2013年11月06日

高崎の絹遺跡

上毛新聞社が、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録に向けて、県内に点在する「絹遺産」78件を選定しています。

わが高崎市は、その中にあって4件が選ばれています。

この数を妥当とするかしないかは意見の分かれるところかと思いますが、私は「少な過ぎる!」と思っています。
しかしこれを不服として、もっと探し出してブームに乗ろうという動きは、どうも高崎にはなさそうです。
「富岡製糸場っつったっておめぇ、高崎で亜炭が採れなきゃ、あそこにゃ造んなかったんだんべに!」と怒り狂って、観音山中を掘っくりかえして炭鉱跡を探すくらいの勢いが欲しいところなんですが・・・。

東三条通を、沖電気の方から駅の東口に向かって歩いていくと、あれ?というものが目に留まります。→

「栄光ゼミナール」でも「パーキング栄町」でも「高崎うどん」でもありません。

「蚕霊供養塔」と刻まれた立派な石塔と、「まゆ工場跡地」という説明板です。







笠石に刻まれている紋は、よく見ると繭と蚕蛾がデザインされているようです。

今は、だだっ広い駐車場になっていますが、どんな「まゆ工場」が建っていたのでしょうか。





石塔の裏面には、「昭和二十九年(1954)十一月二十一日 群馬髙﨑養蠶販賣 農業協同組合連合會 建之」とあります。

昭和三十九年(1964)の高崎市地図を見ると、この場所は「群馬高崎養蚕連」と書かれています。

すぐ近くには、「長野蚕種」とか、「群馬蚕糸」という文字も見えます。

同じ地図で、田町の元「高崎絹市場」があった所には、「日本裏絹組合」と書かれています。

この頃はまだ、高崎における絹産業も頑張っていたのでしょう。

群馬県内の繭の収量は、2000年(平成12年)から激減し、2012年(平成24年)には、戦後ピークだった1968年(昭和43年)に比較して、何と0.3%弱まで落ち込んでいます。

「群馬髙﨑養蠶販賣」は、昭和二十三年(1948)群馬・高崎地区一円の農協組織を会員とし、養蚕指導を目的に設立されました。
5年後の昭和二十八年(1953)には、「乾繭(かんけん)所」が新設されます。
「蚕霊供養塔」が建てられたのは、その翌年ということになります。

「乾繭」というのは、生繭(なままゆ)を乾燥することだそうです。
生繭の中には、生きた蚕の蛹(さなぎ)が眠っています。
そのままにしておくと蛹が目を覚まし、脱皮して蚕蛾となり繭の殻を破って出てきてしまいます。
その繭の糸は切断され、屑繭・屑糸になってしまうので、それを防ぐために生繭に熱風を当てて乾燥させるのです。
当然、蛹は死んでしまう訳で、その大量の蛹・蚕の霊を弔うために建てられたのが「蚕霊供養塔」なのでしょう。
屑繭・屑糸は、「新町屑糸紡績所」(鐘紡)に送られ、紡績されて伊勢崎銘仙などの材料となっていました。

「群馬髙﨑養蠶販賣」は、昭和三十八年(1963)に乾繭部門を独立させ、名称を「群馬高崎乾繭農業」と改めます。
昭和四十三年(1968)当時、「群馬高崎乾繭農業」では職員6名の他、季節労務者年間延3000名が働き、その年間乾繭量は130万kgとありますが、その後の繭生産量減少により昭和六十二年(1987)で閉鎖されてしまいます。

「蚕霊供養塔」も、「絹遺産」とは言えないまでも、「絹遺跡」として登録すべき歴史を持っていると思うのですが、如何でしょうか。


【蚕霊供養塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:48
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2013年11月10日

高崎の絹遺跡(第二話)

前回、「高崎の絹遺跡」を書きながら、グンブロ仲間だった捨蚕(すてご)さんの「踏切シリーズ」で、「紡績踏切」ってのが紹介されてたのを思い出しました。

これも、立派な「高崎の絹遺跡」じゃないか、ということで行ってみました。

場所は、「高崎商科大学付属高校並榎キャンバス」を左手に見て、北へ200m行ったところです。





かつては、そのキャンバスを含む踏切手前の一帯が、「上州絹糸紡績」の敷地だったのです。
余談ですが、上掲の地図を見ると、北高崎駅の北東には「碓氷社」、左下の歌川町には「丸万製絲」というのが見えます。

