2011年12月10日

続・鎌倉街道探訪記(1)

え?またかい。
という、皆さんの呆れ顔がまぶたに浮かびますが、昨年から今年にかけて探訪した鎌倉街道は、高崎城三の丸から南へ向かって藤岡との境まで辿り着きました。
だけど、北への道も紹介しなければ片手落ちだな、という思いがずーっとありました。

そんな訳でまた鎌倉街道ですが、よろしくお付き合いのほどを。

スタートは、やはり高崎城三の丸からです。








説明看板も、つい最近あたらしく立て替えられたようで、嬉しいです。

因みに、前の看板はこんな感じ。→

ちょっと薄れて、読みずらいなぁと思っていました。

土塁の内側の紅葉が、けっこう綺麗でした。
この辺りは昔、高崎税務署があった所で、その前は東京鎮台歩兵第三連隊本部、さらに前は旧城主・大河内氏の別館があったそうです。

その跡地には、広島で被爆したアオギリの種から芽を出した「被爆アオギリ二世」が、植樹されています。





←そして、長崎で被爆したクスノキの二世もあります。

高崎市は、昭和六十一年(1986)に「核兵器廃絶平和都市宣言」をしています。

それにしても、人間は厄介なものを造ってしまったものです。

市庁舎21階に上って、これから歩く先を見通してみました。

遠くの山の中腹まで、人間が造ったものでびっしりと埋め尽くされています。

果てしなきこの広がりも、これまた 厄介なもののひとつかも知れません。

高崎市発行の写真集「高崎百年」には、迷道院が生まれた年の航空写真が掲載されていました。

中心市街地の周りは、スカスカでした。




それから50年弱で、こんなにギチギチになりました。

あと44年後の姿は、昭和24歳さんの予言をどうぞ。

さて、次回からは北に向かって歩き始めます。


  


Posted by 迷道院高崎at 23:16
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2011年12月17日

続・鎌倉街道探訪記(2)

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、「和田宿古繪圖」というのが添付されています。

これを、もう少し簡略化したのがこちらです。↓


明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に添付されていたものですが、図中に「鎌倉道」という文字が見えます。

「高崎市史」には、次のような記述があります。
抑々(そもそも)本市ハ今ヨリ六百八十餘年前、和田義盛ノ六子義信、白川郷二墊居シ、其子正信、寛元年中此ノ地ニ移リ住シ和田ト稱ス、當時既ニ鎌倉街道ノ一驛トシテ稍々(やや)市街ノ形ヲナシタルモノノ如シ・・・」
鎌倉開府以來、鎌倉街道タリシ時ハ、金井宿、馬上宿、植横宿ノ名アリ、和田氏ニ至リ和田宿ノ名起リ、市街ヲ形成セリ、當時ノ通路トシテハ、後世ノ赤坂門ヲ置カレシ所ヨリ、現今ノ榮内烏川ニ沿ヒ、公園地内ヲ通過シ、小万坂ニ出シト云フ、・・・」

図中の「馬上宿」(ばじょうじゅく・うまあげじゅく・ばあげじゅく)から「金井宿」となっている道は、現在のどの辺なのでしょうか。

宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子(すなご)」には、このような記述があります。
・・・馬上宿(今城ノ二ノ丸南中門ノ内ナリ)、金井宿(今城ノ二ノ丸赤坂中門ノ内ナリ)・・・」

この記述からすると、左図の赤いラインということになり、現在の高崎総合医療センター(旧・国立高崎病院)辺りから、市立高松中学校にかけて鎌倉街道が通っていたようです。

現在は大きな建物が建ち並んでいますので、古の道を歩くことはできません。

止むを得ず、市庁舎前を右に行って「シンフォニーロード」を北へ進むことに致します。

「シンフォニーロード」高崎駅西口から音楽センター脇まで突き抜けたのは、平成六年(1994)のことです。

それまでは、高崎駅西口前の道は、「信濃屋旅館」「新(あら)町交番」で突き当たって、中山道との丁字路になっていました。

左の写真は昭和六十年(1985)撮影の航空写真ですが、「シンフォニーロード」(黄色の破線)ができる前の様子が分かります。

今の市庁舎がある所には「市立第三中学校」シティギャラリーのある所にはわが母校「市立第二中学校」がありました。

信号の角の植え込みに、こんなのが建っていました。→

「高崎経済大学 開学の地」などと刻んであります。

因みに、高崎経済大学の学章のデザインは、高崎藩主・大河内氏の家紋「高崎扇」が元になっています。

←この写真を見て、「懐かしい!」と思うご年配もいることでしょう。

現在のスズランデパート前から、音楽センター方向を見ています。

左端の石垣とその上の「飛龍の松」が、今も同じ場所にありますので、見当がつくでしょうか。

取り壊し中の木造建屋は、もともと陸軍歩兵第十五連隊(後・東部38部隊)の兵舎でした。
終戦後、この兵舎は様々な施設として利用されました。
真っ先に利用したのは進駐軍です。
200人の米兵が駐留し、10万坪の連隊跡地を管理下に置きました。
戦地からの引揚者の住宅としても使用されました。

その兵舎を使って昭和二十七年(1952)に開校したのが、「高崎経済大学」の前身となる「高崎市立短期大学」でした。
でも、ここで開学したのは高崎経済大学だけじゃありません。
昭和二十二年(1947)には、群馬大学の前身である「群馬青年師範学校」も置かれました。
そして、「高崎市立第二中学校」「東京農大二高」も、みなこの兵舎から始まったのです。
石碑には、それらのことも刻んで欲しかったと思います。

おやおや、ほとんど歩かない内に、こんなに長くなってしまいました。
続きは、次回に致しましょう。

【「高崎経済大学 開学の地」碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:56
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2011年12月24日

続・鎌倉街道探訪記(3)

「シンフォニーロード」を北に向かう道には、「鎌倉街道」を偲ばせるものは何一つありませんが、私にとっては子どもの頃毎日通っていた懐かしい道です。

あの頃は、この辺のことを「連隊」と呼ぶ人がいましたが、今はもういなくなりましたねぇ。
陸軍歩兵第15連隊の敷地という意味。
「もてなし広場」のところに高崎市役所があったということも、だんだん忘れられていくのでしょうか。







「もてなし広場のいわれ」というプレートが埋め込まれたモニュメントが建っています。

写真には、昔の市庁舎が写っています。
左側の建物は中央消防署、高い塔は火の見の望楼です。
子ども達が、いきなり「見学させてくださーい。」と言ってきても、消防署のおじさんは嫌がらずに望楼に登らせてくれました。
おおらかな時代でした。

一本のヒマラヤ杉の根元には、「ヒマラヤスギの由来」という石板が埋め込まれています。

先ほどの「もてなし広場のいわれ」にしても、この「ヒマラヤスギの由来」にしても、これを残したかった人の思いが何となく分かるんです。

その思いを、高崎の町全体に広げられないものでしょうか。
今は消えてしまった昔の町並みを、同じように写真入りモニュメントとして、町のあちこちに建てるのです。
年配の人は「懐かしー!」と言い、若い人は「そーなーん!」と言い、観光客は・・・さて、何と言うかな?

「もてなし広場」の一隅に、石碑が建っています。

「聖蹟記念碑」と刻まれた石碑には、昭和九年(1934)の陸軍特別大演習に天皇陛下が御臨幸になり、それを記念して松の樹を植え、「振武之松」と名付けたと記されています。

昭和三十二年(1957)のこの辺りの風景を、伊藤富太郎氏が写真で残して下さっています。
右側に「振武之松」石碑が写ってますので、位置関係が分かるでしょうか。
道の向こうの建屋群は、「専売公社」(現・日本たばこ産業)です。

専売公社が移転した跡地には、昭和六十二年(1987)に「市立高松中学校」が建設され、平成二十三年(2011)には「高崎市総合保健センター」「市立中央図書館」が建設されました。

ここが高崎城の本丸跡だというので、建設工事に先立って発掘調査が行われ、平成二十一年(2009)にも本丸堀の発掘調査が行われました。
貴重な高崎城の遺構が発掘されたのですが、再び埋め戻されてしまいました。

そこに建てられた「高崎市総合保健センター」の前に、植え込みがあります。

ちょっと見、どこでも見かけるような築山のように見えますが、近くへ行くとこんな風になっています。


実はこれ、高崎城の遺構の一部なんです。






説明看板もとても詳しく書かれていて、興味をそそられます。

ただ、惜しいかな、場所があまりにも奥過ぎます。
車の利用者はもちろん、歩道を歩く人すらこれに気付かないんじゃないでしょうか。

せめて、歩道から見える場所に案内看板を立てるべきだと思いますが。
もっと言えば、このすぐ近くに、高崎城「天守閣」にあたる「三層櫓」が、明治初期まで建っていたということも標記すべきでしょう。

ちょうど、この2つの建物の間の道、国道17号とぶつかるちょっと手前辺りだったようです。

高崎城「天守閣」でなく、三層の「櫓」としたのは、幕府が天守を築くのを禁じた後の構築であったためだそうです。

さらに、「櫓」と称して天守に等しい高層櫓の建設を禁ずるため、定めには「三階より高き櫓はなきことなり。」とあるので、高崎城「三層櫓」となったようですが、実質は「天守」だった訳です。

群馬県下で天守のあった城は、前橋、総社、沼田、舘林、そして高崎の5つだけでした。(山崎一氏)
この内、明治まで残っていたのは高崎城のものただ一つだったということで、実に残念なことをしたものです。
しかも、歴史的にも意味のある「三層」「櫓」であったとすれば、尚更です。

「高崎市総合保健センター」の一角にこそ、「高崎城本丸跡」として、「写真入りモニュメント」を建てるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

それはそうと、鎌倉街道とはあまり関係ない話になってしまいました。
それもこれも、道が消えちゃってるからで・・・。(言い訳たらたら)
次回は、いったいどうなることやら。


