2010年03月08日

号外!「高崎に住んでた山本勘助」

昨年の12月、「次」か「治」か?の記事に、高崎市史編纂委員の中村茂先生から、こんなコメントを頂きました。

「九蔵町大雲寺に武田信玄の軍師山本勘助の子孫の墓があるので、宣伝して下さい。
墓には「助」とありますが、「次」「治」と同じく、文字が違っても一向に差し支えありません。甲陽軍鑑が「勘」を使ったので、その後の書物が「勘」を使用しているのです。
山本家は山城国淀藩に仕えたが、改易のため浪人となり、大河内家の祖松平信興の土浦藩に就職しました。
近く、群馬の森の県立博物館の黒田館長が、館長講座で高崎藩士山本家の由緒を発表します。」


えぇっ!?と思いました。
山本勘助って、川中島の合戦で戦死したはず。
その子孫の墓が高崎にあって、墓には「菅助」と書いてある?
頭の中、ぐじゃぐじゃです。

で、待ち遠しい思いで待っていた、県立歴史博物館・黒田日出男館長の講座「山本勘助と江戸時代」を、3月6日(土)に聞きに行ってきました。

黒田館長のお話では、山本勘助はつい最近まで、架空の人物であるというのが近代歴史学の定説となっていたと言います。
ところが、平成二十一年(2009)六月、安中市原市で薬屋を営んでいた真下家から、山本勘助実在を証明できる可能性のある書状が見つかったのだそうです。
調べたら、6月11日の上毛新聞に、載っていましたのでご覧ください。


この文書は、明治維新により禄を失った山本家が、生活のために甲冑などと共に手放したものであろうということです。
それが、安中真下珂十郎の入手するところとなり、真下家所蔵文書として伝来したのだろうという訳です。

実はこの文書、明治二十五年(1892)に東京大学史料編纂所へ持ち込まれたことがあるのです。
持ち込んだのは、山本菅助の十三代目にあたる山本喜三氏でした。
ところが、原本は既に売却されていたため、持参したのがその写しだったことから、「偽文書」扱いされてしまったのです。
もしもその時、原本が持ち込まれていたなら、山本菅助架空人物説は崩れていたでしょう。

その原本が、今になって見つかったのですから、大騒ぎです。
黒田館長は、
「もはや、山本菅助を架空・虚構の人物とすることは絶対にできない。
近現代の歴史学の方が不明を恥じ、菅助に謝らなければならないのである。
これは、歴史学が生み出した冤罪だったのだ。」

と仰っています。

因縁めいた話ですが、黒田館長は元・東京大学史料編纂所長をされていたのです。

さて、山本菅助高崎の関係ですが、四代目山本菅助※1(晴方)が松平家に奉公したことで、元禄八年(1695)松平輝貞壬生から高崎城主として転封されたのに伴い、菅助も五代目以降十二代目の明治維新まで高崎藩に仕えることになりました。
※1三代目・山本菅助が、寛永十年(1633)下総古河城主・永井信濃守に仕えた折、代々山本菅助を名乗れと命じられ、以降、山本家当主は代々菅助を名乗る。

コメントを下さった中村茂先生は、高崎藩史の地道な研究の過程で、藩士の墓を一つひとつ調査・研究されています。
その中で、山本菅助の墓を発見されたということで、黒田館長もそのお仕事を高く評価されていました。

雨の大雲寺へ、菅助の墓を探しに行きました。

正面に「山本菅助之墓」と刻まれてばかりいると思って、墓地を一回りしましたが、見つかりません。

二回り目でやっと見つけました。

←この一角が、山本家の墓地です。

写真が下手で、よく分からないかもしれませんが、
「山本菅助入道道鬼七世孫
 山本菅助菅原晴生」

と刻まれています。→

高崎のこの一角に、伝説上の人物と言われてきた山本菅助の子孫が眠っているのです。
すごいことではありませんか!
歴史を塗り替えることになるこの遺跡を、高崎市が持っていたことに、驚きと、誇りを感じます。
そして、その貴重な歴史遺産を掘り起こして下さった、中村茂先生と、黒田日出男館長に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。

最後に、心に残った黒田館長の言葉をご紹介いたします。
「歴史研究は時間との戦いです。
 今この瞬間にも、歴史資料はどんどん失われています。
 論文を書くことが歴史研究の仕事ではありません。
 歴史資料を確保し、残すことが
 歴史研究の最も大切な仕事です。」


【大雲寺 山本菅助子孫の墓】


  

Posted by 迷道院高崎at 00:21
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2010年03月01日

号外!「紫文の視点」と「ひたじ飯」

ちょっと日が経ってしまいましたが、上毛新聞のオピニオン21に、2回目の柳家紫文師匠の視点が載っていました。

大間々「ながめ余興場」、確かに素晴らしいですね。
このような建物を残してきた、大間々という町の文化度の高さに敬意を表します。
それにつけても、と、それらを残してこなかった我が高崎を、ついつい残念に思ってしまうのですが・・・。

紫文師匠は、「サライ」3月号で「市中見廻り食日記」と題して、江戸の粋なお店の紹介もしています。

そろそろ、高崎のご紹介もお願いしたいところなのですが・・・。
観光課の方、観光協会の方、観光業界の方、情報誌関係の方、ご検討よろしくお願い申し上げますです。

同じ日の「三山春秋」に、もうひとつ興味深い話が載っていました。
作家・坂口安吾の母親の味「おけさ飯」が、高崎に住む村山京子さんの家に「ひたじ飯」という名前で伝わっているというのです。

どんなご飯なのか、ネットで「ひたじ飯」を検索しましたが、何もヒットしません。
「おけさ飯」ではいくつかヒットしますが、写真までは載っていません。
「三山春秋」の文中には、村山さんが昨秋投稿した記事があると書かれているので、そこには写真があるかも知れません。

早速、上毛新聞社に問い合わせてみると、9月3日付けの新聞だということが分かりましたので、図書館へ行って記事を見つけたのですが、残念ながら写真は載っていませんでした。

そこでふと思ったのが、「ひたじ」とは、もしかして「したじ」ではないかということです。
お醤油のことを「おしたじ」とか「したじ」とか言いますので、ご飯にかける「すまし汁」が、お醤油の汁ではないかと思ったのです。
そこで、「したじ飯」で検索してみたら、ヒットしました!

