2021年01月24日

史跡看板散歩-216 下室田大福寺の庚申塔

榛名消防団第四分団脇を入ったどん突きが、「大福寺」です。



史跡看板は、この寺に建つ三基の「庚申塔」について書かれています。


その三基の「庚申塔」がこれらです。




う~ん。
何か物足らないので、「大福寺」について調べてみました。
「榛名町誌 通史編下」に、こう書かれています。
上町の天台宗大福寺は中里見光明寺末、本尊は阿弥陀如来である。
寺記によれば、貞和三年(1347)に里見兵庫頭が再興した。
中興の開山は僧円覚である。
永正八年(1511)、住職光海の時に長野憲業(鷹留城主)が寺領として六貫五百文を寄進している。
同十八年、兵火により全焼した。」

う~~ん。
まだ物足らなくて、「室田町誌」も見てみました。
すると、興味深いことが書いてあるじゃありませんか。
二十三世正観上人の代、寛文年間(1661-1672)檀徒二百戸あまり、名主某のために、長年寺に転帰するという事件がもちあがり、このため上人は江戸へ訴えたが敗れ、憤懣断食をして死に、遺言して根古屋山上に葬らしめたという。
これを大福塚という。
(口碑伝説の項参照)」
寛永年間(1624-1643)の誤りか?

その口碑伝説の項には、こう書かれています。
下室田根古屋と駒寄との境界となっている丘陵に、松の大木が二本みえます(方角により一本となるので、おばけ松などと子供たちが言ってます)が、この根方を大福塚と呼んでいます。
この塚には次のような伝承があります。
寛永年間室田村内の大福寺、松仙寺、吉祥寺、医王寺、無量院等の諸寺の檀徒が、大量長年寺檀中に転帰した事件がありました。
各寺の住職は、これは名主中島某(一本長兵衛)が圧力を加えて自らの檀中(長年寺)に引き入れたものと考え、寺社奉行まで訴訟し、敗訴となっています。
その時大福寺住職正観和尚は憤懣の余り、三七日の断食苦行の末、怨敵滅亡を祈願して、臨終の時「愚僧死すとも瞑目する能わず、屍は必ず南面させて根古屋山上に葬れ。彼ら寺敵を睨み倒し、しかも子孫を断たざればおかじ」と遺言。
墓に入ってからも竹筒で水をささせ、生きている間は鈴を合図にならすと言って死んで行きました。」

「大福寺」の住職が檀徒を引き抜かれた恨みから、死して山上の「大福塚」から敵を睨み倒しているというのです。
「大福塚」へ行ってみたくて仕方なくなりました。

「大福寺」でお聞きすれば分かると思ったのですが、どうやらここは無住寺のようです。
ご近所の方にお聞きしましたが、「大福塚?聞いたことないねぇ。」と言います。
しかたなく、「室田町誌」に書かれている「下室田根古屋と駒寄との境界」、「松の大木が二本」、「南面させて根古屋山上に」という記述を頼りに歩き始めましたが、この辺りどこを見ても山だらけで皆目見当がつきません。


困っていると、一軒の民家のお庭に人の姿を見つけました。
急いで声をお掛けして、「この辺に、大福塚というのがありますか?」とお尋ねすると、何と!ご存知でした。
お父様からそういうものがあるとは聞いていて、場所も大体分かるけれども、実際に見たことはないということでした。
しかも、道は藪になってて行けないんじゃないかと言います。

ところが何と!「私も興味があるから、一緒に行ってみましょう。」と、仰ってくれました。
車の助手席に乗せて頂きけっこうな距離を走って、尾根の西側登り口へやって来ました。
車を停めて急坂を登り、やや平坦な場所に出ましたが、そこで藪に阻まれ、それ以上進むことはできません。

すると、「フルーツラインの方からなら行けるかも知れない。」と、また車でぐるーっと回って下さいました。
そして入って行ったのは、「下村浄水場」の脇道でした。


500mほど行くと、右側が広場のようになっています。


松ではありませんが、大木が二本立っています。

近くに車を止めて広場に入って行くと、二本の大木の間の灌木の陰に、小さな石碑を見つけました。


前に回ると、「秀巌山二十三世 正観上人之墓」と刻まれています。

間違いありません、これが「大福塚」です。
二人して大喜びしました。

案内して頂かなかったら、絶対に辿り着けなかったでしょう。
ありがとうございました。
奇跡的な出会いをしたこの方は、宮下喜好さんと仰います。
城郭、特に山城に興味を持っていらっしゃるそうで、この辺の歴史にも大変詳しいお方でした。
「大福塚」は、地元では「だいくづか」と呼んでたそうで、初めて「だいふくづか」と分かったと喜んでらっしゃいました。

さて、「大福塚」騒動の発端となった名主・中島某の起した檀徒引き抜きの件ですが、その顛末を記した古文書が中島雅雄氏家で発見され、昭和二十八年(1953)の新聞紙上にその調査結果が掲載されます。


この新聞記事を読んで、おや?と思うところがあります。
終盤の辺りの、こんな記述です。
なお、裏書に寺社奉行の長左衛門(室田町誌では長兵衛)に対する呼び出し状があり、出張しなければ投獄するとあるところをみると、この裁判は多分真言、天台側の勝訴に終わったのであろう。」

ん?「大福塚」の伝説とは訴訟の結果が真逆です。
はて、どちらが本当なんでしょう。

新しく建て直されたという現在の「正観上人之墓」も、「長年寺」の方角ではなく、遠く雪を頂く浅間山を望んでいます。


いまだに謎が残る「大福塚」でした。


【大福寺】

【大福塚】


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Posted by 迷道院高崎at 06:54
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2021年01月17日

史跡看板散歩-215 下室田の庚申山

今回の史跡は、分かりにくい場所にあります。

烏川に沿って走る県道29号線(あら町-下室田線)、下村の信号を北に入り1kmほど行くと、ヘアピンカーブに差し掛かります。
そこを左、「大世神山」「サンコーハルナパーク」方面に入ります。


そこから、さらに600mほど行くと、右に入る道がありますので、そこを曲がります。


曲がるとすぐに携帯基地局のアンテナが建つヘアピンカーブがあって、そのカーブの先に、右手前に鋭角で入る坂道があります。



細い坂道を300mほど上ると、右側のガードレールが切れている所に、何やら木札が建っています。


木札には手書きで「史跡 お庚申様 この下30m」と書いてあります。

ここを下っていくようですが、手書きの木札が無かったら道があるとは気付きもしなかったでしょう。
地元の方の心配りを嬉しく思う反面、名所旧跡案内板を設置した市役所の心配りの不足を悲しく思います。

けっこうな急坂で、落ち葉が降り積もっていて滑りやすいので、ストック2本を突っ張りながら慎重に下って行きます。
しばらく下ると、左下に大きな石が見えます。


急坂はまだずっと先まで続いていますが、鋭角に左手前に入ると大石と史跡看板があります。



ほー、なるほど、面白い話ですね。

行者のお告げで掘り出した石には、月と太陽、庚申という文字が彫ってあったというんですが、よく見ないと分からないくらいの線刻彫りです。


お正月には、きちんとお供えをしてお祭りしたようです。


地元の方のお話では、この急坂の山道は昔は日常的に使っていた道だそうです。
たしかに、この急勾配では人や牛馬も転倒するでしょう。
ただ、「庚申塔」が、こんな山道の途中の道端に埋まっていたというのは、ちょっと不思議です。

この「庚申塔」、もとは坂道の上の村の入口に建ってた「賽の神」なんじゃないでしょうか。
それが、土砂崩れか何かで下に転げ落ち、土に埋まっていつしか忘れられていたのでしょう。
災いが続くので、「そう言えば・・・」と思い出したのが、村の行者だったのかもしれません。

