2020年01月23日

番外編 金古町の大ケヤキ

昨年の9月に「金古町の行人塚と大ケヤキ」という記事にした時の、大ケヤキの雄姿です。


ところが今年1月、その大ケヤキが伐られてしまったというコメントをお二人の方から頂き、本当にびっくりしました。
「何ということを!」と、驚きとともに怒りとも嘆きともいうような感情を抱いたのが正直な気持ちです。

どんな状態になってしまったのか現状を見たくて、1週間ほど経ってからでしたが行ってみました。

あー、たしかに根元からバッサリ伐られてしまっていました。


ガッカリして近くまで行ってみて、「あっ!」と思いました。
根元のくぼんだところに、花が供えてあったのです。

「あー、ちゃんと供養してから伐採してくれたんだな。」と、少しホッとしました。

そして伐り口を見ると、きちんと防腐のためのコーティングがされています。


根元の腐食しかかっている箇所も、コーティングで保護されています。


これを見て、何となく施主の気持ちが分かるような気がしてきました。

昨年の台風で、各地の樹木や建造物が倒壊し、大きな被害を出したことは記憶に新しいところです。
大ケヤキが聳えていた場所は、人や車が多く行き交う交差点です。
時間帯によっては、信号待ちで車が数珠つなぎになります。

万一、この大ケヤキが倒壊でもしたら、どれほどの被害になるかと想像するのも恐ろしいことです。
おそらく、そんな思いが施主に伐採を決意させたのだと思うのです。

それでも、金古町のシンボルでもあった大ケヤキがここにあった証を残したいと、その大きさが想像できる伐り株を腐らせないよう、少しでも永く残そうと考えられたのでしょう。

きっと、伐られた大ケヤキも高級な建材や家具に姿を変えて、第二の人生(?)を生き続けるに違いありません。
そうなった大ケヤキに、いつか、どこかで再会したいものです。


【金古町の大ケヤキ跡】


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Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2020年01月19日

史跡看板散歩-172 棟高の胸形神社

高崎から三国街道(高崎-渋川線)を北上して、「堤下公園」を過ぎてすぐ東(右)へ入ると、「胸形(むなかた)神社」があります。


以前来た時は、桜の大木が枝を茂らせて鬱蒼としていましたが、だいぶ伐採されて、すっかり明るくなりました。
大きな常夜燈がポツンと建ってますが、以前は鳥居の正面辺りにあったそうで、道路拡幅のために今の位置に移動したということです。

常夜燈にはいろいろ文字が刻んであって、風化もしてなくてはっきりはしてるんですが、読めません。

「明治十六年」の上の字は、なんていう字なんですか?

字典で調べてみると、「旨」の異体字らしいんですが・・・。

ただ、意味のどれを当てはめてみても、ピンとくるものがありません。
何なんですか、「旨明治十六年」って。

字典をペラペラめくっていると、こんな字が目に止まりました。

これなら「明治十六年に献ずる」ということで、意味は通りそうです。
「旨」「享」の間違いですかねぇ。

これも右端の字が読めません。

辞典で探してみると、どうやら「黎」の異体字で、「多い」とか「諸々」という意味があるそうです。
ということは、「黎民歓」「諸々の民が歓ぶ」という意味になりそうです。

さらに、もうひとつ。
「世話人當所」の下、何て書いてあるんですか?

一番右は「壮」
2番目だけなぜか崩し字なんですが、「健」
3番目は、「乞」
4番目は、「社」
「壮健を社に乞う」ということ?
うーん、なんかよく分かりません。
どなたか、ご教示ください!

さて、史跡看板はその常夜燈の隣、古そうな双体道祖神に並んで建っています。



「胸形神社」のことについては、毎度のことですみませんが、過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(11)

看板の最後に、「正月の六日に行われる水的の儀」と書いてあります。
どんなものなのか知りたくて、元日の「胸形神社」へ行ってみたのですが、神社に関係してる方は一人もいらっしゃいませんでした。
お参りに来た方や、散歩中の地元の方にお尋ねしたのですが、どなたもご存じありません。

そんな中、お一人からこんな情報を頂きました。
「今日の上毛新聞の歳時記というのに、1月15日に胸形神社で弓で何かする行事があるって出てたよ。」と。
家に戻って、元日のたくさんの新聞の中から、見つけ出しました。
「2020 高崎くらし歳時記」というページでした。

そこには「強者弓始式」となっていて、看板にある「水的の儀」と同じものなのかどうかは、分かりません。

ネットでいろいろ調べていると、前橋「総社神社」では1月6日に「水的神事」というのが行われているということが分かりました。
「胸形神社」では1月6日に行われる行事はないことも分かりましたので、その日は「総社神社」へ行ってみました。
翌日の新聞にその記事が載りましたので、それをご覧ください。

新聞では「水的の式」となっていて、きっと「胸形神社」「水的の儀」も、その年の降水量を占う儀式なのでしょう。

そして1月15日、待ち望んだ「強者弓始式」を見に「胸形神社」へ行ってきました。

午後1時、氏子の方々は拝殿で修祓(しゅばつ)を受けてから「弓始式」に臨みます。

まずは神官から。

みごと的中です!