←高崎駅東には「小口組製糸」、西口の一等地にはやはり「碓氷社」とあります。

「碓氷社」というと安中というイメージが強いですが、明治三十五年(1902)には既に高崎に進出していて、八島町「高崎分工場」を開設しています。

明治十一年(1878)安中市原市に設立された「碓氷社」は、明治三十年代に大きく所属組合区域を拡大したために、本社がその区域の西端に位置してしまい不便になってきていました。
そこで、県下の中央に位置し、鉄道や道路が四通八達している商業都市・高崎に進出してきたのです。

進出当初は「碓氷社高崎分工場」でしたが、昭和五年(1930)には原市に代わって「本社工場」に昇格します。
さらに、翌昭和六年(1931)には飯塚町「本社直営工場」を新設しました。
当時の高崎は、一大蚕糸産業都市だったのです。

さて、「紡績踏切」の由来となる「上州絹糸紡績」に話を戻しましょう。

「上州絹糸紡績」の前身は、大正六年(1917)に井上保三郎氏ら「高崎板紙会社」の関係者が主体となって設立した「群馬紡績」で、彼らはさらに、大正九年(1920)「群馬紡績」を吸収合併する形で、「上州絹糸紡績」を設立します。

しかし、第一次世界大戦後の不況や関東大震災、さらに昭和の蚕糸恐慌で大打撃を受け、昭和六年(1931)に社名を「上毛絹糸紡績」と改称し、昭和九年(1934)には人絹製造会社「日本人造繊維」の系列下に入ります。
冒頭に掲載した昭和九年の地図には、かろうじて「上州絹糸紡績」の名が残っていたことになります。

その後、世は化学繊維の時代になり、「日本人造繊維」も大手の「日本レイヨン」に合併され、「上毛絹糸紡績」「日本レイヨン高崎工場」となります。

そして、戦争が激化してきた昭和十八年(1943)には、軍需産業の「住友通信工業」(日本電気)へ売却され、「紡績」の名は踏切に残るのみとなったのです。
地図では、「東部通信工業」となっている。

今、旧「東部通信工業」のノスタルジックな事務所棟は、「高崎商科大学付属高校」の部室兼物置として使われています。→





←その北側は、一時、材木商「研屋」(とぎや)の材木置き場となっていましたが、現在はプレカット工場となり、同じ敷地内には関連企業「美山観光バス」の車庫があります。

実は、その車庫があった所には、「上州絹糸紡績」時代に使っていたと思われる、煉瓦倉庫が2棟あったのです。→
(Yahoo!地図より)

老朽化が進んで崩れそうになっていたので4,5年前に解体したというお話しでしたが、もし残っていれば、「紡績踏切」とともに立派な「高崎の絹遺跡」に登録されていたことでしょう。

(参考図書:「新編高崎市史 通史編4」)


【紡績踏切】


  


Posted by 迷道院高崎at 22:15
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2013年12月08日

高崎の絹遺跡(第三話)

君が代橋の複雑な立体交差のすぐ南左手に、公園とも運動場とも見える広い空き地があります。

この空地も、「高崎の絹遺跡」の一つです。

明治三十年(1897)の地図を見ると、ここは「茂木セイシ塲」と記されています。

あの、茂木惣兵衛の一族が経営していた製糸所だったんです。

新編高崎市史によると、茂木惣兵衛「茂木製糸所」の経営を一手に引き受けたのは明治三十一年(1898)となっていますが、初代惣兵衛は明治二十七年(1894)に他界していますので、二代目惣兵衛の時でしょう。

実は「茂木製糸所」以前にも、ここには製糸所があったのです。

明治十二年(1879)、ここに高崎での草分けともいえる製糸所「厚生社」というのが開設されています。
「厚生社」は、旧高崎藩士族の授産会社として発足します。
初代社長は、後に上毛自由民権運動の中心的活動家となる伊賀我何人(いが・わなと)25歳です。

