2012年09月20日

上州中山道全七宿めぐり 参加報告(1)

上州中山道活性化実行委員会主催の「上州中山道全七宿めぐり」に参加してきました。

「七宿めぐり」とはいうものの、新町宿から坂本宿までの47kmを、3日掛けてひたすら歩く「歩行耐久レース」でした。

ま、むかしの旅人は1日に10里(約40km)歩いたそうですから、当時なら「なんだとー?3日掛けて12里だー? このへなちょこ野郎が!」と笑われそうですが。

でも、1日10里って、ほんとなんでしょうか?
宿の木戸が開く明け六つから、閉まる暮れ六つまで約12時間、休憩時間を2時間として、歩行時間が10時間、ということは時速4km・・・、あ、ほんとだ。

だけど、名所・旧跡には寄り道したでしょうし、名物があれば食べもしたでしょうし、きれいなお姉ちゃんがいれば声も掛けたでしょうし・・・、健脚だったんでしょうね、やっぱり。

JR「駅からハイキング」とコラボした今回の企画には、JRに400人、高崎市に300人、総勢700人の申し込みがあったそうです。

1日目のスタート地点新町駅前には、受付開始30分前から大勢の参加者が集まっています。

その人数に対して、受付ルートが1本なので大混雑となりました。

ある人数でグループにして、ガイドさんを付けて出発するのかと思っていたのですが、勝手にスタートしてくれということでした。
だったら、来た都度受け付けすれば、こんなに混雑しないのになぁ。

受付すると、こんなスタンプカードが渡されます。
3日間のコースを全て踏破すると、特製の招き猫がプレゼントされるそうです。

けど、スタート時点で押しちゃっていいのかなぁ、スタンプ。

渡されたコースマップを見ながら歩きます。

13kmのコースの中に12のポイントが設定されています。
ポイント間の距離は、短いところで0.1km、長いところで3.5kmと、ちょっとバランスが悪い感じがします。

参加者は脇目も振らず黙々と歩き続け、道沿いのものにはあまり興味を示してないようで、あれで面白いのかなぁと余計な心配をしてしまいます。
ポイント毎にゴム印でも置いといて、到着したら押すようにすれば達成感も味わえるのでしょうが。

いつもの癖で、あっちにひっかかり、こっちにひっかかりしながら歩く迷道院は、どんどん追い抜かれていきます。

神流川古戦場跡碑の隣に建つ観音像その謂れを刻んだ碑
神流川古戦場は有名ですが、この観音像については今回初めて知りました。
とある駐車場にあった、これはなあに?
御歳88歳のテーラー。
ミシンは、26歳で店を持った時から使い続けているものだそうです。
ガレージの軒下に並べて貼られているのはなーに?
ご主人にお聞きすると、埼玉嵐山町にある鬼鎮神社のお札だそうです。
かつては、清冽な清水が湧き出ていたという、弁財天公園
ここを給水ポイントにしたかったですね。
土手の上を歩いていたら、
あっ!飛行船だ!
よっぽど、パートさん募集に苦労してるんだろなー。
なごみます~。
岩鼻代官所跡に設けられた「おもてなしステーション」では、茶屋娘に扮した学生さんがお出迎え。
こういうこだわりが好きなんです。
こういうこだわりが、高崎の町を面白くするんです。
若いっていいですねー!
赤い字で「江戸時代には、暑気あたり、下り腹にビワの葉の煎じ汁を使用。」と書かれているのが分かりますか?
ここにも、こだわりが出ています。
広重の木曽海道高崎宿の浮世絵。
版画体験ができます。
これも、いいアイデアですね。
学生さんが、肩揉みをしてくれます。
気持ち良かったです。
身体も心も軽くなって、「がんばってくださーい!」の声に送られて、再び歩き始めます。
コース中15ヶ所に、「中山道」と書かれた竹筒が取り付けられています。
かっこいい文字は、格闘型舞踊集団・虎舞士(こぶし)の団長でグラフィックデザイナーでもある、松村タケシさんの作です。
その下には、高崎の名物紹介が・・・、え?スープスパゲッティって、高崎が発祥地だったの?

すわっ!
倉賀野脇本陣・須賀家もいよいよ解体か!
びっくりして、工事中の人に聞いてみたら、リフォームだとのこと。
一応、ホッとしましたが・・・。

粕沢に、こんな看板が立っているんですが、気付きませんよね。
左の細い道が昔の中山道なんだそうです。
その内、この看板も朽ち果てちゃうんだろうな。

ふーっ、やっと高崎駅西口に到着です!

でも、ここ、ゴールなのかなぁ?
「おつかれさまでしたー!」でもなく、拍手で迎えられるでもなく、ゴールのスタンプを押してくれるでもなく、何となく拍子抜けでした。

がんばったんだけどなぁ・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 00:22
Comments(12)中山道

2012年09月23日

上州中山道全七宿めぐり 参加報告(2)

2日目は、高崎駅西口で受付です。

今日も先にスタンプを押してくれて、コースマップを渡されました。
こんなんでいいのかな?という気持ちがイタズラ心に変わり、紫文師匠に教わったギャグを使ってみました。


   迷道院 「山羊の出発でいいんですね?」
   受 付 「は?山羊の出発・・・?」
   迷道院 「めーめーに出発で。」
   受 付 「あ、はい。そうです!」
真面目な方でした。すみませんm(__)m


コースのルートは確かに中山道なんですが、私としては一本東の旧々中山道を歩いて欲しいところです。
何となく風情が残っているし、一里塚もあった道だし・・・、でもなぁ、その看板も立ってないしなぁ。

今日のコースは19km、昨日以上の耐久レースに恐れをなして、愛車・赤チャリ号に跨って参加した迷道院です。
コースのポイントに、赤坂の木戸藤塚一里塚が入ってないのを残念に思いつつ、高崎宿はサッと抜けて、板鼻宿へと入ります。


