2018年05月20日

史跡看板散歩-93 新町7区の諏訪神社

上武大学の東にある「諏訪神社」です。


ここには、史跡看板が2つ建てられています。



どちらの看板にも、「毘沙吐村」(びさどむら/びしゃどむら)という地名が出てきます。

変わった地名ですが、韮塚一三郎氏著「埼玉県地名誌 名義の研究」によると、
ビシャトのビシャは歩射(ブシャ)の転訛で、村の社の春祭りに歩射を行なったためにおこった。
なおビシャトのトは処の意である。
なお、歩射田はビシャのための行事の共有田をいう」
ということです。

その「歩射」が分からなかったのですが、こういうものらしいです。
御歩射(オビシャ)
騎射(ウマユミ)に対して、歩射(徒弓/カチユミ)で的を射る行事。
関東地方東部の神社で主に年頭に行われていた悪魔をはらい豊作を祈る農村行事。
弓で奉射的(ブシャマト)と呼ばれる大的を射て、当たった矢数でその年の天候や作物の出来具合を占った。 」
(ことばさあち)

「毘沙吐村」ですが、2つの看板に書かれていることを合わせると、「安政七年(1860)まで神流川の東、埼玉県上里町にあったが、弘化三年(1846)の大洪水で壊滅状態となり、神流川の西、新町下河原に村を移した。」ということです。

元禄十五年(1702)の絵図では、たしかに神流川の東に描かれています。


絵図で見る通り、烏川神流川の合流点に突き出しているような村で、まさに「歩射」によってその年の天候を占い、悪魔を祓わずにはいられない「処」だった訳です。

「毘沙吐村」が如何に川に翻弄されたか、「新町町誌」から、拾ってみましょう。
毘沙吐村は、古くは45町歩の耕地を所有していたが、年々の洪水による川欠け(土地流失)の連続によって、承応四年(1655)の検地帳によると、24町8反8畝24歩と約半分に減少していた。
その後の洪水によって17町歩の耕地を失い、さらに文政七年(1824)には畑2町6畝を洪水によって失い、この段階で耕地は5町2反2畝24歩と、(略)八分の一に減少している。
このような村柄に追い詰められた毘沙吐村は天保十三年(1842)には、次に掲げる隣接村々へ出作することになった。(略)
当時の村の耕地面積5町2反歩、出作面積22町3反歩余という極めて不均衡の所有形態であった・・・」

そこへ追い打ちをかけたのが、弘化三年(1846)の大洪水です。
この年の6月中旬から7月上旬にかけて大雨が降り続き、実に66%の土地が流失し、神流川に面した家25軒、烏川通りの家2軒が濁流に呑まれました。
その年の10月、村民は神流川対岸の笛木新町字下河原への全村移住を決意します。

笛木新町側との交渉や、代官への願書提出を経て、岩鼻陣屋から正式に移住許可が出たのは、嘉永元年(1848)のことでした。
そしてまず龍光寺諏訪神社を遷座し、新しい土地での平安な暮らしを祈ったのです。

しかし、全村民が移住するというのはそう簡単ではありません。
移住を逡巡する村民もいる中、安政三年(1856)またもや神流川の濁流が村を襲い、残っていた家の内4軒が流されます。
全村民の移住が完了したのは安政四年(1857)、実に9年の歳月が必要でした。

時は明治に変わり、行政区や税制が改められると、「毘沙吐村」にまた問題が持ち上がります。
上野国新町字下河原に移住しながら、武蔵国賀美郡毘沙吐村となっているのは名実に反し不都合であると、新町側からの合併話が出てきます。

毘沙吐村側では今まで通りにしたいと武蔵国の方に嘆願をしますが、新町側は明治九年(1876)から毎年のように県や郡に願書を出し続け、ついに明治十二年(1879)合併が決定します。

合併後は「川岸町」と改称され、「毘沙吐村」という地名は失ってしまうことになりました。
明治十八年(1885)の「二万分一迅速図」には、「旧毘沙吐村」と表記されています。


この歴史が、「諏訪神社」境内の「沿革之碑」(昭和十年/1935建立)に刻まれています。


新町へ移住した「毘沙吐村」はこうして消滅しましたが、実は「毘沙吐」という大字は、まだ埼玉県側に残っているんです。


現在だれも住んではいませんが、平成二十二年(2010)時点では2世帯あったらしいです。

平成22年(調査日 2010年10月1日)の国勢調査(総務省統計局)による

ということで、史跡看板の主題は「海老虹梁」「笠付庚申塔」なんですが、なぜか「毘沙吐村」の方がすごく気になった迷道院でした。


【新町七区の諏訪神社】



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Posted by 迷道院高崎at 07:10
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2018年05月13日

史跡看板散歩-92 柳茶屋の芭蕉句碑

新町宿の東の端にある「八坂神社」です。


その「八坂神社」の鳥居の横に、「芭蕉句碑」と史跡看板が建っています。



近くには、史跡看板は要らなかったんじゃないの?と思うくらいの、立派な説明看板が建っています。




双方の看板を見ると、芭蕉がこの場所にあったという「柳茶屋」に来て句を詠んだようにも思えちゃいますが、そうではないみたいです。

江戸時代の俳人・柏木素龍という人がまとめた句集「炭俵」に、芭蕉庵によく通っていた俳人たちと詠み交わした内の一句として載っています。
傘に 押わけみたる 柳かな

こんな意味だそうです。
春雨のしとしとと降る中を、傘をさして外出していると、道端に大きな柳の木があり、もう若芽がだいぶんふくらんで、道の方にまで枝が垂れている。
ほかの樹木の枝なら、傘が破れるので避けて通るところだが、柔らかそうな、しなやかな柳の枝なので、わざと開いたままの傘で、垂れている柳の枝を押し分けてみた。
傘の紙にふれる柳の小枝、はらはらと落ちる雨雫、まさに雨中の春の柳であることだ。
季語は〈柳〉で春。〈押わけみたる〉の〈みたる〉は、〈してみた〉の意で、〈押し分けて〉柳をつくづくと見たというのではあるまい。」
(「新編日本古典文学全集 松尾芭蕉集」小学館)

看板によると、「柳茶屋の芭蕉句碑」は寛政五年(1793)~天保五年(1834)に、「柳茶屋」のそばに建てられたとあります。

「中山道分間延絵図」では、「八坂神社」「天王」と表記されてます。
「延絵図」は、寛政十一年(1799)に実地検分されて、文化三年(1806)に完成されたというんですが、「柳茶屋」らしきものは見当たりません。


「芭蕉句碑」も、けっこう転々としたらしいです。
「新町明治百年史」に、こんなことが書かれています。
(芭蕉句碑の)建主の湛水は医者で小淵健夫氏の先祖、白水は笛木玄次郎氏先祖で共に郷土の俳人である。(略)
明治の末に藤岡市の浅見作兵衛翁が、行楽園の築庭をする時、神流川近い田野に倒れていた碑石を発見し、其の地主から譲りうけ、行楽園の林中に建てたのがこの句碑だ。
浅見翁歿後昭和26年、藤岡市、原歯科医院主・原徳人氏が譲りうけて、氏の庭園に移し、句会を催して愛蔵していた。
当町史編纂委員はこれを聞き、町の文化財として永久に新町で保存したい希望のところ、原氏はこの気持ちをよく理解されすすんで寄贈された。
(昭和29年/1954)地元有志の奉仕作業で八坂神社の境内中山道に面して建てられた。」