烏川の水を利用した水車動力の製糸器械を使う工場で、創業当時の女工は50人だったそうです。
しかし、経営に不慣れな士族の会社ということもあってか、当初からその経営は芳しくなく、間もなく破産してしまいます。

その製糸所を、明治十九年(1886)茂木惣兵衛が、地元商人の橋本清七、絹川嘉平二らと共に「旭社」として再出発させます。
これが初代惣兵衛なのか、二代目惣兵衛なのかは、はっきりしません。初代惣兵衛は明治十六年(1883年)に茂木保平を名乗り保平家を新たに興し、甥の保次郎に惣兵衛家を譲っています(Wikipedia)ので、二代目かも知れません。

「旭社」は共同経営ではありましたが、実権を握っていたのは茂木惣兵衛だったようです。
再出発して10年後となる明治二十九年(1896)には製糸の器械化も進め、釜数250で年間製糸高14,063斤という生産高は、官営の富岡製糸場はさておき、民間の製糸所としては県下でトップレベルでした。

「旭社」「茂木製糸所」となってからはさらに規模が拡大し、釜数400を誇る大製糸工場となります。

しかし、第一次世界大戦後の不況の波は、高崎の製糸工場各社を飲み込み、「茂木製糸所」もその波を避ける事は出来ませんでした。

さしもの茂木家も、大正九年(1920)三代目惣兵衛の時に破産し、経営していた銀行など関連会社も連鎖倒産してしまったのです。

この年、「茂木製糸所」は、信州諏訪の「丸万製絲」の手に渡り、「丸万製絲高崎工場」となって操業を続けます。

しかし、それもつかの間、昭和八年(1933)秋の糸価暴落によって、「丸万製絲」も繭代金不払いと県税・市税滞納を起こし、翌年競売に付されることとなります。

その「丸万製絲」跡地を購入したのが、隣接していた小島鉄工所でした。

当初、鉄工所として拡張するつもりで改修を進めていたのですが、戦争に敗けて賠償工場に指定されたことで計画を変更し、旧「丸万製絲」「高崎製絲」と改称して、製糸事業が再開されることとなったのです。

昭和初期に撮影されたという航空写真に、「高崎製絲」の高い煙突と工場建屋が写っていました。

「高崎製絲」の工場が解体されて空き地になったのは、つい10年ほど前だったそうです。

昭和四十七年(1972)発行の「高崎市産業総覧」によると、従業員200名の内、女性が170名とあります。
かつては、地方から出てくる女性従業員のために、工場内に女子寮もあったのだそうです。
近くのお米屋さんには、脚気予防のために麦を混ぜた白米の注文が沢山あって、よいお得意さんだったということです。

この空地にも、「高崎の絹遺跡」としての、充分な歴史があるのではないでしょうか。

(参考図書:「新編高崎市史 通史編4」「高崎の産業と経済の歴史」)


【高崎製絲跡地】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:37
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2014年01月01日

高崎の絹遺跡(第四話)

みなさま、明けましておめでとうございます。

今年最初の記事は、少し長いです。
休み休み、ゆっくりとご覧くださいませ。

高崎市新後閑町(しごかまち)にある荘厳寺(しょうごんじ)に、昨年(平成25年)10月、立派なお堂が完成しました。





このお堂に祀られているお地蔵様には、新聞に書かれているような悲しい物語があります。

3年前の「隠居の思ひつ記」でも、そのお話しを書かせて頂いたことがあります。

その頃、ここは駐車場でした。

その時、気になるものを見つけました。
写真を拡大すると分かると思いますが、前方のブロック塀の所に石碑のようなものが2つあったのです。

それに刻まれていたものを見て、荘厳寺のご住職にお尋ねしています。
過去記事→ ◇「鎌倉街道探訪記(11)」

そこに新しい「真如堂」が建ち、埋まっていると言われた「横澤先生」の大きな顕彰碑はどうなったのか、心配になりました。
「真如堂」の下に埋まってるのでしょうか、それとも掘り出して処分されてしまったのでしょうか。
再び、ご住職を訪ねました。