その石を掘り出す様子を描いたという絵馬が見たくなって、「諏訪神社」へ行ってみました。



拝殿の中に、その絵馬が飾ってありました。

石を引く人々の周りを、白狐が跳ね回っているようですね。

これからも、永く語り伝えていって欲しいものです。


【庚申塔入口】

【諏訪神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2021年01月10日

史跡看板散歩-214 丸山公園の庚申堂と弘法大師堂

上里見町の国道460号線沿いに、「三共クリーニング店」というのがあります。

その脇の道を南に入って行きます。

180mほど行くと、左に入る細い道があります。


その細道の先はえらい急坂で、空中へ飛び出してしまいそうです。


車が仰向けにひっくり返ってしまいそうな恐怖を覚えながら無事上りあげて、振り返って見るとけっこうな眺めです。


その急坂の上が「丸山公園」です。



この看板の文章、意外と分かりずらいです。
時系列的に整理すると、こういうことらしいです。
ここは昔「雷電神社」だった。
明治二十九年に「蚕影山大神」(絹笠様)を祀った。
青面金剛を祀った「庚申堂」があったが、大正初めに取り壊した。
昭和八年に「庚申堂」を再建した。
昭和十四年に弘法大師像を安置した。
平成十七年に堂宇を新築し「弘法大師堂」とした。
旧「庚申堂」は、移設して「山車倉庫」として使っている。

文久四年(1864)銘のある鳥居を潜って石段を上ると、「蠶(蚕)影山大神」の大きな石碑が建っています。


その左、一段下がった所にあるのが「弘法大師堂」です。

右脇に建つ「弘法大師碑」は昭和八年の銘があるので、「庚申堂」を再建した時に建てられたものでしょう。
碑面には「四國 八十八ヶ所ノ内 弘法大師」と刻まれているのですが、「八十八ヶ所ノ内」とはどういう意味なんでしょう。
ご存知の方、ご教示ください。

ところで昨年の流行語大賞は、コピーライターの小池百合子氏が広めた「3密」でしたが、実はそれより1200年も前に「三密」という言葉を広めていたのが、弘法大師でした。

「3密」は人と人とを近づけないための言葉ですが、「三密」の方は人と仏様を近づけるための言葉です。
身密(しんみつ) 手や指で印を結び仏さまの姿をまねる
口密(くみつ) 口で仏さまの言葉である真言を唱える
意密(いみつ) 心に仏さまの姿を描き瞑想する
(茨城県筑西市 東睿山 金剛寿院 千妙寺のHPより)

閑話休題。

「弘法大師堂」の後ろに、大きな東屋が建っています。


その西側に、お堂の瓦屋根が見えます。

これが、「山車倉庫」になった旧「庚申堂」なのでしょう。

下へ降りて正面から見ると、こんなです。


下へ降りたついでに、東側へ回って「丸山公園」を見てみると、なるほど「丸山」だなと気付きました。


榛名町役場著「榛名町の文化財」に、「上里見藩邸跡」として「丸山公園」の写真が使われています。


と言っても、「丸山公園」「上里見藩邸(神山陣屋)跡」ということではなさそうで、場所については、こう書かれています。
城地は字町南から八幡にかけての一帯にわたり、附属建物は町西、町東に及んでいたようである。
字町通り七四一、七四二番地附近が大手口、陣屋跡は東西五十間(約十五メートル)、南北四十間(約十二メートル)、これを中心に附属建物があったようである。
西に離御殿(後に城代家老居住)、竜門寺(菩提寺、黄檗宗)南に倉庫、八幡神社(守護神、石祠現存)、東南に的場、東に道場、北に武家屋敷・・・」

これだけではよく分からなかったのですが、「里見町誌」「城下町の神山宿」という絵図があり、そこに「陣屋」等の位置が描かれていました。


これらを踏まえて「742番地」を目安に現在の地図を眺めてみると、おおよその位置関係が分かります。


この2つを見比べると、どうやら現在の「丸山公園」は、神山宿絵図に描かれている「八幡神社」のあった所のように見えます。

いつの時代も、人は高い所に神秘的な力を求めるものなのでしょうね。


【丸山公園】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2021年01月03日

史跡看板散歩-213 上里見町田中の道祖神

すっかりご無沙汰している間に、年が改まってしまいました。
3ヶ月ぶりの「隠居の思ひつ記」です。

再開第一回は、里見小学校裏の三叉路に祀られている道祖神です。


「田中の道祖神」と呼ばれているようですが、見た目は「檻中の道祖神」です。



延宝四年(1676)の銘があって町内最古の道祖神らしいですが、県内最古のものは倉渕村権田の寛永二年(1625)だそうです。
近藤義雄氏著「上州の神と仏」によると、道祖神の建立時期は四期に大別されるといいます。
第一期は寛永(1624-)~元禄(-1704)期としています。
とすると、「田中の道祖神」はちょうど一期のど真ん中ということになります。

同著によると、この時期の道祖神の特徴はこうだそうです。
自然石を建てて道祖神として祀ってきたが、近世初期から様々な石像が出現してきたとき、道祖神も神仏の姿をした像が求められたのであろう。
そのため、二神とも仏像や神官の姿、ときには三月の節供に飾られる座り雛の形をしたものなどである。
前記倉渕村の県内最古の道祖神は、二神とも地蔵像の合掌した姿である。」

ん?「田中の道祖神」は、その特徴に当てはまらないような気がするんですが、どうなんでしょう。

風化が進んでいるのではっきりしませんが、肩を組んで手を握り合っているように見えます。

第二期の特徴を見てみましょう。
第二期は18世紀前半で、この頃になると二神の男女の別が明確になり、酒の徳利や盃を持った二神、徳利は男根、盃は女陰を象徴しているのであろう。
半肉彫りの像の背には仏像と同様の舟型光背がついている。」
うーん、舟型光背ではありますけど・・・。

第三期の特徴は。
18世紀中頃からで、直立した二神の像に乱れが出てくる。
互いに肩を組み、男神の右手と女神の左手が前で握り合うのが多く、光背の形に代わって石殿の屋根を表現したのも多くなる。
ときには、榛名町中室田の宝暦七年(1757)銘の接吻道祖神、倉渕村三之倉の宝暦十年(1760)と六合村荷付場の天保十四年(1843)などのように、二神が重なり合う抱擁像のものまである。
江戸の町人文化の爛熟期に地方農村でもこのような道祖神が出現したのである。」
ほー、手を握り合うのは第三期ですか。
ということは、「田中の道祖神」は一期から三期までの特徴が混然としているということでしょうか。
うーん・・・。
それとも、分類の方がちょっと怪しいのかな?

因みに、第三期でかなり奔放な性的描写を帯びてきた双体道祖神も、第四期に入ると落ち着きが出てくるようです。
第四期は十八世紀末から十九世紀に見られるもので、庶民への文字の普及と国学の発展を背景に、文字塔が多くなり、雲に乗る天孫降臨型が出現する。
この場合は、男神は矛を持ち、女神は巫女の姿をしている。
これらの像が神社境内などに多いのは、明治期の神社合併により集められたので、元来はいずれも村外れの路傍に立てられていたのである。」

看板には、「双体道祖神は関東地方に多くみられる」とありますが、調べてみるとそうでもなさそうです。
最も多いのは長野県で、次いで群馬県、神奈川県
関東でも、埼玉、栃木、茨城はほとんど見られません。

(出典:石田哲弥氏編「道祖神信仰史の研究」より)

群馬県内で言うと、吾妻郡、群馬郡、利根郡など北毛に多く見られ、東毛は少ないという傾向があります。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

「田中の道祖神」がある群馬郡内の分布も見てみましょう。

(出典:群馬県教育委員会編「道祖神と道しるべ」より)

へ~、道祖神で有名な倉渕村よりも、上里見を含む旧榛名町の方が多かったんですね。


【田中の道祖神】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:09
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2020年10月18日

史跡看板散歩-212 中里見の御嶽山

中里見町「パワーセンター うおかつ」の道向こうに、「中里見農機」というお店があります。
その脇の、私有地のような道を入って行きます。


坂の上に道がありました。


道を左に行くと、前方右側に赤い幟旗が見えます。


史跡看板も建っていました。



看板の写真を見ると、広い場所に大きな「御嶽山」などの石碑が建っているようなんですが、どこを見渡しても見上げても、それらしいものはありません。
これは誰かに聞かなくてはと思い、坂道を下りかけたら、「中里見農機」のご主人らしき人が庭作業をして居られました。
「すみません、そこに御嶽山という看板はあるんですが、石碑はどこにあるんでしょう。」とお聞きすると、
「あー、上に上がる道があるんだけどね。」と言いながら、作業の手を止めて史跡看板の所まで来て下さいました。

