2009年12月04日

「切干塚」の不思議

下小鳥町「切干塚(きりぼしづか)」というのをご存知でしょうか?
通称、「首塚」と呼ばれています。

北部環状線旧三国街道の交差する下小鳥町西交差点から、100mほど西へ行った所に、「史跡 首塚入口」と書かれた標柱が立っています。

やや奥まったところに、大きな石碑と高札の建っている塚があります。↓

石碑には「枉寃旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)と刻まれています。
「枉寃」は無実の罪のこと、「旌表」は世に広く示すことだそうです。

ここは、元和三年(1617)に下小鳥村の全村民が切り殺され、その屍は穴の中に山積みとされ、ために「切干塚」と呼ばれた所です。
「高札の説明文」をご覧ください。

人間は時として、狂気としか思えない残酷な所業を行うものです。
その人間が権力を持った時は特に、人を物のように扱うようになることも、よくあることです。
「切干塚」の伝承は、そんな人間への戒めとしていつまでも語り継がれることでしょう。

しかし、この伝承には不思議に思うことも多いのです。
説明文にあるように、この事件に関する確かな資料は発見されていないようです。
全て口伝、つまり言い伝えでしか残ってないのです。

文献としては、歴史学者・萩原進氏著「騒動」や、高崎市史編纂委員・田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」などに書かれていますが、いずれも先の「枉寃旌表之碑」の碑文と、地域の人の言い伝えを元にしています。

「枉寃旌表之碑」自体、地域の人の言い伝えをもとに、真塩寛(紋弥)という人が漢文による碑文を書き上げています。

石碑が建立されたのは明治三十四年(1901)ですから、言い伝えが正しいとすれば、事件から280年も経っています。
これだけの長き間、書き物になることなく、口伝だけというのは、不思議な気がします。

この村の脇には、天下の三国街道が通っています。
いかに、旅人の少ない正月四日のこととはいえ、全村民が殺害されるという大事件が、旅人に全く知られずに済むとは思えません。
それも不思議です。

また、口伝によれば、村民を皆殺しにするために、安中藩の加勢も得て村を取り囲んだと言われています。
それほどの事件が、高崎藩安中藩のいずれの記録にも残っていないというのも、これまた不思議です。

伝承に出てくる高崎藩主・松平康長は、旧姓を戸田といいますが、徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を許されます。
実に転封の多い殿様で、高崎藩に来るまでの15年間に3回転封し、高崎藩にいたのは僅か1年、その後、信州松本藩でやっと落ち着きます。
高崎藩で、何らかの不祥事があったことは、その在任期間の異常な短さから想像できます。

阿漕な年貢取り立てをしたのかも知れません。
それに反発した農民が、何らかの行動を起こしたかもしれません。
だからと言って、農民を皆殺しにしてしまっては、その後の年貢は得られなくなります。
せいぜい、見せしめのために数人を処刑する程度で、事足りるはずです。
(それでも、ひどい話に変わりありませんが。)

伝承によっては、首だけをここに埋めたので「首塚」といい、別の所に「胴塚」というのもあったという話があります。
しかし、戦国時代の合戦ならともかく、農民の、しかも全員の首を刎ねて、胴体と別々に埋めるという、そんな手間をかけるでしょうか。

こう考えて来ると、伝えられている全村民殺害の惨劇は、本当にあったのでしょうか。

ところで、碑文を作成した真塩寛(紋弥)という人は、明治十四年(1881)に榛名山麓で起きた「秣場騒動」(まぐさばそうどう)の総代として、権力と戦って投獄された経緯を持っています。
もしかすると、権力というものに対して特別な思いを以って、下小鳥村の伝承を捉えていたとも考えられます。

しかしながら、火の無い所に煙の立たない例えもあり、下小鳥村に何らかの悲惨な事件が、おそらくあったのでしょう。
それが280年の間、口から口へ伝わる内に、よりセンセーショナルな物語に変遷してきたとも考えられます。
何とも不思議な、謎を秘めた「切干塚」です。

次回から、各氏による「切干塚(首塚)」伝承を、一つづつご紹介する予定です。
微妙に異なるその内容を、ご覧いただければと思います。
文字のみの記事になりますので、我慢強い方のみご覧ください。

【下小鳥町の切干塚(首塚)】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2009年12月06日

「切干塚(首塚)」伝承 第一話

「切干塚の不思議」の続きです。

明治三十四年(1901)に、下小鳥の人々により建立された、「枉冤旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)の碑文は、おそらく「切干塚(首塚)」伝承が初めて文字になった、いわば原典ともいうべきものです。