早速、板鼻堰双体道祖神がお出迎え。
詳しくは、グンブロガー風子さんのブログで。
 ◇「板鼻の“道の神さま” ♪」
「やはたみち」と書いてあるんだそうですが、読めません。
雰囲気のある建物。
街路灯の看板には「板鼻宿」と書いてあります。
海なしの上州「名物ところてん」
北斎富岳「神奈川沖浪裏」の看板も不思議ですが、そんなのはどうでもよいと思わせるほど、いい雰囲気のお店です。
店のあちこちに貼られていた歴史資料は、今日のためにご主人が1週間かけて作ったそうです。
限定50食「旅人価格150円」のところてんは、たちまち完売。
運よく最後の一杯にありつけました。
給水ポイントの本陣跡・板鼻公民館
あいにく、和宮資料館は見られませんでしたが、スタッフの女性が私の首に巻いた「上州弁手ぬぐい」を見て、「あ、これ知ってます!」と嬉しい反応。
八坂神社境内の双体道祖神を見ながら、おにぎり(手前のピンボケ)を食べました。
その北側には、「板鼻堰」が滔々と流れています。
それに沿った道が「鎌倉街道」だと言われています。
すごく精緻なタッチの素晴らしい絵が、すごく無造作に貼られていたので、すごく気になりました。
「鷹巣神社」と読めるのですが、風子さんの記事にある「鷹巣神社」とは違うようです。
「鷹巣橋」の下に、「水害復舊記念碑」というコンクリート管を発見。
珍しいですよね。
「鷹巣橋」を渡りきる頃、左前方に見えた神社の屋根が気になって、コースアウト。
その鳥居の左側にこんなのが。
明治天皇がこの石に座って休まれたと刻まれてますが、そんなことをさせた人は無事で済んだんでしょうか?
安中宿に入り、ひょいと路地の奥を覗くと、道祖神が。
昔の道はこの路地だったんでしょうか、それとも道の整備で道祖神を移したんでしょうか。
そばまで行くと、民家の裏庭にもっと気になるものが建っていました。
何だか、いわくがありそうです。
近くで聞き込みをしたい衝動に襲われますが、今日は先を急ぐので断念。
あぁ、ここに木戸があったんですね。
高崎にも欲しいなぁ、こういう表示。
ほーら、ここにも。
古いものを大切にするという思いが、伝わってきます。
ぷふっ!
目と心が休まります。
「ぶっちゃいく」という名の居酒屋さん。
私の知らない上州弁かと思いましたが、どうやら「ぶさいく(不細工)」のことらしいです。
とか何とか言ってる間に、磯部に着きました。
もう、ここがゴールかのように、皆さんまったりと浸かってました。
高崎も、銭湯とタイアップしたらよかったんじゃないでしょうか。
「栄泉堂」さんで、磯部煎餅を焼くのをじっと見ていたら、ご主人が焼きたてを1枚恵んでくれました。
一日に、1700枚のお煎餅を焼くんだそうです。暑い時期は大変でしょうね。
ゴールの磯部駅前で、私のために待っていてくれたかのような「恐妻碑」
  「恐妻とは 愛妻のいわれなり」
でも、この気持ちを分かってもらうのは難しい・・・。
ちょうど陸蒸気が出発するところでした。

駅で、「折りたたみ自転車は、乗せられますか?」と聞くと、
「カバーに入れれば、乗せられます。」ということでした。
全国各地で、「サイクルトレイン」というのが走ってるんだけどなぁ。

カバーを持ってない私は、再び愛車・赤チャリ号に跨って高崎を目指します。
サドルの固さと、碓氷川サイクリングロードを吹き抜ける、夕風の心地よさを体感しながら、2時間掛けて戻ってきました。


  


Posted by 迷道院高崎at 10:09
Comments(8)中山道

2012年09月26日

上州中山道全七宿めぐり 参加報告(3)

3日目です。
今日は磯部駅スタートということで、さすがに赤チャリ号では無理なので電車にしました。
お、今日はスタート地点ではスタンプを押しません。
そうですよ、ゴールしたご褒美に押してもらえる、その方がいいです。


「愛妻橋」の手前右側に建っている石柱が気になって、道路を横断して行ってみました。
「為甘楽郡吉崎城主櫻井丹後守之菩提」と刻まれています。
吉崎城下仁田にあったお城のようです。
富岡武蔵さんのブログ「山城めぐり」
立派な櫻井家のお墓ですが、傍らに建つ「灵(霊)標」を見ると、初代は櫻井姓ではありません。どうやら、奥さんが吉崎城主・櫻井丹後守の子孫だったようです。
初代の大手萬平氏は、磯部温泉の開祖で「蓬莱館」の創設者です。
詩人の大手拓次萬平氏の孫にあたり、「蓬莱館」で生まれています。
その「蓬莱館」は、今の「雀のお宿 磯部館」です。
「愛妻橋」、いい響きです。

「愛夫橋」ってのは響きが悪いせいか、あまり聞きませんね。
「愛妻橋」から下を覗くと、折からの水不足のせいでしょう、簗の床が寂しそうにしていました。
愛嬌たっぷりな龍の郵便受け。
ご主人の手作りでしょうか。
郷原日枝神社
神楽殿の下を潜って本殿に行く、珍しい神社です。
目立ちませんが、「磯貝雲峰旧宅跡」という看板が立っています。
こういう人でした→ ◇磯貝雲峰
看板を建てたのが「安中商工会青年部」というところに、迷道院は感心してます。
この辺の家にはみんな貼ってある「碓氷社組合員」の章。
「町税完納之家」なんて札も貼るんですね。こりゃ、納められない家には辛いや。
この坂道は、旧中山道の雰囲気をよく残してます。