【「もてなし広場のいわれ」モニュメント】

【振武之松】

【高崎城 石垣水路と石樋】

【高崎城 三層櫓があった場所(推定)】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:52
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2011年12月31日

続・鎌倉街道探訪記(4)

いよいよお正月まであと一日です。
いろいろなことがあった年でしたが、穏やかに暮れ、穏やかに明けて欲しいものです。

さて、本年最後の鎌倉街道です。
「和田宿古繪圖」によると、鎌倉街道「金井宿」から「二ノ宮」の角で西に折れ、烏川に向かっています。

でも、現在この辺りに「二ノ宮」と呼ばれる所はありません。

どこなんでしょう。

寛政元年(1789)に高崎藩士・川野辺寛(かわのべ・かん)が著した「高崎志」には、このような記述があります。
赤坂大明神ノ旧跡ハ榎廓ノ内也、昔ハ此地ヲ榎ノ森・赤坂山ト云フ、赤坂ノ総鎮守也、社今ハナシ、土人ノ説ニ、寛元年中和田義信相州三浦ノ二ノ宮ヲ赤坂明神ノ社地ニ勧請スト云リ・・・」

宝永七年(1710)時代の復元図を見ると、「榎廓」の中に鳥居が描かれています。
おそらく、これが「二ノ宮」なのでしょう。

現在のTSネットワーク高崎流通センター敷地内の北側、高松中学校のグランドに近い辺りにあったようです。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」によると、「二ノ宮」は明治五年(1872)兵営設置の際に、熊野神社(現・高崎神社)に遷したとあります。

「高崎市史」に、この辺りの鎌倉街道について割合詳しく記述されています。
赤坂ノ荘ノ時代ヨリ和田宿ト稱セシ時ノ街道ニシテ、其通路ハ碓氷峠ヨリ烏川ヲ越ヘ、今日里俗ニ云フ、坊主山ト稱スル小丘アリ(舊ノ御馬出シ土手ノ遺趾ナリ)是レヨリ後世建テラレシ赤坂門二ノ宮ノ側ニ上ル、・・・」

これによると、鎌倉街道は左図の赤線のような感じで通っていたと思われます。

和田城時代は街道の西側(図では上側)が城域だったのですが、井伊直政が造ろうとする高崎城の計画では、街道とそこにある「和田宿」が城域に入ってしまうことになります。

そこで、宿場をそっくり移設することになりますが、そこが現在の「本(もと)町」となるわけで、「高崎志」には、このように書かれています。
本町ハ、高崎根本ノ町也、慶長三年(1598)戊戌(つちのえ・いぬ)中山道啓ケ、和田ニ城ヲ築カレシ時、金井宿、馬上宿ヲ此地ニ移シテ一町トス、城下ノ根本ナルを以テ本町トハ名ケシトゾ・・・」

この時に、「赤坂大明神」本町札の辻(高札場)のところに遷し、小石祠を置いて市神(いちがみ)としたと言われているのですが、
偏ク(あまねく)里老(りろう)巫覡(ふげき:祈祷師)ニ問フニ知者ナシ、夫(それ)赤坂明神ハ此郷ノ鎮守ナルヲ、今ハカク衰廃シテ所祭ノ神サヘ知人ナシ。」
と、川野辺寛は嘆いています。
高崎という町は、昔からこういう風土なんでしょうか。(笑)

ということで鎌倉街道は消えてしまいましたので、迂回をしていきましょう。

「もてなし広場」前の道を北へ進みます。

信号を渡ると、NTT東日本群馬支店の素敵な花壇が目に留まります。
嬉しい心遣いですね。

その先には、平成二年(1990)高崎市との「姉妹都市サミット」が行われるのを機に造成された、「姉妹都市公園」があります。
(米国)バトルクリーク市
(ブラジル)サントアンドレ市
(中国)承徳市
(チェコ)ブルゼニ市

園内に建つ「姉妹都市公園建設の経緯」という小さなプレートには、なかなか興味深いことが刻まれています。

この場所が、高崎城「子(ね)の門」近くに位置した武家屋敷であったとあります。

昔の高崎城絵図を見ると、堀と本丸との間に、びっしりと「士屋鋪(さむらいやしき)」が配置されているのが分かります。

その「子の門」跡へ行く前に、ちょっと寄り道してご紹介したいところがあります。




どうです、いい雰囲気でしょう?

アーチ型のトンネル、実は「からたち橋」という橋の橋脚なんです。

    からたち橋の記
高松町を巡る史跡の土塁は
昔は城の鬼門に当り
柳橋がなくて土塁が続いていた
今の土塁は緑と土の香りを楽しむ遊歩道なので
石橋でつなぎ城に植えてあった、からたちを橋の名とした
                              平成六年三月


昔はなかったという「柳橋」側から見ると、こんな感じです。→






「鬼門」を開けてしまったので、その代わりということでしょうか、石橋のアーチには「鬼」という字が刻まれています。

いやー、高崎のお役所にも、なかなか粋な人がいたんですねー。

石橋の上の遊歩道には、橋名の由来となった「からたち」が、鋭い棘を突き出しています。

土塁上の散歩を楽しむ方は、くれぐれもお気をつけ下さい。


取材した日(12月9日)は、土塁上のが、まだきれいに色づいていました。

子どもの頃、棒切れを振り回しながら、ここを駆けずり回っていたことを、懐かしく思い出しました。

そういう風景がまだ残っていたことに感謝しつつ、本年はここまでと致します。


【「二ノ宮」があった場所(推定)】

【姉妹都市公園】

【「からたち橋」と「柳橋」】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:00
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2012年01月07日

続・鎌倉街道探訪記(5)

高崎城「子の門」のあったところです。

一世代前の人は、「北門」と言ってました。
歩兵第15連隊があった頃の「北門」なんですが、とうの昔に取り払われているのに、そう呼んでいました。


「子の門」から西の堀はきれいに整備されて、平成五年(1993)に「手づくり郷土賞」を受賞しています。→






←なかなか、いい雰囲気でしょう。
(2011/12/9撮影)
私が子どもの頃は、水のあまりない、北側のうす暗い堀でした。
その分、冬は厚い氷が張って、スケートの真似事をして遊んでいたものです。

左手に回り込んで、右へ下りればせせらぎ沿いの遊歩道へ(お奨めです)、左へ上がれば土塁上の遊歩道です。

今日は、土塁の上に上がります。




ぼんやりしてると根っこに躓き、堀まで転げ落ちますので、注意しながら進みましょう。







北西の角を曲がると、急に土塁の幅が広くなります。
この辺に、高崎城「赤坂門」があり、右前方・北西部には「馬出し」という、城郭の一部が張り出していたはずです。

左の写真は昭和二十三年(1948)に米軍が撮影した航空写真から、高崎城址部分を切り出し、拡大したものですが、円内が「馬出し」跡です。

木が2本立っているだけの「馬出し」跡を、住民は「坊主山」と呼び親しんでいました。

「坊主山」がいつごろ削り取られたのかは定かでありませんが、昭和二十八年(1953)の地図には、すでに「坊主山」は見えません。

代わりに、坊主山市営住宅」という名前が見えますが、今ではその呼び名すら消えてしまいました。


でも、「坊主山」の痕跡がまったく無くなってしまった訳でもありません。

左の地図で、「高松町」の一部が、「常磐町(ときわちょう)」の方にツンと突き出しているのが分かるでしょうか。
この突き出ている位置と方向、形が、「馬出し」そっくりじゃありませんか。

因みに、この「高松町」という町、江戸時代に書かれた「高崎寿奈子」「高崎志」には出てない、比較的新しくできた町です。

明治十五年(1882)に土屋老平(おいひら)が著した「更生高崎旧事記(くじき)」には、こんな風に書かれています。

老平云、高松町ハ旧城丸ノ内也。高松ノ名称ハ、松ハ延齢ノ木ニテ疆(きょう:限り)ナキヲ祝ヒ、以テ松ノ名ニ高ヲ冠ラシムハ高ハ大イナル意ニアレバ也。・・・(町になったのは)明治四年(1871)六月也。・・・今ハ此地陸軍所轄地、・・・」

ということで、「坊主山」高松町分であったために、地図に痕跡が残ったという訳です。

また、こんなところにも痕跡が残っていることを、住民の方に教えて頂きました。

「陸軍所轄」の標柱
「坊主山」の標記がある電信柱

話しは変わりますが、以前、前橋の方からこう言われたことがあります。
「高崎は羨ましい。城の堀がしっかり残っているんだから。」

そうです、城の建物こそなくなってしまいましたが、残った土塁やお堀のおかげで、城域の形がはっきり分かります。
これは、高崎の大きな財産だと思います。
もっと、もっと、自慢してよい宝物だと思います。
史跡看板をたくさん立てて、まずは市民に知ってもらうべきでしょう。


【「子の門」があった所】

【「坊主山」があった所】

【「陸軍所轄」の標柱】


  


Posted by 迷道院高崎at 20:20
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2012年01月15日

続・鎌倉街道探訪記(6)

高崎城「赤坂門」跡の土塁終端に、桜の蕾が一輪、春を待ちかねるように開きかけていました。

金網の向こうからは、高松中学校の野球部員の元気な声が聞こえてきます。



昔は、「馬出し」(坊主山)があったので、そこから下の道に下りたのでしょうが、今はそれが無くなってしまったので、ここで土塁を下りましょう。

古くは、ここらあたりを「赤坂」と言っていたようで、「高崎志」には次のように書かれています。

上野国群馬郡赤坂荘ハ名義未詳、里俗伝ヘ云、其土赤埴(あかはに:赤土)ニシテ、坂アル故ニ赤坂ト名ツク、・・・
里老云、今高崎城赤坂門ノ外ノ坂ハ、即古ノ赤坂也、門内ノ南ヲ赤坂山ト云、此地ニ榎多クアリ、故ニ榎ノ森トモ呼リ、・・・」

