2008年12月10日

歌声喫茶「風」

最後に「風」で歌ったのは、35年ほど前だったと思う。
夫婦喧嘩をして飛び出したものの行き場もなく、学生の頃に通い詰めた「風」で歌を歌って時間を潰していた。
ところが女房の勘というのはすごいもので、ここをぴたりと探し当てられてしまった。
歌を歌って私の怒りも収まっていたので、無事休戦(敗戦かな?)できた。
今日まで夫婦でいられるのは、もしかしたら「風」のおかげかも知れない。

郊外に引っ越し、すっかりご無沙汰になってしまったある日。
前を通りかかって懐かしく「風」の看板を見上げたが、店を開いている様子はなかった。
その時は、1階の薬屋さん「マツヤス薬局」がまだやっていたので、ご主人にお話を聞くことができた。
ご主人から聞いて初めて知ったのだが、「風」を開いていたのは「マツヤス薬局」の奥様だったのだ。
お身体を壊されて、やむなく「風」を閉めることになったのだが、「看板は残しておいて。」と言われているので、ということだった。
またいつか「風」を再開するつもりなのだな、再開されたら絶対に来ようと思っていたのだが、ついに「マツヤス薬局」のシャッターも降ろされてしまった。

「風」には、カウンター席が6つぐらい、4人がけくらいのテーブル席がやはり6つぐらいあったような記憶がある。
いつも満席に近く、ガラガラだった記憶はない。
伴奏はエレクトーンだった。その伴奏に合わせてリーダーが歌い、客が一緒に歌うのだ。
1曲歌い終わると、客席から「(歌集)何集の何番!」とリクエストが出る。
客は一斉にそのページを開いて、伴奏が始まるのを待つ。
今のカラオケのように、一人が歌い、他の人はろくに聞きもせずに曲探しという冷たさはない。
みんなが一緒だった。
みんなと歌いながら、知らなかった歌をずいぶん覚えた。
特に、山の歌、ロシア民謡、労働歌はよくリクエストされていた。

ママ(マツヤス薬局の奥様)は、いつも笑顔でカウンターの中にいた。
初めて「風」に入ったのは中学3年生の時だった。
当時は、中学生が喫茶店に入るのは禁止されていたかも知れない。
だが、昼飯のパンを買う金を2日我慢して貯め、「風」に通っていた。
初めての日は金がなくて歌集が買えなかった。(1冊100円ぐらいだったかなぁ?覚えてない。)
ママは笑顔で店の歌集を貸してくれた。

ある日こんなことがあった。
見るからにその筋らしいお兄さんと、その手下らしい人が店に入ってきてカウンター席に座った。
横目でチラチラ見ていると、お兄さんも「場違いなところに来ちゃったなぁ。」という顔をして、黙ってコーヒーを飲んでいた。
すると、ママが少しも臆することなくいつもの笑顔で、
「ほら、歌いなさいよ!」とお兄さんに歌集を手渡すと、照れたような顔で小さく開けた口で一緒に歌い始めた。
心の中で「すげー!ママ!」と感心することしきりだった。

あの頃の「同胞感」って、今、必要なんじゃないかなー。


【「風」跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 15:26
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2008年12月13日

高崎市立第二中学校

古いアルバムの中に、「高崎市立第二中学校」の空中写真があった。(写真クリックで拡大表示)
たぶん、昭和37年頃の写真だと思う。
右端にチョコっと写っているのが昭和36年開館の「音楽センター」だ。
「二中」という人文字の左右に建っているのが、旧陸軍高崎15連隊の兵舎で、これを教室として使っていた。
右側の校舎の上に建設中の建物が新校舎で、やっと隙間風の入らない、南向き窓のある校舎に入れたのは、翌年のことになる。
この頃、歌謡曲は西洋のポップスを日本語で歌うのが流行っていた。坂本九、中尾ミエ、木の実ナナ・・・なつかしー!
「サラリーマンは~、気楽な稼業ときたもんだー」植木等が歌っていた。
あの頃は、世間が何となく明るく、夢があった。

右の写真は、国土地理院が提供している「空中写真閲覧システム」のものだ。
昭和49年の撮影とある。
高崎15連隊の兵舎はすべて撤去され、音楽センター周辺も随分と整備されているのが分かる。
この年、小野田寛朗元陸軍少尉がフィリピンのルバング島で、旧日本兵として発見されている。
長嶋茂雄が引退したのもこの年だ。
流行語は「狂乱物価」「便乗値上げ」「ゼロ成長」・・・、あぁ、この頃から始まったんだな。
流行った歌も中条きよしの「うそ」、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」
う~ん・・・。

そして、右の写真が現在のグーグルマップで見たものだ。
「二中」と「三中」が統合され、「高松中」となって、現在の場所(旧専売公社跡)に移転した。
「二中」の跡地には、「シティギャラリー」が建ち、「音楽センター」との間には「シンフォニーロード」が開通して、駅前から抜けられるようになった。
市庁舎は、移転して21階建ての高層ビルとなった。
道路も建物も良くなった。でも、人々の夢や幸せはあの頃と比べてどうなんだろう?

今、この付近を歩くと、昔はどんな風景だったのか思い出せないことがある。
でも不思議なことに、夢の中では今の風景ではなく、あの頃の風景の中を歩っている。
そんな時、昔の風景を知っていてよかったと、心から思う。


【高崎市立第二中学校跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 15:10
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2008年12月14日

堰代町(せきしろちょう)

昭和36年頃の堰代町の家並みである。(写真クリックで拡大)
堰代町は小さな町で山車(だし)は持っていなかったが、この日はちょうど成田町の山車が通過するところを、覚法寺の塀によじ登って撮影した。
左から2軒目と3軒目の間が、「高崎神社」の入り口になる。その角を右へ曲がると嘉多町(かたまち)、真っ直ぐ行けば四ツ屋町だ。

堰代町は、昔、用水を管理する役人の「方屋敷」と「城組屋敷」があったのでその名がついたという。(田島武夫著「高崎の町名由来」より)
写真をよーく見ると分かるのだが、道路に対して斜めに家が建てられていて、ちょうど鋸の刃のようにギザギザになっている。
郷土史家の土屋喜英氏の著書「続・高崎漫歩」によると、「中山道から高崎城を攻めるには、この高崎神社前の道か湯屋横丁を通るしかなく、この道を大勢の人数で一度に通過することができないように考えられていた」のだそうだ。
子どもの頃、この家並みのギザギザのところに兵が隠れるようになっているのだと聞いたことがある。本当か、嘘かは分からない。
ただ、この道はやたらと細い路地のある、妙に折れ曲がった道であったことは記憶している。

写真右の側溝にはいつも水が流れていた。
タニシやカワニナ、どじょう、ヒル、ヤゴなどが生息する、生物多様性に富んだドブ川だった。
このドブ川の少し上流に、鰻(うなぎ)屋さんがあった。
鰻の他にも鯉や金魚、泥鰌(どじょう)を店の生け簀(いけす)で飼っていたが、たまーに脱走する魚がいて、子どもにとってはそれが楽しみで、よくドブの中を漁ったりしていた。

その場所が、今はこんな風景になっている。
同じ場所にずっと残っているのは、高崎神社角の「友松綿店」だ。
車がすれ違うのもやっとだった道路は、片側2車線の広い道路になった。
昔、道の真ん中でベーゴマやメンコをして遊んでいたなんて、とても信じられないだろう。

いつの間にか、昭和も遠くなってしまった。

  


Posted by 迷道院高崎at 16:37
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2008年12月16日

