2014年03月09日

例幣使街道 寄道散歩(1)

久しぶりの、お散歩ネタです。



正保四年(1647)から慶応三年(1867)までの221年間、一度の中断もなく行われたという日光例幣使の派遣。
毎年決まって4月1日に京を発ち、中山道を東下し、倉賀野宿から分岐する「日光例幣使街道」を通る。

4月10日坂本宿に宿泊すると、翌日には安中、板鼻、高崎、倉賀野を通り抜けて次の宿泊地・玉村宿まで行ってしまいます。
そんな訳で、玉村では「日光例幣使街道」を町のPRに活用し、「たつながさま」という例幣使キャラクターまでいるのですが、通過点のわが高崎では・・・。



よく取り上げられるのが、「日光例幣使街道」の起点で中山道との分去れにある、倉賀野下町の「道しるべ」「常夜燈」でしょうか。

説明板によると、「上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立した」とあります。

郷土誌刊行会の清水要次氏著「街道ものがたり」には、もう少し詳しい話が書かれています。
これを建てた当人の名は高砂屋高橋文之助光賢といい、その先五料の住人であった。
光賢は若い頃無頼放蕩を重ね、歳老いてその罪をさとり罪亡ぼしに、何か生きている間、世に貢献するものを残したいと思い立った。
そこで自分の考えを上野国緑埜郡篠塚村義輝山光源院第十世法印実相叟に伺いを立て教えを乞うた。
文化九年壬申夏の事であった。

法印の答えは、中山道と日光例幣使街道の分かれ道の所へ、旅人のために常夜灯を建てることを進言した。
よって光賢は自分には蓄財が無いので、広く世の篤志家の協賛を仰ぐことにした。
そこで地元上州の草津、四万の温泉地から武州、野州、常州、相州を廻り賛助を得た。

その中には力士の雷電為右衛門、鬼面山与右衛門、行事木村庄之助、式守鬼一郎、役者では松本幸四郎、市川団十郎などの有名人を含み三百十二人の協力者を得た。
その名は今も三叉路常夜灯の台石に刻まれてある。」

「高砂屋」というのは五料河岸にあった旅籠だそうです。

説明板には、常夜燈の文字は「高橋佳年女書」と書かれています。

この高橋佳年という女性は、清水寥人氏著「日光例幣使のみち」によると、「高砂屋二代藤太郎の妻」で、当時26歳だったということです。
ただ、清水要次氏によると、藤太郎「高橋藤兵衛嫡男」となっていますので、光賢の子どもではないんですね。
養子にでも入った人なんでしょうか。

光賢は、常夜燈建立の念願を果たしてほっとしたのか、その年、文化十一年(1814)の八月にこの世を去ったそうです。
罪亡ぼしとは言え、高崎にとって素晴らしいものを残してくれたものです。

「道しるべ」「常夜燈」と共に取り上げられるのが、東隣に建つ「閻魔堂」ですが、昔の絵図では「念佛堂」となっています。

もともとは、阿弥陀如来を祀る「阿弥陀堂」だったようです。



いつの頃か、この「阿弥陀堂」に、江戸生まれの美しい中年尼僧が住んでいたそうなんですが、これがどうもとんでもない尼さんで、夜な夜な河岸の船頭衆を集めて賭場を開帳し、自らも壺を振っていたというんですね。
ところがある日、負けが込んでとも、旅籠吉野家の婿と駆け落ちでとも言われていますが、阿弥陀様を売り飛ばして逃げちゃったんだそうです。
そこで、阿弥陀様の後釜として据えられたのが閻魔様だというんですが、さぁどうなんでしょう。

今、閻魔様の後ろに阿弥陀様もちゃんといらっしゃいますからね。

まぁ、こんな話もあっていいんじゃないでしょうか。

で、高崎「例幣使街道」ですが、大体この辺の話しで終わっちゃうことが多いんです。
それじゃあ高崎大好きの迷道院としては何ともやるせないので、これから、あちこち寄り道しながら「例幣使街道」を散歩してみたいと思います。
しばしお付き合いのほど、お願い申し上げます。


【日光例幣使街道分去れ】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:28
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2014年03月16日

例幣使街道 寄道散歩(2)

のっけから寄り道というか、後戻りです。テヘッ(^^ゞ

でも今回のお散歩は、どうしてもここからスタートしたいんです。

例幣使街道の分岐点から250mほど高崎寄りに、こんな石碑が建っています。

「勘定奉行 小栗上野介忠順公と埋蔵金ゆかりの地」
裏面には、「平成二年八月 瀬野文男 藤川忠男 大橋教文 矢島博明」とあります。

徳川埋蔵金の隠し場所といえば赤城山が最も有名ですが、倉賀野こそ埋蔵金の隠し場所であると、真剣に研究している人たちがいたのです。

歌謡教室とスナック経営をしていた矢島さんの元へ、先輩の藤川さんが「町おこしのために資料館を造ろう。」と訪ねてきたのがきっかけで、食堂を開いていた大橋さんも加わって昭和六十二年(1987)に開設したのが、私設の歴史資料館「倉賀野資料館」です。

その活動の中で、小栗上野介の大砲や大量の荷が倉賀野河岸に届いていたという確証を得、埋蔵金は倉賀野にあると考えて研究と追跡を始めます。
矢島さんは、上野介と共に倉賀野を全国的にPRしたいという思いで、平成四年(1992)に調査結果を一冊の本にまとめ出版しています。
ご興味のある方は、矢島ひろ明氏著「小栗上野介忠順 その謎の人物の生と死」(群馬出版センター)をご覧ください。

「倉賀野資料館」は現在閉館されてしまっていますが、いつの日か再開されることを願っています。

この近くには、寄り道したくなる所がいくつもありますので、ご紹介しておきましょう。

「北向庚申」

北向であることも珍しいですが、庚申塔に覆い屋がかかっているのも珍しいでしょう。
これには、面白い逸話が残っているんです。



薬師様のご尊顔を拝見する方法が、実にユニークなんですよ。

さて、寄り道が過ぎましたか。
次回から、例幣使街道を歩きはじめることに・・・なるかな?


【埋蔵金ゆかりの地石碑】


【北向庚申】


【めなおし薬師】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:10
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2014年03月23日

例幣使街道 寄道散歩(3)

再び、例幣使街道の分去れに戻ってきました。

戻ってきたんですが、またまた寄り道紹介です。

下町の信号を左折します。(白い車が止まってる道です。)

この道を入った突き当りに、「諏訪神社」があります。
なんだか、やたらと蛇に関係のある神社なんですよ。

そのすぐ近くにあるのが、「古堤」です。
いま見るとなんの変哲もない用水池ですが、高崎藩主・安藤重博の時代に、年貢を減少する代償として農民に建設させたという灌漑用貯水池なんです。

さて、分去れに戻って、いよいよ例幣使街道を歩き始めるんですが・・・。

昔っから田んぼと桑畑で、何もないとこだったんですね。

もう、無理やり面白いものを探して歩くしかありません。

←「お車の美容」。
う~ん、どんなことをしてくれるんでしょう?





絵の出るカラオケ!→
そうそう、それまでのカラオケは音しか出ませんでしたね。

← 一瞬、「金太郎飴」かと思ったんですが、お寿司屋さんでした。






メニューに「タン定食」なんてのがありそうなお店も。→
え、なんで「タン定食」
だって、「えんま」ですし、昔っから嘘つき、多いですし・・・。

←踏切で電車と宅急便がにらめっこをしてました・・・みたいな。






踏切を渡ったら、またちょっと寄り道をしていきましょう。
群馬銀行の看板を右に入ります。

殺風景な工場群の中を400mほど歩くと、分去れから来る旧中山道に突き当たります。






右に曲がって100mほど行くと、もう道は行き止まりです。
電信柱の陰から梅の花が見えていなければ、誰もそこへ行こうとは思わないでしょう。

そんなところに、「梅乃木大神」というのがあります。

遠く加賀からここまでやって来て亡くなった飛脚の霊を、祀ったものだそうです。

五万石騒動の大総代・佐藤三喜蔵が捕えられたのもこの辺りだそうで、高崎の史跡としても価値あるものだと思います。

しかし、場所がこんな奥まったとこですから、このままではいつの間にか忘れ去られてしまいそうな気がします。
例幣使街道旧中山道からの案内板や、謂れの説明看板くらい建てておいて欲しいものです。