その後、氏子の方々全員が順番に矢を射ります。

中には的のど真ん中を射抜く強者もいて、驚きました。

神官は、石原町「小祝神社」西園勲宮司で、「胸形神社」宮司を兼ねています。
西園宮司にこの行事についてお伺いしたところ、「しばらく途絶えていて詳しいことは伝わっていないが、その年の作物の豊凶、降水量などを占うものだと思う。」ということでした。

社殿には弓の奉納額が掛かっていますが、これも「水的の儀」「強者弓始式」と関係があるのでしょうか。


宮司さんや氏子の皆さんのご厚意で、拝殿のなかに入れて頂きました。
奥に見事な天井絵があるのですが、手前に垂れ壁があるので、氏子さんたちもつい最近までその存在に気付かなかったそうです。


屋根のカーブが美しい本殿。


剽軽な形の御神燈は慶応三年(1867)、大政奉還そして王政復古の年に奉納されたものです。

幕末・明治のドタバタを、静かに眺めていたんでしょうね。

希わくは多くの民の歓びが満ち満つる平穏な世が、幾久しく続きますように、と祈って参りました。


【胸形神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:33
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2020年01月12日

史跡看板散歩-171 棟高・山王猿の石神と庚申塚

三国街道(高崎-渋川線)の「堤下公園前」の信号を東に入って道なりに270m、「天王川」の手前に、庚申塔やら青面金剛塔やらが集まってる一角があります。


ここが「棟高の庚申塚」で、その中に「山王猿の石神」があります。



以前訪れた時から早10年、あの頃は、史跡看板など建っていませんでしたから、近所の人に聞き回るしかありませんでしたが、それも今となっては懐かしい思い出です。
   ◇三国街道 帰り道(12)

せっかくなので、隣の「大乗寺」についても過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(13)
   ◇三国街道 帰り道(14)

ついでに、近くにある「真鹽紋彌(真塩紋弥)翁之碑」の記事も載せておきます。
   ◇三国街道 帰り道(6)
   ◇三国街道 帰り道(7)

点が線になるのが面白くって、はまり込んでた頃でした。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2020年01月05日

史跡看板散歩-170 棟高の観音堂と大師堂

三国街道(高崎-渋川線)を高崎から北上して棟高町に入り、しばらく進むとこんもりした森が現れます。


棟高「観音寺」跡です。


史跡看板は、「薬師如来堂」の隣に2つ建っています。


なお、この「薬師如来堂」は、飯島富雄氏著「観音寺誌 祖徳流芳」に、こう書かれています。
薬師如来は、明治年間観音寺地区の西南、薬師免と呼ばれている地点から観音堂境内に移されたもので、記念名は無いが専門家の鑑定によれば、室町時代のものと推定されると云う。
この佛様は眼を患っている人が自分の目をこすり、その指で如来の目をこすると快癒すると云う信仰があった。(略)
昭和六十年頃すっかり腐りはててみすぼらしいほこらを、当村田中正己さんが現在の立派なものに建替しものと云われている。
これは田中正己氏の奥さんが眼病を煩い、一日も早い全快を願っての建設寄進せしものと云われて居る。」

看板を見てみましょう。



ここも、9年前に訪れて記事を書いていますので、そちらをご参照ください。
   ◇三国街道 帰り道(1)

その記事では掲載しなかった、「観音堂」堂宇内外の写真です。



御神木の大杉です。

後ろに桜の古木が立ち並び、花の頃はすごくきれいです。

ここには、もう一つ、ぜひご紹介したいものがあります。
「薬師如来堂」の近くにある二つの大きな石碑、その左側の「豆腐来由碑」です。



どんな碑なのかは、過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(2)

碑の建立者・飯島靱負氏のことについても調べてみました。
   ◇三国街道 帰り道(3)

話は、これで終わりません。
   ◇三国街道 帰り道(4)

いやー、歴史探索って面白いもんです。


【棟高の観音堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2019年12月29日

史跡看板散歩-169 足門の薬師堂

旧群馬町足門(あしかど)の「徳昌寺」


「徳昌寺」の南東角の四つ辻を南(写真では右)に入ります。


130mほど行くと、道端に石仏が一基建っています。



そこを左に入ると、立派な庭園が現れます。


その左手奥の塚上にあるのが、「薬師堂」です。


史跡看板は、石段を上がった右側に建っています。



看板にある「飯島雪斎翁の碑」というのがこれです。


飯島雪斎は、享和二年(1802)足門に生まれ、十八歳のとき江戸に遊学、次いで京都、大阪へ上り西洋医学を学びます。
さらに長崎でシーボルトに学び、西洋医学の研究を重ねて三十二歳で帰郷、「飯島医院」を開きます。
医業の傍ら、私塾を開き青少年の指導に当たり、元治元年(1864)六十四歳で逝去しています。(ぐんま県郷土史辞典)

この「薬師堂」ですが、実は9年前に訪れています。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(11)

看板にあるように、この「薬師堂」「徳昌寺」持ちです。
その辺の経緯については、次の記事をご参照ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(14)

「薬師堂」は「徳昌寺」持ちですが、隣の庭園は中澤家持ちです。
では、晩秋の庭園を見ていきましょう。
大きな石灯籠と、紅葉した楓、美しく剪定された松、そして低木と石がいい感じ。


ピンクの山茶花と紅い楓の絨毯に、「佐渡赤玉石」がよく似合っています。


「赤城の小松石」を使ったという石垣の上に、瀟洒な東屋が建っています。


東屋から眺める庭園も、一幅の絵画を見るようです。


この庭園を維持していくのは大変なことと思いますが、「薬師堂」とともに、後々の世まで残していって頂きたいと思います。


【足門の薬師堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2019年12月22日

史跡看板散歩-168 足門の百庚申

「金古南足門(かねこ・みなみ・あしかど)公民館」の入口に、「足門の百庚申」があります。


「百庚申」といっても、百基建っている訳ではなくて。


一基に、多数の「庚申」という文字が刻まれているということです。



「栗崎町の諏訪神社」にも、このタイプの「百庚申塔」がありました。

また「足門の百庚申塔」には、「青面王」(しょうめんおう)と刻まれています。
「青面王」については、まだブログ駆け出しの頃、たいへん手こずったことがあります。
「旧三国街道の三ツ寺」でのことです。

なお、なぜ「青い面の王」なのか、「庚申」とどういう関係なのかについては、「綿貫町の正面金剛」の記事をご参照ください。

史跡看板に、「この庚申様は三国街道沿いにあったが、平成元年にこの場所に移した」とあります。
その辺の経緯が、「由来」という石碑に刻まれていました。


この道しるべも、その時、移されたのかも知れませんね。


旧群馬町は、史跡を大切にしていたことがよく分かります。
高崎市と合併したことにより、その精神が失われないことを祈るばかりです。


【足門の百庚申塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:50
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2019年12月15日