みなみ7017さんのブログ、「今日の食い意地inにいがた」に写真が載っていますので、ご覧ください。

「したじ飯」というネーミング、いいですね。
「面、珍、短」のセオリー通りのネーミングです。

ところでみなさんは、高崎名物の食べ物って、何を思い浮かべますか?
「ひたじ飯」と「たてっけえし」、高崎名物にしてみませんか?
駅構内のうどん屋さん、駅前のうどん屋さん、観音山の茶店屋さん、ご検討よろしくお願い申し上げますです。

  

Posted by 迷道院高崎at 23:22
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2010年02月06日

号外!「音楽センター新設」


高崎市は、新しいコンサートホールを、音楽センターとは別の場所に建設する方針を決めたようです。
長い期間をかけて調査・検討し、市民の声も良く聞いていたという印象は持っていますので、悩んだ末の結論であろうと思っています。

気になるのは、「完成後も音楽センターの施設を保存・活用するかどうかは、新ホールと切り離して検討する。」という点です。

ぜひとも、いや、絶対に保存・活用すべきであると思っています。
高崎市の、数少ない誇るべき歴史遺産であります。
音楽センターを残さずして、どうして「音楽のある街」と言えましょう。

グンブロにも、こんな記事がエントリーされていました。
「高崎市の音楽センター、場所移し新施設 15年度完成」
(ようざん施設長さん)
「音楽の街!?」(てっしーさん)

実は、「隠居の思ひつ記」最初の投稿記事が、「音楽センター」でした。
そして翌日の投稿記事が、「音楽センター(2)」です。

平成十九年に高崎市産業活性化研究会が発行した、「集客力のある楽しいまちを創るために~高崎市中心市街地における都市観光~」という、提言書があります。
市商工部産業課が事務局となり、高崎経済大学地域政策学部戸所隆教授が委員長になり、14名の委員が1年間かけてまとめたものです。
私個人は、この提言書の内容を高く評価しております。

提言書の中で、「音楽のある街づくり」については、次のような分析と提案をしています。(若干、加筆・省略しています。)

1.「音楽のある街」を謳う自治体は高崎市だけではない。(浜松市、川崎市、岩倉市、宝塚市、明石市、羽村市、野洲市、西宮市)
それらの自治体に対して、卓越化を図ることが求められる。
しかし、高崎市の音楽活動は、対外的にも、対内的にも十分認知されているとは言い難い。
高崎市民において「音楽のある街」が日常化していないのである。

2.高崎市「音楽のある街」を標榜するのであれば、日常的に生の音楽が街にあふれている状況の構築を目指す必要がある。
中心市街地にコンセプトを持たせて、「疑似テーマパーク化」させることが必要である。

3.「音楽のある街」を可視化させるために、「音楽の街」たらしめている群響所属楽団員たちの練習風景を、気軽に見学できるような環境の創出をすべきである。
可能であれば、通りを歩く人の目に留まるようにするのが望ましい。

4.高崎駅の中央コンコースなどに、群響の写真と解説を大々的に掲げるべきである。
また、群響のオリジナルグッズを駅構内売店で販売するようにする。

などなど、高崎の観光振興全般に対する的を射たアイデアが、具体的に提示されています。
一読する価値ありです。
「集客力のある楽しいまちを創るために~高崎市中心市街地における都市観光~」

繰り返しますが、音楽センター「音楽の街記念館」としてでも、絶対に保存すべきです。
「ときの高崎市民、之を残す」と、後世に伝えて行きたいと考えます。

  

Posted by 迷道院高崎at 07:15
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2010年01月12日

号外!「紫文の疑問(敬称略)」

グンブロランキング40位から50位を常にさ迷っている「隠居の思ひつ記」ですが、先日、柳家紫文師匠の記事をUPした途端、いきなり18位に躍り出てしまいました!
改めて、紫文効果の大きさにびっくりしました。

しかしその後、効果も薄れ、降下しつつあるランキング順位です。

そんなブログでも、紫文師匠は見て下さっているようで、こんなメッセージを頂きました。
師匠の許可を得ましたので、ちょっと引用させて頂きます。

「実は昨日ふと子供の頃の事を突然思い出しました。
紫文はご存じのとおり岩鼻の出身なのですが、烏川の鉄橋近くに岩鼻の人達が、たしか『水源』と呼んでいたところがあたのですが、ご存じでしょうか?
そのことを40年ぶりに、なぜか昨日ふと思い出したのです。
(略)
『水源』は残って、保存されているのでしょうか?
もし知っていたら教えていただけると幸いです。」


いや、知りませんでした。
しかし、これは面白い情報だと思い、調査を始めました!
もしかすると、再び紫文効果を味わえるかも知れませんし・・・。

みつかりました!
岩鼻地区高崎市制度100周年町づくり事業委員会制作の「 岩鼻地域の歴史的遺産を写真でつづる」という冊子に、写真が載っていました。

説明文には、こう書かれています。
「火薬製造所で黒色火薬の原料の粉砕と撹拌等の動力源として、JRの鉄橋の上流に烏川の水の取り入れ口を作った。この水源から火薬製造所まで約1kmの隧道を掘り、溜堀に水を入れた。」

右の図は、「岩鼻火薬製造所配置図」の一部です。
(新編高崎市史資料編付図)

クリックで拡大して頂くと、「取入口」と書かれているところが、お分かりでしょうか。
ここが、写真の縦格子の部分で、「水源」と呼ばれていた所だと思います。

さて、現在ここはどうなっているのでしょうか?

そこへ行ってみたくてウロウロしたのですが、崖の上は工場や住宅になっていて、川まで辿りつくことができません。
どうにか探したところは、JRの線路端でした。

たぶん、入ってはいけない所なのでしょうが、枯れ草をかき分けながら崖の上まで辿りつきました。
が、崖下を覗いてもそれらしいものは見当たりません。

それ以上覗き込んで、うっかり前のめりに崩れ落ちでもしたら・・・。
「もし迷道院さん、怪我はなくて?」
「へ~、もうちょっとで・・・〽冥途 IN~」

なんて、洒落にもなりません。

なんじゃこれ?という方はこちらから、
紫文師匠の動画をご覧ください。

あきらめて道まで戻ると、下半身はセンダン草の種でメキシコサボテンのようになってました。

どうも倉賀野側からは無理そうなので、対岸へ行ってみることにしました。
行ってみて困ったのは、鉄橋が2ヶ所あるんです。
どちらの上流にも崖にそれらしい穴があいていますが、どうも排水溝のようで、川に流れ込んでいます。


しかたなく岩鼻に戻って、元岩鼻監獄近くの八百屋さんを訪ね、奥様に、撮ってきた写真を見て頂きました。
さいわい奥様は「水源」のことを知っていて、右の写真↑の方が「水源」があったとこだと教えてくれました。

昔の写真は、おそらく鉄橋の上から撮ったものだと思いますが、なるべく同じようなアングルで撮ってみました。
どうでしょう、何となく、雰囲気が残っている感じがしませんか?

「水源」からの水は、隧道で岩鼻代官所跡の地下を通って、火薬所に供給されたようです。

この当時は、代官所跡の形もそのまま残っていたんですね。

紫文師匠は、代官所跡ののことも言っておられましたが、その写真も冊子に載っていました。↓


現在は、北側にかすかに堀跡と認められる窪地が残っているだけです。

八百屋の奥様も言ってましたが、昔は魚を撮ったり虫を捕まえたり、子どもたちのいい遊び場だったそうです。
「勿体なかったですねぇ。」と言うと、
「ほっんとに・・・」と仰っていたのが印象的でした。

【水源跡】


  

Posted by 迷道院高崎at 08:51
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2010年01月04日

号外!「紫文師匠、登場!」

ついに!というか、やっと!というか、ようやく!というか・・・。
高崎市出身の音曲家・柳家紫文師匠が、上毛新聞「オピニオン21」に登場しました!