再び例幣使街道に戻って歩き始めるとすぐに、昭和五十七年(1982)に開通した新しい中山道(倉賀野バイパス)の、車の激流に行く手を遮られます。

あーあ、今日も寄り道紹介で終わっちゃいましたね。


【諏訪神社】


【古堤】


【梅乃木大神】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
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2014年03月30日

例幣使街道 寄道散歩(4)

今日はここ金井工業団地の信号から出発です。
新中山道を突っ切って、例幣使街道を進みます。

それにしても、見るものがありません。

何もないと、こういう看板でも面白く感じます。

美人が勢ぞろいというんですが・・・。






入口の脇には、こんな風に書かれていて・・・。
「どっちなんでや!」

歩き始めてから500mほどで、台新田の信号です。

右へ行けば「岩鼻代官所跡」、左へ行けば「隠れキリシタンのマリア像」がある「地福院」です。

この「地福院」には、明治期にいち早く小栗上野介研究に先鞭をつけた、早川珪村の墓があります。

早川珪村については、過去記事「八重の桜と小栗の椿(9)」でちょこっと触れていますが、今日はもう少し詳しくご紹介しましょう。

早川珪村は、嘉永六年(1853)台新田村名主・小池又兵衛の三男として誕生し、本名は小池愿次郎(げんじろう)といいます。

小池家は、近くに流れる粕川を利用した藍染を業とし、近隣では「紺屋(こうや)大尽」と呼ばれるほどの富豪でした。

今でもこの辺では「紺屋」で通じ、立派な門が往時を偲ばせます。

隆盛時には千五百坪余りの敷地内に大きな長屋門と8棟の土蔵があったそうですが、終戦前日の昭和二十年(1945)八月十四日夜、岩鼻陸軍火薬製造所を狙った空襲で、逸れた焼夷弾数発が屋敷を直撃し、数百年続いた紺屋屋敷のほとんどが焼失してしまったということです。

愿次郎には13歳年上の姉・とうがいて、愿次郎5歳の時に与六分村一番の財産家・早川家に嫁ぎます。
20年後、姉・とうは、分家の娘・早川津留(つる)の婿養子として、弟・愿次郎の縁組を持ちかけます。
こうして、明治十一年(1878)25歳の小池愿次郎は、早川愿次郎となるのです。

婿入り先の津留の家は、母の代から質屋を営んでいました。
玉村宿が繁栄していた頃は繁盛していた早川質店ですが、明治になって日光例幣使が廃止され、玉村に往時の賑わいがなくなるにつれて、質屋稼業にも翳りが出てきていました。
そこで愿次郎は明治十九年(1886)、玉村での質屋稼業に見切りをつけ高崎宮元町に移り住みます。

高崎で、それまでに家族に内緒で資金援助していた漢学者・貫名海雲のツテで、高崎第十五連隊に肉を納める商売を始めます。
また余り肉をうまく活用して、当時としては珍しいカツレツを食べさせる洋食屋「弥生軒」を開き、けっこう繁盛させていたようです。

しかし、明治二十三年(1890)愿次郎を突然の不幸が襲います。
「弥生軒」を切り盛りしていた妻・津留を40歳で亡くし、13歳の娘・つねも他家の養女に出すことになります。
愛妻と死別し、愛娘とは生き別れ、「弥生軒」も肉屋も廃業せざるを得なくなった愿次郎の姿は、想像するだに哀れな思いがします。
再起を期す愿次郎は、仲間と三人で下横町「早川薪炭」を開業させますが、うまくいかなかったようで間もなく廃業しています。

商売をやめた愿次郎が次に就いた職は、「上野日日新聞社」の記者でした。
もともと学問好きで漢学も学んでいた愿次郎は、持ち前の文才を活かし、明治四十三年(1910)に上野日日新聞社発行の「高崎案内」という、歴史・観光・商工業・官公庁総合案内書とでもいうべき、160頁近い本を編著するまでになります。

そのことがきっかけとなったのか、愿次郎は郷土の歴史を深く研究するようになり、郷土雑誌「上毛及上毛人」に大正十年(1921)頃から寄稿を始めます。

当初のペンネームは、「早川硯鼠」であったり「早川流石」であったりしましたが、「小栗上野介忠順」についての寄稿辺りから「早川珪村」となり、小栗上野介シリーズ終了後は「早川圭村」としています。
記者時代に培われた特性なのか、自分の足で実際に見聞したことに基づく記述は、本多夏彦氏をして「最も信頼がおける。」と評価せしめたといいます。

早川圭村・愿次郎は、昭和四年(1929)高崎市砂賀町の自宅で七十七年の生涯を閉じます。
その墓は、高崎市内でもなく与六分村でもなく、生家・小池家の墓地がある台新田村「地福院」でした。
墓石は、圭村七回忌の昭和十年(1935)に、養子であったとされる伊藤稲太郎という人が建立しています。
いろいろと、複雑な事情があったのであろうと推察されます。

圭村逝去の翌年に発行された「上毛及上毛人」第153号には、同誌主宰の豊国覺堂が、圭村の未発表文を掲載しています。
その中に、小栗上野介が味噌樽に隠した二分金の話が出てきます。
その発覚の舞台が、なんと高崎本町であったというのです。

次回は、そのお話しを。

(参考図書:河野正男著「早川圭村の生い立ち」)


【地福院】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2014年04月06日

例幣使街道 寄道散歩(5)

昭和五年(1930)発行の「上毛及上毛人」第153号に、故人早川圭村として「小栗父子の墓所に就て」という一文が掲載されています。

「小栗父子の墓所に就て」という表題ではあるものの、その内容は異なる3つの話しになっており、その内のひとつが、これからご紹介する「高崎本町に伝わる、味噌樽に隠された小栗上野介の二分金」の話しです。

では、抜粋でお読みください。
小栗父子の處斷せらるゝや所有物品は官軍の占領する所となり、家具その他の物品は權田村にて賣却せられたるが、高崎市本町三丁目飛彈屋(ひだや)事(こと)岩崎源太郎は家具の一部と味噌數十樽とを買取りたるに、其の味噌樽の底に無數の二分金が納めありたる爲め、俄かに富有となりたるも小栗の爲に一回の追善供養をも修せざりしと云へるが、其の後奇禍屢々(しばしば)ありて數年ならずして亦(また)元の赤貧となりたり」

小栗上野介忠順は慶応四年(1868)閏四月六日(太陽暦:5月27日)水沼河原で斬首され、養嗣子・又一もまた弁明のために赴いた高崎城下で、閏四月七日に斬首されます。

東善寺を襲った暴徒同様、新政府軍も、上野介が江戸から運んだ多額の軍資金が寺に隠されていると考えたようです。
上野介斬首後ただちに軍資金の隠し場所と思しきところを探索したものの発見する事はできず、代わりに鉄砲や刀などの軍装品、珍品などを押収して、上野介の首級とともに高崎安国寺に運び込みます。
おそらくそれらの珍品は、高崎に駐屯していた大音龍太郎など新政府軍の者たちが私したのでしょう。

さらに、東善寺に残した上野介の家財道具・雑物は、払い下げて金に換えようと考えます。
この払い下げに参加したひとりが、高崎宿本町の肴渡世・飛騨屋岩崎源太郎です。
源太郎は天保六年(1835)生まれということなので、この時、33歳でした。

源太郎は、勘定奉行までした小栗上野介の家財・雑物と聞いて、さぞかし珍品があるだろうと期待していたのでしょうが、目ぼしいものは既に新政府軍に持ち去られた後でした。
それでも、味噌なら店で売ることもできるだろうと、数十樽を買い取って帰ってきたのです。
もちろん、その味噌樽の中に二分金が隠されていようとは、夢にも思わずにです。

権田村から戻ってきた源太郎の店に、近くの蝋燭屋・清水元七が早速やってきます。
「殿様が食ってた江戸の味噌じゃ、さぞうまかんべえ。」と思ったのでしょう、二樽買い込んで帰ります。

その時の状況を、早川珪村はこう記しています。
其の時、同町の蠟燭淸水事(こと)淸水元七も飛彈源より味噌二樽の分買爲したるに、其のなかより巨多の二分判を發見せるを以て猶數樽の買受方を申込みたるも、飛彈源方にても已(すで)に二分判の在ることを發見したる後なれば需(もと)めに應ぜざりしと云へるが、淸水元七の家も不幸續きにて高崎にも住み難くなり東京に出でたる由なるが、今は如何なりしや知る人もなきに至れり。」

