2009年01月26日

観音様の「足あと」

高崎市民に「観音様」と言えば、おそらく全員が観音山「白衣大観音」のお姿を思い浮かべるに違いない。

それほど市民に親しまれ、誇りに思われている「観音様」だが、その実物大(たぶん)の「足あと」を見たことがある人は、もしかすると少ないかも知れない。

その「足あと」は、観音山頂上駐車場の地面に残って(?)いる。

写真の人物と比べると大きさが分かると思うが、大きい故に気が付かない人も多いのではないだろうか。
駐車場の隅にある、観光センターの2階展望台に上るとよく分かる。
誰のアイデアか知らないが、洒落たことをしたものだ。

展望台には、「観音様」建設の様子を描いた、パネルが掲示されている。

何もない山の頂上を、人力で切り開いている様子が分かる。

この頃(昭和10年前後)、一反(300坪)30円でも買い手が無い山林だったそうだ。
ところが、「観音様」が建つという噂で、いっぺんに100円に跳ね上がったという。
職人の日当が、約1円だった時代だ。
参道になる予定の山林は、高崎市街地並みの値段になったというから、
古今東西、恐ろしきは人間の強欲である。


工事は、人手とローテクな道具だけで行われたようであるが、それでいて建設期間は3年だというから驚きだ。

まるで、エジプトのピラミッドを作っているような雰囲気である。


右の絵を見ても、昔の職人さんたちが如何に優れた身のこなしをしていたか、うかがい知ることができる。

この足場で、安全帯を着けるでもなく、天秤棒で重いセメントを担ぎあげ、今なら労働基準監督署が黙ってはいないだろう。

「観音様」は、そうやって昭和11年(1936年)に開眼した。

「観音様」建設にまつわる秘話を、元井上工業の番頭さんと言ってもよい横田忠一郎氏が、「高崎白衣観音のしおり」に書き残してくれている。
次回から、少しづつご紹介していこう。

(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣観音のしおり」)



  


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2009年01月27日

「観音さま」を建てた人

今、「観音さま」を建てた人が誰か知っている人は、ある程度のご年配かも知れない。

「高崎白衣大観音」は、120年の歴史を持つ高崎の名門企業、「井上工業(株)」の創業者、井上保三郎氏が私財を投じて建てたものである。

保三郎氏の銅像は、「観音さま」の足元で高崎の町を見下ろし、一緒に町の発展を願っているように見える。

保三郎氏が、あのように大きな「観音さま」を建てようと思い至るには、いくつかの理由があったようである。

その一つは、高崎観光で栄えさせようという構想である。
「高崎は交通都市で各線が集中する。
市の西方には、なだらかな南北に長く横たわる丘陵が、汽車の窓からよく見える。
この山上に大きなものを建てれば、「何であろう!」と、高崎を通過する旅客の眼を引く。
この自然の地形を利用すべきである。」

と、考えたようだ。

二つ目は、高崎歩兵第15連隊戦没者の慰霊供養である。

高崎第15連隊の兵士は、日露戦争の旅順攻撃に於いて、多大な犠牲者を出している。

山頂駐車場には、その慰霊の塔が建てられている。
昔は「忠霊塔」と呼んでいたが、今は「平和塔」という名前に改められている。

三つ目の理由が、国民思想の善導であった。

保三郎氏は、大観音建立の翌年、日露戦争で軍神と崇められた乃木希典大将の銅像を、観音山に建てている。

当時の日本人の、精神的退廃を憂いていたのであろう。
日本人の精神的基軸として、武士道精神の鑑ともいえる乃木大将の銅像を建てることで、人々への啓蒙を図ったのかも知れない。


乃木大将の銅像は、山頂駐車場から「観音さま」へ向かう参道の右、小高い所に建っていたが、戦時中の「物資供出」により再び戦地へ旅立った。
皮肉と言えば、皮肉な話である。

今、乃木大将に代わってそこに建っているのは、高崎の篤志実業家、田村今朝吉氏の銅像である。

井上工業(株)は昨年破産し、120年の歴史に幕を降ろした。
一方、高崎の町は、さしたる哲学も持たぬまま、再開発という名のもとに、歴史遺産の破壊を続けている。

山頂に立つ「観音さま」「保三郎翁」は、どんな気持ちでそれを見ているのであろう。

(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)

  


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2009年01月28日

観音さまを産んだ「観水園」

竜見町の高台にあったという
「観水園」は、白衣大観音を建立した井上保三郎氏が晩年を過ごした井上家別邸である。

眼下に烏川を望み、その向こうには観音山丘陵が横たわる。

保三郎氏は、ここ「観水園」で観音山一帯を大公園にして、商工業都市高崎を、観光文化都市としてさらに発展させるという、壮大な計画を練り上げていた。
昭和8年(1933年)保三郎氏65歳の時には、同志を募って「観音山公園保勝会設立趣旨書」をまとめ、高崎市に働きかけを始めている。

だが、この時点ではまだ「大観音像」を建てるという構想は持っていなかったようだ。
趣旨書の標題にある「観音」とは、石段上の清水寺観音堂を指していると思われる。

保三郎氏は、「何か大きな物」を山上に建てようと思ったものの、何にするか決めかねたのか、東京帝国大学農学部の原熙教授に相談している。
教授からは、五重の塔三重の塔がいいだろうと言われたそうだが、結局、保三郎氏が子どもの頃から信仰してきた「観音さま」に決めたという。

おそらく、単なる「大きな物」ではなく、「観音さま」の慈悲による衆生の救済と、度重なる事変(戦争)から平和な世になることを願ってのことだろうと推察する。

白衣大観音の開眼が済んだ2年後、保三郎氏は「観水園」で、70年の生涯を閉じた。
保三郎氏が描いた壮大な「観音山大公園」計画は志半ば、未完のままとなっている。

井上家では、「観水園」を修復し、記念館として末永く保存したいという意向を持っていたようだが、その思いも虚しく売却されて、今はモダンな家が建っている。
高崎市として何とかならなかったものかと、実に残念な思いである。
わずかに、当時を偲ばせる建造物が近くに残っていることが、せめてもの救いである。