紫文師匠とは、グンブロガー昭和24歳さんこの記事がきっかけで、
この記事みたいなことになって、この記事のような近しいお付き合いになってしまいました。

師匠のおススメで、都々逸風に言えば、
 〽ひょんなことから ひょんなところで
    ひょんなお方と ひょんな仲

ってなとこでしょうか。

先日、高崎市観光課が策定中の「高崎市観光振興計画(案)」のパブリックコメントで、勝手に紫文師匠を「高崎市観光大使」に推薦しちゃいました。
高崎市民の皆さん!ご声援の程、よろしくお願い申し上げます。

ナマの紫文師匠を見たいという方は、1月24日(日)に高崎市役所21階の「香港茶房」で見ることができます。
これも、昭和24歳さんこの記事をどうぞ!

  

Posted by 迷道院高崎at 06:50
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2009年12月21日

号外!「はくぶつ館が えいが館!?」

県立歴史博物館へ、映画(・・? を見に行ってきました。

少し前に「群馬の森」へ散歩に行った時、看板を見て申し込みをしておいたんです。

この日の、演目(?)はこれ。


笑いました、泣きました。
そして、いろいろ考えさせられました。

来年の3月まで、毎月開催されます。
無料です!
まだ、空席ありそうですよ。

←お隣の県立近代美術館の入り口、こんなんなってました。

「誰だ!こんなに散らかしたの!」って思ったら、今開催しているイベントのディスプレイでした。


中へ入ってみると、ロビーいち面ドングリだらけです。

←近づいてみると、それはもうアートです。

でも、来館者が自由に並べることもさせてもらえます。

ドングリに顔を描いたりもできます。
向こうの方で、お子さんが何人か夢中になってました。
顔を描いたドングリが、
こちらに並べて飾ってありました。→

そういえば、「号外!雷豚」の記事のコメントで雀の子さんが言っていた、「群馬の粉食(仮題)」という企画展の案内が、博物館だよりに載っていました。↓


最近の博物館や、美術館は、洒落た企画をするんですね。
嬉しくなりました。

  

Posted by 迷道院高崎at 00:02
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2009年12月19日

号外! ナマ紫文

グンブロガー昭和24歳さんの呼び掛けで、「いろりの日」に参加させてもらいました。

人間嫌いの私が意を決して参加したのは、ナマの柳家紫文さんにお会いできるからです。(ご列席の皆さんには大変ご無礼な話で、何卒ご容赦の程を・・・m(__)m)

実は、高崎観光振興計画案のパブリックコメントで、勝手に紫文さんを高崎観光大使に推薦させてもらっていましたので、是非ともお会いしたかったのです。

ナマの紫文さん、思っていた以上に粋で素敵な芸人さんでした。
私の下手くそな写真では、すごく気難しそうに見えますが、どうしてどうして、気さくな方で、惜しみなく芸を披露して下さいました。

今日サインして頂いた本、「紫文式 都々逸のススメ」は、私の宝物になりました。

呼び掛け人の昭和24歳さん、お集まりのみなさん、「いろり」のご主人と女将さん、もちろん柳家紫文さん、本当にありがとうございました。
楽しいひと時を過ごすことができました。
心より、感謝申し上げます。

「いろり」からの帰り道、思い出して、先日オープンした「高崎田町屋台通り 恋文横丁」へ行ってみました。

うーん、なかなかいい雰囲気です。

だけど、もう少し賑わっているかなと思っていたんですが。

片を寄せ合う狭さが売りとはいうことですが、それにしても、それぞれの店が狭すぎます。
共通のビニールハウスを用意して、そこでも飲食できるようにすれば、もっと賑わいが出ると思うんですがね?

家までの帰り道、紫文さんの三味線の音色と都々逸が、頭の中をぐるぐる回ってました。

  あついあついと 思っていても
  三月(みつき)もせぬ内 秋(飽き)がくる


旭町のガードを潜る時、温度計が1℃と表示してました。
早く、春が来ないかなー。

  

Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2009年12月18日

高崎城「乾櫓」顛末記

「飯塚の追分」から、旧三国街道を辿ろうと思いつつ、「続橋」から「幸宮神社」、そして「切干塚(首塚)」へと、随分寄り道してしまいました。
寄り道ついでに、今日はこんなお話を。

改修される前の「首塚」の写真がないかと、当時区長さんとして改修の中心になっておられた梅山太平(たへい)さんをお訪ねしました。
残念ながら、太平さんは病の床に伏しておられ、お会いすることはできませんでしたが、若奥様から一冊の本を頂戴しました。
太平氏が編集委員長となって、10年余りかけて編纂した下小鳥町「町内誌」です。

高崎の歴史好きな方なら、梅山太平氏と聞くと、すぐ高崎城「乾櫓(いぬいやぐら)」を思い出すのではないでしょうか。
あの「乾櫓」梅山太平氏の家に残っていたものだということは、多くの方がご存知だと思います。
このお話は、「民家に残る高崎城」でも、ご紹介しました。

頂戴した「町内誌」の中には、「高崎城乾櫓の顛末」と題して、他の文献にはない興味深い話が出てきます。

明治初年に「乾櫓」の払い下げを受けたのは、当時、高崎領西郷の肝煎名主(きもいりなぬし)・梅山太平とあります。
今いらっしゃる梅山太平氏は大正十二年(1923)生まれですから、その先代ということでしょうか。

実は、梅山家には「乾櫓」だけではなく、「巽櫓(たつみやぐら)」も払い下げられていたようです。
本家には「巽櫓」、分家には「乾櫓」が、それぞれ納屋として使われていたとありますが、「巽櫓」の方は解体されてしまったのでしょうか。
「乾櫓」のあった梅山家は、元は「首塚」の前の北部環状線上にありました。

梅山家の納屋が「乾櫓」と認知されたのは、昭和二十六年(1951)のことですが、昭和四十九年(1974)に群馬県指定重要文化財となります。
ただ、これが梅山家には負担になったのかも知れません。
「乾櫓」の老朽化も進んでおり、梅山家宅が北部環状線の予定地にかかったこともあって、高崎市に寄付することを決めたようです。

寄付を受けた高崎市は、どこへ移築・復元しようか検討をします。

候補に挙がったのは、
専売高松工場跡地(現・高松中付近)
北門テニスコート脇(現・姉妹都市公園付近)
 (※陸軍歩兵第十五連隊の北門のこと)

旧・高崎税務署裏(現・市庁舎東南付近)
などでしたが、
最終的に音楽センター脇の現在地になったということです。

昭和五十二年(1979)の落成披露には、高崎藩主大河内家の9代当主輝聴(てるとし)の孫、大河内輝信氏も東京から招かれ出席したそうです。

明治四年(1871)の廃藩置県から、実に108年目のことでした。


さて、寄り道が過ぎました。
次回は旧三国街道を先に進むことにいたしましょう。

  

Posted by 迷道院高崎at 07:17
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2009年12月08日

号外! 「雷豚」

今日も、号外です!

