2018年01月21日

史跡看板散歩-78 甲子大黒尊

今回も場所が分かりにくい、乗附町「甲子大黒尊」(きのえね・だいこくそん)。

説明が難しいのですが、荒久沢川北沿いの道を西へ向かい、(株)建設企画を過ぎた所で橋を渡ります。


橋から80mほど行くと右に上がる坂道があり、オリエンテーリングのポストが目に入るでしょう。
史跡看板は、その坂の上に建っています。





看板のすぐ先に手洗石や石祠があります。


石祠の隣には面白い恵比寿・大黒の像が置かれています。


一瞬、「この石祠がそう?」と思っちゃいますが、看板の写真とは違うし・・・。
でも看板には、「甲子大黒尊は大黒山の頂の大黒神社に祀られていましたが、現在はその跡を残すのみです。」と書かれているし、ちょっと不安になってきます。

ま、いちおう、山頂を目指してみましょう。


この先、道がいくつかに分かれてますが、奥を左です。


道は急な登り坂で、雨で抉れてて、しかも落ち葉が厚く積もっているので滑りやすいです。
足ごしらえをしっかりして、ストックを持って行くことをお勧めします。


しばらく急坂を登って息が上がる頃、坂の上に石碑と石燈籠が見えてきます。


けっこう立派な石碑です。


何と言っても、刻まれた文字がユニークです。
この碑が奉納された元治元年(1864)の干支が「甲子」、その年の十一月二十七日の干支も「甲子」ということで「甲子大黒尊」という訳ですが、「子」の字の代わりに「ねずみ」の絵を用いているというのが洒落っ気たっぷりで面白い。


石燈籠は、昭和十二年(1937)丁丑(ひのと・うし)の奉納で、一年早く奉納すれば年で具合良かったんですがねぇ。
奉納者の中に、「田村今朝吉」の名も見えます。


「甲子大黒尊」碑のさらに上に、バラバラになってはいますが「山野神」(山の神?)の石祠がありました。


さて、杖になりそうな枝を拾って、慎重に下山するといたしましょうか。


【史跡看板】


【甲子大黒尊】



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Posted by 迷道院高崎at 07:43
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2018年01月14日

史跡看板散歩-77 乗附町の秋葉神社

乗附町「秋葉神社」
ここに辿りつく人、どのくらいいるのかなぁ・・・。

護国神社の脇から観音山へ行く道なんですが、この左下の小道に入ったことがありますか?


入って40mほど行くと、小さな沢があります。
橋の向こうに史跡看板が建っているんですが、分かりますか?

この角度からじゃ、分からないでしょうねぇ。

さらに10mほど行くと、ようやく史跡看板の存在に気が付くのですが・・・、


「この石祠は・・・」と書いてあるものの、辺りを見回してみても何もありません。
ほとんどの人は、「昔はあったのかなぁ。」くらいで、ここで引き返してしまうでしょう。

よっぽど好奇心旺盛な人は、「アンダーパスの向こうはどうなってるんだろう?」と、奥へ行ってみるかも知れません。
50mほど進むと砂防ダムが出てきて、その向こうの生い茂った木々を見たら、まぁこの辺で引き返すでしょう。


さらに奥へ行ってみようなんて思う人は、相当な物好きか変わりもんに違いありません。
私はその両方だったので、奥へ入って行きました。
120mほど行くと、左手にいかにも手造り風の階段が現われ、その脇に小さな看板を見つけました。

この錆かかった看板によって、もしかしてこの階段の上に「秋葉神社」があるのかも、と思わせてくれます。

ところが、これがまーだまだ。
さらに急になる山道を70mほど登って、ようやくそれらしい石祠が見えてきます。


割とよくできた石祠で、手前にある郵便受け(?)の屋根には、きちんとした篆刻文字で「秋葉神社」と刻まれています。


そういえば、ここへ来るまでの道はきれいに篠や草が刈られ、整備されていました。
きっと、地域の人が大切にお守りしてくれているのでしょう。
とすればなおさら、あの史跡看板はもったいなく思いました。

「高崎市名所旧跡看板」の設置目的は、「市内観光の魅力を高めるとともに、住民に地域の歴史文化を見つめ直してもらおうと企画された。」はずです。(2016.3.23上毛新聞)

ならば、まずは人の目に触れなければ話になりません。
そして、土地勘のない人でも容易にアクセスできなければ意味がありません。

そこで提案です。
まず、左下の小道へ下りる所に「旧跡秋葉神社入口」という看板を建て、「この先〇〇m」と表記しましょう。
そして大変かもしれませんが、史跡看板は石祠の脇に移設しましょう。
それで初めて「この石祠は・・・」という説明文が理解できようというものです。

史跡看板に、魂を入れましょう。


【秋葉神社の史跡看板】


【秋葉神社の石祠】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:29
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2018年01月07日

史跡看板散歩-76 伊津奈大権現

「片岡町」「伊津奈(いづな)大権現」の史跡看板。
用水路越しに読むという、視力検査のような建て方です。



史跡看板から山の方へ向かって130mほど行くと、「伊津奈大権現」に上がる石段があります。


石段の上にシンプルな社があり、境内には落ち葉一枚落ちていません。
きっと、地域の人がまめに掃除をされているのでしょう。


実はブログ駆け出しの頃、一度ここに来ています。
   ◇天狗も住んでた!高崎

その記事の冒頭、すぐ近くにある「厄除地蔵尊」に触れてますが・・・、


お堂の額には「弐佛堂」(にぶつどう)と書かれているのだが、掲示されている看板には「三仏堂の沿革」と書かれた、妙なお堂である。」
と書いたのですが、「弎」(さん)を「弐」(に)と間違ってますね。


いや、お恥ずかしい。

改めて、「三仏堂の沿革」説明板と、祀られている「三仏」のお姿を掲載しておきます。



【伊津奈大権現の史跡看板】


【伊津奈大権現】


【厄除地蔵尊】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:18
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2017年12月31日

史跡看板散歩-75 乗附練兵場跡地

和田橋近くの烏川右岸土堤下に建っています。


遊歩道側から見えるように建てたらしいのですが・・・。



この場所で「乗附練兵場跡地」と言われても、ピンときませんよね。
昭和九年(1934)頃の地図で見てみましょう。


「練兵場」から西方向、ちょっと離れた山の中に、「射撃場」というのがあります。
もともとは、「練兵場」に接して南西に向かって突き出たような所がそうでした。
看板にある「トーチカ」というのは、これのことかも知れません。