元七が帰った後、源太郎も味噌を掬い出そうとして初めて、中に隠し込まれた二分金を発見したようです。

そこへ、先ほどの清水元七「あと数樽売ってくれ。」とやってきます。
元七も味噌樽の中の二分金を見つけたのに違いありません。
すでにその理由を知る源太郎は、何と言って断ったのか分かりませんが、求めに応じなかったという訳です。

その後の源太郎について珪村は、「俄かに富有となりたるも、・・・數年ならずして亦元の赤貧となりたり」と言っています。

明治十八年(1885)発行「上州高崎繁栄勉強一覧」の上位に、「本丁(町)魚 飛彈屋源太郎」の名が見えます。

思いがけず手に入れた上野介の二分金が、家業を大きくする資金となったのでしょうか。
二分金が通用したのは、明治七年(1874)までだったそうですが。

さらに時を経た明治三十年(1897)発行の「高崎繁昌記」には、岩崎源太郎「飛騨屋」の他に2軒の「飛騨屋」が登場します。

きっと、支店か暖簾分けをした店なんでしょうね。
こうしてみると、珪村のいう「數年ならずして亦元の赤貧となりたり」というのは、どこまで真実なのか分からなくなります。

実は、岩崎源太郎は明治十九年(1886)52歳で他界し、赤坂町恵徳寺に葬られています。

後継ぎのいなかった源太郎は、越後で農業をしていた甥の森田増吉を養子に迎え、二代目源太郎として店を相続させていたのです。

ですので、明治三十年の「高崎繁昌記」に載っている岩崎源太郎は、二代目ということになります。

しかし、明治三十七年(1904)発行の「群馬縣榮業便覽」になると、岩崎源太郎の名前は見えなくなります。
二代目・源太郎も、明治三十三年(1900)に50歳の若さで急逝しているからです。

田原金次郎米木常吉は引き続き塩魚・乾物を商っていますが、「飛騨屋」の屋号は書かれていません。

本家がなくなって、そのまま屋号を使う訳にいかなかったのかも知れません。

それにしても、早川珪村はなぜこの一文を生前に投稿しなかったのでしょうか。
「上毛及上毛人」主宰の豊国覺堂が、文末に追記したこの一文が、何となくその理由を示唆しているような気がします。
覺堂曰、此稿は大正四五年の頃になりしものなるべし。
筆者(珪村)が小栗研究に没頭せしは明治四十二三年の頃よりと記憶す。當時吾等と數々談し合ひたる事あるなり。」

相当前に投稿されていたことが分かります。
何事も綿密な取材を行う珪村のことですから、きっと生き証人への聞き取りも重ねて投稿したことでしょう。
にもかかわらず、覺堂等編集者が話し合いをして、発表を控えたという風にとれます。
当時まだ実在する関係者への配慮があったのかも知れません。
あるいは、推測を含む内容が、常に検証を重んじる珪村の名を傷付けることを、危惧したのかも知れません。
その珪村も亡くなり、時代も昭和に入ってほとぼりも冷めたということで、抑えていた投稿文の発表に踏み切ったのではないでしょうか。

いずれにしても、あまり知られていないこの話、後世に語り継ぐことも必要だと思いました。

さて、次回からはまた、例幣使街道の散歩に戻るとしましょうか。

(参考図書:河野正男氏著「小栗上野介をめぐる秘話」)



  


Posted by 迷道院高崎at 08:23
Comments(6)◆高崎探訪例幣使街道

2014年04月13日

例幣使街道 寄道散歩(6)

台新田の交差点から下り坂になります。
「清水坂」という名前が付いているそうです。

昔はもっと急坂で道幅も狭く曲がりくねっていたそうで、坂の両側からはいつもきれいな清水が湧き出ていて、坂を上る人や馬の喉を潤していたといいます。

坂を下りきると、いい風景が左手に広がっています。「紺屋屋敷」があったという高台の土地、藍染に利用したという粕川の流れです。

「白銀橋」という橋の由来が気になりますが、分かりません。


白銀橋を渡ると、道は丁字路になりますが・・・。






旧例幣使街道は、丁字路を突っ切った先の細い道です。→


←明治四十年(1907)の二万分一地形図では、台新田から真っ直ぐ道が通っているのが分かります。





昭和三十七年(1962)から着工した「日本原子力研究所 高崎研究所」により、現在の例幣使街道は大きく迂回することになりました。

←まだ原子力研究所の建物が建つ前、昭和三十年(1955)頃の航空写真には、旧例幣使街道の痕跡が見えます。

黄色い敷地境界線の上と下につけた赤い丸印をつなげたラインが、旧例幣使街道です。






行けるところまで行ってみましたが、原研の高いコンクリート塀に阻まれます。

塀によじ登って覗いてみましたが、それを拒むような高藪が見えただけでした。






あきらめてUターンすると、道端に道標らしきものと、何やら平べったい石が置いてあるのが目に留まります。


平べったい石も、どうやら道しるべのようです。

この道が、旧例幣使街道であった証です。

明治三十五年五月
岩鼻村
大字綿貫村
高田文治郎建之
西
くらがの十八丁
たまむら十八丁

まへばし三里
いわはな二丁
ふじ於か二里

長細い道標の方は、風化して読めない文字があります。

でも、「高崎の散歩道第三集」にちゃんと載っていました。

右 玉村町十八町 伊勢崎三里
左 倉賀野町十八町 高崎市二里

右 前橋市 三里
左 岩鼻二町 藤岡二里 新町一里

綿貫青年団

大正十年三月二十一日

道しるべに従って北・まへばし方向に進むと、すぐに前橋藤岡線に出ます。






原研に沿って進み、最初の信号を右に曲がるのが新例幣使街道です。

いくらも歩いていませんが、今日はここまでといたしましょうか。


【旧例幣使街道の道しるべ】




  


Posted by 迷道院高崎at 08:51
Comments(6)◆高崎探訪例幣使街道

2014年04月24日

例幣使街道 寄道散歩(7)

久しぶりに大風邪を引いてしまいまして、いやー、参った参った。
やっと、ブログを書く気力が戻ってきました。

前回は、綿貫町の信号まで来たところでした。

今日は、この信号を右折して玉村方面へ向かいます。





右折して80mほど行ったところに、いかにも古そうなコンクリートの柵があります。→






その傍に、よく見ると「陸軍用」と彫られた杭があります。

たぶん「陸軍用地」で、旧陸軍岩鼻火薬製造所の境界地を示す杭なんでしょうね。
よく残っていたものです。

また25mほど行って道路の反対側をみると、一見、造成中の道路のように見える空き地があります。

これが実は、昭和二十年(1945)に廃線となった「岩鼻軽便鉄道」の線路跡なんです。

「岩鼻軽便鉄道」は、旧陸軍岩鼻火薬製造所でつくった火薬を、倉賀野駅まで運ぶ専用鉄道でした。
もう大分前ですが、「銀河鉄道?」という題で記事にしたことがあります。

前回掲載した、昭和三十年(1955)の航空写真をもう一度見てみましょう。

左下からカーブを描いて原研の敷地境界線に接しているのが、「岩鼻軽便鉄道」の廃線跡です。

その先に、何となく一本のラインがあるように見えますが、おそらくこれが火薬製造所への引き込み線の痕跡でしょう。

また300mほど行くと、小さな石祠がひとつだけぽつんとあって、何だか気になります。

どこかの屋敷稲荷だったのか、それとも何か謂れのあるものなのか、コップが置いてあるので今でも誰かがお世話をしているようですが。

そのすぐ先にあるのが、「綿貫不動尊」です。







もともとは古墳で、「不動山古墳」という名前が付いているようです。


石段を上がってお堂の裏に回ると、この古墳に葬られていた誰かの、石の棺が置かれています。

その人も、まさか自分の棺がほじくり出されて晒し物になるとは、夢にも思っていなかったでしょうね。





石段を降りると、麓に板碑が建っています。

うーん、「馬頭尊」・・・かな?





