2009年11月18日

追跡!藤森稲荷(其の壱)

「高崎の散歩道 第六集」の中に、古城塁研究家・山崎一氏のこんなコラム記事がありました。

三国街道が長野堰を渡る橋を大橋という。そこから北100mの東裏に藤森稲荷がある。
その側に榎の大きな切り株が残っている。
(途中略)
このお稲荷様はもと、大橋町の鎮守だったが、明治の神社合併で高崎神社に合祀され・・・」


ってことは、大橋町にはないんじゃん?

と思ったら、続けてこんな話も書かれていました。
「お社は無くなっても榎は亭々(ていてい)とそびえ枝を張り(略)
大正の半ばになると、榎の枯れ枝や落ち葉が容赦なくその下に住む人たちを悩まし、当時の区長は遂に意を決してこの木を切り倒すこととなった。」


ここからの話が面白いんです。

「やがて、木挽きが入って大鋸を入れ、一日の作業で根方にかなり深い切り込みができた。
ところがその夜、木挽き頓死し、区長は俄かな眼病で失明寸前というありさまになった。
区長はおそれて作業を取りやめ、其の後、この木に手をふれるものは無くなった。
下に住んでいた殿塚という人がお社を再建し、お祭りも復興した。
終戦後になると、榎の大木はいつか切り倒され、今度はお社だけが残ることとなった。」


という訳で、再建されたという「藤森稲荷」と、切り倒されたという榎の「切り株」を探しに行ったのが、10月の初め頃でした。
手掛かりは「大橋の北100mの東裏」だったんですが、その辺りをいくら探してもそれらしいお稲荷さんは見つかりません。

飛び込んでお尋ねしたのが、「オランダコロッケ」で有名な平井精肉店さんです。
しかし、結果は残念でした。
「角の床屋さんの所にあったんだけどねぇ。
今は、何にもないんだよ。
何でも、小塙の方へ移したって。」


諦めきれずに、角のツバサ理容室へ行ってお伺いしてみました。
すると、奥様が、
「あー、あったんですよ。裏に。」
と、わざわざ案内して下さいました。

「ここなんですよ。」と案内されたのは、車2台が置ける程度の、何の変哲もない駐車場でした。

スペースからして、小さな石の祠程度だったのかな?と思ったのですが、奥様は、
「ここ(フェンスの辺り)に鳥居が建っていて、その向こうに水屋があって、あそこ(フェンスの向こうの自転車置き場辺り)にお社があったんです。」
と仰るので、そこそこの大きさの社だったようです。
大木だったという榎の切り株も、跡形もなくなっていました。

この日は、もう日が暮れ始めていたので、中途半端な気持ちのまま引き揚げてきました。
そして先日、ヤボ用が片付いてウズウズしていた気持ちに押されるように、藤森稲荷追跡を再開いたしました。

その話は、また次回!

【オランダコロッケの平井精肉店】

【藤森稲荷のあった所】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:30
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2009年11月20日

追跡!藤森稲荷(其の弐)

「藤森稲荷」という名前から、三国街道を越えた所にある「藤守湯」を連想しました。
字は違うのですが、「ふじもり」という音に何か関連性を感じます。

「藤守湯」は以前、「高崎に残る「湯屋」めぐり」でも紹介した、現役の銭湯です。

しかし、この日は時間が早かったために、まだ開いていませんでした。
「藤森稲荷」のことをお聞きしたいと思い、周囲を回って声を掛けたり、チャイムを押したりしたのですが、どなたも出てきません。
挙句には、ワンちゃんに怪しまれて吠えまくられて、ついに諦めました。
収穫は、この家の名字が「藤守」さんではないと分かったことです。
いよいよ、「藤森稲荷」との関連を確信しました。

そんなところへ通りかかったのが、このご婦人です。 →

怪しまれないためにも、ここは一声掛けておくべきです。
「すみません、お近くに長くお住まいの方ですか?」
「ええ、そうですよ。」
「藤守湯の名前の由来などご存知ですか?」
と、あまり期待もせずお聞きしてみたのですが、ビックリしました!
「あ、昔ね、藤森稲荷の所にあったんですよ、このお風呂屋さん。
それで、藤守湯って名前にしたらしいですよ。
道が広がるんでね、ここへ移ってきたんです。」


よくご存知の方でした。
藤森稲荷のことも、お聞きすると、
「あー、小塙の烏子(すないご)神社へ移したんですよ。
私もその時にね、近所の人と一緒に神社まで送りに行きましたよ。
そうねー、十何年か前かねぇ。」

というお話でした。
大収穫です!「藤森稲荷」の行方が分かりました!