その「射撃場」が後に乗附の山中に移されるのですが、その経緯が「高崎の散歩道 第十一集」に書かれています。

練兵場の中央より西寄りに、長さ六・七〇m高さ三m程の堆土(たいど:うず高く積み上げた土)が百mづつ距てて三筋並んでいた。
北のものから八百射垜(しゃだ)、七百射垜、六百射垜と呼んでいた。
射垜とは「射撃をするための盛り土」という意味であって、これらは射撃の設備であった。
射垜の列の線を西南に六百mたどると、現護國神社の山麓に監的壕(かんてきごう:射撃や砲撃の着弾点や命中率を確認するための施設)があった。
勿論、(当時は)神社も高崎高校もなく、山脚を流れている用水路の所が監的壕だった。(略)
ところがこの射撃場で実弾射撃の訓練中、不幸にも一発の跳弾が乗附の民家にとび死者が出た。(略)
そこで射場は、急いで、そこから西千五百mの、あらく沢の奥に移された。
これを、新射場又は城山(じょうやま)射場と呼んだ。」

「振武橋」(しんぶばし)については、過去記事「駅から遠足 観音山(10)」をご覧ください。

看板には、「ここで訓練された大勢の兵士は戦地に送り出されました。」としか書かれていませんが、パラオ戦線(ペリリュー島)に送り出された高崎歩兵第15連隊は、2個大隊2000人が玉砕しています。
   ◇「パラオで玉砕した高崎15連隊」(高崎新聞)

戦死した一人一人にはそれぞれの家族があり、それぞれの家族にはそれぞれの幸せな日常の営みがあった訳で、それを奪ったのが戦争でした。

戦後は田畑となった「乗附練兵場」ですが、戦後19年経った昭和三十九年(1964)の地図でも、まだその輪郭が認められます。


いやいや、戦後72年の現在でさえ、地図をなぞればその姿が亡霊のように浮かび上がってきます。


72年前、日本国民は、もう二度と戦争をしないと決意しました。

「日本国憲法前文」(抜粋)
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

「日本国憲法第9条 第一項」
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

戦後73年目の年が明けようとしています。
よくよく、考えなくてはなりますまい。


【乗附練兵場跡地の史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2017年12月24日

史跡看板散歩-74 実政街道

まさかこんな所に「実政街道」の史跡看板を建てるとは。
遠目には、「立入禁止」「犬のフンお断り」の看板くらいにしか見えません。



金属塀沿いのこの道が、「実政街道」だったということらしいです。


看板に掲載されている絵図の「染谷川」「実政街道」に色付けをし、看板の建っている位置にマーキングしてみました。


明治四十年(1907)の2万分の1地形図と比較して見ると、「実政街道」の道筋がある程度推定できます。


塀沿いの道を150mほど行くと、「染谷川」の土手道に出ます。


史跡看板は、こちら側に建てた方が良かったんじゃないでしょうか。

この後、「実政街道」「松之木橋」を渡って高崎へ向かったようです。


新しい道がいくつもできて、明治期の道は俄かに辿れませんが、いつか、辿ってみたいと思っています。

「実政街道」に関する過去記事は、こちらから。


【実政街道史跡看板】




  


2017年12月17日

史跡看板散歩-73 中大類町萬葉歌碑

中大類町の井野川サイクリングロード沿いにある、「萬葉歌碑」です。



この歌碑は、平成七年(1995)に大類歴史研究会によって建てられたものです。


「万葉集 巻第十四巻」には、230首の歌が収録されています。
230首の内「相聞歌」は112首、その中で上野国のことを詠んだとはっきり分かるものは22首、「相聞歌」以外の歌も4首あるので、合わせると26首になります。
これは、相模国の歌15首を大きく引き離して、ダントツ一位の多さです。(群馬県立女子大学教授・北川和秀氏)

現在の「井野川」は、河川改修により緩やかな川筋になっていますが、


昔は、看板に書かれているように大きく蛇行していました。


現在はないのですが、明治四十年(1907)の地図を見ると、いま「萬葉歌碑」のある所のすぐ上に橋が架かっています。
実は、この橋を通る道が、かつて「米街道」と呼ばれていたらしいのです。

過去記事「米街道」をご覧頂けたら嬉しいです。


【中大類町萬葉歌碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:21
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2017年12月10日

史跡看板散歩-72 小栗又一源忠道の墓

知らなければ誰も入っていかなそうな、下斉田町「小栗又一源忠道の墓」


田口家墓地の奥の一角に、それはあります。



小栗上野介の養嗣子・小栗又一の墓は、当初この場所ではありませんでした。
ここに移されるについては、なかなかな経緯・事情がありまして・・・。
過去記事をご覧下さい。
     ◇例幣使街道 寄道散歩(13)
     ◇例幣使街道 寄道散歩(14)

田口家墓地を出て西へ行った突き当たりが、小栗又一の首級を権田村まで引き取りに行ったという、名主・田口十七蔵邸です。


3年前、ここで思いがけない発見と出会いがありました。
     ◇例幣使街道 寄道散歩(15)
     ◇例幣使街道 寄道散歩(16)

今回の記事は過去記事へのリンクばかりで、お疲れになったのではないでしょうか。
お疲れついでに、もう一つお付き合いください。

小栗上野介というと徳川埋蔵金の話が有名ですが、下斉田のお隣玉村町与六分には、小栗上野介の機密費という話があるのです。
     ◇例幣使街道 寄道散歩(19)

お付き合い、ありがとうございました。


【小栗又一源忠道の墓】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
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2017年12月03日

史跡看板散歩-71 岩鼻町赤城神社

岩鼻町「赤城神社」です。



看板で、「全国でも類例がない」という「棟持柱が建物の外側に独立している」本殿です。


上野国神社明細帳の「赤城神社」由緒によると、初めは「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)だけを祀っていた神社だったようです。
勧請年月不詳、当国勢多郡赤城神社祭神、大己貴命(おおなむちのみこと)、豊城入彦命ナルヲ、其一神ヲ遷セシヨシ、老口ニ伝来ス、」

もう一柱の祭神「宇迦之御魂命」(うかのみたまのみこと)については、こう書かれています。
又、合殿祭神ハ字坂上北ニアリテ稲荷神社ト称シ、寛政六年(1794)旧幕府代官吉川栄左衛門岩鼻陣屋設立ノ時、宇迦之御魂命ヲ祭リ国内農桑ノ幸福ヲ祈リ、」

