2021年07月11日

史跡看板散歩-233 長井の百庚申

倉渕町権田の信号を中之条方面へ1kmほど行くと、「長井」のバス停があります。

そこに、字の消えかかった「長井百庚申・熊久保道祖神入口」の看板が建っていて、その根元には「右くさつ道」の道しるべも。

左のゆるい坂道を下ります。

「長井川」に架かる「長井橋」を渡って右へ行くんですが、左側に大きな石碑が建っていました。


「真道館長 市川先生顕彰碑」と刻まれています。

「真道館」とは何なのか知りたかったのですが、周りは草が生繁っていて碑の近くへ行くことができません。

まぁいいか、と右に進み、その先を左へ進みます。


坂道を上って行くと、右に入る細い坂道があります。


その細い坂道に入るとすぐ、史跡看板が建っていました。
「長井の百庚申」は、この擁壁の上らしいです。



石段を上ると、あります、あります。

たくさんの庚申塔の先に、お堂が建っています。

足元が悪いので、注意しながら行ってみました。


お堂の中に三体の仏像が祀られていますが、光が反射してうまく撮れませんでした。

真ん中の像には、「矜羯羅童子」(こんがらどうじ)という名札が付いています。
「不動明王」の眷属だそうですが、像は「不動明王」そのものに見えるんですがねぇ。

石段の所まで戻って反対側を見ると、さらにたくさんの庚申塔がずーっと先まで並んでいます。
なんせ、107基あるって看板に書いてありましたからね。



まあとにかく足元の悪い急傾斜地ですから、行かれる方はくれぐれもご注意ください。

庚申塔群の終わった先に、「長井の道祖神」ってのがありました。



「元禄雛型」というのはこれかな。

双体道祖神としては珍しく、お座りしてます。

「おこそずきんをかぶった道祖神」ってのは、これ?

「おこそずきん」って、時代劇で育った世代でないと分からないかも知れませんね。
   ◇「おこそずきん(御高祖頭巾)」

さて帰ろうと坂道を下っていると、田んぼの向こうに趣きのある建物が見えました。


近くへ行ってみると、どうも民家ではなさそうです。

倉庫か集会所のように見えます。

おっ、看板が掛かってる。

あー、「真道館」
あの「市川先生顕彰碑」にあった「真道館」って、ここなんだ。

家へ帰って来てから調べてみると、市川忠雄氏が昭和30年(1955)に創立した剣道の道場でした。

現在、この道場は使われておらず、稽古は倉渕中学校武道場で行っているそうです。

残しておいて欲しい建物ですね。


【長井の百庚申と道祖神】

【旧真道館】


  


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2021年07月04日

史跡看板散歩-232 椿名(つばきな)神社

いつも起点にする「満寿池」から権田方面へ300mほど行った所に、「椿名(つばきな)神社」の看板が建っています。


その向かい側が参道です。


70mほど進むと、趣きのある石橋が架かっていました。



橋の名前はないようですが、架橋の年月や架けた人の名前は刻まれています。


また少し行くと、片側にだけ御神燈が建っています。


明治三十六年(1903)のものですけど、この頃は75歳で御神燈を寄進したくなるほどの長生だったんですね。

突き当りが、「椿名神社」です。


入ったすぐ左の手水鉢の後ろに、高崎市指定天然記念物「椿名神社の大イチョウ・大ケヤキ」の看板があります。



「大イチョウ」は、社殿の左隣に聳えています。


400年の間に、イチョウと杉が一体化しちゃったようです。

すごいなぁ。

史跡看板は、境内へ入って右の「参道改修記念」碑の隣に建っているんですが・・・、


なぜか、「大ケヤキ」だけの看板になっています。

しかもこのケヤキ」って、まさかこの切株じゃないですよねぇ。


「大ケヤキ」は、社殿の後ろです。


看板は、社殿裏のケヤキ」と書き直すか、「大ケヤキ」の根元に移すかした方がいいんじゃないでしょうか?

さて二つの看板に、「椿名神社」「行前」という所から遷したと書かれています。
「行前」の元宮が火災で焼失したからと言うんですが、その火災の原因が二つの看板で微妙に異なっていて、片や「戦火」、片や「野火」となっています。

このことは、椿名神社社掌を兼ねていた八幡八幡宮社掌・竹林豊三が、昭和六年(1931)に作成した由緒書を見たら分かりました。
当所ハ後ニ牧場トナリ権田栗毛ト称スル名馬ノ産地ナリト云フ、御社モ宏大ニシテ社家等モ数多アリシガ、元亀天正ノ間、武田上杉等戦ノ衢(ク:道)トナリ、兵火ニ罹リテ社殿及家屋等皆消失ス、
(略)
依之旧記古文書宝物類等悉皆消失シ、一時廃絶ノ形勢ナリシヲ、文禄年中天台修験正福院ノ住職ト村民相議リ、往古大国主命ノ神社在リシ勝地ニ移転ス、此ノ処ニ神体ヲ奉ジ来テ満行大権現ト崇奉、故ニ旧社地ニハ小祀ヲ建立シテ祭祀セシモ、野火ノ為ニ数度焼失、」
ということで、現在地に遷したのは「兵火で焼失」したためで、その後、旧社地が「野火で焼失」したのでした。

その旧社地「行前」とはどこなんでしょう。
倉渕村の字図を見てみましょう。


「行前」という地名の由来が、「新編倉渕村誌第三巻民俗編」に書いてあります。
上ノ久保から行前川(上ノ久保沢川)に沿って入ると行前という地名がある。
そこは椿名神社がもとあった所で産土山(うぶすなやま)とよんでいる。
椿名神社の由緒によれば、元湯彦命(モトユヒコノミコト)が東国を平定したときに、この山の上に立って望見し、不令行(この先は行かず)を出したという。
これがイクマイ→イクマエとなったという伝承がある。」
「行かず」「行くまい」「行前」になったんだって言うんですがねぇ・・・。

実は、「椿名神社」の由緒というのがもうひとつありまして、明治十二年(1879)に権田村戸長が県に提出したものです。
サキニ別当正福院七世了瑱法印ヨリ聞伝フルニ、椿名神社元湯彦尊ハ大古権田村字広町、今ノ御社ノ裏ニテ当時烏川敷ノ向岸辺ニ、大ナル塚アリ。
頂上ノ丸キ野石ニ、車ノ郡権田村近田庄川並ノ里、椿名神社元湯彦尊ト幽(かすか)ニ切附アリ。(略)
享保ノ頃、烏川ニ(に)三回ノ満水ニテ、最初二回メノ頃、御塚七分通リモ崩破川欠トナリ、其際ヨリ丸キ石出タルコト大ナルハ五〆目位ヨリ百匁位マテ凡五十斗ナリ、追々空シク皆無地トナル。
流失ヨリ直ニ字行前丸小山ノ頂上ニ石ノ宮ヲ建立シ、是ヲ鎮守ト崇メ祭ルコト四十年間ナリ。」
現在の「椿名神社」の向こう岸にあった塚上の石に、「椿名神社元湯彦尊」と刻まれていたのが元の元だというのです。
それが大水で流失しちゃったので、石宮を建立した場所が「行前」なんだという訳です。

因みに、「元湯彦命」(モトユヒコノミコト)というのは、椿名神社由緒によれば、綏靖(すいぜい)天皇の御宇、宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)の御子だそうです。

ところが、ややこしいことに、「榛名(はるな)神社」の由緒に「彦湯支尊」(ヒコユキノミコト)という人物が出てきて、これが「元湯彦命」と同一人物だということで、話しもよく似てるんです。
室田町大字榛名山巖山にあり、
創立は社傳に據(よ)れば神武・綏靖兩朝の御宇、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の御子・可美眞手命(ウマシマデノミコト)及び孫・彦湯支命父子、東國戡定(かんてい:平定)の任果てゝ榛名山中に薨(こう:死)ぜりと言ひ傳へ、山上に神籬(ひもろぎ:依り代)を立てゝ天神地祇(てんじんちぎ:全ての神々)を祭り、皇孫を壽き奉り、永く東國五穀の豊穣を祈り國家鎮護の靈場なりしといふ。」
(群馬縣群馬郡誌)
どうも、いろいろがこんがらがってるようですね。

「倉渕村誌」は、こう結論付けています。
塚から出た丸石は氏族の長の墓が神社の起源ともみられる。
祭神を元湯彦命としたのは、神社を皇室中心の祭祀とした時代につくり出されたものであろう。
つまり、はじめは氏の長をまつったものであったが、後に国の権力者の統制にしたがって祭神を皇室ゆかりのものに変えた。
さらに下って江戸時代になり榛名神社の名声を慕って、従来の氏神の中に榛名神社の祭神をも分霊合祀したものと考えられる。」

拝殿に、みごとな天井絵がありました。


田植えが済んだばかりの田んぼの中に、ポツンと「椿名神社」の森があります。


慶応四年(1868)三月四日、小栗上野介の軍用金目当てに暴徒たちが大挙集合したのが、ここ「椿名神社」だったことも記憶に留めておきましょう。


【椿名神社】



  


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2021年06月27日

史跡看板散歩-231 泉ヶ渕(せんがふち)

倉渕町の岩氷地区に、「倉渕せせらぎ公園」があります。



公園の入口に、「泉ヶ渕」の史跡看板が建っています。



看板を読んでも、なぜ「おせん」が川に身を投げたのか、なぜ夕暮れになると機を織る音が聞こえるのか、分かりません。
「新編倉渕村誌第三巻民俗編」に、その伝説が載っていました。
「千ガ淵の伝説」
むかし、水沼のある農家におせんと言うきれいな娘さんがいました。
この頃の機織りは娘の大切な仕事の一つでした。
しかし、おせんは生まれつきあまり器用ではなかったのです。
近くの農家に嫁にいっても、それだけは苦手でした。
姑さまは、近所の人びとに「うちの嫁はほんとうに困ったものだ。機織りひとつできない。役に立たない嫁だよ」など小言をいいふらしていました。
ある時、商人がおせんの家へ反物を買いに来ました。
おせんの織った反物を見ると「これは売り物にはなりませんよ」といって、一反も買ってはくれませんでした。
姑はこのことを聞いて「こんな嫁は家の恥さらしだ。家の嫁としておくことは出来ない。さっさと出ていっておくれ」と、嫁を追い出してしまいました。
おせんは仕方なく、身の回りのものを片付けてしょんぼりと家を出ていきました。
しかし、おせんの実家は親も既になく身寄りもありません。
途方にくれたおせんは近くの相間川の淵に飛び込んで死んでしまいました。
村びとは誰いうともなくこの淵を「千ガ淵」と呼ぶようになりました。
いまでも、夕暮れになると、深くよどんだ淵の中から「ギーパタン、ギーパタン」と、おせんが機を織る音が聞こえてくるということです。