「写真など、残ってませんかねぇ?」とお尋ねしたら、
同級生で、元区長さんだったという山岸さんを紹介して頂きました。
クリーニング屋さんの隣だということでしたが、探してみると大橋近辺には何故かクリーニング屋さんが多いんですね。
やっと探し当てたら、あいにく元区長さんはお留守でしたが、後日、あらためて訪問し、いろいろなお話を伺うことができました。

そのお話は、また次回!

【藤守湯】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:47
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2009年11月22日

追跡!藤森稲荷(其の参)

紹介された、大橋町の元区長、山岸さんとお会いすることができました。
フルネームが山岸八郎さんとお聞きして、思い当たることがありました。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」に掲載されている左の写真、その提供者が山岸八郎さんでした。

写真は三国街道ですが、大正時代はまだこんなに狭かったんですね。
大橋町の人々が、高崎公園まで歩いて花見に行く風景だそうです。

(※郷土出版社の「目で見る高崎・安中の100年」では、明治三十五年(1902)頃とされています。)

山岸家は、江戸時代に新潟柿崎から移って来て、まだほとんど家の無かったこの地で、酢饅頭の店を開いたのだそうです。
きっと三国街道を往来する人達が、一服したくなる場所だったのでしょう。

父君の山岸武次さんが、明治から大正にかけての大橋町の様子を、絵に描いて残してくれていて、右の絵がその1枚です。

周囲は一面の田んぼで、手前の小山のような所が、「電車みち」の記事で紹介した電車山です。
この頃は、ずいぶん広々として見通しがきいていたんですね。
当時を知る貴重な資料だと思います。

武次さんは、カメラの無い時代は絵で、カメラを持ってからは写真で、昔の大橋町の様子を記録しておられました。

八郎さんは、今、それらを引き継ぎ、きちんとアルバムに整理して、大橋町の歴史資料として編纂を進めていらっしゃいます。

そして八郎さんが出してくれたのが、武次さん撮影の右の写真です。→

当時、5軒長屋だった山岸さん宅の屋根上から、藤森稲荷方面を撮影したものだそうです。
前方に見える大きな木が、藤森稲荷にあったという榎の大木です。
左奥の蔵造りの大きな家が、藤森稲荷があった殿塚宅だそうです。

残念ながら、藤森稲荷そのものが写っている写真はありませんでした。
写真を持っていそうな方として、現区長の大野勝己さんを紹介して頂きました。
大野さんは、藤森稲荷上小塙烏子(すないご)稲荷神社に納める時、主体になって尽力された方です。
残念ながら、大野さんも写真はお持ちではありませんでしたが、烏子稲荷神社へ納める時のお話を伺うことができました。

館林に移っていた殿塚氏の依頼で、藤森稲荷のあった場所を更地にすることになったとのことです。
烏子稲荷神社の宮司さんにお願いし、藤森稲荷の社から御魂抜きをし、社に祀られていた狐の置物を新たに用意した石祠に移して御魂入れをした後、町内の方達と烏子稲荷神社まで納めに行ったそうです。
その後、空になった社は取り壊し、更地にしたということでした。

藤森稲荷の写真がないと聞くと、ますます写真の持ち主を捜したくなります。
昔、藤森稲荷の所で営業していたという、藤守湯の奥さんに電話でお尋ねすると、昭和二年(1927)に現在地に移転したそうですが、昭和三十四年(1959)に火災に遭い、写真も何も全て焼失してしまったということでした。
そして、あそこならと教えて頂いたクリーニング店さんにも、古いアルバムを探して頂きましたが、ありませんでした。

写真は諦めるとして、次は、烏子稲荷神社に移したという藤森稲荷がどうなったのかが、気になるところです。
後日、烏子稲荷神社へ行って、その辺のお話を含め、実に興味深いお話を聞くことができました。

そのお話は、また次回のお楽しみ!