その後ろには、満開の椿の花に埋もれるようにお地蔵様が座ってました。

「綿貫不動尊」から400mほどで、群馬の森の北入口です。
病み上がりの身なので、今日はここまでといたしましょう。

みなさんも、風邪にはお気を付けて。
では、ごきげんよう。


【綿貫不動尊】




  


Posted by 迷道院高崎at 21:01
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2014年05月01日

例幣使街道 寄道散歩(8)

今日は井野川に架かる「鎌倉橋」からスタートです。

この橋の名になぜ「鎌倉」がつくのか、確かなことは分かりませんが、この辺の地名を「八幡原」と呼ぶのも、何となくつながりがありそうです。

峰岸勘次氏は「高崎の散歩道第三集」の中で、地元の由来話としてこのようなことを書いています。

むかし源頼朝が東征に赴く際、病に倒れ、八幡原の興福寺(現存していない)に身体を休ませた。
そして寺のおみくじを引いたところ、『鎌倉になぞらえた土地にせよ、さすれば病は治癒するであろう。』と出た。
頼朝は早速、この土地を調べさせたところ、烏川・井野川の合流点の八幡原が鎌倉とそっくりの地形だったことを喜び、この地形を背景とし、付近の住民に命じて神社や寺を建てさせた。
この時若宮八幡宮を勧請したところ病気平癒し、元気を取り戻して草津へ向かったと伝えられる。」
「滝川村誌」では、長福寺となっている。

現在の「鎌倉橋」は昭和四十三年(1968)に架け替えられたもので、それ以前は旧例幣使街道に架かっていた旧「鎌倉橋」を渡っていたため、橋の前後で道は大きくカーブしていました。

しかも、急坂とあって交通事故が絶えず、地元住民の要請で新しい橋が架けられ、現在のような真っ直ぐな道となった訳です。


川向うへ回って対岸を見ると、旧「鎌倉橋」の基礎コンクリートと思しきものが確認できます。→

その幅からも昔の道の狭さが想像できますが、こちら側に残っているのが旧例幣使街道です。↓





道標が残っていなければ、ただの農道と思ってしまうでしょう。

「鎌倉橋」から続くこの坂を、「鎌倉坂」と呼ぶそうです。→

それほどの坂には見えませんが、きっと昔はもっと勾配が付いていたのだと思います。



二つ南にある坂の方が、それらしく見えます。

また、道祖神なんかも建っていて、よっぽど旧例幣使街道っぽいです。

写真では読めないかも知れませんが、真ん中の碑に、

「此ノ道祖神ハ 耳ノ神様トシテ 年々オ仮屋造リナレド 土地改良ノ際ニ文ヲ建テ 永代ニ祀」

と書いてあります。

「鎌倉坂」に戻り旧例幣使街道を進むと、150mほどであっという間に本線と合流します。

源頼朝との関係もあるという「圓福寺」への寄り道は、次回ということにいたしましょう。



【鎌倉坂】

【道祖神】




  


Posted by 迷道院高崎at 20:24
Comments(2)◆高崎探訪例幣使街道

2014年05月08日

例幣使街道 寄道散歩(9)

旧例幣使街道から新例幣使街道に出たところに、「八幡山圓福寺 この先」の看板が立っています。

「圓福寺」はもと「圓光寺」という名前だったそうですが、むかし八幡原にあった「長福寺」というお寺の「福」の一字を取って、「圓福寺」にしたといいます。

前回の記事にも書きましたが、廃寺になった「長福寺」は、源頼朝が東征に赴く際に八幡原で病に倒れ、そのとき身体を休ませたと伝わるお寺です。

新旧例幣使街道の合流点から、南へ320mほど行くと「圓福寺」の山門です。

「圓福寺」の山号は「八幡山」ですが、院号は「頼朝院」となっていて、先の伝承に因んでいることが分かります。

広い境内と墓地の奥に、小高い塚があります。

これも、もしかすると古墳なのかも知れません。




塚に上る石段の両脇には、沢山の石仏や石祠が並んでいます。




そういえば、墓地入り口の造成記念碑の傍らにも、沢山の石仏が並んでいましたが、無縁仏の脇仏ででもあったのでしょうか。

塚上には、最近建て直したものらしい、きれいな観音堂があります。




墓地を辞して本堂に一礼し山門を出ると、駐車場の一角に何か石碑が建っているのが目に入りました。

「八幡原 稚蚕共同飼育所跡」と刻んであります。

碑文によると、この「稚蚕共同飼育所」は昭和四十一年(1966)設立で昭和六十一年(1986)閉鎖になるまで、養蚕の近代化に寄与したとあります。

上毛新聞社の「シルクカントリー群馬」に、その詳しい記事が載っていました。
  ◇「養蚕の近代化後世に
       高崎・八幡原 稚蚕飼育所跡に記念碑」

ここも、「高崎の絹遺跡」だったのですね・・・。

さて次回は、造立によって頼朝の病気を平癒させたという、「若宮八幡宮」まで足を延ばしてみましょう。


【圓福寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:02
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2014年05月18日

例幣使街道 寄道散歩(10)

円福寺山門から南へ150mほど行くと、すごい竹林が見えてきます。

竹林を過ぎて左に折れると、立派なお屋敷があります。↓



竹林は、このお宅のものだったんですね。

お屋敷の周りにはぐるっと堀が廻っていて、いわゆる環濠屋敷です。

後で調べてみたら、代々八幡原村の名主を務める原田家のお屋敷で、これから行く「若宮八幡」の宮守をずっとしていて、「お八幡(はちまん)」と呼ばれる由緒あるお宅でした。

「お八幡」の近くにも大きな家が沢山あり、昔の村の様子を想像することができます。




蔵の水路に面した扉から張り出したステップは、どんな使われ方をしたのか興味津々です。

さらに南へ200mほど行くと八幡原の集落を抜け、前方にこんもりした森が見えてきます。

あの森が「若宮八幡」のある所かなと思い、行ってみました。



来てみたら、厳重な柵に囲まれていて中に入ることはできません。
どうやら、ここではなかったようです。

集落に戻って、農作業中のご婦人に伺うと、
「あぁ、八幡原の八幡様かい。その道ぃ、真っ直ぐ行った突き当りだよ。」と言います。
「あの森のもっと先ですか?」と聞くと、
「そうそう、うん、すぐだよ、わきゃねえよ。」
ということなので、再び歩き始めました。

「わきゃねえ。」と言われましたが、延々と柵が続いていて、なっから先みたいですけど?






群馬県警本部が「火気厳禁・立入禁止」にしている柵の内側は、旧陸軍の火薬庫跡です。

玉村岩鼻を結ぶ道を横切った先に見える森が、どうやら「若宮八幡」のようです。

「わきゃねえよ。」と言われたところから、700mでした。
たしかに、大した距離じゃありません・・・。

石柱にはただ「八幡宮」とのみ刻まれ、意外とこじんまりしています。






素朴ながら立派な神楽殿があります。

社殿も素朴で、いかにも村の鎮守様という佇まいです。







ところが中を覗いてみると、格子天井には色こそ褪せていますが、素敵な天井絵が描かれていました。

明治十六年(1883)発行「上野国群馬郡村誌」八幡原村の項には、「往古ヨリ村内ニ八幡ノ社アルヲ以テ村名之ヨリ起ルト云フ」と書かれていますので、小さいながら、村名の由来となる由緒ある社なんです。
次回は、その由緒について少し詳しくご紹介いたします。


【「お八幡」原田家】


【八幡原の若宮八幡】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:43
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2014年06月01日

例幣使街道 寄道散歩(11)

例幣使街道寄道散歩、だいぶ間が空いてしまいました。
八幡原「若宮八幡」からです。

「上野国神社明細帳」による「八幡原若宮神社」の由緒です。

建久年間(1190~1198)右大将頼朝卿当国ヲ巡行ノ時当地ニ御在留有之節八幡社ヲ創立シ鎌倉本社ノ分社ト為セシト云フ」

800年以上も前に源頼朝がここに来た時に創建したというんですから、すごい由緒です。
ほんとかなぁ?という感じですが、昭和五十九年(1984)発行「瀧川村誌」「八幡原 若宮八幡宮」の項には、こんな記述があります。

往古此の土地は、上野国守護安達遠(藤)九郎盛長の館跡と云われ、南は烏川の絶壁を擁し西は井野川を構え、東北は土堤を周らし、西に近く中山道を控え要がいの地となっている。
其の昔、建久年間右大将源頼朝郷(卿)当国御巡行の途、当地に御任留になり、此の里に八幡宮を勧請し、鎌倉本社の分社としたということである。
当村原田新左衛門なるもの宮守となり、地所の所得を以て、祭典費及び修繕費に充てて来たが、明治三年岩鼻県が、管轄するようになり、上知するところとなった。」