風子さんも記事にしてますね。
安中/郷原の妙義道常夜燈 ♪
松井田宿に入りました。
昔は妙義山への登山口だったんでしょうね。
薄れた看板の文字が、その歴史を語っています。
なにっ!「ぼけじい」ですと?
介護施設かなと思ったら、なんと!ゲームショップ!
面白すぎ。
「群馬県信用組合」の向こうに、立派な蔵の姿。
近くへ行くと、立派な蔵造りのお屋敷。
「群馬県信用組合」(旧・碓氷信用組合)創設者のお宅だそうです。
「群馬県信用組合」の斜向かいの角にある、趣きいっぱいの建物。
旅籠か何かだったんでしょうか。
と思ったら、お医者さんだったようですね。
「中山道松井田宿 まちなかにぎわい広場」
東屋で一休みしている人が多かったです。
高崎中山道にも、こういうのが欲しいですよね。
この看板をじっと見ている人も多かったです。
お隣の電気屋さんのご夫妻が、「看板の絵が載っているパンフレットも置いてありますから、どうぞお持ちください。」と声を掛けていました。その気持ちがいいですねー。
ストローの束を手にした男の子と女の子が、「かき氷はいかがですか―!無料です!」と大きな声で呼びかけていました。
松井田宿お休み処「みなとや」では、子どもたちの呼びかけで大勢の人がおもてなしを受けていました。
お味噌をつけてふるまってくれた胡瓜は、ヘタが切り落してありました。
お客様が、残ったヘタを捨てに行かなくてもいいようにという心遣いでしょう。

こういう細やかな心遣いが、町づくりには大切なことだと思うのです。
電信柱の上には、さりげなく名所・旧跡の案内看板が取り付けてあります。

地上に看板を立てるとなると、やれ地権者の許可がとか、交通の妨げ云々とかいうことになりますが、松井田宿のこの方法は大いに真似たいところです。
暖簾には「碓氷 関所煎餅」とありますが、看板は「上州名物 うまかんべぇ」となっています。
「うまかんべぇ」が店名なのかと思うと、店名は「アメリカンベーカリー」だという、不思議なお店。
素敵な蔵ですが、看板も何も出ていません。
入口が開いていたので、ずうずうしく中に入ってみました。
ギャラリーのように、素敵なものがたくさん飾ってありました。
ご主人にお伺いすると、普段は奥様がお花の教室として使っているそうです。
そして、いろいろな個展のギャラリーとしても使っているとか。
素晴らしいですね。

さあ、見どころが多すぎてまだ松井田宿の途中ですが、記事が長くなり過ぎました。
続きは、次回をご覧ください。


  


Posted by 迷道院高崎at 23:28
Comments(6)中山道

2012年09月30日

上州中山道全七宿めぐり 参加報告(4)

3日目の続き、松井田宿からです。

篆書風の独特な書体で書かれた「森崎町住民センター」という標柱の向うに、お堂が見えます。
行ってみると、北向きの千手観音さまでした。

ドーンと圧倒されるような立派な建物。
旧松井田町商工会館です。
傍らに建つ大きな石碑は、福田赳夫元総理書の「吉田喜代司翁頌徳碑」
あー、あの「碓氷信用組合」の設立者が、初代商工会長だったんですね。
う~ん、水路に跨って建てられたお家。

昔は水の流れをお仕事にでも使っていたんでしょうか。
好奇心は募りますが、探求する時間のないのが残念です。
最近建てられたと思われる道標ですが、お洒落な書体が歴史ある建物と調和して、いい感じです。
松井田城主大道寺氏の菩提寺・補陀寺
この北方の山中に、松井田城があったそうです。
松井田城址の説明看板の文字には、仮名が振ってあります。
きっと、漢字の読めない児童でも郷土の歴史を知って欲しいという気持ちの表れなのでしょう。
すばらしい!
草むらの中に金属の看板が立っています。
近づいてみると、「一里塚跡」を示す看板でした。
高崎市教育委員会の皆さま、「倉賀野の一里塚」跡や「九蔵町の一里塚」跡にも、ぜひ立てて下さいな。

看板が一本立っているだけで、旅人は「へー、ここがねー。」と想像を膨らますことができるのです。
叩くと茶釜のような音がするという「茶釜石」
話には聞いていましたが、初めてその音を聞きました。
その後ろのお地蔵さまは、伝説の「夜泣き地蔵」だそうな。
碓氷峠熊野神社を分祀したという、碓氷神社

先を急ぐので、下から遥拝しただけで済ませてしまいました。
横川駅を過ぎたところで、山沿いの民家の屋根やベランダを、我が物顔で駆けまわる数匹。
しばらく見ていましたが、一向に去る気配なし。
中山道がいきなり東山道に。

向こうに見える大きなお屋敷は何でしょう。
横川茶屋本陣跡でした。
中を覗くと、どうやら現在もお住まいになっているようでした。
高崎では、こういう場合ほとんど非公開になっているので、とても驚きました。
碓氷関所跡の手前右側の崖上に、こんなところがありました。
ここが、古の東山道のようです。

「関長原関所」は、昌泰二年(899)に設けられた東山道の関所だそうです。
多くの防人たちがここを通ったのでしょう。
ようやく、坂本宿に入りました。

普通の民家ですが、その妻に施された牡丹の鏝絵(?)がとても素敵でした。
坂本宿には、このような由緒、伝説、歴史を紹介する看板がいたるところに設置されています。
昔の人は実に想像力が豊かですね。
観光立県・観光都市を目指すとき、想像力豊かにいろいろなものを結びつける昔の人の知恵が、とても参考になると思います。

坂本宿では、今、街道沿いに水路を整備する工事が進行中です。
この水路がない姿を想像すると、実に味気ない風景に思えます。
高崎も、かつて「遠構え」と呼ばれた水路を復活するだけで、潤いのあるいい雰囲気の町になると思いますが。
江戸時代から続く、お米屋さん。
店舗と精米工場の2棟を、平成二十一年(2009)に全面改修しました。
卯建(うだつ)は、この時に上げたものだそうです。
坂本宿の旅籠の風情を今に残す「かぎや」
中の様子は、風子さんが見ていますのでそちらをどうぞ。
「坂本宿の旅籠「かぎや」さん ♪」
一般民家の玄関に「たかさごや」という看板が掛かっています。
その「たかさごや」には、説明板のようなエピソードが残っているんですね。
一茶新町宿「高瀬屋」にも泊って、面白いエピソードを残しています。
ただ、その「高瀬屋」がどこだったのか・・・。

