っています。

これは対岸に行ってみるしかありません。
杉林の中をぐるーっと沼に沿って進み、石碑のある所に辿り着きました。


間違いありません。
沼に面する碑面には「大沼大明神」、碑背には「慶應三丁卯秊(1867)霜月吉辰 三村中」と刻まれています。

「三村」というのは、看板に書いてある「中室田町十二区(中井、藤田、坂爪)」のことでしょうか。

「天明元年(1781)の石宮」の方は、無残にも崩れてバラバラになっていました。

きっといつか、地域の人が復元してくれることでしょう。

ところで、「馬頭観世音」の先を右折する時、前方に気になるものがあったので戻ってみると、道しるべでした。

昭和三年(1928)に「江戸村実業團」が建てたものらしいですが、「江戸村」というのが気になります。
「江戸」と深い関係のある村だったんでしょうか。

調べたら、「室田町誌」に、「江戸村は滑川の江の外という意味」と書いてありました。
「江外村」(えとむら)だったんですね。


【大沼大明神史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:51
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2021年02月28日

史跡看板散歩-番外編 下室田のおねがい地蔵尊

Googleマップで室田の地図を見るたびに、「おねがい地蔵尊」というのがあって、いつも気になっていました。


で、取材のついでに行ってみると、「沢田川」に架かる橋のたもとの小さな祠でした。



祠の外に三体のお地蔵さまがいますが、中にいらっしゃるのが本命の「おねがい地蔵尊」でしょう。

ただ、建立年月と建立者名はあるものの、謂れがどこにも書いてありません。
いったい、何をお願いしているのでしょう。
深い川のほとりに建ってるから、子どもの水難か何かあったのかなぁ。

近くの自動車修理工場の方にお聞きしましたが、分からないと言います。
榛名支所へも行ってみましたが、やはり分かりません。
これは、建立者の石井三郎さんに聞くしかなさそうですが、どこにお住まいなのか全く分かりませんし。

さてそれからというもの、取材で室田へ行く度に石井さんの家を探し続けました。
それを詳しく書こうとすると、えらく長い話になってしまうので途中は省きますが、室田通い3度目くらいでようやく石井さんの家に辿り着くことができました。

石井三郎さんはすでに亡くなっておられたのですが、ご子息の石井博仁さんにお会いすることができました。
突然の訪問にもかかわらず快く迎えて頂き、お話を伺うことができました。

お話によると、この道がバラス道だった頃、その道に沿って小川が流れていたそうです。


ある日、三郎さんが小川を掃除していると、中からお地蔵さまが出てきて、これは放っておくわけにいかんと言って、小川の畔に祠を建ててお祀りしたのだとか。

後に道路は拡幅・舗装され、その関係でお地蔵さまは現在地に移しました。

バラス道だった頃は、ここのカーブでよく事故があったそうです。
「おねがい地蔵尊」という名前について、博仁さんは、事故が起きないことや、その他諸々のお願いを叶えてくれるようにとのことだろうと仰っていました。

「あー、これですっきりしました。」とお礼を言ってお暇しようかと思った時、三郎さんの建てたものがまだあるんだと言って、案内してくださいました。
連れて行って下さったのは、近くの「新滑川橋」の下でした。
そこに建っていたのは「河童天国」という石像で、三郎さんが平成八年(1996)に建立したものです。


「新滑川橋」が架橋されたのは平成七年(1995)、翌平成八年(1996)には滑川の河川改修が行われ、親水公園と駐車場が造られました。
それらに石井さんが所有地の一部を提供したのです。
その記念として建てたのが「河童天国」像で、子どもたちが安全に水遊びできるようにとの願いが込められているのでしょう。
「滑川ほたる公園」の看板に、「カッパ」と書かれています。


さらにもうひとつ、石川三郎さんの名前が刻まれているものがあると言います。
「おねがい地蔵尊」から北へ300mほど行った、「大山祇神社」(おおやまつみ・じんじゃ)にあるそうで、早速行ってみました。


この石段を修復して、石碑も建てたんだそうです。

平成十一年(1999)ですから、「おねがい地蔵尊」を移設した翌年ですね。

まだありました。
二の鳥居は平成七年(1995)、社殿前の御神燈は平成六年(1994)の奉納です。

深い郷土愛を持つ篤志家だったんですね。

ところで、「大山祇神社」の御神木・大ケヤキですが・・・、

倒壊の恐れがあるので、近い内に伐られてしまうそうです。

いやー、こればかりは、さすがの「おねがい地蔵尊」にお願いしても何ともならないでしょうかねぇ。


【おねがい地蔵尊】

【河童天国像】

【大山祇神社】


  


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2021年02月21日

史跡看板散歩-220 下室田の松仙寺跡

「松山城本丸跡」から「松仙寺跡」を目指します。


いったん、「松山城跡」の史跡看板の所まで下ります。


看板の反対側に小屋が建っています。


小屋は地蔵堂で、中にはとても優しい笑顔のお地蔵様がいらっしゃいました。
寄贈したのは中島さんという方ですけど、もしかしてお代官様のご子孫?