高崎経済大学の学生さんが考案した串カツで、「雷豚(らいぶた)」というんだそうです。

いいネーミングですねー。
新しい「高崎名物」になるでしょうか。

詳しくは、「高崎前橋経済新聞」の記事をどうぞ。

先日、「高崎市観光振興計画案」の、パブリックコメントを提出しました。
その中で、高崎の食(名物)についても、いくつか提案させて頂きました。

提案の骨子は、「こだわり」を持ちましょうということです。
何にこだわりを持つかは、議論の分かれるところかも知れませんが、私は、上州の食文化である「小麦食」にこだわってみてはどうかと思っています。

今現在も、「高崎パスタ」とか「高崎うどん」とかはあるのですが、名前以外に高崎らしい「こだわり」は何処にあるのでしょう。
半分冗談ですが、麺の断面が「だるま」の形をしているとか・・・。

私の提案は、「地元食材」「上州弁」「小麦食」にこだわってみたら?ということです。

上州ブランドの小麦粉には、「きぬの波」(高崎うどんはこれを使っています)や、「つるぴかり」(これ、面白いネーミングですよね。)があります。
野菜は「国府白菜」「国府にんじん」「うれっ娘とまと」などの、高崎ブランドがあります。
調味料にしても、「高崎ソース」「高崎しょうゆ」があります。
肉は「高崎ハム」もありますし、ちょっと広げて「上州麦豚」「上州牛」もいいでしょう。

「上州弁」「小麦食」は、昔から伝わっている郷土食があります。
 ◇「たてっけぇし」・・・「おきりこみ」を温め直した(点て返した)もの。
 ◇「つみっこ」・・・「すいとん」
 ◇「じりやき」・・・「おやき」に近いかな?

方言を使うだけで、地方色豊かな名物になるように思うのですが、いかがでしょう?

さあ、「地元食材」「上州弁」で作る、こだわりの「小麦食」、考えてみませんか?

  

Posted by 迷道院高崎at 11:29
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2009年12月05日

号外!群馬八郎伝説

12月4日の上毛新聞に、こんな記事が載ってましたので、予定を変更して、号外発行です。


おっ?これ、どこかで聞いた話だな。
そうです、倉賀野神社「飯玉縁起」に、そっくりではありませんか。

「群馬八郎」「飯玉八郎」、探せばもっと沢山の八郎伝説があるのかも知れませんね。

ブログ「ひつじ大学_佐藤喜久一郎 活動と冒険の記録」は>>こちらから。

【八郎神社】

【倉賀野神社】


  

Posted by 迷道院高崎at 08:10
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2009年11月27日

追跡!藤森稲荷(最終回)

土屋喜英氏著「高崎漫歩」には、藤森稲荷の名前の由来について、次のように書かれています。
「大正の終わり頃に、近くの人達が社を新しくして、藤の木が森のように繁っていたことから藤森稲荷と名付けたそうである・・・」
しかし、大橋町の方々にお聞きした限りでは、藤の木が森のように繁っていたという事実はなさそうで、名前の由来については定かでありませんでした。

そのヒントを与えてくださったのが、烏子(すないご)稲荷神社山田道長宮司でした。

ところで話は変わりますが、皆さんは、なぜ「烏子(からすこ)」と書いて、「すないご」と読むかご存知でしたか?

烏子稲荷神社のある広い一帯を、昔、「須苗郷(すなえごう)」と呼んでいたので、その総鎮守を「すないご稲荷神社」と呼ぶんだということは、いろいろな本に書かれていますので知っていました。
でも、何故「すなえご」ではなく「すないご」なのか、何故「烏子」と書くのか・・・?
私はずーっと疑問に思っていたのですが、宮司さんのおかげで謎が解けました。

宮司さんのお話は、こうでした。
昔の須苗郷というのはとても広い地域で、榛名の麓から石原・乗附丘陵の麓までを含んでいました。
その中央を滔々と流れているのが、「烏川」です。
そして、「氏神」が守護する地に住む人々を「氏子」と言います。
そこで、「烏川」の「烏」と、「氏子」の「子」で、「烏子」としたのだそうです。

昔は、「稲荷神社(烏子)」と称していたそうですが、昭和五十年(1975)頃、「烏子稲荷神社」と言う名称に改めたのだそうです。
その時、「すないご」とふり仮名をつけて登録したのだそうですが、
「ちょっと訛りが入ったというか、『え』よりも『い』の方が、あいうえお順で前に来るからと思ったんだけど、今思えば、『すなえご』にしておけば良かったかな?」と笑っておられました。

藤森稲荷の話に戻りましょう。
そもそも、烏子稲荷神社の由緒には、「桓武天皇の御世、延暦二年(783)に藤原金善という人が、山城の国『藤の森稲荷』の御分霊を勧請せり」とあります。
そうなんです、「の」は入りますが、藤森稲荷じゃありませんか!

ただちょっと気になることもありました。
山城の国(京都)にあるのは、
「藤森(ふじのもり)神社」で、稲荷とは書いてないのです。
その由緒を見てもご祭神に稲荷神はいません。
しかも、「今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっております。」とあります。
ありゃりゃ?

これも、山田宮司のお話で、合点がいきました。
お稲荷さんの総本宮と言われるのが、京都「伏見稲荷大社」ですが、実はこのお稲荷さん「藤森神社」と大いに関係があるのです。

伏見稲荷大社のある地は、もともとは藤尾(ふじのお)と呼ばれていて、藤森神社の土地だったんだそうです。
ある時、藤森神社を司る紀伊氏のところに、稲荷神を崇拝する秦氏がこう言ってきます。
「祠を建てたいので、稲ワラを数束広げる程度の場所を貸してもらえないだろうか?」
紀伊氏は、その程度ならと快く了解しました。
すると、秦氏は早速やって来て、広げた稲ワラを1本1本縦につなげて、山一つをぐるりと囲んでしまいました。
その山が、現在「伏見稲荷大社」のある稲荷山だそうです。

かつて紀伊氏蘇我氏に仕え、帰化人の秦氏を配下にして勢力を拡大していました。
しかし、大化の改新によって蘇我氏の勢力が衰えると、それに連れて紀伊氏も衰退し、代わりに栄えてきたのが秦氏だという訳です。
そんなことを知って、前述の話を聞くと、なかなか考えさせるものがありますね。

ところで、烏子稲荷神社の本殿は、「稲荷山古墳」という円墳上に造られています。→

←裏に回ると、横穴式石室の入り口がありますが、これが京都伏見稲荷と通じていて、が行き来していたという言い伝えもあります。(田島桂男氏著「高崎の地名」より)