高崎市立中央小学校

昭和35年頃の「高崎市立中央小学校」の正門である。

木造校舎の玄関には
「髙崎學校」の額が掲げられ、玄関の左傍らには「二宮金次郎」の石像が建っていた。

この学校は面白いことに窪地に建っているので、多くの児童は坂道を使って登下校していた。
雪が降って道が凍ると危険だったはずだが、怖い思いをしたという記憶はほとんどない。
むしろ面白がっていたような気がする。

学校のHPで沿革を見てみると、明治6年に「鞘町(さやちょう)小学校」として宮元町に創立したとある。
「鞘町小学校」創立については、上毛新聞社発行の「実録・たかさき」に面白いことが書いてある。
要旨はこうだ。

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田町に、「積小学館」という私塾を開いていた市川左近という人がいて、結構盛っていたらしい。
左近先生は、「ドケチ先生」と噂されるぐらいの合理主義者で、友人や知人から来た手紙の余白をメモ代わりに使い、食事は一汁一菜。
他人からお呼ばれされても一汁一菜で済ませ、残りを家に持ち帰ったという。
当然、巨額な金銭の所有者になっていた。
ところが、高崎にも学校ができると聞くや、ポーンと(当時)巨額な一千円(現在の1千万円位かな?)を寄付したので、住民は「あの、ドケチ先生が!」とびっくりしたそうだ。
当時、豪商たちは口実を作って寄付逃れをしていたらしい。
左近先生にとっても商売仇の「学校」ができるのだから、当然反対するだろうと思っていたら率先して寄付したので、豪商たちも後に続かざるを得なくなった。
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左近先生は、福沢諭吉の「学問のすすめ」を実践するために、倹約生活をしていただけで、ただの「ドケチ」ではなかったのだ。
生きたお金の使い方。現代人は一度立ち止まって、考え直す時期に来ているようだ。




現在の「中央小学校」の正門である。






「髙崎學校」の額は、今どこに掲げられているのだろうか。
「二宮金次郎」の石像は残っていたが、どことなく寂しげだったのが印象的だ。

最後に、今の校歌の前に歌っていた校歌らしきものを、思い出せる内に書いておこう。

♪遠く榛名の峰の雲
 流れてやまぬ烏川
 朝な夕なに仰ぎつつ
 ここに立つなり 中央校♪


※後日、旧・中央小学校校歌の歌詞を発見しました。
   ◇「発見!中央小の旧校歌」


  


Posted by 迷道院高崎at 12:01
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2008年12月26日

発見!中央小の旧校歌

拙ブログの「高崎市立中央小学校」の記事で、「今の校歌の前に校歌らしきものがあった」と、覚えていた歌詞を紹介したところ、異なる歌詞で覚えているというコメントをいただいた。

そう言われてみると、その校歌らしきものの楽譜や歌詞をもらった記憶がない。
5年生の時だったと思うが、運動会の「棒倒し」の時、入場行進の歌として覚えた気がする。
だから、口伝で受け継がれた歌だったのかも知れない。

コメントをいただいてから、この歌が気になって仕方がなかった。
中央小へ行けば、あるのかも知れないと思ったが、生来の人見知り癖がなかなか足を向かわせない。
そんな折、偶然、市立図書館「校歌アルバム 西毛編」という本を見つけた。
あった、あった!ありました!
まぎれもない、あの時歌っていた中央小の旧校歌だ。

出版は昭和57年、「あさを社」(高崎市乗附町)、編者は「ふるさとのうた保存会」主宰の横田金治氏とある。

早速、「あさを社」さんに電話をし、複写とブログ掲載の許可をお願いしたところ、快諾をしていただいた。
ご厚意に感謝して複写させて頂いたのが、左の楽譜だ。(楽譜クリックで拡大)

やはり、私の記憶していた歌詞とチョコっと違う。
しかも、歌詞は5番まであった。
だがその歌詞を見て、
「こりゃ、校歌としてずっと歌う訳にはいかないや。」と納得した。

この校歌、昭和17年頃のものとある。
昭和17年と言えば、太平洋戦争の真っただ中。ミッドウェー海戦で日本海軍が手痛い打撃を受けて、以降じわじわと米国に押されていくことになるが、まだ日本国民は勝利を信じていたころである。
校歌の3番、4番など、まさに当時の教育姿勢を物語っている。

3番の「御使御差遣・・・」など、どう読むのかも分からない。
たぶん、「おんし、ごさけん・・・」と読むのだろう。「天皇陛下がお遣わしになった使者」が学校に来たことを、誉れとして忘れるな、という訳だ。

中央小の新しい校歌が制定されたのは、昭和35年とある。
終戦になってからその間、旧校歌の1番だけが口伝されていた理由が、やっと分かった。  


Posted by 迷道院高崎at 13:09
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2008年12月28日

タイムトンネル

高崎は、路地の多い町だった。

区画整理や、都市計画で随分失われてはいるが、それでも少し歩くと路地の入口を見つける。

そこは、まるでタイムトンネルの入り口のようだ。
もう使われていない井戸の手押しポンプが、そこだけ時間が止まっているかのようにポツンと佇んでいる。
懐かしさと、その先にある未知のものへの期待に、ふと足を踏み入れてみたくなった。

← その路地は、やはりタイムトンネルだった!
そこだけ時空が捻じれているような、不思議な感覚に襲われる。

子どもの頃に嗅いだ、あの空気と同じ匂いを感じながら、ゆっくり歩を進める。





捻じれた時空を抜けて、ふと後ろを振り返ると、路地はもう真っ直ぐに戻っていた。





← 路地の角を直角に曲がると、あの頃の家の佇まいが、逆光の中に忽然と現れたのに吃驚した。

右手の家の庭から、突然、男の子と女の子が飛び出してきた。
「こんにちは。」と声をかけると、男の子は手に持った戦隊物の拳銃を、得意げに見せてくれた。
女の子は、本物そっくりな猫のぬいぐるみを抱いて、「こうすると、お話しするの。」と猫の頭を撫でると、猫は頭を振りながら「ミャー、ミャー」と鳴いた。
「バイバイ!」と言って手を振ってくれる子ども達の姿は、あの頃と何も変わっていない。
ただひとつ違っていたのは、男の子が「青っ洟」を垂らしていなかったことかな・・・。

今日の、タイムトンネルの冒険はここまで。
また、どこかのタイムトンネルを潜ってみたい。  


Posted by 迷道院高崎at 11:04
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2008年12月29日

チトン、チントシャン♪

柳川町の細道に入ったら、すごく粋な佇まいの家を見つけた。(写真クリックで拡大)

いつ頃建てた家だろうか、板塀漆喰壁、軒には吊り灯篭、小ぢんまりとしながら趣きがある。
今にも中から、鴨長明でも現れそうな雰囲気である。

立っている看板には、「表千家 茶道」、「琴 三味線」とある。
「なーるほどー、だからかー」と一人で納得した。

何しろここは高崎の花柳界、柳川町
昔は芸者衆が、「置屋(おきや)」さん(今で言えば「タレント事務所」)に籍を置いて、お座敷が掛かるのを待っていた。
昼間はお座敷がないので、三味線踊りの稽古をしていた。
「置屋」さんの前を通ると、チトン、チントシャン♪と三味線の音がしたりして、子ども心にも「いいなぁー」と思ったりした。

そう言えば、「置屋」さんの前には、いつも「輪タク(りんたく)」が停まってたっけ。
芸者さんは、それに乗ってお座敷に行っていたようだ。
「輪タク」と言っても、若い方には想像がつかないかも知れない。
「二車(自転車)で引くタクシー」ということなのかな。
写真を持ってないので、こちらをご覧いただこう。
ただ、芸者さんを乗せるので、もうちょっと品があったような気がする。