昭和四十二年(1967)八坂神社境内に児童遊園地が設けられたということで、面白いものが滑り台に這い上がってます。


感心したのは、社の前にポリ箱が置いてあって、その中に「八坂神社」の謂れを書いた説明文が入っていたことです。


なかなかやるもんです、新町


【柳茶屋の芭蕉句碑】



  


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2018年05月06日

史跡看板散歩-91 新町宿高札場跡

「ハラダのラスク」発祥の中山道店の斜向かいに、同店の駐車場がありますが、そこに「高札場跡」の史跡看板が建っています。



看板に「高札場」の写真が載っていますが、これは新町宿のものではなさそうです。
たぶん、信州・追分宿のものだと思うのですが、注釈を付けておかないとまずいのではないでしょうか。

史跡看板が建てられる前にも、「高札場跡」を示す標柱は建っていたのですが、民家の敷地内でした。


その標柱もあたらしくなっていますが、前あった標柱には高札場の大きさが、
 高さ一丈二尺(約4m)
 長さ三間(約5.5m)
 巾一間(約2m)
と記載されています。
追分宿の高札場は、
 高さ九尺(約2.7m)
 長さ九尺(約2.7m)
 巾一間(約1.8m)
だそうですから、
新町宿のはけっこう大きかったんですね。

「中山道分間延絵図」に、新町宿「高札場」が描かれています。


「高札場」の左側(倉賀野側)が「落合新町」、右側(本庄側)が「笛木新町」です。

もともと、この両町は「落合村」「笛木村」という独立した村でしたが、慶安四年(1651)に両村が伝馬役を命ぜられて宿場として成立し、「新町」とか「新宿」とか呼ばれたようで、正式に「新町宿」となったのは元文年間(1736~41)だそうです。(日本歴史地名体系)

中山道の整備が終わったのは慶長九年(1604)頃と言われますから、「新町宿」はまさに「新しい宿場」ということになります。

その「新町」が、古き宿場の面影を残していて、街道歩きを楽しむ人の姿が絶えない町になっているのは、嬉しいことです。


【高札場跡】




  


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2018年04月29日

史跡看板散歩-90 於菊稲荷神社

春爛漫の「於菊(おきく)稲荷神社」です。(撮影:4月2日)


史跡看板は、一の鳥居の脇に建っていますが、ほかの史跡看板とはだいぶ趣きが異なり、神社の由来など書かれていません。


ここには8年前に訪問して記事を書いており、その中で簡単に由来も書きましたので、そちらをご覧ください。
  ◇むかし遊女で いま稲荷

その時から見ると社殿も新しくなり、随分ときれいになりました。


8年前、裏庭に住んでいた狐のファミリーも、表の「狐塚」前に引っ越して勢揃いです。


様々な願いが書かれた絵馬がずらーっと掛けられていて、たくさんの老若男女が訪れていることがわかります。


地域の人達にも愛されているようです。


「神楽殿」の隣に新しく造られた「御朱印受付所」は、ぜひ寄り込んで頂きたいところです。


御朱印やお守りももちろん頂けますが、中には貴重な宝物がたくさん展示されていて、小さな博物館のようです。
以前は見られなかった絵馬額や、蔵の中にずっと眠っていた新発見のお宝など、間近で見ることができます。

宮司さんがとても親切な方で、本には書かれていないような興味深い話を聞かせてくださいます。
私は、以前から気になっていた、境内の「於菊稲荷神社中興之神職 高橋宇吉翁寿碑」についてお尋ねしてみました。

高橋宇吉翁は、多野郡の「万場八幡宮」の神職でしたが、明治の初め、「於菊稲荷神社」の神職として新町へ来たのだそうです。

「於菊稲荷神社」は、文化・文政の頃に最も栄え、参詣の鈴の音が止むことがなかったといいます。

しかし、明治の神仏分離令により、別当寺の宝勝寺と切り離されてから荒廃していきます。

そんな中、宇吉翁は「通力自在」という、今でいえば高島易断の暦のようなものを発行し、これが評判となって神社経営に大きく寄与したとのことです。

また、新町という枠を超えた多くの人士との交流により、地域の発展にも大いに貢献したということで、人々はその功績を称えて、あのように大きな碑を建てたのだそうです。

ところで、本題とは関係ないのですが、神社のすぐ近くに、どれだけワンちゃんが好きなんだろう、というお家がありました。


とにかく、外壁にはワンちゃんの写真、地面やフェンスの上下にはワンちゃんの置物が、これでもか!ってほど飾られています。

ふと見ると、それに混じって迷道院の作った「上州弁番付表」も、貼って頂いてるじゃありませんか。


これは、光栄なことです。
ご挨拶をしたかったんですが、あいにくお留守のようでした。
いつかまた、お会いできたら嬉しいなと思っております。
ありがとうございました。


【於菊稲荷神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2018年04月22日

史跡看板散歩-89 見通し灯籠

前回、「高瀬屋」に泊まった小林一茶のエピソードを記事にしましたが、その話に出てくる灯籠が、新町宿の東外れに建っています。


史跡看板は、そのすぐ脇に建っています。


看板の後半に書いてありますが、この灯籠は「専福寺」の住職が発願人となって再建されたものです。
それで、一茶に寄附をせがんだ男が「専福寺」の提灯を持っていたという訳です。

また、看板には「常夜燈が再建されたのは文化十二年」と書かれていますが、その後この灯籠は他の地へ売却されてしまったため、今建っている灯籠は昭和五十三年(1978)に再び復元されたものです。
その辺のことが、足元の石碑に刻まれています。


後半の部分です。
然し時流の転変は激しく、明治二十四年に髙崎市大八木村へ移されてしまった。
その後新町の有志達は、之を惜しみ幾度か復帰の交渉を重ねたがその熱意は報われなかった。
多野藤岡ライオンズクラブは創立五十周年の記念行事として見通灯篭の再建を企て、灯篭を原形に復し、再び交通安全のシンボルとし、かつは古き新町宿を偲ぶべく原地に近い国道十七号線の要所に建立して長年の要望を実現された。」

なぜ灯籠が大八木村へ移されたのかは記されておらず、表現も微妙にぼかしてる感じです。

相手方の大八木村にはもう少し詳しい話が残されていて、昭和三十二年(1957)発行の「中川村誌」の中に、こんな記述があります。
大八木の部落の中心点から、村の鎮守諏訪神社の参道入口に、屹立二十尺近い石造の高燈籠がある。
これが、先年多野郡新町から腕節の強い連中が一団、トラックで乗付て来て強談判をしたという、一茶・詩仏両大家と因縁のある、元上武国境中山道新町川原の北岸に建っていた見通し燈籠(燈台)で、浮世絵の大家渓斎永泉の木曽路道中絵にまで描かれた交通史上の貴重な文化財だったのである。(略)

一体そのような新町宿の文化財がどうして本村に来てるのかというと、それは明治廿四年の話、大八木で石燈籠が欲しいことがあり、人の噂に新町に廃物があるときいて、正常のルートを経ずに、一種のボスの手から包金で買って来た掘出し物、金毘羅大権現や文化何年は削り取って、六尺近い切石積の台上に据えると実に堂々たる威容。