土塁を下りて、ちょっといい雰囲気のせせらぎを少し戻って、道路に上がります。

左側に写っているマンションのところには、かつて明治十三年(1880)創業の「栗本牧場」がありました。

給食の脱脂粉乳が、瓶詰の栗本牛乳に変わった時は、けっこう嬉しかった記憶があります。



なぜか、寄合町の山車庫があって、真っ直ぐ行くと国道17号に出ちゃいます。

私が子どもの頃は、国道ったって車はほとんど通らず、平気で横切ってたもんですが・・・。

国道へ出る10mほど手前の道、ここが常盤町高松町の境になります。

江戸時代まで、この一帯は「赤坂窪」と呼ばれていて、田畑の中に一本道が通っていたようです。




50mほど進むと、ノスタルジックな「たばこ」の看板。

この相向かいに、「陸軍所轄」の標柱が建っているんです。


←国道下から来る道と合流する四叉路を、道なりに直進します。







200mほど進むと丁字路に出て→
右前方に高い煙突が見えてきます。

煉瓦造りの煙突が、明治三十年(1897)創業の「岡醤油醸造」「巨神兵」みたいな金属の煙突が、明治二十六年(1893)創業の「蝋山酒造」を継いだ「美峰酒類」です。

手前の大きな駐車場は「岡醤油醸造」の土地で、昔は醸造蔵があったところです。

駐車場の一角に、立派なお稲荷さんの鳥居と社があります。

「岡醤油醸造」の、屋敷稲荷でしょう。

丁字路から80mほど行くと、常磐町(ときわちょう)の交差点に出ます。
右前方の煉瓦塀は、和風図書館「山田文庫」です。
今日は、ここまでと致しましょう。



【前回からの散歩道】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:14
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2012年01月21日

続・鎌倉街道探訪記(7)

常盤町(ときわちょう)交差点の角に、「旧中山道」の看板が立っています。

鎌倉街道はここで旧中山道と合流します。
というより、旧中山道がここから鎌倉街道を利用した、という方が正しいのでしょう。

ここは中山道高崎宿「京口」ということで、の方から来る旅人は、今の「君が代橋」のちょっと下流辺りで烏川を渡って、写真向こう側からこの角を左へ曲がり、赤坂を上って、高崎城下へ入って来るわけです。

もともと井伊直政高崎城を築いた目的は、中山道を通って江戸へ攻め上ろうという外敵を、食い止めるためでした。
そのため、この「京口」高崎宿「上の木戸」として、特に厳重な備えになっています。

常盤町の角には「外木戸」赤坂の途中には「内木戸」と、木戸が二つもありました。

各木戸の番小屋には武士が常時詰めていて、六尺棒を持って立っていたといいます。

そして「内木戸」の近くには、中山道を挟んで「長松寺」「恵徳寺」が、高台から見下ろすように配置されています。
いざという時は、境内に兵士を配して迎え撃つために、ここに寺を移設したのだそうです。

明治になって木戸は廃止されましたが、「外木戸」があったところには「常盤町交番」が設置されました。

薄ぼんやりと記憶に残っている「常盤町交番」は、小さな、文字通り「ポリスボックス」という感じで、昭和四十年(1965)頃まであったのではないかと思います。

さて、「旧中山道」は、常盤町の角を曲がるルートが一般的に知られていますが、間部 詮房(まなべ あきふさ)が高崎藩主だった宝永七年(1710)~享保二年(1717)の頃は、赤坂から真っ直ぐ烏川の渡船場へ向かっていたようなのです。

古の鎌倉街道も、おそらく、ここで烏川を渡るというルートだったのでしょう。

烏川の岸には美しい松並木の台地が続き、「台が松」という名勝地になっていたそうです。

そもそも、高崎「松」とは歴史的にも深い関係があります。

井伊直政が、それまでの「和田」という地名を、当初「松ケ崎」にしようと思ったのは、城内にあった名木「露の松」に由るものだといいますし、
「常盤町」という町名も、常緑の「松」「常盤(永久に変わらぬこと)に因んで名付けたといわれます。
高崎で最も歴史のある「中央小学校」の旧校歌にも、「松のときわの 色深く」と謳われています。
だいいち、市役所の所在地が「高松町」じゃありませんか。
歴代市長最長在任記録保持者だって・・・・・ま、いいや。

それなのに、「市の木」「松」ではなく、「ケヤキ」「カシ」だとは・・・。

気を取り直して、間部時代のように真っ直ぐ烏川に向かうと、「常盤橋」という小さな橋があります。

そのすぐ先は、現代の中山道・国道17号で、ひっきりなしに車が走っています。

「常盤橋」の下の水路が、並榎町の名主・清水吉兵衛が開いたとされる「吉兵衛堀」です。

この堀には「吉兵衛車」とか「田村車」とかいう水車があったとか、増水により子供がたびたび流されて命を落すので「人取り川」と呼ばれたとかいう話がありますが、現在は、写真のように堀の底の細い溝に、わずかな水が流れているだけです。

清水吉兵衛については、グンブロガー・捨蚕さんがいろいろ調査して下さっていますので、そちらをご覧ください。
   ◇ぶら捨蚕 「吉兵衛さん」

昔は、「常盤橋」から国道に上がって右へ100mほど行くと、「八千代橋」という木橋が架かっていて、乗附側に渡ることができました。

烏川碓氷川の二つの川を越える橋なので、全長500m以上と県下最長の木橋で、時代劇の撮影にも使われた、趣きのある橋でした。

それよりもっと前には、「千代橋」「八千代橋」という、二つの土橋が架かっていたそうです。

その頃の高崎の橋は、実に粋な名前が付いていたもので、北から、「君が代」「千代」「八千代」「聖石」と、明らかに国歌を意識して付けた名前だと分かります。

ただ、土橋の「千代・八千代橋」は増水でたびたび流されてしまうので、昭和十六年(1941)に架け替えられて一本の木橋「八千代橋」となり、「千代橋」の名前は消えてしまいました。

ところが、この「八千代橋」も、台風が来るたびによく流されていました。

昭和四十二年(1967)に和田橋(上の地図では「高崎大橋」という名で計画されていたんですね。)が開通すると、木橋の「八千代橋」は撤去されてしまいます。
そして昭和六十二年(1987)、碓氷川にだけ鋼鉄製の橋が架かり、半分だけの「八千代橋」になってしまいました。
本当は、「千代橋」の名を復活すべきだったんでしょうね。

さて、長くなりましたので、今日はここまでと致しましょう。

(参考図書:「続・高崎漫歩」「新編高崎市史」)


【「内木戸」があった所】

【「外木戸」があった所】

【常盤橋】

【旧「八千代橋」が架かっていた所】



  


Posted by 迷道院高崎at 10:01
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2012年01月28日

続・鎌倉街道探訪記(8)

古の鎌倉街道を旅する人が、烏川を渡ったであろう場所は、たぶんこの辺だったんでしょう。

かつて、木造の「八千代橋」が架かっていたところです。

ぐるーっと回り道をして、その対岸へやってきました。

左の橋が、半分の長さになってしまった「八千代橋」です。

さて、この先、鎌倉街道はどういうルートだったのか、さっぱり見当が付きません。

そこでここから先は、昭和五十八年(1983)に群馬県教育委員会が発行した、「歴史の道調査報告書 鎌倉街道」をたよりに、進みたいと思います。
報告書の「金井宿から豊岡へ」の項には、次のように書かれています。

台ヶ松の対岸は広い河川敷で、現在はゴルフ場として利用されているが、渡し場のあった辺りは「経塚」の小字があり、昔経塚があったものと想像される。
鎌倉道は北上して、「元屋敷」の小字のある東を通り、「筏場川原」「尺地」の境を北上して、以前万日堂のあった辺りへ出たと推定される。

それを、豊岡の小字名の書かれた地図で辿ってみたのが、左図の赤いラインです。

目指すは、「以前、万日堂のあった辺り」ですが、今は無いということでしょうから・・・。

ま、ともかく見当をつけて、歩き始めましょう。

「八千代橋」のたもとから200mほど北へ行くと、道は土手の上と下とに分かれます。

下の道は、狭いところへもってきて、けっこう車の交通量が多いので、物陰に避けながら、江戸しぐさじゃありませんが肩を引きながらの行進です。

500mほど歩くと、「君が代橋」西の、国道18号に出てきます。

この辺りに、「以前、万日堂があった」はずなのですが、当然、今はありません。

調べてみると、「高崎の散歩道 第十集」に以前の位置が載ってました。

現在の国道18号は、旧18号の慢性渋滞解消のため、「君が代橋」の三重立体交差化と共に昭和五十九年(1984)「豊岡バイパス」として開通しました。

これに、モロにひっかかったのが、「以前あった万日堂」でした。

「万日堂」は特定の寺院持ちでなく、住民の共同墓地となっていました。

道路計画に伴い、堂を移転することに決まりましたが、問題は墓地でした。
移転先寺院の選定、遺族の消息調査、土葬であった107の墳墓の発掘・火葬・開眼もどしなど、大変なご苦労があったようです。

江戸時代に建てられたという堂宇は取り壊され、国道18号の反対側に新しく建て直されました。

国道の下の道を「君が代橋」方面へ進み、地下道を潜った先です。




昭和五十六年(1981)に落慶法要された新しい堂宇は、以前のものよりこじんまりした美しい形で、「萬日堂」と刻まれた立派な石碑が建っています。

「萬日堂」といえば、最も有名なのが高崎市重要文化財に指定されている「見返り阿弥陀像」です。

室町時代末期の作といわれる木造彫刻で、両眼の内側には水晶の玉眼が嵌め込まれているそうです。
見返り姿の阿弥陀像は全国に5体しかないということで、じゃあ国宝じゃないの?と思うのですが・・・。

で、こんな伝説があるそうです。

←看板の中に書かれている「白井鳥酔(しろい・ちょうすい)句碑」が、これです。

この句碑、一度は危うく埋められちゃうところだったのです。
それは昭和六年(1931)中山道の改修工事で、50mほど下流にあった「君が代橋」を今の位置に架け替える時のこと、工事のどさくさに紛れて埋没されようとしました。