しかし、これとて、いつまで残してもらえるか・・・。


路傍のお地蔵様に、ただただお願いするばかりである。



(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)

  


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2009年01月30日

「観音さま」の縁結び

「観音さま」への参道の坂を上って「たいこ橋」をくぐると、右手に石段がある。
その石段の左に、「白衣大観音」の原型をデザインした森村酉三氏の名前を刻んだ石碑がある。

森村氏は伊勢崎市出身の彫刻家であり、井上保三郎氏の依頼に対し、郷土のためならと快く引き受けてくれたという。
当時、東京池袋にアトリエを構えていた森村氏は、観音菩薩に関する故事来歴などを研究し、環境に相応しいものをと、何回も現場を視察して、百分の一の原型を完成させたそうだ。

高崎生まれの身びいきかも知れないが、高崎「観音さま」のお顔は、他の地の巨大観音に比べて断然美しいと思う。

森村氏はそのお顔について、「天平の如意輪観音から素材をとっているが、明治、大正、昭和の美人の顔がそれぞれ織り込んである」と語っていたそうだ。

特に、参詣者と「観音さま」の目が見つめ合うような角度にすることに、大変苦労したとも聞く。

この原型を、池袋のアトリエから日本橋の井上工業東京支店まで、布団に包み自転車の後ろにくくりつけて運んだのが、後の総理大臣田中角栄氏だったというのは、有名な逸話である。

グンブロ仲間の昭和24歳さんの記事「哲学堂が泣いている」の中でも触れられていたが、田中元首相は新潟の高等小学校を卒業後、裸一貫で上京し、井上工業東京支店に住込みで働いていた。

田中元首相は、親の家産が傾いたために、極貧の幼少時代を過ごしたようである。
井上工業創始者の井上保三郎氏もまた、親が「高崎御伝馬事件」で入牢したことにより、苦境の中で幼少期を送っている。
そのような共通する体験が関係していたかどうか定かではないが、二人を結びつける何かのを感じてしまう。

井上工業勤務時代の田中元首相は、働きながら神田の中央工学校土木科に通っていた。
「高崎白衣観音のしおり」の著者・横田忠一郎氏は、当時のことをこう語っている。
「たまたま(井上工業)高崎本社から東京支店に出張していた横田が、事務所で仕事の打合せをしていた時のことであった。
暗くなって工事現場から帰ると早々に、夕飯を噛み噛み、数冊の本を小脇に抱えて『只今から夜学に行ってまいります。』という一青年に出会った。
いまどきの若い者にしては感心なものだと、独りうなづいていたが、この青年が将来の日本を背負う総理大臣になるとは、夢にも思ってみなかった。」


「観音さま」の後背に回ると、石段の上に「光音堂」という、「聖観世音菩薩」を本尊とする小さなお堂がある。

別名「一願観音」ともいい、願いをひとつだけ叶えてくれるそうである。
とくに縁結びにはご利益が高いということだ。

「観音さま」建立という大きな事業を成し遂げたのも、人と人との結び付き、ご縁のおかげであろう。

ありがたや、ありがたや。


(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)
  


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2009年01月31日

「観音さま」入魂秘話

「観音さま」は、「慈眼院」の前仏となっているので、慈眼院が先にあったのではないかと思われるかも知れない。

実は、「観音さま」が先に建立され、慈眼院は後に大変な紆余曲折を経て、和歌山の高野山から移ってくるのである。

「慈眼院」の山号は、「高野山別格本山」となっている。

昭和11年10月20日、「白衣大観音」の開眼法要が行われた際、真言宗総本山の高岡隆心大僧正から、
「観音さまという立派な尊像ができたのに、肝心なお寺が無い。
これでは、観音さまが単なる見世物になってしまうかもしれない。」

と進言されたという。

もともと井上保三郎氏は、大観音完成後に外苑と大公園をつくる計画を持っており、15,000坪の土地を買収している。
ここに、数千株の桜、桃、楓、つつじ、蘇鉄を植え、一大伽藍を建立する構想を持っており、プロデューサー(人形師?)の黒川明玉氏に三重の塔建設の計画と見積りを依頼していたという。
残念ながら、「観音さま」建立の2年後、保三郎氏が急逝したため、工事半ばにして中断してしまった。
その場所は、後に「高崎フェアリーランド」「カッパピア」となった。

高岡大僧正の進言を受けた保三郎氏は、「観音さま」に歴史と重みを持たせる上からも、由緒ある寺を移転したいと考え、高野山の橋爪良全師に懇請した。
しかし、当時、寺院の県外移転は法律で制限されており、困難を極めたようだ。

やっと、高野山麓にある名刹「勝利寺」の移転がほぼ決定し、移転計画まで立てられたにも拘らず、和歌山県の許可を得られず頓挫した。

それでも諦めずに、高野山上の「自性院」、さらには「赤松院」と交渉をつづけるものの、条件不調のため実現には至らなかった。
その間、保三郎氏は、当初の計画通り買収地の造成を進め、「観音さま」高崎市への寄付手続きを申請している。
だがその直後、病魔に冒され、ついに堂塔建立を見ぬまま、保三郎氏は永眠した。

その後も橋爪良全師らの尽力が続き、高野山から「慈眼院」を移転することが正式に決まったのは、昭和14年、保三郎氏没後1年が経っていた。
「慈眼院」が高野山別格本山として完全移転し、「観音さま」に魂が入ったのは、さらに2年後の昭和16年であった。

   保三郎氏の哲学、先見性、
       高崎市発展への情熱に、
            改めて敬意を表したい。


(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)
  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
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2009年02月01日