地蔵堂の後ろの小道をしばらく行くと、急に開けます。


ここが「松仙寺」の跡で、大きな桜の古木の下に史跡看板が建っています。

なぜか汚れてました。


「室田町誌」によると、里見氏時代の「松仙寺」は現在地より西方約1kmの「常楽外戸」(じょうらく・がいと)という所にあって、「常楽院」と称したとあります。
松山城主・上田氏の祈願寺となったのは天正十五年(1587)、現在地に移されたのは正徳三年(1713)で、往時は「松山寺」と書いたようです。

看板に、「松仙寺」の鐘の音が「室田八景」のひとつになっていたと書いてあります。
「室田八景」は、中室田の新井三光という人の幕末頃の作で、風景画に和歌を付したものだそうです。
その中に、「松山の晩鐘」というのがあり、こう詠まれています。
「手をのばし 足をのばして 寺子らが
         暮れ松山の 入相のかね」


その他の七景も記しておきましょう。
門前の晴嵐
(長年寺?)
かささぎの はしもくずれて あかつきは
  見晴らしひろき 寺の門前
烏川の漁火 からす川 なみにうつれる いさり火は
  雲のひまもる 月の影かも
滝の涼風
(瀧不動?)
木かくれて 噂すれども あつき日の
  影だにささぬ 瀧の涼しや
大森の夜雨
(大森神社)
御百度の 願もみつれば よる更けて
  雨にちらつく あかつきの露
屏風丘の夕照
(湯殿山?)
くれないの 屏風が岡の 夕顔は
  ☐☐たも およばさりけり
天狗山の暮雪 ひさかたの 空にのこりし 天狗山
  気色もすこき 雪の夕ぐれ
岩井堂の秋月 たわふれて 岩井に月の あたりけむ
  くだけて影の あちこちにさす

「松山の晩鐘」の歌にも「寺子」という言葉が入っていますが、看板にも「寺子屋」のことや、「筆子」の文字がある「無縫塔」があると書いてあります。

「榛名町誌通史編下巻」によると、歴代住職の無縫塔の中で、法印快通法印快山のものに「筆子」の文字が刻まれているというので探してみました。

北東の奥に、寺があった頃のものらしい古い石碑や墓石が並んでいる一角があります。


その中に、「法印快山大覺位」という「無縫塔」がありました。
たしかに「筆子三拾七人 取子拾三人」と刻まれています。

天保八年(1837)の建立です。

ただ、快通さんのが見当たりません。
ずーっと探しながら行くと、一番奥の高台にいくつかの無縫塔が見えたので、上がってみました。


端から見ていきましたが、快通さんのはありません。
諦めかけた頃、台石から転げ落ちている無縫塔に「筆子三拾四人 取子四人敬白」という文字を見つけました。
苔を削り取ると、「大阿闍梨法印快通 和尚位」と読み取れます。
第廿一世のご住職なんですね。ということは、快山住職は第二十世なのかな。

「榛名町誌」によると、享和三年(1803)の建立だそうです。
地元の皆さん、台の上に戻してあげて下さい。

ところで、「筆子」は寺子屋の生徒のことですが、「取子」というのは何なんでしょう。
調べてみると、「取子」「とりこ」とか「とりご」と読むようで、産まれてきた子どもが虚弱体質だったような場合、いったん社寺の門前などに捨てて神官や僧侶に拾ってもらい、それをまた養子として貰い受けて育てるという習俗があったんだそうです。
そうすることによって、神仏からの貰い児なので丈夫に育つからということらしいです。
初めて知りました。

「松仙寺跡」からの眺望は素晴らしく、「大福寺」「堀之内」もよく見えます。


桜の咲くころ、もう一度来てみたくなった「松山城址」界隈でした。


【松仙寺跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2021年02月14日

史跡看板散歩-219 下室田の松山城跡

さて、「松山城跡」へ行ってみましょう。

前回記事の「堀之内」と、前々々回記事の「大福寺」の間の道を通って行きます。
左の土手の上が「堀之内」なんで、いま歩いてる所は「堀の跡」ということでしょうか。


この石段を上りきったら、左へ行きます。



80mほど行くと、右手に登り口があります。
うゎー、きつそう。


急な石段を上った所に史跡看板が建っています。


「松山城」という割には、松の木が全然ないなぁと思っていたのですが、そうか武州松山城に因んでいたんですね。

本丸跡に祀られたという「琴平神社」は、さらに上です。


振り返ると、ずいぶん上ってきたのが分かります。


西の方に洞窟みたいのが見えたので、行ってみました。

中には何もありません。

そこから抜け出てきたかのように、近くに座っている石仏がありました。
台石に「子之権現」と刻まれています。


「子の権現」(ねのごんげん)は、足腰の守護に霊験のある神仏だそうですが、「室田町誌」に、ここに祀られた経緯が書かれています。
子の権現はかつて下室田中町南裏滑川畔にあったのを清水家邸内(新井医院裏)に移し、昭和十年秋の滑川氾濫で流失してしまっていますが、上野名跡志に「室田子の権現境内に古碑あり云々」とあり、碑面には梵字の下に文保二年(1318)戊午二月とあったそうです。(略)
清水正興武太夫家は、清水屋と号し、下室田中町で銘酒醸造を業とし、清水忠平当主の時代までつづけていましたが、昭和十年秋の水害のため不振となり、子孫は転居してしまいました。
子の権現信者の人々は子の権現流失の翌年(昭和十一年)三月十八日、鷹留城跡に再建、昭和十五年四月には松山城跡中段にも座僧(像?)とともに建碑しています。」

本丸跡の「琴平神社」まで、いまひと息です。


ふ~(◎_◎;)


社殿の前に、お百度参りの「数取」(かずとり)が建っています。

地域の人は、この急な石段を上って、こんぴら様にお百度参りの願掛けをしたんですね。

社殿の外観はまだしっかりしているように見えたのですが、中は大分傷んでいます。


鳥居もあったらしいのですが、倒れてしまったようです。



さて次回は、「松山城」に関連するもうひとつの史跡、「松仙寺」跡へも行ってみましょう。
本丸跡の東南端です。




【松山城跡史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:54
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2021年02月07日