それを救って、以前の「萬日堂」の入り口に設置したのが、近くに住む大塚平三郎という人でした。

子持山下の双林寺門前にある「鳥酔翁塚」と、下豊岡にあった「鳥酔句塚」は、ともに鳥酔の歯を分骨した「痙歯塔」(けいしとう)だったそうです。
「鳥酔句塚」が崩されずに残っていたら、「鳥酔翁塚」と同様、県指定史跡になっていたはずなんですね。

さて、この記事をご覧になって、「八千代橋」たもとから「萬日堂」まで歩いてみたくなった方に申し上げます。
記事に書いたルートは道が狭くて危険ですので、下図の「お奨めルート」で歩くことをお奨めいたします。


では、本日はここまでと致します。

(参考図書:「歴史の道調査報告書 鎌倉街道」「豊岡誌」「高崎の散歩道」)


【萬日堂】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:46
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2012年02月04日

続・鎌倉街道探訪記(9)

「萬日堂」から先の鎌倉街道については、頼みの「歴史の道調査報告書」も、いくぶん心許なくなってきます。

万日堂からの道はすっかり様子が変わり、鎌倉道らしい道も、また伝承もない。・・・
・・・国道の北に、水路に沿った道が残っており鎌倉道とは云われないが、古くからの道であるという。
この道も自動車教習所の所で終わり、その先に続く道はない。中山道が整備された時に古い道は廃道になってしまったものと思われる。」

そう言われると困っちゃうのですが、過去記事「鎌倉街道探訪記(16)」の中に出てくる謡曲「鉢木」には、こんなくだりがあります。

信濃なる、浅間の岳に立つ煙、遠近人(おちこちびと)の袖寒く、吹くや嵐の大井山、捨つる身になき伴の里。今ぞ憂き世を離れ坂、墨の衣の碓氷川、下す筏の板鼻や、佐野の渡りに着きにけり。」

そう言っているのは、諸国巡歴中の最明寺入道、鎌倉幕府執権を退いて出家した北条時頼です。
巡歴を終え鎌倉へ戻る途中ですから、当然鎌倉街道を使ってるはずで、板鼻から佐野の渡りへ着いたというのですから、この豊岡を通っているに違いありません。(お話としては。)
ま、とにかく「板鼻」を目指せばいいということでしょう。

「萬日堂」から西へ50mほど行くと、丁字路になります。

右へ行くのが、「歴史の道調査報告書」にある「自動車教習所の所で終わる」道ですが、今日は目的があるので、左へ行きます。



「山崎商店」の立派な蔵の前を通って坂を上がると、国道18号406号の大きな分去れに出ます。






右の国道406号を進みます。




右側を見ながら歩くと、こんな素敵な建物に出会ったりします。

分去れから180mほどで、このコースを選んだ目的の「石神社」に着きます。

素直に読めば「いし・じんじゃ」ですが、地元の人は「シャクジさま」と呼びます。

東京練馬に「石神井」(しゃくじい)という地名がありますが、「石神」と書いて「しゃくじ」と読む地名や神社は全国にあるようです。
平成十九年(2007)に発行された「豊岡誌」では、「石神社」と書いてあったり「石神神社」と書いてあったりで統一されていませんが、読みはどちらもしゃくじ・じんじゃ」となっています。

「石神社」と書くくらいですから、お社には「石」「岩」がお祀りされていそうなものですが、祭神は八衢比古(やちまたひこ)と八衢比売( やちまたひめ)という、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐ神様です。

同じ役目を持つものとして「道祖神」がありますが、「石神社」の境内にも道祖神があり、側面には「明和元年(1764)社宮司村」と刻まれています。

「社宮司」「しゃくじ」の当て字で、ここの小字名も「尺地」と書いて「しゃくじ」です。

その「尺地」も当て字でしょうが、その字面からこんな説も生まれてます。

昔、碓氷峠から中山道の里程を尺縄(しゃくなわ)を使って測っていたところ、この地で尺縄がボロボロに擦り切れてしまったので、尺縄が切れた地の意味で尺地と名付けた。
切れた尺縄を萬日堂の境内でお坊さんに拝んでもらい、石神神社に祀った。」

もうひとつ面白い話があって、地元の人は「しゃくじ」という音に「杓子」(しゃくし)を連想したようで、昔は「石神社」「しゃもじ」を供えて、家内安全を祈願していたといいます。

信仰というのは、なんとも実に、人間らしい行いなんだなぁと思う訳です。

はい、今日はここまで。
250mのお散歩でした。

(参考図書:「豊岡誌」「高崎の散歩道」「続・高崎漫歩」)


【石神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:03
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2012年02月12日

続・鎌倉街道探訪記(10)

「石神社」から100mほど西へ行くと、左側に「セブンイレブン」があります。

このまま真っ直ぐ行ってもいいのですが、途中から歩道が無くなってしまってちょっと恐いので、右へ曲がって坂を下りることにします。

坂の左手に、広ーい空き地が見えます。

ここは、昭和三十九年(1964)開設の「豊岡自動車教習所」があった所です。




最近、ここの教習車を見なくなったなぁと思っていたら、平成十九年(2007)に閉鎖されたのだそうです。

でも、Yahoo!地図には、在りし日の写真がまだ残ってるんですね。

坂を下りると、向こうから一本の道が来ていますが、これが、「萬日堂」からの丁字路を右に曲がって来る道です。






角を左に曲がると、正面に土手を上る階段がありますので、上ってみましょう。

春になって桜が咲いたら、さぞかし素敵な散歩道になるでしょう。

滔々と流れるのは「藤川」、上流では「板鼻堰」と呼ばれています。

ということは、この流れを遡って行けば、「板鼻」に辿り着くということじゃありませんか。

昭和四十九年(1974)発行の「板鼻堰史」によると、その開鑿は慶長九年(1604)頃から開始され、豊岡地内まで延長されたのは元和七年(1621)頃であったとされています。
残念ながら、鎌倉時代にはまだこの川沿いの道はなかったということになります。

足下の土の感触を楽しみながら、川に沿って500mほど歩くと、国道406号「藤川橋」のたもとに出ます。

ここで、ちょっと寄り道をしたくなりましたので、左に曲がります。




国道406旧中山道の分去れに出ますが、高崎から来ると、「君が代橋」を渡って3つ目の分去れになります。

高崎側から見たところです。↓

分去れには自然石の道しるべが建っています。
左が「旧中山道」なんですが、道しるべには「右 はるなみち くさつみち」としか刻まれてないません。

新しい(でも、朽ちかかった)標柱には「中山道」とあるんですが、もっと昔に建てられているはずの道しるべに「中山道」の文字がないのは不思議です。

それにしても、無粋な「避難場所案内図」の看板と土管(コンクリ管?)は、何とかならないものでしょうか。

分去れから「旧中山道」板鼻方面へ20mほど行った右側に、「八坂神社」があります。

ちょっと引っ込んでいるので、車で通ると見逃してしまうかも知れません。

ここにも、高崎市指定重要文化財に指定された立派な道しるべが建っていますが、やはり正面に刻まれているのは、「榛名山 草津温泉 かわなか かわらゆ温泉 はとのゆ」の文字です。

「中仙道」と刻まれているのは左側面で、しかも、説明看板に書かれているように、これは「道しるべが建てられた後に彫られたものであろう」ということです。(書体が違うんです。)
不思議だなぁと思っていたら、「続・高崎漫歩」の中で土屋喜英氏がその謎解きをしておられました。

八坂神社の横に三メートルほどの路地がある、この路地がかっての、くさつみち、はるなみちで・・・、中山道に比して野道同然の道であったから、目立つように大きな道しるべを建てたと思われる。
中山道を高崎宿から豊岡へ来た旅人の中には草津温泉などへ湯治に行く者もかなりいた。
しかし中山道からの分かれ道は、野道のような道で、気付かずに通り過ぎてしまう旅人もいた。
そこで、道の角の西側に道しるべを建てた。中山道に面して榛名山、草津温泉とある正面を向け、野道に面して旅人の目につく右側(従是 神山三里 三ノ倉五り半 大戸九り半)を見せた。
左側は中山道の本通りであり、高崎宿から来る旅人に分かればよいので、特に左を示す必要はなく、ここには浅い刻みで建立の年月日が彫られていたとも思える。
野道の手前に広い道(現・国道406号)が開かれ、野道は塞がれてしまったので道しるべも新しい道の三角の角へ移された。
すると建立年記のある左側が中山道に面して建てられてしまうことになってしまった。・・・そこで浅い刻みの年記を削り、左中山道と入れた・・・」

この立派な道しるべ、新しい道ができるたんびに、あっちこっちへ引っ越しさせられていたんです。

元々は、「八坂神社」の所にありました。
「八坂神社」も、以前は旧中山道の反対側にあったが、昭和四十八年(1973)下豊岡町第一公民館新築に伴い現在地に移転した。

明治九年(1876)に県道3等とされた「くさつみち、はるなみち」は、明治三十年(1897)代に入り交通量が増加したため拡幅工事が行われますが、その時、道しるべは新道との分岐点となるの場所に移されます。

時は下って昭和十四年(1939)、旧中山道のバイパス建設工事が行われると、道しるべはバイパスとの分岐点に移されます。
そのバイパスも、昭和四十年(1965)頃からの自動車時代に入ると、たちまち関東有数の交通渋滞地域となり、昭和五十九年(1984)バイパスのさらにバイパスとなる「現・国道18号」の開通となるわけです。

道しるべはまたもやその分岐点に移されるかと思いきや、さすがに、元の場所からあまりにも離れ過ぎてしまうということで、地元住民や市内歴史家の主張により、平成十年(1998)やっと元の場所に戻ることができたという訳です。