ちょっと気になる、「マロンカフェ」
「港屋」さんというのは、何屋さんだったんでしょうか。
松井田宿「みなとや」さんとは、関係あるのでしょうか。
やっとこ着きました!ゴール「峠の湯」
やっぱり、「お疲れ様でしたー!」と迎えてもらえるのはいいもんですね。
ま、できれば若・・・女・・・。
スタンプ3つ、集まりました!
3日間完歩したので(1日チャリでずるしちゃいましたが)、こんな可愛い特製招き猫ちゃんがもらえました。

なんだかんだと言いながら、けっこう楽しめました。
面白かったです。
スタッフの皆さん、企画・準備・実行と大変なご苦労だったと思います。
お疲れさまでした。
ありがとうございました!

これから中山道歩きを楽しみたいという方は、ぜひ、このリーフレットを入手してからお出かけになることをお勧めします。

安中市観光課と観光協会が作った「旧道日和」
とてもよくできたガイドブックで、読み物としても実に面白い内容です。

昭和五十年(1975)頃、高崎観光協会は「高崎の散歩道」という、全12巻の誇るべき「町歩きガイドブック」を作りました。
もちろんその中には、中山道歩きを楽しめる記事もたくさん載っています。
しかし、なんせ時が経ちすぎて、道はすっかり変わってしまいました。

高崎市観光課観光協会の皆さまにお願いです。
新町宿から高崎宿までの、高崎版「旧道日和」をぜひとも作りましょう。
作るにあたっては、一部の担当者と有識者だけでなく、広く市民を参加させてください。
市民が高崎の歴史を知り、高崎の魅力を知ることから、市民が誇るガイドブックができるのだと思います。

そのガイドブックを手に歩く観光客が、ひっきりなしに見られる日のくることを、楽しみにしております。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:51
Comments(4)中山道

2012年10月10日

伝者繁栄

鎌倉街道板鼻境まで辿った帰り道、八幡八幡宮遠鳥居で道草を食べました。

源頼朝鎌倉に幕府を開くにあたって、八幡宮の社殿を改修し、並木参道を開き、同時に建てたのが、この遠鳥居だと言われています。

遠鳥居の額に書かれている「八幡宮」の文字は、武蔵坊弁慶の書だと伝わっていますが、さて。

八幡様といえば戦の神様ですが、先の戦争において、東京始め日本の大都市が相次いで空襲を受けるようになった昭和二十年(1945)三月のある日、この遠鳥居が突然倒れてしまったのだそうです。(八幡村史)
不思議といえば、不思議な出来事です。

戦後の混乱で暫くそのままになっていましたが、八幡町出身の湯浅梅太郎氏の奉納により、昭和二十七年(1952)鉄筋コンクリート製の遠鳥居が再建されました。
場所は現在地より50mほど南の国道沿いでしたが、その後、国道拡幅のために撤去され、平成二年(1990)現在地に今の鳥居が新設されました。

遠鳥居の手前に、石玉垣で囲まれた一角があり、御神燈や石碑が建っています。

玉垣の柱には寄進者の名前が刻まれていますが、その中に、高崎の呉服商で貴族院議員だった櫻井伊兵衛氏の名も見えます。
この玉垣は、安政五年(1858)に造られたものだそうですから、三代目の櫻井伊兵衛氏でしょう。

石碑の中に、「石柵上棟 伝者繁栄」というのがあります。

この碑は、石玉垣を奉納した記念に建てられたものだそうですが、「伝者繁栄」とはどういう意味なのでしょう。

石玉垣を寄進した人の繁栄を祈願したもののようにも思えますが、私は、「伝うれ者(ば)繁り栄える」と読みたいのです。

歴史を伝える史跡を大切にして後世に伝え、そこから学ぶことで繁栄することができる。
そういう思いを込めた「伝者繁栄」碑ではないかと思うのです。

その意を受けてでしょうか、昭和五十四年(1979)に建てられた「杉並木を偲ぶ碑」という、石碑もあります。
此処八幡宮参道には鎌倉時代から杉並木が存在したが、昭和四十三年にすっかり枯れ、伐採された。
八幡村に生まれ育った者にとって、あの杉並木が消えたことは幼き日の想出が断ち切られた思いである。
そこで此の碑を建てて、心の縁としたい。」


しかし、それらの記念碑の前には、「伝者繁栄」の思いとは全く異なる光景が広がっていました。


「伝者繁栄」を願った石玉垣は、ゴミ置き場の烏除けネットや看板を取り付ける、構造物でしかなくなっています。

何とも悲しい気持ちになって国道へ戻ると、信号の角の工場入り口に文化十三年(1816)の小さな道祖神が、建っていました。

嬉しかったのは、車やフォークリフトで壊さないようにという配慮なのでしょう、しっかりとした土台と、トラマークの柱で守られていたことです。

少しほっとした気分で前方を見ると、少林山への歩道橋が夕日に映えていました。

歩道橋の左右にある「3」の字型の照明灯は、だるまをイメージしているそうです。
これも、伝えていきたい高崎の名物ですね。

「伝者繁栄」、そういう高崎であって欲しいと思います。


【「伝者繁栄」碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 21:54
Comments(4)中山道