史跡看板散歩-218 下室田の松山城居館跡

下室田町の県道29号(あら町-下室田線)沿いに、「みなとや」「ミヤシタ」というひらがなとカタカナのお店が並んでいますが、その道向こうに北へ入る道があります。


両側に石垣があって、ちょっと雰囲気のある坂道です。


その石垣の所に史跡看板が建っています。



なるほど、それでアパートの名称が「ハイツ堀之内」ですか。


室田村代官の中島氏について、「室田町誌」にはこう書かれています。
中島新左衛門は永禄四年(推定1561)下室田の豪家に生まれ、萬治二年(1659)九月二十五日室田宿に歿、九十八才。
安中城主井伊直勝の臣、室田宿安中藩領の代官に任じていましたが、たまたま城主直勝の側室お岩の方懐妊を預り、お岩の方男子(直之、後直好)出産後は、正室や側室に男子が生まれなかったので世継ぎとして三才までこれを養育しています。
寛永九年(1632)直好は安中藩を襲封していますが、中島新左衛門は養育の功により直勝公より二百五十石を賜っています。(略)
直好は正保二年(1645)六月、三河国吉良西尾へ転封になっていますが、中島新左衛門は四男を伴ってこれに従い、直好の萬治二年(1659)一月の遠州掛川への転封にも従っています。(略)
中島新左衛門の子孫は代々大森神社の総代人となっています。」

坂を上り詰めた所に、代官屋敷を偲ばせるような立派なお宅がありました。


その東側は、ひろーい駐車場になっています。


駐車場の北も、ひろーい草地です。


草地の北西隅に、何やらお社が見えます。


立派なお社なんですが、何をお祀りしてるのでしょう。

お稲荷さんの他は、何の神様か分かりません。


お社側から見てみると、先ほどの代官屋敷らしいお宅につながっているように見えます。

あー、あのお宅の屋敷神様なんですね、きっと。

駐車場の北方に見える山が、「松山城跡」です。



次回、行ってみると致しましょう。


【松山城居館跡(堀之内)】


  


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2021年01月31日

史跡看板散歩-217 下室田の矢背負稲荷大明神

今回の場所も分かりづらいです。
県道29号(あら町-下室田線)から下室田小学校西側の道を、北へ北へと道なりに行ってください。

500mほど行くと、道端にこんな道標が建ってます。

「城山矢背負稲荷神」と刻まれてますが、多分その下に「社」の字もあるのでしょう。
実はこの道標、「大福塚」の捜索にご協力いただいた、宮下喜好さんに教えてもらいました。

そこから、さらに300mほど行くと、道が二股に分かれていますが、左の方へ行きます。


熊が出るらしいです。


あとは一本道なんですが、途中からどんどん道が細くなってきて、このまま行くとUターンできなくなりそうな気がして、くぼみに車を停めて歩くことにしました。


息を上げながら坂を上って行ったら、何と!駐車場があるじゃありませんか。
車を取りに戻って、駐車場に停め直しました。

書いといてくれよ、「上に駐車場あります」って。

これは一の鳥居らしく、この先にはまだ急坂が続いています。
どこにあるんだ、神社は。


ようやく二の鳥居と石段、その上の社殿が見えてきました。


けっこう急な石段です。


狛狐さんは、誰かにマスクをしてもらったようです。

「コン、コン」って、咳してると思ったんですかね。

史跡看板は、社殿の前に建っています。

ふり仮名が振ってありませんが、「矢背負」「やせおい」と読みます。
麓から歩いて上って来る人は、「やせるおもい」でしょう。

看板によると、「矢背負稲荷神社」の由緒には二説あるようですね。
ひとつは、鷹留城が武田勢に攻撃された時、霧で覆って武田勢を惑わせたが、流れ矢に当たって死んでしまった白狐を祀ったというもの。
もうひとつは、里見義利が夢で見たのと同じ、矢を背負っていた白狐を祀ったというものです。

どちらの説も下室田町にある「大森神社」の縁起にある話で、時代的にどちらの話が古いかというと、後者の方です。
里見義利という人は、生年は分からないのですが歿年は平安時代末期の嘉応二年(1170)です。

一方前者の話は天文年間(1532-1555)で、鷹留城主・長野業氏が遷して祀ったというものです。
當社ハ元地ニ在リタルモノ 天文年間 長野業氏遷シ祀ル
永禄六年鷹留落城後 コノ社傍ニ 白狐ノ矢ニ中リテ落命シ在ルヲ発見シ 里人稲荷ノ神使ノ霊現ニテ 敵ヲ五日平ニ彷徨セシメタルモノト崇信シ 矢背負稲荷大明神ト崇メ奉ルト言傳フル説アリ」
現在は永禄九年(1566)とする説が主流。

この縁起の中に「五日平」というのが出てきますが、これは武田勢が鷹留城攻略の際に陣を張った場所のことです。
「室田町誌」に、こう書かれています。
中室田大久保台地に「五日平」という、東南に少し傾斜した一ヘクタール余の畑地があります。
永禄年間(1558-69)西毛制圧を志した武田信玄は、幾度か西毛の中心箕輪、鷹留城に来攻していますが、永禄六年(1563)二月には大軍を率いて松枝、安中、小幡等の諸城を攻略、鷹留箕輪城に攻めよせてきました。
箕輪、鷹留の長野氏はこゝを先途と頑強に城を守り、勝敗は容易に決しませんでした。
手をやいた武田勢は窮余の妙計として持久戦を覚悟、水路の遮断にとりかゝりました。
ところがたまたま濃霧が襲来、進退を失い、この台上に釘づけとなって城と対峙すること五日間、その後霧が晴れて水路切断に成功、一方城内に内通する者も出て、鷹留城は玉砕同様に落城しました。
そこで五日平とか、武田信玄五日の陣所等と呼ぶようになりました。」

これらの話に出てくる場所を地図に落とすと、こんな感じになります。


毎年二月十一日の初午祭では、参拝者に陶器の狐が授けられるとか。
前年に授けられた狐は返すのだそうですが、参道のあちこちに置かれているのがそれなんでしょうか。


お稲荷様の霊力を以ちまして、コロナの災厄を祓え給い、清め給え。


【矢背負稲荷神社道標】

【矢背負稲荷神社】


  