ここに出てくる「安達藤九郎盛長」という人は保延元年(1135)の生まれで、上野国守護(奉行人)に就任したのは平安時代末期の元暦元年(1184)頃だそうです。
源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻とし、頼朝の信頼も厚かった藤九郎は、建久十年(1199)に頼朝が亡くなると出家し、その翌年の正治二年(1200)に頼朝を追うようにこの世を去っています。

こう見てくると、「上野国神社明細帳」の由緒に書かれている話も、「瀧川村誌」に書かれている話も、まんざら嘘でもないような気がします。

頼朝自身が創建したというのは疑わしいとしても、頼朝が腹心・藤九郎の治めるこの地を訪れ、藤九郎が主君・頼朝を迎えるにあたり、鎌倉所縁の「若宮八幡宮」を勧請・創建したということならば、それほど無理のある話ではないでしょう。
「八幡原」という地名も、「鎌倉坂」という呼び名も、きっとそういうことなのでしょう。

安達藤九郎盛長の館跡とされる「八幡原城址」の図が、古城塁研究家・山崎一氏により描かれています。

山崎氏は、「戦国中期以前の築城であろう。」と記しています。

今は関越自動車道が通り、ずいぶん様子が変わってしまいましたが、昭和四年(1929)の地図で見ると、「八幡原城」がどの辺にあったか見当が付きます。

「若宮八幡」は左上の位置ですから、けっこう離れた場所であることも分かります。
もっとも、昔の人やこの辺の人にとっては、「わきゃねえ。」距離なんでしょうが。

さて、だいぶ例幣使街道から離れてしまいました。
戻ることにいたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:52
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2014年06月08日

例幣使街道 寄道散歩(12)

「若宮八幡」から旧陸軍火薬庫の角まで戻ったところです。
右の道を真っ直ぐ行けば、八幡原の集落を抜けて例幣使街道へ、左の道を行けば岩鼻です。

右の地図でいうと、右下の「八幡原陸軍火薬庫」「庫」の字の所にいます。

例幣使街道へ戻ろうと思ったのですが、ちょっとだけ、ちょっとだけ岩鼻方面へ行かせてください。

この地図では、まだ井野川に橋は架かっていませんが、今は立派な橋があります。
名前を「鶴亀橋」(つるかめはし)といい、昭和四十九年(1974)に架橋されています。

ずいぶん縁起のいい名前ですが、実は、この橋の下流に「鶴亀石」というのがあって、それに因んだ名前だそうです。

昭和五十九年(1984)発行の「瀧川村誌」に、こんな記述があります。

大字八幡原若宮八幡宮の崖下井野川の中に二つの巨岩がある。
名付けて鶴亀石といっている。
一つは其の形鶴に似てい、又一つは亀によく似ている処からかく名付けられたものと思われる。
現在其の上流(井野川)に架けられた橋も鶴亀橋と名付けられている。
昔は、この岩の辺は村の子供の水あび場として、親しまれていたが、今は川瀬も変わり岩の形も大分変わって来た様に思われる。」

「鶴亀橋」の上から下流を眺めてみましたが、それらしい巨岩は見えません。

橋の下に人が見えたので、急いで降りて尋ねてみました。

「あぁ、昔はあったんだよ、おっきい石が。 今は、見えねぇと思うよ。」
土砂で埋まっちゃったんですか?と聞くと、
「井野川は普段はこういう静かな流れだけど、大雨が降るとすげぇかんね。動いたり、埋まったりするだんべね。」
というお話しでした。

「若宮八幡」の崖下にあったということですが、ちょうど井野川烏川の合流点です。

烏川の流れも、あの大きな「聖石」でさえ埋もれさせてしまうほどですから、「鶴亀石」も二つの川の力には敵わなかったのでしょう。
それにしても、どんな形の石だったのか、見てみたかったですね。

橋を渡りきると右側に、何とも古めかしい門があります。

旧陸軍岩鼻火薬製造所の門なのでしょう。
当時なら、衛兵が銃剣を持って立っていたのでしょうが、今は監視カメラがその役を担っています。

終戦の翌年、「陸軍岩鼻火薬製造所」跡は「日本化薬(株)」に貸与され、黒色火薬と導火線の製造が行われていました。
「日本化薬(株)」が医薬品製造の新工場として高崎工場を新設したのは意外と最近で、昭和四十六年(1971)です。
「鶴亀橋」は、その3年後に架橋されたことになります。

さて、寄り道が過ぎました。
例幣使街道へ戻りましょう、戻りましょう。


【鶴亀橋】


【旧陸軍岩鼻火薬製造所の門】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:11
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2014年06月15日

例幣使街道 寄道散歩(13)

例幣使街道に戻ってきました。

八幡原町交差点です。
前方の角地に、お堂が見えます。

そばまで行くと、真新しい大きなお堂と、小さなお堂が並んで建っていました。









大きなお堂には、下滝町にある慈眼寺の第53世住職・吉井良弘師の書で、「観音堂」と書かれた額が掛かっています。

中を覗いてみると厨子の中は空っぽで、写真が飾ってあるだけです。
盗まれちゃったのでしょうか。

小さなお堂には、「梅之木十一面観世音菩薩」という額があります。

この観音様については、「高崎の散歩道 第三集」にこのような記述があります。

八幡原交差点の北東側に、高崎市消防団第十九分団の詰所がある。その裏に小さなトタン張りの観音堂があり、中には十一面観世音の石仏が鎮座している。(中世の石仏とおもわれる)
通称、木の股観音の名の如く、以前は例幣使街道沿いの大木の根元に抱きかかえられていた。
その大木が枯死するに及び、村人たちは病除・滅罪・幸福を祈りながら、現在地に移したものといわれる。」

写真をよく見て頂くと、石の十一面観音像の脇に枯れた木の幹が置いてあるのが分かるでしょうか。
きっと、これが枯死した梅の木の幹なんでしょう。
もしかすると、「梅之木十一面観世音菩薩」と書かれている板も、そうなのかも知れませんね。

ところでこの観音堂には、小栗上野介の命により高崎藩に弁明に赴き捕えられて斬首された、養嗣子・小栗又一と家臣三人の亡骸が埋葬されていたといいます。
小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」で見てみましょう。

四人の首は牢屋敷近くの晒し場に梟首された。
又一の首は曝した直後に下ろされて首桶の中に入れられ、強い焼酎につけられた。
そして父・小栗上野介忠順の首と共に首実検の為、館林城内の総督府に送られることになり、四名の遺体は小栗の領地群馬郡権田村から組頭池田九平と、下斉田村の名主田口十七蔵(となぞう)等が貰い受けて、同村根小屋の観音堂に埋葬した。
その後晒された家臣三名の首も下げ渡されて、下斉田村墓地に胴体と共に葬られた。」
字前の誤り。字根小屋は昔の観音堂があった所。
埋葬したのは字前の現在地に移された観音堂。

館林に送られた小栗上野介又一の首級は、首実検の後も戻されることはなく、館林加法師(かぼし)の法輪寺境内に埋められました。

首を失った上野介の胴体は権田村東善寺の裏山へ、又一の胴体は下斉田村名主・田口十七蔵持ちの「観音堂」に埋葬されます。

しかし、「観音堂」例幣使街道沿いにあり、新政府軍や高崎藩の目につきやすいということで、すぐに村の奥にある「阿弥陀堂」の境内に移されます。

「観音堂」から北東220mほど入ったところに、「阿弥陀堂」はあります。







入口に、明治四十五年(1912)建立の「小栗上野之介殿父子之墓地入口」と刻まれた石柱が建っています。

お堂は傷みが激しいようで、建屋は傾き、戸を建て廻してあって中を見ることは出来ません。






でも、立派な鏝絵や篆刻された額を見ると、大切にされていたんだなと思います。

その「阿弥陀堂」境内の奥まった一角に、小栗又一と家臣達の墓があります。





又一の墓石には「慶応四戊辰年閏四月七日」、家臣の墓碑には「小栗父子幷臣下四十五年忌」と刻まれています。

小栗父子の四十五年忌供養は明治四十五年(1912)に大々的に行われたようで、百余名の寄進者により墓地を増築し、燈籠一対と玉垣、家臣の墓碑もその時建立されています。
「阿弥陀堂」入口の「小栗上野之介殿父子之墓地入口」の石柱もこの時造られ、初めは例幣使街道沿いに建てられていたのだそうです。