今では火袋の中に電燈を引込んで、文字通りの常燈明台として村人の暗夜行路を照らしてる訳。
最近郷土意識熱が高まるにつれて、新町の文化人がこの燈籠に強い執着をもつに至ったのも尤もなことであろう。」

これが、大八木に移されたかつての新町宿「見通し燈籠」、現在は諏訪神社参道入口の「高燈籠」です。


たしかに大八木「高燈籠」には、文字を削り取った痕跡があります。


それにしても、こんな貴重な「見通し灯籠」が、なぜ新町で廃物になっていたのでしょう。

そのことについては、昭和四十六年(1971)発行の「新町明治百年史」に、こう書かれています。
明治2年、岩鼻県は神社に廃仏命令を伝える。
群馬県令では、道路わきの信仰物撤去と、民間信仰の禁止も命じた。
このため神社に祭られた仏教系の仏像なども、全部撤去され焼去された。(略)
中山道の道路に建てられてあった新町宿の見通し燈籠も、当時の人達は県令により取くづし、畑の端にでも積み重ねておいたものと思われる。

明治となって欧米崇拝の全盛期を控え、文明開化で洋風を積極的に取り入れようとして英文学が盛んな時代、和歌・俳諧などはあまり顧みられない。
俳人一茶も一般にまだ知られていない。
見通し燈籠には一茶の名は見えぬ。
一茶の七番日記を見なければ、新町宿の見通し燈籠と一茶の関係はわからない。

俳人一茶を知らない、その七番日記も見なかったらしい当時の人達が、見通し燈籠を現今さわがれている程の貴重な文化財と知る由もない。
全く知らなかったので、明治24年金20円で石原の石工とかに売却したものと思う。」

新町の人も大八木の人も、一茶ゆかりの石灯籠とは知らずに畑に放置し、売り飛ばし、文字を削り取ったのだろうという訳です。
知らなければ、そんなもんでしょうね。

それでも、物を使い回す文化が残っていた時代だから、まだよかったのだと思います。
今だったら、跡形もなく粉砕されてお終いだったでしょう。

「高崎市名所旧跡看板」によって高崎の歴史を知る人が増え、貴重な史跡がこれ以上失われることがないよう、願ってやみません。


【見通し灯籠】


【大八木高燈籠】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2018年04月15日

史跡看板散歩-88 高瀬屋跡

「小林本陣跡」から200mほど行くと、小林一茶が泊まったという旅籠「高瀬屋」があった場所です。



史跡看板の隣には、立派な石の説明板が建っています。


双方によって原文と解読文が読み比べられるので、なかなか面白いです。
裏面には、「建碑の記」というのが刻まれています。


それを見ると、「最近まで旅籠屋の姿を遺していた」とあります。
探してみると、平成元年(1989)発行の「新町町誌」に、かろうじてその姿が載っていました。


一茶「七番日記」というのは文化七年(1810)~十五年(文政元年/1818)に書かれた日記で、その中に、父の墓参のために江戸から故郷の信州柏原へ行く途中の、「高瀬屋」でのエピソードが記されています。

一茶江戸を発ったのは文化七年五月十日、一茶、四十八歳の時です。
新暦では六月なので、梅雨時の天気を見ながら延ばし延ばしの出立だったようですが、結果は「災いの日を選りたるよう也」と嘆いています。
出立したその日に上尾でさっそく雨にあい、合羽を買ってさらに歩いて鴻巣宿で一泊します。

江戸日本橋から鴻巣宿まで12里8町6間(約48.0km)ということですから、かなり頑張って歩いたんですね。
翌十一日も雨で、その中を鴻巣宿から新町宿まで11里22町34間(約45.7km)の距離を歩いています。
本当は、倉賀野宿くらいまで行きたかったんですかね。

それほど頑張って歩いてきたのに、雨で川留めにあい、「道急ぐ心も折れて」と言っています。
そのうえ、「雨の疲れにすやすや寝て」いたら、「夜五更(よるごこう)のころ」にいきなり起こされて寄附をせがまれたというんですから、さぞかし、むっとしたことでしょう。

史跡看板では「夜五更」「午前四時」と言っています。
そんな真夜中にと思っちゃいますが、少し解説が必要だと思いますので、ちょっと理屈っぽい話になりますがお付き合いください。

江戸時代の人は、暗くなれば「夜」、明るくなれば「朝」という暮らしでそれほど不便はなかったのでしょうが、宿場ではそうもいきません。
木戸の開け閉めや、夜番の見回りがあるので、その時刻をはっきりしておく必要があります。

そこで、夜を「暮れ六つ」の鐘で、朝を「明け六つ」の鐘で知らせていました。
そして、その「夜間」を5等分して「更」とし、「更」ごとに夜番が交替して拍子木を打ちながら夜回りしていた訳です。
「交替」という字を替」とも書き、「夜がふける」「夜がける」と書くのも、この「更」からきているのでしょう。

ということで、「更」というのは、何時から何時までというをもっている訳です。
しかも季節によって「夜」の長さは変わりますから、5等分した長さも時刻も季節によって変わりますので、「夜五更」を一概に「午前四時」とは言えないのです。


では、一茶「高瀬屋」に泊まった時の「夜五更」は何時から何時なのでしょう。
一茶が泊まった旧暦の5月11日は、新暦では6月初旬から中旬、この頃の日の入りは午後7時、日の出は午前4時半ぐらいです。(国立天文台「前橋の日の出入り」より)

ただ、「暮れ六つ」の鐘は日の入りから30分後くらい、「明け六つ」の鐘は日の出の30分前くらいに撞くといわれています。

ですので一茶「高瀬屋」に泊まった時は、「暮れ六つ」が午後7時半、「明け六つ」が午前4時ということになります。
この間を5等分すると、5番目の更、「五更」は、「午前2時18分~4時」となります。

さて、一茶は、その間の何時ころ起こされたんでしょうか?

ここからは迷道院の推測ですが、一茶「明け六つ」の鐘を聞いてないんじゃないかと思うんです。
聞いていれば、「五更のころ」なんて言わずに、「明け六つ前」とか「明け六つの頃」とか言ってるでしょうから。

じゃ、「明け六つ」前に押し掛けてきたんでしょうか。
それはいくら何でも、それはいくら何でも、ご容赦下さいです。

おそらくですが、「明け六つ」の鐘が鳴るのを待って、ただし宿を早立ちされる前に、やって来たんだと思うんです。

きっと一茶は、「明け六つ」の鐘が鳴ったのも気付かぬほど疲れて眠っていたんだと思うんですが、みなさんどう思います?