幟旗の所を指さしながら、
「ここから上るんだけど、今は草が繁っちゃってて。」
「え!ここが道なんですか?」

ってくらい、草が生い繁っていました。


すると、中里見さんは草をかき分け、引き千切りながら、道をつけて先導してくれました。
おかげさまで、どうにか後をついてしばらく上ると、ぽかっと明るくなる所へ出ました。
赤い幟旗の一部も見えます。


あ、ありました、石碑が。


こりゃ、案内して頂かなかったら絶対に辿り着けません。
ただ、中里見さん曰く、「八十八夜の前には、きれいに草を刈るんだよ。」ということです。

ちょっと急な石段の上に、「御嶽山神社」「八海山神社」「意波羅三社」の石碑が建っていました。



中里見さんのおかげで辿り着けた、「中里見の御嶽山」でした。

ところで、史跡看板のあるこの道、やけに真っ直ぐです。


「この道は、昔の街道か何かだったんですか?」と、中里見さんにお聞きすると、
「水道みちってんだいね。」と仰います。
神山「春日堰」から剣崎の浄水場までの送水管が埋まってるんだそうです。

ただ、下里見の城山稲荷の土砂崩落の他、中里見でも漏水が発生したんで、現在の送水管は国道406号の道路下に埋設してるんだそうです。
でも、「水道みち」の下には、今でも使われなくなった送水管が埋まったままになってるのだとか。

いろいろ教えて頂きました。
中里見さん、ありがとうございました。


◇◇◇ところで、皆様にお知らせがあります。◇◇◇
「隠居の思ひつ記」は、しばらくの間
お休みをいただきます。
再開の節は、またご贔屓にお願い申し上げます。


【中里見の御嶽山(史跡看板)】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
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2020年10月17日

史跡看板散歩-211 中里見町光明寺の勝軍地蔵尊堂

中里見町の国道406号線沿いにある、「茶々テラス」
その脇の道をずーっと入って行きます。


200mほど行くと、「光明寺」の鳥居があります。


「黒門」と呼んでいるようです。


「黒門」の右手前に建っているお地蔵さんは「榛名町指定重要文化財」、現在は「高崎市指定重要有形民俗文化財」となっています。


「黒門」を潜った左側には、大きな「馬頭尊」碑など、いろいろな石造物が並んでいます。


里見氏累代が祀られていた「智泉院」の旧跡だという石柱と看板も建っています。



山門を潜った左奥にあるのが、「勝軍地蔵尊堂」です。



ほほー、「将軍地蔵尊」榛名山から飛び去り、その光明が留まった所に建立したのが「光明寺」ということですか。

その手前に、ちょっと錆が進んでますが、「新田義貞公旧里碑」と書かれた標柱が建っています。


碑の篆額では「新田公旧里碑」となっています。


明治二十三年(1890)に地元の歴史研究家・里見水戸之介が、新田義貞の郷里である里見郷に、それを顕彰する一片の石標もないことを憂い、東奔西走して建碑に至ったそうです。

境内には、里見氏の塋域(墓域)があります。


その玉垣の前に、「茶聖利休居士太祖之塋域」と刻まれた石柱が建っています。


利休の祖先が、里見氏だという訳です。
この件については、グンブロガーの荻原悦雄氏が詳細な記事にまとめていますので、そちらをご覧ください。
   ◇茶聖千利休

また、里見義成氏著「新田氏支流里見氏」には、そのことが分かる系図が掲載されています。
  ◇毛野中世の武士団と千利休への系譜

そして、中曽根康弘元首相のこんな句碑も。
  「くれてなお 命の限り 蝉しぐれ」

今日、1億9千万円を超える費用をかけて、内閣と自民党の合同葬が執り行われました。
その費用の半分は、税金から支出されるそうです。
  「くれてなお 命の果てに 金しぐれ」
と、詠みたくなってしまいます。

中曽根康弘氏の祖父・中曽根松五郎は、里見村神山に材木店「古久屋」を設け、一代にして巨万の富を築きました。
その子・貫一は二代目松五郎を襲名し、高崎に店舗並びに製材工場を設け、これまた親に勝る業績を収めました。
その二代目松五郎の次男が、康弘氏という訳です。(里見村誌)

なかなか侮れぬ、里見町です。


【光明寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:02
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2020年10月16日

史跡看板散歩-210 高浜の駒形神社

高浜郵便局の東200mほどの静かな坂の途中に、「駒形神社」はあります。




鳥居を潜ると、落ちそうな笠をかぶった石灯籠が左右に建っています。


不思議なことに、左側のは寛政十二年(1800)、右側のは明治二十五年(1892)の奉納です。


石灯籠はもう一セット、石段の両脇にもありまして、これは天明二年(1782)です。


面白くなって、社殿前の石灯籠の奉納時期も見てみると、平成六年(1994)。


賽銭箱は平成十五年(2003)。


立派な手水鉢は平成十九年(2007)、鳥居はその翌年に奉納されてます。


そして今年は、ハチさんが奉納の真最中でした。

邪魔をすると怒られそうなので、早々に退散いたしましょう。

こちらの仲睦まじくしているお二人にも、お邪魔だったでしょうか。

「駒形神社」だけに、「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。」なんて言われそうで。

「駒形神社」を出て坂道を下っていると、石垣の上に妙なものが建っているのが目に入りました。


向こう側へ回ってみると、大きな「忠霊塔」が建っています。


台石には、「榛名町久留馬地區英霊合祀者氏名」として、台湾事変、日露戦役、日支事変、太平洋戦役で亡くなった方の名前がびっしり刻まれています。


坂道から見えた妙なものは、「忠霊塔」の左にありました。

中央に「彰忠碑」、その手前に左右一基づつの石碑が建っています。
きっと以前は鬱蒼とした場所だったんでしょう、途中から伐採された太い木の幹が何本も突っ立っています。
これが、奇妙なものの正体だったんですね。

左の碑は、「彰忠碑建設芳志録」


右の碑は、「従軍者」となっています。


その裏面を見て、「あー。」と思いました。

こう刻まれています。
大東亜戦役終戦以來十有餘年、第六小学校校庭に埋没せられし彰忠碑を此処に再建し、出征兵士の忠誠を永遠に顕彰せんとす」

ここの「彰忠碑」も校庭に埋められていたんですね。
豊岡の「常安寺」の所にある「忠魂碑」もそうでした。

自分よりも、家族よりも、君への忠を求められた時代の証です。


【駒形神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 17:02
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2020年10月11日

史跡看板散歩-209 下里見町の頼朝の腰掛け石

国道406号の下里見交差点から北へ320mほど行った所に、下里見町北村区公民館があります。
駐車場入り口に、大きな「庚申塔」が建っています。



その先にあるのが、「北村八幡宮」の石祠です。


この石祠の後ろに、「頼朝の腰掛け石」というのがあるようです。


あ~、これかぁ。

ふーん・・・。

ちょっと物足らない気分で道路に戻ると、反対側に旧道らしい斜めに入る道が見えます。


興味をそそられ、行ってみました。


少し行くと、四つ辻の角に隠れるように大きな石造物が建っています。


万延元年(1860)の「庚申尊」の塔でした。


そのまた陰に、小さな「馬頭観世音」の文字塔が2基隠れています。


道はこの先、鉤の手に曲がって新しい道路に出ますが、たぶん昔はこのまま烏川に出たんでしょう。


明治四十年(1907)の地図があります。
やはり鉤の手に曲がって烏川を渡っている道(赤く色を付けた道)があります。


昔は、下里見村と烏川対岸の久留馬村とを行き来する道は、大変不便だったようです。
下里見交差点の南に建っている碑に、現在の道路を整備するまでの経緯が刻まれています。