あぁ、哀れな話だなぁ。
姑がその後どんな気持ちで生涯を送ったのかも気にかかります。

それにしても、この史跡看板、ここでよかったのかな。
地図を見ると、「泉ヶ淵」は後方へずっと下ったところみたいです。

カーブの所の駐車場まで下ると、「相間川」(あいまがわ)への入り口があります。


ここでしょ、看板を建てるなら。

吊り橋の下に渕があります。
それほど深くはありませんが、ここへ身を投げて命を落としたんでしょうか。

悲しみ色をした清らかな水です。

入り口まで戻り、山の方へ登って吊り橋へ行ってみました。



みどり市の「小中大滝」の吊り橋を思わせるような、急勾配の吊り橋です。


吊り橋の上から見下ろした「泉ヶ渕」です。


上流側には滝があり、その両岸は高い崖になっています。

あぁ、ここから飛び降りたのかも知れないなぁ。
恐かったろうなぁ。
ほんとは、生きたかったんだろうなぁ。

上りの「泉ヶ渕橋」は、思いのほか揺れました。


川辺に戻ると、石を配した広場があり、その石のひとつに俳句が刻まれています。



素養がなくてよく分かりませんが、冬の凍てつく空を見上げると、オリオン座を形づくる星々が、かわりばんこに点いたり消えたりして瞬いているという風情なんでしょうか。

句の作者・清水舞子さんは、昭和八年(1933)高崎生まれ。
四十一歳で作句を始め、高浜虚子の孫・稲畑汀子や高崎市文化賞受賞者・吉村ひさ志に師事して才能を花開かせ、現在は俳誌「桑海」の主宰としてご活躍です。
「高崎市社会大学」での俳句講座もなさっています。


「せせらぎ公園」に建つ句碑は、たぶん、高崎市文化協会倉渕支部長の佐藤久男さんのご尽力によるものでしょう。
佐藤さんは、「桑海」の会長でもあります。

オリオンの どこかが欠けて ゐる寒さ

おせんも星になって、夜空で瞬いているのかな。


【泉ヶ渕史跡看板】

【泉ヶ渕】


  


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2021年06月20日

史跡看板散歩-番外編 神戸町の戸榛名神社

前回、倉渕町「戸春名神社」の記事で、「戸春名」という名称は「榛名神社」に通ずる「神穴」に戸を建てているからだろうなんて、勝手な推測をしてみました。
じゃ、神戸(ごうど)町にある「戸榛名神社」はどうなんだってことで、来てみました。

「神戸公民館」の先の二又を左に上るのが、「戸榛名神社」の参道なんですが・・・、



なぜか、車両通行止めになっていたので、公民館に車を停めて歩きました。


参道は、「旧大野道」と言うらしいです。


300mほど歩くと前方右側に鳥居が見えてきますが、「通行止」の看板が建っています。

車両だけじゃなく、徒歩もダメということなのでしょうか。

ここまで来てそれはないだろうと、構わず行ってみると、道路にブルーシートが敷き詰められています。

どうやら、道路が崩落しかかっているらしいです。
これから本格的な雨期に入るのに、大丈夫でしょうか。

右端を通って、鳥居まで進みました。


鳥居を潜ると、長い参道の正面に社殿があります。


シンプルな社殿の右上に、「戸榛名神社」の由緒を書いた立派な額が掲げられていました。



文字がかすれて読めないところもあるのですが。
戸榛名神社
祭神  埴山姫命 火靈産命 源満行公
由緒 人皇四十九代光仁天皇御宇天應年間ノ創建ニテ實ニ千數百年前ノ旧社ナリ
往古ハ榛名神社ト称シタリ 延喜式正一位榛名神社 上野神明帳ニ正一位榛名大所明神ト記スモノ則チ本社ナリ
昔は「榛名神社」と称し、上野神明帳には「榛名大所明神」となっている、とあります。
ん?「大所」って何だ?

「上野国神社明細帳」に書いてありました。
勧請年月不詳、上野國神明帳ニ従五位上榛名大所明神ト見エタルハ當社ナルヘシ、
大所ハ大戸ノ假字ニシテ、ヤガテ神戸ノ意ナルヘク、村号ヨリ推シテ考ルニ、此ノ地ヲ措テハアラシトトソ思ハル」
「大所」「大戸」の仮字で、これが「神戸」になったんだという訳です。
たしかに、「戸」「所」の半ペタ(偏)で、略字として用いられていたのかも知れませんが、それが「神戸」になったというのはどうなんでしょう。

「神戸」については、「戸榛名神社」の由緒看板はちょっと違う説なんですけどね。
此ノ地 元江戸ト書キタルヲ 神戸ノ字ヲ用ヰ」
「江戸」と書いていたんだけど、後に「神戸」という字を用いるようになったというんです。
たぶん、「江戸」と書いて「ごうど」と読んだのでしょうね。

「江戸」と言えば、中室田に「江戸村」というのがありました。
「滑川の江の外の村」ということで、「外」「戸」の字を当てたようです。

あれ?そういえば、倉渕の「戸春名神社」榛名神社」と書かれたことがあったんでしたよね。

あー、何となく、つながってきたような気がしてきました。
「戸」「外」も読みは「と」で、意味は「所」ということなんじゃないでしょうか。

因みに、「神戸」と書く地名は全国にあって、読み方は「ごうど」の他「こうべ」「かんべ」「じんこ」などと異なりますが、いずれも社に関わる人たちが住んでいただそうです。
史跡看板散歩-223では「宮谷戸」(みやがいと)という地名が出てきますが、この「谷戸」「谷の所」という地形です。

とすれば、「戸春名神社」「戸榛名神社」も、「榛名山を仰ぐ所」にある神社ということにならないでしょうか。
ま、隠居の思い付きではありますが。

拝殿には、「戸榛名山」という額が掲げられています。


社殿の左手前に、立派な神楽殿があります。


色褪せ、剥げかかっていますが、天井絵も立派なものです。


「榛名町誌民俗編」に、こう書かれています。
戸榛名神社には古くから神楽が伝承されていて、昭和九年(1934)、NHKで全国放送されたこともあった。
昭和十八年(1943)、神楽装具が盗難に遭い中断を余儀なくさせられたが、昭和三十一年(1956)四月八日の例祭に神楽を復活させ、奉納した。
現在は再び中断している。」

語り継ぎ維持するというのは、難しいものですなぁ。


【神戸町の戸榛名神社】


  


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2021年06月13日

史跡看板散歩-230 戸春名神社の大杉

道の駅「くらぶち小栗の里」のすこし高崎寄りに、面白い看板が建ってます。

おだてられたんでしょうか、チェーンソーを持った豚が木に登ってるみたいです。

裏側にもいました。

あれ?「小栗上野介忠順公関係古書取り扱い」って書いてありますねぇ。

あ、今日の目的地は「戸春名(とはるな)神社」でした。
豚の看板から山の方へ100mほど行くと、右前方に鳥居らしいものが見えます。


さらに進むと、大きな庚申塔やら念仏供養塔やらが建ってる三辻に出ます。


ただ、その脇に建ってる案内板の矢印の向きが・・・、これ、違ってますよね。


無視して三辻を右へ進むと、さっき見えた鳥居が、畑地の中にポツンと建っています。

あれ?「戸春名神社」の鳥居じゃなかったのか?

不審に思いながら右に行ってみると、あー、やっぱり「戸春名神社」の鳥居でした。

きっとここからが昔の参道で、新しい道が参道を分断しちゃったんでしょう。

史跡看板は、大杉の根元に建っていました。



ここへ来た人の100人中100人が、このアングルで撮るでしょう。


でも、逆アングルもまた素敵です。


大杉に隠れるように、神社の由来看板がありました。

あっさりしたもんですね。

「倉渕村誌」には、由緒のことがこう書かれています。
戸春名神社の由緒を知る資料に明治三十五年の調査書がある。
これは県が村社を指定するに当り、事前にその神社の由緒を調べたもので、その報告書の写しが明治三十五年の倉田村役場の書類綴の中にあった。
しかしこれは保管がよくなかったため大部分がボロボロで辛うじて判読できる。
この調査書は、字麹屋の戸塚長吉という人が父祖から伝え聞き暗記していたことを別の人が文章になおしたもの・・・」

その調査書を拾い読みしてみましょう。
当社ノ創立ハ景行天皇ノ御宇 東国ノ凶族鎮定ノ為メ日本武尊吾妻ヘ御出征ノ際 国宝☐☐☐神明ヲ祭ラントテ其地況視察ナシテ 此地☐☐覧アリテ是崛強ノ地ナリト 此ニ天祖ノ三神ヲ奉斎シテ 椿名ノ神社ト称シ玉ヒ 此地ヲ椿名ノ荘菫レノ里宮輪ト為シ・・・」
創建は景行天皇の御代(西暦71~130)、開祖は日本武尊で、初めは「椿名の神社」と称していたということです。

その「椿名の神社」「戸春名神社」と呼ばれるようになったことについては、
中古戸春名神社トセシハ(外ノ誤リ 外ハ戸ニ通ズルヲ以テカ 戸ハソトハルナノ意カ)星月ヲ逐フテ言伝相誤リシシナランカ」
言い伝えているうちに誤ってしまったんだというんですが、さてどうなんでしょう。