ところで、一茶を起こしに来た連中は、なぜ「専福寺」の提灯を持っていたのでしょう。

そのお話は、次回ということに。


【高瀬屋跡】



  


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2018年04月08日

史跡看板散歩-番外編 小判供養塔

「小林本陣跡」のすぐ南に、「宝勝寺」というお寺があります。


このお寺の境内に、「小判供養塔」というのがあるというので行ってみました。

それは、「八幡神社」との境、南の角にあり、まさに小判の形をしています。


右側面には「昭和四年八月十五日發掘/小判三九六枚/一分百三十三枚」とあり、左側面には「金壹百圓也/當町助成會寄附」、そして施主四人の名前が刻まれています。

これは新町のある家の庭から、小判396枚と一分銀133枚が発掘されたというのが、事の始まりでした。
この事件(?)は、翌日の東京朝日新聞に二段抜きの見出しで伝えられています。


地元の上毛新聞は、一日遅れの17日夕刊に、ほとんど同じ内容で掲載しています。
ま、さすが地元新聞で、東京朝日の「藤枝署」という誤りを、きちんと「藤岡署」と直してはいますが。


小判が出てきたというお菓子屋さんはもうありませんが、どうやらこの辺にあったようです。


新聞に載ったことで、大騒動になります。
昭和四十八年(1973)に発行された「新町明治百年史」で見てみましょう。
当時国内は不景気の真最中、各新聞紙は3~4段ぬきで報じ、各新聞とも地方版だけでなく、全国版にも登載した。
そのためか今まで行先不明の旧地主や、旧借家人まで、数日を過ぎぬうちに集った。
町の人達は小判の発見にもびっくりしたが、よくもこんなに早くこの人達が集まったものだと驚いた。
結局警察署が中に入り、小判を配分して納まった。
この人達は小判供養塔を作って宝勝寺に供養建立した。」

当時は、地下三尺以上深い所から発掘されたものは、地主と発見者の権利ということになっていたそうです。
(小さな町の物語 新町)
一万円を手にした人たちが、百円の供養塔を建立したということですね。

騒ぎはこれで収まったのですが、そもそもこの金はどういう金だったのかということです。
「こんな大金を、当時の町人たちが持てるはずがない。」
(新町町史)
「この家は、徳川時代、岡引某が住んでいた。真面目に貯えた金なら、己の家の床下にでも埋めそうなものを、庭のしかも隣家との境目に埋められていたとは変だ。」
(新町明治百年史)

様々な噂の中で、もっともらしく語り伝えられているのが、新町宿で盗まれた加賀藩の御用金ではないかという話です。

「新町明治百年史」に載っています。
享和元年(1801)九月二十一日、金沢百万石前田侯の勘定方、土師清太夫一行が御用金を江戸に護送中、新町宿久保本陣に宿泊した。
一行の主なる役人もあと三日で江戸に着く。
やれやれ一休みと清太夫に連れられ、笛木宿のある茶屋で一杯やっていたところ、一家臣が顔色を変えて注進、御用金の内盗難で失ったものありと聞いて、清太夫は切腹した事件があった。
盗難の金高は何程か不明、いや盗難も金高もすべて一切がなかったように固く口止めされた。
急ぎ国元からこの不足分を取りよせ江戸に送り、表面は事なきを得た様だ。
切腹した勘定方は、笛木宿浄泉寺に土葬、(略)
当時の浄泉寺古文書には「遺品に御かご一丁、大小刀一振づつ、石高五百石、浄泉寺表門傍らの家にて急死す。大小を売り埋葬、小刀は笛木宿の某氏が買いたいと持参して返金なし」と記録されてあるのみ。」

たしかに、「浄泉寺」の本堂左脇には、土師清太夫の墓石があります。




戒名は「高智院殿勇雄義仰居士」、左側面には「加州金澤/土師清太夫㕝(こと)、右側面には「享和元年酉年九月廿一日」と刻まれています。

さて、「小判供養塔」のミステリー、あなたはどう解きますか?


【小判供養塔】


【土師清太夫の墓】



  


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2018年04月01日

史跡看板散歩-87 新町宿小林本陣跡

前回の「弁天橋」から東へ125mほど行った所に、今回の「小林本陣跡」があります。
この辺から見る風景は、なんとなく往時の中山道を偲ばせるような、いい雰囲気を漂わせています。


史跡看板は、昭和五十年(1975)に建てられた標柱の隣に建っています。



看板に「小林本陣」の間取図が掲載されていますが、「新町町史」には裏門まで描かれた図が載っていました。


「小林本陣」は建坪135坪余で門構えと玄関を備え、もうひとつの「久保本陣」は建坪42坪で玄関だけ、「三俣脇本陣」も玄関だけでしたが建坪は126坪あったそうです。
(中山道分間延絵図 第四巻解説)

「中山道分間延絵図」を見ると、「脇本陣代」というのもあったようで、二軒描かれています。
「本陣」「脇本陣」だけでは賄いきれない時に、臨時的に大きな旅籠屋をあてたのではないかということです。


平成七年(1995)発行の「上州路 No.251」には、「天保十四年(1843)書上帳」による、いわゆる「中山道上州七宿」の各宿の規模が一覧で掲載されています。
これを見ると、新町宿の旅籠数は、倉賀野宿よりも多かったんですね。
宿本陣脇本陣旅籠人口
新  町21431,437
倉賀野12322,032
高  崎00153,235
板  鼻11541,422
安  中1217348
松井田22141,009
坂  本2240732

新町宿の旅籠の多さは、街道の東西を神流川温井川、そして烏川が横断し、ちょっとした大雨で川が渡れなくなることが多かったこととも関係しているのでしょうか。

温井川烏川の合流点近くの林の中に、明治四十三年(1910)の大洪水を伝える記念碑が建っています。



原文は漢字ばかりで読みにくいので、「新町町史」に載っている要約文に頼りましょう。
此の地は烏川の本流に臨み天神川岸と呼ばれ、新町随一の要害の地であったが、弘安年間に(1278~1287)住民の夢枕に、虚空蔵菩薩が現れ、洪水の難から守るため汚れのない地域を此処に求めて祠り治水の工事を施せと宣託あり、住民は謹んで虚空蔵菩薩を勧請した。
この時は実に今から640年前であると刻している。
明治四十三年(1910)七月下旬より大雨が連日にわたりやまず、八月十日怒涛は土をまきおこし、大地は海の黄色の龍の如く、大波は渕に強く当たってくだけたが、虚空蔵の地は崩壊をまぬかれ、町民は安泰であったのは正に、これは虚空蔵菩薩の加護によるもの、仏徳の深きこと測り知ることが出来ぬと、世話人が謀って再興を企て、有志の寄附を仰いで境内の荒廃を修理し、大正八年三月十三日に尊像を建立した。」

川に挟まれた新町宿を水の禍から護る「虚空蔵菩薩」は、いまも散歩の途中にお参りしている人の姿を見かけます。



歴史は、つながっているのですね。


【小林本陣跡】


【虚空蔵堂】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
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2018年03月25日

史跡看板散歩-86 弁天島の芭蕉句碑

旧柳瀬橋を渡って、中島(漆の内)の信号を左へ入るのが、旧中山道です。


そこから2.7kmほど行った所に、温井川(ぬくいがわ)に架かる「弁天橋」があります。

「弁天橋」の名の通り、右手上流側の橋下に「弁財天」が祀られています。


鳥居の手前に、「弁財天由来」の説明版が建っています。


現在は川岸のこの場所は、看板にあるように以前は川の中州だったようです。
寛政十一年(1799)に実地検分され文化三年(1806)に完成されたという「五街道分間延絵図(ぶんけん・のべえず)」のひとつ、「中山道分間延絵図第四巻 本庄・新町・倉賀野」を見ると、たしかに中州です。