「観音さま」と、お金の話

「高崎白衣観音」は、井上保三郎氏が私財を投じて建立し、高崎市に寄付をしたというのは、よく知られている話である。

だが、「観音さま」にまつわるお金については、最後まで大変な苦労があったようだ。
まず、建設予定地の地価が俄かに高騰したという話は、「観音さまの足あと」に書いた通りである。

予定地買収で一番手こずったのは、肝心要の真ん中の土地を持つ地権者が、「先祖から受け継いだ大事な山を、井上の観音さまのために手放すことはできない。」と、頑として首を縦に振らなかったことだという。
それでも諦めずに、朝に晩に説得してやっと売る気になってくれたが、条件は「金じゃダメだ。高崎板紙会社(保三郎氏経営)の株と交換すべえ。」ということであった。
当時、2割配当を持続していたという優良株であり、まとまった売り株が無かったので、保三郎氏の所有株をもって充当したそうである。

次に保三郎氏の心を痛めさせたのが、世間の噂であった。
「さすが井上さんだ。観音さまをダシにして、金儲けをしようてんだからね!」
当時、大人10銭の胎内拝観料のことを言っているのである。
もとより、私腹を肥やす目的など持たない保三郎氏は、わざわざ人を雇って、毎日、拝観料を銀行に預け入れさせ、1銭たりとも他に流用のないことを明らかにしたという。

「観音さま」の開眼法要から2年後の昭和13年(1938年)、保三郎氏は「観音さま」と1万5千坪の土地と一緒に、約2年間の拝観料、そしてお賽銭のあがり全てを高崎市に寄付した。
当時、「観音さま」の建造費は約16万円、拝観料とお賽銭が約3千5百円ということである。
現在の拝観料が大人300円ということから単純計算すると、今なら約4億9千万円位になるであろうか。

晩年の保三郎氏が好んで揮毫した言葉がある。
「只是一誠」(ただこれいっせい)

  政治家、企業経営者など人の上に立つ人は勿論、
            我々一人ひとりが心すべき言葉である。


(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)
  


Posted by 迷道院高崎at 14:12
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2009年02月03日

「観音さま」と相続税

井上工業(株)創業者・井上保三郎氏が別宅「観水園」において他界したのは、氏が建立した「高崎白衣観音」開眼の2年後、昭和13年であった。

その葬儀の花環・供物類は、八島町の居宅玄関前から門前は勿論、近隣の高崎営林署や高崎税務署前、南小学校正門および西側の通りまで並べられ、しまいには小学校校庭まで借用して飾られたと言われる。

葬儀は新後閑町(しごかまち)の荘厳寺(しょうごんじ)で行われたが、参列者の行列は居宅から寺まで続いたとも言われている。
それまで、さほど豊かとは言えなかった荘厳寺が、保三郎氏の葬儀により、一躍立派な寺に昇格し、お寺仲間から羨望の的となったというから、保三郎氏の影響力は死してなお大きなものがある。

さて、予期せぬ保三郎氏の急逝により困ったことが持ち上がった。
他界する10か月前に、高崎市「観音さま」の寄付申請をしていたのだが、高崎市議会の正式採納手続きが未了となっていた。
高崎税務署はそれを理由に、「観音さま」を井上家の相続税課税対象とすると言って譲ろうとしなかったそうである。
もし課税対象となれば、総工費の7割を税金として納めなければならなくなる。

私心なき保三郎氏の精神を、当時の市長など地元有力者が再三税務署に説明し、課税免除の陳情をしたが、一向に埒があかなかったようだ。
交渉は延々と続き、その間、税務署長は3人目、直税課長は2人目になっていた。
ついに納税の時効5年が近づいた年末、税務署から出頭命令があった。

井上工業の税務担当をしていた横田忠一郎氏が出頭し、「相続税は免除になるのでしょうか。」と聞くと、署長は「冗談は困るよ。こんな大物を逃がせば、我々は早速首だよ。」と言ったそうである。
当時とすれば、巨額な税収の有無を左右する重大な判断であったろう。

横田氏著「高崎白衣観音のしおり」には、その時のやり取りが記されている。(一部修正)
署長:「横田君も井上さんから遺産をもらったと、世間ではもっぱらの評判だよ。何をもらったのか早く言い給え。株券か、それとも銀行預金か。」
横田:「はい、沢山もらったので、簡単にはお答えできません。」
署長:(鉛筆と紙を手にして)「早く言い給え。」
横田:「私は、井上翁の腰巾着のように満18年間、温かい指導と薫陶を頂きました。翁の数々の教訓は、目に見えぬ大きな、しかも貴重な遺産をもらったと、今になってしみじみ感謝しています。」
署長:(膝を叩いて)「そうか、そうか、よく分かったよ。」

実に格好いい話であるが、おそらく税務署長も既に保三郎氏の奇特な心を理解し、腹の中では結論を出していたのであろう。
これで、やっと「観音さま」は相続税の対象から外されることになった。
すべて、保三郎氏の「只是一誠」の行いと願いを、「観音さま」が見ておられた結果であろう。

井上家の相続税については、まだこんな話もある。
税務署長保三郎氏の居宅を確認しに来た時、建物の外回りを見せた後、中を案内しようとすると、「もうこれでよい。よく分かった。」と早々に引き揚げて行ったという。
後で聞くと、「井上さんの住まいだから、檜御殿の立派なものだと期待して行ったら、ずいぶん粗末なものだね。」と言ったそうだ。

保三郎氏の居宅は、むかし宇都宮第14師団の請負工事を施工した時の古材で建てたものだという。

横田氏は「翁は、公共のためなら惜しげもなく多額の寄付もするが、日常の私生活は誠に質素なもので、決して贅沢はしません。」と語っている。

保三郎氏の居宅は昭和27年(1952年)火災で焼失し、長男の房一郎氏が建て替えて居宅としていたのが、現在の「高崎哲学堂」の建物である。

(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)