「倉渕村誌」本文には、こう記述されています。
この神社は江戸時代のはじめにはもう確乎たる地位を築いていたものと見え、寛永八年(1631)の水帳に「外榛名前」の田、「宮わき」の畑というように地名がわりに使われている。
戸春名というその名前からも、また明治二年戸長が差し出した「社寺堂廟書上帳」に満行大神社と記されていることからしても榛名神社と深い関係があることは明らかである。
この神社も、はじめは三ノ倉地方住民の氏神としてまつられていたが、中世(室町時代ころか?)になって榛名神社の神徳にあやかろうと、氏神に合せて榛名神社の祭神を分霊勧請したものであろう。
このときこれまで無名の氏神は外榛名(戸春名)神社となったと考えられる。」
史跡看板は、この説をとっているようです。

さて、「戸春名神社」社殿へ行ってみましょう。


なかなか立派な造作です。


社殿は、背後の岩に食い込むように建っています。



これには、面白い話が伝わっています。(戸春名神社由緒)
本社ノ裏ヲ子丑ノ方ニ神穴ト称スルモノアリ 其奥行ノ深キコト幾何ナルヲ知ル能ハズ
古来ヨリ口碑ニ此神穴ハ遠ク榛名神社本殿ノ裏ニ通ズト」

そうか、わかった。
榛名神社へ通じる「神穴」の入口に戸を建てているのが、「戸春名神社」なんだ。

ということで、分かったような気になってしまいましたが、実は高崎市神戸(ごうど)町にも「戸榛名神社」というのがあるんですよね。
これは行ってみるしかないでしょう。
では、次回。


【戸春名神社】


  


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2021年06月06日

史跡看板散歩-229 三ノ倉の神明宮

「藤鶴姫の墓」から権田方面へ300mほど行った所に、「神明宮」(しんめいぐう)の鳥居が建っています。


丸い柱の直線・直角的なフォルム、貫(ぬき)が柱を突き抜けず、額束(がくつか)もない簡素な造りが、「神明鳥居」の特徴だそうです。


鳥居を潜った正面に社殿、史跡看板はその手前に建っています。



天照大御神は、教育勅語に「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・・」とあるように、天皇の祖先神ということになっていますので、本来、天皇以外は奉幣することのできない神様でした。

中世になって武家が政治を行うようになり、朝廷の力が衰えてくると、天照大御神を祀る伊勢神宮も衰微していきます。
そこで、全国各地に派遣されて伊勢神宮のお札を売ったり、祈祷やお祓いをする「御師」という人たちが活躍します。
これによって庶民のお伊勢参りが盛んになり、全国各地に天照大御神を祀る神社が建立され、皇室だけでなく日本全体の鎮守の神様となっていきました。
慶長年間に創建されたとされる三ノ倉「神明社」も、おそらくそうやって地域の人々の心の拠り所となっていたのでしょう。

神仏習合時代、天照大御神大日如来が神になって降臨したものとされ、庶民の篤い信仰を得ていました。
ところが、江戸後期になって水戸学や国学による勤皇思想が広まると、日本は神の国であるとして、神仏分離、廃仏毀釈へと進みます。

さらに明治に入ると、国の権力者が神を利用し始めます。
天皇を現人神として国家元首に祀り上げ、皇国思想を国民に植付けて統率するようになっていきます。
その結果、大勢の国民が命を失うなどの大きな不幸と、危うく国が滅亡しかけるという危機を招いてしまったのです。

さて、「神明宮」の境内へ戻りましょう。
杉木立の中に、たくさんの石造物が集められています。

夫々が、素朴な庶民信仰の歴史です。
平和で安心な暮らしを願う、庶民の心の歴史です。

ところが今また、天皇を元首とする神の国に戻そうとする勢力が、国家権力の座に居座り、国民主権の憲法を棄て去ろうと企てています。

「神明宮」の境内で、この国の行方が心配で仕方なくなりました。

と思っていたら、こんな色っぽい姿態の観音様を見つけました。


どなたが置いたのか分かりませんが、庶民感覚あふれる観音様の姿に、少し心が和みました。


【三ノ倉の神明社】


  


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2021年05月30日

史跡看板散歩-番外編 小栗上野介邸宅跡

前回に続き、番外編です。

「権田栗毛」の伝説に登場する「岩窟観音堂」の縁起を記した看板に、「小栗上野介の邸宅跡はこの山の上にあります。」と書かれていたので、行ってみることにしました。

「満寿池」の近くに、上り口があります。



熊が出るらしいです。


けっこうな急坂をハーハー言いながら400mほど上ると、下界がよく見渡せるところに出ます。


実際に来て見ると、小栗上野介が謀反のための要塞を造っていると新政府が難癖をつけたのも、無理からぬように思えてきます。
見ようによっては、さながら中世の山城のようです。
「倉田村郷土誌」も、こう表現しています。
小栗氏城趾ハ権田村字観世音山上ニ在、前ハ懸崖絶壁、後ハ榛名山麓ナル一帯ノ地ニ連リ、左右ハ夏ナホ寒キ深谷ヲ廻ラシ、天然要害ノ地トイフベキナリ」

そこから少し行くと、「小栗上野介の屋敷跡は、この下の平地です。」という看板と、石碑が建っていました。


「至誠奉公」の題字は、旧彦根藩主井伊家の第16代当主・井伊直愛(なおよし)氏の筆です。

慶応戊辰(一八六八年)三月一日、小栗上野介忠順は江戸より移り住み、この丘上に居邸を新築し、村の若き人々の育成を計画、眼下の山峡から太政大臣を出してみせるといった。
それは井伊大老の抜擢により、僅か三十四才で、万延元年第一回遣米使節全権の一人となり米国に赴き、近代文化に接し、国会を視察して、将來の新日本建設は封建の垣を超えた若き人々の力に待つことが多い、と観じたからである。
然し、事志と違い滞村六十六日で、雄圖空しく逝いたけれども、この地の若人、否、日本の若人によせた公の期待は大きく、遙かなる浅間かくしの峰に、烏川のせゝらぎに、今猶その声は、私たちに語りかけている。
本日殉難百周忌を迎え、感新たなるものあり、邸跡に碑を建て公追慕のしるしとする。

下の平地に、「観音山小栗邸跡」の説明板が建っています。



ここに、棟上げの終わった小栗邸が建っていたのですね。


邸宅を支えたはずの礎石が、寂しそうに草に埋もれています。



用水の清冽な水の音も、無念のすすり泣きに聞こえます。


「完成を見なかった小栗の邸は、現在前橋市総社町の都丸家の住宅となって現存している。」と、説明板に書いてあります。
3年ほど前、とあるご縁で、その都丸家住宅を見せて頂くことができました。(写真の転載はご遠慮ください。)



都丸家に移築された経緯は、群馬県文化財研究会編「上州の重要民家をたずねる 東毛編」に書かれています。
伝承によれば、(慶応四年/1868)閏四月十七日家財道具・米穀・材木など一切を取り調べ、高崎の商人及び村民にも払い下げた。
上棟後間もない未完成の上野介の住まいは、現在の中室田町の「はる」という女性の仲立ちで、持木癸巳二氏が買い入れて自らの住まいとした。
持木氏は、総社町で熊野屋という屋号で、荒物屋を手広く商っていた。
その後明治四十三年(1910)になって、都丸家の先祖が当遺構を持木家から六〇〇円で購入し、当地に移築したものと伝えている。」

【復元平面図】


「下の間」の長押に、小栗上野介の肖像写真が掛かっています。


「至誠奉公」碑の拓本も下がっていますね。


書院造りの「上段の間」は、華やかさはありませんが、武家屋敷らしい落ち着いた造りです。



いつの日か、権田観音山の邸宅跡に再移築されて、多くの人の目に触れる時が来ることでしょう。


【小栗上野介邸宅跡】


  


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2021年05月23日

史跡看板散歩-番外編 権田栗毛

「藤鶴姫の墓」へ行く途中、道路脇に大きな史跡看板が建っているのが一瞬目に入りました。


気になったので、帰りがけに寄ってみました。


史跡看板には、「(伝)権田栗毛終焉の地」と書いてあります。

高崎市の指定史跡になっているんですね。

看板に書かれているのはあらすじだけですが、詳しく紙芝居にして下さってる方がいましたので、まずはその動画をご覧ください。

作者の福島茂徳さんは、大正十二年(1923)熊谷市妻沼町の生まれ。
出征先の満州で終戦を迎え、シベリア抑留後に帰国、教職に就きます。
70歳を過ぎてから、地元熊谷の歴史を絵本やビデオにするなど、熊谷学講師として郷土史の普及活動を行っています。
ご覧頂いた動画も、絵の作成、撮影、ナレーション、すべてご自身一人でなさっています。
これらの活動は、平成三十年(2018)96歳で亡くなるまで続けられました。
吾もまた、斯くありたし。     合掌

史跡看板の隣に建っている石碑には「熊谷治良直實乘馬舊蹟」(熊谷次郎直実乗馬旧跡)「馬頭観世音 從是(これより)入口」と刻まれています。


坂を上って行くと、川の中に大きな石があって注連縄が張られています。
その石の上に、「権田栗毛枕石」と刻まれた碑が建っています。

ということは、この川の水が「さかさ水」なんでしょうか。
ふつうに川上から川下に流れてますけど・・・。

明治四十三年(1910)発行「倉田村鄕土誌」に載っている権田栗毛の話には、「枕石」「さかさ水」も出てきません。

これが、大正十四年(1925)発行の「群馬縣群馬郡誌」になると、「さかさ水」だけが出てきます。
栗毛更に舊主の許に還らんと志せるにや、三の倉村字道場谷戸と云へる所まで辿りつき、傷に耐え兼ね逆水(さかみづ:小川の水普通の方向に逆流せる部分)を飲みて遂に斃(たお)る。」

昭和五十年(1975)発行の「倉渕村誌」も、本文は「群馬郡誌」を引用しているのですが、なんと、その挿入写真のキャプションに初めて「枕石」が出てくるのです。

でも、これ、川の中にあった石とは違いますよね?