古い話のついでに、「お富さん」の話もしちゃおう。
昭和29年に、春日八郎が歌って大ヒットしたのが「お富さん」だ。
この歌の作詞は山崎 正という人だが、この人は高崎市出身である。
「お富さん」の歌詞で「粋な黒塀 見越しの松に・・・」というのは、柳川町がモデルだという。
山崎 正は、「電気館」のすぐそばに「幌馬車書房」という古書店を開いていたが、それを知る人は少ない。

この日見た、粋な白塀の家は、昔から芸妓さんに三味線を教えているお師匠さんの家なんだろう。
残念ながら、この日は三味線のお稽古はしていなかったようだ。
でも、脳みその奥深くで確かに音が聞こえた。
チトン、チントシャン♪って・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:09
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2009年09月11日

九蔵町の一里塚

以前、「消えた一里塚」の記事の中で、九蔵町にも一里塚があったということを書いたのですが、それがどの辺にあったのか、ずーっと気になっていました。

通常、高崎城下中山道というと、本町三丁目の角を曲がって九蔵町田町というルートを言いますが、初期の中山道本町三丁目からまっすぐ椿町を抜けて、法華寺の前を直角に曲がって九蔵町通町というルートで、そちらの道沿いに一里塚があったようです。

しかし、寛政年間から文化三年(1806)にかけて作成されたという、「中山道分間延絵図」を見ても、一里塚らしいものは描かれていません。

また、石原征明氏著「図説 高崎の歴史」には、「九蔵町の元だるま紺屋屋敷裏手にあった。」と書かれています。
しかし、この「だるま紺屋屋敷」がわかりません。

行き詰まって暫く放っておいたのですが、ある日、図書館で別のことを調べている時、思いがけず手掛かりを発見しました。
「高崎市史」に、こんな記述があったのです。
九蔵町五十五番地ニアリ、明治元年ノ頃ハ人家ナク、塚上ニ一里塚稲荷ノ小祠アリシモ煙滅其跡ヲ止メズ。」

早速、Yahoo!地図で「九蔵町55番地」を検索してみました。→

すると、すぐ近くに「橋本染工場」というのがあります。
「図説 高崎の歴史」にある、「だるま紺屋」と何か関係があるのでしょうか。
気になるところです。

ところで、「九蔵町」というユニークな町名ですが、グンブロガーの弥乃助さん「九つの蔵?」という記事で紹介していますので、ご覧ください。

北爪九蔵という人が、高崎のお殿様から町を貰っちゃったんですね。
旧勢多郡宮城村に鼻毛石(はなげいし)という、これまたユニークな地名がありますが、北爪姓の多い所です。
九蔵さんは、ここの出身のようです。

宮野入孝氏著「蔵町むかしがたり」によると、一里塚が築かれたのは慶長年(1604)、撤去されたのは明治年(1876)だそうです。
なぜか不思議と、「九」に縁があります。

さて、近い内に・・・。

【九蔵町の一里塚があったと思われる場所】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:02
Comments(11)高崎町なか

2009年09月13日

九蔵町むかし探し

九蔵町一里塚跡を見たくなって、愛車「赤チャリ号」で繰り出しました。

←途中、長野堰で筏に乗ったカモを発見!
一生懸命泳いでいる仲間をよそに、一人まったり休んでいる姿、なんかイイなー。

滅多に町なかには出て来ないので、来るたびに町の様子が変わっていますが、本町三丁目にある「旧・山源漆器店」の建物は、昔の姿で残っています。
「たかさき都市景観重要建築物」に指定された貴重な建物です。

←角を曲がると、天保七年(1836)創業の寝具店「金澤屋」です。

その向い側、駐車場の向こうに趣きのある建物が見えます。→
町並みの破壊によって、隠れていた昔の姿が出現したとは、何とも皮肉ではありますが。
元、お金貸しの家の蔵だそうです。

少し北へ行くと、素敵な蔵が建っています。→

大きな看板が不似合いだなぁなんて思いましたが、勝手なことを言っちゃいけませんね。
でも、木の板に「中島醫院」なんて書いてあれば、素敵だなぁ・・・と。
さて、本題の一里塚跡を見に行きましょう。

本町三丁目から、まっすぐ椿町に入るのが初期の中山道です。
入ってすぐの右側は、若者に人気の「日本一商会」、その隣はかつての「高崎三名園」のひとつ「暢神荘(ちょうじんそう)」

昔の佇まいが残る家を左に見て、正面が「法華寺」です。

そこを、右※に曲がった先に一里塚があったはずです。(※最初、間違えて「左」と記載してしまいました。すみません。)
←もちろん、一里塚はありません。
あれば、この角付近だったはずです。

旅人は、この狭い道をひしめきながら往来し、一里塚の木陰で一休みしてたんでしょうね。

前回の記事で“故郷離れて”さんに教えて頂いた、「だるま紺屋」こと「橋本染工場」の場所は、すっかり空き地になっていました。
一角をちょっとお借りして、「一里塚跡」なんていう石柱でも建てられないものでしょうか。


近くの「正法寺(しょうぼうじ)」にも行ってみました。

境内には「淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」の石仏があり、病む所を擦って平癒を願うタワシも備えられています。
グンブロ仲間の弥乃助さんが、「悪いところをゴシゴシと・・・」で紹介していますので、ご覧ください。
私は、頭、口、腹を擦ってきました。
因みに、今の菩薩像は明治三年(1870)に倉賀野の信者が寄進したもので、先代の菩薩像は左の棚上にあります。

もうひとつ、弥乃助さんが「どっちなの?」で紹介しているのが、「九蔵稲荷」です。

記事の中に書かれている「古いお稲荷さん」の発見場所が、「九蔵屋敷」跡と言われる、旧・大黒屋呉服店跡だったということです。
後に「日本生命支社」、現在は「九蔵町ビル」が建っています。


正法寺の境内には、もうひとつ、面白い言い伝えが残っているものがあります。

「九蔵稲荷」のすぐそばに建っている、ちょっと猫背のお地蔵さま
「夜泣き地蔵」と呼ばれています。
元々は、飯玉公民館近くに正法寺末寺の「妙信庵」というお堂があって、その前に建っていたそうですが、お堂が取り壊されたときに、正法寺に引き取られてきたようです。

言い伝えでは、夜泣きする子を、このお地蔵さまに連れて行って頭を撫でさせたり、子どもの被っているものをお地蔵さまに被せると、ピタッと夜泣きがとまったと言います。
ところが、子どもが帰った後、お地蔵さまはその子どもと同じ声で、かすかに泣いていたのだそうです。
翌朝見ると、お地蔵さまの頬はびっしょり濡れていたのだとか・・・。

上中居「なきんぞう」といい、石原「寝観音」といい、昔から子どもの夜泣きは、神仏にお願いするしかなかったのですね。

気がつくと、私のお腹もグーッと泣いていました。
すっかり長くなりました。今日は、この辺で引き上げましょう。

(参考図書:「高崎の散歩道 第五集」「続・徐徐漂たかさき」「九蔵町むかしがたり」)

【正法寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:47
Comments(6)高崎町なか

2009年09月25日

高崎に国道9号線?