【荘厳寺(井上保三郎氏墓所)】


【高崎哲学堂】
  


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2009年02月06日

知られざる「観音山振興プラン」

昭和55年(1980年)に、高崎観光協会が発行した「高崎市観音山観光診断に基づく提案レポート」というのがある。

どのくらいの人の目に触れたか分からないが、結構いいところを突いたレポートなのである。
このレポートで提案されていることを、もしも真面目に推進していたならば、今と全く異なる観光地になっていたのではないかと思われる。
また、このレポートで提案されていることは、高崎市全体の都市計画としても、実に多くの示唆を含んでいる。

何回かに分けて、その内容をご紹介しようと思う。

このレポートのために、商業文化研究所に「観光診断」を依頼した人物は、(社)高崎観光協会会長の沼賀健次氏である。

おそらく、昭和46年から62年まで高崎市長を務めた沼賀健次氏が会長を兼務していたのであろう。
豪放磊落な市長として、有名であった。

「観光診断」は、昭和54年8月から5ヶ月間にわたって、調査・分析が行われている。
その報告書は80頁にも及ぶもので、大量かつ多方面にわたるデータをもとに、29年後の現在においても新鮮で、奥の深い提案がされている。

今日は、レポートのまとめとなる部分から、共感するところを抜き出してみた。

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「観光開発の基本はここにある」

地域が「観光」について論する場合、決して忘れてはならぬ課題があるので、それを述べておきたい。

それは、世界的にみても日本においても、優れた「観光地」というのは、自然が美しいとか、施設が良いということだけではない、ということなのである。

もちろん、これらも大切な問題には違いないが、しかし、自然は決して地域住民や企業努力、行政努力によってつくられたものではなく、敢えて言うならば天からの恵みである。
また、施設も良いものにこしたことはないが、これは「物」でしかない。

人々が「観光」に求めているものは、そうした天の恵みや人工的ハードウェアではなく、
 ・未知の人々とのふれあいであり
 ・そのふれあいをベースにした、様々な体験であり
 ・新たな体験を通して得られる感動

であると思う。

見かけだけの豪華さ、美しい自然とは似ても似付かぬスレッカラシのサービス、全国どこ行っても同じありふれた土産品や料理、先進地に学ぶと言えば聞こえは良いが、そのまま引き写したようなイミテーション施設etc・・・これでは感動どころか、訪れて腹立たしさを感じざるを得まい。

高崎は歴史的にも古く、近世江戸時代も有名な都市であり、それだけに、
この伝統文化をベースにさらに高揚し発展させ、ときには、
近代化という名の俗悪化によって見失われた伝統を再発掘し、
わが故郷の素晴らしさを、訪れる人々に誇りをもって堂々と示し、体験させる。

この努力を行うべきであると考える。

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いかがであろうか。29年前の提案である。
今現在、目にする高崎の町の様子は、まるで反対の動きをしているように見える。

次回以降、レポートの具体的な提案をご紹介していくこととする。  


Posted by 迷道院高崎at 10:42
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2009年02月07日

知られざる「観音山振興プラン」その2

前回に続き、昭和55年(1980年)に高崎観光協会から発行された「高崎市観音山観光診断に基づく提案レポート」の話である。

レポートでは、「観光資源の有機的な結びつけ」ということについて、次のように述べている。

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「観光」は一方では人間の労働の再生産の場として求められるとともに、他の一方では、意外に正しく理解されていないことであるが、地域経済に貴重なプラスを与える「重要産業」である。
とすれば、この観音山を中心とした資源をいかに活かすかは、将来の高崎市にとって、極めて重要な課題であると考えるのである。

加えて、地域内の観光要素もまったく有機的に関連付けられていない部分も多く、この再発見や、開発が強く求められると考えるのである。

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その観点から、次のような「観光コース」の整備を提案している。

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「寺社を結ぶ信仰、縁起コース」
山名八幡宮、白衣観音、清水寺、少林山等を結んだ新しい「観音山札所巡り」や、「七福神巡り」的な(略)コースをつくり、アピールすべきではなかろうか。

(迷道院)自然遊歩道(石碑の路)を、巡礼姿で踏破するというコースもよいかも知れない。

レポートの中では、
 ・石碑の路での拓本体験
 ・慈眼院での写経体験
 ・少林山での座禅体験

などと組み合わせてはどうかという提案もされている。


「観光農園・果樹園コース」
国立コロニーの南西部背面から鼻高地区にかけて広がる高原的斜面は、山名から白衣観音、少林山達磨寺を結ぶ状態の良い車の道路があり、これに沿って、農園、山林、農村が散在している。
(略)管理棟、および休憩施設等を整え、もっと名物化すべきであろう。


(迷道院)鼻高には「長坂牧場」もある。今、ちょっとしたブームになっている滞在型農園としても、素晴らしい環境を持っているのではないだろうか。

「味の観光コース」
少林山達磨寺は、白衣観音と並んでこの地域の最大の観光要素の一つである。
特に圧巻なのは「黄檗普茶料理」である。
山名八幡、清水寺、慈眼院等においても、このぐらい価値ある「味の観光」を創造していただきたいと考えるのである。


(迷道院)残念ながら、少林山の普茶料理は現在休業中とのことであるが、地元の安心食材を使った料理、豊富な山菜・野草の料理など、今こそ観光客の求めているものではないだろうか。

「遺跡、史跡めぐりコース」
高崎周辺もまた、(略)縄文・弥生時代の遺跡・古墳がきわめて多い地域である。
これは、そのままでは単なる考古学的資料としての存在であるが、観光ソフトウェアの開発次第で有力な文化観光要素たり得るのである。


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実は、高崎市のHPでは、このような視点での「高崎めぐり」というコンテンツを既に設けているのである。

ただ、惜しむらくは、これが単なる「ご案内」に留まっているところだ。
高崎への観光リピーターを惹きつけるには、もう一歩の工夫が欲しい。

たとえば、これらのコースを「スタンプラリーコース」として設計し、ちょうど人々が「百名山」「札所巡り」に数年かけて挑戦するように、各コースの観光ポイントを制覇した暁には高崎の名産品を贈呈するというような企画にすれば、もっと観光リピーターの来高が期待できるのではないだろうか。