ご住職「いや、碑はまだ埋まっていますよ。真如堂の下ではなくて、後ろですから。」
いやー、ホッとしました。

実は「鎌倉街道探訪記(11)」の記事を見て、「横澤友壽先生頌徳碑」の写真を見つけて送って下さった方がいたのです。
過去記事→ ◇「情報ありがとうございます!」

そして「横澤友壽」氏という人物について、コメントを寄せて下さった方も出てきました。
横澤友寿は大正時代から昭和の初めまで 養蚕教師として活躍しました。
横澤式蚕業こうどう育といいます。蚕が病気にならないように育てます。
蚕は脱皮のときに病気になりやすいのです。
高崎と前橋を中心に指導しました。
まゆの収量があがって喜んだ群馬のひとたちがお金を出し合って碑を建ててくれました。
農林大臣山本貞次郎が称徳碑の文字を書いてくれました。佐渡の出身の大臣です。
養蚕の神様といわれていました。
お寺から真田町に碑をひきとってくれという話がありましたが、碑をおく場所がなく、ひきとることができませんでした。
碑の除幕式の写真を見たことがあります。
そのときの二人の娘もすでに故人です。」
Posted by くるみ at 2011年12月16日 19:20

文面からしてお身内の方ではないかと推察するのですが、連絡先も分からず、それ以上のお話を聞く事は出来ませんでした。

それからもずっと気になっていた「横澤友壽」氏でしたが、最近「高崎の絹遺跡」シリーズを始めて、「横澤友壽先生頌徳碑」の埋まっているここも、まさに絹遺跡なのではないかと、もう一度追跡してみることにしたのです。
しかし、どの本を見ても、誰に聞いても、「横澤友壽」氏には辿り着きませんでした。

ある日、これで分からなかったらもう諦めようという思いで、友壽氏出身地と目される真田町(現上田市)の真田図書館に電話してみました。
そこで紹介された真田地域教育事務所に、メールを差し上げてお尋ねしたところ、数日後、このようなご返事をいただきました。
お問合せ頂いた横澤友寿氏の件ですが、地元の図書館で文献(文献名「蚕都上田を支えた人びと・上田小県近現代史研究会」「蚕にみる明治維新渋沢栄一と養蚕教師」「真田町誌」「長村史」「群馬県蚕糸業史 上下」)を調べたり、地域の近現代史を研究している先生2人ほどに問合せてみましたが、横澤友寿氏の名前にはいきつきませんでした。
あと手がかりとして、もし横澤氏が真田出身であるとすれば、小県蚕業学校(現・長野県立上田東高等学校)の卒業の可能性がありますので、その関係の資料をあたる方法が考えられます。
結果、何もお役に立てず申し訳ありません。
貴方様のご活躍をお祈り申し上げます。」

やはり真田町でも分からないのかとガッカリしましたが、いろいろと手を尽くして頂いたことや丁寧な文面に誠意を感じ、最早これまでと諦める決心がつきました。

ところが、それから1カ月後の12月18日、一通のメールを受信して嬉しさに震えました。
先般お問合せ頂いた横澤友寿氏の件ですが、新しい発見がありましたのでお知らせいたします。
真田図書館所蔵の資料「本原時報」(旧本原村時代の時報)に記事がありました。昭和4年5月15日付の76号の中に「群馬県養蚕会の恩人横澤友寿氏前橋市に 頌徳碑建つ」となっており説明文が掲載されております。
これで横澤友寿氏が確かに真田町(昭和33年本原村、長村、傍陽村が合併 して真田町となる、平成18年に真田町は上田市と合併しています)出身であることがわかりました。
本日「本原時報」のコピーを郵送しましたのでご確認頂ければと思います。 碑文は、欠けている部分がありますのでご了承ください。
少しはお役にたてそうで良かったです。」

あの後も、ずっと調べていて下さったのですね。
お名前を出しても差し支えないでしょう。
上田市教育委員会真田地域教育事務所の、木嶋幸男主査です。
見ず知らずの者の唐突な質問にもかかわらず、時間をかけて調査して頂いたご厚意に、深く感謝申し上げます。
本当に、ありがとうございました。