「青雲塾」のところから飯塚新前橋街道踏切に向かうと、一貫堀川に架かる「清水橋」があります。

←その橋柱をよく見ると、「國道九號線」と書いてあります。
え?という感じですが、この道がかつて「国道九号線」だったという証です。

大正九年(1920)に、高崎を通過する国道として「九号線」「十号線」の2つが制定されたのです。

大正十三年(1924)の「高崎市全図」を見ると、「国道九号線」旧・中山道和田多中から直進して高崎市街地に入り、田町通りから本町三丁目を直進し、「前橋新道」を通って前橋に向かいます。

現在、末広町6本辻の歩道橋下を北東に入る、「けもの道」のような細道がありますが、これが「前橋新道」の痕跡です。
今言えば、「旧・国道17号線」ということになりますが、この途中にあるのが、前述の「國道九號線」の橋柱です。

片や「国道十号線」本町三丁目の角で分岐して、本町→赤坂町→歌川町を通って安中へ向かいます。
つまり、旧・国道18号線ということです。

余談ですが、現在の烏川に沿った国道17号並榎町18号と分岐)は、「マッカーサー道路」と呼ばれたこともあるようです。
この辺のお話は、「七士殉職供養塔」の記事をご覧ください。

さて、「国道九号線」ですが、今考えれば、混み合う高崎市街地など通らずに、東三条通りを抜けて「前橋新道」へ出ればよさそうなものを、と思いますよね。

ところが、大正十二年(1923)に開通した東三条通りは、「県道・高崎京ヶ島線」とぶつかったところで止まっていたのです。
現・「江木町西交差点」のところです。
         ↓

当時、ここから「前橋新道」に出るには、左折して「旧・駒形街道」と呼ばれる細道を通り、高砂町の五本辻を抜けて行かなければなりません。
この細道を国道にするのは、流石に無理だったのでしょう。

東三条通りが、「前橋新道」まで真っすぐ延伸されたのは、昭和九年(1934)のことです。※
昭和九年というと、高崎十五連隊の練兵場で、天皇を迎えて陸軍大演習が行われた年です。
この一大行事に合わせて、急遽、道路が整備されたものでしょう。
(※「高崎の散歩道 第五集」では昭和九年となっていますが、昭和六年の「高崎市全図」では「前橋新道」まで延伸された図になっています。この食い違いについては未検証です。)

昭和七年(1932)から始めた2年越しの東三条通り延伸工事でしたが、予算が足らなくなったのか、時間が足らなかったのか、芝塚十字路以北は未舗装だったといいます。
そのため、車が通るたびに砂塵濛々たる状態で、大変だったようです。
やっと簡易舗装がされて、沿道の人々が日課の水撒きから解放されたのは、それから2年後のことでした。

そして昭和二十七年(1952)、国道九号線国道17号線と呼称が変わります。
さらに、高前バイパスが完成して新・国道17号線となり、「旧・17号線」が県道に格下げになったのは、昭和四十一年(1966)のことです。

「国道九号線」はおろか、「前橋新道」という呼び名も、もう聞きません。
ご年配の方が時折使う「旧17号」という呼び名も、やがて使われなくなるのでしょう。

「道に歴史あり」ですね。

(参考図書:「高崎の散歩道 第五集」)


【清水橋】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:05
Comments(18)高崎町なか

2009年09月27日

「御幸新道」って?

「おしあわせ・しんどう」ではありません。
「みゆき・しんどう」って読みます。
何だか、幸せ一杯になりそうな道の名前ですよね。

「御幸」「行幸」とも書きます。
天皇が外出することだそうですが、視察を兼ねた旅行ということでもあるんでしょうか。

高崎「御幸新道」は、明治十一年(1878)に明治天皇が東北御巡幸の途中、高崎前橋に立ち寄られるということで、整備された道路だそうです。

「御幸新道」により高崎から前橋へ行くには、「実政街道」「赤土橋」を渡った後、塚沢の分去りを左に進み、明治初期に整備された「前橋新道」に入ることになります。

「高崎の散歩道 第五集」には、明治十一年の明治天皇行幸について、こんな記述があります。
「初めて上州へ行幸される明治天皇を一目拝もうと、近郷近在は言うに及ばず、五里、十里の道を歩いて山を下りてきた人々もいた。
ゴザを背負い、握り飯をたずさえて、前日までに到着した人々がこの御幸新道沿いに集まり、よい場所に陣取って野宿して待ったという。」


後に「国道九号線」となる、本町三丁目からの「前橋新道」が整備されるのは、明治二十四年(1891)頃のことです。

地図上に「高崎高等女学校」とあるのは、明治三十二年(1899)開校の現「県立高崎女子高等学校」ですが、昭和五十七年(1982)稲荷町に移転した跡には、ご存知、市立図書館や文化会館などが設置されました。

この地図には、まだ末広町の六本辻交差点はありません。
それどころか、末広町という町すらまだなく、赤坂村の一部でした。
末広町が新しい町として制定されたのは、明治三十五年(1902)です。
新しい道ができることによって、その沿線が発展するという構図は、今も昔も変わらないようです。
ついでに言えば、中曽根康弘元首相の生家、中曽根木材がこの地に設立されたのは、大正十一年(1922)だそうです。

昭和初期に撮影された、本町三丁目付近の写真が残されています。
(「高崎百年」より)

九蔵町側から末広町方向を見た所です。

手前には、高崎-渋川間を走っていたチンチン電車の軌道が見えます。

正面の洋館は、大正七年(1918)に落成した「公会堂」です。
講演会や音楽会、展示会、各種団体の集会など、多数の市民が集会できる公共施設として建設要望の声があった公会堂ですが、当時の市財政は大変逼迫していたようです。
そこで、市民から広く寄付金を募り、建築費のほとんどを浄財で賄ったといいます。
市民の強い郷土愛と、信頼される行政の姿を感じさせる、いい話ではありませんか。

昭和二十二年(1947)には、宮元町にあった市役所が火災で焼失したため、公会堂を一時期、市仮庁舎として使ったのですが、あろうことか、昭和二十五年(1950)に、ここでも火災を発生させ、二階部分を焼失してしまいます。
よっぽど、市の財政が「火の車」だったんでしょうね。

現在の本町三丁目付近を、同じ位置から撮影してみました。

私が懐古趣味だからなのでしょうか。
昔の街並みの方が、何となく「味がある」と感じるのですが・・・。

ツリーハウスをつくるワークショップに参加したことがあるのですが、その時のビルダーが言っていた言葉を思い出します。
「自然界には直線というものはない。
自然と一体になるツリーハウスは、できるだけ直線部分をつくらないようにするべきだ。」


日本人が木の家に安らぎを感じるのは、木目がピシッとした幾何学模様でなく、適当な「曖昧さ」「でたらめさ」があるためだとも聞いたことがあります。

「不合理が持つ合理性」とでもいうのでしょうか。
面白いですね。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:06
Comments(2)高崎町なか

2009年09月30日

さすらいの「春靄館」

「御幸新道って?」の中で、明治十一年(1878)に明治天皇高崎に行幸されたと書きましたが、実は明治十七年(1884)にもご来高されています。

明治十七年といえば、上野-高崎間の鉄道が開通した年です。

その開通式にご臨席される明治天皇にご休憩頂くため、行在所(あんざいしょ)が、本町三丁目北部に新築されました。
ちょうど写真の正面、「公会堂」がある辺りだったようです。

瓦葺き木造二階建ての本館は、天井に金箔を散りばめた豪華な造りだったといいます。
また、随員用に別棟2棟も建設されました。
財政豊かとはいえない高崎市にとって、これだけの行在所を建築するのは、大変なことだったでしょう。
この行在所は、「養氣館」と名付けられました。

開通式の五月一日を前に、宮内大輔(くないたいふ)の杉孫七郎が事前点検のために来高します。

当時、ここから北は一面の田園が広がり、遠く榛名山から赤城山にかけて春霞がたなびくという、素晴らしい風景が展開していたようです。

その風景に感動した杉孫七郎は、自ら、この行在所「春靄館(しゅんあいかん)」と命名し直し、揮毫までしたといわれています。
(写真は「やまとふぁーむ にいじま」さんに、ご提供頂きました。)

さて、準備万端整った五月一日の開通式ですが、「開通式に出席する政府高官を襲撃しようとする不穏な動きあり。」という情報により、突如延期されます。
事実、その直後の五月十五日には、いわゆる「群馬事件」が起きています。