「芭蕉句碑」と史跡看板は、鳥居を潜った左手に建っています。



句碑に刻まれた文字は、看板とはちょっと異なるようです。


一行目の「はせを」は、「ばしょー」つまり「芭蕉」です。
句の意味は、
「結ぶ(水をすくう)より早く、冷たさが歯に沁みるような泉だなぁ」
ってな感じでしょうか。

「泉」というのが夏の季語だそうですから、夏の焼けつくような熱さの中、延々と街道を歩いてきての句なのでしょう。
もちろん、この場所で詠んだ句ではないでしょうが、川の中州の「弁天島」の木陰に建てる碑としては、よくもぴったりの句を選んだものだと思います。

この句碑を建てた久保一静は、新町宿に二軒あった本陣のひとつ「久保本陣」の当主で、名主役も務めていました。
文化九年(1812)生まれで、幕末から明治にかけて地方の俳人として活躍し、明治二十七年(1894)八十四歳で没しています。(「小さな町の物語 新町」「中山道分間延絵図 第4巻解説」)

「弁財天公園」の街道の反対側に、こんなモニュメントが建っています。


その由来を書いた看板が、隣に建っています。


看板の字はやや風化して読みにくくなっていますが、モニュメントの裏側には同じ文がしっかり刻まれていますので、いつまでもその意義が伝えられていくでしょう。

歴史を大切に残していこうという、新町という町の文化度の高さが感じられます。


【弁天島の芭蕉句碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
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2018年03月18日

史跡看板散歩-85 木部駿河守範虎廟所

「安楽寺」に続き、木部町「心洞寺」です。
参道入口に、「木部城主之廟所」という石柱が建っています。


史跡看板は、山門を潜ったすぐ左に建っています。



そこを左に折れた奥が、木部城主・木部駿河守範虎の廟所と家臣の墓です。


看板には「五輪塔」とありますが、これって「五輪塔」なのかなぁ・・・。


家臣の墓の方にあるのが「五輪塔」じゃないかと。
しかも、範虎のより立派に見える「宝篋印塔」もあるし・・・。


木部氏については、内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」にこうあります。
木部氏は石見の国(島根県)の木部郷の出で、源頼朝の弟範頼の孫、吉見義世の子孫とされています。
戦国も終りに近い頃、古河公方成氏の縁をたよりに、関東に移りました。
範時(或は範次)は、はじめ山名八幡宮の裏山の一つ北の山の、鎌倉時代のはじめ新田義重の子山名範義の築いた、山名城の址に入ったようですが、当時は山城から平城に移る時代でしたので、平地に城を築いて、木部に移り、山名は戦時の要害城として利用したようです。
そのことは、現在の安楽寺は「山ノ上」から、心洞寺は「山名の金清寺平」から、木部氏の懇望により、天正の初めこの地に移ったとの伝えが裏付けています。」

木部氏が「木部館」から「木部城」へ移り、跡地へ「心洞寺」を移したのが天正元年(1573)という訳です。


看板の最後に、「木部姫伝説」の話が出てきます。
これは、いつも拝読している「南八幡の案内人」さんのブログに、紙芝居付きで紹介されていますので、そちらをご覧ください。
   ◇木部姫伝説(紙芝居民話)(南八幡の案内人)

「心洞寺」の石垣と土塁には、雷神が祀られているそうです。


その石垣に、「雨乞い祈願」のことを刻んだ石碑が埋め込まれています。


「心洞寺」でひときわ目を引くのが、この山門です。


正徳五年(1715)の火災の時、焼失を免れたものだそうで。

この看板では、「心洞寺」は文正元年(1465)建立となっている。

山門の天井では、龍が睨みをきかしています。


屋根の上でも、鬼が睨んでいます。


ところで、鬼の頭の上の字が読めません。
旁が「亀」なら、「秋」の異体字らしいんですが・・・。
どなたか、ご教示くださいませ。


【心洞寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2018年03月11日

史跡看板散歩-84 お染の墓

木部町「安楽寺」
道を挟んだ墓地に「お染の墓」があります。


墓地の向い側には、とても可愛くて、とてもユーモラスなお地蔵様が。


史跡看板は、とても分かりやすい場所に建っています。



「お染って誰?」と思っていた方、この看板でようやく「あぁ、あのお染か。」とお分かり頂いたでしょうか。
それとも、まだ「お染久松・・・?」って感じでしょうか。

浄瑠璃や歌舞伎、あと映画にもなったらしいんですが、私はいずれも見てません。
だけど、「お染久松」は何故か何となく知ってるんですよね。
もしかすると、子どもの頃に聞いた、この歌からでしょうか。


「お染の墓」へは、案内板が適所に建てられていて、迷わずに行くことができます。
「お染の墓」という表示板も貼ってあります。
逆にいうと、それらが無かったら、まず分かりません。


墓石を見ても、「お染」という文字は刻まれていません。
それに、豪商の娘の墓にしては、小さ過ぎるようにも思います。
本当に、これ、「お染の墓」なんでしょうか?

実際の心中事件が起きたのは、宝永四年(1707)とも、宝永五年(1708)とも、宝永七年(1710)とも、まぁ諸説あるようです。
木部の「お染の墓」がいつ建てられたものか、墓石での視認はできなかったのですが、内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」によると、元禄十四年(1701)とあるようで、「お染久松」が心中した年よりも前のもの、ということになります。

と言ってしまうと身も蓋もない話になっちゃうのですが、まぁ、それはそれ。
青森には、「キリストのお墓」もあるそうで、伝承・伝説はそれでよい、というのが迷道院の考えです。

「お染の墓」、いつまでも語り継いでいって欲しいものです。

ところで、この墓地で思いがけない人のお墓に出会えました。


「新倉賀野八景」の作者・飯嶋仲秋氏のお墓です。
しかも、これを建てたのは、下斉田小栗又一の墓を取材中に出会った、田口一之氏です。
その田口氏の環濠屋敷の表札に、飯嶋仲秋氏の名前を発見して驚いたのが、4年前でした。

ご縁の糸は、つながっているものですねぇ。


【「お染の墓」史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:21
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2018年03月04日

史跡看板散歩-83 山ノ上地蔵尊

山名町の山の上にある、「山ノ上地蔵尊」





「山名八幡宮」の方から来ると下の写真のような向きになって、地蔵尊の三本辻を左に曲がるのが看板にある「古の鎌倉街道」で、上信電鉄西山名駅の方へ下ります。


三本辻を右へ曲がれば看板にある「山本宿」、世界記憶遺産になった「山ノ上碑」へ行く道です。

「山本宿」は、佐野源左衛門常世の説話・謡曲「鉢木」に出てくる「山本の里」のことだそうです。
どんな場面で出て来るかは、過去記事「鎌倉街道探訪記(16)」でご覧ください。

昔の地蔵堂は、簡単な覆い屋でした。


平成四年(1992)地元の人たちにより、立派な地蔵堂になりました。


これも地元の人の作品でしょう、空き缶を利用した風車のモビールが、カラカラと楽しげに回っていました。


ふと、お地蔵様の前掛けを見ると、何か文字が書かれていますが、何と書かれているのか判読できません。


しばらく眺めていて、分かりました。
何か理由があるのでしょう、裏返して掛けられているのでした。
画像処理で反転させてみると、お地蔵様への感謝の言葉が書かれていました。