←これが、送って頂いた「本原時報」のコピーです。

これにより、「横澤友壽」氏の風貌が明らかになり、前橋市元総社村に「蚕業公導会」を設立して養蚕の指導を行っていたということが分かりました。

さらに祝辞から、「横澤式蚕業公導会高崎支部」というのがあったことも分かります。↓

多野郡小里村(小野村?)森新田(現藤岡市)の、会員総代・笠原牧三郎氏の祝辞を読むと、
当時は蚕種が交雑してしまい、ほとんど収繭をする術がなく困っていたこと。
横澤式の飼育方法は、簡便かつ経済的で全く失敗することがなかったこと。
その実績から自然に入会者が増え、数千人という規模になったこと。
などが分かります。

おかげさまで、「横澤友壽」氏のことがずいぶん分かってきました。
その反面、素朴な疑問の闇はますます深くなります。
それほど大きな功績のあった人や技術が、なぜ群馬県の養蚕史に記されていないのか、なぜ養蚕関係の知識人がその名を知らないと言うのか。
「公導会」は前橋の元総社にあったのに、なぜ頌徳碑は地元の総社神社でなく高崎の荘厳寺に建てられたのか。

「横澤友壽先生頌徳碑」は、この下に眠っています。

いつの日か、「横澤友壽」氏の功績が再び顕彰され、眠っている「頌徳碑」が掘り出されて再建されることを願っております。

追跡は、まだまだ続けなければいけないようです。


【「横澤友壽先生頌徳碑」の埋まっている場所】


  


Posted by 迷道院高崎at 00:03
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2014年01月19日

高崎の絹遺跡(第五話)

ここも、「高崎の絹遺跡」に登録したい場所の一つです。

旭町のガードを潜って東三条通に出たところ、現在の「群馬トヨタ」「高崎市労使会館」のある辺りです。

大正五年(1916)、ここに彼の井上保三郎氏ら高崎の有力者が、「龍栄社」という名前の製糸工場を創設しました。
「龍栄社」は、織物工場も兼営して絹織物も生産するというほどの規模で、「茂木製糸所」に次ぐ大きな製糸所でした。

井上保三郎氏らは、翌年にも「群馬紡績」を創設していますので、当時、保三郎氏が製糸業に対して並々ならぬ意欲を持っていたことが分かります。

そこで、「龍栄社」の名前の載っている地図を探しましたが、見つかりませんでした。

昭和九年(1934)の高崎市街圖では、そこは「小口組製糸」となっていました。

第一次世界大戦後の不況により「茂木製糸所」信州諏訪「丸万製糸」に売却されたのと同様、「龍栄社」も大正十三年(1924)信州諏訪郡平野村(現・岡谷市)に本拠を置く製糸会社「小口組」に買収されていたのです。

しかし、その「小口組製糸」もまた昭和初期の蚕糸恐慌による糸価暴落で、「丸万製糸」と同じ運命を辿ります。

「小口組製糸」が経営破綻に追い込まれたのは、奇しくも先の高崎市街圖が発行された昭和九年のことでした。

「小口組製糸」の工場がいつ解体されたのかは分かりませんが、昭和二十八年(1953)の地図を見ると、その跡地は「山田興業」「群馬トヨタ」になっています。

「山田興業」の前身は、零戦の尾翼部品を製造していた「山田航空工業」という会社で、和昭十七年(1942)の創業です。

ですので、この地が「高崎の絹遺跡」になってしまったのは、昭和九年から十七年の間ということになります。

因みに、「山田航空工業」は、戦争が終わってすぐの昭和二十年(1945)九月に「山田興業」と改称し、事務機器を製造するようになります。
この会社がその後、国産初のホッチキスを開発して、世界に名を馳せる「マックス工業」(現マックス株式会社)となるのです。

大きくなった「マックス工業」が移転すると、その跡地は「高崎病院」になりました。

そして、昭和四十一年(1966)旭町の踏切が地下道に変わり、好きだった蒸気機関車の転車台も、それを見ていた跨線橋もなくなって、いつの間にか「高崎病院」もなくなって、突き当りだった道は東三条通まで抜けました。

今はそのかけらも見当たりませんが、かつて、ここには高崎有数の製糸所があったことを、「高崎の絹遺跡」として登録しておきましょう。


【「龍栄社」があったところ】



  


Posted by 迷道院高崎at 14:04
Comments(10)高崎の絹遺跡