権田栗毛が最後に飲んだ水と「枕石」がセットで出てくるのは、昭和五十一年(1976)発行の「倉渕村の民俗」です。
故郷の権田に帰って来たが、すでに生家はなく、土城谷戸までひき通し(還し?)て、枕石のところの清水を呑んでいた。
村の小供がみつけた。見ると、腹に巻いた布が血によごれていた。
子供が『はらわたが出ている。』といったところが、馬はバッタリ倒れた。
その枕になった石を枕石という。」
こうなると、「枕石」は川の中にないと具合が悪いですもんね。

ところが、平成二年(1990)発行の「倉渕村のあゆみ」で、川の中の「枕石」は再び怪しくなります。
栗毛は、もとの主人に会いたい一心で弱った足を進めたが三ノ倉の土城谷戸という所で力尽き息をひきとった。
村人は、栗毛をこの場所に葬り馬頭観音堂を建てて祭った。
現在観音堂は焼けて残っていないが、同所に小さな石のほこらと栗毛が頭を横たえたという枕石が残っている。
として、写真のキャプションも、祠の前の石をはっきり「権田栗毛の枕石」と言い切っています。


その祠と「枕石」は、川の左の小高い場所にあるようなので、行ってみましょう。


意外にモダンな参道で。


参道を進んだ左側に、お堂が建っています。
観音堂だと思ったのですが、大師堂かも知れません。



参道の正面に、石仏や石祠が並び、手前に写真にあった「枕石」が祀られています。

やっぱり、こっちが「枕石」っぽいですよね。

最も新しい「新編倉渕村誌 第三巻民俗編」(平成十九年/2007発行)の記述は、こうなっています。
村の人々は栗毛のなきがらを手あつく葬って、そこに馬頭観音堂を建て馬の霊の冥福を祈りました。
この堂は焼失してなくなり、今では祠と栗毛が枕にして倒れたという「枕石」があります。」

祠の中から可愛い馬が顔を覗かせて、「細かいことはいいんじゃない?」と笑っていました。


さて、その権田栗毛は生まれ故郷の小池市助の元へ帰って来たのですが、すでにその家はなく、巻いてきた母衣(ほろ)が解けて落ちます。
村人はその母衣をその地に埋めて、「お母衣明神」として祀ったと言います。


行ってみました。
権田の信号から北軽方面へ200mほど行ったら、右へ入ります。


そこから500mほど行った所に、看板が建っています。

ただ、「お母衣明神」ではなく、「権田栗毛生誕の地」となっていますが。

石段を上ると、杉の木の根元に石碑や石祠が祀ってあります。


この石祠が「お母衣明神」だと思うのですが・・・、

うーん、天保六年かぁ・・・。

母衣の中から転げ落ちたという観音像は、岩窟(いわや)観音堂に祀られているそうなので、そこへも行ってみました。
マス料理と釣り堀で有名な、「満寿池」のすぐ近くです。


岩壁を抉って建てたような、「岩窟観音堂」です。


平成十五年(2003)に改修された、きれいなお堂です。


扉に、「岩窟観世音」の絵姿。


扉の左に、「岩窟観音堂の縁起」が掲示されています。

あれ?
権田栗毛が飲んだ水は、ここの「観音清水」ってなってますけど?



伝説というのはこうやって膨らんでいくんだな、ということを教えてくれる「権田栗毛」の話でした。

長々と書いてまいりましたが、最後に、身も蓋もない話を。
按ズルニ平家物語ニ熊谷ハ権田栗毛ト云ふ名馬ニゾ乘リタリケル云々、源平盛衰記ニ権田栗毛ト名ヅク云々トアル名馬ハ此ノ地ニ出デシニハアラズ、
熊谷ガ舎人ニ権太ト云フモノアリ、能ク馬ヲ飼フ。
直實曰ク馬ハ武士ノ寶ナリ、ヨキ馬ヲ求メテ得サセヨト上品ノ絹二百匹ヲ権太ニ與フ。
権太之ヲモテ陸奥ニ下リ一ノ戸ヨリ逸物ヲ得テ來リ、権太栗毛ト名ヅク云々トアリ」
(倉田村鄕土誌)

「権田栗毛」じゃなくて「権太栗毛」で、陸奥国の馬だって倉田村の郷土史で言ってるんですね。

あ~ぁ。


【権田栗毛終焉の地】

【お母衣明神】

【岩窟観音堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2021年05月16日

史跡看板散歩-228 藤鶴姫の墓

倉渕町高野谷戸(こうやがいと)バス停から権田方面へ約100m。


見通しの悪いカーブの陰に、「藤鶴姫(ふじつるひめ)の墓」への入口があります。

スピードを出した車が次々とカーブを曲がってくるので、おちおちしてられません。

史跡看板は、石段の脇に建っています。


面白いのは、藤鶴姫長野業盛夫人、業政夫人の二説あるということです。

「藤鶴姫の墓」は、石段を上り切った観音堂の後ろにあります。



石碑の右下にある小さな自然石が、「藤鶴姫の墓」だそうです。

碑文には、業盛夫人と刻まれてます。

由来説明板も、字が消えかかっていてよく読めませんが、業盛夫人と書かれています。


業政夫人説はどこから出たんでしょうか。

明治四十三年(1910)発行の「倉田村鄕土誌」では、
藤鶴姫ハ箕輪城主長野信濃守業政ノ夫人ニシテ・・・」
となっています。

大正十四年(1925)発行の「群馬縣群馬郡誌」でも、
箕輪城主長野信濃守業政夫人藤鶴姫は越後上杉家の養女にして、幼名を鶴代姫と稱し長じて藤鶴姫と呼び入りて業政の夫人となれり。」
となっています。

これが、昭和五十年(1975)発行の「倉渕村誌」では、両説併記となります。
「倉田村郷土誌」「群馬郡誌」業政夫人という記載を引用しながらも、
業盛の妻は年十八歳、城を逃れて農家にひそんでいたところを見つけ出され、甲斐の武田信玄のもとへ連れて行かれたという。
また一説にはこの人が高野谷戸で死んだ藤鶴姫その人であるともいう。」
と記述しています。

さらに、「上毛及上毛人(昭和三年九月号)」に清水儀平氏が投稿した「長野記」を引用しています。
また一説には晴信(信玄)氏業(業盛)の室上杉氏の容色を知り、部下に命じて是れを需め妾たらしめんと欲す。
夫人之を知りて民家に隠れ忍ぶ、たまたま晴信の部下之を知りて迫る。
夫人逃れて三の倉村に至り、長野原に赴かんと欲す。
敵の迫る急なるや、到底のがる能はざるを知り遂に自刃して死す。
今尚三の倉村字下郷に長野氏室の墓あり、後世村人この地を称して限り坂と称え長野氏の室の霊を祭れりと。」

ところが、平成十九年(2007)発行の「新編倉渕村誌 第三巻民俗編」では、再び業政夫人説が復活します。
箕輪城主長野業政の夫人に藤鶴姫という人がおりました。
主君業政は既に病気で亡くなり、その子業盛があとを継いで奮戦しましたが、いよいよ城も危なくなってまいりました。
姫は『業盛どの、私は女とはいえ、今は亡き業政の夫人であります。私もこの城とともにしたい』と頼みました。
『藤鶴姫殿、それはなりません。あなたは、越後の上杉の出、箕輪のものどもが最後の最後までよく戦ったと、越後の上杉につげる人ではありませんか』と、十九歳の若殿からの言葉でありました。
藤鶴姫は、このりん然とした態度に心を打たれ『よくわかりました。業盛どのの命令どおり、りっぱになしとげます」と答えました。』
微妙な表現です。
夫・業政亡きあと、その子・業盛の妻になったと読めなくもありません。

19歳の業盛に18歳の藤鶴姫
まぁ、見合いの年齢でしょう。

業政はその5年前に死んでいて、享年70です。
藤鶴姫業政夫人だったとしたら、紀州のドン・ファンもびっくりの歳の差婚ということになります。

因みに、藤鶴姫を妾にしたがった武田信玄は、その時45歳です。
よっぽど美しい女性だったんでしょうなぁ。
「長野記」には、こう表現されています。
妙齢十八、芳顔美態、桜桃容を耻ぢ、楊柳姿を嫉む。当時美人の聞あり。」

さて、その藤鶴姫の最後ですが、「新編倉渕村誌」がいちばん伝説らしい記述なので、ちょっと長くなりますが引用しておきましょう。
業盛は、藤鶴姫の警護に佐藤作兵衛信正とお供の家来五騎をつけて脱出させることにしました。
姫は身軽な百姓娘に変装しましたが、ただ日頃大事にしていた手鏡一個と、いざという時に使う護身用の懐刀をそっと忍ばせておきました。
七人の者が夜を待って、うまく城の包囲陣をくぐり抜け、室田街道へさしかかった時は、もう夜はしらじらと明けていました。その日は山の中の小屋にひそみ、夜を待って越後をめざして脱出することになりました。
姫の一行が、のぼり坂のはげしい山道を馬で進め、室田を過ぎたころでした。箕輪に進む武田勢の者に出会ってしまいました。
『暗くてわからぬが、何者か。どこへ行くのか・・・』などきびしく尋ねられました。
護衛の信正は、すかさず、
『武田本陣の雑役のものであるが、ここにいる百姓娘の案内で、食料調達にいくものである』と答えたが、姫の様子からは、変装したとはいえどうしても百姓娘には見えない。とうとう、見破られてしまいました。
信正は、とっさに、自らの刀を抜き『ものども討ち取れ』と切りかかっていきました。
不意をつかれた武田勢は、たちまち二、三人倒れましたが、たちまち、立ちなおり巻き返してきました。
信正は姫に近寄り、さっと姫を馬に乗せて、『早く逃げて、後からすぐ追いかける・・・』と馬の尻を叩き倉渕の方面へ走らせました。
姫は馬の鞍にしがみついたまま、無我夢中で走りつづけました。そして、しばらく行くと三ノ倉の高野谷戸あたりの小さなお堂にたどりつきました。
姫はさびしさと行く先の不安におびえて、これ以上進むことは出来ませんでした。
『信正や、お供の家来はどうしたのだろうか』
姫は、ふと歩いてきた道をふりかえると、『おーい、おーい』と人の呼ぶ声がするではありませんか。しかし、日も落ち、姿もよくわかりません。
『あれは、正しく敵の追手ではないか。捕らえられれば、われは女の身・・・それよりは、いさぎよくこの場で自害しよう』と、ふところから、懐刀をとり出して命を絶ってしまいました。
だが、その兵は、藤鶴姫の安否を気づかってきた家来の信正たちだったのです。
信正は姫の無残な姿を見て、『なんと、早まったことを・・・』と全身の力がぬけるようにその場にすくんでしまいました。
信正は、姫の遺体をこの土地の土豪土屋蔵之介に頼み、お堂の墓地に葬ってもらいました。
そして、従者に、姫の遺髪を越後の国に届けさせ、自分はこの土地に落ち着き、墓守りとなりました。
いまでも佐藤家の人達はそれを続けております。高野谷戸の土屋家には、姫の手鏡と轡(くつわ)が残っています。
姫の後をおいかけてきた援兵どもが『おーいおーい』と呼んだ場所は、だれが言うともなく『ひとこえ坂』といい、姫が自害したお堂の坂を『もうこれかぎり』として『かぎり坂』といっています。」