その時ご尽力頂いた方々に深く敬意を表しながら、今日の散歩はここまでと致します。

(参考図書:「豊岡誌」「続・高崎漫歩」「高崎の散歩道」)


【今日の散歩道】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:27
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2012年02月19日

続・鎌倉街道探訪記(11)

旧中山道国道406号の分去れから、「藤川橋」まで戻ります。

橋を渡って左折し、再び「藤川」に沿って歩きます。

車もほとんど通らず、流れの音を楽しみながら落ち着いて歩けます。

150mほど行くと、右手奥の高台にお寺の屋根のようなものが見えます。

ちょっと気になったので、行ってみることにしました。




道なりに坂を上っていくと、「姫宮公園」となっています。

「姫宮」、何だか好奇心をそそられる名前です。

赤城山がきれいに望める墓地に、お堂が一つ建っていました。

「姫宮観音堂」と書かれています。

お堂の前に建つ「姫宮観音の由来」によると、少林山達磨寺の末寺として開山されたようですが、「姫宮」という名前の謂れについては書かれていません。

後で調べてみると、建立者の柳瀬次郎氏の言として、「梁瀬家の先祖は甲州武田家の遺臣で、武田勢が戦いに敗れた時、豊岡村に逃げて土着した。」という話しがあるので、あるいは山梨「姫宮神社」と何か関係があるのでしょうか。

梁瀬次郎氏は、輸入自動車販売の老舗・「梁瀬自動車」(現・株式会社ヤナセ)の二代目社長です。
次郎氏は生まれつき病弱で吃音があったために、初代社長の父・長太郎氏からは大変厳しくあたられたといいます。
その体験が、土地を寄付し、「観音堂」を建立し、碑文の「当地の皆様の幾久しいご平安をお祈りする」という優しさを生んだのかも知れません。

墓地の一角に、「梁瀬孫太郎夫妻之墓」という、ひときわ大きな墓石が建っています。

梁瀬孫太郎氏は、「上毛かるた」で有名な船津傳次平の弟子として、「石並べ苗床」の研究と普及に大きな功績を残した人物です。


「石並べ苗床」は、路傍の草が石に接しているところだけ背丈が高いことに気付き、苗床に応用したものです。

豊岡では、碓氷川烏川から平らな石を拾い集めて苗床に並べ、特産の「豊岡胡瓜」の栽培に利用したそうです。

安政六年(1859)豊岡村の小百姓の次男として生まれた孫太郎氏は、幼い頃から父と共に未明から夕刻遅くまで野良仕事に精出し、夕食が済むと縄ないに藁仕事という毎日でした。
やがて、口減らしのために分家に養子に出されますが、本家と分家の両方の仕事をこなすという、過酷な労働の日々が続きます。

働いても働いても抱え続ける多くの借財に耐えきれず、20歳になった孫太郎氏はついに東京へ出て行ってしまいます。
股引に筒袖の野良着に草鞋履きという姿で、3日かけて歩いて行ったといいます。
その行方を探し、借財を立て替えてくれた近所の人の恩に報いるため、孫太郎氏は農業に専念することを決意します。

明治十八年(1885)高崎大信寺船津伝次平の農談会が行われ、孫太郎氏もこれに参加していました。
この時、最前列に座って熱心に講義を聞く姿を傳次平に認められ、師弟関係が結ばれたのだそうです。

篤農家として有名になってからも、いつも質素な身なりで倹約に努めた孫太郎氏の人となりは、次のようなエピソードで伝えられています。

4月~9月は4時、10月~3月は5時に起きる、これを生涯実行し、朝起きると中山道を通る馬の糞を拾い集めて、これを堆肥に使う。
馬のわらじは短く切って炭俵に詰めておき、溜ると高崎の左官へ持って行って1俵2銭で売る。

しかし、ただの倹約家と違うのが孫太郎氏です。
左官へ売った代金は、27歳の時からすべて「奉仕筒」と書いた竹筒に入れておき、58歳まで貯めた820円余りの金で田畑1町3反、梨畑と山林9反1畝20歩を購入します。

その山林に「青年山」と名付けて地元の青年団に寄付し、青年団はそれを開墾して杉・桧・松などを植えました。
それらの木は、昭和二十二年(1947)村民の手によって切り出され、新制中学校の建築用材として使われたということです。

孫太郎氏がつくった13カ条の人生訓から、いくつかを拾ってみましょう。
  一、農業は聖人君子を気取って行うことができる。
  一、儲けることばかり考えては百姓は成り立たない。
  一、人間は働けば不味いものと病気はない。
  一、経済の元は一家病気をしないことである。
  一、嫁を呉れるならその家の堆肥を見よ。
  一、被服と住家は飾るべからず、飾れば他人にそねまれる。


いやー、深い。
ということで、今日はここまでにいたしましょう。

(参考図書:「豊岡誌」「高崎の散歩道」)


【姫宮公園】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:59
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2012年02月25日

続・鎌倉街道探訪記(12)

「姫宮公園」から戻って、また「藤川」沿いに歩き始めました。








ところが、100mも行かぬ内に行き止まりです。

ちょっと戻って、「藤川」に架かる小さな橋を渡ることにしました。

向こう岸も川に沿って歩く道はありません。
この後は、しばらく住宅地の細い道をくねくねと進むので、地図で示すことにしましょう。


250mほど迂回すると、また「藤川」沿いの道に戻れます。

明和七年(1770)の道陸神が建っていて、川向うの景色も何となくいい雰囲気です。

これが鎌倉街道だと言ってしまえば、そうかも知れないと思ってしまいそうな道です。

そんな川沿いの道も200mほどで丁字路に突き当たり、それ以上川に沿って歩くことはできません。

「歴史の道調査報告書」によると、
豊岡で鎌倉道として推定される道は・・・、四川という中華料理店があり、その裏道で、豊岡小学校の北裏を通る。」
とあるので、左折して「藤川」から「四川」に目標変更です。

120mほど行くと、どこかにあったものをここに集めたものでしょうか、「馬頭観世音供養塔」やら「道祖神」やら「念仏供養塔」やらが、どこか不自然に並んでいます。





さらに100mほど行って右折すると、それが「歴史の道調査報告書」でいうところの「四川という中華料理店の裏道」です。


細い道を200mほど行くと、塀の中から大きな松の古木が3本、外へ出たげに(出たそうに)身を乗り出しています。





「月光院常安寺」です。

寺史によると、元亀元年(1570)豊岡領主・禰津神平常安(ねづ・じんぺい・つねやす/じょうあん)公により建立」とあるのですが、祢津氏が豊岡に領地を得たのは、天正十八年(1590)のことです。

また、「上野国寺院明細帳」によると、「往古当村領主祢津神平常安、慶長元申創造」とありますので、創建は慶長元年(1596)とみるのがよさそうです。


「月光院」という風雅な院号に、「丸に月」というお洒落な寺紋ですが、この紋は信州・禰津(ねづ)氏の家紋です。

禰津神平常安こと祢津政直は、武田信玄に従い西上州進出の先兵となって箕輪城攻めにも参陣し、落城後は箕輪在城を命じられています。

武田家の滅亡後は徳川家康に仕え、天正十八年(1590)の家康関東移封の際に豊岡の地を与えられ、ここ「常安寺」となる場所に陣屋を構えますが、慶長二年(1597)に没しています。
政直は、豊岡に入る前すでに出家していて「松鷂軒常安(しょうようけん・じょうあん)」と名乗っており、法名は「月光院殿心源常安居士」でした。
「月光院常安寺」の名は、この法名から付けられたようです。

政直没後、甥・信政が家督を継ぐと、慶長七年(1602)には上野三ノ倉五千石が加増され、一万石の大名となって上野豊岡藩が成立します。

信政没後はその子・政次、さらに養子・信直と受け継がれますが、その子がないまま寛永三年(1626)に信直が没したため、豊岡藩は三代で廃絶となってしまいます。

「常安寺」境内には、政直の墓が建っていますが、心なしか寂しげに見えます。

「常安寺」は明治二十六年(1893)の火災により、山門だけを残して本堂・阿弥陀堂・地蔵堂すべてを焼失しています。
本堂の床下に寝泊まりしていた浮浪者の火の不始末といわれていますが、この時の第十六世住職・慈眼恵明大和尚は、燃え盛る火の中に飛び込み過去帳を持出したものの、全身に火傷を負って亡くなったそうです。

境内には、歴代住職の墓列とは別に、慈眼恵明大和尚の石塔が建てられています。

第十九世・祖詠弘昭大和尚にご案内頂き、苔むした塔がそれと知りました。

焼失してしまった本堂は、大正十一年(1922)沼田の他宗寺院の古材を使って再建されましたが、10年ほど前に新築の案が持ち上がり、平成十九年(2007)現在の美しい本堂に生まれ変わりました。

実は「常安寺」にはもうひとつ、ご紹介したい人物のお墓があるのですが、今日は長くなりましたので、それは次回と致します。


【常安寺(山門)】


  


Posted by 迷道院高崎at 20:16
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2012年03月03日

続・鎌倉街道探訪記(13)

「常安寺」に、豊岡出身で関脇までいったお相撲さんのお墓があります。
群馬県出身で関脇までいったお相撲さんは、三人しかいません。
沼田出身の栃赤城箕郷出身の琴錦、そして時代は大分遡りますが、今回ご紹介する稲川政右衛門(いながわ・まさえもん)です。

稲川政右衛門は、明治四年(1871)豊岡村字尺地の生まれ、本名は吉井貞四郎(よしい・ていしろう)といいます。

身長五尺五寸(167cm)、体重二十九貫(110kg)、両手の指を開いたまま土俵に突き立てるような独特な仕切りで、得意技は突っ張りと諸差しでの寄りだったそうです。