「字坂上北」が、まさに「岩鼻陣屋」のあった場所です。


「赤城神社」には鳥居が二つあって、境内入口の鳥居には「正一位 赤城大明神」という扁額、


もう一つの鳥居には、「正一位 保食稲荷大明神」という扁額が掛かっています。


こちらの鳥居は、「岩鼻陣屋」にあった「稲荷神社」のものだそうで、柱にこんな文字が刻まれています。


「山本大善源雅直」は、陸奥国川俣代官、甲斐国石和代官を経て、文政六年(1823)に四代目岩鼻代官となります。
その支配地は上野・下野・武蔵で、支配高134,991石は関東の代官としては最も大きい石高です。
また家禄603石9斗は、当時の江戸幕府代官42人の内で三番目という、かなりの地位にいた人物のようです。

岩鼻代官就任中の文政十年(1827)に関東取締代官を兼任、天保三年(1832)には江戸廻代官も兼任し、天保十三年(1842)に岩鼻代官を退くと、江戸城二ノ丸留守居を勤めています。

各地の代官を勤めながら、もっぱら領民の教導に力を注いだようで、その時に使ったとされる「教諭三章」の、各章見出しを見てみましょう。
一、 父母に孝行を尽くし、己れより目上の者を敬ひ、一家親類をはじめ村里相互ひに中よくむつましくすべき事。
一、 人々我家職をはげみ、少しにても奢りがましき事かたく慎むべき事。
一、 上よりの法度を堅く守り、常々子弟のものを教訓し、悪事をなさしむべからざる事。
(参照:松崎欣一氏著「幕府代官山本大膳に
関わる五種の法令・教諭書類をめぐって」)

この夫々の章に、何故そうすべきなのか、そうするにはどういう心掛けでどういう行動をとればよいのかが、嚙んで含めるように平易な言葉で書かれています。
裏を返せば、当時の領民とくに農民の気風がそうではなかったということなのでしょう。

ところで「保食稲荷大明神」「保食」「うけもち」と読み、「うけ」は食べ物のことだそうです。
「日本書紀」には、食物・穀物を司る「保食神」(うけもちのかみ)という女神が出てきます。

また、「うか」という言葉も食べ物のことで、「宇迦之御魂命」(うかのみたまのみこと)も食物・穀物の神様です。
さらに、「宇迦之御魂命」「倉稲魂命」とも書かれ、これが稲作の神「稲荷神」と同一視されたようです。

けっきょく、「赤城神社」の祭神「宇迦之御魂命」も、「保食稲荷大明神」も同じ神様ということになります。

本殿の後ろに、三代目岩鼻代官・吉川貞幹撰による「稲荷霊験碑」というのが建っており、陣屋の「稲荷神社」建立の経緯が記されています。

吉川貞幹が赴任した翌年の文化九年(1812)の銘があるので、これも鳥居と一緒に「岩鼻陣屋」から移されたのでしょう。

現在、その「稲荷神社」の社殿はなく、鳥居を残すのみとなっています。

「上野国神社明細帳」の続きを読んでみましょう。
明治二年(1869)ニ至リテ岩鼻県知事小室信太夫一層崇敬ノ意ヲ表シ、新ニ社殿ヲ造営シ結構旧ニ増加セリ、
同四年(1871)廃県ノ時、町内ニ遷祀シ相殿三座ハ明治十年(1877)五月十九日合祭シタルモノナリ、
明治二十八年(1895)一月二十八日廃社シテ、更ニ村社赤城神社ニ祭合セリ」

ということで、明治二十八年(1895)に廃社になったのですね。

看板の最後に書かれている「巣黒神社」(すぐろじんじゃ)については、「史跡看板散歩-35 村主神社」に出てきますので、そちらをご覧ください。


【岩鼻町赤城神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2017年11月26日

史跡看板散歩-70 不動山古墳

「普賢寺」から南の方角に、「不動山古墳」が見えます。


反対側に回って、旧例幣使街道の方から見ると、「上州綿貫不動尊」という看板があって、石段の上り口に史跡看板が建っています。



初め、「普賢寺裏古墳」と書いちゃったらしくて、シールを貼って訂正されていました。
どうせ直すんだったら、同じフォントサイズにすればよかったのになぁ・・・。

「不動山古墳」については、教育委員会が設置した説明板が建っています。


古墳の名前にもなっている「不動尊」は、石段上のお堂に祀られています。



奉納幕に「普賢寺檀徒一同」と書いてあります。

「普賢寺」の由緒に、「不動尊像自然石仏御長寺之前山に御安座 堂無御座候」(新編高崎市史資料編14)とありますので、初めはお堂もなかったようです。

お堂が出来てからは村人の集いの場ともなったのでしょう、お堂の脇に「念佛講」の塔があります。


お堂の裏の覆い屋に、「舟形石棺」が置かれています。


昭和三十六年(1961)の調査時、すでに石棺は露出した状態で蓋はなかったそうです。
調査にあたった梅澤重昭氏によれば、「井野川流域に勢力圏を確立する”上毛野”の中枢豪族の草分け的性格を持っていた首長であったことはほぼ間違いないところであろう。」(新編高崎市史資料編1)ということです。

「不動山古墳」については、もうこれ以上書くこともないので、この付近の話題を一つ。 → ◇「例幣使街道 寄道散歩(7)」

では、また。

【不動山古墳】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:24
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2017年11月19日

史跡看板散歩-69 綿貫町普賢寺の石造物

綿貫町「普賢寺」(ふげんじ)です。


史跡看板は、境内の池のほとりに建っています。



看板に掲載されている5つの石造物、境内のあちこちにバラけてますので、宝探しのような楽しみが味わえます。
発見した証拠に、写真を載せておきましょう。
↑方筐印塔 ↑石幢六地蔵立像
↑巳待塔 ↑虚空蔵菩薩像

一見そうは見えないのに、実は恐いのが「奪衣婆」です。

看板に書かれている「奪衣婆」(だつえば)が剝ぎ取った亡者の衣類は、「懸衣翁」(けんえおう)に渡った後どうなるのでしょう。

「懸衣翁」はそれを「衣領樹」(えりょうじゅ)という木の枝に懸けます。
すると、枝の垂れ下がり具合によって、亡者の生前の罪の軽重が分かっちゃうんだそうです。
さしずめ私のなんぞは、枝が折れちゃうかもしれませんが・・・。

ところで、なんで枝の垂れ下がり具合で、罪の軽重が分かるんだと思います?