里見村大字下里見ヨリ烏川ヲ隔テ對岸久留馬村ニ通ズル里道ハ頗ル狭隘ニシテ 中川原橋ノ如キハ夏季年々流失ノ厄ニ遭ヒ 其ノ都度交通途絶シ 西ハ神山森下橋ニ 東ハ町屋或ハ遠ク君ヶ代橋ヲ迂回スル等 甚シキ不便ヲ被リ來リタルハ 最モ遺憾トスル所ナリキ」

大正十五年(1926)地元村会議員5名の起案により、新しい道路と橋の工事が始まり、昭和四年(1929)に竣工したとあります。
偶々村會議員富澤好太郎 中島良太郎 悴田隆平 富澤幸作 中曽根周作ノ五氏ハ深ク之ヲ慨シ 大正十五年二月相謀リテ 専ラ地方発展ノ目的ヲ以テ 縣道高崎間野線下里見ヲ起点トナシ 對岸久留馬村ニ通ズル道路橋梁ヲ完全ニ改築シ 一方板鼻町ニ通ズル町村道ヲモ修理ヲ加ヘ 重要路線トシテ將来縣道ニ編入セラルベキ計畫ヲ樹テ 之ヲ村會ニ諮リ全員ノ賛成ヲ得タルニヨリ 直ニ縣土木課竝ニ關係町村ニ向ヒ協賛ヲ仰ギ 只管事業ノ達成ニ努メラル
幸ニ縣當局ノ認ムル所トナリ 村営工事トシテ執行スルコトニ決定シ 昭和二季十二月工ヲ起シ昭和四年三月竣工ヲ告グ(略)」

工事費は県及び各村そして有志者の寄付で賄われ、地元住民百人余りの夫役もあったと刻まれています。
道路橋梁設計総工費金二萬二千余圓及ビ用地三段三畝余歩ヲ用シ 其ノ内金六千四百圓縣費補助 久留馬村ヨリ金二千圓ノ寄附ヲ受ケ 里見村ヨリ金五千圓ヲ支出シ 其ノ他ハ地元近鄕關係有志者ノ寄附及ビ地元住民ノ夫役亦百餘人ノ寄附ニ依レリ(略)
其ノ後本路線ハ所期ノ目的ヲ貫徹シ 碓氷群馬連絡樞要道路ト認メラレ板鼻室田線ト稱ヘ 昭和六年十二月縣道ニ編入セラル
扔テ茲ニ道路梁改築完成記念トシテ工事ノ概要ヲ勒シ寄附者芳名ハ碑蔭ニ刻ミ  永ク後世に傳ヘントス」

道路橋梁改築記念碑
昭和八癸酉年□月

頼朝さんがこの辺を通った頃は橋もなかったでしょうから、やっとの思いで川を渡って、疲れ果てて道端の石に座り込んだんでしょうね、きっと・・・。


【頼朝の腰掛け石】

【板鼻室田線道路橋梁改築記念碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2020年10月04日

史跡看板散歩-208 下里見町仲通りの道祖神

国道406号の下里見交差点のすぐ北、里見川のほとりに「仲通りの道祖神」というのが建っています。




後ろは「富久樹園」の駐車場です。


大きなトチノキが、たわわに実を付けていました。


何となく物足らない思いで下里見交差点に戻ると、「ぴんころ地蔵尊」という看板が目に入ったので、行ってみました。


急な坂道を150mほど上ると「城山稲荷」という大きな鳥居があり、その先にも小さな鳥居が並んでいます。


並んでいる鳥居を潜って・・・、

さらに石段を上ると「城山稲荷」の社殿があり、その左にあるのが「ぴんころ地蔵尊」のようです。



「ぴんころ地蔵尊」の説明板を見て、「城山稲荷」という名前の由来も分かりました。
「里見城」の鬼門除けだったんですね。

それから、思い出しました、昭和四十九年(1974)の土砂崩落災害。
死者6人を出すという大災害でした。


台風が来た訳でも、雨が降り続いた訳でもない、カラリと晴れ渡った10月6日(日)の朝7時半ごろの出来事でした。
一ヶ月ほど前から、山肌から水が滲み出ていたが、崩落直前はその量が多かったといいます。

崩落現場の上には、剣崎・若田浄水場への市上水道の導水管が埋設されていました。
その導水管の他にも、榛名町の石綿製配水管も埋設されており、山頂には配水槽も設置されていました。
いずれかの設備からの漏水が、斜面の土砂を緩めて崩落させたものと思われます。

その時、奇跡的に崩落を免れたという「奥の院」は、一段高い所に祀られています。



崩落した斜面は、現在コンクリートで補強されています。


その上に社殿を再建したが、その後、再度の土砂災害があったとあります。

しかし奇跡的に崩落を免れ、「落ちない稲荷」という新たな御神徳が加わったというのですから、ま、よかったですね。

「ぴんころ地蔵尊」も、コロナ除けの御神徳を加えて「ぴんコロナ地蔵尊」と呼ぶのはどんなもんでしょう。


【仲通りの道祖神】

【ぴんころ地蔵尊】


  


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2020年09月27日

史跡看板散歩-207 下里見中原の道標

国道406号下里見交差点から板鼻方面へ800mほど行くと、「アルベロ」という割と有名なジェラートショップがあります。

そのすぐ南の四つ辻に、「下里見中原の道標」が建っています。




道標に刻まれた文字は、ちょっと判読しにくいです。


石筆で擦ってみましたが、文字が二重に刻まれているということで、やはり読みにくいのですが、これはこれで珍しくて面白いかも知れません。


すぐそばに、「原水道記念」という石碑が建っています。



写真ではちょっと読みにくかったので、文字を起しておきましょう。
原水道記念
アイデアマン
 マルブン(富沢文司)さんの夢実現
このあたり一帯を「里見っ原」と言って名産「里見梨」の本場です。
丘陵地帯のため昔から一摘の水も出ず、当時は飲み水を初め梨づくりに必要な水を得るには、下の方からリヤカーなどで引き上げるしかなく、それは大変な苦労でした。
何としてもこの地に水をと一念発起のマルブンさん、県・町当局に日參し、遂に水道敷設事業(予算百二十万円)が認められました。
梨生産者が一丸となって人力による工事に当り、昭和三十七年夢のような全梨園水道がひかれました。
以来里見梨は景勝榛名の山麓で豊穣に恵まれておりますが、地域の人々はこの大事業を導いた今は亡きマルブンさんを懐かしく偲んでおります。
     昭和五十六年春
      榛名町農協組合長
      榛名町広報委員
織田仲次郎(文・書)

いい石碑だなぁ。


【下里見中原の道標】


  


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2020年09月20日

史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

「上大島町公民館」の所が、むかし「安養寺」があったという場所です。


「安養寺」については、「里見村誌」にこう書いてあります。
明治二十三年の夏、落雷にて出火、全焼した。
その時本尊の阿弥陀如来の像一体と不動明王像一体とを辛うじて安泰ならしめたるも、他の寺宝等悉く焼失し、従って古記録等一切なく、世代、由緒等も尋ねるに由無い。
明治四十二年に、同宗の高崎市玉田寺へ合併、本尊阿弥陀如来及び不動明王像を同時に安置した。
檀家は上大島一円にて約五十軒あり、現在は本堂跡に間口五間に奥行き三間半、木造平屋一棟あり、上大島の公会堂となっている。
広い庭はそのままで庫裡の跡は耕地となっている。」

さらに、「参考雑記」として、
口碑によれば、焼失する前の建物は広大な本堂に、西側には不動堂があり、東側に庫裡があり、境内には考(高?老?)樹鬱蒼として荘厳の気に打たれる程の構えであって、古く新田氏の領地であった頃の建立といわれている。」
とあります。

そこに建っているのが、高崎市指定重要文化財「安養寺跡の笠塔婆」です。



看板に、笠塔婆の願主「沙弥西佛は安養寺ゆかりの在家信者と思われる」とありますが、これも諸説あるようで。
「榛名町誌 通史編下巻」には、こう書かれています。
新田義貞が少年の時、この沙弥に学んだといい、後に義貞は同寺を壮大に再建したという伝承がある。」