その後、開通式は大幅に延期されて六月二十五日に行われます。

しかし、不測の事態を恐れ、明治天皇はじめ随員の伊藤博文らは、高崎駅構内から一歩も出ることなく、滞在三時間で帰京してしまいます。
ついに、「春靄館」行在所として使われることはありませんでした。

その後の「春靄館」は、役所の会議、婦人教育会など、公共の集会所として利用されます。
そして、明治二十七年(1894)、高崎米穀取引所に賃貸されたことを皮切りに、「春靄館」のさすらいが始まります。

明治三十二年(1899)、群馬県高等女学校の仮校舎となりますが、翌年、隣接地に新校舎が完成すると、移転していってしまいます。
明治三十年代後半には、維持運営が困難となり、売却も検討されています。

「春靄館」が息を吹き返すのは、明治四十二年(1909)のことです。

市教育会と、青年実業家団体の「同気茶話会」が中心となり、青少年の社会教育を目的に、図書館を設立しようという動きが湧きおこります。

中心となって活躍したのは、27歳の銀行員・山田昌吉をはじめ、意気盛んな少壮実業家達でした。

必要な図書は、個人および団体の寄付と購入によって集められました。

市も、厳しい財政状態ではありましたが、「春靄館」を永久無償貸与することでこれを応援します。
そうして、明治四十三年(1910)、高崎市最初の図書館私立として創立されることになります。

大正六年(1917)、再び「春靄館」に変化が訪れます。
「公会堂」を建設するために、「春靄館」は西方に移動され、別棟は取り壊されてしまいます。

創立以来、有志者からの寄付金で運営されてきた私立図書館ですが、大正八年(1919)ついに限界を迎えます。
施設・蔵書一切を市に寄付し、私立図書館から市立図書館になる訳です。

時代は更に下って昭和九年(1934)、「春靄館」の建物は老朽化が進んだということで、ついに解体されてしまいます。
しかし、ここからが昔の人の偉いところです。
昭和十二年(1937)、高崎公園内に新築された「武徳殿」には、「春靄館」の用材が再利用されたそうです。


一方、「春靄館」取り壊し後の新図書館は、昭和十年(1935)成田町に完成しますが、昭和十九年(1944)になって、疎開してきた東京鉱山監督局の庁舎に転用されてしまいます。

そこで図書館業務は、「春靄館」の用材で建てられた高崎公園内の「武徳殿」で、昭和二十三年(1948)まで行うことになります。
奇しき因縁とでもいうべき出来事ですね。

因みに、新図書館の建物は、現在「たかさき女性フォーラム」として現存していますが、今、解体のうわさも出ているようです。
「女性フォーラムも解体か (高崎新聞)」

「男女共同参画推進条例」を制定した高崎市としては、そのシンボルとしても残すべき建物だと思うのですが。

「武徳殿」はその後、改装されて「高崎市体育館」という味気ない名前に変わり、剣道・柔道・拳闘・重量挙げの施設として利用されます。
しかし、昭和三十八年(1963)、栄町に新しい市立体育館が建設されると、「武徳殿」は解体されてしまいます。
さしもの「春靄館」の建物も、もはやこれまでかと思いきや、どっこいまだ生き延びます。

昭和三十九年(1964)、高崎経済大学体育館として移設されるのです。

しかし、ここまででした。
昭和五十五年(1980)に、大学に新体育館が建設されると、ついに、ついに、「春靄館」はその姿を永遠に消してしまいます。

明治・大正・昭和にわたって96年間、実に数奇な運命で、さすらい続けた「春靄館」
願わくば、高崎のどこかの地に残っていて欲しかったと思います。
「春靄館」という教養に満ちた命名や、建物を市民のためにとことん使い続けた先人たちの心を思うにつけ、使い捨ての風潮が始まる昭和年代後半という時代を、実に残念に思うのであります。

(参考図書:「新編 高崎市史」「開化高崎扣帖」「高崎の散歩道 第五集」)


  


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2009年10月02日

姫と左近の悲恋物語

末広町6本辻から問屋町新道を通って、新幹線の高架下を潜ったところに、「左近ビル」というのが建っています。

オーナーの名前が左近さん、・・・という訳ではありません。
この辺の小字名を「左近」と言っていたのだそうです。

飯塚には、この小字名に関する悲しい話が伝えられています。

徳川時代も終わりに近い、十二代将軍・家慶(いえよし)の頃だそうです。
常陸国笠間城主・牧野越後守には跡目の男子がなく、生まれた女子を男子と偽って幕府に届け出ます。
男子として育てられる姫の遊び友達として近習を仰せつかったのが、藩士・島崎正就の嫡男で左近という若者でした。
表向きは若殿と近習の関係ですが、しかし、そこはやはり女と男。
長じるに従い、二人はやがて恋仲になっていき、重臣たちもそれとなく気がつき始めます。

一方、時の将軍・家慶には54人もの子どもがあり、それを各地の大名に嫁や養子として押し付けていたようです。
ある日、牧野家にも、将軍家の姫を嫁がせたいとの話が持ち上がります。

それを聞いた笠間藩は、大慌てに慌てます。
女子を男子と偽り、しかも近習と恋仲になっていることが幕府に知れては、お家断絶の一大事。
そこで重臣たちは相談の上、二人を笠間から密かに逐電させ、将軍家には病死したと届けることにしたのです。
しかも、後々明るみに出ることを恐れ、これまた密かに二人の後を刺客に追わせ、闇に葬り去ろうと謀ります。

ついに刺客に追い付かれ、左近が命を落としたのが、飯塚のこの地でした。
村人は、左近の亡骸を、この辺りにあった塚に葬ったそうです。
それから暫くして、左近の縁者だという武士が訪ねて来て、塚に卒塔婆を建てて供養したといいます。

そこで初めて、村人は島崎左近の名を知ったのではないでしょうか。
この塚を「左近塚」と呼んだそうですが、小字名もこの塚があったことによるのでしょうか。

ここまで読んできた方から、「姫はどうしたんだ、姫は!」という声が聞こえてきそうですね。

実は、ここから西北へ800mほど行った三国街道のすぐ脇、今の「ウエハラゴルフ練習場」の近くに、「花魁(おいらん)地蔵」と呼ばれるお地蔵様が建っていたそうです。

言い伝えでは、ここに男女の亡骸があって、女の着ている物が、この辺では見たこともない煌びやかなものだったので、村人はてっきり、この女は花魁で、若侍と心中したのだろうと思ったとあります。
そこで、供養のためにお地蔵様を建て、「花魁地蔵」と名付けたというのです。

でも、私はちょっと疑問に思うのです。
それなら二人一緒の場所に葬ってもよさそうなものですし、「花魁地蔵」一体だけというのも妙です。
思うに、二人は別々の場所で亡くなっていたのではないでしょうか。
左近は一命を賭してを逃がそうとしたのではないかと思うのです。
そして、左近「左近塚」付近で凶刃に倒れ、姫は「ゴルフ練習場」近くまで逃げてきたものの、追いつかれて殺害されたとすれば、筋が通ります。

「花魁地蔵」は、現在、飯塚町「長泉寺」門前に移されています。

「左近塚」は、もう跡形もなくなってしまったようです。
ところが、「左近」お地蔵さまになって、実は今も残っているのです。
そのお話は、また次回のお楽しみ。

《補足》
笠間藩牧野家には、備後守、越中守はいますが、越後守を任じられた人はいません。
史実と飯塚村の言い伝えは、どうも一致しないようです。
ただ、牧野家の跡目相続はいろいろと問題もあったようで、第六代藩主・牧野貞勝養子になって藩主になったものの、翌年、18歳という若さで他界してしまいます。
それを藩では、21歳で他界したと幕府に虚偽の報告を行ったうえで、また養子に家督を継がせるなどしています。(Wikipediaより)
それはちょうど、十二代将軍・徳川家慶と時代も一致します。
「姫と左近の悲恋物語」は、そんな噂をする旅人達の話に、村人達が尾ひれをつけて産まれたものかもしれません。
でも、例え作り話であったとしても、お地蔵さまに手を合わせる気持ちは、大切にしたいものだと思います。