大橋町にあったという「藤森稲荷」は、おそらく「烏子稲荷神社」とも関係のある京都「藤森神社」、さらには「伏見稲荷」と関係しているのではないかと思います。

最後に、烏子稲荷神社の祖、藤原金善の哀しい物語をご紹介しておきましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

桓武天皇の頃、藤原氏一門に連なる立派な家柄の藤原金善という人が、妻と一緒に京から関東へ下る道すがら、須苗子(すなえご)の森にさしかかりました。
美しいその森がたいそう気に入った金善は、ここに永住したいと考えました。
ついては、かつて自分が崇拝していた、「藤の森稲荷」の分霊をここに祀ろうと思ったのですが、再び妻を京まで歩かせる訳にもいかないと、妻を残して京へ戻っていきました。
一人知らぬ土地に残された妻は、心細く夫の帰りを待っていましたが、そんな心に付け入る輩がいつの世にもいるものです。
ある男が、言葉巧みに妻を騙し、夫の座についてしまいます。
「藤の森稲荷」の分霊を受けて戻ってきた夫の姿を見た妻は、初めて男に騙されたことを知ります。
妻はそのことを恥じ、ついに川に身を投げて死んでしまいました。
悲しみにくれた金善は、ここ須苗郷の森に藤の森稲荷の分霊を祀り、神職としてこれに仕えたということです。
(「高崎の名所と伝説」より、若干、迷道院高崎が加筆いたしました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、「追跡!藤森稲荷」、最終回までお付き合い頂き、ありがとうございました。
知らなければ、何の変哲もない床屋さんの駐車場に、こんな面白い歴史と文化があったとは、私自身おどろきました。
観光都市高崎の目指すべきところが、何となく見えてきたような気がします。
みなさんは、どのように思われたでしょうか。

  

Posted by 迷道院高崎at 05:57
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2009年11月25日

追跡!藤森稲荷(其の四)

大橋町藤森稲荷を移したという、上小塙(かみこばな)町烏子(すないご)稲荷神社へ行ってみました。

稲荷神社なのに、なぜか駐車場には「たぬき」が置いてあります。 →

こちらの宮司さん、なかなかお忙しい方でいつもお留守でしたが、やっとお会いすることができました。
宮司の山田道長さんはとても気さくな方で、いろいろと興味深いお話をして頂いた後、藤森稲荷が納められている場所まで案内して下さいました。

石段を上った本殿の右側に、いくつもの祠が置かれている場所があります。
その最前列の中央にあるのが、大橋町から移した藤森稲荷だそうです。

石祠は、大橋町大野区長が用意した新しいものですが、その前に置かれている一対の狐の石像、その両脇の石灯籠大橋町にあったものと思われます。
この場所に置かれている祠のほとんどは御魂抜きされていますが、藤森稲荷は御魂が入ったままだそうです。
ここまで追跡してきた甲斐があったというものですが、ただ、宮司さんのこんな話が少し気になりました。

大橋町から移したのは、藤森稲荷とは聞いてないですねぇ。
 『大橋町の稲荷』というだけで・・・。
 明治の終わりに高崎の各町内にあった神社は、全て高崎神社に合祀されたんです。
 大橋町藤森稲荷もその時に合祀されてるはずですからね。」


確かに、「追跡!藤森稲荷(其の壱)」に書いたように、「高崎の散歩道 第六集」にもそのように書かれてはいました。
ということは、お社を再建した時に、地域の人が昔親しんでいた「藤森稲荷」という名前で呼んでいただけなのでしょうか。

宮司さんにお礼を言って、烏子稲荷神社を後にしたその足で、高崎神社へ行ってみました。
ちょうど神殿に向かうところのご神官に、藤森稲荷のことをお聞きすると、しばらく首を傾げた後、「裏の方にいくつも石碑が建っているので、その中にあるかもしれない。」ということでした。

ありました、ありました!

西南の隅、恵徳寺との塀際に「正一位藤森稲荷大明神」と刻まれた石碑が建っていました。
たまたまなのか、意識してなのか、大きな欅の下に建てられています。
刻まれている碑文によると、これは明治四十年(1907)に高崎神社に合祀されたことを記念する碑だということです。
裏には、「大橋町」と刻まれています。
藤森稲荷の御魂は、やはり高崎神社にいらっしゃるのでしょうか。

ただ、とかくお稲荷さんは元の住まいへ帰りたがるものです。
「稲荷横丁」のお稲荷さんも、倉賀野の「冠稲荷」もそうでした。
もしかしたら藤森稲荷も、そーっと大橋町に戻っていたのではないでしょうか。
そう考えた方が、面白いとは思いませんか?

さてさて、追跡の旅はこれで終わるのですが、まだ気になることが一つ残っています。
それは、「藤森稲荷」という名前です。
「藤森」とはいったい何でしょう?
烏子稲荷神社の宮司さんとお話をしていて、そのヒントが掴めました。

そのお話は、「追跡!藤森稲荷(最終回)」で!

【烏子稲荷神社の藤森稲荷】

【高崎神社の藤森稲荷石碑】


  

Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2009年11月22日

追跡!藤森稲荷(其の参)

紹介された、大橋町の元区長、山岸さんとお会いすることができました。
フルネームが山岸八郎さんとお聞きして、思い当たることがありました。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」に掲載されている左の写真、その提供者が山岸八郎さんでした。

写真は三国街道ですが、大正時代はまだこんなに狭かったんですね。
大橋町の人々が、高崎公園まで歩いて花見に行く風景だそうです。

(※郷土出版社の「目で見る高崎・安中の100年」では、明治三十五年(1902)頃とされています。)

山岸家は、江戸時代に新潟柿崎から移って来て、まだほとんど家の無かったこの地で、酢饅頭の店を開いたのだそうです。
きっと三国街道を往来する人達が、一服したくなる場所だったのでしょう。

父君の山岸武次さんが、明治から大正にかけての大橋町の様子を、絵に描いて残してくれていて、右の絵がその1枚です。

周囲は一面の田んぼで、手前の小山のような所が、「電車みち」の記事で紹介した電車山です。
この頃は、ずいぶん広々として見通しがきいていたんですね。
当時を知る貴重な資料だと思います。

武次さんは、カメラの無い時代は絵で、カメラを持ってからは写真で、昔の大橋町の様子を記録しておられました。

八郎さんは、今、それらを引き継ぎ、きちんとアルバムに整理して、大橋町の歴史資料として編纂を進めていらっしゃいます。

そして八郎さんが出してくれたのが、武次さん撮影の右の写真です。→

当時、5軒長屋だった山岸さん宅の屋根上から、藤森稲荷方面を撮影したものだそうです。
前方に見える大きな木が、藤森稲荷にあったという榎の大木です。
左奥の蔵造りの大きな家が、藤森稲荷があった殿塚宅だそうです。