ところが、同じ「榛名町誌」でも「民俗編」では、新田義貞が師事したのは「沙弥西佛」とは書いてません。
往時、安養寺には名僧がおり、幼少の小五郎はその名僧に師事して学問、修養に励んだと伝えられている。」
後に新田義貞となる里見小五郎は、里見氏第六代里見城主里見大炊介義忠の第三子(一説に第五子)として里見郷に生まれ、新田宗家朝氏に嗣子がなかったため養子となり、新田小太郎義貞に改めたという言い伝えがある。

「里見村誌」では、こうです。
境内に現存する石仏に文永元年四月十九日の文字と、判然とは読めないが正面に「広宝妙録西仏」、右側に不動明王浮刻、左側に大日如来らしい刻がある。(略)
古く里見城のあった頃、里見小五郎(後の新田義貞)が、幼時この寺の博学の名僧に師事したとも伝えられている。」

ま、火災で記録がすべて焼失したというのですから、仕方ありませんね。

公民館の周囲には、古い石造物が残されたままになっています。



でも、最近建立されたものもいくつかあります。



地域の人には、まだ「安養寺」であるのでしょう。


【安養寺跡の笠塔婆】


  


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2020年09月13日

史跡看板散歩-205 町屋町の八坂神社

「町屋井堰之碑」から町屋橋方向へ60mほど行った左側に、注連縄の張られた覆屋があります。


これが「八坂神社」だと言うのですが、祀られている石には何も刻まれていません。



ま、看板にも「神社とは認められない路傍の祠的存在」と書かれてはありますが。


看板の文章を読んでいると、頭がこんがらがってきます。
インドの神の「牛頭天王」と同じ神とされる「須佐之男命」を、朝鮮新羅国から京都に勧請して祀ったのが「八坂神社」だと言うんでしょ?
いやいや、「須佐之男命」朝鮮から勧請した神様って、そんな馬鹿な、もともと日本の神様でしょ。

ところが、その「須佐之男命」朝鮮に居たということが、「日本書紀」に書かれているんです。
「一書に曰く」(ある書によると)という前置き付きではあるのですが。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)
其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひきい)て、
新羅国(しらぎのくに)に降到(あまくだり)まし於(て)
曾尸茂梨(そしもり)(の)(ところ)に居(ま)します。


つまり「須佐之男命」は、その乱暴な所行によって高天原から追放されて、新羅国(古代の朝鮮半島南東部にあった国家)の「そしもり」という所に居たと書かれています。

韓国語で「そし」「牛」「もり」「頭」にあたり、韓国の江原道春川には「牛頭山」という山があって、そこでは熱病に効果のある栴檀(せんだん)が採れたことから、この山の名を冠した神が信仰されてきました。(八坂神社編「八坂神社」)

この二つの話を合わせると「須佐之男命」「牛頭天王」ということになります。

それが、なぜ「八坂神社」の祭神になったのかということですが。
「八坂神社」のある所は「八坂郷」と言って、「八坂造」(やさかのみやつこ)という人が住んでいたそうです。
この「八坂造」の祖先は、「新撰姓氏録」「狛国人」と書いてあって、「狛」(こま)=「高麗」(こま)で、朝鮮半島から来た人だという訳です。

さらに言えば、「八坂神社」は明治以前「祇園社」と言っていたそうです。
この「祇園」というのは「古代インドの舎衛国(しゃえこく)にあった、陀太子(ぎだ・たいし)の樹だそうで、そこに建てた「精舎」(僧院)が「祇園精舎」なんですって。

ということで、「インド」「朝鮮」「日本」「須佐之男命」「牛頭天王」、そして「八坂神社」の関係が何となくすっきりしてきました。

最後に、「八坂神社」「悪疫防除」のご利益についてですが。
京都の「八坂神社」の西楼門を潜ると、正面に「疫(えき)神社」というのがあります。

これは、厄除の神として「蘇民将来」(そみん・しょうらい)を祀っているそうですが、ここにも「須佐之男命」が関わっています。

長崎県神道青年会の作った動画をご覧ください。

という訳で、「蘇民将来」に厄除の方法を教えたのが「須佐之男命」だった訳です。

これで、看板に書かれている事柄が全てつながったような気がします。

町屋町には昔から室田街道が通っていて、大勢の旅人が行き交います。
疫病や災厄が入って来るのを防ぐ「賽の神」として、大きな石に「八坂の神」の力を念じ、大切に祀られてきたのでしょう。


【町屋町の八坂神社】


  


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2020年09月06日

史跡看板散歩-204 町屋井堰之碑

「諏訪神社」から街道へ出て「町屋橋」の方へ少し行くと、「宝福寺」の前に出ます。

そこに、「町屋井堰之碑」が建っています。

史跡看板もそこに建っているのですが、私の悪い癖で、その隣のお堂の方に気がいってしまうのです。


特に、そのお堂の通りに面して掲げられている看板に。

さて、これはいったい何の看板なのか。
地元の商店名を並べてあるのかなと思いましたが、県外の店もあれば個人名もあります。
お堂を建てた時の寄進者なんでしょうか。
描いてある絵も、茄子なのか、唐辛子なのか、インゲンなのか・・・。

いい暫く看板を眺めていたのですが、そうしていると不思議なもんで、うっすらと文字が見えてきたのです。

「・・・外燈建設・・・」と読み取れます。

なるほど、絵は外燈のランプとその明かりを表現しているようです。
きっと、この通りに外燈を建設した記念に、その寄附者か何かを掲示した看板なんでしょうね。

きっともうすぐ退色して読めなくなってしまうでしょうから、今の内に書き残しておきましょう。
丸千青物店 沖町
薫風園 観葉植物
小川美術染物 町屋町
岡田正太郎
建設業
町屋町
広瀬洋服店 町屋町
櫻井商店 町屋町
大塚養魚場 町屋町
クリーニング店織茂   沖町
湯浅二郎 東京新聞
浦野畜産 箕郷町
可ん寅 名古屋
千曲社
高崎出張所
長野県
五十鈴製絲
前橋出張所
三重県
木村屋パン店 市内本町
中山房吉 熊ケ谷市
須田屋洋品店 沖町
住吉屋菓子店 沖町
広瀬農材店 沖町
十一屋酒店 沖町
江刕屋商店 沖町
大久保薬店 沖町
魚広 沖町
清水自転車店 沖町

お堂は「観音堂」だそうで、その脇に隠れるように石造物が建っています。


ふ~ん。

あ、忘れてました「町屋井堰之碑」でした。


「町屋井堰」というのは、町屋町への用水の取水堰のことらしいです。
ただ、「コンクリート製の井堰」というのがよく分かりません。
どんなものか見てみたいと思ったのですが、取水口の場所だという「町屋町字大笠43番地」というのも分かりません。

「宝福寺」近辺のお宅を訪ねてお聞きしたのですが、みなさんご存じないと言います。
4軒目のお宅で、ようやくご存知の方がいらっしゃいました。
「烏川の土手をずっと上流へ行くと、川へ下りる道があるんだよ。
大きい銀杏の木の所にある。」

言われたとおり、土手を上流へ向かってしばらく歩いたのですが、それらしい所はありません。

畑作業している方に、もう一度お聞きしました。
「あぁ、もっとずっと先だよ。
だけど、コンクリートの四角い桝があるだけだよ。
それに、ロップが張ってあってそこまで行けないよ。
造園業の人の私有地になってるし。」

ということなので、この日は行くのを諦めました。

家に帰って来てから、中島正義氏作成の「高崎の字図」を見てみたのですが、「大笠」という字はありません。
ただ、「大サカ」という字が町屋町の外れ、まさに烏川の上流にあります。

もしかすると、ここが「大笠」なのではないかと思いました。

そう思ったら、もう矢も盾もたまりません。
翌日、その近くまで車で行き、土手から下りる道を見つけて下りてみました。
すると、コンクリートの枡がありました。
これが「井堰」か?
水路もあって、町屋町の方向へ流れています。

一瞬喜んだのですが、どう見ても、あの大きな記念碑を建てるほどの代物ではありません。
それに、川からも離れすぎています。

もっと川の近くまで行ってみようと、木々の間を進んで行くと、たしかに立ち入り禁止のロープが張られていました。
しかも、胸ほどの高さの草が生い茂っていて、進むことができません。

しかたなく土手上に戻って来たものの、どうにも諦めきれずに、大きく迂回してみました。
すると、遠目に水色の水門のようなものがチラッと目に入りました。
土手を下りて、本当はいけないのかも知れませんが、桃畑の中を進んで行くと・・・、なんと、あるじゃありませんか!