哀れな話だなぁ。
井出町に、長野業盛の墓と伝わるものがあります。
一角に、藤鶴姫の依り代を建ててあげることは出来ないものでしょうか。


【藤鶴姫の墓】


  


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2021年05月09日

史跡看板散歩-227 僧戒定の供養塔

ようやく倉渕町へ入りました。

国道406号、「落合」バス停の先を北へ入ります。


入るとすぐ、左側に史跡看板が建っています。



「僧戒定」と書かれていますが、「僧・戒定」とした方が分かりやすいでしょう。
「僧侶の戒丈さん」ということです。
「戒定」「かいじょう」と読むようです。(倉渕村のあゆみ)

戒定さんについては、看板に書かれていること以上の情報は見つかりませんでした。
強いて言えば、「上野人物志」に少し細かいことが書かれているくらいです。
戒定假の名は定惠、金猊園と號す、
上野國群馬郡三野倉(三ノ倉)の人、俗姓は永井氏、父の名は逾樹、母は土屋氏の出なり、」

看板の後ろの塚上に、塔が建っています。



高崎市のHPでは、この塔を「僧戒定の供養塔」としているのですが、そうなのかなぁ?

基台には「明和五戊子年七月日 上野國群馬郡下三倉村」とあり、とくに戒定さんの名は刻まれていません。

明和五年(1768)といえば戒定さんは十九歳、豊山(ぶざん)に入る前年の建立です。
生存中に「供養塔」を建立することはないでしょう。

塔身には、こう刻まれています。

「奉納西國坂東秩父」「日本」「回國」「供養?」
西国33ヵ所、坂東33ヵ所、秩父34ヵ所、計百ヵ所の観音霊場を回ったことを記念する「回国供養塔」だと思います。
もしかすると、戒定さんが回ったということなのかも知れませんが。

その塔の左隣に、もう一基、ひょろっとした石碑が建っています。


碑面には「武州中野宝仙寺四十世之住 傳燈大阿闍梨法印定慧位 文化二乙丑年正月廿三日」と刻まれています。
「定慧」「定惠」で、「上野国人物志」にあった、戒定さんの仮の名です。

横面には「髙嵜石上寺辨快御弟子戒定房五十六才」と刻まれています。

「辨快」は、戒定さんを得度させた石上寺の和尚さんです。

碑背に、石碑の建立年と建立者が刻まれています。

「文化八辛未三月立之」「永井粂右衛門吉長作」
戒定さん入寂後に永井家で建てたものです。
「僧・戒定の供養塔」と言うなら、こちらの方でしょう。

ところで、このすぐ近くに、有名な「落合の双体道祖神」があります。



真っ昼間から、まぁ、何と大胆な・・・。


どうしてこんなことになったのか、いつか取り調べをしてみたいものです。


【僧・戒定の供養塔】

【落合の双体道祖神】


  


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2021年05月02日

史跡看板散歩-226 上里見町の多胡神社

「天上橋」の烏川対岸に、上里見町間野(まの)地区があります。


「東間野」バス停から東へ50mほど行った所に「多胡神社」への入口があり、史跡看板が建っています。



「多胡羊太夫宗勝を先祖として崇め祀っている」とありますが、たしかにこの辺りには「多胡」姓の家が多いのです。



「里見村誌」の伝説口碑の項に、こんなことが書かれています。
今日、間野、谷ケ沢、上神等には多胡姓を名乗る家が極めて多くひとつの集落をなしている観があり、その他上里見一帯に散在している状態である。
この多胡氏の氏神が多胡神社で、祭神は多胡羊太夫である。(略)
この事について次のような伝説がある。
多胡家には「多胡羊太夫由来記」という文書が伝えられている。
里見村以外にも多数あり、その内容も必ずしも同じではないので、真偽のほどはこゝに断定できない今、里見村の間野の多胡武正、上神の多胡清所蔵のものによって、この伝説の略述をしよう。」

由来記の終盤、羊太夫が朝廷の攻撃によりもはやこれまでという場面です。
味方は悉く戦死して、残るは羊太夫主従三騎となる。
もはや最後と見えたその時、羊太夫主従三騎は金色の大きな蝶に化けて山上へ飛び登って行った。
これを見た寄せ手の大群は、この機を逃すなとばかり山上めがけて攻め上ってきたので、金色の大蝶は休む暇もなく、今度は三羽の鳶に化けて大空高く舞い上がって、北の方へ飛び去ったのである。
こうして、さしも激戦を交えたこの戦いも、ついに多胡城の落城をもって終りを告げたのである。
しかし、これより一ヵ月程前に、神様のお告げにより、もはや多胡城(落城)も間近いことを知った羊太夫は、嫡子宗顕、孫宗量の両人をひそかに派遣して一族の落ちつき先を定めさせた。
両人は碓氷郡間野の山奥に潜行して、仮屋二軒を作って一族の到着を待ちうけていたのである。
この地は、今日「二ツ屋」と呼んでいる所である。
鳶に化けた主従三人は、勿論こゝへ飛んできて落ちついた。
一ノ鳶、二ノ鳶、三ノ鳶という地名は、この三羽の鳶が飛来して、とまったことを意味するもので、こうして、羊太夫以下多胡一族は間野の山奥に定住したのであるということである。」
それで、多胡さんが多いんですね。

さて、石段を上って「多胡碑」を見に行きましょう。


途中で石段の材料が足らなくなったんでしょうか、文字が刻まれているものや、孔が開いてるのもあります。
幟旗を立てる杭だったんでしょうね。


てっぺんに、素朴ながらおしゃれな彫刻のある社殿が建っています。


社殿の右に建っているのが、「多胡碑」です。


あまり風化もなく、碑文も割合はっきりしています。

看板に「吉井の碑文と一部異なる箇所がある」と書いてありますが、ちょっと分かりにくいと思うので補足させて頂きます。

吉井の碑文では「和銅年三月九日甲寅」となっているところが、間野の碑文は「和銅年三月九日甲寅」となっている。
和銅四年の干支は「辛亥」であって「甲寅」ではない。
「甲寅」の年は和銅七年なので、「間野」ではそう直している。
しかし「甲寅」というのは「年の干支」ではなく、三月九日という「日の干支」なんだよ。
勘違いしちゃったんだね、ってことを言ってるんですね。

実は、吉井「多胡碑」と異なる箇所はそれ以外にもあります。


それにしても、間野「多胡碑」がいつ建碑されたのか不明というのも不思議なことです。
不思議と言えば、その「多胡碑」のすぐそばに、何の目的か分からない不思議な石碑が建っています。



もしかすると、「多胡神社」を建てるために土地を寄進した人物なのかも知れません。
だとすると、「多胡碑」の建碑も天保七年(1836)ではないかと思うのですが・・・。
さぁ、どうなんでしょう。


【多胡神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2021年04月25日

史跡看板散歩-番外編 天上橋

菖蒲沢集落の樋口さんに教えて頂いた、興味深い話。

樋口家のご先祖が菖蒲沢の地に移り住んだ時、そこは高台のために農業は天水に頼らざるを得なかったようです。
そこでご先祖は、滑川の源水を延々菖蒲沢まで水を引いてきたんだそうです。
以後その流域一帯の原野は田畑に姿を変え、集落も増えていったと言います。
そして取水した所の地名は、水を引いた樋口氏に因んで「樋ノ口」(といのくち)と呼ばれたのだということです。

「天上橋んとこに、まだ、その遺構が残ってると思うよ。」と言うので、行ってみることにしました。

「菖蒲沢入口」バス停の、ひとつ倉渕寄りが「天上橋」バス停です。


ただ、この辺に、そういう名前の橋が架かっている川はありません。
樋口秀次郎氏編著「榛名の地名辞典」には、こう書かれています。
『天上橋』の『天上』は、『天井』と同じで、高い所、上方を表わし、『橋』は『端』と同根語で『端』と『端』を渡したものを言い、道路や水路に用いられます。
『梅ノ木』の『天井橋』はその遺跡が現存していますが、中世末ごろ、『梅ノ木』や『菖蒲沢』の努力によって、飲料水、灌漑用として、滑川上流の水を『樋ノ口』から分水、延々と引水した用水堰の導水用の石橋のことです。」

天上に架けられた導水用の石橋が、「天上橋」だったんですね。(ただし、これには異論もあるようです。)

「樋ノ口」については、こう書かれています。
大字上室田の斉渡北原、斉渡南原、両庭、梅ノ木、和久谷等の地域を潤すために、滑川の上流『糠塚川』から分水、取水しているのが『斉渡堰』です。
この斉渡堰の取水口の樋から『樋ノ口』の地名は出ています。」

「天上橋」バス停のすぐそばを、「斉渡堰」の水が流れています。


上流へ行ってみました。


下流側を眺めると、小山の上に何やら石柱のようなものが見えます。
ん?あれが「天上橋」の遺構か?



