「一路堂と一路居士」の記事に、雀の子さんからこんなコメントを頂きました。
「一路さんの観音像の絹本の掛軸、
現在とある商店のウインドウに展示してあります。
場所は、私の名前がヒントです。」
このヒントで、私の脳裏には、すぐに一軒のお店が思い浮かびました。
で、早速、出かけてみたのです。
連雀町の「さいち民芸店」さんです。
ウィンドウを覗くと、あるある、ありますよ、一路さんの掛け軸。
写真を撮っていると、中からご主人が出てきました。
おそらくこの方が雀の子さんだろうと見当を付けて、
「こんにちは、迷道院高崎です。」と言うと、
「あーー!」とすぐに分かって頂きました。
実はこのお店、私の同級生のお家で、ご主人はそのお兄さんでした。
またも、不思議なご縁で繋がりました。
店名の「さいち」は、あの井上房一郎さんの命名だそうです。
昭和四十二年(1967)に、ご主人のお父上がクリーニング店から和紙・民芸品店に商売替えをする時、お父上の苗字と名前を組み合わせて考えてくれたのだとか。
文化人と親しかったこともあって、その人達の作品が沢山残っているようです。
ご主人は、昔の高崎のことも良くご存知で、今、連雀町の昔を偲ぶ写真や資料を集めている最中だそうです。
ここにもひとり、城下町高崎の再生に力を発揮されそうな方がいたことを、嬉しく思います。
私が子どもの頃、この近くに「貿易会館」と呼んでいた建物がありました。
正式には、「高崎観光貿易館」というそうです。
記憶に残っているのは、街頭テレビです。
もしかすると、貿易会館の中にあったのかもしれません。
まだ一般家庭にテレビが入ってなかった頃、みんなここへ来て、力道山を応援してたんです。
貿易会館は、朝鮮戦争の特需に沸く昭和二十六年(1951)、高崎の産業振興拠点として開館しました。
様々な催し物会場としても使われた貿易会館ですが、昭和三十二年(1957)には、「音楽センター建設促進委員会」の事務局も、会館内に設置されています。
その貿易会館も、次第にその役目を終え、昭和三十七年(1962)には競売に出されます。
折りしも、高崎で初めての本格的百貨店「藤五デパート」の建設が進んでおり、市内の中小小売業者は危機感を覚えていました。
そこで、自分たちで貿易会館を買い取り、寄り合いデパート形式・二階建ての「中央デパート」を開店します。
「藤五デパート」開店の二年前ですから、高崎で初めてのエスカレーターをもつデパートは、この「中央デパート」だった訳です。
「藤五デパート」が開店すると、それに対抗して昭和四十三年(1968)、地下一階、地上九階の本格的なビルに建て替え、名前も「スカイビル」と改めます。
この時、北関東初の回転式展望喫茶室「高崎スカイラウンジ」が設けられました。
現在、回転はしていませんが、最上階の円形部分がその喫茶室です。
その後、高崎以外の外来資本大型店が相次いで進出してくると、さしも斬新な「高崎スカイビル」も経営不振に陥り、昭和五十六年(1981)店舗を閉じて、「高崎スカイラウンジ」の回転も止まってしまいました。
もう回すことは出来ないのでしょうか。
高崎の名物になること、間違いないのですが。
「一路さんの観音像の絹本の掛軸、
現在とある商店のウインドウに展示してあります。
場所は、私の名前がヒントです。」
このヒントで、私の脳裏には、すぐに一軒のお店が思い浮かびました。
で、早速、出かけてみたのです。
連雀町の「さいち民芸店」さんです。
ウィンドウを覗くと、あるある、ありますよ、一路さんの掛け軸。
写真を撮っていると、中からご主人が出てきました。
おそらくこの方が雀の子さんだろうと見当を付けて、
「こんにちは、迷道院高崎です。」と言うと、
「あーー!」とすぐに分かって頂きました。
実はこのお店、私の同級生のお家で、ご主人はそのお兄さんでした。
またも、不思議なご縁で繋がりました。
店名の「さいち」は、あの井上房一郎さんの命名だそうです。
昭和四十二年(1967)に、ご主人のお父上がクリーニング店から和紙・民芸品店に商売替えをする時、お父上の苗字と名前を組み合わせて考えてくれたのだとか。
文化人と親しかったこともあって、その人達の作品が沢山残っているようです。
ご主人は、昔の高崎のことも良くご存知で、今、連雀町の昔を偲ぶ写真や資料を集めている最中だそうです。
ここにもひとり、城下町高崎の再生に力を発揮されそうな方がいたことを、嬉しく思います。
私が子どもの頃、この近くに「貿易会館」と呼んでいた建物がありました。
正式には、「高崎観光貿易館」というそうです。
記憶に残っているのは、街頭テレビです。
もしかすると、貿易会館の中にあったのかもしれません。
まだ一般家庭にテレビが入ってなかった頃、みんなここへ来て、力道山を応援してたんです。
貿易会館は、朝鮮戦争の特需に沸く昭和二十六年(1951)、高崎の産業振興拠点として開館しました。
様々な催し物会場としても使われた貿易会館ですが、昭和三十二年(1957)には、「音楽センター建設促進委員会」の事務局も、会館内に設置されています。
その貿易会館も、次第にその役目を終え、昭和三十七年(1962)には競売に出されます。
折りしも、高崎で初めての本格的百貨店「藤五デパート」の建設が進んでおり、市内の中小小売業者は危機感を覚えていました。
そこで、自分たちで貿易会館を買い取り、寄り合いデパート形式・二階建ての「中央デパート」を開店します。
「藤五デパート」開店の二年前ですから、高崎で初めてのエスカレーターをもつデパートは、この「中央デパート」だった訳です。
「藤五デパート」が開店すると、それに対抗して昭和四十三年(1968)、地下一階、地上九階の本格的なビルに建て替え、名前も「スカイビル」と改めます。
この時、北関東初の回転式展望喫茶室「高崎スカイラウンジ」が設けられました。
現在、回転はしていませんが、最上階の円形部分がその喫茶室です。
その後、高崎以外の外来資本大型店が相次いで進出してくると、さしも斬新な「高崎スカイビル」も経営不振に陥り、昭和五十六年(1981)店舗を閉じて、「高崎スカイラウンジ」の回転も止まってしまいました。
もう回すことは出来ないのでしょうか。
高崎の名物になること、間違いないのですが。
(参考図書:「新編高崎市史 通史編4)
【さいち民芸店】
【スカイビル(旧・高崎観光貿易館)】