この石柱に刻まれた「父子の墓地」という文字が、後に物議を醸すことになるのですが、その話は次回ということに。


【観音堂】


【阿弥陀堂】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:54
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2014年06月22日

例幣使街道 寄道散歩(14)

小栗又一主従の墓がある下斉田阿弥陀堂
入口に建つ石柱に、「小栗上野之介殿父子之墓地入口」と刻まれたことで、後に論争が起きることとなります。

又一の養父・小栗上野介忠順権田東善寺に埋葬されていて、ここには墓石もないのに「父子之墓地」とは・・・という訳です。

昭和五年(1930)発行の「上毛及上毛人 第153号」に於いて、小栗上野介研究の先駆者・早川圭村が大正四、五年に書いたとされる一文が掲載されました。

近年下齋田村田口高義等は同村に小栗又一のみならず上野介殿の首級も埋葬しありと盛んに吹聽し、其の首級傳來の徑路を説て曰く、小栗父子の首級館林城本丸に於いて岩倉惣督の實檢を終り、將に法輪寺墓地に埋葬せんとせる刹那、高橋村人見宗兵衛・櫻井與惣次等掛りの者等へ手を廻し窃取の名にて下渡を受け、櫻井某と云へる者、潜に下齋田村に持參し、田口十七藏の倉庫中に隱匿し數年後、今の墓所に埋葬したる者なるが、憚る所ありて上野介の墓所は建立せざりしも現に其の首級を目撃し、且埋葬したる者も存命し居るなりと稱し居るも・・・」

と、小栗父子の首級が下斉田村に埋葬されているという説を紹介した後、圭村自身の取材に基づく論を述べています。

小栗父子首級の徑路を知らざる者は或は首肯すべきも現に法輪寺墓地を發掘し權田村迄來りたる高橋村稻岡政五郎、權田村塚越房太郎事次郎三郎は存命し、宗兵衛の男猪之丞の談と渡邊忠七の其の當時館林藩廰へ差出たる始末書寫と皆同一轍にして疑ふべき餘地なく、人見猪之丞に於て下齋田の説を非認する處より察するも、田口高義等の唱道する説は根抵なき誣説にして、信ずるに足らざるなり

と、小栗上野介の首級も下斉田に埋葬されているという説を否定しています。
明治四十五年(1912)に例幣使街道沿いに建てらた「小栗上野之介殿父子之墓地入口」の石柱が、後に阿弥陀堂に移設されたのも、このような指摘に配慮してのことかも知れません。

大正前期に早川圭村が、「館林法輪寺から小栗父子の首級を窃取したのは権田村民である。」とし、今はそれが定説となっている訳ですが、昭和五十九年(1984)に発行された「瀧川村誌」では、「伝説」の項ではありますが、「首級を窃取してきたのは下斉田村民である。」と記載されています。

一方領民としてはこの父子の悲惨な死を見過ごすに偲びず殊に下斉田村名主田口平八郎は、上野介在世中殊の外その寵を蒙っていたのでその情も一入切なるものがあったろうと想像がつく。
そこで彼は或夜ひそかに小者西原小平を伴って又一の首級を盗んで下斉田に持ち帰ったのである。この時の事情を筆者(田口輝美)は小平氏在世中彼より直接聞くことを得た。

小平氏の話によると四月九日だったと思うが、平八郎旦那が夕方突然来て蓑笠を着て足慥えで直ぐ出掛けるから支度しろと云われた。その夕方は小雨模様であった。
何処までお供をするかと聞くと黙って従いて来いと云われて鋤を持たせられた。
途中で若殿様の首を盗みに行く事を明かされたのである。持ち帰った首級は下斉田観音堂の境内に埋めたのであるが発覚するのを心配して数日後現在の阿弥陀堂に移埋したのである。」

実は小栗上野介の首級の埋葬地については平成になってもなお異説が出てきて、平成八年(1996)の上毛新聞「オピニオン21」には、こんな記事が掲載されました。


これには、東善寺村上泰賢住職がすかさず反論しています。


ただ、小栗上野介の首級の埋葬場所は、本当のところ何処なのかというのは謎に包まれているようなのです。
もういちど、早川圭村の記すところを見てみましょう。
(大正十二年発行「上毛及上毛人 第70号」)

以上(身首併埋の話)は、表面傳ふる所の説にして一説に依れば、小栗父子の墓地を發掘して他に一文の價値なき首級を窃取したる者は、必ず其縁故關係ある者ならんとは何人も直に想像する處なれば、權田、下齋田兩村へは如何なる鑿索のあるも知らざれば、暫く首級の所在を秘密とし、時機を見て其身首を一に爲すに如かずとして、下斉田村にては十七蔵の倉庫の土中に隱匿し數年後墓所に埋葬し、權田村にては觀音山上に地を相し土中深く隱匿し、目標として稚松を栽植したり。」

特に権田村中島三左衛門は非常に慎重な人物だったらしく、新政府が首級を取り戻しに来ることを予想して、仲間内にも知らせず入念な埋葬地偽装を行います。

三平次(改名後の三左衛門)は元來用意周到容易に人に許さゞる特質にて、一味の者より露顯せん事を惧れ、自分一己にて其れより直南方數十間の所に移し他に小栗家の寶物併せ土中深く埋め其上に大石を置き石の兩端に稚松二本を植て目標と爲したるが改葬するに至らず三平次死去し、其男(むすこ)喜平次のみ其所在を知りたるが又改葬するに至らずして喜平次頓死し、今は其所在を知る者なきに至りたるも、(略)
又觀音山上首級を埋めたる場所の見取繪圖もありたるが、喜平次頓死後如何に捜索するも見當らずと云へり。
如上の次第にて今は全く其的確の場所を知る事能はざるは遺憾の事と云ふべきなり。」

という訳で謎は残りますが、小栗上野介権田の地に、又一下斉田の地に首級共に埋葬されていることは間違いありません。

今は共に高崎となった両地区が、日本近代化の父・小栗上野介の知行地であったことを誇りに思い、その偉業を後世に伝えていくことが何よりの供養と思います。

今日は長い記事を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:34
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2014年06月29日

例幣使街道 寄道散歩(15)

「阿弥陀堂」を出て西へ60mほど行ったところに、名主・田口十七蔵邸があります。

小栗又一の首級を、権田村まで引き取りに行ったという名主の家です。

行ってみました。

すごい長屋門に圧倒されます。
この長屋門は、高崎市都市景観賞を受賞していますが、その選考理由を見ると、

「昭和13年に築造された、両側に住居や作業小屋等の長屋を備えた長屋門であって、けやきの一枚板を使った豪華な門扉を持った重厚な建物である。戦国時代の下斎田城の本郭に位置し、屋敷の周囲に濠が回されている。また、小栗上野介が支配した知行所の名主としての歴史的背景も、景観を印象づける一翼を担っている。」
とあります。



前掲の図を見ると、「鎌倉時代の環濠館」とありますが、その環濠が今もその形跡を保っているのは、すごいことです。

環濠沿いにぐるっと回って南側の土居上を見ると、まだ真新しい感じの石碑が建っています。

なになに?
「観音堂新築記念碑」とあるじゃありませんか!

おー、ここに「観音堂」「阿弥陀堂」の由来が書いてあるじゃないですか。

田口氏の祖先は、例の安達藤九郎盛長の家臣・斉田氏で、室町時代の田口兵庫という人が「観音堂」「阿弥陀堂」を建立したと書いてあります。

南から西にかけての環濠は、大きな石組みが築かれています。

と、石垣の上に人影が・・・。
目が合い、人様の土地に入り込んだ後ろめたさもあって、思わず「こんにちは!」と挨拶をしました。

そんな私を咎めるでもなく、「どちらから?」と気さくな声にホッとして、「○○から来ました。今、例幣使街道を歩いていて、小栗又一が最初に埋葬された観音堂のことが、そこの碑に書いてあるのを見つけて・・・。」と、言い訳タラタラです。

すると、「あ、それ私が建てたんですよ。」と仰います。
「え?じゃ、田口家のご主人ですか?」
「そうです。」

ということで、思いも掛けず名主・田口十七蔵のご子孫にお目に掛かるという幸運に恵まれてしまいました。

碑の撰文をされたご当主・田口一之さんはとても気さくな方で、下斉田の歴史、田口家の歴史、「観音堂」「阿弥陀堂」の歴史など、いろいろ教えて頂きました。

次回、ご紹介いたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:55
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2014年07月06日