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2021年01月24日

史跡看板散歩-216 下室田大福寺の庚申塔

榛名消防団第四分団脇を入ったどん突きが、「大福寺」です。



史跡看板は、この寺に建つ三基の「庚申塔」について書かれています。


その三基の「庚申塔」がこれらです。




う~ん。
何か物足らないので、「大福寺」について調べてみました。
「榛名町誌 通史編下」に、こう書かれています。
上町の天台宗大福寺は中里見光明寺末、本尊は阿弥陀如来である。
寺記によれば、貞和三年(1347)に里見兵庫頭が再興した。
中興の開山は僧円覚である。
永正八年(1511)、住職光海の時に長野憲業(鷹留城主)が寺領として六貫五百文を寄進している。
同十八年、兵火により全焼した。」

う~~ん。
まだ物足らなくて、「室田町誌」も見てみました。
すると、興味深いことが書いてあるじゃありませんか。
二十三世正観上人の代、寛文年間(1661-1672)檀徒二百戸あまり、名主某のために、長年寺に転帰するという事件がもちあがり、このため上人は江戸へ訴えたが敗れ、憤懣断食をして死に、遺言して根古屋山上に葬らしめたという。
これを大福塚という。
(口碑伝説の項参照)」
寛永年間(1624-1643)の誤りか?

その口碑伝説の項には、こう書かれています。
下室田根古屋と駒寄との境界となっている丘陵に、松の大木が二本みえます(方角により一本となるので、おばけ松などと子供たちが言ってます)が、この根方を大福塚と呼んでいます。
この塚には次のような伝承があります。
寛永年間室田村内の大福寺、松仙寺、吉祥寺、医王寺、無量院等の諸寺の檀徒が、大量長年寺檀中に転帰した事件がありました。
各寺の住職は、これは名主中島某(一本長兵衛)が圧力を加えて自らの檀中(長年寺)に引き入れたものと考え、寺社奉行まで訴訟し、敗訴となっています。
その時大福寺住職正観和尚は憤懣の余り、三七日の断食苦行の末、怨敵滅亡を祈願して、臨終の時「愚僧死すとも瞑目する能わず、屍は必ず南面させて根古屋山上に葬れ。彼ら寺敵を睨み倒し、しかも子孫を断たざればおかじ」と遺言。
墓に入ってからも竹筒で水をささせ、生きている間は鈴を合図にならすと言って死んで行きました。」

「大福寺」の住職が檀徒を引き抜かれた恨みから、死して山上の「大福塚」から敵を睨み倒しているというのです。
「大福塚」へ行ってみたくて仕方なくなりました。

「大福寺」でお聞きすれば分かると思ったのですが、どうやらここは無住寺のようです。
ご近所の方にお聞きしましたが、「大福塚?聞いたことないねぇ。」と言います。
しかたなく、「室田町誌」に書かれている「下室田根古屋と駒寄との境界」、「松の大木が二本」、「南面させて根古屋山上に」という記述を頼りに歩き始めましたが、この辺りどこを見ても山だらけで皆目見当がつきません。


困っていると、一軒の民家のお庭に人の姿を見つけました。
急いで声をお掛けして、「この辺に、大福塚というのがありますか?」とお尋ねすると、何と!ご存知でした。
お父様からそういうものがあるとは聞いていて、場所も大体分かるけれども、実際に見たことはないということでした。
しかも、道は藪になってて行けないんじゃないかと言います。

ところが何と!「私も興味があるから、一緒に行ってみましょう。」と、仰ってくれました。
車の助手席に乗せて頂きけっこうな距離を走って、尾根の西側登り口へやって来ました。
車を停めて急坂を登り、やや平坦な場所に出ましたが、そこで藪に阻まれ、それ以上進むことはできません。

すると、「フルーツラインの方からなら行けるかも知れない。」と、また車でぐるーっと回って下さいました。
そして入って行ったのは、「下村浄水場」の脇道でした。


500mほど行くと、右側が広場のようになっています。


松ではありませんが、大木が二本立っています。

近くに車を止めて広場に入って行くと、二本の大木の間の灌木の陰に、小さな石碑を見つけました。


前に回ると、「秀巌山二十三世 正観上人之墓」と刻まれています。

間違いありません、これが「大福塚」です。
二人して大喜びしました。

案内して頂かなかったら、絶対に辿り着けなかったでしょう。
ありがとうございました。
奇跡的な出会いをしたこの方は、宮下喜好さんと仰います。
城郭、特に山城に興味を持っていらっしゃるそうで、この辺の歴史にも大変詳しいお方でした。
「大福塚」は、地元では「だいくづか」と呼んでたそうで、初めて「だいふくづか」と分かったと喜んでらっしゃいました。

さて、「大福塚」騒動の発端となった名主・中島某の起した檀徒引き抜きの件ですが、その顛末を記した古文書が中島雅雄氏家で発見され、昭和二十八年(1953)の新聞紙上にその調査結果が掲載されます。


この新聞記事を読んで、おや?と思うところがあります。
終盤の辺りの、こんな記述です。
なお、裏書に寺社奉行の長左衛門(室田町誌では長兵衛)に対する呼び出し状があり、出張しなければ投獄するとあるところをみると、この裁判は多分真言、天台側の勝訴に終わったのであろう。」

ん?「大福塚」の伝説とは訴訟の結果が真逆です。
はて、どちらが本当なんでしょう。

新しく建て直されたという現在の「正観上人之墓」も、「長年寺」の方角ではなく、遠く雪を頂く浅間山を望んでいます。


いまだに謎が残る「大福塚」でした。


【大福寺】

【大福塚】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:54
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2021年01月17日

史跡看板散歩-215 下室田の庚申山

今回の史跡は、分かりにくい場所にあります。

烏川に沿って走る県道29号線(あら町-下室田線)、下村の信号を北に入り1kmほど行くと、ヘアピンカーブに差し掛かります。
そこを左、「大世神山」「サンコーハルナパーク」方面に入ります。