今も、地元の人にとって、身近な存在なんだなぁと思いました。

看板の最後に書かれている、「百万遍供養塔」
享保年間(1716~1736)に建てられたもので、「光明真言百万遍供養塔」と刻まれています。


「百万遍」というのは、お堂の中で念仏を百万回唱える「百万遍念仏講」のことだと思っていましたが、この地域ではちょっと違う形で行っていたようです。

平成十四年(2002)発行の「みなみやはたの歩み 第3集」に、山名町の石原進さん(85歳)が記憶する「百万遍」の様子が記されています。
山ノ上、天水の百万遍は、今から数百年も昔から伝わったこの地の年中行事として、毎年、土用の三ツ目の日に行われてきました。
山ノ上、天水の人たちが毎戸一人ずつ集まって、山名中を『マイダー、マイダー(南無阿弥陀仏のこと)』と唱えながら、鐘を鳴らして廻りました。
長さ8mもある太い紐に、幼児のこぶしぐらいの数珠玉をいくつもいくつも通してある数珠縄は、とても重いものです。
これを一人の人の身体に巻き付けて歩き廻る訳です。

鐘の音が近づくと、自分の家の近くの道まで出て待っていました。
頭や手足など痛いところをその数珠縄でなぜてもらいます。
又、妊婦などは、おなかを数珠でなぜてもらい安産を祈りました。
(略)
つり鐘は長い棒に吊るした鐘を、二人の男の人が前と後でかついで鐘を鳴らしながら歩きました。
又、木製の大きな柄杓に長い柄の付いたものを持って、この中へお布施を入れてもらいました。
(略)
大正時代の初期に、山名全域に夏病が大流行して大変困った事があり、この頃幾年か中断されていたので、是非とも又百万遍を続けてもらいたいという声が多く出されて、すぐに復活されたことがありました。
(略)
しかし、このような行事は、平成四年まで続きましたが、今はその気持ちがあっても、皆さんが核家族化して毎日が忙しくなり、続けられなくなりました。
現在は、山ノ上、天水の範囲で、お札をつくり、毎戸に配って家内安全を祈るだけになりました。」

文中、「天水」という言葉が頻繫に出てきますが、「山ノ上」同様この付近の字の名前です。
なぜ「天水」なのかということは、過去記事「鎌倉街道探訪記(31)」をご覧ください。

さて、今回の記事も長くなりました。
世界記憶遺産「山ノ上碑」を見に来られた時は、ぜひ、「山ノ上地蔵尊」にもお参りください。


【山ノ上地蔵尊】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2018年02月25日

史跡看板散歩-82 茶臼山城跡

寺尾-吉井線の「城山団地入口」交差点から団地への坂道を上り切ると、丁字路の左角に史跡看板が建っています。


この史跡看板は、なかなかよく考えられています。
看板は人の目に触れやすい場所に建てて、ただ「茶臼山城跡」はそこから北へ360mほど離れているので、看板にはちゃんとその位置関係を示す図を載せ、方向を示す看板もすぐ脇に建てて、訪れた人を迷わせない工夫がなされています。


これは、「茶臼山城跡」の史跡整備に活躍された、地元の歴史愛好グループ「考楽会」の皆さんの魂が入っている証拠でしょう。


ただ残念なのは、駐車場のことです。
「見学者用駐車場」というのがあるんですが、バリケードで封鎖されてるし、「有料、無断駐車禁止」とも書いてあって、どうすればよいのか分かりません。


けっきょく、1km離れた城山公民館に停めさせて頂き、歩いて戻ることになりました。
ま、足慣らしだと思えばいいんでしょうが・・・。
後日、高崎市役所管財課に確認したところ、見学者用駐車場は無断・無料で使えるとのことでした。
バリケードも自分で除けて、帰りに元通りにすればよいようです。

ところで、「茶臼山」という名前の由来は何なんでしょう。

Wikipediaによると、「形状が茶の湯のてん茶を抹茶に挽く茶臼に似ているとされる富士山のような末広がりの形の山のことである。」と言うんですが・・・。

「茶臼」の写真を見ると、どう見たって「末広がり」じゃなくて、「ずん胴」じゃないですか。

にわかには、信じ難い説です。

山崎一氏著「群馬県古城塁址の研究」には、こんな風に書かれています。
北海道の各地にチャシというアイヌの砦址がある。(略)
チャシはチャーウシで茶臼と相通ずる。
茶臼がかつてこの地方に居住した類アイヌ語系種族のチャシコツ(砦址)で、それを南北朝から戦国期にかけて改装し、再び利用されたものもあろうと想像する。」
ということで、アイヌ語からきているという説です。
さぁ、どうなんでしょう。

迷道院の素人考えでは、平地にぽこんと立ってて、頂部が平坦なところが「茶臼」をイメージさせたんじゃないかな、と思うんですがね。

「考楽会」の皆さんの手造りであろう丸太の階段を上ります。


上から眺める城山団地は、なかなかの壮観です。


反対方向の遥か向こうには、観音さまのお姿も拝めます。


一番上の階段を上りきったてっぺんが「南郭」


その階段を下りて右へ巻くと、「本郭」の方へ行けます。


少し行くと、「本郭」への階段と説明板が出てきます。



階段を上れば、東屋もあり、眺めも良い「本郭」跡です。



「本郭」を取り囲むように、いろいろな城郭遺構がよく整備されて残っていますが、その辺は城郭マニアの方々のブログをご覧ください。

看板の地図を見ると、ここから寺尾へ下る道があって、「木戸口」というのがあったようです。


その「木戸口」付近にも、「考楽会」さんは案内看板を設置しています。



いやー、嬉しいですねぇ。
益々のご活躍を!


【茶臼山城跡史跡看板】


【見学者用駐車場】


【寺尾側上り口】



  


Posted by 迷道院高崎at 10:51
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2018年02月18日

史跡看板散歩-81 石昌寺

「小祝神社」のすぐ隣にあるのが、「石昌寺」
史跡看板は、参道の入口に建っています。



開基された寛永年間(1624~1643)には「石昌庵」と称していたということですから、きっと小さな庵だったのでしょう。
荒廃した「小祝神社」の再建を願い出たのが正徳二年(1712)だそうですが、その時には「庵」でなく「寺」になっています。
ただ、裕福なお寺だったという訳ではなさそうです。

「石昌寺」からの「小祝神社」再建願を受けた高崎藩城代は、江戸表へお伺いを立てます。
それに対して、江戸の家老は、その願いを承知した旨の回答をしてくるのですが、その中にこんなことが書かれています。
(黒字は、迷道院のテキトー訳です。)
本社建直シ度候得共、貧寺ニ而自力ニ難相叶候之間、御林之材木通例之代物を以被下度旨願書被指出候・・・」本社(小祝神社)を建直したいと思っていますが、貧しい寺で自力では叶い難いので、御林の材木などを下されたいという旨の願書を差出され・・・
(間部家文書「従江戸到来御用状」)

「石昌寺」自体も、何度か火災に遭って大変だったみたいです。
第二十一世住職・沙門祐廓という人が書いた過去帳に、このように書かれています。
天保二年(1831)六月三日全焼シテ、再ビ明治四十年(1907)四月十五日午前零時二拾分屋根ヨリ発火シテ、本尊外数点取り出シタルノミ、他ハ悉皆焼失セリ・・・」
(新編高崎市史 資料編14)
「上野国寺院明細帳」では、天保十二年(1841)六月中焼失となっている。

同じく「上野国寺院明細帳」によると、明治四十二年(1909)三月十五日に再建落成の届出がされています。

現在の本堂は、平成九年(1997)に再建されたものです。


同じ時、薬師堂も再建されています。


この薬師様は、目にご利益があるということで、「目」「め」と書かれた紙が堂内に貼られています。


またまたブログ駆け出しの頃の記事ですが、この薬師様について思いつきで勝手なことを言ってます。
よろしかったら、ご笑覧下さいませ。 →  ◇めめめ?