僧侶で小説家の玄侑宗久「三途の川の日本的変質」によると、人は死ぬと初七日に「十王」のひとり「秦広王」(しんこうおう)の審判を受け、「三途の川」をどう渡るかが決められるのだそうです。
1. 善人は、金銀七宝でできた橋を渡る。
2. 罪の浅い者は、水量が膝下までという浅水瀬:せんすいせ(山水瀬:さんすいせ)を渡る。
3. 罪の重い悪人は、強深瀬:ごうしんせ(江深淵:こうしんえん)という深い激流を泳いで渡る。

その三つの途があるので、「三途の川」という訳です。
もっとも、「三途の川」はとてつもなく広い川らしくて、川幅40由旬(ゆじゅん)≒16~24km(諸説あり)というのですから、いずれの途も大変なことです。

「奪衣婆」「懸衣翁」は、その「三途の川」を渡った向こう岸にいます。


つまり、どういう渡り方をしてきたかによって、衣類に含まれる水の量が違うので、重さを計れば罪の軽重が分かるという仕組みです。

ま、近頃は、「地獄の沙汰も金次第」だそうですが・・・。

「普賢寺」の裏に、小山があります。


これは古墳で、そのまんま「普賢寺裏古墳」という名前がついてます。


この辺は古墳の多いところで、「綿貫古墳群」と呼ばれ、すぐ近くには国指定史跡の「観音山古墳」や、市指定史跡の「不動山古墳」もあります。

(赤色は現存していない古墳)

南北の曲線状に分布しているのは、井野川の流れと関係しているのかも知れません。

古代人は、ここでどんな暮らしをしていたのでしょう。
見てみたいものです。


【綿貫町普賢寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:35
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2017年11月12日

史跡看板散歩-68 綿貫町青面金剛像

「群馬の森」前の道を北へ向かい、新国道354と交差する200mほど手前に、数基の石造物が並んでいます。


その中のひとつが、今回の「青面(しょうめん)金剛像」です。



「青面金剛」という仏さま、何で青いお顔なんでしょう。
大畠洋一氏の「青面金剛研究」というサイトを見ると、こう書いてあります。

青面金剛はもと流行病を流行らせる悪鬼であったが、のち改心して病魔を駆逐する善神になったという。

これは「渓嵐拾葉集」という鎌倉時代に日本でまとめられた本に書いてある仏教説話であり、こういう説明が日本人には一番分かりやすかったものと思われる。

この姿は日本人の感覚からは、どう見ても病を流行らす悪鬼の時代の姿であり、全身に蛇を巻き付け、病の犠牲になった人のどくろを勲章のように誇らしげに腰の回りに飾っている不気味な死神の姿に見える。


鬼退治の物語には赤鬼青鬼が出てくるが、日本では赤鬼は火事などの災害、青鬼は病気の象徴であった。
日本では青鬼は蒼白い病魔を連想するが、インドの絵画の約束ごとでは、青色の像は「怒り」を表すことになっている。
「真っ赤になって怒る」のはまだ序の口で、「青くなって怒る」のが本当の怒りである。

う~ん、かも知れない・・・。

悪鬼としての「青面金剛」が流行らせた病というのが、「伝尸病」(でんしびょう)と言って、いわゆる「結核病」だそうです。
「尸」というのは漢字の部首としては「しかばね」という名前ですので、「伝尸病」「死に至る伝染病」ということなのでしょう。

そんな怖い病気をはやらせる「青面金剛」が改心して、その病を駆逐する仏さまに変わったというんです。

窪徳忠氏は、その著書「庚申信仰の研究(上)」の中で、「修験道にも密教にも、降魔治病の一法、とくに伝尸病をのぞく方法として青面金剛法とよぶ行法がある。」と述べ、そのいくつかを挙げています。

「大青面金剛法」
(三宝院流洞泉相承口訣)
此法治類病妙薬也。類病者労咳事也
(この法は、類病を治す妙薬なり。類病は労咳(伝尸病)のことなり。)
「青面金剛法」
(京都妙法院蔵本)
為伝屍病祈禱行之
(伝尸病の為に祈禱これを行う)
(口語文は迷道院のテキトー訳です。)

ということですが、それが「庚申信仰」とどう結びつくのかということになると、諸説紛々で、いまひとつよく分かりません。
「伝尸病」「三尸の虫」の、「尸」が共通しているからという説も、あるのですが・・・。

窪徳忠氏は、中国医学と道教の結びつきがあるのだろう、と述べています。
「救急仙方」という文章中に、こんな記述があるそうです。
「伝染子孫親姻族属」 子孫、親姻族に伝染する
「故曰伝尸癆」 故に伝尸癆(ろう)=伝尸病と言う
「不先焚滅三屍九虫」 先ず三屍九虫(三尸の虫)を滅ぼさなければならない
「服薬無効」 薬を飲んでも効かない
(これも迷道院のテキトー訳です。)

つまり、「伝尸病」を治すには、まず「三尸の虫」を駆除しなければならないということです。

以上のことから、氏は「庚申信仰」「青面金剛」の結びつきについて、このように述べています。
大青面金剛呪法を知る僧侶が、これらの符や救急仙方もしくは玉枢経などの説をあわせて知れば、伝尸病を媒介として、青面金剛と三尸とを結びつけ、結局庚申の日に徹夜しつつ、すなわち守庚申を行いつつ、三尸の駆除を青面金剛に祈請する庚申待的祭祀が案出され、必然的に青面金剛が庚申日の礼拝対象にされることになると思われる・・・」

写真を撮った帰り道、畑仕事をされてる方に声を掛けたら、「ウチの墓で写真撮ってたみたいだけど、何が撮れたね?」と言われてびっくりしました。
誰も見てないと思ったら、見てたんですねぇ。
しかも、「青面金剛像」が建っている土地の持ち主だったとは。

近々、道路が拡幅されるので「青面金剛像」などは、どこかへ移設しなければならないのだそうです。

こうやって、史跡がだんだん元の場所から離れていくのでしょう。
廃棄されてしまわないことを、心より祈っております。


【綿貫町青面金剛像】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:20
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2017年11月05日