(参考図書:「徐徐漂たかさき」「高崎の散歩道 第六集」「高崎漫歩」)

【左近ビル】

【ウエハラゴルフ練習場】

【花魁地蔵】


  


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2009年10月04日

左近と酒呑と縛られ地蔵

前回の記事に書いた「花魁地蔵」のある、「長泉寺」です。

「花魁地蔵」は、この山門の右側にあります。

以前は、紅い頭巾と前垂れを付けていたようですが、今は自前の衣装で佇んでいます。
頭部も、いつからか丸石が乗せられているようで、何だか悲しそうなお姿に見えてしまいます。

お地蔵様の後ろに、「花魁地蔵尊縁起」の額が掛けられています。
前回ご紹介した言い伝えと若干異なりますが、ご覧ください。

山門の左側には、仏教詩人・坂村真民の詩碑がありました。

「念ずれば花ひらく」という言葉に、「思うは叶う」というのが口癖だった母親を思い出し、ちょっと涙腺が緩んでしまいました。

「長泉寺」の境内には、小さな石仏がいろいろな所にそっと置かれているのですが、本堂の前に紅い前垂れをつけたお地蔵様が一体あります。

このお地蔵様が、前回お話した「島崎左近」と繋がりがありそうなのです。

明治の初め頃の話だそうです。
飯塚村の貧しい農夫が、近くの貝沢堰へ魚捕りに出かけました。
ところが、その日はちっとも魚が獲れず、「左近の森」で昼寝をしていると、夢の中にお地蔵様が現れて、川の中からこう言います。
「われは左近の地蔵である。
われを世に出して信仰するならば、必ず願いごとが叶えられるであろう。」


農夫が川底を探してみると、お告げの通りお地蔵様が出てきたので、これを丁重に安置して信仰し、仕事にも精を出すようになったそうです。
すると、この農夫の田畑は豊作が続き、次第に財をなしていきました。
農夫は、毎日お地蔵様の頭にお酒をかけて、感謝したそうです。

この話を伝え聞いた人々は、我も我もと「左近地蔵」を参詣するようになり、奉納のお酒が山のように集まりました。
農夫は、この酒を参詣人や村人たちに無料で振る舞ったので、村人は昼間から酒を飲み、仕事を怠るようになってしまいました。

これを案じた村役たちは、裁判所に訴え出ました。
すると、「不届きな地蔵である。」ということで、お地蔵様は荒縄で縛られ、大八車に乗せられて、しょっ引かれて行ってしまいます。
村人たちが、前のように仕事に精出すようになった頃、村役のところに一通の書状が届きます。
そこには、こう書かれていたそうです。
「出頭中の地蔵は、再三の取り調べにも黙して語らぬので、下げ渡す。」

何とも粋な話ではありますが、無事放免されたお地蔵様の身元引受人になったのが、「長泉寺」だという訳です。
そんなことから、このお地蔵様のことを「酒呑地蔵」とか「縛られ地蔵」とか呼ぶようになったそうです。

みなさんも、このお地蔵様にお酒を供えてみてはいかがですか?
「念ずれば 花ひらく」かも知れませんよ。

(参考図書:「徐徐漂たかさき」「高崎漫歩」)


【縛られ地蔵】


  


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2009年10月07日

神様・仏様 てんこ盛り

飯塚町「長泉寺」を訪ねた後、近くの「常福寺」にも行ってみました。
門前に、珍しい石仏があると聞いたからです。

ずらっと勢ぞろいしている石仏は、地獄で亡者の審判を行う「十王(じゅうおう)」という裁判官だそうです。

仏教では、死者は初七日から三回忌までの間、順次、十王の裁きを受けて、送り先が決まるのだとか。
品行方正ならざる私にとって、実に怖い話でありますが、昔の人も十王に裁かれるまでもなく、自身の罪は分かっていたのでしょう。
生前に十王を祀っていれば、罪を軽減してもらえると信じたかったようです。

真ん中で、ひときわ怖い顔をしているのが、「三途の川」の渡し賃(六文)を持たずに来た亡者の、衣服を剥ぎ取るという「奪衣婆(だつえば)」です。 →








← 頭が二つ乗っているのは、閻魔大王が持つという「人頭杖(にんとうじょう)」という杖だそうです。
この二つの頭は、「見る目・嗅ぐ鼻」といって、亡者の善悪を検知するのだとか。
そして、裁判結果を知らせるというのですが、その知らせ方がまた凄いのです。
重い罪の時は怒った顔の方から火を吐き、軽い時はもう一方の顔から白い蓮の花が出るのだそうです。

十王さまに、よおーっくお願いをしてから、門前の道を南に進むと、「夫婦薬師如来」のお堂がありました。

由来によると、大永三年(1523)に箕輪城主・長野業政によって祀られ、病気平癒、縁結びに霊験顕著とあります。

薬師様といえば、の病を治してくれる仏様です。
お堂の中には、「め」と書かれた額が奉納されていました。

薬師様の隣にもうひとつお堂があって、「如意輪観音」が安置されています。

「如意輪観音」は、頬杖をついている姿から、虫歯を治す神様とも言われているようです。
眼医者さんの隣が、歯医者さんというのは、なかなか面白いですね。

この薬師様が、なぜ「夫婦薬師」なのかは、由来にも書かれていません。


ただ、ここから200mほど東へ行ったところに、この薬師様と向かい合うように、西向きの「薬師堂」が建っています。


「常福寺」前の薬師堂を「西の薬師」、もうひとつの薬師堂を「東の薬師」と呼んでいるので、この二つを夫婦と見なしたのかもしれません。
別居中なんですかね。

「常福寺」のすぐ傍には、飯塚村の総鎮守、「飯玉神社」があります。

由来によると、もともとは「長泉寺」の屋敷稲荷として建立されたものなのだそうです。

一度焼失した後、氏子の奉賛金と献木により、十有余年を掛けて明治初年に完成したという、立派な社殿です。

境内に、昔、青年が力を競いあったという「力石」が置いてありました。

いやー、この辺り、とにかく神様・仏様がてんこ盛りです。
先人たちの信心深さに敬意を表しながら、家路につきました。

それにしても、日の落ちるのが早くなりました。

(参考図書:「徐徐漂たかさき」「高崎漫歩」)


【常福寺】

【夫婦薬師(西)】

【夫婦薬師(東)】

【飯塚町の飯玉神社】


  


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2009年10月09日

北の遠構え

「高崎の散歩道 第六集」の表紙に、どなたの挿絵か分かりませんが、中山道三国街道の分岐にあったという、「大津屋」(薬屋)が描かれています。

図書館のラベルで隠れていますが、右下に高崎-渋川間を走る「鉄道馬車」が描かれていますので、明治二十年代から三十年代の風情なのでしょう。
今の本町一丁目交差点の北西角ですが、現在は覚法寺の檀家専用駐車場になっています。

この辺も、すっかり街道の面影は無くなってしまいましたが、それでも、昔を偲ばせる建物がいくつか残っていました。

四ツ屋町側の歩道に、「高崎城遠堀跡」と書かれたタイルが埋め込んであります。 →

路地のように見えるのが「遠堀」の跡です。

今でも、この路地の下には水が流れているはずです。

「遠堀」というのは、高崎城下町をぐるっと囲むように巡らされた水路のことで、「遠構え」とも言います。

「遠構え」には七つの木戸を設けて、人の出入りを監視していたそうです。

「遠構え」の水は大橋町長野堰(新井堰)から取水し、三国街道の西沿いに南へ下り、この四ツ屋町で街道を横切って、東へ向かいます。

四ツ屋町「遠構え」跡の路地を通り抜けることはできませんが、ぐるっと回って成田町へ行くと、また「遠構え」跡が姿を見せます。


路地を入ったところにあるので、ちょっと見過ごしてしまうかも知れませんが、「猿田彦大神」が祀られています。
看板の裏には、ちゃんと「遠構え」の説明も書かれています。