2012年10月28日

藤塚の洪水碑

「伝者繁栄碑」で道草を食ってから、だるまの大門屋の前を通り過ぎると、地下からにょっきり生えているような石鳥居が見えてきます。

近くまで行くと、道路より低いところにこじんまりしたお宮があります。

藤塚「大神宮様」と呼ばれているそうです。

お宮の右に、「洪水記念之碑」というのが建っています。
漢字を拾い読みしてみると、明治四十三年(1910)のこの地域の洪水について、こんな風に記されているようです。
明治四十三年八月十日の暴風雨で碓氷川に大水が出て橋が流され、藤塚村は低地で人家も岸に近いので、鐘を打って近村に助けを求めたが、風雨はますます激しくなって、ついに堤防は決壊して村中が濁流に浸かった。
人は皆あわてて、梁につかまり屋根に上がり、泣き叫ぶ声は夜通し続いた。
翌十一日の明け方になって、ようやく水の勢いは弱まったが、流失家屋18戸、損壊2戸、半壊50戸、溺死者2名、生死不明者1名であった。(略)
九月六日、侍従日野根要吉郎は県知事神山潤を派遣して、天皇陛下のお言葉を下賜された。
また、皇族諸侯からも見舞金を賜り、村民は感泣した。(略)
翌年、堤防を再築し全復旧を得た。(略)」

裏面には、「大正七年 大字藤塚建之」と刻まれています。

さらに、お宮を挟んだ左には、「射水神」(いみずしん)と刻まれた大きな石碑があり、裏面にはこう刻まれています。
大正九年六月向山字赤岩下山林面積約二町歩ニ大地滑ヲ生ジ、地先碓氷川流域ヲ閉塞シ水勢部落ニ氾濫シ村民ハ狼狽憂懼直ニ善後策ヲ講シ、其筋ノ踏査ヲ申請シ時ノ長官大芝知事ノ決済ヲ経テ延長五百弐拾餘間ノ河岸修築工事ヲ住民請負ニテ堅牢ヲ主トシテ完了セリ、為ニ村民ハ漸ク其堵ニ安ンズ、茲ニ築堤ヲ永遠ニ守護シタマヘル射水神ヲ奉戴シテ建立スルナリ
 大正十一年二月
       寄附者 瀧澤喜市」

大正九年(1920)に、碓氷川対岸の山林約2万㎡が滑り落ち、土砂が碓氷川の流れを堰き止めて氾濫した、とあります。
皮肉にも、「洪水記念之碑」を建立したわずか2年後のことです。

とにかく昔から、この藤塚地区は碓氷川の氾濫に悩まされてきたようです。
対岸の少林山達磨寺の縁起さえ、碓氷川の氾濫が元となっています。
延宝【えんぽう】年間(1673―1680)のはじめころ、大洪水があって碓氷川が氾濫したときのことです。
水が引けたある夜、村人が川の中に何やら怪しく光る物を見つけました。 不思議に思った村人達は夜が明けるのを待って調べてみると、どこから流れついたのか奇異な形の黒光りする大きな古木でした。 そして引き上げてみると、お香のような良い香りまでするのです。
みな不思議に思い、霊木として観音堂に奉納しておきました。
それから数年過ぎた延宝8年(1680)の春、この鼻高村に諸国を廻る一了【いちりょう】という老行者がわざわざたずねてやってきました。
不審に思った村人がここに来た訳を尋ねると、一了老人は不思議な夢の話をしました。 それによると、ある時達磨大師が夢枕に立たれて言われるのに、「一了よ、鼻高の聖地に霊木があるから、坐禅をしているこの私の姿を彫りなさい。」と申されたので尋ねてきたのだそうです。 村人はすぐにあの霊木だと気がつき観音堂に案内しました。
一了老人は涙を流して感激し、さっそく沐浴【もくよく】して身を清め、信心を凝らして、ひと彫りするごとに五体投地【ごたいとうち】の拝礼を三度する、一刀三礼【いっとうさんれい】という最高の彫り方で四尺ほどもある達磨大師の坐禅像を彫り上げました。

さて、その達磨像を観音様と並べて安置しようとしましたが大きすぎて納まりません。 困っていると、ある日碓氷川に朽ちて大きな穴の開いた大木が流れつきました。
村人達はまた観音堂に運ぶと、一了老人は達磨大師の厨子に丁度良いのではないかと思い、入れてみると不思議にもぴったりと納まりました。
村人達は一了老人が心を込めて素晴らしい達磨像を彫り上げたので、「有難い達磨大師が鼻高に現れたぞ!」と噂をするようになりました。
この達磨座像の噂は、たちまち近郊近在に知れわたり「活然【かつねん】大師(達磨大師のこと)出現の霊地」として、誰言うとなく村の人たちが「少林山」と呼ぶようになったそうです。」

さらに下って昭和十年(1935)、またもや碓氷川は氾濫し、藤塚地区を襲います。
ちょうどこの時、少林山洗心亭に仮寓していたブルーノ・タウトが、乏しい生活費の中から贈った義捐金は、「お見舞 ブルーノ・タウト」と書いた大バケツとなって各戸に配られ、残金は貧困家庭に分けられたそうです。

タウトは、群馬県に対して高い堤防の建設も陳情しています。
その堤防は、昭和十一年(1936)タウト洗心亭を去って間もなく着工され、現在も藤塚地区を護っています。


【藤塚の洪水碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 10:05
Comments(2)中山道

2012年11月04日

隆起した国道18号



藤塚「大神宮様」から国道の向こう側を見ると、堤防にしては妙に膨らんだ格好になっているのに気が付きます。



藤塚歩道橋の上から見るとちょっとした小山のようで、国道がそれを避けるように曲がっているのが分かります。

高崎側から見ると、小山に上る道が二股に分かれています。
左側は堤防上への道、右側の道はこの先でぷつんと途切れていますが、これが昔の国道18号だと言われても、俄かには信じられないでしょう。