そこから、さらに600mほど行くと、右に入る道がありますので、そこを曲がります。


曲がるとすぐに携帯基地局のアンテナが建つヘアピンカーブがあって、そのカーブの先に、右手前に鋭角で入る坂道があります。



細い坂道を300mほど上ると、右側のガードレールが切れている所に、何やら木札が建っています。


木札には手書きで「史跡 お庚申様 この下30m」と書いてあります。

ここを下っていくようですが、手書きの木札が無かったら道があるとは気付きもしなかったでしょう。
地元の方の心配りを嬉しく思う反面、名所旧跡案内板を設置した市役所の心配りの不足を悲しく思います。

けっこうな急坂で、落ち葉が降り積もっていて滑りやすいので、ストック2本を突っ張りながら慎重に下って行きます。
しばらく下ると、左下に大きな石が見えます。


急坂はまだずっと先まで続いていますが、鋭角に左手前に入ると大石と史跡看板があります。



ほー、なるほど、面白い話ですね。

行者のお告げで掘り出した石には、月と太陽、庚申という文字が彫ってあったというんですが、よく見ないと分からないくらいの線刻彫りです。


お正月には、きちんとお供えをしてお祭りしたようです。


地元の方のお話では、この急坂の山道は昔は日常的に使っていた道だそうです。
たしかに、この急勾配では人や牛馬も転倒するでしょう。
ただ、「庚申塔」が、こんな山道の途中の道端に埋まっていたというのは、ちょっと不思議です。

この「庚申塔」、もとは坂道の上の村の入口に建ってた「賽の神」なんじゃないでしょうか。
それが、土砂崩れか何かで下に転げ落ち、土に埋まっていつしか忘れられていたのでしょう。
災いが続くので、「そう言えば・・・」と思い出したのが、村の行者だったのかもしれません。

その石を掘り出す様子を描いたという絵馬が見たくなって、「諏訪神社」へ行ってみました。



拝殿の中に、その絵馬が飾ってありました。

石を引く人々の周りを、白狐が跳ね回っているようですね。

これからも、永く語り伝えていって欲しいものです。


【庚申塔入口】

【諏訪神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2021年01月10日

史跡看板散歩-214 丸山公園の庚申堂と弘法大師堂

上里見町の国道460号線沿いに、「三共クリーニング店」というのがあります。

その脇の道を南に入って行きます。

180mほど行くと、左に入る細い道があります。


その細道の先はえらい急坂で、空中へ飛び出してしまいそうです。


車が仰向けにひっくり返ってしまいそうな恐怖を覚えながら無事上りあげて、振り返って見るとけっこうな眺めです。


その急坂の上が「丸山公園」です。



この看板の文章、意外と分かりずらいです。
時系列的に整理すると、こういうことらしいです。
ここは昔「雷電神社」だった。
明治二十九年に「蚕影山大神」(絹笠様)を祀った。
青面金剛を祀った「庚申堂」があったが、大正初めに取り壊した。
昭和八年に「庚申堂」を再建した。
昭和十四年に弘法大師像を安置した。
平成十七年に堂宇を新築し「弘法大師堂」とした。
旧「庚申堂」は、移設して「山車倉庫」として使っている。

文久四年(1864)銘のある鳥居を潜って石段を上ると、「蠶(蚕)影山大神」の大きな石碑が建っています。


その左、一段下がった所にあるのが「弘法大師堂」です。

右脇に建つ「弘法大師碑」は昭和八年の銘があるので、「庚申堂」を再建した時に建てられたものでしょう。
碑面には「四國 八十八ヶ所ノ内 弘法大師」と刻まれているのですが、「八十八ヶ所ノ内」とはどういう意味なんでしょう。
ご存知の方、ご教示ください。

ところで昨年の流行語大賞は、コピーライターの小池百合子氏が広めた「3密」でしたが、実はそれより1200年も前に「三密」という言葉を広めていたのが、弘法大師でした。

「3密」は人と人とを近づけないための言葉ですが、「三密」の方は人と仏様を近づけるための言葉です。
身密(しんみつ) 手や指で印を結び仏さまの姿をまねる
口密(くみつ) 口で仏さまの言葉である真言を唱える
意密(いみつ) 心に仏さまの姿を描き瞑想する
(茨城県筑西市 東睿山 金剛寿院 千妙寺のHPより)

閑話休題。

「弘法大師堂」の後ろに、大きな東屋が建っています。


その西側に、お堂の瓦屋根が見えます。

これが、「山車倉庫」になった旧「庚申堂」なのでしょう。

下へ降りて正面から見ると、こんなです。


下へ降りたついでに、東側へ回って「丸山公園」を見てみると、なるほど「丸山」だなと気付きました。


榛名町役場著「榛名町の文化財」に、「上里見藩邸跡」として「丸山公園」の写真が使われています。


と言っても、「丸山公園」「上里見藩邸(神山陣屋)跡」ということではなさそうで、場所については、こう書かれています。
城地は字町南から八幡にかけての一帯にわたり、附属建物は町西、町東に及んでいたようである。
字町通り七四一、七四二番地附近が大手口、陣屋跡は東西五十間(約十五メートル)、南北四十間(約十二メートル)、これを中心に附属建物があったようである。
西に離御殿(後に城代家老居住)、竜門寺(菩提寺、黄檗宗)南に倉庫、八幡神社(守護神、石祠現存)、東南に的場、東に道場、北に武家屋敷・・・」