この北には、「成田山光徳寺」があります。
昔は参道に住んでいた人たちが、を作っていたそうです。
「猿田彦大神」の幟に、「大門講」と書かれていますので、今もその人達が守っていてくれるのかもしれません。
ありがたいことです。

昔の成田山への参道は、三間(5.4m)足らずの幅だったそうですが、「遠構え」の水路を渡るために、石橋が架けられていました。
この石橋は、時の鳶職連の醵金により架けられたものだそうです。
ありがたいことです。

嬉しいことに、「遠構え」が道になった後、その石橋成田山境内の「太子堂」前に移設し、今も残されています。
先人たちの、物を大切にする気持ちと心意気には、頭の下がる思いです。

余談ですが、「成田山光徳寺」は比較的新しいお寺で、明治十年(1877)に千葉県成田山新勝寺の出張所として開設したそうです。
どうもそのきっかけとなったのは、前年の明治九年に高崎城内三の丸にあった、城主・大河内家の祈願寺「威徳寺」光徳寺の場所に移したことにあるようです。
ここは、江戸期に問屋年寄を長年務めた梶山家の持地で、寺を維持するために成田山の出張所を併設して、参詣者増を図ったのではないかと言われています。

その後、成田山出張所の賑わいに隠れるように、「威徳寺」の名は消えていきますが、その内陣が今でも成田山内に残っています。





また、境内にある「和田三石」のひとつ「上和田の円石」前の水屋は、高崎城の裏門を利用したものだそうです。

さらに、前出の梶山家の裏には、佐渡から三国街道を通って江戸へ運ぶを、一時保管する「御金蔵」があったといいます。
梶山家の前には、高崎宿でただ一ヶ所の「常設高札場」もあったそうです。
現在、その痕跡すらなく、知る人も少ないと思います。
願わくば、せめて、その跡を示す「石標」でも設置できないものでしょうか。

(参考図書:「高崎の散歩道 第十二集下」)


【高崎城遠堀跡】




  


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Comments(4)高崎町なか

2009年10月11日

知りませんでした、九蔵さん。

今日は予定を変更して、ぜひご紹介したいことがあります。

   ↓ 「九蔵稲荷」
「高崎市の歴史・北爪九蔵」で検索して、私のブログに訪問して下さった方がいらっしゃったようです。
同じキーワードで検索してみると、面白い記事に行き当たりました。

「荘内日報社」2008年10月21日の記事で、「町創設者 九蔵の墓参果たす 北爪家 子孫とも対面」というタイトルです。

え?荘内?山形県?北爪九蔵が???

北爪九蔵は、高崎藩主・酒井家次が元和二年(1616)越後高田藩へ転封になった時に、共に越後へ行ったという話は聞いていました。
なので、てっきり越後で亡くなったのだとばかり思っていたのですが、お墓が山形にあるということですか?

不思議に思いながら記事を読んで見ると、九蔵酒井家次の家督を継いだ長男・忠勝に付いて、信濃松代藩を経て出羽庄内藩に移り、そこで生涯を閉じていたんですね。
知りませんでした。

詳しくは、荘内日報社の記事をご覧ください。


また、九蔵町の方々が、「北爪九蔵研究会」というのを運営しているというのも、知りませんでした。
すごいですねー。
郷土を愛する気持ちの深さに、頭の下がる思いです。
一度、メンバーの方々にお会いしたくなりました。

高崎の他の町にも、こういう団体があるのでしょうか。
もしあったなら、ネットワークを作って、お互いに交流できたらいいのになぁ、と思いました。

改めて、検索をして私のブログに来て頂いた方に、感謝申し上げます。
ありがとうございました。

  


Posted by 迷道院高崎at 08:48
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2009年10月14日

蛇口から魚?

「北の遠構え」で、この水は大橋町長野堰(新井堰)から取水しているとご紹介しました。

現在の「新井堰」です。
右側に水門がありますが、これが「遠構え」の取水口です。

大きな欅の木の下の水路が、当時を偲ばせる雰囲気で流れています。

高崎城下を縦横に流れていた「新井堰」からの水は、今では想像もできないほどの清流だったようで、水路の水は飲料水にも使われていたそうです。

しかし、明治になって高崎の人口が急激に増えてくると、水路への下水流入により、飲料水としては適さない状態になっていきます。
家庭用の井戸を掘る人も出てきましたが、素掘りの水路から浸透した汚水により、良質の井戸水を得ることは難しかったようです。

そこで、高崎中心部の15ヵ町が連合して、「新井堰」から新たに飲料用の簡易水道を敷設することとします。

竣工したのは明治二十一年(1888)で、水量は高崎の全戸に給水できる量でしたが、給水は15ヵ町連合内に限られたため、恩恵に被れたのは全戸のわずか4割程度だったようです。

その簡易水道も、沈砂池貯水溝を設けた程度の、ごく簡単なものであったので、大雨や夕立があったりすると、すぐに濁り水が出たといいます。
それどころか、ボウフラミミズ、時には小さなまで蛇口から飛び出してきたというから驚きです。

そんな飲料水の状態でしたから、腸チフスに感染する人も多く、明治二十一年には高崎市街で感染者数290人という大発生が起きています。
それは、歩兵第15連隊の兵営内でも同じだったようです。
明治三十三年(1900)に初代高崎市長となった矢島八郎氏が、真っ先に取り組んだのが「安全な上水道」の敷設で、これを市是として宣言しています。

それから10年後の明治四十三年(1910)、市長3代にわたって取り組んできた剣崎浄水場が完成し、高崎市全域に上水道が供給されて、やっと市民は安全な水を飲めるようになった訳です。

そして今、信州大学の中本信忠教授に「高崎の水は日本一おいしい」と言って頂いたおかげもあってか、剣崎浄水場の水は「高崎百年水」としてペットボトル販売されています。

中本教授の論文は、こちらからご覧ください。

19頁~20頁にかけて、高崎市にあったキリンビール工場のエピソードと共に、明治に作られた剣崎浄水場の凄さが紹介されています。

ブログタイトルの下には、「蛇口から魚」ならぬ、「目からウロコの話」とあります。
さてさて、高崎の町づくりも、明治という時代をもう一度見直してみる必要はないでしょうか。
意外と、「ヒョウタンから駒」が出たりして・・・。

(参考図書:「新編・高崎市史」「実録たかさき」)


【新井堰】

【剣崎浄水場】

【高崎市水道記念館】


  


Posted by 迷道院高崎at 12:59
Comments(6)高崎町なか

2009年10月16日

「新井堰」の人脈と水脈

高崎城下の重要な水源であった「新井堰」は、新井喜左衛門という人が開鑿したので、そう呼ばれたと言われています。

この人は、貝沢「八幡屋敷」の主・新井若狭守の惣領で、慶長(1596~1615)の頃の人だそうです。

井野川「貝沢堰」も、この人が開いたと言われますので、水利土木技術に長けた人だったのでしょう。

喜左衛門秋元但馬守に仕えていたといいます。
慶長の頃の秋元但馬守というと、前橋の初代総社城主だった秋元長朝(あきもとながとも)でしょう。
この人は、困難と言われた「天狗岩用水」を開いたとして有名ですが、喜左衛門の技術力によるところが大きかったのかもしれません。