真塩寛(紋弥)作の難解な漢文を、昭和三十二年(1957)発行、萩原進氏著「騒動」の中で、氏が読み下したものを以下にご紹介致します。

(文中括弧内は、迷道院高崎推定による読みと解釈が混在していますので、ご了承下さい。)
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伝に曰く、枉(おう:無実の罪)をあげ直を措(さしおけ)ば、即ち民は信に服せざるもの哉。
其の挙措(きょそ:振る舞い)当らざれば、即ち其れ其の民を平服するを得る能わざる也。
往昔(おうせき:さる昔)、当閭(りょ:村里)に不服の挙有り。
閭の治宰は本郡高崎の藩主松平丹波守、任ぜり。
吏の挙措其の当を得ざる従(よ)り、はやく馭民の策を失い、吏民踶囓(ていけつ:争い)の声を聞けり。
実に元和三年正月四日也、藩属夜を挙げて閭を襲い、閭人一斉に斃(たお)れり。
暗戕(しょう:殺す)殆ど生を殱(つく)すに至れり。
於虖(ああ)、枉邪冤邪(おうやえんや:無実の罪だ)、将(まさ)に邪を強いて縦(ほしいまま)に、下は上を犯すの譴(つみ)を為す有らんとす。
老・幼・婦・穉(ち:赤児)、一として其の極罰の惨、下となす者に専(もっぱ)らなるを与(あずか)り知れり。
天命は之れを性と謂う。
人の敢えて誣す(しいす:捻じ曲げる)可きに非ず。
焉(これ)に反すれば其治を得ざる也。
抑(そもそも)激戛(げきかつ:激しく打つ音)の声、偏(かたより)を作(な)さず、雙觸抗柝(そうしょくこうたく:双方入り乱れ)の激突を生じ、偏柝(一方)声無きは宛(さながら)に仁に敵無きが如く也。
古今、難瞑の死を遂ぐる者尠(すくな)からずと雖(いえど)も、斯くの如きは希世希(ま)れ也。
終天絶期すること能わず、瞑難の忿(いかり)は脳を貫き臍を噛み、衆怨の其の所に攅萃(さんすい:集まり)し、枉直の殃慶(おうけい:災いと慶び)其の所に報ゆる也。
千載の下照々として、孰(いずれ)か克く蔽わん。
今や天定勝人の隆運遭遇し、帰願正啓に及ぶ。
圧伏の隠懟(つい:怨み)、枉霊冤鬼憤を消して、以って斯の上に瞑す。
後裔慨往悼歎に勝(たえ)えず。
石に勒し先魂を慰む。

六拾四翁狂酔  真塩寛撰

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読み下し文でも、なかなか難しい文でした。
我慢してお読み頂いた方に、敬意と謝意を表したいと思います。

次回は、昭和十五年(1940)頃、東京日日新聞(現毎日新聞)群馬支局に寄せられた、住谷某氏の「切干塚」伝承の書簡というものをご紹介いたします。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:58
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2009年12月09日

「切干塚(首塚)」伝承 第二話

高崎市下小鳥奉賛会出版の「町づくり 史蹟首塚三国街道みちしるべ改修記念」という小冊子に、当時、高崎高校教諭だった吉永哲郎氏が、一文を寄稿しています。

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「元和三年下小鳥大虐殺」
吉永哲郎

昭和十五・六年頃「東京日日新聞」(現毎日新聞)の群馬版に、県下の埋もれた人物や史蹟を県民に広く紹介しようという意図から、「新上毛外史」が連載されていた。(のち、毎日新聞前橋支局編として一冊になった。)
大東亜戦争という時局から、収集された資料や実地調査の結果は、内容上のことから全て発表することはできなかったようだ。
国府の住谷某氏の「切干塚」の伝承は、当時発表されなかったものの一つである。
東京日日新聞の支局に寄せられた住谷某氏の書簡の一部を掲げてみよう。

高崎市ニ近イ群馬郡六郷村下小鳥ノ西浦ト云フ所ニ、昔多数ノ死体ヲ埋メタト云ハレル塚ガアル。

元和二年、此ノ地ノ領主松平丹波守ノ検地奉行ガ、アマリニモヒドイ縄入レヲ行ッタ為ニ、村民憤激、役人ノ帰途ヲ待伏セシテ殺害シタ。
藩デハ大イニ怒リ、犯人ノ探査ヲ行ッタガ、ツイニ検挙ニ至ラナカッタ。