【石昌寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
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2018年02月11日

史跡看板散歩-80 小祝神社

知らない人には、ちょっと読めない「小祝神社」(おぼりじんじゃ)。
高崎の人は、親しみを込めて「おぼりさま」と呼びます。

史跡看板は、鳥居を潜った先に建っています。



なぜ「小祝」と書いて「おぼり」と読むのか。
「小祝神社」の公式HPによると、
「延長五年(九二七年)成立の「延喜式」神名帳では上野国片岡郡に「小祝神社」と記載され、式内社に列している。尚、同帳では当時の読みとして「オハフリ」と振られている。「ハフリ」は、神に人間の言葉を告げることをいい、転じて神祇官の役職名になった。」
と記載されています。

明治四十五年(大正元年1912)発行「明治神社誌料 府県郷社 上」にも、「小祝」「オハフリノ」と仮名が振ってあります。


昭和十六年(1941)発行「神道大辞典」では、「ハフリ」についてこう書かれています。
往古、神社に奉仕して、祭祀に從事した神職の一。(略)
其の語義に關しては、或は「ハラフ」の義なりとも、或は「ハ」は「羽」で、衣の袖を振り神前に舞を奏したるより起こるとも、また匍匐在(はふり)とて神前にはひ侍ふ意であるとも稱する。(略)
また『日本書紀』神功皇后の巻に、紀伊國小竹社の祝、天野社の祝などと記してゐるより見れば、當時已(すで)に神を祀るものを指して、祝と稱してゐたのであらう。」

じゃ、その前についている「小」「オ」は何なんでしょう。
同辞典によると、信濃の諏訪神社の神職には「大祝」「權祝」「擬祝」「副祝」という位があったということなので、「小祝」というのも位の一つなのかも知れません。

「ハフリ」は音では「ホウリ」なので、「オホウリ」「オホリ」「オボリ」となったのでしょう。

祭神は、「少彦名命」(すくなひこなのみこと)。
(看板には「少彦名命(すくなひこのみこと)」とありますが、誤りでしょう。)

この神様、実に特異な神様でして。
「古事記」によると、「大国主命」が出雲の御大(みほ)の岬にいると、波に乗って近づいて来たといいます。


とにかく体の小さい神様で、お父さんの「神産巣日神」(かみむすびのかみ)の指の間から漏れ落ちてしまったというんですから。
その体の小ささから、一寸法師のモデルではないかとか、アイヌの神様・コロボックルではないかとか言われています。
もしかして、その小さな神様を祀っているので「小祝神社」

ブログ駆け出しの頃、とんでもない妄想記事を書いています。
  ◇コロボックルは高崎にいた

正徳年間(1711~1715)に高崎城主・間部詮房(まなべ・あきふさ)によって造営されたという社殿、なかなか見事なものです。




新しい史跡看板には書いてないのですが、古い史跡看板には境内に「芭蕉句碑」があると書いてあります。


どこにあるのか探し廻りましたが、燈台下暗し、看板の真下に隠れてました。


面白いところでは、「小祝神社甚句」という看板もあります。


相撲甚句で「小祝神社」のことを唄いあげています。
因みに「相撲甚句」「都々逸」と同じ、七七七五でできています。
合いの手まで書き込まれているので分かりにくいですが、七七七五で味わってみて下さい。

面白い神社です。


【小祝神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:40
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2018年02月04日

史跡看板散歩-79 聖石

「聖石町」「石原児童公園」に建っている、「聖石」の史跡看板。


ここからは「聖石」はおろか、「烏川」さえ見ることができません。
なぜここにしたのかなぁ。



「聖石町」にあるのに「石原児童公園」というのも妙な感じですが・・・。

「聖石町」は昭和五十年(1975)、「片岡町」「八千代町」とともにできた比較的新しい町で、もともとは「石原町」という大きな町でした。



町名は、もちろん「烏川」の中州にある「聖石」に由来しますが、昔から字名として「聖石」と呼ばれた地域がありました。


どうしてもこの場所に史跡看板を建てたかったのならば、「聖石町の由来」にした方が良かったように思います。

とはいえ看板にもあるように、「聖石」「烏川三石」のひとつですから、ぜひとも欲しい史跡看板ではあります。
どこに設置すべきかと言えば、それはもちろん「聖石」が見える場所であるべきです。

(下が北です)
さて、みなさんならどこへ建てたいでしょう。

私なら絶対ここ、「聖石橋」東詰めの下流側欄干です。
ここなら「聖石」も見えますし、歩行者が信号待ちの間に読んでくれるであろう、絶好のポイントだと思うのです。


ただ、ちょっと残念なこともありまして・・・。
それについては、6年前の記事でご覧下さい。
   ◇鎌倉街道探訪記(21)

この際ですからどうでしょう、欄干の御影石に、「聖石橋」という文字と「その命名由来」を追刻して頂く訳にはいきませんでしょうかねぇ。


【聖石の史跡看板】

【聖石】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:02
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2018年01月28日

史跡看板散歩-番外編 城山射撃場跡

このシリーズ第75話「乗附練兵場跡地」に出てきた「城山射撃場」が、「甲子大黒尊」のすぐ近くのはずなので探してみました。

「城山射撃場」の位置をもう一度確認しておきましょう。


その辺りを現在のYahoo!地図で見てみると、特徴ある地形がそのまま残っています。


「甲子大黒尊」への坂入口の道向こうに、細い坂道があります。


坂の上に、学校の門柱のようなものが建っています。


門柱を過ぎて振り返って見ると、「甲子大黒尊」への道につながっているのがよく分かります。
門柱には「當所 氏子中」とあるので、きっと、昔はここを通って「大黒神社」へ行ったのでしょう。


その小道を行くと、Yahoo!地図の「A」地点に出ます。


「A」地点から上り坂を100mほど進んだ「B」地点で、こんなものを見つけました。

「陸軍用地」の表示杭。
おー、よくぞ残ってくれてたものです。

さらに90mほど上って後ろを振り向くと、遥か下に高崎の町が遠望できます。


兵士たちは、重い銃を担いで、えっちらおっちら、ここを上ってきたんでしょうね。
さぞかし大変だったろうと思いきや、意外にそうでもなかったらしくて、「高崎の散歩道 第十一集」には、こんなことが書かれています。
高崎の兵営からこの射場に通うには、聖石橋を渡り、落合の村落をぬけ、下乗附を通るのが道筋で、営内の弾薬庫から実包(実弾のこと)を受領した射場勤務員の一隊は、演習部隊より一足さきに、弾薬箱をにない、必要な器材を持って、比較的のんびりした気分で射場に向かったものである。
兵営生活から解放された兵士達には、この行進は一つの楽しみであった。
乗附には饅頭を売る店もでき、休憩時には民家を訪れる兵もあって、村人と親しくなり、そこへ聟入りした下士官も幾人かはあった。」