残念ながら、藤森稲荷そのものが写っている写真はありませんでした。
写真を持っていそうな方として、現区長の大野勝己さんを紹介して頂きました。
大野さんは、藤森稲荷上小塙烏子(すないご)稲荷神社に納める時、主体になって尽力された方です。
残念ながら、大野さんも写真はお持ちではありませんでしたが、烏子稲荷神社へ納める時のお話を伺うことができました。

館林に移っていた殿塚氏の依頼で、藤森稲荷のあった場所を更地にすることになったとのことです。
烏子稲荷神社の宮司さんにお願いし、藤森稲荷の社から御魂抜きをし、社に祀られていた狐の置物を新たに用意した石祠に移して御魂入れをした後、町内の方達と烏子稲荷神社まで納めに行ったそうです。
その後、空になった社は取り壊し、更地にしたということでした。

藤森稲荷の写真がないと聞くと、ますます写真の持ち主を捜したくなります。
昔、藤森稲荷の所で営業していたという、藤守湯の奥さんに電話でお尋ねすると、昭和二年(1927)に現在地に移転したそうですが、昭和三十四年(1959)に火災に遭い、写真も何も全て焼失してしまったということでした。
そして、あそこならと教えて頂いたクリーニング店さんにも、古いアルバムを探して頂きましたが、ありませんでした。

写真は諦めるとして、次は、烏子稲荷神社に移したという藤森稲荷がどうなったのかが、気になるところです。
後日、烏子稲荷神社へ行って、その辺のお話を含め、実に興味深いお話を聞くことができました。

そのお話は、また次回のお楽しみ!

  

Posted by 迷道院高崎at 07:52
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2009年11月21日

パブコメしましょ!

今日も、号外です!

「高崎市観光振興計画」(案)のパブリックコメントを、高崎市観光課で募集開始しました。

新聞記事には、「計画策定に先立って、観光関係者や有識者らによる観光ビジョン研究会を発足した」とあったので、受入れる側の論理になっているのではないかと心配したのですが、実際に計画案を見てみると、観光客のアンケート結果も判断材料にしているので安心しました。

「高崎市観光振興計画」(案)は、高崎市のHPからダウンロードできます。
http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/kankou/pubcom/kankou-pubcom.htm
ただ、総ページ数が111ページありますので、観光課へ行って頂戴した方がいいかも知れません。

私もこれから熟読して、ぜひとも意見を提出したいと思っています。
締切は12月18日ですので、皆さんもぜひご検討ください。

高崎を日本一の観光都市にすべく、アイデアを寄せ合おうではありませんか!

  

Posted by 迷道院高崎at 07:49
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2009年11月20日

追跡!藤森稲荷(其の弐)

「藤森稲荷」という名前から、三国街道を越えた所にある「藤守湯」を連想しました。
字は違うのですが、「ふじもり」という音に何か関連性を感じます。

「藤守湯」は以前、「高崎に残る「湯屋」めぐり」でも紹介した、現役の銭湯です。

しかし、この日は時間が早かったために、まだ開いていませんでした。
「藤森稲荷」のことをお聞きしたいと思い、周囲を回って声を掛けたり、チャイムを押したりしたのですが、どなたも出てきません。
挙句には、ワンちゃんに怪しまれて吠えまくられて、ついに諦めました。
収穫は、この家の名字が「藤守」さんではないと分かったことです。
いよいよ、「藤森稲荷」との関連を確信しました。

そんなところへ通りかかったのが、このご婦人です。 →

怪しまれないためにも、ここは一声掛けておくべきです。
「すみません、お近くに長くお住まいの方ですか?」
「ええ、そうですよ。」
「藤守湯の名前の由来などご存知ですか?」
と、あまり期待もせずお聞きしてみたのですが、ビックリしました!
「あ、昔ね、藤森稲荷の所にあったんですよ、このお風呂屋さん。
それで、藤守湯って名前にしたらしいですよ。
道が広がるんでね、ここへ移ってきたんです。」


よくご存知の方でした。
藤森稲荷のことも、お聞きすると、
「あー、小塙の烏子(すないご)神社へ移したんですよ。
私もその時にね、近所の人と一緒に神社まで送りに行きましたよ。
そうねー、十何年か前かねぇ。」

というお話でした。
大収穫です!「藤森稲荷」の行方が分かりました!

「写真など、残ってませんかねぇ?」とお尋ねしたら、
同級生で、元区長さんだったという山岸さんを紹介して頂きました。
クリーニング屋さんの隣だということでしたが、探してみると大橋近辺には何故かクリーニング屋さんが多いんですね。
やっと探し当てたら、あいにく元区長さんはお留守でしたが、後日、あらためて訪問し、いろいろなお話を伺うことができました。

そのお話は、また次回!

【藤守湯】


  

Posted by 迷道院高崎at 07:47
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2009年11月19日

丸刈り並木

今日は、ブログをUPする日ではなかったのですが・・・。
号外ということで。

たまたま通りかかった和田橋から音楽センターまでの道、イチョウ並木が真っ黄色になっていて、とてもきれいでした。
  

← 片やこちらは、とある団地イチョウ並木です。

もう黄葉が終わって落葉した訳ではありません。
落葉する前に、きれいサッパリ丸刈りにして頂いたのです。

これなら、毎朝、落ち葉を掃き集める手間も省けますよね。

この団地の中には、アメリカフウ(楓)の並木道もあります。 →

今、ちょうど紅葉が始まったところで、並木道を美しい秋の彩りに染めようとしています。

ところが、その並木道に今チェーンソーの音が響き渡り、アメリカフウマルガリータに変身中です。 ↓




園芸に詳しくないのでよく分かりませんが、アメリカフウの剪定は今やらないといけないものなのでしょうか。
落葉樹は、葉が落ちてから剪定するものだ、と聞いたような気もするのですが。

できれば、美しい紅葉を眺め終わるまで、待っていて欲しいなぁと思いました。
もしかして、落ち葉に悩まされている団地の方々の要望だったのでしょうか。

丸刈りにされた幹に、しがみ付くように残っている葉の、美しい色が印象的でした。

確かに、紅葉は美しくても、その後の落ち葉は厄介者かも知れません。
どちらを重視するかは、難しいところです。

同じような問題で、土佐の地域住民はこんな結論を出したようです。
http://www.skr.mlit.go.jp/tosakoku/html/tosanomich-america.html

さて、高崎市高崎市民はどうでしょう。

  

Posted by 迷道院高崎at 17:49
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2009年11月18日

追跡!藤森稲荷(其の壱)

「高崎の散歩道 第六集」の中に、古城塁研究家・山崎一氏のこんなコラム記事がありました。

三国街道が長野堰を渡る橋を大橋という。そこから北100mの東裏に藤森稲荷がある。
その側に榎の大きな切り株が残っている。
(途中略)
このお稲荷様はもと、大橋町の鎮守だったが、明治の神社合併で高崎神社に合祀され・・・」


ってことは、大橋町にはないんじゃん?