史跡看板散歩-167 稲荷台の稲荷神社と大国主命碑

稲荷台(とうかだい)の「稲荷神社」


社殿と区民センターの間に石造物が並んでいるのが見えたので、行ってみました。

ああ、「花園薬師」のお堂の中にあったのと同じ石仏がたくさん並んでます。
これが、稲荷台「小薬師」さんなんでしょうね。

さて、「稲荷神社」です。


入植時は22軒だったということですが、現在は182軒になっています。(平成27年国勢調査)

「彫物は極彩色が施されていたが、現在は彩色を失っている」とありますが、よく見ると痕跡は残っています。



ふと、賽銭箱の文字に目が止まりました。

昭和十五年(1940)、紀元二千六百年を記念して奉納されたようです。
明治政府の御用学者が無理やりこじつけた、神武天皇即位の年・西暦紀元前660年から2600年だという訳です。

「記念 三夫婦三代揃」と刻まれています。
太平洋戦争突入の前年、まだ三代夫婦が欠けることなく揃っていられる頃だったのです。
左側面には、その真塩家三代夫婦の氏名が刻まれています。

社殿脇に、平成十八年(2006)の改修記念碑が建っています。


それを見ると、かつての境内は「老杉鬱蒼として清浄の地であったが、世界大戦時、飛行場建設により昭和十九年(1944)鎮守の杜(もり)を失ない」とあります。
「陸軍前橋飛行場」(堤ヶ岡飛行場)建設のために伐採されたという老杉は径九尺(2.7m)もあり、伐採後に年輪を数えてみると240余りあったということから、神社創建の年に植えたものであろうということです。(国府村誌)

戦争とは、実に勿体ないことをするものです。

戦争が終わって昭和二十二年(1947)再び杉苗を植え、さらに真塩キクエさんの実家(赤城村)から杉苗百本の寄進を受け、昭和四十年(1965)に補植したといいます。(国府村誌)

「稲荷台」には「真塩」という姓が多いのですが、思い出しました。
下小鳥町「首塚」に建っている、「枉寃旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)の撰文を書いた真塩紋弥も、「稲荷台」の人でした。
真塩紋弥の墓は、「稲荷神社」のすぐ北の真塩家の墓地に、ひっそりと建っています。

「稲荷神社」の南隣に、もう一つの史跡「大国主命碑」があります。


でかい石碑です。



看板によると、かつては「青面金剛像」の道しるべが建っていたようですが、今は小さな道しるべだけが残っています。

「御成婚記念」とありますが、どなたのご成婚なのか、日付が読み取れないので分かりません。
ただ、「青年団」という呼称は大正に入ってから使われるようになったらしいので、おそらく、明治三十三年(1900)ご成婚の大正天皇ではなく、大正十三年(1924)ご成婚の昭和天皇のことなんでしょう。

さてさて、秋の日は釣瓶落とし。
薄暗くなって、お稲荷(おとうか)に化かされない内に、家路につくとしましょうか。


【稲荷台の稲荷神社】

【大国主命碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2019年12月08日

史跡看板散歩-166 塚田町の花園薬師

旧群馬町の小字「花園」から700m南南東の「塚田」


そこに、なぜか「花園薬師」



「花園薬師」の由来については、あまり確かなことは分かっていないようです。
「国府村誌」には、こう書かれているのですが。
泰亮愚海はその著「上毛伝説雑記拾遺」巻三に於いて後一条天皇の長元元戊辰六月、平忠常が下総国より当地に移り城を築き、その鎮護の為に妙見寺や国分寺の塔を再建し花園薬師、化粧薬師、斎城薬師、阿弥陀寺、最勝寺、最経寺、八王子権現、弥勒寺、清徳寺等を建てたと書いているし、「上毛及上毛人」五十三号府中号に於ても、国分寺廃滅後(鎌倉初期)府中の人々が国分寺の法体を移し、国分寺に代わるものとして尊信したのが花園薬師であるとハッキリ書いている。」
「ハッキリ書いている。」と言うんですが、読解力の弱い私には、ハッキリ分かりませんでした。

看板の中ほどに書かれている「小薬師」が、堂の中に鎮座していました。


ほんとは、もっと沢山あったらしいです。
花園薬師の石像の類は明治末年より大正の末年迄、稲荷台を相手に子供達が「石仏の取りっこ」を行い、此処にあった古い石仏類は恐らく稲荷台へ持ち去られ、何処かの邸の裏にでも埋められているらしい。」(国府町誌)

「稲荷台」(とうかだい)というのは、「塚田」の隣村です。

畑仕事をしている方に聞いてみました。
「稲荷台の薬師様というのは、この近くにあるんですか?」
「区民センターの所にあったんだけどね・・・。」
区民センターを建てる時に、どこかへ行ってしまったようです。

じゃ、次回は「稲荷台」へ行ってみましょうか。
今日は、ここまで。


【花園薬師】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2019年12月01日

史跡看板散歩-165 後疋間の福守神社

複雑な形をした、後疋間町(うしろひきま・まち)と、その周囲をぐるっと囲む引間町(ひきま・まち)。
その境目に、「福守神社」があります。


田島桂男氏著「高崎まち知るべ」によると、「引間」の地名のいわれについて、こう書いてあります。
  船尾山縁起では、「千葉常将が船尾寺に預けた子が天狗にさらわれたのを、寺で殺されたと思い、大兵を率いて船尾山を焼き討ちした。
これに対し、寺側も僧兵を繰り出したので、常将は一時的に兵を引いた。
この場所を引間という。」

また、近藤義雄氏のこんな説も紹介しています。
  おそらく引間は引馬であり、古く馬市などが妙見社の祭礼日にあったのではなかろうかと思う。

同じ読みをする、「引間」「疋間」については、
  「後疋間」の名のいわれは、「引間」の北につながっている土地であることによっている。
「引間」と「後疋間」は、以前は一つの「ひきま」であったと考えられるが、南接する「引間」と区別するため、江戸時代から「疋間」と表記していた。
明治十一年(1878)群馬郡が二分して西群馬郡になったとき、「後」の字を加えて「後疋間村」になった。
のだそうです。