例幣使街道 寄道散歩(16)

田口一也さんに頂いた資料によると、大正から昭和初期の下斉田には環濠屋敷が6ヵ所あったそうですが、現在はこの田口家のみとなっています。

この環濠屋敷だけが残ったのは、規模が比較的大きかったことと、昭和三十二年(1957)まで田口一族が一年に一度の楽しみとして「ケイ取り」をしていたことによるそうです。
掻い掘り、換え掘り、けえぼりとも。池や堀の水をくみ出して干すこと。その時に生息する魚を獲る。

田口氏の祖先とされる斉田氏は「鞘田」「左枝」とも表記され、この斉田地域も平安時代から「鞘田」と呼ばれる、刀の鞘のように長細い地域だったといわれます。
屋敷を取り囲む環濠は防禦の為もあるのでしょうが、農業用貯水池としての機能を果たしていたようです。
農業用水路が整備された昭和五十八年(1983)からは、防火用水として位置づけられています。

田口家の長屋門とその奥の石蔵は昭和七年(1932)に再建、母屋は昭和四十四年(1969)に建設されたものです。

先代の母屋は、明治三十一年(1898)に建てられた、3つの越屋根を持つ本格的な養蚕建屋であったそうで、蔵も、正面に見える石蔵の南に1棟、その北に2棟あったということです。

田口さんから、「観音堂」が昔あったという場所をお聞きしました。

「阿弥陀堂」の東150mほど、関越道のアンダーパスになっている所にあったそうです。

かつてはここに大きな梅の木があり、その梅の木に抱きかかえられるようにあった観音像は、「梅の木観音」とか「木の股観音」と呼ばれて多くの人に親しまれていたといいます。
明治初年の廃仏毀釈によって、現在の「観音堂」の敷地に移されました。

その「観音堂」に安置されていたのは、「聖観世音菩薩」像だそうです。

堂の改修前、煤が付着して真っ黒になっていた観音像を調べてみると、台座の裏に室町時代後期の大仏師・田中典部の銘が読み取れたとのことです。

平成二十三年(2011)堂の新築にあたって、慈眼寺吉井良弘住職が無償で観音像をクリーニングに出してくれたお蔭で、作った当時の金色に光り輝く姿を取り戻したそうですが、あまりにも金ピカになり過ぎたので、少し色が落ち着いてから堂に戻すんだ、と田口さんが仰っていました。

中を見られなかった「阿弥陀堂」には、阿弥陀三尊が祀られているということです。

例の、「小栗上野之介殿父子之墓地入口」の石柱の経緯についてお聞きしたい衝動を、必死に堪えていたのですが、田口さんの方から話を切り出してくださいました。

お話しを正確に伝える必要があるので、田口さんがお書きになった資料から引用させて頂きます。

阿弥陀堂入口にある小栗父子の墓を示す石柱は、又一忠道が斉田に葬られているのは確かだが、義父の小栗は埋葬されていないので奇異な感じを受ける人がいると思います。
確かに上野介の石塔はありません。しかし、想像し考えてみて下さい。幕末の時代にあのような悲劇的な死に方をした親子を、揃って供養しないとしたらおかしなことになるのではないでしょうか。

この標柱には、当時の人々の上野介親子への哀悼の気持ちが現れているといっても過言ではないのです。
本当でしたら、堂々と偉人を讃え石塔ないしは顕彰碑を建立しても良いのではないかと思います。

したがって、東善寺には忠道の亡骸を埋葬してないにもかかわらず忠道の石塔も祀られているのも頷ける訳です。」

田口さんの小栗上野介を思う熱い気持ちが、ジンジンと伝わってきました。

その思いを表したものが、田口家の庭に建っています。
平成十六年(2004)小栗上野介没後135年を記念して、田口さんが建立した歌碑です。




こんな風に書いてあるようです。(あってるかなぁ。)

丹宇呂久乃濱邊まで
異人らも多くま可り支天以と
別を於しむさま奈れ者

心あ里天ゑ三毛
加久や志多わまし神乃
三國の臣奈礼者古所
忠順

万延元年(1860)日米修好通商条約の批准書交換のため、正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、監察・小栗豊後守忠順を代表とした遣米使節団が派遣されました。
米国で大歓迎を受け、無事任務を果たした使節団がニューヨークのホテルを出てマンハッタンの港に着くまで、道々に多くのニューヨーク市民が集まってきて、船が港を出る時には日の丸の小旗を振って別れを惜しんだそうです。

碑文の和歌は、この様子に感激した小栗忠順が詠んだもので、現在唯一残っている忠順直筆の書だとか。
たまたま、村垣の手帳の中に書き残されていたそうです。
田口さんに読み方を教えて頂きました。

 にうよろく(ニューヨーク)の浜辺まで
 異人らも多くまかり来て
 いと別れを惜しむ様なれば

 心ありて
   えみ(笑み)もかくや したわ(慕わ)まし
              神の御国の 臣なればこそ
 

この石碑建立を見ても、田口さんの小栗上野介への思いの強さが分かるでしょう。

帰りがけ、長屋門に掲げられている表札を見て「あれ?!」と思いました。

飯島仲秋・・・?




もう5年も前の話ですが、倉賀野安楽寺で見た新「倉賀野八景」の作者が、飯島仲秋氏だったんです。

田口さんにお尋ねすると、お父上だそうです。
養子に入ったんだけど、前の苗字を使っていたということでした。

いやー、またまた不思議なつながりを感じながら、感謝しつつ田口家をおいとまいたしました。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:46
Comments(4)◆高崎探訪例幣使街道

2014年07月20日

例幣使街道 寄道散歩(17)

久し振りの、例幣使街道です。

とは言うものの、下斉田の信号から関越自動車道の下を潜ればすぐ玉村で、迷道院高崎のテリトリーもここまでとなります。





高崎玉村の境となるのが、「滝川」です。
この「滝川」に沿って北へ向かう道は、「佐渡奉行街道」だそうです。



もともとは、中山道本庄で分かれて、玉村~総社~渋川というルートを辿る「三国街道」の本道でしたが、元禄・正徳の頃に高崎から金古を通るルートが整備されると、旅人はみなそちらを通るようになって、こちらは脇往還というか裏街道というか、そんな感じになりました。
しかし、なぜか佐渡奉行が赴任する時にはこの道を使ったので、いつしかこちらを「佐渡奉行街道」と呼ぶようになったのだとか。


面白いのは、佐渡奉行として赴任する時は「佐渡奉行街道」を使うのに、江戸へ戻る時にはこの道を使わず、北国街道から中山道を使うのだそうです。
どうやら、江戸へ戻る時には佐渡の金銀輸送も兼ねたようで、途中宿泊する際には、金銀を一時保管する「御金蔵」が必要となる訳ですが、「佐渡奉行街道」にはそれがなかったからという理由のようです。

因みに、高崎本町には、その「御金蔵」がありました。
「高札場」のあった問屋年寄・梶山家が他所へ移り、成田山光徳寺の参道が通る明治十年(1877)までここにあったのです。


「佐渡奉行街道」を通って佐渡へ渡ったのは奉行だけではなく、多くの無宿人もそうでした。
捕えられた無宿人は年一回にまとめられ、唐丸籠に入れられて佐渡金山へ送られ、過酷な労働を課せられます。
玉村宿もそうですが、無宿送りを迎えた宿では万が一逃亡でもされたら大変と、不寝番を立てて厳重な警戒がなされたようです。

「佐渡奉行街道」は、例幣使街道から80mも行くともう草ぼうぼうで進むことができません。






旧状を留めている所の少ない「佐渡奉行街道」ですが、「昭和大橋」の近くの萩原町にはその面影が残っているらしいです。
そういえば、5年前に「大笠松と渡し舟」という記事で、この辺のことを書いた事があります。

さてさて、例幣使街道高崎境まで来て、踏ん張ってます。
次回も、もうひと踏ん張りして、「滝川」のことについてお話ししたいと思います。


【本町の御金蔵があった所】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:12
Comments(9)◆高崎探訪例幣使街道

2014年08月03日

例幣使街道 寄道散歩(18)

今日は、高崎玉村の境界を流れる「滝川」の話しです。

「滝川」は、遥か吉岡村漆原利根川から取水されている用水です。
なにもそんな遠くから引かなくても・・・、と思うところですが。

そもそも古墳時代の玉村は広く水田が営まれていたことが発掘調査により明らかになっているそうですが、戦国時代にすっかり土地は荒れ果て、江戸時代初期には一面の荒野になっていたといいます。