これだけではよく分からなかったのですが、「里見町誌」「城下町の神山宿」という絵図があり、そこに「陣屋」等の位置が描かれていました。


これらを踏まえて「742番地」を目安に現在の地図を眺めてみると、おおよその位置関係が分かります。


この2つを見比べると、どうやら現在の「丸山公園」は、神山宿絵図に描かれている「八幡神社」のあった所のように見えます。

いつの時代も、人は高い所に神秘的な力を求めるものなのでしょうね。


【丸山公園】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2021年01月03日

史跡看板散歩-213 上里見町田中の道祖神

すっかりご無沙汰している間に、年が改まってしまいました。
3ヶ月ぶりの「隠居の思ひつ記」です。

再開第一回は、里見小学校裏の三叉路に祀られている道祖神です。


「田中の道祖神」と呼ばれているようですが、見た目は「檻中の道祖神」です。



延宝四年(1676)の銘があって町内最古の道祖神らしいですが、県内最古のものは倉渕村権田の寛永二年(1625)だそうです。
近藤義雄氏著「上州の神と仏」によると、道祖神の建立時期は四期に大別されるといいます。
第一期は寛永(1624-)~元禄(-1704)期としています。
とすると、「田中の道祖神」はちょうど一期のど真ん中ということになります。

同著によると、この時期の道祖神の特徴はこうだそうです。
自然石を建てて道祖神として祀ってきたが、近世初期から様々な石像が出現してきたとき、道祖神も神仏の姿をした像が求められたのであろう。
そのため、二神とも仏像や神官の姿、ときには三月の節供に飾られる座り雛の形をしたものなどである。
前記倉渕村の県内最古の道祖神は、二神とも地蔵像の合掌した姿である。」

ん?「田中の道祖神」は、その特徴に当てはまらないような気がするんですが、どうなんでしょう。

風化が進んでいるのではっきりしませんが、肩を組んで手を握り合っているように見えます。

第二期の特徴を見てみましょう。
第二期は18世紀前半で、この頃になると二神の男女の別が明確になり、酒の徳利や盃を持った二神、徳利は男根、盃は女陰を象徴しているのであろう。
半肉彫りの像の背には仏像と同様の舟型光背がついている。」
うーん、舟型光背ではありますけど・・・。

第三期の特徴は。
18世紀中頃からで、直立した二神の像に乱れが出てくる。
互いに肩を組み、男神の右手と女神の左手が前で握り合うのが多く、光背の形に代わって石殿の屋根を表現したのも多くなる。
ときには、榛名町中室田の宝暦七年(1757)銘の接吻道祖神、倉渕村三之倉の宝暦十年(1760)と六合村荷付場の天保十四年(1843)などのように、二神が重なり合う抱擁像のものまである。
江戸の町人文化の爛熟期に地方農村でもこのような道祖神が出現したのである。」
ほー、手を握り合うのは第三期ですか。
ということは、「田中の道祖神」は一期から三期までの特徴が混然としているということでしょうか。
うーん・・・。
それとも、分類の方がちょっと怪しいのかな?

因みに、第三期でかなり奔放な性的描写を帯びてきた双体道祖神も、第四期に入ると落ち着きが出てくるようです。
第四期は十八世紀末から十九世紀に見られるもので、庶民への文字の普及と国学の発展を背景に、文字塔が多くなり、雲に乗る天孫降臨型が出現する。
この場合は、男神は矛を持ち、女神は巫女の姿をしている。
これらの像が神社境内などに多いのは、明治期の神社合併により集められたので、元来はいずれも村外れの路傍に立てられていたのである。」

看板には、「双体道祖神は関東地方に多くみられる」とありますが、調べてみるとそうでもなさそうです。
最も多いのは長野県で、次いで群馬県、神奈川県
関東でも、埼玉、栃木、茨城はほとんど見られません。

(出典:石田哲弥氏編「道祖神信仰史の研究」より)

群馬県内で言うと、吾妻郡、群馬郡、利根郡など北毛に多く見られ、東毛は少ないという傾向があります。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

「田中の道祖神」がある群馬郡内の分布も見てみましょう。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

へ~、道祖神で有名な倉渕村よりも、上里見を含む旧榛名町の方が多かったんですね。


【田中の道祖神】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2020年10月18日

史跡看板散歩-212 中里見の御嶽山

中里見町「パワーセンター うおかつ」の道向こうに、「中里見農機」というお店があります。
その脇の、私有地のような道を入って行きます。


坂の上に道がありました。


道を左に行くと、前方右側に赤い幟旗が見えます。


史跡看板も建っていました。



看板の写真を見ると、広い場所に大きな「御嶽山」などの石碑が建っているようなんですが、どこを見渡しても見上げても、それらしいものはありません。
これは誰かに聞かなくてはと思い、坂道を下りかけたら、「中里見農機」のご主人らしき人が庭作業をして居られました。
「すみません、そこに御嶽山という看板はあるんですが、石碑はどこにあるんでしょう。」とお聞きすると、
「あー、上に上がる道があるんだけどね。」と言いながら、作業の手を止めて史跡看板の所まで来て下さいました。

幟旗の所を指さしながら、
「ここから上るんだけど、今は草が繁っちゃってて。」
「え!ここが道なんですか?」

ってくらい、草が生い繁っていました。


すると、中里見さんは草をかき分け、引き千切りながら、道をつけて先導してくれました。
おかげさまで、どうにか後をついてしばらく上ると、ぽかっと明るくなる所へ出ました。
赤い幟旗の一部も見えます。


あ、ありました、石碑が。


こりゃ、案内して頂かなかったら絶対に辿り着けません。
ただ、中里見さん曰く、「八十八夜の前には、きれいに草を刈るんだよ。」ということです。

ちょっと急な石段の上に、「御嶽山神社」「八海山神社」「意波羅三社」の石碑が建っていました。



中里見さんのおかげで辿り着けた、「中里見の御嶽山」でした。

ところで、史跡看板のあるこの道、やけに真っ直ぐです。


「この道は、昔の街道か何かだったんですか?」と、中里見さんにお聞きすると、
「水道みちってんだいね。」と仰います。
神山「春日堰」から剣崎の浄水場までの送水管が埋まってるんだそうです。