さて、「福守神社」です。


看板では、祭神を「木之花咲夜毘売」と表記していますが、あまり見かけない表記です。
よく見るのは「木花之佐久夜毘売」とか、「木花開耶姫」とかでしょうか。

「火中出産の神話」というのも、なかなか深いお話でして。

「福守神社」には鳥居が二つあり、一の鳥居は「國祖産體 福守大明神」、二の鳥居は「諏訪大明神」となっています。


「諏訪大明神」「建御名方」(たけみなかた)という武勇の神様ですが、妻「八坂刀賣」(やさかとめ)との間には、十三柱とも二十二柱とも言われるたくさんの御子神(みこがみ)が生まれていますので、子授けの神様でもあります。

その子授けの御神体というのが、「福守神社」の社殿に祀られているというのです。


「群馬町誌 通史編下」によると、
神体は鉄製の男性器で長さ20cmほどの大きさである。
この神体の制作年代は不詳だが、社伝では福守神社の創建と同じくしている。
また戦前には、社殿にところせましと数百本の木製男根が奉納されてあり、それも社殿には入りきれず軒下まで積み重ねる状態だったと聞く。」
とあります。

覗いてみましょう。

御神体は見えませんが、なるほど、少なくなったとはいえ、奉納されたものがずらっと並んでます。
いやはや・・・。

看板の最後に、「御神木のムクの古木」のことが書いてあります。
社殿の前の大きな切り株がそれだったのでしょう。


昭和四十三年(1968)発行の「国府村誌」に載っている写真を見ると、「ムクの木」は社殿の後ろに聳えています。

ということは、社殿を建て替えた時に、「ムクの木」の後ろに移したということですか。

えらいなぁと思うのは、切り倒した「ムクの木」の幹が、ちゃんと保存されていることです。


説明書きも添えられています。

これを見ると、切り倒したのは平成二十三年(2011)だったんですね。

歴史をきちんと伝えていく。
大切なことです。


【福守神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:09
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2019年11月24日

史跡看板散歩-164 東国分の行人塚と宝篋印塔

最近、ブログタイトルの下に大きな広告が表示されるようになり、ちょっと、うっとおしいです。
テンプレートを変更すればと言われて変えてみたんですが、ダメみたいです。しょうがないのかなぁ。

さて、今回は。
東国分(ひがしこくぶ)
「上野国分寺跡」のすぐ北西の、とある墓地。


だいぶ文字の薄くなった看板には、「常安寺の宝篋印塔と行人塚」と書かれています。


正面に、立派なお宮が建っています。
木札が掛かっているのですが、何と書かれているのか判読できません。

辛うじて、一番下の文字が「様」と読めます。
いったい、何様なんでしょう?

調べてみると、「群馬町誌 資料編4」の民俗信仰の項に、これかな?と思うものがありました。
ヘソヌキ観音
東国分の南の墓地にあるお堂には観音様の石像を収めた石宮があり、この観音様の腹部に指の入る程の穴があけられている。
地元ではヘソヌキ観音と呼び、この穴に指を入れると腹が痛くなるといわれているが、安産守護の観音様であり、絵馬や五色の旗をあげ願いをかけるとお産が軽くすむといわれている。」

たしかに、お堂の中の石宮に扉があり、その中に穴のようなものが見えます。


また、同誌にはこんな話も載っていて、これもこの墓地のどこかにあるようです。
エボトリ薬師
東国分の墓地にエボトリ薬師といわれる石仏がある。
この石についている土をエボ(イボ)につけるととれるといわれる。」

たぶん、「薬師如来」と刻まれている、この石仏のことではないでしょうか。


さて、看板にあった「行人塚」ですが、墓地の一番奥にあります。

史跡看板手前の無縫塔(玉子塔)がそれらしいです。



たしかに、台石の裏っかわに穴が開いています。


墓地の東隣の敷地に、鳥居と寺っぽい建物があります。


建物はしばらく使われていないようで、だいぶ傷んでいますが、玄関口には「國分山」という額が掛かっています。
これが「常安寺」だったのでしょう。


「常安寺」について、「国府村誌」にはこう書かれています。
庄屋助太夫盛次は酒造業を営み生活が楽だった。
元禄十六年秋工を起し独力一寺を建立、同十七年申二月落慶、常安寺と名付け、祖先菩提一族繁盛祈念の為であった。
文化四丁卯(ひのと・う)四月十三日の午後、近所の家の子守の弄火より全焼、文化七庚午(かのえ・うま)十一月十三日再建上棟、住屋武兵衛重禹個人の力で再建した。これが現在の常安寺である。」
そして、開山は大阿闍梨自賢覚仙とあります。

「群馬町誌 通史編下」では「国分山良心院常安寺」となっていて、その後のことも書かれています。
祐晃(十世住職)在職中、戦後の農地解放により、所有地九反三畝歩の田畑を失い、住職没後は無住寺となり、檀徒は離れて総社町の光厳寺へ移った。
明治六年(1873)にはこの寺に国分学校が設けられ、国府小学校の発祥地でもある。
さらに、境内には明治末期建設の「東国分倶楽部」と呼ばれる集会所があり、当時としてはハイカラな名前がつけられているが、非戦平和論者の牧師住谷天来が名付けたものという。」

住谷天来(すみや・てんらい)は少年時代、一人前の寿命を危ぶまれるほどの虚弱体質で、両親は無事を祈って御嶽講に入れたそうです。
それと関係あるのかどうか知りませんが、隣の「大神宮」境内には、大きな「御嶽大神社」の石碑が建っています。