このことについて「高崎の散歩道 第十集」には、こんな記述があります。

昭和三十年代に中山道南側にあった吉田家でこんなことが起こった。
家の柱が急に少しづつずれるので、八幡地区から当時選出された加部市会議員に相談したところ、中山道がコンクリートで舗装されているので、コンクリートが膨張し、柱を押すのだろうなどとみんなで考えた。
しかし六月ごろ碓氷川へひび割れが生じ、川底に段ができ、なお地割れしていることがわかり、村中の大騒ぎになった。
また調べてみると堤防の一部が隆起していることや亀裂が入っていることも分かってきた。
市や土木関係の人々も加わって調査した結果、少林山の周りにも何ヵ所か土地の亀裂、陥没を発見した。
そこで四国の地滑りについての権威者に調べてもらったところ、日本アルプスの雪解け水が浸透してその圧力により弱い地盤の所を吹き上げ、地滑りを起こすのではないか、したがって水を抜けば地滑りは止まるということで、早速、市や県によって少林山東のカニ沢の崖に隧道を掘り水を抜くことにしたが、掘り進んでいくうち機械の故障で中止となった。
この間、拠点を定め細かに測量してみると、大崖が南へ動いている、いや北へ動いているということで問題が発展し、全国的な問題になってしまった。
そこで京大の教授はじめ全国の地質・土木の学者や当局の担当者が集まり再調査したところ、少林山の丘陵全体が三十メートル下で頁岩層となっていて、碓氷川の底へ傾斜している。
この層の上を地下水が流れその影響で地滑りが起こるという結論に達した。
対策としては、少林山下にコンクリートの杭を大量に打ち込んだため最近は地滑りもなくなった。
この間、吉田家では家の前の中山道が二階の高さまで上がってしまい、道を通る人が『お宅はえろう落ち込んでしまったのう』とは、中山道の隆起したことを知らない人の言葉であったと、吉田良太郎翁は、藤塚と共に生きてきた過去の災害記録を淡々と語ってくれた。」

昭和34年(1959)4月頃、民家の立てつけ等に多少の狂いが出たのが、事の始まりでした。
その時は、建物のせいだろうとあまり気にしなかったそうですが、7月になって急に変形が激しくなり、土間のコンクリート等が破壊し始めました。
翌35年(1960)6月になると、国道に300mにわたる亀裂が発生し、隆起が始まります。
隆起は、7月には8cm、10月には1m、翌年6月になると3~5mにも達し、家屋15戸倒壊、橋梁一基倒壊という大きな被害も出しました。
(昭和58年10月群馬県土木部砂防課発行「少林山地すべり」より)

その時の写真が、国土交通省砂防事例集の中に残されています。



堤防上には、赤く錆びついた「少林山地すべり防止区域」の看板が今も建っていて、地すべりにつながるような土木工事を禁じています。

少林山の地滑り対策工事は、発生直後の昭和三十五年(1960)から平成十一年(1999)までの長きにわたって続けられました。

その間、様々な対策工事が行われましたが、最終的には達磨寺本堂裏の滑り易い土を取り除くという、大掛かりな工事となりました。




その時伐採されたケヤキの木は、平成九年(1997)に建てられた総門に使われています。

そして、土を取り除いた一帯は、広大で見晴らしの良い公園に生まれ変わり、そんな地すべりがあったことなど感じさせません。

ただそこに建てられた大きな看板だけが、40年にわたる自然との格闘の歴史を語り継いでいます。



【隆起した国道跡】



  


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2012年11月11日

藤塚の一里塚

隆起した国道18号跡から高崎へ向かって土手下の道を400mほど歩くと、群馬県で唯一現存する一里塚「藤塚の一里塚」があります。

しかし、こちら側から見ると目立たないものですね。

国道の向こう側に見えるのが北の一里塚、こちら側の大きな椋の木が立っているのが南の一里塚です。

南の一里塚の根元には、いくつかの石祠や石塔が建っています。

左から二つ目の石祠の中には「八坂神社」の木札が納められており、左側面には「三豊岡邨(むら)」と刻まれていて、この塚が豊岡村分であったことが分かります。

北の一里塚上には大きな木の代わりに鳥居とお社が建っています。

中山道が国道になり、その後の拡幅工事もあり、その度に北へ北へと移設されて、現在の姿になったのでしょう。

鳥居には「浅間神社」、社には「富士山」の額が掲げられています。

ここには昔から「富士浅間社」が祀られていたので、この塚を「富士塚」と呼び、字名の「藤塚」もここからきたものだということです。
そのことから、北の一里塚八幡村藤塚分となっていました。

ここには「一里塚」を示す看板が立っていませんので、それと知らずに前を通り過ぎる人も多いようです。

南の一里塚の東側には、「群馬県指定 一里塚」の石柱と解説版が、草に埋もれそうに建っています。

この解説板はなかなかよくできていて、中山道のこと、一里塚の基礎知識、この一里塚の整備の過程が分かりやすくまとめられています。
しかし、どうも耐候性には欠けるようで、不鮮明になりつつあります。
材質などを再検討して、もう一度整備して頂けないものでしょうか。
併せて、車を運転している人にも分かるような大きな表示を、国道側に向けて建って頂けたらなおいいのですが。

最近は、街道歩きを楽しむ方が増えてきたようで、国交省でもそれを意識して一里塚周辺の整備をしているようです。
街道らしく松をたくさん植えて、植栽の仕方も工夫した跡が見えます。

しかし残念ながら、排気ガスのせいか枯死した松も何本かあり、モニュメントとして配置した石も、伸びた草に覆われています。
現存する群馬県内唯一の一里塚で、県指定史跡にもなっている場所なので、景観的にもいまひとつ力を入れて欲しいところです。

併せて、「倉賀野の一里塚」「九蔵町の一里塚」の跡にも、説明板を設置して欲しいと思います。
そういえば、「九蔵町の一里塚」の記事に、野火止次郎さんという方からコメントを頂いたことがあります。
この方は、中山道一里塚について研究されていて、その成果をHPで公開してらっしゃいます。
 ◇「中仙道一里塚の研究」

ところで皆さん、一里塚から東へ750mほど行ったところに、こんな木橋がかかっているのをご存知でしょうか。

中豊岡乗附を結ぶ橋なので、「中乗橋」(なかのりばし)といいます。

高崎で木橋というと、「佐野橋」はよく知られているのですが、「中乗橋」は土手に上らないと見えないので、もしかすると知らない方も多いかも知れません。
かつては、少林山のだるま市というと、みんなここを行き来するので、すぐ脇にもう一本仮設の橋を渡して、一方通行にしたといいます。