「常安寺」本堂の北に、稲川が明治三十一年(1898)に亡くなった父・兵造(ひょうぞう)のために建てたお墓があります。

明治三十三年(1900)、当時、東前頭五枚目だった稲川は、高崎成田山光徳寺に於いて、父の追善大相撲を催します。

その収益によって建てられたのがこの墓で、元は「萬日堂」にありましたが、「萬日堂」移転により「常安寺」に移されました。

この墓石の三つの面に、竹林忠澄という人の撰で、兵造貞四郎のことがびっしり刻まれています。
それによると兵造は、
幼名濱之助を稱し その先は兵庫頭顯守に出て豊岡村に住し代々農を業とし村長の職を世襲に天保九年(1838)十月廿日宗家に生れ・・・」
身體肥大 力量衆に超え 加ふるに釼(剣)、鎗(槍)、柔術に優れ膽(胆)まさに大なれば 事を處寿る(処する)に當り敏捷にして偏頗(へんぱ:偏り)なかりし・・・」
という人物だったようです。

その五男として生まれた貞四郎もまた、
児童の時より體軀(体躯)偉大 容貌毅然・・・」
としていたそうです。

そこへ突然、足利出身の相撲部屋の親方がやってきます。
明治十七年(1884)一月 相撲年寄稲川政右衛門 突然樽酒を提げ来りて慇懃に乞はれ■■■遂に諾して師弟の契約を為さしむ」
と、どうやら最初はあまり乗り気ではなかった風ですが、貞四郎13歳で稲川部屋入門となった訳です。

貞四郎の初土俵は明治二十一年(1888)16歳の時、四股名は「豊岡」でした。
その後、師匠の遺言で師匠の前名「玉風」をもらって「玉風貞四郎」と改め、明治三十二年(1899)に名跡・稲川政右衛門を襲名し、現役と年寄の二枚鑑札となりました。
そして、東の関脇となったのは明治三十四年(1901)のことでした。

明治四十二年(1909)の一月場所を最後に現役を引退し、同年二月に開館した「旧両国國技館」内に、相撲茶屋「上州屋」を開きますが、大正五年(1916)東京貝殻町の贔屓先で飲酒中に脳溢血を起こし、あっけなくこの世を去ります。享年46歳でした。

稲川政右衛門の墓は、兵造の墓の右奥にあります。

このお墓、最初は代々稲川名跡の菩提寺である、東京谷中延寿寺日荷堂にあったのです。







建立者は、妻・マサと弟子・鷲尾嶽大谷米太郎とあります。

大谷米太郎とは、あのホテル・ニューオータニの創業者です。
その大谷米太郎と、弟子の鷲尾嶽とは同一人物です。

その辺のことを説明するには、大谷氏の波乱に満ちた人生からお話ししなければなりません。
少し長くなりますが、お付き合いください。

大谷米太郎氏は、明治十四年(1881)富山県の寒村に、六人兄弟の長男として生まれます。
家族を養うために朝早くから夜遅くまで、いくら一生懸命働いても手元に何も残らないという生活に、東京へ行って金を貯めようと決心します。

31歳の時、母親に「3年間だけひまをください。金を残して帰って来ますから。」と言って汽車賃だけをもらい、あてにする人もいない東京へ出て行きます。
切符を買うと手元には20銭しか残らなかったといいます。
東京へ着いて、一番安い宿屋で15銭払い、夕飯代わりの焼き芋に3銭払うと、懐にはもう2銭しかありません。

翌日から、保証人の要らない日雇いの人足仕事に就きます。
村相撲で横綱格だった大谷氏は、その怪力を活かして人の倍の荷物を運び、一日一円そこそこの稼ぎでしたが、その中からコツコツと貯蓄をして、60日間で29円残したといいます。

しかし、大谷氏が東京へ出てきた目的は商売を勉強することでした。
いつまでも日雇いではそれができないと、甘酒屋、八百屋、風呂屋、酒屋、米屋などに奉公して商売のコツは覚えましたが、商売を始めるためのタネ銭はなかなかできませんでした。

ちょうどその頃、大相撲がアメリカ巡業に行くという話があり、アメリカへ行けば日本の十倍も金儲けができると聞いた大谷氏は、「相撲取りになってアメリカへ渡り、向こうで相撲をやめてそのままアメリカで働こう。」と考え付いたのです。
そこで、故郷の村相撲で一緒に相撲を取っていた山田川清太郎を訪ねて行った先が、吉井貞四郎こと稲川政右衛門が親方なっていた稲川部屋でした。

稲川親方に強さを認められた大谷氏は、鷲尾嶽という四股名をもらい、31歳で初土俵を踏むことになります。
2年後、アメリカ巡業の話が立ち消えになってしまうと、十両入りを目前にしながらあっさり引退し、持ち金全部をはたいて「鷲尾嶽酒店」を開業します。
持前の頑張りと商才で経営は順調に推移し、稲川親方の口利きもあってか、国技館の酒を一手に引き受けるまでになります。

稲川親方が急死したのは、大谷氏が「鷲尾嶽酒店」で稼いだ資金を元に鉄鋼会社「東京ロール旋削所」を立ち上げた翌年でした。
その後、大谷重工業を興して「鉄鋼王」とまで呼ばれ、ホテル・ニューオータニの創業者になって「日本の三大億万長者」のひとりと呼ばれるようになっても、日荷堂稲川親方の墓参を怠ったことはなかったそうです。

大谷氏が昭和四十三年(1968)88歳で亡くなった後、稲川親方の墓は日荷堂から萬日堂へ移され、そして常安寺へ移されたという訳です。

今回、稲川政右衛門のお墓と、それを建立した大谷米太郎氏のことから、人の縁の大切さと、人生の奥深さも知ったような気がします。
高崎市民に、広く知って欲しい歴史遺産だと思いました。

(参考図書:「豊岡誌」「続・高崎漫歩」 「高崎の散歩道」
 「私の履歴書 昭和の経営者群像」)


【稲川政衛門の墓】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:51
Comments(6)…続・鎌倉街道

2012年03月10日

続・鎌倉街道探訪記(14)

「常安寺」の山門を出て、塀沿いに右へ行くのが鎌倉街道のようですが、真っ直ぐ行ってちょいと寄り道をしていきます。

寄り道とは言っても、鎌倉街道にまんざら関係ないわけではありません。

参道を真っ直ぐ150mほど進むと旧中山道に突き当たりますが、その左向こうに村社「若宮八幡宮」があります。↓



この神社、八幡太郎と呼ばれた
源義家が創建したと伝わっています。

源義家といえば、鎌倉幕府を開いた源頼朝のご先祖様です。

←由緒によると、創建は永承六年(1051)といいますから、960年も前のことなんですね。

祭神は大鷦鷯命(おおさざきのみこと)、仁徳天皇のことだそうです。

仁徳天皇のお父さんが、応神天皇(おうじんてんのう)で品陀和気命(ほんだわけのみこと)、この方は八幡町「八幡八幡宮」の祭神になっています。
その皇子(若宮)を祭ったので、「若宮八幡宮」ということです。

御由緒の看板には、気になることがいくつか書いてあって、そのひとつが「当地区には、『土用寒村(どようかんむら)』『十八日村(とようかむら)』などの伝説・・・」というものです。
いったい、どんな伝説なんでしょう。
そこまで、書いておいて欲しかったですね。

「豊岡誌」に、「若宮八幡宮創建の由来」として「上野国旧聞伝説録」の一文が記載されています。

当社、古昔永承六年(1051)五月上旬、八幡太郎義家卿父子共に奥州に赴く時に、義家年十三歳・・・、此の豊岡村八幡宮へ祈念のため参籠なされける夜、あらたなる御神託を蒙る。
依って、盛夏の天を改めて上陽の春と補す。元旦の式をもふみて寿をなすところに、忽ち空中より雪を降らし枝状花を開く。・・・
之に依って、同年六月十八日より義家十四歳と補す也。・・・
義家卿末代のためにとて、六月土用の時、冬景色あらたなることに付き自筆をとらせ給ひ、土用寒と遊ばし給ふ。十八日なればとて書かれ給ふて社宮へ奉納し給ふ。・・・
今は、文字書き替へて豊岡とぞ、豊かなる岡といふ心なり。」


ちょっと分かり難いですが、源義家がここに参籠した夜、神様のお告げを聞いたというんですね。
そのお告げに従って、真夏に元旦の儀式をした、つまり無理やり年が明けたことにして、十三歳の義家を十四歳ということにしちゃったというんです。

そしたら、夏の土用だというのに雪が降ってきた(寒になった)、これは「土用寒」(どようかん)だ、そういえば今日は「十八日」(とようか)だ。
それが、現在の「豊岡」(とよおか)という地名になった、という訳です。

「土用寒」だけに、寒ーいおやじギャグのような話しなんですが、ま、伝説というのはこれでいいんじゃないでしょうか。

それにしても、歳を一つ誤魔化せという理由が、よく分かりませんよね。
どういうことなんでしょう。
明治十五年(1882)の「下豊岡村誌」では、白い衣冠を着た官人が来て、義家にこう告げたとなっています。

武衡ハ水性ナリ、義家ハ火性ナリ、火ハ水ニ逢イテ消ユル理アルハ不吉。年ヲ祭リ替ユベシ」
貞任の誤りか。武衡は後三年の役(1083~1087)の清原武衡。前九年の役(1051~1062)の安倍貞任と混同していると思われる。

これもまた、なぜ義家火性で、武衡(貞任)水性なのか、よく分かりませんが・・・。
でも、ま、伝説ですから。

もうひとつ御由緒看板で気になるのが、「境内には義家の腰かけ石がある」という記述です。
境内をくまなく見ても、これがそうだというものは見当たりません。
「豊岡誌」を見ても「高崎の散歩道」を見ても、「腰かけ石」についての記述すらありません。

かろうじて、土屋喜英氏著「続・高崎漫歩」に、「石はいくつもあり、どの石かわからない。」と書いてあるだけです。

だったら、これにしちゃえばいいのに
って思うのが、この石です。 →

石の上に、不自然に水盤みたいのがくっついてますが、これを外せば腰かけるのに丁度よさそうじゃありませんか。

代わりに、腰かけている義家の銅像なんぞを置きたいもんです。

いいじゃないですか、伝説なんですから。


【若宮八幡宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2012年03月18日

続・鎌倉街道探訪記(15)