伐り倒そうとしたのか斧痕の残る銀杏の木の向こうに、水門のハンドルの付いたコンクリートの枡が。
間違いありません。

上から覗くと、けっこう深くて、井戸のようです。
だから「井堰」なんですね。


「井堰」のすぐ向こうは、烏川です。



取水するための立派な堰堤がありました。


「町屋井堰之碑」から直線距離で1kmちょっと、ようやく探し当てた「町屋井堰」でした。


【町屋井堰之碑】

【町屋井堰】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2020年08月30日

史跡看板散歩-203 町屋町の諏訪神社

下大島町の北隣の町が、町屋町です。
右から書いても左から書いても町屋町というのが面白い。

もとは大島村の一部でしたが、家並が揃い、ちょうど「町屋」のようになったので、独立して「町屋村」となり、昭和三十年(1955)に高崎市に入って「町屋町」になったのだとか。(田島桂男氏著「高崎の地名」)

新しい家並のドン突きに鎮座しているのが、「諏訪神社」です。



鳥居の左に、だいぶ風化した双体道祖神が建っています。

台石に何か文字が刻まれているように見えます。
「左」かなぁ、もしかすると道しるべになってるのかも知れません。
石筆で擦ってみると、「左り いた者(は)な」と読めます。

きっと、以前はもっと南の室田街道沿いにあったんでしょう。

鳥居の右には、芸術的な石灯籠。
裏面には「嘉永元年(1848) 申八月吉日 氏子中」と刻まれていますが、火袋だけ新しい材に見えるので、最近修復されてるのかも知れません。


史跡看板は、鳥居を潜って左側に建っています。


社殿もしっかりしていて、建ててからそう年月は経っていないようです。

屋根の造り物がなかなかユニークです。


ちょっと、社殿の中を覗いて見ましょう。

張られている幕に、「昭和五十・・・」と染め抜かれているので、社殿はその頃に修復されたのでしょうか。

気になったのが、本殿の左下に転がっている丸太です。

丸太の向こう側を見られないのではっきり言えないのですが、丸太に竹のタガが巻かれているようなので、花火の筒ではないかと思うのです。
ネットで探してみたら、「花火筒」の写真がありましたが、よく似ています。

町屋町はすぐ近くに烏川がありますから、昔から花火を上げて夏を楽しんでいたのでしょう。

拝殿の天井には、見事な龍が描かれています。

「林雄斎守満」と署名があります。
この絵師は、この近くの本郷村の出身です。
あの有名な、天竜護国寺「並榎八景絵巻」の絵も描いています。

「並榎八景絵巻」は文化元年(1804)に描かれていますから、天井絵もその近辺のものなんでしょう。

社殿の脇に貼り付くようにして、もうひとつ小さなお宮があります。

中は、もぬけの殻のようなんですが。

これが、看板の最後に書かれている「白山神社」のお社なんでしょうか。
不思議なのは、そのお社の真後ろにまるで事件現場のようにトラロープで囲まれたエリアがあるんです。

いったい、何があったんでしょう。

史跡看板に書かれていないことが、すごく気になる町屋町「諏訪神社」でした。


【諏訪神社】


  


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2020年08月23日

史跡看板散歩-202 下大島町の春念仏供養地蔵?

「大嶋神社」のすぐそばに、石造物の建ち並ぶ一角があります。



史跡看板には、「春念仏供養地蔵立像」と書いてあります。


「寒念仏」というのは聞いたことがありますが、「春念仏」というのは珍しいな、と思って台座を見ると、こう刻まれていました。
「寒念仏」ですよねぇ。
春はどこから来たのやら。

そもそも「寒念仏」とは、「一年でもっとも寒さの厳しい小寒から立春の前日までの30日間にわたり鉦をたたきながら声高く念仏を称え、仏堂・山内・墓地・街頭などを巡回し報恩感謝を表する念仏。念仏者の寒行ともいえる。」(新纂浄土宗大辞典)
ということで、厳寒だからこその功徳であって、暖かくては有難味も少ないでしょう。

すぐ近くに、お地蔵さまより10年も前に建てられた、宝暦四年(1754)の「寒念仏供養塔」もあります。


その隣には、二基の「馬頭観世音」

大きい方には、「征露役為徴發馬匹供養」と刻まれています。
日露戦争の時に、農耕馬を軍馬として徴発されたんですね。

「寒念仏塔」の後ろには、六角の石灯籠があります。
各面にお地蔵さまが彫られているんですが、その内二面に穴が開いています。

これは、どのように使われた物なんでしょうか。
笠を取って、燈明でも入れたんでしょうか。

その他、やたらとでかい「弐十二夜墖」(二十二夜塔)とか、見事な彫りの「青面金剛像」もあります。


一つだけ、分からない石仏があるんですが、お地蔵さまともちょっと違うみたいで。


ところで、ここはどういう場所だったんでしょう。
「大嶋神社」のすぐ隣ですから、別当寺でもあったんでしょうか。
「念仏塔」「青面金剛像」、「二十二夜塔」などが並んでいるところをみると、村の人が集うお堂があったんでしょうか。

その辺のことが史跡看板に書いてあると嬉しいんだけどなぁ。


【念仏供養地蔵】


  


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2020年08月16日

史跡看板散歩-201 大嶋神社

国道406号「下大島町」交差点北の、ガソリンスタンド前の細道を西へ入って500mほど行くと、「大嶋神社」の前に出ます。


史跡看板は、鳥居を潜ってすぐ左に建っています。


前身は屋敷「石神社」で、そこに森田「榛名神社」を合祀してできたのが「大嶋神社」だと書いてあります。
屋敷森田は、隣合う字(あざ)です。


「石神社」と言えば、下豊岡「石神社」「しゃくじ・じんじゃ」と読みますが、ここは何と読んだのでしょう。

近藤章氏が、「高崎の散歩道 第九集」「大嶋神社」について書いています。
大島神社はまた伝えによると石上(いそのかみ)氏の八幡宮ともいわれている。
石上氏は箕輪の長野氏との関係もあり、古代では物部氏の流れも考えられ、八幡の観音塚古墳もこの附近の石上氏の墓にも考えられている。
この附近一帯、古代では石上氏の勢力圏でもあったのか。(略)
この神社も、稲荷様が中世には箕輪城長野氏の守り神となり、武人の神八幡宮に変化し、近代になっては上下大島の部落の神社として大島神社に変身したのかもしれない。」

また、高崎市教育委員会発行「豊岡・八幡の民俗」には、神社合祀の経緯が書かれています。
明治四十一年の県指令によって多くの神社が廃合させられたが、下大島の両社は、維持・管理の為の資産と組織が確立されていなければならないという規定をクリアした為、社格を認められ、相談して両社を石神社の地に新社殿を建てて合せ祠ることにした。(四十一年七月六日、村社石神社と改称同年同月村社大島神社と改称)
四十二年春、棟梁織田米吉(上大島)を選定し建築が始まり、間もなく新社殿は完成したが、四十三年の大洪水で村は大被害を被ったこともあり、竣工式は延び延びになった。
大正六年、災害の復旧もなり村に平穏もおとずれたので、境内地の整理をし、三月二十九日の春祭りの日に八幡宮神主竹林氏のもとに盛大な竣工式典を挙行した。」

いずれの文にも「石神社」にふり仮名が振られていないところをみると、素直に「いしじんじゃ」でいいのかも知れません。
それにしても、大変な経緯があって建立された社殿なんですね。


素朴ながら、格調の高さを感じられる、いい社殿です。

拝殿の中を、覗かせて頂きました。

飾られている写真を拡大してよーく見ると、手前に大勢の人たちが写っているようです。
きっと、大正六年(1917)の竣工式典の時の写真なんでしょうね。

拝殿の右に建っているのは、たぶん「稲荷社」でしょう。


社殿の左にズラーっと並ぶ石祠。
「石神社」「榛名神社」両社の境内社なのかな。


大樹の下の涼しくて静かな「大嶋神社」でした。


【大嶋神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:12
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2020年08月09日