史跡看板散歩-67 台新田町稲荷神社

台新田町「稲荷神社」



看板には明和五年(1768)創建となっていますが、「上野国神社明細帳」では由緒不詳ということで創建の年は書かれていません。

笑っているように見える狛狐の向こうに、平成二十年(2008)に再建されたという社殿、左奥に見えるのは菅原道真を祀った「菅原社」です。


この「稲荷神社」は、終戦前日の昭和二十年(1945)八月十四日深夜に空襲を受けて焼失していますので、再建は戦後二度目なのでしょう。

ここの「猿田彦大神」は、他所ではあまり見かけない立派なものです。


「猿田彦大神」の子どもみたいに、膝上にちょこんと乗っかってるように見えるのが「馬頭観音」
しかし実は「馬頭観音」の方が年上で明治二年(1869)の建立、「猿田彦大神」は明治二十五年(1892)です。

その右側に、ちょっと違和感のあるものが建ってます。


焼却炉のように見えますが、これ、「タイムカプセル」だそうです。

区長さんにお聞きしたところ、平成十三年(2001)に設置したもので、当時の子どもたちや区長さんなどが、その日の新聞や、未来の自分へのメッセージや、写真などを入れたということです。
15年経ったら開けようということになっていたので昨年の11月に開けて、本人に戻したそうです。
なので今は空っぽになっていますが、第2回目を入れるかどうか検討中だとか。

看板の後半に、「獅子舞」のことが書いてあります。
出し物に「綱渡り」とあるので、好奇心を搔き立てられました。
獅子のいでたちで綱渡りをするとは、まさに軽業のような獅子舞じゃありませんか。

見てみたいものだと思ってビデオを借りてきてみたら、「綱渡り」じゃなくて、「綱切り」でした。
(「台新田町獅子舞保存ビデオ」より)

なかなかストーリー性のある、面白い獅子舞です。

もうひとつの「雌獅子がくし」「雌獅子隠し」で、これもストーリー性の高い、ユーモアあふれる獅子舞です。

「稲荷神社」に接して、北隣に「地福院」というお寺があります。


写真左に石仏などがずらっと並んでいますが、この内の一つが「隠れキリシタンのマリア像」だと言われています。
探してみて下さい。

また、参道左手に大きな石が建っています。


真ん中の凹んでる部分が、何となく仏像のように見えます。
「天引石」(あまびきいし?)と言うそうですが、「新編高崎市史 資料編14」によると、「もともと、台新田町西南部の不動山という所にあったもの。古墳の天井石と見られる。」ということです。

「不動山」は、「上毛古墳総覧」では「旧岩鼻村第七号 稲荷塚」という古墳で、「稲荷神社」の南300mほどの所にあったようです。
(「新編高崎市史資料編1 古墳分布図」から推定)


「上州どどいつ部」でお世話になっている高崎出身の音曲師・柳家紫文師匠が、岩鼻小学校への行き帰りに古墳があったのを見ているというので、たぶん昭和四十年代までは残っていたと思われますが、今は跡形もありません。

もうひとつ、「地福院」の埋葬者でぜひ知って頂きたい人物に、早川圭村がいます。
郷土の歴史研究家としての名も、もはや忘れ去られようとしていますが、その波乱万丈な人生はさらに知られていないようです。
   ◇例幣使街道 寄道散歩(4)

お散歩の際にちょっと思い出してあげたら、きっと喜んでくれると思います。


【台新田町稲荷神社】



  


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2017年10月29日

史跡看板散歩-66 栗崎町諏訪神社

久々の史跡看板シリーズです。

今日は、栗崎町「諏訪神社」


「上野国神社明細帳」には由緒不詳とありますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
由緒不詳なれども往昔同郡倉賀野駅飯玉神社より分け祭れりと云ふ。(略)
亦合併したる諏訪神社の由緒記によれば大永三年(1523)中、信濃國諏訪明神を勧請し、上下両社に分祀して当村の鎮守とし、上諏訪下諏訪と称し奉る。
其後明治十年四月四日下諏訪鎮座の下照姫命(したてるひめのみこと)を上諏訪に合祀せり。
末社経津主命(ふつぬしのみこと)、疱瘡(ほうそう)社一社あり。
信州より分祀し奉りしより、旱魃の際、雨晴等祈禱能く霊験あること最も人の知る処也。
寛文五年(1665)乙巳(きのと・み)安藤對馬守御検地に際し、御除地六反餘歩を賜はる。」

一段高くなっている境内の東南角に、史跡看板が建っています。



「馬頭観世音」は、最初の写真右端に写ってるのがそれです。
「種子道陸神」は、史跡看板の左に並んでいる石造物の一番左。


「大地土公神」「百庚申」は、大きな桜の古木の下に並んで建っています。



「土公神」という神様は知りませんでしたが、土を司る神様で、春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭と、季節によって居座る場所を変えるらしいです。
なので、その季節にその場所を動かしたり侵したりすると祟られちゃうんだとか。
看板では「どぐうじん」と仮名が振られていますが、Wikipediaでは「どくじん」あるいは「どこうじん」と読ませています。

ここの「百庚申」塔は、一枚の板碑に「庚申」という文字が百刻んであります。
よく道端に建っている「庚申塔」は、60日に一度巡ってくる「庚申」(かのえ・さる)の日に行う「庚申待ち」の講を、3年18回行った記念に建てるものです。

その「庚申塔」を百基建てるのが本来の「百庚申」でしょうが、それには「庚申待ち」を1800回、300年かかることになります。
そこで、あちこちの寄進者による「庚申塔」を一箇所に集めて「百庚申」と称したり、一基の「庚申塔」「百庚申」と刻んだり、ここのように「庚申」という文字を百刻んで、同じご利益を得ようというのもあったりする訳です。

また、文字を百刻む場合ひとつづつ違った書体にするものが多いのですが、ここの「百庚申」塔はまるで機械で彫ったかのように同じ字体で百刻まれています。
建立は万延元年(1860)とありますので手彫りのはずで、これはこれですごい手技です。

あ、そうそう、栗崎町と言えば、高崎城のシャチホコが載っている門を探しに来たことがありました。
ご興味のある方は、探してみて下さい。
ただし、そっとね・・・、そっと。


【栗崎町の諏訪神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:20
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2017年10月22日

不幸だった道標 「國道九號線」

先日、「幸福の道標 左道通行」の記事を書きましたが、実はその真逆の「不幸な道標」があります。

飯塚町の一貫堀に架かる「清水橋」の親柱、そしてそれは、高崎の歴史を語る「國道九號線」の道標でもありました。

8年前の記事をご覧ください。
   ◇高崎に国道9号線?