この橋からの眺めが、けっこう素敵なんですよ。

ぜひ一度、お散歩コースに入れてみて下さい。

ただし、橋を渡った先にちょっと不気味なものもあるので、あまり薄暗くなってからはやめた方がいいかも・・・。


【藤塚の一里塚】

【中乗橋】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:55
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2012年12月23日

2つの金ヶ崎不動尊

上豊岡の信号から、旧中山道を東へ180mほど行くと、「金ヶ崎(かねがさき)不動尊」があります。


ただ、通りに背を向けているので、でもってあまりにも地味なので、おまけに看板があまりにも高いところにあるので、街道歩きの人も見過ごしてしまうのではないかと心配になります。

その高い看板には、温泉地でもないのに「湯関町内会」と書かれています。

前に回ってみても、やっぱり地味なお社で、額の文字も、だいぶ薄くなってきています。



失礼して扉の穴から中を覗くと、立派なお不動様がおわしました。

「動かざる」ゆえに「不動尊」である訳ですが、このお不動様は動いてこの地に来ちゃったんだそうです。

どこからやって来たかというと、碓氷川の対岸、大字乗附字「金ヶ崎」からです。
そこは、「上豊岡の茶屋本陣」で有名な飯野家のちょうど鬼門にあたり、方位除けとして祀ったのが「金ヶ崎不動尊」でした。

過去記事「藤塚の洪水碑」でご紹介した明治四十三年(1910)の大洪水があった時、「金ヶ崎不動尊」は崩れた崖もろとも碓氷川に押し出され、対岸の中豊岡村字「前村」の岸に流れ着いたのです。

「前村」の人々はお不動様が流れてきたことにびっくりし、近くの宗伝寺に預けて長年祀っていましたが、その後、飯野家の土地である現在地・字「関口」にお堂を建てて祀ったのだそうです。

字図を見ると、「関口」の東隣りに「湯澤」という字があります。
不動尊の所にある高い看板に「湯関」とあるのは、おそらくこの2つの字が合併したものなのでしょう。

ところで、この「金ヶ崎不動尊」には後日談があって、「高崎の散歩道 第十集」に、こんな記述があります。
なお、乗附町金ヶ崎の地に、金ヶ崎不動尊と刻された石碑が元の位置に土地所有者、乗附幾松、一郎父子によって建てられていることを付記しておくことにする。」

詳しい場所は書かれていません。
しかし、これは気になります。
ところが実は、念ずれば通ずとはこのことかと思うようなことが最近起こりました。

別件の取材で、片岡町にある西部土地改良区の事務所を訪ねた時、そこに、ちょうど乗附町で昔から農家をしているというYさんが来てらっしゃいました。
何気なく乗附幾松さんと一郎さんの話しをしたところ、一郎さんは健在で家にいるはずだと言って、お家まで案内して下さったのです。

お会いした一郎さんは、御年80歳を過ぎているようにお見かけしましたが、間違いなく「高崎の散歩道」に出てくる一郎さんで、「金ヶ崎不動尊」の石碑もちゃんと残っているというので、その場所を教えて頂くことができました。

高崎市清掃管理事務所から観音山ゴルフ倶楽部へ向かう坂道を100mほど上った道端、山茶花の茂みの中に隠れるように、ひっそりとそれはありました。

正面には、はっきりと「金ヶ崎不動尊」、裏面には、「昭和三十年(1955)正月七日建立」と刻まれています。

ここ一帯の土地は、昭和二十二年(1947)の農地解放で、飯野家から乗附家に所有が移りました。
そんなことから、飯野家に敬意を表し、元「金ヶ崎不動尊」の祀られていた場所に、碑を建てることにしたのでしょう。

乗附一郎さんのお話しでは、祖父の彦太郎さんが碓氷川の河原から、碑にする石を担いで家まで運んできたそうです。
その石に「金ヶ崎不動尊」と刻み、父・幾松さんと一郎さんで台車に積んで、牛に引かせて運んだということです。
当時は今の道路はなく、急な上り坂を牛は前膝をついて這うようにして上ったといいます。

「湯関」「金ヶ崎不動尊」から、「金ヶ崎」「金ヶ崎不動尊碑」へ行くには、過去記事にも書いた碓氷川の木橋「中乗橋」を渡ればすぐです。

お近くにお出かけの節は、ぜひとも2つの「金ヶ崎不動尊」を訪ねてみて下さい。

(参考図書:「高崎の散歩道 第十集」)


【金ヶ崎不動尊】

【金ヶ崎不動尊碑】


  


2017年01月29日

史跡看板散歩-29 一里塚跡(九蔵町)

九蔵町一里塚跡にも、史跡看板が建ちました。




看板にもあるように、高崎市域にあったという三つの一里塚ですが、現存するのは「上豊岡(藤塚)の一里塚」だけです。

九蔵町にあったという一里塚はその痕跡も残っておらず、描かれている絵図面もないので、場所を推測するには文献の記述によるしかありません。

たぶん、「九蔵町の一里塚」のことが最初に出てくるのは、宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子」(たかさき・すなご)でしょう。
九蔵町之内
一、東横町 鉦打町(かねうちまち)へ出る。是より前橋、東上州、下野への通路。この町人家の裏に一里塚あり、中頃の大路あり。」

次に出てくるのが、寛政元年(1789)に川野辺寛が著した「高崎志」で、巻中の「九蔵町」の項にこうあります。
一里塚 裏町通町通リ、西側人家ノ裏ニアリ、今ハスガレテ其カタバカリ残レルノミ、上ニ稲荷ノ小祠アリ、是昔ノ本道也、」

明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した、「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)弐巻「通町」の項には、こんな記述があります。
老平云、通町ハ旧時中山道ノ往還ニシテ、・・・又本町ヨリ往還今ノ椿町ヨリ法華寺ノ前ヲ南ニ折レタリ。
其証ハ九蔵町(今ノ大雲寺ヘノ曲尺手ノ角)隅ノ屋敷ニ一里塚ノ稲荷宮アリ。其向頬天野某ノ背戸ニ千間宮アリ。此往還タルノ旧趾也。」