ただ、下里見の城山稲荷の土砂崩落の他、中里見でも漏水が発生したんで、現在の送水管は国道406号の道路下に埋設してるんだそうです。
でも、「水道みち」の下には、今でも使われなくなった送水管が埋まったままになってるのだとか。

いろいろ教えて頂きました。
中里見さん、ありがとうございました。


◇◇◇ところで、皆様にお知らせがあります。◇◇◇
「隠居の思ひつ記」は、しばらくの間
お休みをいただきます。
再開の節は、またご贔屓にお願い申し上げます。


【中里見の御嶽山(史跡看板)】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
Comments(2)◆高崎探訪

2020年10月17日

史跡看板散歩-211 中里見町光明寺の勝軍地蔵尊堂

中里見町の国道406号線沿いにある、「茶々テラス」
その脇の道をずーっと入って行きます。


200mほど行くと、「光明寺」の鳥居があります。


「黒門」と呼んでいるようです。


「黒門」の右手前に建っているお地蔵さんは「榛名町指定重要文化財」、現在は「高崎市指定重要有形民俗文化財」となっています。


「黒門」を潜った左側には、大きな「馬頭尊」碑など、いろいろな石造物が並んでいます。


里見氏累代が祀られていた「智泉院」の旧跡だという石柱と看板も建っています。



山門を潜った左奥にあるのが、「勝軍地蔵尊堂」です。



ほほー、「将軍地蔵尊」榛名山から飛び去り、その光明が留まった所に建立したのが「光明寺」ということですか。

その手前に、ちょっと錆が進んでますが、「新田義貞公旧里碑」と書かれた標柱が建っています。


碑の篆額では「新田公旧里碑」となっています。


明治二十三年(1890)に地元の歴史研究家・里見水戸之介が、新田義貞の郷里である里見郷に、それを顕彰する一片の石標もないことを憂い、東奔西走して建碑に至ったそうです。

境内には、里見氏の塋域(墓域)があります。


その玉垣の前に、「茶聖利休居士太祖之塋域」と刻まれた石柱が建っています。


利休の祖先が、里見氏だという訳です。
この件については、グンブロガーの荻原悦雄氏が詳細な記事にまとめていますので、そちらをご覧ください。
   ◇茶聖千利休

また、里見義成氏著「新田氏支流里見氏」には、そのことが分かる系図が掲載されています。
  ◇毛野中世の武士団と千利休への系譜

そして、中曽根康弘元首相のこんな句碑も。
  「くれてなお 命の限り 蝉しぐれ」

今日、1億9千万円を超える費用をかけて、内閣と自民党の合同葬が執り行われました。
その費用の半分は、税金から支出されるそうです。
  「くれてなお 命の果てに 金しぐれ」
と、詠みたくなってしまいます。

中曽根康弘氏の祖父・中曽根松五郎は、里見村神山に材木店「古久屋」を設け、一代にして巨万の富を築きました。
その子・貫一は二代目松五郎を襲名し、高崎に店舗並びに製材工場を設け、これまた親に勝る業績を収めました。
その二代目松五郎の次男が、康弘氏という訳です。(里見村誌)

なかなか侮れぬ、里見町です。


【光明寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:02
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2020年10月16日

史跡看板散歩-210 高浜の駒形神社

高浜郵便局の東200mほどの静かな坂の途中に、「駒形神社」はあります。




鳥居を潜ると、落ちそうな笠をかぶった石灯籠が左右に建っています。


不思議なことに、左側のは寛政十二年(1800)、右側のは明治二十五年(1892)の奉納です。


石灯籠はもう一セット、石段の両脇にもありまして、これは天明二年(1782)です。


面白くなって、社殿前の石灯籠の奉納時期も見てみると、平成六年(1994)。


賽銭箱は平成十五年(2003)。


立派な手水鉢は平成十九年(2007)、鳥居はその翌年に奉納されてます。


そして今年は、ハチさんが奉納の真最中でした。

邪魔をすると怒られそうなので、早々に退散いたしましょう。

こちらの仲睦まじくしているお二人にも、お邪魔だったでしょうか。

「駒形神社」だけに、「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。」なんて言われそうで。

「駒形神社」を出て坂道を下っていると、石垣の上に妙なものが建っているのが目に入りました。


向こう側へ回ってみると、大きな「忠霊塔」が建っています。


台石には、「榛名町久留馬地區英霊合祀者氏名」として、台湾事変、日露戦役、日支事変、太平洋戦役で亡くなった方の名前がびっしり刻まれています。


坂道から見えた妙なものは、「忠霊塔」の左にありました。

中央に「彰忠碑」、その手前に左右一基づつの石碑が建っています。
きっと以前は鬱蒼とした場所だったんでしょう、途中から伐採された太い木の幹が何本も突っ立っています。
これが、奇妙なものの正体だったんですね。

左の碑は、「彰忠碑建設芳志録」


右の碑は、「従軍者」となっています。


その裏面を見て、「あー。」と思いました。

こう刻まれています。
大東亜戦役終戦以來十有餘年、第六小学校校庭に埋没せられし彰忠碑を此処に再建し、出征兵士の忠誠を永遠に顕彰せんとす」

ここの「彰忠碑」も校庭に埋められていたんですね。
豊岡の「常安寺」の所にある「忠魂碑」もそうでした。

自分よりも、家族よりも、君への忠を求められた時代の証です。


【駒形神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 17:02
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2020年10月11日