史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

国道406号「下大島町」信号北のガソリンスタンド脇の細道を東へ250mほど行ったところに、「薬師堂」があります。


史跡看板は、大きな欅の木の根元に建っています。


お堂の中に石祠があります。

石祠なんてものは、普通は露天にあるもんですが、こんな立派なお堂の中に祀られているということは、看板にあるように黄金の薬師像が入ってるからなんでしょうか。
見てみたいものです。

その薬師像が、額部小幡羊太夫由来の物だとか、高瀬「袂薬師」だとかいう話も書いてありますが、いま一つ話の筋が分かりません。
「袂薬師」については、「富岡市史 民俗編」にちょこっと出てきます。
上高瀬に袂薬師がある。
昔新居家の祖先が元和の大阪の役に出陣して帰村のとき、何処かで薬師像を得、これを袂に入れてもってきて祀ったので、袂薬師というと伝えている。」
と、もともと出所不明の薬師様です。

看板の最後に書かれている「嗽盥」(うがいたらい)というのがこれなんでしょうが・・・。

これ、「うがいたらい」とは読まないでしょう。

明治十三年(1880)の物ですから文字は右から読むはずですし、刻字は「嗽」ではなく、「漱」です。
「盥漱」の読みは「かんそう」で、意味は「手を洗い口をすすいで身を清めること」だそうです。(デジタル大辞泉)
因みに、「嗽盥(うがいだらい)」「口をすすいだ水を受けるための木のたらい、または木鉢」のこと、とあります。
(日本国語大辞典)

「愚山佐々木溥が書を刻んだ」とありますが、これも刻まれているのは「木泉居士溥」です。

戸籍上の名前が「佐々木溥(ひろし)」、雅号を「愚山」という、江戸末期から明治初期にかけての儒学者がいます。
一般的には「佐々木愚山」と呼ばれますが、まぁいろんな名前を使う人だったようで、「佐々木綱弘」とか「佐々木溥綱」とか、雅号も「愚山」の他「十二峰小隠」「白鳥山人」「天心居士」他にも二、三あるということです。
ただ、調べた範囲では「木泉居士」という雅号は見つかりませんでした。
もしかすると、「盥漱」と刻んだ「手水鉢」を、境内の「木々の中の泉」と見立て、この時だけ用いた号なのかも知れません。

「佐々木愚山」について、「久留馬村誌」にこう書かれています。
佐々木愚山先生、諱は溥、字は子淵、愚山又十二峯小隠とも号した。
文政六年(1823)十一月十一日、仙台で生まれた。(略)
先生、人となり容貌魁偉、身長は六尺近く、音吐清高で、金石から出るような声だった。(略)
性格は純潔精誠で、質素を信条とし、其の生涯は離落不遇、環堵蕭々(かんと・しょうしょう:家が狭く、みすぼらしいさま)、これという程のものは一つもなかった。
しかも先生はこういう環境にいて一向平気で、毫も冥利のために其の志操を動かさなかった。(略)
  先生は以前下野の足利学校の都講であったが、ついで、上野安中藩造士館の教授、仝国七日市藩の儒学教授、房州勝山藩の支領白川の儒学教授、群馬県下神道事務局の講師担当、榛名神社教会本部講師担当、相馬神社相馬講社々長、神宮協会の協賛担当などの諸役につかれ、中教正に補せられた。
弟子は殆んど三千人近くもあり、現今でも所在の明らかなものが五百人もあるということである。
先生の人を教える態度は誠心誠意、忠孝に基づき、実践を期し、恭倹質直を重んじ、文華浮靡(ぶんか・ふび:表面上のみ華やかで実質の伴わないこと)の風を嫌った。(略)
先生の歩くときの態度は、奇観異物が側らにあっても、これをふりかえって見るようなことはせずに、姿勢はいつも正直を保っていた。
そして『姿勢を正しくしなければ、自ら心も正しくならない。』といわれたそうである。(略)
幕末になってから、某藩がその卓識高行を敬慕し、礼を厚くして幣物をとゝのえ、使者を再三つかわして先生を聘して臣下にしようとしたが、先生は固く辞退し、『普天の下、王土に非ざるなし、率土の浜、王臣に非ざるはなし、何ぞ必ずしも臣下たるをなさんや。』といって、とうとう召しに応じなかった。(略)
そこで住居を、上野国群馬郡久留馬村大字本郷村に定めたのである。
先生はいつも時間を惜しんでは読書をし、『夏夜の螢燈、冬夜の雪』といった。」
儒教の基本経典のひとつ「詩経」の一節、「溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣(この空の下に王のものでない土地はなく、地の果てまで王の臣でない人間はいない)」を引き、なぜ某藩の臣下になる必要があるのかと問うた。

そんな「愚山」先生ですが、村人達はこんな風に見ていたようです。
高崎町の市川左近先生と、本鄕村の佐々木愚山先生とは、ともに奇行を以て村里の間に聞こへたり。
特に愚山先生は左近先生に優る奇人として評判ありたり。
村里の人々は能く先生の人となりの眞相を會得せず、ただ奇人として之を見たるが如き感ありたり。」
(上毛及上毛人153号 東山道人著「佐々木愚山先生(上)」より)

どんな奇人ぶりだったのでしょう。
晩年の「愚山」に会ったことがあるという、箕輪町西明屋清水初五郎氏の談話として。
私はまだ年少で、小学校にもあがっておらず、弟子にはなれず、当時二十戸ほどの松之沢を先生が弟子を連れて歩く時、私はそれに加わってついて歩いた。
先生は一般の人と変わっていて、他家に招かれた折、膳部の食い残りは全部持って帰った。
今でも松之沢の年寄り達は、膳部を綺麗に片付けることを、『愚山先生の様だ』と云っている。
昔のことで、茶菓子は黒砂糖、梅干、煮つけなどであった。
先生はそれを白紙に包んで持って帰り、私達に分けて下さった。
分ける仕事は、弟子の浅見宇十郎という人で、その人は後に高等小学校の校長になった。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

食べ物についての話は、方々に残っています。
榛東村の「黒髪神社」神職夫人が祖母から聞いたという話。
食事を供されて食べ余した場合は、汁の垂れるようなものでも、懐紙に包んで袂に入れた。
だから先生の奥さんは、一年中洗濯が大変だったという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

安中藩の代々勘定奉行家だった小林壮吉氏の話。
或る時若侍たちが、愚山は出された物は何でも食べてしまうそうだから、と云って食事の折、とうがらしを山盛りにして添えた。
若侍たちが、ひそかに注視している中で、愚山はポロポロ涙をこぼしながら、平らげたという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

晩年の「愚山」は、本郷村鴫上(しぎあげ)の小幡家へ出張教授していたようですが、小幡家の近くへ来ると必ず咳払いをし、座敷の縁先に立ってもう一度咳ばらいをすると、一礼も一言もなく上がって床を背に座ったということです。
「愚山」は、この小幡家で病中を養われ、明治二十九年(1896)九月十四日、同家で歿し、この地に埋葬されます。

榛名町発行「わが町の文化財」によると、「愚山」の墓は、「本郷北部鴫上(しぎあげ)に旧愛宕神社(明治四十年本郷神社へ合祀らしい)別当寺宝常院(修験宗)墓地があります。この墓地の側ら桃林の中」にあると書いてありましたので、行ってみました。

「宝常院」も今はありませんが、小幡家の墓地入り口に「寶常院顕彰碑」が建っています。


近くの畑の中に、「愚山」と妻・ツル、次女・サダ、三女・トヨの墓が建っていました。


と、ここまで書いてきて「あれ?」と思うのですが。
下大島町の「薬師堂」の薬師像は、元は甘楽郡小幡羊太夫に由来するということでした。
その「薬師堂」の境内に、「佐々木愚山」書の「盥漱」が奉納されていました。
その「佐々木愚山」は、教授先である鴫上の小幡家で歿し、同家の土地に眠っています。
その小幡家は、「寶常院顕彰碑」によると、甘楽郡国峰城主・小幡氏の裔です。
これは、偶然なんでしょうか。