この親柱、つい最近まであって、ストリートビューにも残っているんですが・・・。


いつの間にか、なくなっちゃいました・・・。


どうも、昨年から今年にかけての橋改修工事で、撤去されてしまったようです。

高崎土木事務所へ電話して、親柱はどうなったのか問い合わせたところ、「区長さんからの要請もあって、塚沢公民館に保管されている。ただ、撤去時に破損したものは廃棄した。」ということでした。

早速、塚沢公民館へ行ってみました。
主事さんのご案内で保管してあるという場所へ行ってみると、外階段の下に置いてはあったのですが・・・。


肝心の「國道九號線」と刻まれた親柱は、廃棄されてしまったようです。

もしも土木事務所の担当者が、あるいは工事業者が、「これは何か大切なものじゃないか。」と思ってくれていたら、破損しないように注意しながら作業してくれたんじゃないでしょうか。
例え破損してしまったとしても、つぎはぎして復元してくれたんじゃないでしょうか。

そういう人のご縁を得た「左道通行」の道標に比べ、ご縁を得られなかった「國道九號線」の道標は誠に不幸でありました。

8月の上毛新聞「ひろば」欄に、こんな投稿がありました。


羨ましい話です。

ただでさえ少なくなってしまった高崎の歴史を、これ以上捨ててしまうことがないようにしたいものです。
高崎の行政に携わるあらゆる人達に、そしてこれからの高崎に生きていく子どもたちに、高崎の歴史を伝えていく必要性を、強く、強く思う日々であります。


【清水橋】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:31
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2017年10月15日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(3)

嬉しいニュースが飛び込んで来ました!

「左道通行」の道標が、新(しん)町から返還され、元あった粕沢に設置されたというのです。


元あったと言っても、正確に元の場所という訳ではないのですが、松並木を背に、浅間山古墳を右手に見る、現時点では最適な場所だと思います。

この「左道通行」については、つい最近記事にしたのでご記憶の方もあるでしょうが、こんな経緯がありました。
   ◇幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(1)
   ◇幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(2)

ここまでの間、御尽力を頂いた皆さま方に、心より感謝申し上げます。

次の期待は、ここに史跡看板が設置されることです。
関係者の皆様には、引き続きよろしくお願い申し上げます。


【「左道通行」の道標】



  


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2017年10月08日

史跡看板散歩-65 火雷若御子神社

東中里町「火雷若御子(からい・わかみこ)神社」です。




神社名の「火雷」は、「火雷神」(ほの・いかづちの・かみ)のことですが、これが実に大変な神様でして。

「イザナギ」「イザナミ」が結婚して、国を産み、島を産み、神を産むのですが、最後に産んだ神様が「火之迦具土神」(ひの・かぐつちの・かみ)という火の神様だったものですから、「イザナミ」は陰部に火傷を負って死んでしまうのです。

死んだ「イザナミ」は黄泉(よみ)の国へ行ってしまいますが、「イザナミ」にもう一度会いたいと思った「イザナギ」は、黄泉の国の入口まで訪ねていきます。
外で待っていてくださいと言う「イザナミ」を待ちきれずに、中へ入った「イザナギ」が見たものは、蛆が這い回る「イザナミ」の変わり果てた姿でした。

そしてその身体には八柱の「雷神」が纏わり付いていて、胸の部分にいたのが「火雷神」なのです。
その姿におののいて逃げる「イザナギ」を追いかけたのも、「雷神」達でした。

そんな怖い神様ですが、雷の多い上州では雷除けの神様として、また稲妻や雨をもたらす豊作の神様として祀ったのですね。

看板に、祭神は「火産霊命」(ほむすびの・みこと)とありますが、この神様の別名は「火之迦具土神」「イザナギ」が死の直前に産んだ神様なのです。
境内社の「秋葉神」の祭神「軻遇突智命」(かぐつちの・みこと)も、同じ神様です。
もう一柱の祭神「宇気母智神」(うけもちの・かみ)は、その屍から牛馬、粟、蚕、稗、稲、麦・大豆・小豆が生まれたとされる、食べ物の神様です。

神社名に「若御子」と付いている意味はよく分かりませんが、那波郡下ノ宮(現玉村町)の「火雷神社」から勧請したということなので、「火雷神の御子」といった意味なのでしょうか。

(なお余計なお節介ですが、「大山祇命」「おおやまぎの・みこと」と仮名が振られていますが、「おおやまつみの・みこと」の誤りだと思います。)

社殿は質素な造りですが、駒犬の顔は迫力があります。


迫力のある風神・雷神の絵馬も奉納されています。


その並びに、「神楽殿」という額があるんですが・・・?


境内に「神楽殿跡」という看板が建っていますので、どうやら額だけ残して社殿に飾ったもののようです。


試しにGoogleストリートビューで見てみたら、2012年にはあったようですが、2015年には無くなっています。


社殿後ろの石碑に、こんなことが刻まれています。
明治十九年中宮殿ヲ建換ヘ 神樂殿幷ニ沓堂ヲ新築ス 同廿八年一月廿四日神號ヲ舊ニ復シ奉り 同月廿七日御遷宮式大祭典ヲ挙行ス」

明治丗四年一月廿七日氏子等建之
      五十嵐勘衛謹書

明治十九年(1886)に建てた「神楽殿」ですから、けっこう傷んでいたのかも知れません。

上の石碑に「五十嵐勘衛謹書」とありますが、境内には、同氏の名前があちこちに見られます。




高崎五万石騒動で斬首された大総代・佐藤三喜蔵の家が移築された場所を探して、この五十嵐勘衛氏宅に辿り着いたことを懐かしく思い出しました。 → 「久々の五万石ネタ」

看板の後半に書かれている「御沓堂」です。
「おくつ」と仮名が振られてますが、正確には「御沓」(おくつ)を納めるお堂で「おくつどう」なんでしょう。


中は相当荒れていますが、草鞋や絵馬が残っています。


「馬の草鞋」「御」を付けて「御沓」というのは、「雷神」が乗る白馬に履かせる草鞋に由来するようです。

前橋上新田町にも「雷電神社」があるんですが、そこに謂れを書いた看板があるのを思い出しました。
7年前に尋ねてました。


社殿の手すりには、沢山の「御沓」が奉納されていました。


さて、「火雷若御子神社」に戻りましょう。
看板の最後に書かれている「石造物」というのがこれです。


ただ、この中に謎のものがありまして・・・。


お地蔵様の後ろに円い石が置いてあって、いや、置いてあると思ったら、しっかりコンクリの土台に埋めてあるんです。
何なのかなぁ、って・・・。

小さな神社でしたが、面白くって、つい長い記事になってしまいました。


【火雷若御子神社】


【下新田町雷電神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:18
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2017年10月01日