史跡看板散歩-209 下里見町の頼朝の腰掛け石

国道406号の下里見交差点から北へ320mほど行った所に、下里見町北村区公民館があります。
駐車場入り口に、大きな「庚申塔」が建っています。



その先にあるのが、「北村八幡宮」の石祠です。


この石祠の後ろに、「頼朝の腰掛け石」というのがあるようです。


あ~、これかぁ。

ふーん・・・。

ちょっと物足らない気分で道路に戻ると、反対側に旧道らしい斜めに入る道が見えます。


興味をそそられ、行ってみました。


少し行くと、四つ辻の角に隠れるように大きな石造物が建っています。


万延元年(1860)の「庚申尊」の塔でした。


そのまた陰に、小さな「馬頭観世音」の文字塔が2基隠れています。


道はこの先、鉤の手に曲がって新しい道路に出ますが、たぶん昔はこのまま烏川に出たんでしょう。


明治四十年(1907)の地図があります。
やはり鉤の手に曲がって烏川を渡っている道(赤く色を付けた道)があります。


昔は、下里見村と烏川対岸の久留馬村とを行き来する道は、大変不便だったようです。
下里見交差点の南に建っている碑に、現在の道路を整備するまでの経緯が刻まれています。

里見村大字下里見ヨリ烏川ヲ隔テ對岸久留馬村ニ通ズル里道ハ頗ル狭隘ニシテ 中川原橋ノ如キハ夏季年々流失ノ厄ニ遭ヒ 其ノ都度交通途絶シ 西ハ神山森下橋ニ 東ハ町屋或ハ遠ク君ヶ代橋ヲ迂回スル等 甚シキ不便ヲ被リ來リタルハ 最モ遺憾トスル所ナリキ」

大正十五年(1926)地元村会議員5名の起案により、新しい道路と橋の工事が始まり、昭和四年(1929)に竣工したとあります。
偶々村會議員富澤好太郎 中島良太郎 悴田隆平 富澤幸作 中曽根周作ノ五氏ハ深ク之ヲ慨シ 大正十五年二月相謀リテ 専ラ地方発展ノ目的ヲ以テ 縣道高崎間野線下里見ヲ起点トナシ 對岸久留馬村ニ通ズル道路橋梁ヲ完全ニ改築シ 一方板鼻町ニ通ズル町村道ヲモ修理ヲ加ヘ 重要路線トシテ將来縣道ニ編入セラルベキ計畫ヲ樹テ 之ヲ村會ニ諮リ全員ノ賛成ヲ得タルニヨリ 直ニ縣土木課竝ニ關係町村ニ向ヒ協賛ヲ仰ギ 只管事業ノ達成ニ努メラル
幸ニ縣當局ノ認ムル所トナリ 村営工事トシテ執行スルコトニ決定シ 昭和二季十二月工ヲ起シ昭和四年三月竣工ヲ告グ(略)」

工事費は県及び各村そして有志者の寄付で賄われ、地元住民百人余りの夫役もあったと刻まれています。
道路橋梁設計総工費金二萬二千余圓及ビ用地三段三畝余歩ヲ用シ 其ノ内金六千四百圓縣費補助 久留馬村ヨリ金二千圓ノ寄附ヲ受ケ 里見村ヨリ金五千圓ヲ支出シ 其ノ他ハ地元近鄕關係有志者ノ寄附及ビ地元住民ノ夫役亦百餘人ノ寄附ニ依レリ(略)
其ノ後本路線ハ所期ノ目的ヲ貫徹シ 碓氷群馬連絡樞要道路ト認メラレ板鼻室田線ト稱ヘ 昭和六年十二月縣道ニ編入セラル
扔テ茲ニ道路梁改築完成記念トシテ工事ノ概要ヲ勒シ寄附者芳名ハ碑蔭ニ刻ミ  永ク後世に傳ヘントス」

道路橋梁改築記念碑
昭和八癸酉年□月

頼朝さんがこの辺を通った頃は橋もなかったでしょうから、やっとの思いで川を渡って、疲れ果てて道端の石に座り込んだんでしょうね、きっと・・・。


【頼朝の腰掛け石】

【板鼻室田線道路橋梁改築記念碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2020年10月04日

史跡看板散歩-208 下里見町仲通りの道祖神

国道406号の下里見交差点のすぐ北、里見川のほとりに「仲通りの道祖神」というのが建っています。




後ろは「富久樹園」の駐車場です。


大きなトチノキが、たわわに実を付けていました。


何となく物足らない思いで下里見交差点に戻ると、「ぴんころ地蔵尊」という看板が目に入ったので、行ってみました。


急な坂道を150mほど上ると「城山稲荷」という大きな鳥居があり、その先にも小さな鳥居が並んでいます。


並んでいる鳥居を潜って・・・、

さらに石段を上ると「城山稲荷」の社殿があり、その左にあるのが「ぴんころ地蔵尊」のようです。



「ぴんころ地蔵尊」の説明板を見て、「城山稲荷」という名前の由来も分かりました。
「里見城」の鬼門除けだったんですね。

それから、思い出しました、昭和四十九年(1974)の土砂崩落災害。
死者6人を出すという大災害でした。


台風が来た訳でも、雨が降り続いた訳でもない、カラリと晴れ渡った10月6日(日)の朝7時半ごろの出来事でした。
一ヶ月ほど前から、山肌から水が滲み出ていたが、崩落直前はその量が多かったといいます。

崩落現場の上には、剣崎・若田浄水場への市上水道の導水管が埋設されていました。
その導水管の他にも、榛名町の石綿製配水管も埋設されており、山頂には配水槽も設置されていました。
いずれかの設備からの漏水が、斜面の土砂を緩めて崩落させたものと思われます。

その時、奇跡的に崩落を免れたという「奥の院」は、一段高い所に祀られています。



崩落した斜面は、現在コンクリートで補強されています。


その上に社殿を再建したが、その後、再度の土砂災害があったとあります。

しかし奇跡的に崩落を免れ、「落ちない稲荷」という新たな御神徳が加わったというのですから、ま、よかったですね。

「ぴんころ地蔵尊」も、コロナ除けの御神徳を加えて「ぴんコロナ地蔵尊」と呼ぶのはどんなもんでしょう。


【仲通りの道祖神】

【ぴんころ地蔵尊】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:29
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