そして、天来は76歳の天寿を全うしました。

その天来が名付けたという「東国分倶楽部」は、新しい建物になって今も境内地にあります。


境内地の南東隅に、どでかい「宝篋印塔」が建っています。


史跡看板は、その陰に隠れるように建っていました。



なるほど、立派なもんです。


至るところに出てくる住谷(住屋)姓。
大したもんですなぁ。


【行人塚】

【宝篋印塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2019年11月17日

史跡看板散歩-163 引間の妙見様

前回の「冷水の小祝様」を由縁として建立されたという、引間「妙見様」を訪ねました。
「花園橋」という素敵な響きの橋を渡った所にあります。

かつての「花園邨(村)」にある、「七星山花園妙見寺」(現在は「三鈷山吉祥院妙見寺」)です。

境内に入ると右手に小山があり、頂上にきれいな色と形の祠が建っています。


後でご住職にお聞きしたら、これは「弁才天」の祠で、もとは池に囲まれた中島だったのだそうです。
なるほど、そういえばそんな雰囲気は残ってます。
なんでも、上越新幹線の工事で水脈が枯れてしまって、池はなくなってしまったんだとか。

石段脇に、説明板が建っています。


萩の「花園」だったんですね。

石段左側には、「金刀比羅大権現」


石段を上がると、参道の両側にえらくスマートな石灯籠が建ってて、上を見ると奉納された灯籠がズラーっと参道に吊り下げられています。


少し進むと、参道左側にえらく立派な石祠がありました。

石祠の中に祀られているのは「勢至菩薩」で、地元の人はなぜか「おまんまさま」と呼んでいるそうです。

この「おまんまさま」について、松田直弘氏著「妙見寺誌」に面白い話が載っています。
拝殿に向かって左手前のオマンマさま(室町時代初期と推定の石殿内に納まる勢至菩薩坐像)は、かつては石段下の大欅の根元(現在の琴平宮の南)にあった。
遠い昔のこと、染谷川左岸の霊水(冷水)の小祝の池に金色に光輝く亀が天降り、やがて染谷川を二十町(約二キロ)ばかり流れくだって這い上がった所が大欅の根元だった。
地元の人達は、大欅の根元に石のお宮を造り、この光輝く亀を納めて祀った。
それが、このオマンマさまと呼ばれる石宮で、妙見さまが一番はじめに祀られたお社だと今も信じてお参りする人もいる。
註、この大欅は、昭和三十九年に切り倒され、オマンマさまは現在地に移される。」

「国府村誌」では、もっと面白い話になっています。
昔この池(小祝の池)から七星の金色に輝く亀がはい出して妙見様の大ケヤキのところでとまった。
そこに石宮をたてお祀りしたが、元総社の一・六の市に通った人が馬にのってここを通ったら馬から落ちてしまった。
御姿を見えないところへ移そうというので井戸を掘ってそこにお祀りした。
その上に建てられたのが今の妙見様のお堂のあるところという。」
ここを通る人たちが落馬するのは、石宮の中から亀が放つ金色の光に目がくらんだからだそうです。(地元の古老談)

「妙見寺」のお堂の下には、今でも井戸があって亀が住んでいるんでしょうか。


「妙見寺誌」には、こうあります。
妙見寺行事は、大晦日の「お着替え」から始まる。
この行事は、本殿下の井戸の中に納まる御神体に藁で編んだコモ(衣)を着せ替える神事で「ころもがえ」ともいう。
行事は深夜に暗闇の中を手さぐりで行う。
この御神体は、遠い昔に小祝の池に天から降った亀とされる。
元住職は「隕石と思われる」と語っている。」

おや?
亀じゃなくて、石ですか?
そう、「わたしたちの群馬町 資料集」では、完全に石の話になってます。
この妙見には、星形をした青石の神体があります。
冷水におぼり様の池と言うのがあります。
ある村人がこの池から大きな石を引き上げ家に運んでいました。
ところがどうしたことか妙見の池まで来ると、押せども引けどもどうしても動かなくなりました。
村人は気味が悪くなって、とうとうその場に放置したまま逃げ帰ってしまいました。
そのことがあってからです。妙見の前の箕輪前橋道を馬に乗って通る旅人は、全部落馬してしまいます。
これをあの石のためであると、誰言うとなく信じるようになりました。
そこで村人は集って相談しました。そして石は人々の目に止まらないようにと六尺ほどの穴の中に入れられました。それからは落馬する旅人もなくなりました。
とさ。

さて、「妙見寺」とは言うものの、その堂宇は神仏混淆の姿をそのまま残しています。


ところで。
史跡看板がある筈なのですが、どこを探しても見当たりません。

周辺をウロウロ歩き回ってみたら、ありました。
なんと、「妙見寺」山門から南へ200m、「引間」の交差点の角に、「日本三社之一 妙見尊」という石柱と一緒に建っているじゃありませんか。



ここなんですかねぇ。
うーん。


【史跡看板】

【妙見寺山門】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:13
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2019年11月10日

史跡看板散歩-162 冷水の小祝様

イオンモール高崎から北へ1kmほど行った所に、「冷水」(ひやみず)という信号があります。
その信号を西に入って240m、冷水のバス停を過ぎたすぐ先を南に曲がって100mほど行くと、「おぼりの森公園」があります。


その向かい側に道路下へ降りる所があって、遠くに史跡看板が建っているのが見えます。


きれいに刈られている下草を踏んで近くに寄ると、小さな石祠がポツンと置いてあります。

風化していてちょっと読みにくいのですが、石祠の左正面に「小祝神」、右前面に「妙見宮乳母神」と刻まれているようです。

史跡看板には、こう書かれています。


「金色の光を放つ亀」がいたという「小祝池」は、石祠前のこの池?