小山に登ろうとしたら、ちょうど土地の所有者らしき方が軽トラでいらっしゃいました。
無断で私有地に入り込んだ上に、厚かましくも「天上橋」のことについてご存知ですかと尋ねる迷道院に快く接してくれたのは、梅の木集落の長壁(おさかべ)さんという方でした。
実に詳しいお話を聞かせて頂き、案内までして下さいました。

石柱はたしかに「天上橋」の遺構で、水を通していたパイプもまだ残っていたのです。


「向こうの白い花が咲いてる所に貯水槽があって、そこからパイプで引いてたんだ。」と仰います。


左の石垣が積んである部分が、その貯水槽の跡だそうです。


今は埋められて花壇になっています。

視線の先に、小山の上の石柱が見通せます。
あそこ迄パイプで渡していたんですね。

石柱から「菖蒲沢」集落方面を望んてみましょう。
前方の鉄塔が、「菖蒲沢」集落の西端です。

石柱から前方へ続く窪みがありますが、これも「天上橋」の遺構だそうです。

水はその窪みを通って、小山の先端にあった貯水槽に入り、そこから樋で道を跨いで「菖蒲沢」集落へ送られていた訳です。


国道の端に「天上橋」の遺構がもう一つあります。

国道を跨ぐ樋の支柱の残骸です。

支柱はもっとずっと背の高いものでしたが、「天上橋」が撤去される時に、倒れたら危険だということで根元から撤去したのだそうです。


さて、この支柱から「菖蒲沢」側まで樋が渡っていたとなると、距離にして50m強あります。

その間を支柱なしで渡すのはちょっと無理のように思います。

これには、国道になる前の、いわゆる「信州街道(草津街道)」の変遷の歴史が関係しているようです。
「室田町誌」から、拾い読みしてみましょう。
弘化四年(1847)に村民有志が相謀り西の方に新道を開くことにした。
すなはち今まで下室田より斉度を通って雨堤を経由して三ノ倉に通じていた道を変更して、宮谷戸を経て本庄を通り三ノ倉に行くようにした。
安政年間に洪水があり、烏川の周辺の田畑を流失したとき道を山よりに変更した。
この道は大森神社の前を通り、不動尊の上に移り、鳴沢から天上橋を経由して湯殿山の中腹を通って本庄に抜けたと思われる。」

正確な経路は分からないのですが、国土地理院の地図にここに出てくる地名が載っていますので、想像してみて下さい。


この道は、前回の「丸子稲荷大明神」の旧旧道と同じく山道で、人や馬が通れる程度の細い道だったと思います。
樋口さんのご先祖が架けたという樋は、この道の上を渡っていたのでしょう。

明治の後半になって、道は多少改修・拡幅されます。
その後明治二十四年(1891)大森神社を起点として三ノ倉に至る道を県費で改修完了した。(略)
その後、時々改修されたがなかなか思うようには良くならず、明治四十年(1907)には馬車などを通す必要から路面拡張の申請をしている。」

高崎-草津線が県道になったのは、大正八年(1919)の道路法発布の時です。
その頃はまだ舗装もされておらず、道幅もせいぜい馬車が通れる程度だった訳です。
梅の木長壁さんも、「昔の草津街道は、荷車が通るくらいの狭い道路だった。」と言っています。

その程度の道幅に架けられた「天上橋」は、木製の樋でした。
昭和十四年(1939)生まれの樋口さんは、小学生の頃、その木製の樋の中に入って、渡って遊んだことがあると言います。
樋の断面は幅、高さとも一尺(30cm)ほどで、所々樋の上にX形の筋交いで補強されてたそうです。

昭和の後半になって、ようやく県道が拡幅・舗装されます。
「榛名町誌 通史編下巻」に、こう書かれています。
高度経済成長により物流が活発になり、特にトラック輸送と自家用車が激増した。
これに対応する道路整備が必要となり、道路の拡幅と舗装工事が行われた。
昭和三十四年(1959)に町長、議長、地元代表が下室田地内の県道舗装化陳情のため県に出向いている。(略)
昭和四十四年(1969)八月に全国高等学校総合体育大会自転車道路競争中央大会群馬大会が行われ、大戸、倉渕から室田を通過し里見回りの全舗装されたコースでレースが行われた。」

樋口さんは、「50年くらい前に県会議員に陳情して、木製の樋から金属製の樋にした。」と言っていますから、ちょうど県道が拡幅された時期と合います。

県道が国道に格上げされたのは昭和五十七年(1982)、拡幅されたのは平成五年(1993)です。
長壁さんの記憶では、「天上橋」の樋を撤去したのは20数年前だそうですから、ちょうど国道が拡幅された頃です。
樋を架けた時も、撤去した時も、すべて村人たちの手で行ったそうです。

「菖蒲沢」側の高台も、昔は国道のすぐ際まで延びていたのだそうです。

もしかすると、草津街道が山道だった時は、梅の木菖蒲沢は尾根続きだったのかも知れませんね。

まだ謎も残る「天上橋」ですが、樋口さんと長壁さんのおかげで、だいぶイメージがつかめて参りました。
ありがとうございました。

そうそう、「天上橋」撤去後、「菖蒲沢」集落の水はどうなったのでしょう。
樋口さんにお聞きしました。
「斉渡簡易水道」の水が国道の下を横断してきているそうで、畑への水もその水を利用しているとのことでした。

「地名に歴史あり」の、「天上橋」でした。


【天上橋バス停】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:40
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2021年04月18日

史跡看板散歩-225 丸子稲荷大明神

国道406号、室田「瀧不動尊」を過ぎて少し行った所に、木々に隠れて見過ごしてしまいそうですが、小さな鳥居が建っています。



「丸子稲荷大明神」の鳥居です。


あー、「丸い小山」に祀ったので「丸子稲荷」ですか。

鳥居を潜って石段を16段ほど上るとけっこうな急坂で、ずっと上まで奉納鳥居が建っています。


さらに勾配がきつくなって、古タイヤが石段代わりです。


丸い小山の山頂に着きました。


社殿の中はがらんとした倉庫のようで、大明神様は正面の観音開きの扉の向こうにでもお隠れなんでしょうか。


何となく物足らなくて、「丸子稲荷大明神」を祀ったという樋口家のある菖蒲沢集落へ行ってみようかと、急坂を下りました。


「丸子稲荷大明神」から270mほど行った所が、菖蒲沢集落への入口です。


入口を入るとすぐ、沢を渡ります。
これが「菖蒲沢」なんでしょうか。


沢を覗くと、クレソンはありますが、菖蒲のしょの字もありません。


その代わり、福寿草の群落がありました。


集落への上り坂の途中、右手の高台にお堂が見えました。


行ってみると、樋口家の墓地のようで、庚申塔など古い石造物も建っています。


お堂も、たぶん樋口家が建てたものでしょう。


中に祀られているのは、おそらく「聖観音」だと思いますが、まだ新しそうです。

それに比べ、厨子の方はだいぶ年季が入ってます。
仏像だけ修復したのか、新しくしたのか。

ここで、ふと疑問が湧いてきました。
なんで、ここに「丸子稲荷大明神」を祀らなかったんでしょう。
史跡看板に「集落の入口にあたる丸い小山に祀った」と書いてありましたが、「集落の入口」と言うなら、あそこよりもここじゃないかと思うのです。

樋口秀次郎氏編著「榛名の地名辞典」「菖蒲沢」には、こんなことが書かれています。
不動堂からの旧道は現在の鳴沢を渡り、菖蒲沢の部落をぬけて湯殿山、本庄へのびていたわけですが、菖蒲の密生していたのは、鳴沢や鳴沢へ落ちる西からの谷津川のあたりであったかもしれません。」
ということで、「旧道」があったようです。

「榛名の地名辞典」の記述と、国土地理院の地図を照らし合わせてみると、「旧道」がどれか見当がつきます。

うーん、「旧道」にしても、「丸子稲荷大明神」「集落の入口」にあるとは言えません。
ちょっと不思議です。

旧道を探してみました。
地図ではこの道の左に「鳴沢」へ下る旧道があるはずなのですが・・・。


廃棄物が積み上げられてるその先は、竹が生い茂った、身の危険を感じるほどの崖地で、とても入って行ける状態ではありません。

もう廃道になってから久しいのかも知れません。

「鳴沢」へ行ってみましょう。
「菖蒲沢入口」のひとつ高崎寄りが「鳴沢」のバス停です。


このバス停の反対側が「鳴沢」の谷ですが、はるか下でここからは下りられません。


少し高崎側に「瀧不動尊」への降り口がありますので、そちらから行ってみましょう。


ずーっと下って行って、右下へ回り込むと、


ここが、「鳴沢」「烏川」の合流点です。


「鳴沢」は、沢というには広い川幅で、大きな石がゴロゴロしています。


「榛名の地名辞典」には、「『鳴沢』は、水量の多い沢水が音を立てて流れていたところから起こった沢名でしょう」と書いてあります。
きっと、雨が降ると激流になるのでしょう。

さて、疑問だった「丸子稲荷大明神は集落の入口に祀られた」という問題ですが、思わぬ方との出会いから解決することになります。

車を停めておいた国道406号沿いの自動販売機の所へ戻ると、地元の方らしき人が数人、休憩所にいらっしゃいましたので、お話を伺いました。
すると、「この辺のことなら、あの人がよく知ってるよ。長老だから。」と、擁壁の上から落ちた枝や葉っぱを掃除している人を指さしました。
後で分かったのですが、この方は菖蒲沢にお住いの樋口克明さん82歳、まさに樋口家の長老でした。

いろいろお話を聞かせて頂く内に、「昔は、丸子稲荷の上に旧道があって、そこを通って菖蒲沢へ入ったんだよ。」と仰います。
前回の「旧道」より古い「旧旧道」があったと言うのです。