と思ったら、続けてこんな話も書かれていました。
「お社は無くなっても榎は亭々(ていてい)とそびえ枝を張り(略)
大正の半ばになると、榎の枯れ枝や落ち葉が容赦なくその下に住む人たちを悩まし、当時の区長は遂に意を決してこの木を切り倒すこととなった。」


ここからの話が面白いんです。

「やがて、木挽きが入って大鋸を入れ、一日の作業で根方にかなり深い切り込みができた。
ところがその夜、木挽き頓死し、区長は俄かな眼病で失明寸前というありさまになった。
区長はおそれて作業を取りやめ、其の後、この木に手をふれるものは無くなった。
下に住んでいた殿塚という人がお社を再建し、お祭りも復興した。
終戦後になると、榎の大木はいつか切り倒され、今度はお社だけが残ることとなった。」


という訳で、再建されたという「藤森稲荷」と、切り倒されたという榎の「切り株」を探しに行ったのが、10月の初め頃でした。
手掛かりは「大橋の北100mの東裏」だったんですが、その辺りをいくら探してもそれらしいお稲荷さんは見つかりません。

飛び込んでお尋ねしたのが、「オランダコロッケ」で有名な平井精肉店さんです。
しかし、結果は残念でした。
「角の床屋さんの所にあったんだけどねぇ。
今は、何にもないんだよ。
何でも、小塙の方へ移したって。」


諦めきれずに、角のツバサ理容室へ行ってお伺いしてみました。
すると、奥様が、
「あー、あったんですよ。裏に。」
と、わざわざ案内して下さいました。

「ここなんですよ。」と案内されたのは、車2台が置ける程度の、何の変哲もない駐車場でした。

スペースからして、小さな石の祠程度だったのかな?と思ったのですが、奥様は、
「ここ(フェンスの辺り)に鳥居が建っていて、その向こうに水屋があって、あそこ(フェンスの向こうの自転車置き場辺り)にお社があったんです。」
と仰るので、そこそこの大きさの社だったようです。
大木だったという榎の切り株も、跡形もなくなっていました。

この日は、もう日が暮れ始めていたので、中途半端な気持ちのまま引き揚げてきました。
そして先日、ヤボ用が片付いてウズウズしていた気持ちに押されるように、藤森稲荷追跡を再開いたしました。

その話は、また次回!

【オランダコロッケの平井精肉店】

【藤森稲荷のあった所】


  

Posted by 迷道院高崎at 07:30
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2009年10月18日

電車みち

昔、高崎の街なかを「チンチン電車」が走っていたという話を、聞いたことがあるかもしれません。
あるいは、「実際に走っているのを見たよ。」という、ご年配の方もいるでしょう。
私は残念ながら、そのレールが撤去されるという話を、かろうじて記憶している程度です。

左の地図は、昭和九年(1934)の高崎市ですが、赤く塗ってあるところが「チンチン電車」が通っていた、いわゆる「電車みち」です。
高崎駅西口から、新(あら)町→田町→本町を通って三国街道を北上し、渋川に至ります。

住吉町からは、大きく右に迂回して、また三国街道に戻っていますが、これは信越線と交差するための陸橋を三国街道上に設けることができなかったからなのでしょう。

ここで、少し「チンチン電車」の歴史を、ご紹介しておきましょう。

明治十七年(1884)、上野-高崎間に鉄道が敷かれた後、高崎-渋川間の鉄道敷設を目論んだようですが、蒸気機関車を走らせる鉄道は、建設費が大き過ぎたため、一度は断念しています。

そこで次に考えたのは、比較的建設費が少なくて済む「馬車鉄道」でした。
レールの上をに曳かせた客車を走らせようというのです。 →

折りしも横川-軽井沢間にアプト式鉄道が開設され、それによって廃止となった碓氷馬車鉄道の資材一切を転用することができ、開業したのが明治二十六年(1893)でした。

という訳で、最初はがポックリ、ポックリ客車を引いていたんですね。
2頭立てだったようですが、渋川までどのくらいの時間がかかったのでしょう?
日本橋-新橋間の鉄道馬車が、やはり2頭立てで平均時速8km位だったそうですから、それで高崎-渋川間の路線距離21.5kmを割ると、2時間40分位になりますね。

「馬車鉄道」「電気鉄道」に変わり、「チンチン電車」が走るようになるのは、明治四十一年(1908)のことです。
電化により、渋川まで1時間で行けるようになりました。
そして翌年には、渋川から伊香保まで延伸され、大正十年(1921)には東武バスに買収されて、「東武電鉄高崎伊香保線」と呼ばれるようになります。

しかし、昭和に入って国鉄上越線が全通し、ついで自動車時代が到来すると、「チンチン電車」は次第にバス運行に切り替わっていきます。
そして昭和二十八年(1953)、ついに「チンチン電車」は廃止、昭和三十年(1955)には軌道も撤去されてしまいます。

今、「電車みち」という言葉も消えてしまいましたが、その名残をわずかに残している道があります。「新井堰」のすぐ東です。
「チンチン電車」住吉町から大きく右に迂回していた、その入り口がこの細い路地です。
当時の道幅は、今の倍くらいあったそうです。

路地を抜けるとすぐ「長野堰」に突き当たりますが、「チンチン電車」は、この「長野堰」に架けられた鉄橋を渡り、現在の児童公園の中を抜けて走っていました。


↓下(左)の写真が、長野堰鉄橋を渡る「チンチン電車」の雄姿です。


児童公園を抜けると、大橋町-昭和町の道路と交差します。

その先に真っすぐ続いているのが、「電車みち」です。

北高崎駅(元・飯塚駅)のホームの手前で道は直角に曲がっていますが、「チンチン電車」は真っ直ぐ進んでいたのです。

この手前の直線部分から、徐々に勾配を付けて上り、信越線を跨いでから再び下って行きます。

この陸橋部分の高く盛り上げた所を、「電車山」と呼んでいたそうです。

当時は、「電車山」を築くための土を掘った跡が池になって、「電車池」と呼ばれていたそうです。
けっこう大きい池だったようで、貸しボートが出たり、魚釣りや水泳までできたといいます。

「電車山」を下りた先の「電車みち」が、現在、スポーツデポ東側の道です。
三国街道に出る手前に、電車を整備するための「飯塚車庫」がありました。
現在の、飯塚本町公民館の辺りですね。

さて、今となっては懐かしい思いのする「チンチン電車」です。
残しておけば、素晴らしい観光資源だったと思う気持ちもあります。
しかし、これも時代の流れ。
「倉賀野河岸」「鉄道馬車」も、「人力車」「輪タク」も、そうやって世代交代してきました。
「ガソリン自動車」も、いずれその役割を終える時が来るのでしょう。