  


Posted by 迷道院高崎at 07:52
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2009年11月25日

追跡!藤森稲荷(其の四)

大橋町藤森稲荷を移したという、上小塙(かみこばな)町烏子(すないご)稲荷神社へ行ってみました。

稲荷神社なのに、なぜか駐車場には「たぬき」が置いてあります。 →

こちらの宮司さん、なかなかお忙しい方でいつもお留守でしたが、やっとお会いすることができました。
宮司の山田道長さんはとても気さくな方で、いろいろと興味深いお話をして頂いた後、藤森稲荷が納められている場所まで案内して下さいました。

石段を上った本殿の右側に、いくつもの祠が置かれている場所があります。
その最前列の中央にあるのが、大橋町から移した藤森稲荷だそうです。

石祠は、大橋町大野区長が用意した新しいものですが、その前に置かれている一対の狐の石像、その両脇の石灯籠大橋町にあったものと思われます。
この場所に置かれている祠のほとんどは御魂抜きされていますが、藤森稲荷は御魂が入ったままだそうです。
ここまで追跡してきた甲斐があったというものですが、ただ、宮司さんのこんな話が少し気になりました。

大橋町から移したのは、藤森稲荷とは聞いてないですねぇ。
 『大橋町の稲荷』というだけで・・・。
 明治の終わりに高崎の各町内にあった神社は、全て高崎神社に合祀されたんです。
 大橋町藤森稲荷もその時に合祀されてるはずですからね。」


確かに、「追跡!藤森稲荷(其の壱)」に書いたように、「高崎の散歩道 第六集」にもそのように書かれてはいました。
ということは、お社を再建した時に、地域の人が昔親しんでいた「藤森稲荷」という名前で呼んでいただけなのでしょうか。

宮司さんにお礼を言って、烏子稲荷神社を後にしたその足で、高崎神社へ行ってみました。
ちょうど神殿に向かうところのご神官に、藤森稲荷のことをお聞きすると、しばらく首を傾げた後、「裏の方にいくつも石碑が建っているので、その中にあるかもしれない。」ということでした。

ありました、ありました!

西南の隅、恵徳寺との塀際に「正一位藤森稲荷大明神」と刻まれた石碑が建っていました。
たまたまなのか、意識してなのか、大きな欅の下に建てられています。
刻まれている碑文によると、これは明治四十年(1907)に高崎神社に合祀されたことを記念する碑だということです。
裏には、「大橋町」と刻まれています。
藤森稲荷の御魂は、やはり高崎神社にいらっしゃるのでしょうか。

ただ、とかくお稲荷さんは元の住まいへ帰りたがるものです。
「稲荷横丁」のお稲荷さんも、倉賀野の「冠稲荷」もそうでした。
もしかしたら藤森稲荷も、そーっと大橋町に戻っていたのではないでしょうか。
そう考えた方が、面白いとは思いませんか?

さてさて、追跡の旅はこれで終わるのですが、まだ気になることが一つ残っています。
それは、「藤森稲荷」という名前です。
「藤森」とはいったい何でしょう?
烏子稲荷神社の宮司さんとお話をしていて、そのヒントが掴めました。

そのお話は、「追跡!藤森稲荷(最終回)」で!

【烏子稲荷神社の藤森稲荷】

【高崎神社の藤森稲荷石碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2009年11月27日

追跡!藤森稲荷(最終回)

土屋喜英氏著「高崎漫歩」には、藤森稲荷の名前の由来について、次のように書かれています。
「大正の終わり頃に、近くの人達が社を新しくして、藤の木が森のように繁っていたことから藤森稲荷と名付けたそうである・・・」
しかし、大橋町の方々にお聞きした限りでは、藤の木が森のように繁っていたという事実はなさそうで、名前の由来については定かでありませんでした。

そのヒントを与えてくださったのが、烏子(すないご)稲荷神社山田道長宮司でした。

ところで話は変わりますが、皆さんは、なぜ「烏子(からすこ)」と書いて、「すないご」と読むかご存知でしたか?

烏子稲荷神社のある広い一帯を、昔、「須苗郷(すなえごう)」と呼んでいたので、その総鎮守を「すないご稲荷神社」と呼ぶんだということは、いろいろな本に書かれていますので知っていました。
でも、何故「すなえご」ではなく「すないご」なのか、何故「烏子」と書くのか・・・?
私はずーっと疑問に思っていたのですが、宮司さんのおかげで謎が解けました。

宮司さんのお話は、こうでした。
昔の須苗郷というのはとても広い地域で、榛名の麓から石原・乗附丘陵の麓までを含んでいました。
その中央を滔々と流れているのが、「烏川」です。
そして、「氏神」が守護する地に住む人々を「氏子」と言います。
そこで、「烏川」の「烏」と、「氏子」の「子」で、「烏子」としたのだそうです。