そうか、楽しみだったんだ・・・。

「C」地点から、かつて「射撃場」だったであろう方向を眺めてみます。
そうに見れば、そうに見えなくもないような・・・。


ちょうど畑仕事をされている方がいたので、「射撃場」のことをお聞きしたら、ご存知でした。

「この辺から向こう(西南)の方へ撃ったらしいね。
 子どもの頃、よく弾を拾いに行ったよ。」

何か痕跡は残ってないかお聞きすると、
「このずーっと先に杉の木がいっぱい植わってるがね。
 そこにこんもりした土手みたいのがあるよ。
 そこへ向かって撃ったんみたいだいね。」
というお答え。

その杉林を目指して、「D」地点まで行きました。

左へ行くと「国立のぞみの園」、右へ行くと「観音山キャンプパーク・ジョイナス」、その間の細い道を下って杉林の方へ行くと・・・。

たしかに、木立の背後に壁のように立つ崖地がありました。


この崖にめり込んだ弾は、もうみんな取り尽くされたのでしょうか。
それとも、ほじくればまだ出てくるのでしょうか。

もう少し経つと、たぶん「城山射撃場」を知る人もいなくなってしまうでしょう。
貴重な戦争史跡として、せめて看板だけでも建てておきたいものですが・・・。


【陸軍用地の標柱】


【城山射撃場の痕跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
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2018年01月21日

史跡看板散歩-78 甲子大黒尊

今回も場所が分かりにくい、乗附町「甲子大黒尊」(きのえね・だいこくそん)。

説明が難しいのですが、荒久沢川北沿いの道を西へ向かい、(株)建設企画を過ぎた所で橋を渡ります。


橋から80mほど行くと右に上がる坂道があり、オリエンテーリングのポストが目に入るでしょう。
史跡看板は、その坂の上に建っています。





看板のすぐ先に手洗石や石祠があります。


石祠の隣には面白い恵比寿・大黒の像が置かれています。


一瞬、「この石祠がそう?」と思っちゃいますが、看板の写真とは違うし・・・。
でも看板には、「甲子大黒尊は大黒山の頂の大黒神社に祀られていましたが、現在はその跡を残すのみです。」と書かれているし、ちょっと不安になってきます。

ま、いちおう、山頂を目指してみましょう。


この先、道がいくつかに分かれてますが、奥を左です。


道は急な登り坂で、雨で抉れてて、しかも落ち葉が厚く積もっているので滑りやすいです。
足ごしらえをしっかりして、ストックを持って行くことをお勧めします。


しばらく急坂を登って息が上がる頃、坂の上に石碑と石燈籠が見えてきます。


けっこう立派な石碑です。


何と言っても、刻まれた文字がユニークです。
この碑が奉納された元治元年(1864)の干支が「甲子」、その年の十一月二十七日の干支も「甲子」ということで「甲子大黒尊」という訳ですが、「子」の字の代わりに「ねずみ」の絵を用いているというのが洒落っ気たっぷりで面白い。


石燈籠は、昭和十二年(1937)丁丑(ひのと・うし)の奉納で、一年早く奉納すれば年で具合良かったんですがねぇ。
奉納者の中に、「田村今朝吉」の名も見えます。


「甲子大黒尊」碑のさらに上に、バラバラになってはいますが「山野神」(山の神?)の石祠がありました。


さて、杖になりそうな枝を拾って、慎重に下山するといたしましょうか。


【史跡看板】


【甲子大黒尊】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:43
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2018年01月14日

史跡看板散歩-77 乗附町の秋葉神社

乗附町「秋葉神社」
ここに辿りつく人、どのくらいいるのかなぁ・・・。

護国神社の脇から観音山へ行く道なんですが、この左下の小道に入ったことがありますか?


入って40mほど行くと、小さな沢があります。
橋の向こうに史跡看板が建っているんですが、分かりますか?

この角度からじゃ、分からないでしょうねぇ。

さらに10mほど行くと、ようやく史跡看板の存在に気が付くのですが・・・、


「この石祠は・・・」と書いてあるものの、辺りを見回してみても何もありません。
ほとんどの人は、「昔はあったのかなぁ。」くらいで、ここで引き返してしまうでしょう。

よっぽど好奇心旺盛な人は、「アンダーパスの向こうはどうなってるんだろう?」と、奥へ行ってみるかも知れません。
50mほど進むと砂防ダムが出てきて、その向こうの生い茂った木々を見たら、まぁこの辺で引き返すでしょう。


さらに奥へ行ってみようなんて思う人は、相当な物好きか変わりもんに違いありません。
私はその両方だったので、奥へ入って行きました。
120mほど行くと、左手にいかにも手造り風の階段が現われ、その脇に小さな看板を見つけました。

この錆かかった看板によって、もしかしてこの階段の上に「秋葉神社」があるのかも、と思わせてくれます。

ところが、これがまーだまだ。
さらに急になる山道を70mほど登って、ようやくそれらしい石祠が見えてきます。


割とよくできた石祠で、手前にある郵便受け(?)の屋根には、きちんとした篆刻文字で「秋葉神社」と刻まれています。


そういえば、ここへ来るまでの道はきれいに篠や草が刈られ、整備されていました。
きっと、地域の人が大切にお守りしてくれているのでしょう。
とすればなおさら、あの史跡看板はもったいなく思いました。

「高崎市名所旧跡看板」の設置目的は、「市内観光の魅力を高めるとともに、住民に地域の歴史文化を見つめ直してもらおうと企画された。」はずです。(2016.3.23上毛新聞)

ならば、まずは人の目に触れなければ話になりません。
そして、土地勘のない人でも容易にアクセスできなければ意味がありません。

そこで提案です。
まず、左下の小道へ下りる所に「旧跡秋葉神社入口」という看板を建て、「この先〇〇m」と表記しましょう。
そして大変かもしれませんが、史跡看板は石祠の脇に移設しましょう。
それで初めて「この石祠は・・・」という説明文が理解できようというものです。

史跡看板に、魂を入れましょう。


【秋葉神社の史跡看板】


【秋葉神社の石祠】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:29
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2018年01月07日

史跡看板散歩-76 伊津奈大権現

「片岡町」「伊津奈(いづな)大権現」の史跡看板。
用水路越しに読むという、視力検査のような建て方です。



史跡看板から山の方へ向かって130mほど行くと、「伊津奈大権現」に上がる石段があります。


石段の上にシンプルな社があり、境内には落ち葉一枚落ちていません。
きっと、地域の人がまめに掃除をされているのでしょう。


実はブログ駆け出しの頃、一度ここに来ています。
   ◇天狗も住んでた!高崎

その記事の冒頭、すぐ近くにある「厄除地蔵尊」に触れてますが・・・、


お堂の額には「弐佛堂」(にぶつどう)と書かれているのだが、掲示されている看板には「三仏堂の沿革」と書かれた、妙なお堂である。」
と書いたのですが、「弎」(さん)を「弐」(に)と間違ってますね。


いや、お恥ずかしい。

改めて、「三仏堂の沿革」説明板と、祀られている「三仏」のお姿を掲載しておきます。



【伊津奈大権現の史跡看板】


【伊津奈大権現】


【厄除地蔵尊】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:18
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