現在は「点」でしかない観光スポットを、「線」で結ぶということは、個々の施設ではなかなか難しかろう。
ここにこそ、行政の力が期待されるのである。
もちろん、市民の力も結集しなければならない。

さて、次回は「観音山の宿泊観光化」の提案について、ご紹介しよう。
  


Posted by 迷道院高崎at 10:33
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2009年02月09日

知られざる「観音山振興プラン」その3

29年前の「高崎市観音山観光診断に基づく提案レポート」の話、第三話。

レポートでは、観音山観光客数減少についてこのように指摘している。

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本来、観音像というものは、信仰の対象であって、物見遊山の対象物ではないのかも知れぬ。
しかし、もし、この白衣観音像を仮に物見遊山の対象物とすれば、そろそろ過去のものになってきたがゆえに、客数減少を見せているといえるかもしれぬ。

もっと極端な表現をするならば、そのスケールの大きさについても、現代人にはさほど驚異的なものではないし、頂上からの鳥瞰にしてもこれまた高層ビルや飛行機が一般化している今、それほど珍しいものではない。

それゆえ、訪れた人々には驚きも何も感じずに、むしろ「な~んだ、この程度のものか」的な感じを抱いて戻っていくのではないかと考えるのである。
いわば、「もう一度訪れてみよう」というリピーターが、ほとんど期待できぬということになる訳である。
これは、「観光要素」としてはまことに致命的なものである。

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(団体バスで訪れ20~30分で参拝して帰るという、物見遊山の対象から脱皮させるために、レポートでは「宿泊観光地化」の提案をしている。)

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今のところ、慈眼院一路堂白衣観音像は別々の存在にしか訪れる人々は感じまい。

やはり、観音像を参拝した後、慈眼院を訪れ本尊観音像に祈りをささげ、そして一路堂で馬場一路居士の遺墨に触れ、その庭園のたたづまいの中に憩う、その体験は感激的であるという環境づくりを行うべきであろう。


(上に出てくる「一路堂」をご存知ない方も多いかも知れない。
それもそのはずで、今は一般に開放されていない。馬場一路遺墨の展示もされていないと聞く。
入口の門は、ことによると目にしているかもしれない。
井上保三郎氏銅像に向かって左にある木戸がそうである。
「一路堂」はこの木戸を潜って中に入り、石段を降りたところにあるが、この木戸も今は鍵が掛かっていて入れない。
残念である。)

さらに、房(慈眼院)に一泊し、周辺の土産店街を散策し一夜を送る、というコースづくりも決して夢ではあるまい。
その時観音山から眺めた高崎の夜景、ここに山頂よりの景観が初めて「観光要素」として生きてくるのではあるまいか。

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(さらに、「宿泊観光地化」のツールとして「民宿」の経営を提案している。)

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土産店の内の何店かが、「民宿」的宿泊を行わせ得る可能性もあると考える。

「民宿」は時には、観光旅館以上の魅力を観光者に与え得ると思う。
いわば、旅館やホテルにありがちなまことに味気ない、時には慣れ過ぎた応対ではなく、素朴な人と人との触れ合い、語り合いが行われるところに、多くの人々を惹きつける魅力があるのである。

もし、観音山がこうした意味での素朴な民宿地帯になり得たら、そして団体バスの運んでくる瞬間的滞在客依存から脱皮し得たら、その効果は計りしれぬものがあろう。

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(そして、「民宿」化成功のアイデアを、なんと140項目も挙げているのである。
2、3拾ってみよう。)

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 ・民宿村入口に、村長の歓迎の言葉を掲示する。
 ・一年ごとに、有名人・文化人を民宿村村長に推薦し、ニュース価値を高める。
 ・交通機関として、馬または馬車などを起用し、民宿ムードを高める。


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この、溢れるようなアイデアの豊富さと柔軟な思考力を、現代高崎の企画者にも求めたいところである。

次回の第四話では、「観音山の土産店」への提案をご紹介する。  


Posted by 迷道院高崎at 08:41
Comments(4)観音山

2009年02月10日

知られざる「観音山振興プラン」その4

29年前の「高崎市観音山観光診断に基づく提案レポート」の話、第四話。

レポートでは、観音山の土産店について、このような指摘をしている。

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店舗についてであるが、2~3の店を除き、ほとんどが全国の通俗的観光地の安手の土産店と同じであるか、あるいはそれ以下の存在である。




もちろん、現在の売上高や利益からすれば過度な店舗への投資は避けなければならぬだろうが、(略)
やはり、ときには思い切った「店舗改装」を行わねばならぬのである。

といって、ここに高崎の中心街にあるような近代店舗を、というのではない。
むしろ、それは(略)観音山のイメージを損なうものとなる可能性が強い。
それよりも、むしろ、高崎市内ではもう見ることが難しくなった伝統的日本建築、上州建築物の復元を志向すべきであろう。

現在、観音山の土産店ではその多くが「おでん」「うどん」などのメニューを(略)提供している。
残念ながらそのどれを見ても魅力ある名物化できるものはない。

たとえば、ほとんどの店が提供している「おでん」にしても、近くに渋川、下仁田というこんにゃくの名産地を控えながら、近所の食品スーパーで最も安く仕入れたのでは、と思いたくなるようなこんにゃくが使われている。

また、「手打ちうどん」と示しながら、これまたスーパー仕入れではないかと思えるようなうどんが提供されている例もあると聞く。

カレー、丼物にいたっては、いったい観音山と何の関連があるのかと思わせる存在でしかない。

同時に、これらのメニューを「おいしく食べていただこう」という、提供側の心遣い・サービスもさほど見当たらない。

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と、かなり手厳しいが、指摘から29年経った現在でも状況はそう変わっていない。