その「旧旧道」は、追い剥ぎが出るとも言われた道で、菖蒲沢集落へ行くには山の中をぐるーっと回って行かなくてはならず、大変だったそうです。

なるほど、それなら「菖蒲沢集落の入口」という表現も当っているし、ここに「丸子稲荷大明神」を祀って災難除けとしたことも理解できます。
さっぱりしました。

そしてさらに、樋口さんには、もう一つ興味深いお話をお聞きすることができました。
そのお話は、次回ということに。


【丸子稲荷大明神】


  


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2021年04月11日

史跡看板散歩-224 弘法の石芋

下室田宮谷戸「諏訪神社」から、国道406号を渡って南へ入ります。



一面の田園風景の中を280mほど行って、右へ入ります。


少し行くと、宮谷戸の簡易水道施設があります。



そのフェンスに沿って進んで行くと、お堂の建つ一角に行きつきます。


小さいながらも形の良い立派なお堂で、扁額には「弘法大師」とあります。


史跡看板の標題は、「弘法の石芋」

なかなか面白い伝説です。

これと同じような話は日本各地にあるようで、「まんが日本昔ばなし」では、神奈川県(やどろぎ)に伝わる「お夏石」という話になっています。

「石芋」にした僧も各地まちまちで、上の動画では単に「旅の僧」ですし、埼玉県戸田の話では日蓮上人になっています。
ここ室田でも、「弘法の石芋」と言いながら、看板の文は「弘法大師(またはきっと弘法大師のような偉いお坊さん)」と、ちょっぴり及び腰です。

「室田町誌」には、その僧は寂然(じゃくぜん)律師だという説も。
なお承久年間(1219-21)寂然律師が諸国行脚の末、地蔵尊を背負って室田の地を訪ね、宮谷戸の地に草庵を結んで村人の病気を癒していました。
律師歿後律師の背負ってきた地蔵尊を本尊に小堂を建てましたが、後、草庵に近い真福寺に移し、真福寺が武田信玄鷹留城攻略の折、兵火に焼けてからは、再び小堂に安置し、その後現在地に移したそうです。
従って、石芋伝説の弘法大師は寂然律師のまちがいとも言われます。」

寂然律師唯心房寂然と号した歌人ですが、もともとは貴族で藤原頼業(よりなり)といい、従五位下壱岐守に任ぜられながらこれを辞退して出家したという人です。
出家後は京都大原に隠棲したとなっているんですが、その人が室田宮谷戸にねぇ。
さて、どうなんでしょう。

看板の冒頭、「堂には、弘法大師作と伝わる地蔵尊と、川からあげたという大師像が安置されている」と書かれています。
どれ、覗いてみましょう。

あれ?三体ありますよ。
どれがどれなんでしょう。

「榛名町誌民俗編」に、ヒントがありました。
室田地区には『室田二十一大師』といって、弘法大師の座像二十一体を二十一ヵ所の寺やお堂に祀り、それをお参りするとご利益があるという大師めぐりがあった。
これは、資料によれば『室田二十一大師、開山、権大僧都阿闍梨法印賢清、足門村徳正寺十九世住僧、文政十亥年三月三十日遷化、当所中町産』とあるところから、『室田二十一大師』を開いたのは足門の徳昌寺の十九世住職であった賢清ということがわかった。(略)
当所中町産とあるので、賢清は室田宿中町の生まれであることも判明した。(略)
これら寺院、堂宇などの中には、すでに廃寺になったものやお堂としての機能を失ったものなどがあり、二十一大師そのものの存在が確認できなくなってしまったものも少なくない。
それらの中で確認できた大師像は、座像で、すべて椅子に坐した同じ姿に造られている。」

ということですから、堂内の一番右端が「二十一大師」なんでしょう。
一番左端の線刻で描かれているのも弘法大師ですから、残る真ん中のが「弘法大師作と伝わる地蔵尊」ということになります。
さきの「室田町誌」の記述と併せると、寂然律師が背負ってきたという「地蔵尊」がこれなんでしょうか。
だとしたら、力持ちだったんですね、寂然律師って。

で、「石芋」ですが。
看板に「お堂東の堀に『弘法の石芋』という里芋が生えている」とあります。
これが、その堀かな?


葉っぱが無いので分かりにくいのですが、たしかに里芋のようなのがありました。

でも、なんか、普段見慣れている里芋とは違うような・・・。

「室田町誌」では、看板とちょっと違う書き方になっています。
堂の附近は湿地帯で、弘法の石芋とよぶ里芋に似た植物が群生しています。」
里芋なんでしょうか、里芋じゃないんでしょうか。

辞書で「石芋」を引くと、「不食芋」(くわずいも)というのも出てきます。
これが、食中毒までおこす、まさに食えない芋でした。

詳しくはこちらから

里芋を「不食芋」に変えられちゃったら、堪ったもんじゃないですね。
いやぁ、食い物の恨みってのは恐ろしいもんですなぁ。


【宮谷戸の弘法大師堂】


  


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2021年04月04日

史跡看板散歩-223 下室田の諏訪神社

国道406号線の宮谷戸(みやがいと)バス停の北に、「諏訪神社」があります。


史跡看板は、鳥居の右に建っています。



元は「八幡宮」だったんですね。
「諏訪神社」の石段前をぐるっと右へ回ると石段があって、「八幡宮」の鳥居を潜って境内へ上ることもできます。



この八幡宮は、「上野国の守護安達九郎(安達藤九郎?)盛長が祀らせたと伝わっている」と看板にあります。

「大森神社」社記の中には、こう書いてあるそうです。
古書にいう、そもそも、ここに八幡宮の創立あるものは、往昔、建久六年(1195)の頃とかや、右大将源頼朝の三原に狩あるの途上、安らひ玉ひし地なるにより、管領藤九郎盛長の令に任せ、尊き鶴岡の宮の分霊を遷し祀れるものなり」
(榛名町誌民俗編)
安達盛長に祀らせたのは、源頼朝だったという訳です。
頼朝が三原の巻狩に出掛けたのは建久四年(1193)で、その帰リ道に室田を通って、ここで休憩したのでしょう。


その「八幡宮」の境内に「諏訪神社」を祀ったのは、武田信玄配下の内藤修理亮だと看板に書いてあります。



「室田町誌」には、こんなことも書いてあります。
武田、長野両氏の連年の攻防戦によって、社殿も戦災をうけたので、武田氏が、西上州を治めることになったとき、信玄は、報賽の心から、八幡宮の境内地に遷座し奉ったのが今の諏訪明神であるという。」

箕輪落城の永禄九年(1566)に「諏訪神社」の社家となったのが、弘治四年(1558)に備前から来て上州に住していた大澤内記藤原貞友でした。
その後、大澤家は代々「諏訪神社」に仕える家柄となります。

「諏訪神社」の東にある「宮谷戸住民センター」の脇に、「大澤呈延碑」という大きな石碑が建っています。


大澤呈延貞友の五世孫であると、碑に刻まれています。
呈延は文化八年(1811)生まれ、小笠原流礼式や関流の和算を習得し、三十歳頃「森下塾」という私塾を開きました。
弟子は近隣の子弟に限らず、安中、高崎、三ノ倉など広範にわたり、数千名に及んだといいます。
明治十五年(1882)七十二歳で歿し、明治四十四年(1911)子孫と門人達によって生家跡に建立されたのが、「大澤呈延碑」です。(榛名町誌通史編下)

看板の後半に、「現在諏訪の原という地名が残っていて、そこから遷座したのが今の諏訪神社だ」と書いてあります。
その「諏訪の原」下室田にあるのかと思ったのですが、なんと上里見にありました。


「榛名町誌通史編上」には、こんな記述があります。
『上野国郡村誌』群馬郡・碓氷郡によると、榛名町には本郷・三ツ子沢・十文字・下室田(二社)・上室田・下里見(二社)・中里見・上里見(二社)など十一社が見える。
これらのうち、下室田・上里見の諏訪神社については武田信玄の箕輪城攻略によって勧請されたという伝承を持つ。
諏訪を崇敬した信玄が支配地に諏訪神社を祀らせたことは否定できないが、それ以前から諏訪信仰が当地に広がっていた可能性は高い。
諏訪神は農業神であるとともに狩猟神・軍神であり、山地が多い榛名町域では狩猟民や武士団に信仰されたと考えられる。(略)
なお、十文字に諏訪原・諏訪谷、下里見に諏訪山、上里見に諏訪ノ原などの字名がみえ、これらは中世に遡る可能性が高い。」

長くなってしまいましたが最後に、「宮谷戸」(みやがいと)という字名についてです。
「谷戸」は、「がいと」「やと」などと呼ばれ、丘陵地や台地が湧き水や水の流れによって浸食され、浅い谷となって樹枝状に刻まれている地形のことだそうです。
たしかに、上空から見るとそういう地形です。

「宮」のある「谷戸」だから、「宮谷戸」なんですね。

因みに、下里見「郷見神社」があるのは「諏訪山」で、その近くにも「宮谷戸」という字があります。


いろいろ勉強になった、下室田宮谷戸「諏訪神社」でした。


【諏訪神社】

【大澤呈延碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2021年03月28日

史跡看板散歩-222 大和田の化粧水(3)

「大和田の化粧水」の取水口を探しに、上室田町大和田へやって来ました。


「滑川」は、ここでは「大和田沢」と呼ばれているようです。


川べりへ下りてみると、「滑川」の本流から分かれている細い流れを見つけました。
あ、ここが「化粧水」の取水口かと、余りにもあっけない発見に、嬉しいような、物足らないような、ビミョーな気分です。


ところが、その流れを辿って行くと、また本流に戻ってしまいました。
ありゃ。


がっかりして川べりから上がってくると、なんと!段々畑の中腹から滾々(こんこん)と水が流れ出てるじゃありませんか。


そして、細い水路を勢いよく流れていくじゃありませんか。
水路は、ずーっと先まで続いています。


一度、地面の下へ潜りますが。



また出てきて、先の方まで流れていってます。


やがて水路は、「滑川」の河岸段丘のへりを進んで行きます。



水路の巾や水量、流れていく方向からして、これが「大和田の化粧水」と思って間違いないでしょう。
前回、下流側から辿ってきて見失ってしまった水路は、「滑川」に沿って来ていたんですね。