上記三書に出てくる「中頃の大路」、「昔ノ本道」、「旧時中山道」というのは、看板にも書かれていますが、井伊直政が高崎城下を開いた頃の「最初の中山道」のことです。

「最初の中山道」は、本町から真っ直ぐ椿町に入り「法華寺」に突き当たって南へ曲がり、通町を抜けて東へ折れ、佐野→中居→下之城を経て倉賀野の永泉寺前へ出るというルートでした。
いま一般的に「旧中山道」と呼ばれているルートは、酒井家次が城主となってから付け替えられたものです。


三書に書かれていることを総合すると、「九蔵町の一里塚」は、
「最初の中山道通り西側の人家の裏にあり、大雲寺へ曲がる角の屋敷に一里塚の上にあった稲荷宮、その反対の天野という家の後ろに千間宮(浅間宮?)がある。」
ということのようですが、これだけではまだ一里塚の場所ははっきりしません。

しかし、その後の研究が進んだのでしょうか、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」では、相当詳しく記述されています。
一里塚ノ趾
舊前橋道、九蔵町五十五番地ニアリ、明治元年ノ頃ハ人家ナク、塚上ニ一里塚稲荷ノ小祠アリシモ湮滅其趾ヲ止メズ、
後年土中ヨリ祠ノ礎石トモ見ルベキ六角形ノ花崗石、基石ヲ發見ス、
今隣地五十六番地反町徳太郎氏ノ後庭ニアルモノ是ナリ、
塚ハ文政ノ頃マデハ僅カニ存セリト云フ」

「九蔵町むかしがたり」の著者・宮野入孝氏が作成した、「明治三十七年(1904)九蔵町住民図」を見ると、五十五番地がどこかが分かります。
五十六番地・反町徳太郎氏の家も描かれています。


昭和六十三年(1988)発行の「図説 高崎の歴史」では、石原征明氏の記述でこう書かれています。
江戸日本橋から二十七里目の一里塚跡は、九蔵町の元だるま紺屋屋敷裏手にあった。」

「だるま紺屋」については、「高崎市史 下巻」「染色業」の項に、こうあります。
染色業ハ慶長年中箕輪ヨリ移リ元紺屋町ニ住シ、斯業ヲ營ミシヲ始トス、
今日ヨリ凡ソ二百年以前九蔵町ニ橋本某開業シ、爾來數代今日ニ至リ盛ニ營業セルモノアリ」

前掲の「九蔵町住民図」五十四番地に、「万染物 落合庄平」とありますが、ここの屋号が「橋本屋」で、商標が「だるま」なのです。


ここまでくれば、「九蔵町の一里塚」の場所はもう特定できたようなものです。
ただひとつ、「高崎志」「西側人家ノ裏ニアリ」という記述とは食い違いますが、通りを挟んで東西にあったと考えれば良いのでしょう。

史跡看板が建っている場所は、文献の位置とは若干ずれているように思いますが、当たらずとも遠からずということで。

次回は、もうひとつの一里塚跡へ行ってみましょう。

【九蔵町の一里塚跡史跡看板】



  


2017年02月05日

史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

九蔵町「一里塚跡」の看板に「佐野粕沢の一里塚」とある、ここの一里塚跡にも史跡看板が建ちました。




でも看板が建っている場所は、「佐野粕沢」ではありません。


この辺にあったされる一里塚は、「倉賀野の一里塚」とか、「正六の一里塚」とか、「粕沢の一里塚」とかいろんな呼び方をされます。
ここも九蔵町同様、一里塚の痕跡はまったく残っておらず、場所が特定しにくいのでしょう。
そのせいか、この史跡看板でも「中山道の一里塚」という、だいぶ腰の引けた表現になっています。

九蔵町のと違うところは、一里塚を描いた絵図があることです。
看板に載せている絵図は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」の一部で、南が上になっています。


北を上にして、倉賀野宿西端まで範囲を広げて見てみましょう。


こうすると、安楽寺から一里塚まではだいぶ距離があるように描かれていて、下正六の集落よりもさらに高崎寄りに描かれています。
これはたしかに、「粕沢の一里塚」と呼びたくなります。

しかし、「中山道分間延絵図」というのを見ると、一里塚は下正六の集落よりも倉賀野宿寄りに描かれていて、これなら「正六の一里塚」とか「倉賀野の一里塚」と呼びたくなります。


さあ、どちらの絵図がより正しい位置を示しているのでしょう。
そこで、明治十四年(1881)に土屋補三郎(老平)が書いた「倉賀野誌」の記述を見てみましょう。
一里塚
本駅(倉賀野)南方、字薬師前、荒畑壱畝廿九歩、北方、字稲荷前、荒畑廿三歩、松並木ノ左右ニ立リ、
高一丈五尺(4.55m)、塚上ニモミノ木植リ、明治三、四年頃ヨリ、追々毀チ、平地田成。」

「粕沢」でも「正六」でもなく、「南側は字薬師前、北側は字稲荷前」にあったと書かれています。



どうやら「中山道分間延絵図」の方が正しそうなので、明治十三年(1880)~十九年(1886)頃の地図と付き合わせて、場所の見当を付けてみましょう。
目安にしたのは、「林西寺と下正六の間で、野道と水路の似てるとこ」です。


さらに、それを現在の地図に置き換えてみると、おそらくこの辺かと思われます。


ちょうど、今史跡看板が建っている辺りになりそうです。
史跡看板は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」を掲載しつつも、建てた場所は「中山道分間延絵図」の方を採用したようです。

ということで、この一里塚は「倉賀野の一里塚」と呼ぶことにしてはいかがでしょうか。
いずれにしても、高崎にあった三つの一里塚全ての場所に看板が建ったということは、喜ばしいことであります。