以前、唯一、手打ちうどんを食べさせていた「みるく園」も、店を閉めてから久しい。





個々の店舗に改善を期待することは、なかなか難しいことであろう。
観音山商店街組合と、慈眼院、清水寺、洞窟観音などの観光施設、高崎市観光課、そして高崎市民が一体となって、この観光資源を活かすための知恵を出し合う必要があろう。

さて、次回はこのレポートシリーズの最終回として、
「高崎市街地への提案」についてご紹介する。  


Posted by 迷道院高崎at 16:53
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2009年02月11日

知られざる「観音山振興プラン」最終回

29年前の「高崎市観音山観光診断に基づく提案レポート」の最後に、高崎市街地についても提言がされているので、ご紹介することとする。

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現在のところ、高崎城跡はさほど観光的な価値を発見し得ないが、しかし、小江戸と呼ばれた、江戸をしのぶ貴重な存在とたり得よう。

同時に市内倉賀野はその地名の示す通り、極めて堅牢で伝統的な蔵造りの家がまだまだ残っているのである。
とすれば、この蔵造りで保存し得るものは正しく保存することによって、江戸の昔をしのぶ、高崎市民の心のふるさと的街たり得ると考えるのである。

高崎駅ビルを中心とする、東口・西口の商店街も大きな変化が表われてくるであろう。
当然、商店街開発・整備が行われようが、これが単なるビル化やアーケード街作りでは、もう発想が古いと考えられる。

商店街という「一本の通り」ではなく、ある広さのスペースを用意し、この中に人間の自然な流れをベースにした自由に曲がる道路を設定し、これに沿って、独立した専門店群を一群ごとに配するのである。

(提案のような街並みに変えるのは、現実的には難しいであろう。
だが、この「自由に曲がる道路」は、「路地」という形で高崎には沢山残っているのである。
にも拘らず、高崎市「道路拡幅事業」と称して、高崎から「路地」を消そうとしているかのようである。
「路地」を重要な「観光資源」として残している川越市倉敷市とは、考えを異にしているようだ。)

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今回、29年前の「高崎市観音山観光診断に基づく提案レポート」のご紹介をするにあたり、改めて「観音山」を散策してみた。
そして気がついたことがいくつもあった。

◆東京から来たという観光客の方に、「何か、買いたいお土産は見つかりましたか?」と聞いてみた。
答えは、「いや、ここへ来る前に少林山で達磨を買ったから。」
つまり、観音山で買いたくなるほどの土産物は無かったのだ。

◆木工品や、つる細工などを売っている土産店のご主人に、「これは、ご主人が作ったものですか?」と聞いてみた。
答えは、「いや、全国から仕入れたものです。この辺で作ってる人がいないから。」
近くには「染料植物園」もあり、「みやま養護学校」では生徒が木工品も作っているのに。
高崎の「ふるさと伝統工芸士」だって、12人もいるのに。

観光客のほとんどは、土産店街を抜けて白衣観音を見ただけで帰ってしまう。
頂上駐車場の係の方に、「観光センターには、観光ガイドさんはいるんですか?」と聞いてみた。
答えは、「桜の時期にはいるんだけどねー。普段は駐車場だって見たとおりガラガラだからねー。」
本当は、一日では回り切れないくらい沢山の見どころがあるのに。
ボランティアガイドが、歴史を語りながら案内してあげれば、きっと観光リピーターになってくれるのに。

もってぇねぇ!(もったいない)


  


Posted by 迷道院高崎at 11:43
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2009年02月12日

見たことある?

れれっ?何で「招き猫」

見た時はびっくりした。
だが、見ている内に楽しくなった。

これは、観音山「清水寺」の石段を登っていくと見ることができる。

高崎の新(珍)名物になるかも知れない景色だが、見たことがある人は意外と少ないかも知れない。
というのも、近頃この石段を登って観音山へ行く人を、ほとんど見かけなくなったからだ。

観光客も含め、今、観音山へは車で石段の前を直角に曲がり、羽衣坂を上がって頂上駐車場へ行ってしまう。
いったい、何%の人が、駐車場から清水寺まで足を延ばしてくれているのだろうか。

「清水寺」は、征夷大将軍坂上田村麿が蝦夷征討で戦死した武士の冥福を祈り、京都清水観音を勧請して開基したというのが定説になっている。

「清水寺」の脇にある堂を「田村堂」と呼ぶのは、その田村麿の像を安置しているからである。

ただ、不思議なのは「清水寺」「せいすいじ」と読むことである。
京都「清水寺」「きよみずでら」と読むのは、誰でも知っている。
その京都「清水寺」の観音様を勧請したのであれば、「きよみずでら」と呼ぶのが普通だと考えるのだが、いかがであろうか。

因みに、「清水寺」と書く寺は全国に83ヵ所あるというが、「きよみずでら」が20、「せいすいじ」が58となっている。(残り5寺は読み不明)

ともあれ、「観音山」という名前が、この「清水寺」のご本尊、「千手観音像」からきていることを思うと、この石段の参拝道を利用する人の少なさと、「清水寺」の寂れようは、実に悲しく、もったいないと思うのである。

518段の石段を登るのが大変と考える向きもあろうが、讃岐の金毘羅さまはそれを上回る785段もある。

問題は石段ではなく、それを「観光資源」と考えるか否かというセンスの問題であることは、明々白々である。

高崎市のHPでも、高崎観光協会のHPでも、この「石段ルート」を積極的に紹介してはいない。

そこで提案である。
「石段ルート」を、
   白衣大観音参詣の正式ルートと位置付けようではないか!