「花園星神記」によると、帝に献上した亀はその後「小祝池」に戻されたようです。
亀は忠明卿に帰し給ふ、忠明上刕(しゅう:州)へ下向して、元の小祝池へ帰し納めける。
是より此所を霊水(冷水)村と云ふ。」

天平元年(729)、「小祝池」に異変が起こります。
三月廿二日の夜、小祝の池鳴動いて光明を輝し、上天して北斗七星に入。忠明卿怪しみて其事を帝へ奏しけれバ、帝殿下を召して宣下ありけれバ、此儀を宣して斗うべしと。
依て殿下卜部司官家宜に命じて是を占せけれバ、家宜答えて云ふ様ハ、天津星の化して亀と成、又天上して本の七星に帰る所也。
是妙見尊像ハ亀ノ背ニ立せ給ふ、即妙見社堂ヲ建立すべき裏兆なりと。
依て殿下忠明卿の使者に其旨を命じければ、使者上毛に帰着し、忠明卿に其旨を報言す。
忠明卿聞し召、即妙見堂并(ならび)に七星山息災寺を建立有。」
そこから、「冷水の小祝様」「妙見様の乳母」だということで、石祠に「妙見宮乳母神」と刻まれているらしいです。

話に出てくる、「妙見」「花園」「冷水」という小字はこんな位置関係になります。


ところで、「小祝」をなぜ「おぼり」と読むのかは、こちらをご参照ください。 → ◇史跡看板散歩-80 小祝神社

「おぼりの森公園」隣に祀られている「大日堂」


鰐口は、紐に括り付けた石で叩くようです。


叩き過ぎたのか、落っことしたのか、鰐口の裏側は半分欠けちゃってます。


堂内の「大日如来」「お地蔵様」は、まだ新しいもののように見えます。


堂の外に建っているのが、元々の「大日如来」なんでしょうか。


「おぼりの森公園」も、なかなか素敵です。


公園の脇を流れる「染谷川」は、折からの台風の後で、激しく流れ下っていました。



平将門が来て戦になった時、死んだ人の血で真っ赤に染まったので、「染谷川」という名が付いたとか。(群馬町誌資料編4)
こわっ・・・。


【冷水の小祝様】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2019年11月03日

史跡看板散歩-161 甲州稲荷大明神と稚産霊神

金古の信号から高崎方面へ170m、岸とうふ店の前の小道を入ると、「甲州稲荷大明神」へ行けます。


背の高い宝篋印塔と墓石(?)の間を通ると広場があって、その向こうに赤い鳥居が並んでいるのが見えます。


ずらっと並んだ鳥居の先に、「甲州稲荷大明神」の赤い社殿があります。



史跡看板は、社殿の左手前に建っています。


誰が何故わざわざ甲州から稲荷神を勧請したのか、それは定かでないようです。

看板の後半に出てくる、「稚産霊神」(わくむすびのかみ)と刻まれた蚕霊供養塔は、社殿の右前に建っています。


日本書紀では、「稚産霊神」の父は火神・軻遇突智(カグツチ)、母は土神・埴山姫(ハニヤマヒメ)となっています。
古事記では、父は伊邪那岐命(イザナギ)、母は伊邪那美命(イザナミ)で、イザナミが火神・火之迦具土神(ヒノカグツチ)を産んだ時に陰部を焼かれ、苦しんだ時の尿から出現した神となっています。
いずれの話も、火、土、尿という、農業に欠かせない要素からなる神様で、食物の神・稲荷との共通性もあります。

「甲州稲荷大明神」の東隣に、「二十三夜堂」が建っています。


中を覗いてみると、かなり立派な彫り物が壁に掛けてあります。

昔のお堂の飾り彫刻か、山車か何かの飾りだったのか。

床には、「安産祈願」と書かれた行燈と、「如意輪観音」の石像が置いてあります。
ただ、二十三夜「勢至菩薩」のはずですが。
(二十三夜については、過去記事「さんや様」をご参照ください。)

と思ったら、「勢至菩薩」らしき木像も置いてありました。

土地によって、二十二夜が女性、二十三夜が男の月待講だと言いますから、このお堂はその両方に使われたのかも知れません。

「二十三夜堂」の右隣にもうひとつお堂があります。


中を覗くと、「薬師様」となっていました。

なぜか、みな、首がありません・・・。

それにしても、この広場、普通の公園とはちょっと違う雰囲気です。
入口の宝篋印塔や墓石のようなのもそうですし、こんな石造物も並んでいたりします。


Googl Earthを見てみると、プレハブの建物に「本光寺珠算教室」と名称が入っています。

どうやらここは、「本光寺」というお寺の跡みたいです。

「群馬町誌」に、こんな記載がありました。
金古字多家1252番地にある新義真言宗豊山派医王山本光寺は、奈良県長谷寺の直末であり、本尊は大日如来である。
『寺院明細帳』によれば、昭和十四年(1939)までは、三ツ寺村の石上寺末で無住寺であって、棟高村大乗寺の住職が兼務していたという。
『金古町誌』には、寛文年間(1661~72)の創立で、開山されたのは高崎城主の安藤対馬守時代という。
また一説には足門徳昌寺の隠居寺で字如来にあったものを現在地に移したともいわれている。当時、信徒170人と書かれている。(略)
山門前には、明和九年(1772)の宝篋印塔があるが、この中から経文が見つかったという。
藁葺きの大きな本堂は、昭和四十四年(1969)十月九日秋祭りの日に全焼、現在は区公民館が建てられ諸種の会議に使用されている。
境内の西側に二十三夜堂があり、勢至菩薩を祀っている。
この二十三夜堂は、戦前三国街道の東100mくらいの所にあったものを戦後この地に移した。」

残念ながら、「甲州稲荷大明神」についての記述はありませんでした。
でも、残すということは、後の人にいろいろなことを伝えてくれるものですね。


【甲州稲荷大明神と稚産霊神】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:21
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2019年10月27日

史跡看板散歩-160 金古中宿の道祖神

金古小学校の南側の角に、石造物がいくつか建っています。


一番右に建っているのが、「道祖神」です。



天孫降臨型双体道祖神は、鎌倉街道を辿っている時、和田多中町で出会ったことがあります。

 ◇鎌倉街道探訪記(12)

天孫降臨の神話に登場する「天鈿女命」(あめの・うずめのみこと)は、なかなかにセクシーです。


天孫「邇邇芸命」(ににぎのみこと)が天降る時、天の八衢(あめの・やちまた:道がいくつもに分かれている所)に立って一行を待ち受けていたのが、「猿田彦命」(さるたひこのみこと)。
身長七尺(2.1m)、鼻長七咫(ななあた:1m?)、目はホウズキのように赤く照り輝いていたと言うのですから、これは怖い。

そこでセクシーな天鈿女命を使わして、何者かを訊き出すことにした訳です。
きっと一行を追い返そうと待ち受けてたに違いない猿田彦はその色気にすっかり毒気を抜かれ、「天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来た。」などと、調子いいことを言う始末。