でもでも、主役を降りた後だからこそ、価値ある宝になることがよくあります。
捨ててしまう手は、ありませんよね。

(参考図書:「新編・高崎市史」「高崎の散歩道・第六集」「思い出のチンチン電車」)
※昔の写真をご提供頂いた、あかぎ出版様、田部井康修様に厚く御礼申し上げます。


【「長野堰鉄橋」のあったところ】

【「電車山」のあったところ】

【「飯塚車庫」のあったところ】


  

Posted by 迷道院高崎at 07:38
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2009年10月16日

「新井堰」の人脈と水脈

高崎城下の重要な水源であった「新井堰」は、新井喜左衛門という人が開鑿したので、そう呼ばれたと言われています。

この人は、貝沢「八幡屋敷」の主・新井若狭守の惣領で、慶長(1596~1615)の頃の人だそうです。
井野川「貝沢堰」も、この人が開いたと言われますので、水利土木技術に長けた人だったのでしょう。

喜左衛門秋元但馬守に仕えていたといいます。
慶長の頃の秋元但馬守というと、前橋の初代総社城主だった秋元長朝(あきもとながとも)でしょう。
この人は、困難と言われた「天狗岩用水」を開いたとして有名ですが、喜左衛門の技術力によるところが大きかったのかもしれません。

秋元家は、代々、土木・水利事業に尽力しています。
秋元長朝の子・泰朝(やすとも)も、甲斐谷村藩に移封になった後に「谷村大堰」をつくり、その子・富朝(とみとも)は富士山の雪代の出水によって流出する田畑を守るため、赤松数万本を植林した「諏訪森」を造成しています。
さらに、その養子となった喬知(たかとも)も、河口湖の水を富士吉田まで抜く「新倉掘抜(あらくらほりぬき)」を開鑿しています。

また、長朝は、総社城主ではありますが、高崎と深い関係があります。
戦国時代、北条氏に属して深谷城を守っていた長朝は、小田原城落城と共に降伏し、その後は隠棲していました。

その長朝徳川家康に推挙したのが、初代高崎城主井伊直政でした。 →
直政は、長朝の力量を高く評価していたのでしょう。
徳川家康豊臣秀吉の命で関東を治めることになった時、交通の要衝であった上野国の守りを任されたのが、井伊直政です。
その右腕として、信頼する長朝総社城主として呼び寄せたのも、おそらく直政だったのではないでしょうか。

井伊直政箕輪城から高崎城に移ったのは慶長三年(1598)、秋元長朝総社城主になったのが慶長六年(1601)ですから、高崎城下の水路を設計・施工したのが、長朝および家臣の喜左衛門であったということは、充分想像できます。
にもかかわらず、総社城主になった長朝「天狗岩用水」開鑿の相談に来た時、直政「雲に梯子をかけるようなもので、無理だ。」と言ったというのですから、面白い話ですね。

高崎城下を縦横に走る水路の取水口が「新井堰」ですから、ここは大変重要な堰だった訳です。
水戸の天狗党京都へ上る際に高崎を通過するという情報があり、万が一この「新井堰」の水門を閉められて、城下に火でも放たれたら大変と、高崎藩「新井堰」を厳重に警備したといいます。
また、「高崎五万石騒動」の時も、農民が「新井堰」を占拠しようという企てもあったようです。

はその大切さゆえに、たびたび争いの元にもなってきました。
でも、その割には、大切に使っていないような気もします。

地球の表面積の約80%に覆われているといいます。
でも、地球上にある水の97.5%海水で、淡水はわずか2.5%です。
そしてその淡水のほとんどは、北極や南極のとして存在しています。
人間が利用できる形で存在する淡水は、なんと0.01%以下だと言われています。
地球上の水を200リットルのお風呂一杯分とすると、大さじ2杯分程度しかないんだそうです。

片や、人間が1日に摂取する水の量は、2.5リットルだそうです。
人間の体重に占める水分量は、50~70%と言われますから、まさに命の水です。

日本は水の豊かな国のはずですが、それでも水を輸入しています。
しかも、バーチャルウォーターという形で、世界中から大量の水を輸入しているのだそうです。↓
「21世紀は水の世紀」(財団法人 日本ダム協会)

さて、この「堰」の水門を閉められたら・・・、どうしましょう?

  

Posted by 迷道院高崎at 09:01
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2009年10月14日

蛇口から魚?

「北の遠構え」で、この水は大橋町長野堰(新井堰)から取水しているとご紹介しました。

← 現在の「新井堰」です。
右側に水門がありますが、これが「遠構え」の取水口です。(たぶん・・・)

大きな欅の木の下の水路が、当時を偲ばせる雰囲気で流れています。 →

高崎城下を縦横に流れていた「新井堰」からの水は、今では想像もできないほどの清流だったようで、水路の水は飲料水にも使われていたそうです。
しかし、明治になって高崎の人口が急激に増えてくると、水路への下水流入により、飲料水としては適さない状態になっていきます。
家庭用の井戸を掘る人も出てきましたが、素掘りの水路から浸透した汚水により、良質の井戸水を得ることは難しかったようです。

そこで、高崎中心部の15ヵ町が連合して、「新井堰」から新たに飲料用の簡易水道を敷設することとします。
竣工したのは明治二十一年(1888)で、水量は高崎の全戸に給水できる量でしたが、給水は15ヵ町連合内に限られたため、恩恵に被れたのは全戸のわずか4割程度だったようです。

その簡易水道も、沈砂池貯水溝を設けた程度の、ごく簡単なものであったので、大雨や夕立があったりすると、すぐに濁り水が出たといいます。
それどころか、ボウフラミミズ、時には小さなまで蛇口から飛び出してきたというから驚きです。

そんな飲料水の状態でしたから、腸チフスに感染する人も多く、明治二十一年には高崎市街で感染者数290人という大発生が起きています。
それは、歩兵第15連隊の兵営内でも同じだったようです。
明治三十三年(1900)に初代高崎市長となった矢島八郎氏が、真っ先に取り組んだのが「安全な上水道」の敷設で、これを市是として宣言しています。

それから10年後の明治四十三年(1910)、市長3代にわたって取り組んできた剣崎浄水場が完成し、高崎市全域に上水道が供給されて、やっと市民は安全な水を飲めるようになった訳です。

そして今、信州大学の中本信忠教授に「高崎の水は日本一おいしい」と言って頂いたおかげもあってか、剣崎浄水場の水は「高崎百年水」としてペットボトル販売されています。

中本教授の論文は、こちらのブログをご覧ください。 →

19頁~20頁にかけて、高崎市にあったキリンビール工場のエピソードと共に、明治に作られた剣崎浄水場の凄さが紹介されています。

ブログタイトルの下には、「蛇口から魚」ならぬ、「目からウロコの話」とあります。
さてさて、高崎の町づくりも、明治という時代をもう一度見直してみる必要はないでしょうか。
意外と、「ヒョウタンから駒」が出たりして・・・。

(参考図書:「新編・高崎市史」「実録たかさき」)


【新井堰】

【剣崎浄水場】

【高崎市水道記念館】


  

Posted by 迷道院高崎at 12:59
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