「このルートを通れば、ご利益が弥増す(いやます)」と宣伝すれば、人々は多少無理をしてでも利用するようになるだろう。
どうしても脚に自信のない人は、電気自動車馬車で羽衣坂を上がっていけばよい。

もちろん、石段下に駐車場を整備することは必須である。
高崎市および、高崎観光協会のHPも、お勧めコースとして紹介していただきたい。
ルート(路)の名前も市民から公募し、さらに市民の投票によって選抜するようにすれば、自ずと市民の関心も高まるだろう。

このルートを利用する人が増えれば、麓に商店が増え、清水寺のお賽銭が増え、田村堂を知る人が増え、下仁田戦争を知る人が増え、平和塔へ行くまでの路に土産店が増え、土産店同士の切磋琢磨が増え、そして何より、観音山へのリピーターが増えること間違いない。
讃岐の金毘羅さんのように、石段あればこその賑わいぶりが目に浮かぶ。

そうなれば、あの石段から見える「招き猫」も、さぞかし喜んでくれることだろう。


【招き猫が見える場所】
  


Posted by 迷道院高崎at 07:53
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2009年02月18日

幻の「鋳銅露天大観音」

観音山清水寺観音堂の左脇に、一対の石燈籠と石碑がある。

この石碑の台石の上には、鋳銅製の「露天聖観世音立像」があったと碑文に記されている。

高さ「丈六」とあるから、5m近い大きな観音像だったようだ。

碑文には、この観音像が戦時中の軍需資材として供出されてしまったことを残念に思い、ここに観音像があったことを後世に伝えようと、台石の上に碑を建てたことが記されている。

碑文によると、この観音像の造立には、封建時代の悲しい物語があったようだ。

観音像は、寛政8年(1796年)に緑野(みどの)郡(今の藤岡市)の代官、斎藤八十右衛門雅朝が、管内の名主・百姓等280余名の発起人となり、蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで清水寺に寄進したとある。

ところが、時の高崎藩候(13代目・松平 輝和・まつだいら てるやす)から、「郷士の分限で、不届きな所為である。」と咎を受けた。
雅朝は、己が一命を賭して重ねて許しを乞い、観音像を建立することができたが、成就後、責任を取って自刃したと記されている。

雅朝は、天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際にも、多くの難民を救ったとあり、この観音像建立にあたって郷民の信望はますます揚がったとも記されている。

高崎出身の俳人村上鬼城は、この観音像を見て句を残している。
御仏の お顔のしみや 秋の雨

屋根もなく露天に立つ観音像は、緑青が吹き、鳥の糞にまみれていたようだ。
鬼城は、「観音堂の坊主も、アレに気がつかずにゐるのだらう。(略)勿体ない。」と、著書「自句自釈」の中に書いている。

だが、本当に勿体ないのは、この石碑の存在すら忘れ去られようとしていることかも知れない。

     「観音山」周辺の「観光資源」として、
                もう一度光を当てたいものである。


(参考図書:「高崎の散歩道」)

後日、露天大観音像の在りし日の写真を見つけましたので、掲載します。
(2011/09/06追加)

  


Posted by 迷道院高崎at 21:10
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2009年02月23日

嗚呼、高崎藩士

清水寺観音堂の左手に、「田村堂」がある。

昔は「開山堂」とも言われていたようで、清水寺を開基したと伝わる坂上田村麻呂の木像を安置するお堂である。



だが多くの人は、「下仁田戦争で戦死した高崎藩士」を祀ったお堂、と思っているのではないだろうか。

確かに堂内部の正面には、「木像堂由来」としてそのようなことが書かれている。
肝心の田村麻呂の木像は正面の上に飾ってあるのだが、煤けていて目立たない。
田村麻呂とすれば、まさに「庇を貸して、母屋を取られ」た気分だろう。

ここで、下仁田戦争のことについて少し書いておこう。

幕末の元治元年(1864年)、水戸藩の尊皇急進派である武田耕雲斎率いる「水戸天狗党」の1,000名は、一橋慶喜を頼って上州を抜け、京へ向かおうとしていた。
これに対し、幕府は上州諸藩に天狗党の追討を命じ、高崎藩にもその命は下った。
だが、当時高崎藩の主力兵士は水戸に遠征中であり、しかたなく年寄りや少年まで動員してやっと200名ほど揃えたようである。
下仁田に到着した高崎藩士は、無勢ながらも果敢に戦いを挑んだものの、勢力・地の利を有した天狗党に惨敗し、36名の戦死者を出して退却することとなる。

そんな歴史を知って「田村堂」高崎藩士木像を見ると、感慨もまた深いものがある。

幕命を受けた高崎藩士が、下仁田へ向って急いだ道が、富岡への近道となる「岡街道」である。

片岡の辻を北に入り、くねくねと山に向かって登っていく道が「岡街道」で、左の写真は「一望閣」の真下に出たところで振り返った風景である。

高崎藩士は、ここから現在の土産店街を抜け、奥平、福島、富岡を経由して下仁田まで、長い道のりを遠征した訳だ。

ここからは、当時も高崎城下が一望できたはずである。

負け戦で傷ついた体を引きずって、やっとここまで帰り着いた高崎藩士は、どんな気持ちで城下を望み見たのであろうか。

その気持ちを想像すると、憐憫の情を禁じ得ない。



【岡街道 撮影場所】
  


Posted by 迷道院高崎at 09:12
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2009年02月25日

見頃です!

昼から天気が良くなってきたので、散歩がてら「高崎染料植物園」へ行ってみた。

園内の広い範囲に植えられた福寿草が、ちょうど満開の見頃であった。
無料で楽しめるというのも、嬉しい。

松井田町木馬瀬の「福寿草の里」では、小栗上野介の埋蔵金が福寿草となって地上に出てくるという話だったが、「染料植物園」には何が埋まっているのだろう。
そうだ!「観光資源」が埋まっているのだ!

園内には、染色に使う植物のほかに、いろいろな草木が植えられている。

今日は、蝋梅、紅梅、白梅、沈丁花(じんちょうげ)、三椏(みつまた)、満作(まんさく)の花も咲き、福寿草とのコラボが素晴らしかった。

今の時期は、園内の「温室」もお勧めである。

温室内は、温度34℃、湿度は・・・わかんないけど高い。
乾燥肌の方には、特にお勧めである。
一日中無料で肌を潤せるのだから、エステへ行くよりずっとお得だ。
       

いってらっしゃーい!!