秋ガ過ギ冬ガ訪レタ。
藩ガ如何ナル手段ヲ取ルデアラウカ、不安ナ内ニモ正月ハ近ヅク。
気味ノ悪イ静寂ノ中ニ、元和三年正月ノ元日ヲ迎ヘタ。

一方藩デハ、自藩ノ藩士ダケデハ手不足ヲ感ジ、安中城主水野氏ノ加勢ヲ得テ、総勢数十百人、正月四日ノ夜半、村ヲ遠巻キニ囲ンデヂリヂリト迫ッテ行ッタ。

神ナラヌ身ノ誰カ是ヲ知ルモノゾ。無心ニ眠ル幼児ニモ遠慮ナク、毒刃ハ突刺サレタ。
泣イテ手ヲ合ワセル老婆、余命幾何モナイ老爺モ、菜ッ葉ヲ切ルヨウニ斬殺サレタ。

親ヲカバフ子モ、妻ヲ思フ夫モ、数秒ノ前後ノ差コソアレ、情ケ容赦モナク血煙リノ下ニ倒レタ。
一刀ヲアビテ泣キ叫ンデ逃ゲル者ヲ追ッテ、二太刀、三太刀、戸障子ヲ蹴破ッテ乱入スル騒音ノ間ニ物凄イ必死ノ悲鳴、ソレハ厳寒ニ見セラレタ哀レナル地獄絵図ダッタ。

残虐ナル血ノ報復ガ行ワレタ後、両藩ノ武士達ハ血刀下ゲタママ物凄ク笑ッタ。
生キトシ生ケル者ハ一人残ラズ斬ラレ、カクシテ下小鳥ノ部落ハ完全ニ廃滅シタ。

現在ノ村民ノ先祖等ハ、ソノ後ニ土着シタモノダト云フ。
村人ノ死体ハ一ヶ所ニ山積ミトサレ埋メラレタ。
里人ハ今ニ切干塚ト呼ンデヰル。


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どうでしょう。
「切干塚(首塚)伝承 第一話」でご紹介した、「枉冤旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)の読み下し文より、ずっと物語としては洗練されている気がしませんか。

ただ、この伝承によれば下小鳥村は完全に廃滅している訳ですから、では誰がこれほど生々しく伝えたのでしょう?
加害者である、高崎藩士でしょうか?
もしそうだとすれば、280年の長きに亘って、これほど怨嗟に富んだ話として伝わるものでしょうか?
実は、この難を逃れた村民がいたという話も伝わっているのです。

次回は、そのお話をご紹介しましょう。

  


Posted by 迷道院高崎at 08:15
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2009年12月11日

「切干塚(首塚)」伝承 第三話

昭和四十八年(1973)に発行された、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」の中に、「首塚」の伝説が載っています。
この本で「首塚」のことを知ったという人も少なくないでしょう。

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むかし、高崎城つき五万石といわれる村々の中の、ある村でのことである。
殿様の命を受けた検見(毛見)の役人が来た。
その役人の検見のやり方は甚だ厳しく、農民達の哀訴嘆願を聞き入れなかった。
そこでこれを恨んだ農民は、同志を集めて役人二人を襲い、殺してしまった。
殿様は激怒した。
そして報復の期をねらっていた。

正月四日、農家では、遠くに嫁に行った女達も、その日は里帰りするのが例になっていたから、その部落出身の人達はみんな実家に帰って、水入らずの正月を楽しんだ。
殿様はそこを狙って、兵を出して一部落を包囲、農民を皆殺しにした。
しかも首と胴と別々に切り離して埋めてしまった。

このことは一部落皆殺しだから、誰も知らず、どこへも漏れないはずだった。
ところが、たまたま用事があってそこから洩れていた一人があって、事があらわれてしまった。(略)

首塚は知っている人でなければ、なかなか分からない人家の庭畑の様な所にあり、夏など桑の丈に隠れて見つけにくい。
胴塚は別に胴塚と呼ばれておらず、かつては桑畑だった所だが、平地ではあるし、古老ででもなければそれと知る人もない。


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この話では、村民の中に難を逃れた人がいて、その人が後々この惨劇を伝えていった、ということになっています。

昭和四十八年当時の「首塚」は、文中にあるように、知る人ぞ知る存在だったようですが、「枉冤旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)が建立される以前は、もっと目立たない存在だったようです。

大きな「枉冤旌表之碑」の後ろに隠れるようにして、「三界万霊(さんがいばんれい)」と刻まれた小さな自然石が建っています。

これが、元々「切干塚(首塚)」に建っていた慰霊碑だと思われます。

下小鳥町の「町内誌」には、次のような逸話が書かれています。

三界万霊碑の周囲に草や雑木が繁るので、それを刈り取り清掃すると、病気に罹ったり不幸なことが起きる。
そこで、周囲の土地所有者である三者が、慰霊のため土地十歩(ぶ:坪と同じ)を(蓮花院)に寄付し、霊域とした。