史跡看板散歩-64 一本杉

「荒神」から「倉賀野緑地」へ下る坂の左に、伝説の「一本杉」があります。





看板では字数の制限があってあらすじしか書けなかったと思いますので、「伝説之倉賀野」の全文を読んで頂きましょう。

「一本杉」
天下麻の如く亂れた戰國の世も、元和の春と共に、世は太平を謳歌する時代となった。
甲阪新之助は、とある旗本の嫡男に生まれた。
父は旗本八萬騎の四天王の一人として多數の部下を統率する身であった。
その性質は勤嚴そのものの古武士、大阪夏冬の陣に其の名を謳はれた勇將にて、暇ある毎に語り聞かすは當時の武勇傳であった。

新之助の生みの母は早逝した。父は後添を貰った。
後添には一人の娘が居た。名を桃千代と呼び母子は新之助と晴れて夫婦になる日を楽しみにして待って居た。
然し、運命は皮肉にも新之助の心は、いつか許嫁とは反對な邸(やしき)の門番の娘お露にあった。
『忍ぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人の問ふまで』
いつまでも知れずにはゐなかった。
桃千代を通じて繼母に、繼母より父へと知られた。
如何に辯解したとて名ある旗本の嫡男の身が、いやしき門番の娘などと・・・。

清廉潔白の士を以って世に聞ゆる父に許され樣もない事を知った二人は、或る夏の夜兩國大花火を期して姿を消した。
行く先は豫(か)ねて便りに薄ら記憶の老女中、お藤の餘世を送る上州碓氷の坂本宿であった。
江戸を出てから夜に日を次いで武州熊谷も過ぎ、本庄に辿りついた。
何の用意とてない上に御苦労知らず、働く能なき二人には、それは此の世ながらの生地獄であった。

折しも豪雨降り續き、河といふ河は未曾有の増水となった。

船賃とて持たぬ上に、江戸から追手が迫ってくると聞いた兩名は、どうしてもこの川を渡らねばならなかった。

或る夜淺瀬を見付けて川越しをした。
だが不幸にも足はすべって河中に・・・・怒り狂ふ荒波の中に!
明くる朝河岸近くの河原に多くの人が集まってゐた。
近寄って見れば何と互ひに胴を結びし男女の溺死體であった。然も可憐にも女の體には新しい肉塊の動きさへ見受けられた。
純朴な村人の目には涙さへ催された。

やがて二人のために河岸近くの高臺に比翼塚が建立された。

兩親も江戸より馳付けた。此の二人のいぢらしさに肉親の愛情がこみ上げてきた。

一切を許して立派な塚が立てられ、その上に二本の杉が植ゑられた。
一本は大きく一本は小さくとは優しい村人の心遣ひの表象(あらわれ)であった。
さゝやか乍も石塔も立てられた。

よく其處には訪れる人の供へた、だんご草花の供養も見出だされる。
其の邊を荒神山(くわうしんやま)と云ひ、人々はあの杉を荒神山の二本杉と呼び慣らした。
それから荒神山はただ荒れるに委せられて狐や貉の巣くふ荒山となった。

星移り年も幾度か改まって明治となった。
さしも荒れに荒れた荒神山一帶も文明開化の叫びと共に、次第に開墾され田畑となった。荒神と名づけた田も出來た。
だがどうした理由か、水田の水掛りが悪い上によく人々が怪我をする。
又其の田を耕す者の家には必ず不幸が見舞ふとさへ云はれた。
人々は古老の言に從って二人の供養塔を立てゝ懇ろに弔った。
其れ以來惡い事もなくなったと人々は喜んだのである。

植ゑた二本杉は年を經て、すくすくと靑天に聳ゆる大木となった。

或る年雷が落って一本が真二つに割れてしまった。
幸ひ枯れはしなかったが、その空洞になった所に、時々乞食どもが集まって火を燃してゐた。
或る冬の朝、村人たちは怒って追出したが、すぐに又集まって來た。
遂に一本は枯れた、だが抜目のない乞食どもは、他の一本にも空洞を見付けて、相變らず火を燃やしてゐた。

訪れる人々はその一本杉の根元に黒くこげた、むごたらしい痕跡を見つけて、風雨幾星霜にさらされて立つ梢を、深い感槪を以って眺めることであらう。」


もとは「二本杉」だったという、「一本杉」の悲恋物語でした。


【一本杉の史跡看板】



  


2017年09月23日

史跡看板散歩-63 倉賀野下町の諏訪神社

「古堤」のすぐそばにあるのが、下町(しもちょう)の「諏訪神社」です。




看板の後半に書かれている「池鯉鮒(ちりふ→ちりゅう)大明神」は、本殿の後ろに祀られています。


この「池鯉鮒大明神」、もとは「諏訪神社」の南東、「甲大道南」というところに祀られていました。


「伝説之倉賀野」という本に、その謂れが載っています。
「ちぢり山」
まむしが人を嚙じると言ふ事は聞いてゐたが、まむしが寄り集まって、今度は誰が誰を嚙じる番であると、嚙じる蛇と嚙られる人とが定(き)まってゐたと聞いては、全く驚かざるを得ない。
(略)
或る夏の夕暮れ、此邊で何時もまむしに嚙られるのだと言ふ事を知らない筈はない農夫が、圖らずも其處を通りかかって、怪我の功名とでも云はふか、まむしの相談の場所にぶつかって了(しま)った。
所が通りかかったと云ふのが、怪我の功名だと思はれたその瞬間!眩惑と共に奈落の底にでも放り込まれる様な衝動を受けた。
不思議と言はうか、皮肉と言はうか、今度嚙み殺される番に相談が定(き)まったのが、何と自分ではないか・・・。」