その荒野を再開発して美田に変えようと考えたのが、江戸幕府関東郡代の任にあった伊奈備前守忠次でした。
忠次は、利根川から取水して玉村に用水を引こうと、高崎萩原で試掘しますが勾配が取れず失敗、もっと上流ならばと前橋下新田で試掘しますが、これも失敗してしまいます。

そこで忠次は、滝村(現高崎市上滝町)の江原源左衛門重久に協力を求めることにしました。
源左衛門は、前橋総社地区の「越中堀」開鑿の経験を持っていたからです。

「越中堀」は、初代前橋総社城主となった秋元越中守長朝が、利根川の崖上にある所領地の開田を目指して開鑿した用水で、秋元氏の官名から「越中堀」と呼ばれました。
源左衛門秋元氏の領民ではありませんでしたが、工事に協力した者には用水の配分を優先するという話に応じたのでした。
秋元長朝は高崎とも大いに関係の深い殿様です。
過去記事「新井堰の人脈と水脈」をご覧ください。

さて、忠次源左衛門とともに調査・検討した結果、利根川からの取水は無理で、西横手(現高崎市西横手町)まで来ている「越中堀」を延長するのが最良の方法と考えます。
しかし、「越中堀」の開鑿に関わった源左衛門は、その取水量が秋元氏領内をも潤しきれていないことを知っていました。

このまま用水を延長することはできないと考えた源左衛門は、秋元氏をこう説得したようです。
「堰を拡張することにより取水量を増加させ、ご領内の配水を十分に満たし、その上で余水を玉村一帯に導水したい。」

この説得が功を奏して秋元氏の承諾が得られ、慶長十三年(1608)から十五年(1610)に掛けて工事が行われました。
この工事により、「越中堀」の取水口は4尺(1.21m)から10間(18.18m)になり、秋元氏領内はもちろん滝村・玉村・芝根村一帯を潤すまでの水量を得られることとなったのです。

秋元氏の「越中堀」に対し、伊奈氏の延長した用水は「代官堀」とか「備前堀」とか呼ばれたそうです。

また、この二つの堀の開鑿には不思議な話が伝わっています。
越中堀の工事の際、取水口付近に、大勢の人夫が力を合わせても取り除くことができない巨大な岩がありました。その折、一人の山伏が忽然と現
れ作業を助けたら、岩が動き、水路ができたといいます。
また、代官堀の工事に際しても、難工事に直面している時、突然山伏が登場して、仕事を手伝ったという話が残っており、後に、この山伏は天狗ではないかと言われ、両用水は天狗岩用水と呼ばれるようになりました。」
(関東農政局HPより)

この「天狗岩用水」が、榛名の方から流れてくる「八幡川」と合流する地点から、「滝川」という名称になります。
「代官堀」開鑿に功労のあった江原源左衛門滝村の住人であり、伊奈氏から「滝の川」と呼ぶことを許されたからだといわれています。

ところで、伊奈氏と源左衛門の間に入って大きな役割を果たした人物に、玉村与六分の土豪・和田與六郎という人がいました。
「代官堀」工事中の援助の他、完成後には伊奈氏の申付けながら、土地三町三反を源左衛門に褒美として与えているのです。

実は、この和田與六郎という人、これまでこのシリーズでご紹介してきた事柄にも深い関係があります。
ということで、次回はちょっとだけ玉村に入り込んでのお話しになります。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:58
Comments(2)◆高崎探訪例幣使街道

2014年08月10日

例幣使街道 寄道散歩(19)

伊奈備前守忠次江原源左衛門重久の間に立って「備前堀(滝川)」開鑿に協力した、与六分の土豪・和田與六郎、その屋敷跡がここだそうです。




現在は、「群馬県立玉村高等学校」になっています。

嬉しいのは、校門を入ってすぐのところに史跡の説明看板を立ててくれていることです。
和田與六郎の祖は源頼朝の重臣・和田義盛の末裔で、建保元年(1213)の和田合戦で敗北してこの鞘田郷に潜居したと言われています。

高崎和田城を築いたとされる和田義信も、和田合戦に敗れて上野国に逃れて来たと言われているので、同族なのでしょう。
(過去記事「鎌倉街道探訪記(8)」に、ちょこっと出てきます。)
因みに、「与六屋敷」和田氏が早川と改姓したのは、江戸時代初めのようです。
また、ここ与六分小栗上野介の知行地でありました。

「与六屋敷」の跡地に、玉村高等学校の前身・群馬県立佐波農業高等学校玉村分校が新校舎を建てて全面移転したのは、昭和二十七年(1952)です。

その頃ここは一面の畑だったということですから、すでに「与六屋敷」は解体撤去されていたことになります。

「与六屋敷」がいつまで残っていたのか定かではありませんが、ここに明治末年の「与六屋敷見取図」というのがあります。

この図の中に、「愿次郎家跡」と書かれている所があります。

愿次郎とは、「例幣使街道 寄道散歩(4)」でご紹介した、あの早川珪村こと早川愿次郎です。

愿次郎の伯母・べんも、「与六屋敷」から分かれた早川太平家の与太郎重時に嫁いでいました。
べんにはふくという長女がいましたが、生まれた時に股関節脱臼を起こして、足が不自由でした。
重時は、足が不自由でも座ってできる商売ということで、ふくに質屋をさせることにします。

そこで、「与六屋敷」の外堀外に二階建ての母屋と二階建ての質蔵、そして平造りの土蔵を建てて、ふくを別家に出したのです。
ふく与作という婿との間に一女をもうけ、津留と名付けます。
この津留に迎えた婿が、愿次郎、後の早川珪村だった訳です。

愿次郎は8年ほど住んだだけでこの家屋敷を売り払い、一家そろって高崎へ移り住んでしまうのですが、後にその高崎で出会うのが本町三丁目の飛騨屋源太郎に関わる、小栗上野介の機密費の話でした。 → ◇例幣使街道 寄道散歩(5)

ところがです。
「与六屋敷」にも、実は小栗上野介の機密費が秘かに隠されていたということは、その門前に8年間住んでいた愿次郎も知らなかったようです。
「与六屋敷」の機密費については、河野正男氏の著書「小栗上野介をめぐる秘話」に書かれているのみです。

当時の小栗上野介に関して厳しい詮索の新政府の通達もあり、早川与六家では機密費のことは世間をはばかり文字通り極秘としていたらしく、家族以外誰も知る人はなかった。(略)
偶然にもこのたび、「早川太兵衛家」子孫の早川不二男氏と出会うことが出来て、同氏から贈られた「早川家秘譜」によって初めて与六分村の早川与六家にも機密費があったことを知った。」

それにしても、上野介の数ある知行地の中でなぜ「与六屋敷」に・・・ということですが、河野氏はこう分析します。
1.「与六屋敷」から利根川まで、舟で年貢米を運ぶための堀割りが通じていて、夜間密かに荷を運ぶには馬や荷車と違って音もせず、しかも堀は地表より低いので人目につき難い。
2.いったん屋敷内に運び込んでしまえば、二重の環濠と土堤に囲まれた「与六屋敷」は、外からは容易に覗きにくい。

私は、これにもうひとつ付け加えたいと思います。
それは、上野介の知行地の中では小さな村だったから、ということです。

小栗又一の墓がある隣の下斉田村は石高170石、対して与六分は88石です。
因みに上野介が土着しようとした権田村は375石です。
上野介が軍資金を隠すとすれば、当然石高の大きい有力知行地と考えるのが自然です。
当時、新政府もそう考えたようで、下斉田村名主・田口平八郎宅へ抜身の槍を引っ提げて押し入り、上野介の金子や荷物のありかを問い質したということが記録に残っています。
「与六屋敷」にはそのような話が残っていないところをみると、まさかこんな小さな村に、と考えたのではないかと思われます。

「与六屋敷」の機密費がその後どうなったかは、河野氏の著書をお読み頂きたいと思います。

さて、倉賀野小栗上野介埋蔵金の話しからスタートした「例幣使街道 寄り道散歩」シリーズは、ここ玉村「与六屋敷」の機密費の話で締めたいと思います。
高崎例幣使街道にも、面白いところがあるということがお伝えできたなら、幸いです。
どうぞ、お散歩道の一つに加えて頂けますように。

長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。


【「与六屋敷」跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:26
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