おそらく道案内の道中、猿田彦が口説いたのでしょう、二人は夫婦になったらしいです。
ところがその後、猿田彦比良夫貝(ひらふがい)に手を出して、挟まれて溺れ死んでしまったんだとか。
いやはや男というものは・・・。
(注:多分に迷道院の憶測が含まれております。)

ひとしきり写真を撮っていると、交通安全の腕章をした方がずっとこちらを見ているのに気が付きました。
道端に車を止めておいたので、てっきり叱られるのかなと思ったら・・・。
「これも珍しいと思うんだけど。」と、曲がり角の石を指さします。


「道しるべだよ。」
まったく気が付きませんでしたが、持っていた石筆でこすってみると、なるほど、文字が刻んであります。


珍しいことに、向かって前後左右の道案内が刻まれています。
  左 足門-上郊-長野
  右 箕輪縣道-前橋
  前 箕輪縣道-相馬
  後 三国縣道-東國分


時々こうやって、土地の人に教えられることがあります。
ありがとうございます。


【金古中宿の道祖神】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:10
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2019年10月20日

史跡看板散歩番外編 春の夜嵐お地蔵様

八坂神社石宮の近くにある「常仙寺」は、迷道院にとって思い出深いお寺です。

特にその参道には、興味深いものがたくさんありました。
中でも一番好奇心をそそられたのが、このお地蔵様です。


香炉の台石には、「春の夜嵐 發行紀念」と刻まれています。


ぜひ、このお地蔵さまにまつわる、悲しくも感動的な物語りをお読みください。
ちょっと長い話になりますが。→◇春の夜嵐 昭和のおふさ


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2019年10月13日

史跡看板散歩-159 土俵の八坂神社石宮

金古の信号の30mほど北に「八坂神社の石宮」があります。



なかなか立派な彫り物の石宮です。


昭和四十八年(1973)に、お金を出し合って修理をしているようです。


9年前、ここも記事にしていますので、ご覧ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(16)

なお、その記事中、「諸業高名録を発行した金古宿の医薬業者・天田倉蔵」という人が出てきますが、そのご子孫のお宅が今も金古町にあります。


もっと言ってしまえば、この家の築地塀は、旧高崎城の築地塀を移築したものです。
  ◇三国街道 めぐり会い

三国街道金古宿、けっこう面白いところです。


【土俵の八坂神社石宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:20
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2019年10月06日

史跡看板散歩-158 土俵の庚申塔

三国街道を横切る「牛池川」に沿って東へ下った所に、「庚申塔」とその史跡看板がある・・・はずでした。


痕跡はあるのですが・・・。


道祖神のカップルだけが、不安気な面持ちで手を握り合い、肩寄せ合って佇んでいます。


すぐ近くで史跡の発掘調査をしていたので、聞いてみました。
「そこに、庚申塔がありませんでしたか?」
「あー、ここ、道路ができるんで、先週移動してたよ。」


聞くと、近くの「土俵住民センター」の所にあるというので、行ってみたらありました。

が、あったのは4基だけで、しかも肝心の「庚申塔」がありません。
痕跡の方は7つあったので、3つ足りません。
その3つの中に「庚申塔」があったはずです。

もう一度、発掘現場へ戻って聞いてみました。
「他にもなかったですかね。」
「うーん、よく分かんないけど、ここの土地の所有者があそこん家だから、知ってるんじゃないかな。」

と言うので、行ってみました。

「庚申塔が建ってた土地が、こちらの所有地だということでしたので・・・。」
「昔、道路ができる時に、あちこちにあったのを、ウチの土地を提供してそこへ並べたんだけど、また新しい道路ができるんで移したんだよ。」
「庚申塔があったと思うんですけど。」
「あー、捨てたんじゃないかな。区長さんなら知ってると思うけど。」

えっ!捨てちゃったの?

で、教えて頂いた区長さんの家を訪ねましたが、あいにくお留守です。
帰ってきた頃を見計らってお電話することにして、いったん引き上げてきました。

もしやと思い、家でストリートビューを見てみると、おー、写ってるじゃありませんか!
中央に写ってるのが「庚申塔」でしょう。

ははぁ、一つだけ残ってた「双体道祖神」は一番手前にあったんですね。
そうか、それで橋の名前が「どうそじんはし」(道祖神橋)なんだ。

きっと、この「双体道祖神」は昔からこの場所に建っていたんでしょうね。
だから、住民センターの方に移さなかったんだ。

その日の夕方、区長さんにお電話してお聞きしたところ、
「移設した4基は毎年この地区でお祭りをしてるんで移設して残した。庚申塔二基と石灯籠一基は、引き取り手がなかったので、やむなく廃棄したんです。」
ということでした。
「史跡看板も建っていたと思うんですが。」と言うと、
「それも一緒に廃棄しました。」とのことです。

「じゃ、どんなことが看板に書いてあったかは、分からないですよね。」と言うと、
「いや、申請した時の原稿が残ってますよ。」と言います。
ありがたいことに、写真と一緒にメールで送って下さるとも仰ってくれました。

ということで、これが送って頂いた「庚申塔」の写真です。


史跡看板の文言はこうです。
正徳と文化の庚申塔
当地には、庚申塔や多数の石宮が祭られています。
この石造物は土俵区内各所から集めたもので、この中で特に貴重なものは二基の庚申塔です。
一基は、正面に「庚申供養塔」と刻し、台座に三匹の猿(見ざる聞かざる言わざる)を浮彫りにした立派なもので、右側の面には正徳三年(1713)巳之天開五月吉日、當村施主五拾七人と建立の年代を刻しています。
他の一基は、自然石を台座と竿石として組立てたもので、竿石の正面に「庚申塔」と刻し、判読できないが筆者名を刻しています。
右側の側面に文化八年(1811)辛未天孟春吉日と刻しています。
二基の庚申塔は、金古宿の歴史を語る貴重な文化財です。