気も失わんばかりに驚いた農夫は、転げるようにして家に帰ると、翌朝から夢中になって木を伐り、材料を削って、一つの祠を作り上げます。
その夢遊病者の様な彼によって作り上げられた祠は、その翌々日、甲大道南の地域に建てられた。
何の爲に此の祠を此の農夫が此の地に建てたかは、彼が其の後、あの凶惡なまむしの餌食にならないで済んだ事によって、御想像が願へると思ふ。
此の祠を人呼んで『池鯉鮒大明神』といふ。まむし避けの神として祀られたものである。
大明神の祠は、其後下町諏訪神社境内に移されたが、つい此の頃まで毎月一日に赤飯が、町の舊家の手によって供えられてゐたと言ふ事である。」

「諏訪神社」には、この他にも蛇にまつわる逸話がいくつか伝わっています。
そのひとつが「穴池の大蛇」という話です。

「穴池の大蛇」
今からずっと昔の事、儂(わし)が子供の頃だったよ。よく老人から云ひ聞かされたものだった。
あの御諏訪様の東北の方面が一帯の荒地で、其處に池があったさうだ。
其の池は、大昔随分廣くて深かったと言はれて居たが、段々と狭められて來た。
今は此の邊一帯の地を『穴池』と云ってゐるが、此の穴池と云ふ言葉は、狭くても非常に深く、陥ち込めば穴の底の底までも引込まれるものだらうよ。
今でこそこの付近は豊沃な田や畑と變って居るが、今から五、六百年も前と言へば恐らく薄氣味惡い程の荒地で、土地の高低は勿論のこと、樹木の繫みは想像以上であったに相違ない。
さうした中に池の水がどんよりと不氣味な沈黙を續けてゐたものだらう。
其のうちに、此の池の中に、それはそれは恐ろしい大蛇が棲む様になった。
否、ずっと前からゐたのを知らなかったのかもわからない。
ところが此の大蛇が段々と齢を經て來るに随って、人々の迷惑になる様な惡事をすると云ふことでなァ、これは何とかしなければなるまいと、寄り寄り相談した。
そして此の大蛇を退治して仕舞ふ事に定(き)まった。
それから下町の人達が随分と苦心した舉句、漸く之を退治したのぢゃ。ところが 見事打取っては見たものの、どう始末してよいかそれに困ってしまった。
思案の末、萬が一の崇りを恐れて、これは氏神の諏訪神社にあづけた方がよからうと云ふ事になって、此處へ奉納することになった。
斯うして大蛇も神に祀られたとの事ぢゃよ。」
(「伝説之倉賀野」より抜粋)

「諏訪神社」に蛇にまつわる話が多いのは、そもそも信州「諏訪大社」の本来の祭神が、白蛇の姿をしているとされる「ソソウ神」だということと無関係ではなさそうです。
また、蚕の繭を食べる鼠を蛇が食べることから、蚕室に「諏訪神社」のお札を貼る養蚕農家も多かったようです。

昔は今よりもずっと、蛇との関わりが身近だったのでしょうね。


【倉賀野下町の諏訪神社】




  


2017年09月17日

史跡看板散歩-62 新堤

Mr.Max倉賀野店の北東に、大きな貯水池があります。


その貯水池は「新堤」(しんづつみ)と呼ばれています。



「通称桜木町鯉池」とあるように、平成八、九年頃まで新(あら)町の養鯉業者が鯉の養殖をしていたのだそうです。
その鯉は、長野県まで列車輸送されて「佐久の鯉」として売られていたといいます。(倉賀野町の民俗)
今ならさしづめ産地偽装で問題になってたかも知れませんね。

「新堤」は天明六年(1786)に完成したとありますが、昭和十一年(1936)に改修工事が行われ、その記念碑が建てられています。


記念碑には「新舊(きゅう)溜池改修記念碑」と刻まれています。
「舊溜池」というのが、看板に書かれている「古堤」(ふるづつみ)のことです。

「古堤」は、「新堤」の南東400mの所にあります。


「古堤」の向こうに見えるのは、「高崎市立倉賀野保育所」です。
その正門脇に、「古堤の由緒」碑が建っています。

「古堤の由緒」
古堤は倉賀野町字荒神にあり、面積は六反三畝五歩にして、徳川四代将軍家綱公の寛文年代、全国的な大旱魃起り、時の高崎藩主は、年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。

その後管理は名主、組頭、百姓代に依ってなされたが、明治に至り町の所有となり、下組水利組合が管理運営にあたり、下流地域一帯の田畑を潤し、農民はその恩恵に浴す。

時は移り世は変り、町村合併により高崎市の所有となり、幼児教育の重要なる事を認めて相謀りて、ここにその半ばを埋め立て、保育所を建設するに至る。
この農民の歴史を後世に伝えんとして、この碑を建つ。

昭和五十二年四月吉日 倉賀野下組水利組合

倉賀野の農業用水は長野堰から引いています。
江木町「円筒分水」「倉賀野堰」に分流し、さらに上佐野町「粕沢堰」で分流し、また字樋越で分流して一本は「五貫堀」に、もう一本はさらにいくつもに分流した末に、ようやく下流域に細々とした水が辿り着きます。
そんな訳ですから、下流域の下町南町の農家にとって、「古堤」「新堤」がどれほど大切な溜池だったことか。

今も満々と水を湛える二つの堤は、これからも先人の知恵と努力の歴史を伝えていくことでしょう。


【新堤】


【古堤】



  


2017年09月10日

史跡看板散歩-61 北向道祖神

「倉賀野城跡」から北へ250mほど行くと「倉賀野神社」です。


境内南西隅にあるのが「北向道祖神」で、そこに史跡看板が建っています。



看板には「もともと近くの倉賀野古城跡の辺りに、北向に祀られていたと言われている」とありますが、土屋喜英氏著「続高崎漫歩」によると、「もともとは南向きに祀られていた」とあります。

ところが、狭い農道の角にあって、農民が天秤棒を担いで通るのに邪魔だったので、向きを「北向き」に直したんだというんですね。
やがて倉賀野神社に移された時、そのまま北向きに祀ったということですが、きっと移した人も「北向き」に何か意味があると思ったんでしょうね。

そう言えば、倉賀野には「北向庚申」なんていうのもあります。

倉賀野神社内の史跡看板はこのひとつだけですが、見どころはまだまだ沢山あって、8年前の記事も併せて読んで頂けたら嬉しいです。
   ◇飯玉さま
   ◇「亀石」と「飯玉さま」
   ◇みんなまとめて倉賀野神社

今日はリンクが多かったので、ここまでに。

【北向道祖神】