「若宮八幡宮」から、再び「常安寺」の方へ戻ります。

参道の両脇に「常安寺」の石門がありますが、以前は旧中山道に面して建っていたのだそうです。
大きな木が茂る一角は「常安寺」の駐車場ですが、「忠魂碑」「忠霊塔」が並んで建っています。

「忠魂碑」乃木希典の揮毫で、明治四十年(1907)豊岡尋常高等小学校の校庭に建てられたものだそうです。
戦後、その存在を憚ってか校庭に穴を掘って埋められてしまいましたが、後に掘出して現在の場所に設置したのだといいます。
この話を聞いて、岩鼻「裏返え碑」のことを思い出しました。

片や「忠霊塔」東条英機の揮毫で、昭和十七年(1942)にここに建てられています。
さすがに大きすぎて、地中に埋めることもできなかったのでしょうが、「高崎の散歩道」(昭和五十四年/1979発行)によると、碑裏面の「陸軍大将 東条英機謹書という文字は、緑のペンキで塗りつぶされている」と書かれています。
今は、そのペンキも剥がれ落ちていますが。

道が二股になっている所に、庚申塔二十三夜塔などが建っているのですが、そこに気になる石が一つ置いてあります。

その石には、旗本退屈男三日月傷みたいな穴があいてるんです。

何となく、「常安寺」の院号「月光院」に因んで、誰かがここに置いたような気がするのですが・・・。

やっと「常安寺」山門まで戻り、鎌倉街道と言われる左の道を進みます。

山門から160mほど行った四つ辻を真っ直ぐ進むと、左側に道陸神が建っています。↓




ただ、どう見てもこのお宅の庭石のようにしか見えません。

裏面を見ると「明和二年(1765)乙酉」とありましたので、昔からこの辺に建っていたもののようです。

←その道陸神の前の塀際に、ひとつの石が無造作に転がっています。

驚くことに、これ、道しるべなんです。





文字は割合はっきり読み取れて、「向 右野道 前中仙道 後下台 左中仙道 通」と刻まれています。

「豊岡誌」によると、「享保三年(1718)」と刻まれていて、「高崎最古の道しるべ」だそうじゃありませんか。

そんな貴重なものを、放り出しておいていいんでしょうか。
何とか建て直して、高崎の文化度を疑われることのないようにしたいものですが。

はいっ、今日はここまでっ。

(参考図書:「豊岡誌」「高崎の散歩道」「続・高崎漫歩」)


【今日の散歩道】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:30
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2012年03月25日

続・鎌倉街道探訪記(16)

庭石のような「道陸神」の先の二股道を、真っ直ぐ進みます。

80mほど進むと、また二股に分かれます。↓





正面に見えるのは、豊岡中学校の校門。
鎌倉街道は、この校庭を突き抜けるように通っていたようです。

豊岡中学校には、立派な土俵があります。
珍しいんじゃないでしょうか。

そういえば、「若宮八幡宮」の境内にも土俵がありました。↓




豊岡という所は、相撲に力を入れているのでしょうか。

さすが、関脇・稲川政右衛門を出した土地ですね。

校庭を突っ切る訳にいかないので、迂回して反対側の道に出ます。

右にカーブして90mほどの所に、ベンチが置かれた小さなスペースがあります。↓




「ミレニアム記念 藤棚 藤花公民館之建」という看板が掛けられています。

「藤花公民館」「藤棚」とは、なかなかシャレてるじゃありませんか。

その「藤棚」のすぐ左、四つ辻の角に石に囲まれた植え込みがあります。

よく見ると、山茶花の根元に小さな石祠が祀られています。

以前は、「史蹟 笛吹塚」と書かれた木柱が建っていたはずですが、朽ちてしまったのか今はありません。

「若宮八幡宮」には源義家伝説が伝わっていましたが、この「笛吹塚」には義経伝説が残っています。
明治四十三年(1910)編纂の「豊岡村郷土誌」に、こう書かれています。

上豊岡村字花見ニ石置場アリ、
古昔ヨリ石置場ノ近傍ニ奥州街道アリテ、往昔、牛若丸奥州ヨリ帰ルトキ、コノ石塚ニ行キ愛スルトコロノ笛ヲ弄セシト、
依ッテ笛吹塚ト称スト」

ここに書かれている「笛吹塚」は、現在地でなく、ここから南南西300mほどの所にあったのだそうです。
松の木が何本か生えている小さな塚だったということですが、宅地開発のため松の木も塚も取り払われてしまいました。
そこで、そこにあった石祠を現在地に移し、新しい「笛吹塚」としたのです。

ただ、標柱もなくなり、由来看板もないというこの状態では、やがて人々の記憶からもなくなってしまいそうで心配です。

ところが、「笛吹」の名がこんなところに残っていました。

元の「笛吹塚」から北東700m、信越線の線路の向こう側にある「笛吹公園」です。
元の塚からあまりにも離れているので、関係あるかどうかは疑問です。
由来を書いた看板もありません。

ちょっと思ったのは、「笛吹」と書いて「うすい」と読むことです。
笛吹(うすい)雅子さんという美人女子アナがいて、それで憶えていたんですが、はい・・・。
旧豊岡村「碓氷(うすい)郡」でしたし、近くには「碓氷(うすい)川」が流れています。
もしかすると、「笛吹塚」「うすい塚」だったのではないでしょうか。

かつての「碓氷川」はよく氾濫したといいますから、それによって命を失った人の墳墓か、供養塚だったとも考えられます。
想像を逞しくすれば、それは幼気な子どもであったかも知れません。
野山や田畑をぴょんぴょん飛び回り、村の祭りには上手に笛を吹く、まるで牛若丸のような・・・。

伝説の里・豊岡の地に佇ずんでいると、いろいろな物語が浮かんできてしまいます。
昔の人もきっと、囲炉裏端でそんな話を語って聞かせていたのでしょうね。

(参考図書:「豊岡誌」)



【今日の散歩道】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2012年04月01日

続・鎌倉街道探訪記(17)

「笛吹塚」のある辺りを「藤花地区」といいますが、字名は「花見」といいます。
素敵な字名ですが、これも、源義家伝説からきているのだそうです。

なんでも、源義家奥州へ向かう途中、この地域にあった閻魔堂の桜があまりにもきれいだったので、ここで花見をしたという伝説があるのです。
以来、この閻魔堂「花見堂」と呼ばれ、字名も「花見堂」と言っていましたが、後に「堂」を外して「花見」となったそうです。

その「閻魔堂」は、今どうなっているのだろうと思ったのですが、「豊岡誌」にはこう書かれています。
藤花公民館が建設されたために花見堂も姿を消し、花見堂の名称も消えた。」

ということは、「藤花公民館」「閻魔堂」跡なんだと思ったのですが、「高崎の散歩道第十集」を見ると、
ここは、もと稲荷社があった所である。
この公民館には明治・大正・昭和の初めまで、福ダルマの型彫り「鉄つぁん」と呼ばれていた葦名鉄十郎盛幸作の白狐が今も宝物として残されている。」
と書かれていて、???だったのですが、とにかく行ってみました。

行ってみると、確かに公民館の周囲は玉垣で囲まれ、石段の右下には水盤もあります。






境内(?)には、二十二夜塔や六十六部供養塔、石仏なども並んでいて、今にも咲きそうに色づく蕾を付けた桜の古木もありました。

う~ん、稲荷社のようでもあり、閻魔堂のようでもあり・・・・、これは聞いてみるしかない、と、公民館長のご自宅を訪ねてみました。
突然の訪問にもかかわらず応対をして頂き、やはりここは閻魔堂ではなく稲荷社だったことを教えて頂きました。
葦名鉄十郎盛幸作の白狐も確かにあるそうですが、この日は公民館が使用中でしたので、後日改めてお伺いして見せて頂くことになりました。

再訪したその日、館長さんに鍵を開けて頂いて中に入ると、正面に観音開きの扉がありまして。





その扉を開けると、立派な鳥居とお宮が姿を現しました。

檜皮葺(ひわだぶき)の凝った造りのお宮の前に・・・







葦名鉄十郎盛幸作という白狐が一対、どっしりとした感じで鎮座しておりました。

ここにあった「稲荷社」は、もとは上豊岡の茶屋本陣で知られる飯野家の屋敷稲荷(正一位飯野善衛門稲荷大明神)だったのだそうです。
「大飯野」とも呼ばれるほどの大地主だった飯野家は、終戦後30数町歩の農地解放を行いましたが、その時、住民から「責任を持って稲荷大明神を守護すること。年毎の祭典は住民によって未来永劫執り行うこと。」を条件にお稲荷様の払い下げを懇願され、それならばと快諾して寄付をしたということです。

その後、豊岡村高崎市に合併してから地域公民館が必要になり、飯野家と話し合い了解を得た上で社殿を取り壊し、昭和四十六年(1971)その跡地に建てられたのが「藤花公民館」という訳です。
公民館の中に、立派なお稲荷さんが祀られているのは、そういう経緯があったんですね。
住民は飯野家との約束通り、今でも毎年二月には小塙烏子(すないご)稲荷神社の宮司を招いて、初午の祭典を執り行っています。

で、「閻魔堂」はどうしたんだ、というお話はまた次回に。


【藤花公民館】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:11
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2012年04月08日

続・鎌倉街道探訪記(18)