その時に、蓮花院が出した受納書が残っていて、明治三十年(1897)となっています。
「枉冤旌表之碑」が建立されたのは、明治三十四年(1901)、その後、塚を嵩上げして整備したのは、昭和五十七年(1982)のことです。

整備のきっかけは、昭和五十八年に開催される「あかぎ国体」でした。
「あかぎ国体」開催に向けて、高崎市の指導により市内24地区に「住みよい町づくり運動協議会」がつくられました。

その一環として、下小鳥支部では全国から集まる人達に下小鳥町の文化財を紹介しようと、広く町民に協力を求め、470名から188万円の浄財を得て、「首塚」「三国街道みちしるべ」の改修・整備がされたのです。
(下小鳥町町内誌より)

次回は、そのとき出版された「町づくり 史蹟首塚・三国街道みちしるべ改修記念」(発行:下小鳥奉賛会)小冊子の中から、元経済大学課長・福田行雄氏が、子どもの頃から聞いていたという「首塚」の話を、ご紹介いたしましょう。

  


Posted by 迷道院高崎at 08:44
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2009年12月13日

「切干塚(首塚)」伝承 第四話

昭和五十七年(1982)、下小鳥町奉賛会が出版した「町づくり 史蹟首塚・三国街道みちしるべ改修記念」という小冊子に、元高崎経済大学課長の福田行雄氏が、「首塚見聞記」と題した一文を寄稿しています。

他の文献とちょっと違う「首塚」伝承が語られていますので、ご紹介しましょう。

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「首塚見聞記」
福田行雄

私、福田行雄が子供の頃より口伝されている聞き覚えを記してみよう。
私は今年数え八十歳を迎へ、気の利いたことの書けないことを初めからお許し願っておきます。

村の中央、現在の久保ガソリン店と井上肉店の間に橋があります。
この橋の名を郷倉の橋と云います。
この橋を渡り東へ行くと松岡金太郎さんの立派な家があり、その東の家の所に昔は高崎藩の郷倉があった。
藩の年貢米はここに貯蔵されたのである。

この年貢米取り立てに藩の役人が来て、何事につけても厳しかった。
田畑の耕作面積、家族の人数、上田、中田、田の良否等々について、人別帳により家毎に、何斗何升何合、米質の良否等々実に厳しい取り立てを行った。

この役人を検見(毛見)といい、当日は怖いものなしで威張り、酒食のもてなしは当然、あまつさへ婦女子まで要求したという。
斯くしたことが年々続くので、腹を立てた若者が決死の覚悟で役人の帰途を待伏せて、二人の役人を殺してしまったのである。
このことを聞いた殿様は激怒し、報復の機を狙っていた。

そして元和三年(1617)正月四日、農家では他所へ嫁した女達も子供を連れ、その日は生家へ帰って水入らずの正月を楽しむ風習があった。
殿様はそこを狙って兵を出し、安中藩の応援も頼んで皆殺しを図ったが、皆殺しはできなかった。
皆殺し決行の前夜、即ち三日の夜、白馬にまたがった白装束の者が現れ、「明日はこの村人は皆殺しにされるから早く逃げろ。」と、大声で村中に告げて廻った。
これを聞いて逃げた者もいたが、斬殺された者が多かったという。
そしてその時、今の梅山竜二さんの屋敷内へ逃げ込んだ者は殺されなかったという。
それは、同家から藩に出仕していた梅山治左衛門氏の家だったからだという。

ここで助かった人達は、後日になって祠を建て、石宮を安置し薬師様と称し祀った。
当時はヤン目(今の流行性結膜炎)で悩む方が、たまたま薬師様に快癒祈願をなしたる処、その霊験あらたかであった。
その話が広がり、半紙に「め」と書いたものを祠に貼り付けると快癒速やかとて、貼り紙は絶えなかった。

この祠の傍らには、大榎が繁っていた。
ところがこの大榎を「縁切り榎」と云って、結婚式の衆はここを避け、迂回したとの話もある。
(略)

次に白装束で白馬に乗った救主は、浅間神社の神様であったと伝えられている。
この神社は、高前バイパス道新効パチンコ店の駐車場の辺から、沖田(問屋町方面)の田圃道の北側に森があり、それが浅間神社であったが、今は幸宮神社へ合祀されて跡形もない。

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「郷倉橋」のあった所
(歩道の下は今も堀で、写真左上に行く道に橋が架かっていたそうです。)