  


Posted by 迷道院高崎at 19:49
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2009年02月26日

深井仁子さんって知ってますか?

ヤホーで調べても、わからないかも知れない。
何を隠そう、私も知ったのはついこの間のことだ。

清水寺の石段を登り、仁王門を潜ると少し先に、「馬頭観音堂」がある。

その左に、大きな石碑が建っているが、それが「深井仁子先生顕彰碑」だ。

深井仁子(じんこ)は、天保12年(1841)高崎藩士深井四郎資治の三女として生まれた。
父は、仁子が生まれる数ヶ月前に病没しており、母は艱苦(かんく)によく耐えて仁子を養育したとある。

仁子は、女ながらに文武両道に励んだようであるが、特に、田島尋枝(ひろえ)に「皇学」を学んだことが後の行動に大きく影響している。
田島尋枝という人もなかなかの人物で、連雀町「清香庵」という鰻屋の亭主だというが、片手に団扇、片手に本、鰻をさばく時でさえ本をそばに置いていたという。

時は勤王佐幕の嵐が吹き荒れている時代、将軍譜代の家柄である高崎藩は当然佐幕派であるが、皇学を学んだ仁子は堂々と勤王の大義を唱えた。
ために、反対派から命を狙われ、毒を盛られて危うく一命を落とすところだったそうである。

御世は明治に変わり、仁子は高崎の教育界に先駆的な役割を果たす。
明治11年(1878)、宮元町に私学「国振(くにふり)学校」を開設、女子教育に力を注いだ。
明治40年(1907)には「私立深井幼稚園」も併設している。

幕末の女傑、深井仁子は人々の記憶から忘れられようとしている。
石段の「徳音」碑に、もういちど光を当てて差し上げたいものだ。



(参考図書:「高崎の散歩道 第11集」「実録たかさき」)
  


Posted by 迷道院高崎at 21:01
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2009年05月04日

観音山丘陵の自然展

5月4日(月)~6日(水)高崎シティギャラリーで、「第17回 観音山丘陵の自然展」が開催されます。

ぜひ、行ってみてください!

特に、5月5日(火)がお勧めです。
午後1時半から、「新日本高崎子ども博覧会」の記録映画が上映されます。

「子ども博覧会」は、昭和27年(1952)に観音山で開催された、観光高崎を宣伝するための一大イベントでした。

その跡地が、「フェアリーランド」となり「カッパピア」となり、今、またその跡地を再生するための計画が進行中です。

かつて、観音山丘陵の自然を破壊してレジャーランド「アストロパーク」を建設するという計画が持ち上がりました。
ちょうどその頃、山名の自然遊歩道を歩いていた迷道院が、ばったり出会ったのが、「山名丘陵の自然を守る会」(現・観音山丘陵の自然を守るネットワークの会)の世話人、西野仁美さんでした。
それがご縁で、毎年「自然展」のご案内を頂いています。

会場では、あなたの知らない観音山の魅力を発見できると思います。
「カッパピア」跡地の再生計画についても、考えてみてください。
  


Posted by 迷道院高崎at 19:17
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2009年08月01日

期待してます!


「カッパピア跡地」の利用計画が、新聞紙上で発表されました。

高崎経済大学の大宮登先生が委員長になって、平成19年から「観音山公園再整備検討委員会」で検討されてきたものです。
委員会のメンバーが、多様な市民グループで構成されているのが特徴的です。
 ・「片岡・野附ワーキンググループ」
 ・「カッパピア高崎どろんこの森」設立委員会
 ・「観音山丘陵ネットワーキンググループ」
 ・「群馬の子供に公平な支援ケアセンターを作る会」
 ・「カッパピア跡地GSワーキンググループ」
 ・「観音山ワーキンググループ」
 ・「観音山地元代表チーム」

この間の経緯については、「観音山丘陵の自然を守るネットワークの会」のHPに、「カッパピア情報」として詳しく掲載されていますので、ぜひご覧ください。

また、高崎経済大学の学生さんも、この公園計画を研究テーマにして取り組んでいます。
あるきっかけで、メンバーのお一人と知り合い、先日メールを頂きました。
「カッパピアの思い出をお聞かせ下さい。」ということで、記憶に残っていることと、カッパピア跡地公園に対する希望を述べさせていただきました。
沢山の方の思い出や要望を聞きたいということですので、皆さんもぜひブログのコメントで協力してあげてください。
「群馬県カッパピア公園(仮)のブログ」

今回の新聞記事で特に嬉しかったのは、次の下りです。
「・・・周囲に柵などは設けず、白衣大観音や市染料植物園など周辺施設と連携できるように、一体的な整備を行う。」
これは実に大切なポイントだと思います。
日頃、私も、高崎の観光に必要なことは、「点を線でつなぐ」ことだと思っていましたので。

もうひとつは、「高さ5mの空中回廊を森林の中に張り巡らす」ということです。
以前、公園緑地課長だったJ氏には、個人的に「ツリーハウス」の設置を提案させてもらったことがあるのですが、確かに「空中回廊」の方がもっと素晴らしいと思います。

観音山が、もう一度子どもたちのフェアリーランド(おとぎの国)になって、自然に対するセンス・オブ・ワンダー(不思議さに驚嘆する感性)を育む場となることを、期待しています。  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
Comments(2)観音山

2010年05月01日

号外!「第18回 観音山丘陵の自然展」

5月3日(月)~5日(水)、高崎シティギャラリー「第18回 観音山丘陵の自然展」が開催されます。

観音山丘陵の自然について考える方々の、活動を知ることができます。

同時開催の講演会は、高崎の歴史を知りたい方には、特にお勧めです。

←クリックして、内容をご確認ください。

ゴールデンウィークの一日、ちょっと立ち寄ってみてはいかがでしょう。

            ◇観音山丘陵ネットの会HP

            ◇事務局日記

【高崎シティギャラリー】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:15
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