その貴重な文化財が廃棄されてしまったとは、何とも残念なことです。

区長さんのお話によると、庚申塔二基と石灯籠は、元々近くの常仙寺の参道にあったものだそうです。
その参道を市道にする時、道を広げたので置けなくなって移設したと。
今回、常仙寺にも打診し、土俵地区の人たち全員を集めて相談もしたが、引き取り手はなかった。
ついに、その集会で廃棄することに決めたとのことでした。
地区の人たちの無念さが、ひしひしと伝わってくるようなお話でした。

それにしても、残念な結果です。
高崎市として何か成す術はなかったのでしょうか。

うーん・・・。


【土俵の庚申塔があった場所】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2019年09月29日

史跡看板散歩-157 神保雪居の碑

前回の「行人塚と大ケヤキ」から南へ150mほどの所に、大きな「神保雪居翁壽碑銘」が建っています。



9年前に来た時には、神保雪居って有名な人らしいけど、特に興味も湧かずスルーしていました。
今も、それほど興味は湧かないのですが、安中文瑛に漢学を教わったということで、多少親しみが持てました。
神保雪居の書と画↓


「神保雪居翁壽碑銘」というこの石碑も、何が書いてあるのやらさっぱりで。
どうしても知りたいという人は、濱口富士雄氏著「群馬の漢文碑」を読んで下さい。


それよりも迷道院が気になったのは、「神保雪居碑」の斜め前にある、この捻じれた塀の方です。


「金古宿の代官所跡」、同じ神保姓です。
旧群馬町の重要文化財のはずなんですが、この有様です。




9年前に来た時も、心配な状況ではありましたが、今から見ればまだ良い状態でした。
その時のブログ記事をご覧ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(20)

これ、いったいどうするんでしょう?
高崎市には文化財保護課という部署があるんですが、この文化財は保護してくれないのかなぁ。

うーん・・・。


【神保雪居の碑】

【金古宿代官所跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2019年09月22日

史跡看板散歩-156 金古町の行人塚と大ケヤキ

旧群馬町、金古町上宿の信号の角に、大きなケヤキの木が立っています。


その根方に史跡看板が建っています。



これが、「真岩常正居士」(しんがん・じょうせい・こじ)の宝篋印塔です。


9年前、旧三国街道を辿って記事を書いてて、ここがシリーズの最終地点だったんですが、あるはずの宝篋印塔が無くなってて、えらいびっくりしたことを憶えてます。
(9年前の写真↓)


その顛末は、過去記事でどうぞ。
 ◇旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)

ということで、近くの石材店さんで修復中だった訳なんですが、その8か月後、石材店さんから記事にコメントを頂戴してびっくりしました。


そしてその5年後、今度は施主様からコメントを頂き、二度びっくりです。


コメント中にある「記念碑」が、これでしょうか。


このブログをやってて本当に良かったと思える、隠居の思い出の地でした。


【金古町の行人塚と大ケヤキ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:24
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2019年09月15日

史跡看板散歩-155 中新田の秋葉様と石神群

生原の信号から西へ300mほど、箕郷東小学校入口の信号を南へ入ります。


50mほど行くと、右側の一段高い所に石碑がいくつも建っているのが見えます。


史跡看板は、その先。



ま、いろんなのが建ってまして。


これが珍しいな、と思ったんですが。

何だかよく分かりません。
偏平足さんのブログによると、「水雨天」「吹風天」秋葉山十二天の中の神様で、仏教の「水天」「風天」と同じだそうです。

「水天」(すいてん)は、
仏教における天部の一人で、須弥山の西に住んでいるとされる。十二天の一である。
水の神であり、竜を支配するとされる。もともとはインド=イランの古いアスラ族のヴァルナである。 諸ヴェーダにおいて、ヴァルナは重要な位置に置かれ、天空神・司法神(=契約と正義の神)・水神などの属性をもたされた。
東方ではブラフマン(梵天)に始源神としての地位を奪われており、さらに後には死者を裁くヤマ神に司法神としての地位を奪われ、水神としての属性のみが残った。
仏教に取り入れられた頃は、仏教における十二天の一つ、西方を守護する「水天」となった。」(Wikipedia)

「風天」(ふうてん)は、
十二天の一。もとインドの福徳・子孫・長生をもたらす神。のち仏教の守護神となり、西北を守る。
胎蔵界曼荼羅では赤色の身体に白鬚で、冠と甲冑をつけた老人の姿をとる。」(大辞林)

ということなんですが、それと「蚕神」との関係、「船入」(入船?)とは何か・・・、どうもよく分かりません。
隠居の思いつきですが、「農家にとって、雨も水も吹く風も、無ければ困るし過ぎても困る。お蚕さんもお天気次第。宝船に乗った神様が入って来ますように。」ってことなのかなぁ。

現場からは以上なんですが、前回同様なんか物足りません。
周辺を少しほっつき歩いてみました。

石神群から南へ350mほど行った四つ辻の手前に、何だか面白い形をした石碑が建っています。


向こう側へ回ってみると、「痘瘡輕安 守護神」と彫られています。


「痘瘡」(とうそう)というのは「天然痘」のこと、「輕(軽)安」(きょうあん)は「軽やかに安らぐ」ことですから、疫病が村に入って来るのを防ぐ道祖神賽の神のようなものなのでしょう。

その碑背を見て、ちょっとびっくりしました。

「瑾亭道人書」とあります。
おそらく、あの「瑾亭先生」こと安中文瑛の書なんでしょう。
 ◇史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
 ◇史跡看板散歩-番外編 関叟庵
いやー、ここでお目に掛かれるとは。
安政五年(1858)の建立、名医・瑾亭先生らしい書ですね。

その四つ辻の足元に、道しるべがありました。

風化して読めない文字もあるのですが、「左生原経しぶ川榛名山道」かな?
その反対側は、「左保渡田経長野六郷高崎」になってます。

さて、箕郷町の史跡看板はこれで巡り終わったようです。
次回からは、旧群馬町の方へ行ってみたいと思います。


【中新田の秋葉様と石神群】

【痘瘡軽安守護神碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:10
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