「郷倉」があった所
(左側ブロック塀の奥に建っていたといいます。
今は民家になっています。)
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この伝承によれば、惨劇の難を逃れた人が、相当数いたようです。
さらに、「縁切り榎の薬師様」や、「幸宮神社に合祀された浅間神社」の話も出てきて、伝説としての膨らみがあるのも興味深いところです。

次回は、萩原進氏の著書から、事件の裏面に伝えられる一説という話を、ご紹介しましょう。

【郷倉橋のあった所】

【郷倉があった所】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:55
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2009年12月16日

「切干塚(首塚)」伝承 最終話

昭和三十二年(1957)に出版された、萩原進氏著「騒動(群馬県農民運動史ノート)」に、「元和三年高崎領の騒動」として下小鳥村の事件が取り上げられています。

その中に、「この事件の裏面について、一説には次のように伝えられている。」として、こんな話が紹介されています。

(  )内は、迷道院加筆
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この年、連年の不作でこの地方の農民は年貢も納められず、ひたすら藩の情けある処置にすがる外なかったのであったが、この時の直接支配役人は、従来の上郷受持ち代官に代わって、横瀬郷大夫という悪人物が就任した。
その年の収穫を検査する検見の日になると、そのひどいやり方は常識では考えられない苛重の査定であった。

ことに甚兵衛藤蔵という二人の(所有する)田の査定はひどかった。
というのは、かねて甚兵衛下小鳥村名主茂左エ門の甥であり、その娘小夜と許嫁の仲であったからで、郷大夫は不倫にもこの小夜に目をつけて横恋慕していたからであるという。

いよいよ手渡された課税の決定書(仮免状)を見て村人は驚いた。
到底納めることのできない不当なものだったからである。
これでは暴動を起こすか死ぬかの何れかの道を選ぶ以外になくなった。
十月十七日、命ぜられた年貢納めの日は納める者はなく、二の納め、三の納めにも勿論完納できなかった。
僅か半分位であったという。
(※当時の年貢は、個人ではなく村単位で課せられました。)

責任上、村役人の名主、年寄といった主だった人々は、自分の食い料まで出したが、それでも足りない。
城米が完納できないと、郷大夫は自分の責任になるので、ついに強制徴発を行うこととなった。

郷大夫は名主の家に村民を集めて、年貢の完納方を命じ、名主を泥棒呼ばわりさえしたのである。
その上、村民を「犬畜生め」と呼ぶのであった。
無茶な検見をし、領民の苦しさも知らず、この態度ではもはや我慢できなくなったので、誰いうとなく、直接行動で郷大夫を殺そうと話し合い、その帰途を待伏せて遂に郷大夫とその一行を殺傷してしまった。
村民の中からも死者を出した。

事態の急を知って、高崎城から藩兵を繰り出し、一応この場は鎮定したが、捕えられた関係者の裁判が行われるという翌年一月四日、この日は、村から他村へ行った者も実家に帰る日で、村の家々は正月らしい賑やかさが、それでも一応は漂っていた夜のことである。
高崎藩主松平丹波守の手勢と、安中藩主水野の手勢は下小鳥村を襲い、銃声を合図に各戸を襲い、泣き叫ぶ家人を片端から殺した。

村の蓮花院の住職も百方手を盡したが及ばず、一夜明けた村は、死屍累々、この世の地獄図絵であった。
しかも屍体は村の西裏に掘られた穴の中に投げ込まれた。
名主茂左エ門は変装してひとまず逃げ、先に隠れた甚兵衛小夜の所に駆けつけ、一目会った上で、郷倉の中で自殺するつもりであったが、藩兵に発見されて殺されたということである。

この時の人穴を、「切干塚」とか「首塚」と呼んで、子孫は永久に残酷な悪領主の仕打ちを忘れないしるべとした。
その後、供養のために石地蔵が建てられ、後に石碑も建てられたということである。


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この伝承では、登場人物の具体的な名前が何人も出てきて、あたかも講談を聞くかのように情景が浮かびます。
しかし、水野氏が安中藩主に就いたのは、慶安元年(1648)です。
事件のあったという元和三年(1617)の30年後ですので、ちょっと時期が合いません。

事件があったのか無かったのか、どの話が真実なのか、それは神のみぞ知ることかも知れません。
後世の者としてはそのことよりも、人間はどのような状況に置かれると恐ろしいことを仕出かす生き物なのか、よくよく学ぶことの方が大切ではないでしょうか。

これで、下小鳥「切干塚(首塚)」伝承について、私が入手した資料は全てです。
長い間、この話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:51
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