「愚山」歿後3年の明治三十一年(1898)建碑頌徳の話が持ち上がり、門弟だった伊香保の木暮武太夫が資料を提供して、当時貴族院議員の楫取素彦に撰文を依頼します。
撰文は明治四十年(1907)にできあがり、大正二年(1913)「本郷神社」境内に顕彰碑が建立されたのでした。


その「本郷神社」には、鴫上の小幡家が別当職を務めていた「愛宕神社」が、明治四十年(1907)に合祀されます。

何かの糸で結ばれているような気がしてなりませんが、どうなんでしょう。


【下大島町の薬師堂】

【佐々木愚山の墓】

【佐々木愚山顕彰碑(本郷神社)】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2020年08月02日

史跡看板散歩-199 物見塚古墳

「若田浄水場」入り口の道向こうに、てっぺんに大きな石の乗った見るからに古墳と分かる塚があります。


「物見塚(休み塚)古墳」という史跡看板が建っています。


「塚に登ると展望が良い」と書いてあるので、登ってみました。


石室の石がむき出しになっていますから、もとの塚はもっと高さがあったのでしょうが・・・。


天井石からの眺望は、まぁ、こんなもんです。

昔は高い建物などなかったでしょうから、きっと関東平野も一望できたんでしょうけど。

看板によると、「物見塚古墳は若田古墳群の中の一つ」とありますが、「高崎市内古墳分布図」を見ると、若田、剣崎、八幡の古墳群のちょうど真ん中に、ポツンと独立しているように見えます。


ま、せっかくなので「若田古墳群」を見に行ってみましょう。
「八幡霊園」内の中央公園に、説明板があります。


中央公園のメインに位置する二つの古墳。

左が「楢の木塚古墳」、右が「若田大塚古墳」です。

「若田大塚」は別名「稲荷塚」とも言うらしいので、墳頂にお稲荷さんでも祀られていたんでしょうか。
旧陸軍の砲台・陣地にも使われていたということです。

近くに「峯林古墳」があります。


園内には、古代住居跡というのがいくつかあります。





「縄文時代の住居跡2」以外はみんな埋められちゃってて・・・。
保存のためと言えばそうなんでしょうが、模造石でも並べて発掘時の姿を見せてもらえないものでしょうか。


【物見塚古墳】

【若田原古墳群】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2020年07月26日

史跡看板散歩-198 若田ヶ原古戦場と若田八幡宮

「八幡霊園」の南、「若田町住民センター」の駐車場に、「若田ヶ原古戦場」の史跡看板が建っています。



「若田原台地」「若田支台」とも呼ばれ、「剣崎支台」「八幡支台」とともに烏川碓氷川に挟まれた台地です。


「若田ヶ原合戦」の際、武田信玄が本陣を置いたというのが、前回の「福泉寺」でした。
寺の周辺を土地の人々は「乱闘場」と呼んでいるということでしたが、ここ「若田ヶ原」もまさに「乱闘場」だったのでしょう。
現在その一角に「八幡霊園」が造成されているというのも、何か因縁を感じさせます。

ブランコの向こうに、もうひとつ史跡看板が見えます。




看板の最後に、「弁慶が書いたと言われる額が、八幡宮参道の大鳥居に掲げられていると言います。」と、妙な言い回しで書かれていますが、実はその額は掲げられていません。


8年前は、たしかに掲げられていたんです。→◇伝者繁栄


どうしちゃったんでしょう。
「八幡八幡宮」にお聞きしたら、平成二十八年(2016)の鳥居改修の時に外し、八幡宮で保管しているとのことです。

レプリカでも掲げておけばいいのになぁ。


【若田ヶ原古戦場跡史跡看板】


  


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2020年07月19日

史跡看板散歩-197 鼻高小学校跡

「鼻高天満宮」から「鼻高展望花の丘」方面へ440mほど坂を上り、細い道を左へ入って100mほど行くと、「福泉寺」があります。


「鼻高展望花の丘」へは何度も行きましたが、ここにお寺があるということには全く気付きませんでした。
ここが、かつての「鼻高小学校」であったとは、なおさらです。


入口を入った石段の脇に、「鼻高小学校跡」の朽ちかけた木札が転がっています。
史跡看板が建つまでは、この木札が入口に建っていたのでしょう。


境内に入ってまず驚くのは、これです。


草を刈っていたご住職がこちらへいらっしゃったので、「これは何ですか?」とお聞きすると、「むえんさまです。」とのこと。
「地蔵講というのがあって、路傍に捨てられているお地蔵さまや墓石をここに持ってきたんです。」と。
あぁ、「無縁さま」なんですね。

ここにお寺があることに気付かなかったのは、大きな寺院建物が無かったこともあります。

この平屋建ての建物が本堂でした。

写真を撮っていると、奥様が庫裡から出てきて、「これ、どうぞ。」と冷えたサイダーを下さいました。

冷たくて、美味しかったです。
ごちそうさまでした。

「鼻高小学校」が廃止になった後、「福泉寺」はしばらく無住で、安中の「蓮華寺」が兼務していたそうです。
大正年間に放火に遭って本堂を焼失し、昭和二十七年(1952)に一度解散します。
そんな「福泉寺」を再興したのは、千葉県香取郡多古町の「実相寺」から迎えた橋本幸順師(現住職のご父君)でした。
昭和五十七年(1982)に住職となった幸順師は、本堂を再建しますが、「寄付は一切貰うな。」と言って、すべて自費で建立したということです。(奥様談)

「高崎の散歩道第十一集」に、幸順住職と「無縁さま」のことが書かれています。
そういえば各寺の墓地の整理はまたすさまじい。
無縁の石塔は墓地のすみにコンクリートで固められ、またある寺ではゴミ捨て場にという所もあるという。
福泉寺の住職は、こうした無縁の墓を粗末にするのは、人間を生き埋めにするに等しい。
ただの石ではない。その時の念がこもっているのだ。
こうして無縁の石塔を集めれば、自然と有縁の霊が集まると住職はさわやかに話してくれた。」
それで、このように一基一基大切に建てられて供養されていたのですね。
感動です。

この地域では、今も二十二夜講が続いているそうです。

二十二夜様へのお賽銭は、すべて町内の方に渡すそうです。

幸順住職が建立した「上杉武田両軍戦没者各霊菩提」という供養塔があります。


供養塔の説明板にもありますが、「福泉寺」周辺は「鼻高の砦」だったようです。


内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」には、こんな話が載っています。
中鼻高の福泉寺の東は内出と呼ばれています。
内出とは中心城から派出された出城のことです。
ここは永禄九年(1566)九月、武田信玄が箕輪城攻撃の最後の野戦、若田ヶ原の合戦のとき、甲州軍の本陣を置いた所といいます。
また福泉寺の前の平は乱闘場といって、上杉武田両軍の合戦のあった所だといわれています。
昭和の初め、ここを開墾していて四、五体の戦国時代の人骨が掘り出されました。
その後も牛蒡を作っていて人骨が出たり、梨畑を掘って討ち死にしたらしい人骨が出たりしました。
骨を掘りだした人は良くない事が続くなどといわれ、最近はさまよい歩く戦国の亡霊を見た、などとささやかれるようになりました。(略)
再建なった福泉寺の周囲を戦国の亡霊がさまよう噂が広まって、テレビにも放映されました。
橋本師は、乱闘場に四百年も冥ることの出来ない戦国の武士の霊を鎮めるため、五輪の供養塔を建てました。昭和五十六年五月のことです。
以来亡魂の噂は聞かれなくなったといいます。」

境内には、サクランボやミカンのなる木がありますが、鳥がみんな食べに来て、残りを人間が頂くとのことです。
奥様は、「こういう静かな所に住んでいると、腹が立つことがないんですよ。」と仰います。
「カラスも可愛いんですよね。」とも。

お庭には四季折々いろいろな花が咲きますが、今はちょうど端境期だとか。
お花が咲くころに、またお邪魔したいと思った「福泉寺」でした。




【福泉寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
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