奥州へ向かう途中の源義家が花見をしたので、「花見堂」と呼ばれるようになったという豊岡「閻魔堂」
「藤花公民館」の館長さんに教わって、その場所が分かりました。

「藤花公民館」のすぐ隣に、「藤花庵」というお蕎麦屋さんがあります。

そこが高崎環状線との交差点ですが、向こう角には「花見屋」という屋号のお酒屋さんがあります。

こういう、土地の名前を入れた屋号って、私は好きですねー。

おっと・・・、閻魔堂、閻魔堂。

「閻魔堂」は、この交差点の南西側にあったそうです。

現在は取り壊されて民家が建っていますが、「高崎の散歩道 第十集」が発行された昭和五十四年(1979)にはまだあったようで、こんな記述があります。
今はトタンで覆ってしまったが、元は草ぶきの屋根の花見堂が見える。
この堂は閻魔堂で花見地区の葬式や供養の堂であり、ここで告別式を行い各家の墓地へと行列していった。」


環状線を渡って「閻魔堂」があったという辺りへ行ってみると、なるほどそれらしき石仏や、石堂があったりします。

「閻魔堂」には、明治から昭和にかけて、「鉄つぁん」と呼ばれた人が住み付いていたという話があります。       (大正からという説もある。)

この「鉄つぁん」こそ、「藤花公民館」にある白狐の作者・葦名鉄十郎盛幸です。
葦名鉄十郎加賀藩士であったと言われています。
その加賀藩士が、どのような理由で上州豊岡村「閻魔堂」に住み付くことになったのか、その経緯は人々の口伝により異なっていますが、「豊岡誌」には次のように記述されています。

日本は幕末から明治にかけての近代化大改革の中で、武士階級は消滅した。(略)
若い鉄十郎は浪人者となって生きる前途を失った。腕に特技をつけて生きる力を創造しようと決意した鉄十郎は、会津の漆塗り職人の技を取得しようと奮起した。(略)
鉄十郎が漆塗師の修行に幾年月を費やしたかは定かではないが、故郷への帰途の旅を半ばにして、疲れと飢えが重なった身体は、難儀の旅人となっていた。
上州豊岡村字下藤塚には江戸から28番目の一里塚がある。
葦名鉄十郎盛幸は、一里塚まで辿り着いた時、この地で行き倒れの身となった。(略)
鉄十郎は農家の納屋で介抱を受け、病む身の回復を待って、中豊岡中宿の空き部屋に移って、豊岡の人情に感謝しつつ仮の宿とした。
ところが、すっかり元気を取り戻した鉄十郎は、事もあろうに藤花住民に対し、「豊岡が好きになった。この地に留まって暮らしたい。厄介になりたい。」と言い出して懇願した。(略)
「宿賃無しで住めるところはないものか。」(略)「閻魔堂の西端に床を上げれば、一人暮らしの住まいになろう。」という結論に達した藤花の男衆は、早速自前の山から栗の木を切りだしてきて、ねた棒を作り、床板を持ち寄って床を上げた。葦名鉄十郎の住処が出来上がったのである。」

「閻魔堂」に住み付いた葦名鉄十郎は、地域の人から「鉄つぁん」と呼ばれて親しまれ、竹を編んで作った笯(ど)を近くの堀に仕掛け、毎朝、捕った鰻を柳川町へ売りに行って、生計を立てていたそうです。
そして、生計の足しにと始めたのが、達磨の木型彫りでした。

持ち前の器用さを認められ、達磨製造業者に求められて始めた型彫りでしたが、当時は型彫り職人も少なかったので、いつしか「達磨の型彫り鉄つぁん」として、豊岡になくてはならない人となりました。
「鉄つぁん」は、決して法外な値段を取らず、誤魔化したり、諂(へつら)ったりすることのない堅物だったそうです。

そのためか、「鉄つぁん」の生活は極貧のままで、米びつはいつも底が見える状態だったとか。
しかしそんな中でも、米を詰めた小さな袋と、新しい草鞋はいつも用意しておき、いざ鎌倉に備えていたとも言います。
また、豊岡小学校建設の際には、50銭の寄付までしていました。

「鉄つぁん」が、「閻魔堂」で息を引き取ったのは昭和十二年(1937)、享年75歳でした。

先に亡くした妻・ヤスと共に、常安寺の墓地に眠っています。

子どもがなかった「鉄つぁん」の墓は、高崎市木村保二郎という人が建てていますが、今では数人の達磨愛好家以外、ほとんど詣でる人もないそうです。

常安寺の祖詠弘昭大和尚は、「ぜひ、葦名さんのことを世に出してやって下さい。供養になりますから。」と仰っていました。

「鉄つぁん」が終の棲家(ついのすみか)としていた「閻魔堂」は、「藤花公民館」の建設費用捻出のため土地共々売却され、取り壊されました。
今、「藤花公民館」にある二十二夜塔や六十六部供養塔、そして何体かの石仏は、その時、「閻魔堂」から移設されたものです。

ご本尊の「閻魔大王」は、本寺の常安寺に移され、綺麗にお化粧直しをされて本堂に安置され、炯炯たる眼光を放っています。

少林山達磨寺には、「鉄つぁん」が彫り上げた達磨大師像が献納されています。       ↓






酒の好きな「鉄つぁん」が酒を断って、一年の歳月を費やして一心不乱に彫り上げたものだそうです。

長い記事になってしまいましたが、地名の「花見」には、面白い伝説やドラマが隠れていました。
史跡の看板を整備して、土地の宝として伝え残していって欲しいものだと思います。

(参考図書:「豊岡誌」「高崎の散歩道」「縁起だるま 高崎だるまとその商圏」)


【「花見堂」(閻魔堂)があった所】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
Comments(2)…続・鎌倉街道

2012年05月09日

続・鎌倉街道探訪記(19)

しばしブログをお休みさせて頂きました。
理由を申し上げなかったためにご心配頂いた向きもあったようで、お詫び申し上げます。

さて、鎌倉街道の続きですが、「花見堂」辺りからどこを通っていたのか、「歴史の道調査報告書」でもサラッとしか書かれていません。

豊岡の北部環状線道路で伝承の道は切れて歴然としないが、信越線の群馬八幡駅へ向かう道があり、古い道を改修したと思われる。」

しかし、私にはどうもその道が鎌倉街道だとは思えません。
「花見堂」源義家伝説が残り、その南には旧中山道一里塚が残っているということは、おそらくその間に鎌倉街道が通っていたのではないかと思うのです。

ウロウロしていたら、「PHOTO GALLERY 遊々舎」という看板が立つ、ちょっとお洒落な松林がありました。






林の中を歩いていくと、立派な造りの素敵な建物が建っています。

高崎市の景観重要建造物に指定されている浦野家の住宅でした。

明治から大正に建てられた、養蚕農家住宅だそうです。







「遊々舎」という表札が掛かってはいますが、門は閉ざされています。

今日は閉館日のようなので、後日改めてギャラリーを見せて頂こうと、いったん戻ることに致しました。

家に戻ってから、ネットで「遊々舎」「浦野家」を検索してみましたが、開館日や電話番号が載ったページは見つかりませんでした。
住所を頼りに電話帳を引き、それらしき電話番号に掛けてみたところ、それが大当たりでした。

お電話のお話しでは、現在ギャラリーは閉館していて、一般公開はしていないとのことでした。
でも、こちらの残念そうな声が伝わったのでしょうか、「私の都合のよい時でしたら、お見えになっても良いですよ。」と言って頂きました。
では、ということで、早速アポを取って伺うことに致しました。

その話は、また次回に。


【高崎市景観重要建造物指定 浦野家住宅】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:29
Comments(6)…続・鎌倉街道

2012年05月15日

続・鎌倉街道探訪記(20)

浦野邸は、平成十三(2001)年度の第7回たかさき都市景観賞を受賞し、平成十五(2003)年度に高崎市都市景観重要建築物の指定を受けています。

母屋は大正十二年(1923)完成の、もとは養蚕に使われていた建物だそうです。

周囲をぐるぐる回って建物を眺めていたら、妻側の庇の屋根にこんなの→
を見つけました。

下豊岡の左官業・鈴木治郎氏の手による、漆喰の鏝絵だそうですが、このさりげなさがいいですねー。

迷道院は、こんなのが大好きです。

さて、アポを取って、非公開となっている浦野邸二階にあるフォトギャラリー「遊々舎」にお邪魔いたしました。










階段の上り口から、お洒落な小物が飾られています。

二階の蚕室を改造したギャラリーには、生前、写真撮影を趣味にしておられた浦野悦郎氏の遺影が、訪れた人を笑顔で迎えています。

このギャラリーは、悦郎氏の作品の展示を目的として、悦郎氏の一周忌にあわせて平成七年(1995)にオープンしました。





蚕室の屋根裏の木組みをそのまま見せながら、その下はギャラリーに相応しいお洒落な仕上がりになっています。

ギャラリーは、コンサートや絵画展、講演会の会場としても使われており、平成十六年(2004)までに42回のイベントが行われてきましたが、さすがに大変になってきて今は・・・、と仰っていました。

ところで、この浦野家は由緒ある家柄で、出自は信州小県郡浦野城主・浦野美濃守友久が祖先とされています。
この友久の妻女が武田信玄の妹と言われており、友久武田家と近しい関係であったために、川中島合戦などでも信玄と共に戦い、大活躍したようです。
難攻不落と言われた箕輪城攻めにも、当初から加わっています。

信玄は、箕輪城攻撃の都度、下小塙烏子(すないご)稲荷神社に詣でて必勝を祈願しています。
「この度こそは必勝を願う。我が武運を護り給え。箕輪城の落城叶わば、烏子稲荷の本殿と神楽殿の造営をなし、以後年毎に武運の祈願を怠らず。」

その箕輪城が9度に亘る信玄の攻撃を受け、永禄九年(1566)ついに落城すると、約束通り本殿と神楽殿を新築します。

信玄は、浦野氏を上州に留め置いて領地と烏子稲荷神社の守護を命じました。

以来、豊岡に土着した浦野一統は、烏子稲荷神社の初午祭りには欠かさず信玄の代参を行っていると、神社由緒に書かれています。

甲州、信州、箕輪、豊岡、下小塙・・・、点が線でつながった瞬間でした。


【浦野邸(遊々舎)】

【烏子稲荷神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 22:37
Comments(2)…続・鎌倉街道