さて、そうなると、どうしても見つけたいのは「滑川」からの取水口です。
段々畑から出ていた水の位置からすると、取水口はもっと上流のようです。

「滑川」に架かる、名前のない橋の上流を探してみることにしました。


右岸を160mほど行くと、本流から分かれる細い水路がありました。

ただ、あまりにも頼りない程の細さで、違うかなぁという気持ちの方が強くなります。

擁壁に沿ったコンクリート製の細い水路を流れている水は、少し先でやはり本流に戻ってしまっています。


しかし、よーく見ると、右奥に暗渠の水路があって、水はそちらへも流れ込んでいます。


暗渠は、右岸の道の下を通っているようです。


おそらくこの後、水はずーっと暗渠の中を隠れ下って、段々畑の中腹でその姿を現すのでしょう。
そして、2km離れた「上の原」まで流れ下って行くわけです。

細い水路とはいえ土木機械もない時代、さぞや難工事だったことでしょう。

娘を思う父の愛情の深さと強さを実感できた、「大和田の化粧水」でした。


【大和田の化粧水 取水口】

【段々畑の化粧水出口】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2021年03月21日

史跡看板散歩-222 大和田の化粧水(2)

「大和田の化粧水」が、どこから、どういう経路で流れてきているのか、上流へ遡ってみました。


史跡看板が建っている所から、畑の中を抜けて。


道路を横切って、民家の横を通リ抜け。


梅林の中へ。


暗渠の中から流れてきています。


暗渠は、向こうの竹藪の方からつながっているようです。


竹藪の中を水路が走っているのは確認できますが、人が入っていくことはできません。


迂回して県道211号(安中-榛名湖線)に出ると、深い水路「追分沢」が道と並行しています。


ということは、「化粧水」は県道側には流れてないということか。
だったら、もう辿ることはできないじゃないか。
でも、ま、「化粧水」の水路だけでも見てみようと思って、杉林の中へ入って行きました。


すると、「追分沢」を跨ぐ橋のようなものが見えます。


おお!水が流れてる!
「懸樋」(かけひ)ってやつですね。

水は、竹藪の方に向かって流れています。
「大和田の化粧水」に違いありません。

その水は、金毘羅神社の脇から流れてきています。


さらに上流に遡ると再び藪の中へ消えますが、藪の先はここで、水は県道211号の下を潜って来ているようです。



県道の反対側の水路は、梅林の端を伸び伸びと走っています。


しかし、ここで水路はまたもや道路の下へ潜り込み、その姿を隠してしまいます。


道路の反対側に続く林の先には、「化粧水」を引いたという「滑川」が流れているんですが、標高的に相当下を流れているので、この先に「化粧水」の水路があるとは思えません。


ま、ここまで辿れたからいいか、と自分を慰めかけましたが、でもな、ともう一人の自分がブツブツ言っています。
そうだ、逆に「大和田」の取水口から下流に向けて辿ってみようか。

ということで、また次回に続きます。(引っ張るなぁ)


【「大和田の化粧水」史跡看板】

【金毘羅神社】

【県道211号横断地点】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:41
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2021年03月14日

史跡看板散歩-222 大和田の化粧水(1)

中室田「榛名荘病院」手前のカーブを、左に入ります。


100m先を右に。


50m先を左に。


そこから100mほど行った、民家へのアプローチ角に史跡看板が建っています。



アプローチの左側の溝が、看板による「この水路」

細い水路ながら、水は勢いよく流れてます。

看板に、この水路を「薬研堀」(やげんぼり)と呼ぶと書いてあります。
「薬研」というのは、薬草などをすり潰して粉にするのに使う道具で、その器は断面がV字形の狭い溝になっています。
「薬研堀」というのは、そのような形状をした堀の一般名称です。
現在のこの水路の形状は、U字形ですけど。

「大和田の化粧水」というから、看板の建っているここが「大和田」という地名だと思ったのですが、「大和田からの化粧水」ということなんですね。


「滑川」のどこから取水して、どういう流路でここまで来ているのか知りたかったのですが、地図上の水路はプツンと切れてしまっています。


こりゃ、水路を辿ってみるしかなさそうです。


ご報告は、次回ということに。


【「大和田の化粧水」史跡看板】


  


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2021年03月07日

史跡看板散歩-221 中室田の大沼大明神

前回の「おねがい地蔵尊」から北西へ道なりに900mほど行くと、右側に大きな「馬頭観世音」の碑が建っています。


そのすぐ先を右に入り、


真っ直ぐ270mほど行くと、丁字路に史跡看板が建っています。



「大沼大明神」とありますから大きな沼があるはずですが、見回してもそれらしいものはありません。
看板のすぐ左に水路があるので、たぶんこの先の山の中にあるのだろうと歩き始めました。


歩き始めてすぐ、右手にちょっと気になるフェンスがあります。


それを目指して杉林の中に入って行くと、


あっ、やっぱり。

でも、「大沼」という感じじゃないなぁ。
ここじゃないのか?

フェンスに沿ってもう少し行ってみると、思いの外大きな面積でした。
これなら「大沼」と呼んでもいいでしょう。

よく見ると、対岸に石碑のようなものが建っています。

これは対岸に行ってみるしかありません。
杉林の中をぐるーっと沼に沿って進み、石碑のある所に辿り着きました。


間違いありません。
沼に面する碑面には「大沼大明神」、碑背には「慶應三丁卯秊(1867)霜月吉辰 三村中」と刻まれています。

「三村」というのは、看板に書いてある「中室田町十二区(中井、藤田、坂爪)」のことでしょうか。

「天明元年(1781)の石宮」の方は、無残にも崩れてバラバラになっていました。

きっといつか、地域の人が復元してくれることでしょう。

ところで、「馬頭観世音」の先を右折する時、前方に気になるものがあったので戻ってみると、道しるべでした。

昭和三年(1928)に「江戸村実業團」が建てたものらしいですが、「江戸村」というのが気になります。
「江戸」と深い関係のある村だったんでしょうか。

調べたら、「室田町誌」に、「江戸村は滑川の江の外という意味」と書いてありました。
「江外村」(えとむら)だったんですね。


【大沼大明神史跡看板】


  


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2021年02月28日

史跡看板散歩-番外編 下室田のおねがい地蔵尊

Googleマップで室田の地図を見るたびに、「おねがい地蔵尊」というのがあって、いつも気になっていました。


で、取材のついでに行ってみると、「沢田川」に架かる橋のたもとの小さな祠でした。



祠の外に三体のお地蔵さまがいますが、中にいらっしゃるのが本命の「おねがい地蔵尊」でしょう。

ただ、建立年月と建立者名はあるものの、謂れがどこにも書いてありません。
いったい、何をお願いしているのでしょう。
深い川のほとりに建ってるから、子どもの水難か何かあったのかなぁ。

近くの自動車修理工場の方にお聞きしましたが、分からないと言います。
榛名支所へも行ってみましたが、やはり分かりません。
これは、建立者の石井三郎さんに聞くしかなさそうですが、どこにお住まいなのか全く分かりませんし。

さてそれからというもの、取材で室田へ行く度に石井さんの家を探し続けました。
それを詳しく書こうとすると、えらく長い話になってしまうので途中は省きますが、室田通い3度目くらいでようやく石井さんの家に辿り着くことができました。

石井三郎さんはすでに亡くなっておられたのですが、ご子息の石井博仁さんにお会いすることができました。
突然の訪問にもかかわらず快く迎えて頂き、お話を伺うことができました。

お話によると、この道がバラス道だった頃、その道に沿って小川が流れていたそうです。


ある日、三郎さんが小川を掃除していると、中からお地蔵さまが出てきて、これは放っておくわけにいかんと言って、小川の畔に祠を建ててお祀りしたのだとか。

後に道路は拡幅・舗装され、その関係でお地蔵さまは現在地に移しました。

バラス道だった頃は、ここのカーブでよく事故があったそうです。
「おねがい地蔵尊」という名前について、博仁さんは、事故が起きないことや、その他諸々のお願いを叶えてくれるようにとのことだろうと仰っていました。

「あー、これですっきりしました。」とお礼を言ってお暇しようかと思った時、三郎さんの建てたものがまだあるんだと言って、案内してくださいました。
連れて行って下さったのは、近くの「新滑川橋」の下でした。
そこに建っていたのは「河童天国」という石像で、三郎さんが平成八年(1996)に建立したものです。


「新滑川橋」が架橋されたのは平成七年(1995)、翌平成八年(1996)には滑川の河川改修が行われ、親水公園と駐車場が造られました。
それらに石井さんが所有地の一部を提供したのです。
その記念として建てたのが「河童天国」像で、子どもたちが安全に水遊びできるようにとの願いが込められているのでしょう。
「滑川ほたる公園」の看板に、「カッパ」と書かれています。


さらにもうひとつ、石川三郎さんの名前が刻まれているものがあると言います。
「おねがい地蔵尊」から北へ300mほど行った、「大山祇神社」(おおやまつみ・じんじゃ)にあるそうで、早速行ってみました。


この石段を修復して、石碑も建てたんだそうです。

平成十一年(1999)ですから、「おねがい地蔵尊」を移設した翌年ですね。

まだありました。
二の鳥居は平成七年(1995)、社殿前の御神燈は平成六年(1994)の奉納です。

深い郷土愛を持つ篤志家だったんですね。

ところで、「大山祇神社」の御神木・大ケヤキですが・・・、

倒壊の恐れがあるので、近い内に伐られてしまうそうです。

いやー、こればかりは、さすがの「おねがい地蔵尊」にお願いしても何ともならないでしょうかねぇ。


【おねがい地蔵尊】

【河童天国像】

【大山祇神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:54
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