秋元家は、代々、土木・水利事業に尽力しています。
秋元長朝の子・泰朝(やすとも)も、甲斐谷村藩に移封になった後に「谷村大堰」をつくり、その子・富朝(とみとも)は富士山の雪代の出水によって流出する田畑を守るため、赤松数万本を植林した「諏訪森」を造成しています。
さらに、その養子となった喬知(たかとも)も、河口湖の水を富士吉田まで抜く「新倉掘抜(あらくらほりぬき)」を開鑿しています。

また、長朝は、総社城主ではありますが、高崎と深い関係があります。
戦国時代、北条氏に属して深谷城を守っていた長朝は、小田原城落城と共に降伏し、その後は隠棲していました。

その長朝徳川家康に推挙したのが、初代高崎城主井伊直政でした。 →
直政は、長朝の力量を高く評価していたのでしょう。
徳川家康豊臣秀吉の命で関東を治めることになった時、交通の要衝であった上野国の守りを任されたのが、井伊直政です。
その右腕として、信頼する長朝総社城主として呼び寄せたのも、おそらく直政だったのではないでしょうか。

井伊直政箕輪城から高崎城に移ったのは慶長三年(1598)、秋元長朝総社城主になったのが慶長六年(1601)ですから、高崎城下の水路を設計・施工したのが、長朝および家臣の喜左衛門であったということは、充分想像できます。
にもかかわらず、総社城主になった長朝「天狗岩用水」開鑿の相談に来た時、直政「雲に梯子をかけるようなもので、無理だ。」と言ったというのですから、面白い話ですね。

高崎城下を縦横に走る水路の取水口が「新井堰」ですから、ここは大変重要な堰だった訳です。
水戸の天狗党京都へ上る際に高崎を通過するという情報があり、万が一この「新井堰」の水門を閉められて、城下に火でも放たれたら大変と、高崎藩「新井堰」を厳重に警備したといいます。
また、「高崎五万石騒動」の時も、農民が「新井堰」を占拠しようという企てもあったようです。

はその大切さゆえに、たびたび争いの元にもなってきました。
でも、その割には、大切に使っていないような気もします。

地球の表面積の約80%に覆われているといいます。
でも、地球上にある水の97.5%海水で、淡水はわずか2.5%です。
そしてその淡水のほとんどは、北極や南極のとして存在しています。
人間が利用できる形で存在する淡水は、なんと0.01%以下だと言われています。
地球上の水を200リットルのお風呂一杯分とすると、大さじ2杯分程度しかないんだそうです。

片や、人間が1日に摂取する水の量は、2.5リットルだそうです。
人間の体重に占める水分量は、50~70%と言われますから、まさに命の水です。

日本は水の豊かな国のはずですが、それでも水を輸入しています。
しかも、バーチャルウォーターという形で、世界中から大量の水を輸入しているのだそうです。↓
「21世紀は水の世紀」(財団法人 日本ダム協会)

さて、この「堰」の水門を閉められたら・・・、どうしましょう?

  


Posted by 迷道院高崎at 09:01
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2009年10月18日

電車みち

昔、高崎の街なかを「チンチン電車」が走っていたという話を、聞いたことがあるかもしれません。
あるいは、「実際に走っているのを見たよ。」という、ご年配の方もいるでしょう。
私は残念ながら、そのレールが撤去されるという話を、かろうじて記憶している程度です。

左の地図は、昭和九年(1934)の高崎市ですが、赤く塗ってあるところが「チンチン電車」が通っていた、いわゆる「電車みち」です。
高崎駅西口から、新(あら)町→田町→本町を通って三国街道を北上し、渋川に至ります。

住吉町からは、大きく右に迂回して、また三国街道に戻っていますが、これは信越線と交差するための陸橋を三国街道上に設けることができなかったからなのでしょう。

ここで、少し「チンチン電車」の歴史を、ご紹介しておきましょう。

明治十七年(1884)、上野-高崎間に鉄道が敷かれた後、高崎-渋川間の鉄道敷設を目論んだようですが、蒸気機関車を走らせる鉄道は、建設費が大き過ぎたため、一度は断念しています。

そこで次に考えたのは、比較的建設費が少なくて済む「馬車鉄道」でした。
レールの上をに曳かせた客車を走らせようというのです。 →

折りしも横川-軽井沢間にアプト式鉄道が開設され、それによって廃止となった碓氷馬車鉄道の資材一切を転用することができ、開業したのが明治二十六年(1893)でした。

という訳で、最初はがポックリ、ポックリ客車を引いていたんですね。
2頭立てだったようですが、渋川までどのくらいの時間がかかったのでしょう?
日本橋-新橋間の鉄道馬車が、やはり2頭立てで平均時速8km位だったそうですから、それで高崎-渋川間の路線距離21.5kmを割ると、2時間40分位になりますね。

「馬車鉄道」「電気鉄道」に変わり、「チンチン電車」が走るようになるのは、明治四十三年(1910)のことです。
電化により、渋川まで1時間で行けるようになりました。
そして翌年には、渋川から伊香保まで延伸され、大正十年(1921)には東武バスに買収されて、「東武電鉄高崎伊香保線」と呼ばれるようになります。

しかし、昭和に入って国鉄上越線が全通し、ついで自動車時代が到来すると、「チンチン電車」は次第にバス運行に切り替わっていきます。
そして昭和二十八年(1953)、ついに「チンチン電車」は廃止、昭和三十年(1955)には軌道も撤去されてしまいます。

今、「電車みち」という言葉も消えてしまいましたが、その名残をわずかに残している道があります。「新井堰」のすぐ東です。
「チンチン電車」住吉町から大きく右に迂回していた、その入り口がこの細い路地です。
当時の道幅は、今の倍くらいあったそうです。

路地を抜けるとすぐ「長野堰」に突き当たりますが、「チンチン電車」は、この「長野堰」に架けられた鉄橋を渡り、現在の児童公園の中を抜けて走っていました。


↓下(左)の写真が、長野堰鉄橋を渡る「チンチン電車」の雄姿です。


児童公園を抜けると、大橋町-昭和町の道路と交差します。

その先に真っすぐ続いているのが、「電車みち」です。

北高崎駅(元・飯塚駅)のホームの手前で道は直角に曲がっていますが、「チンチン電車」は真っ直ぐ進んでいたのです。

この手前の直線部分から、徐々に勾配を付けて上り、信越線を跨いでから再び下って行きます。

この陸橋部分の高く盛り上げた所を、「電車山」と呼んでいたそうです。

当時は、「電車山」を築くための土を掘った跡が池になって、「電車池」と呼ばれていたそうです。
けっこう大きい池だったようで、貸しボートが出たり、魚釣りや水泳までできたといいます。

「電車山」を下りた先の「電車みち」が、現在、スポーツデポ東側の道です。
三国街道に出る手前に、電車を整備するための「飯塚車庫」がありました。
現在の、飯塚本町公民館の辺りですね。

さて、今となっては懐かしい思いのする「チンチン電車」です。
残しておけば、素晴らしい観光資源だったと思う気持ちもあります。
しかし、これも時代の流れ。
「倉賀野河岸」「鉄道馬車」も、「人力車」「輪タク」も、そうやって世代交代してきました。
「ガソリン自動車」も、いずれその役割を終える時が来るのでしょう。

でもでも、主役を降りた後だからこそ、価値ある宝になることがよくあります。
捨ててしまう手は、ありませんよね。

(参考図書:「新編・高崎市史」「高崎の散歩道・第六集」「思い出のチンチン電車」)
※昔の写真をご提供頂いた、あかぎ出版様、田部井康修様に厚く御礼申し上げます。


【「長野堰鉄橋」のあったところ】

【「電車山」のあったところ】

【「飯塚車庫」のあったところ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
Comments(24)高崎町なか