昔は、「稲荷神社(烏子)」と称していたそうですが、昭和五十年(1975)頃、「烏子稲荷神社」と言う名称に改めたのだそうです。
その時、「すないご」とふり仮名をつけて登録したのだそうですが、
「ちょっと訛りが入ったというか、『え』よりも『い』の方が、あいうえお順で前に来るからと思ったんだけど、今思えば、『すなえご』にしておけば良かったかな?」と笑っておられました。

藤森稲荷の話に戻りましょう。
そもそも、烏子稲荷神社の由緒には、「桓武天皇の御世、延暦二年(783)に藤原金善という人が、山城の国『藤の森稲荷』の御分霊を勧請せり」とあります。
そうなんです、「の」は入りますが、藤森稲荷じゃありませんか!

ただちょっと気になることもありました。
山城の国(京都)にあるのは、
「藤森(ふじのもり)神社」で、稲荷とは書いてないのです。
その由緒を見てもご祭神に稲荷神はいません。
しかも、「今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっております。」とあります。
ありゃりゃ?

これも、山田宮司のお話で、合点がいきました。
お稲荷さんの総本宮と言われるのが、京都「伏見稲荷大社」ですが、実はこのお稲荷さん「藤森神社」と大いに関係があるのです。

伏見稲荷大社のある地は、もともとは藤尾(ふじのお)と呼ばれていて、藤森神社の土地だったんだそうです。
ある時、藤森神社を司る紀伊氏のところに、稲荷神を崇拝する秦氏がこう言ってきます。
「祠を建てたいので、稲ワラを数束広げる程度の場所を貸してもらえないだろうか?」
紀伊氏は、その程度ならと快く了解しました。
すると、秦氏は早速やって来て、広げた稲ワラを1本1本縦につなげて、山一つをぐるりと囲んでしまいました。
その山が、現在「伏見稲荷大社」のある稲荷山だそうです。

かつて紀伊氏蘇我氏に仕え、帰化人の秦氏を配下にして勢力を拡大していました。
しかし、大化の改新によって蘇我氏の勢力が衰えると、それに連れて紀伊氏も衰退し、代わりに栄えてきたのが秦氏だという訳です。
そんなことを知って、前述の話を聞くと、なかなか考えさせるものがありますね。

ところで、烏子稲荷神社の本殿は、「稲荷山古墳」という円墳上に造られています。→

←裏に回ると、横穴式石室の入り口がありますが、これが京都伏見稲荷と通じていて、が行き来していたという言い伝えもあります。(田島桂男氏著「高崎の地名」より)

大橋町にあったという「藤森稲荷」は、おそらく「烏子稲荷神社」とも関係のある京都「藤森神社」、さらには「伏見稲荷」と関係しているのではないかと思います。

最後に、烏子稲荷神社の祖、藤原金善の哀しい物語をご紹介しておきましょう。
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桓武天皇の頃、藤原氏一門に連なる立派な家柄の藤原金善という人が、妻と一緒に京から関東へ下る道すがら、須苗子(すなえご)の森にさしかかりました。
美しいその森がたいそう気に入った金善は、ここに永住したいと考えました。
ついては、かつて自分が崇拝していた、「藤の森稲荷」の分霊をここに祀ろうと思ったのですが、再び妻を京まで歩かせる訳にもいかないと、妻を残して京へ戻っていきました。
一人知らぬ土地に残された妻は、心細く夫の帰りを待っていましたが、そんな心に付け入る輩がいつの世にもいるものです。
ある男が、言葉巧みに妻を騙し、夫の座についてしまいます。
「藤の森稲荷」の分霊を受けて戻ってきた夫の姿を見た妻は、初めて男に騙されたことを知ります。
妻はそのことを恥じ、ついに川に身を投げて死んでしまいました。
悲しみにくれた金善は、ここ須苗郷の森に藤の森稲荷の分霊を祀り、神職としてこれに仕えたということです。
(「高崎の名所と伝説」より、若干、迷道院高崎が加筆いたしました。

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さて、「追跡!藤森稲荷」、最終回までお付き合い頂き、ありがとうございました。
知らなければ、何の変哲もない床屋さんの駐車場に、こんな面白い歴史と文化があったとは、私自身おどろきました。
観光都市高崎の目指すべきところが、何となく見えてきたような気がします。
みなさんは、どのように思われたでしょうか。

  


Posted by 迷道院高崎at 05:57
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