2018年11月25日

史跡看板散歩-117 旧第二国立銀行と茂木銀行跡

普通に歩いていたら、まず気付かないと思います。


こんな奥まった所に建ってるんで。



明治三十年(1897)の地図で見ると2つの銀行はこんな位置関係で、史跡看板は「第二国立銀行」の跡に建っていることになります。


この二つの銀行開業に大きな力を果たしたのが、高崎出身の茂木惣兵衛(もぎ・そうべえ)です。
茂木氏は横浜在住ながら、高崎最初の図書館設立や八幡八幡宮の「唐銅燈籠」寄進など、高崎発展のための援助を惜しみなく施した人物です。

しかし不思議なことに、というか残念なことに、そのことを知る高崎市民はあまり多くなさそうです。

高崎にはありませんが、遠く熱海の梅園には茂木氏の功績を称える大きな顕彰碑が建っています。
過去記事「惣兵衛の梅」で、茂木惣兵衛という人物の人となりを知って頂けたら嬉しいです。

看板には「横浜興信銀行」の写真が載っていますが、その前身「茂木銀行」の姿が明治三十三年(1900)発行の「高崎市街商家案内寿語録(すごろく)」に描かれています。


絵の右端に描かれている茶色のレンガ塀(着色は迷道院)は、現在常盤町「山田文庫」に移築され現存しています。


移築された経緯ははっきりしませんが、「第二国立銀行」「茂木銀行」の歴史を見ると、何となく分かってきます。
過去記事「和風図書館と茂木銀行」をご覧ください。

そしてこれは余談ですが、高崎には茂木惣兵衛が経営していた製糸所もあったんです。
  ◇高崎の絹遺跡(第三話)

高崎の偉人として、もっと知られてよい人物ではないでしょうか。


【旧第二国立銀行と茂木銀行跡の史跡看板】


  


2018年11月20日

号外!連雀町の百年写真展開催中!

連雀町にある、安政三年(1856)創業の「樋口陶器本店」


今そこで、「連雀町の百年懐かしい写真展」を開催中です。



既存の写真集には載っていない、貴重な写真が展示されていますので、必見です。
また、今は手に入らない昔の陶器が格安で売り出されています。

展示期間は、今月30日(金)までの予定です。
お見逃しなきよう、ぜひ足をお運びください。


【樋口陶器本店】



  


Posted by 迷道院高崎at 15:26
Comments(4)高崎町なか◆高崎探訪

2017年02月19日

史跡看板散歩-32 高砂町(2)

高砂町二つ目の史跡看板、「薬師如来」です。


ただこの看板の文章、話が行ったり来たりしていて、失礼ですが、ちと分かりにくい。

昭和五十二年(1977)発行「高崎の散歩道 第5集」金井恒好氏の文章を引用させて頂きましょう。
これがたぶん、この薬師のことを書いた最初の文だと思います。
”あんこや”(北川製アン所)の立看板の所で、小川が二またに分かれている。
その分去りに、古い石宮と合掌した小さな石仏が五、六体、脇に恵比寿、大黒が一対、オイラン草の花かげに鎮座していた。
石宮の記年名は寛永二乙丑年七月十日(1625)、かなり古いものである。
向い側の松下染物店に立ち寄って、おばあさんに薬師様の話を聞いてみた。
この地は高崎城の鬼門にあたるので、江戸時代に高崎の殿様が鬼門除として薬師様を祀った。
そこの前の小川は、末広町で長野堰から分かれた用水で薬師堰という。
明治になってから九蔵町の大雲寺に合祀されたが、終戦直後の混乱期に町内に不幸が続いたりしたので、年寄りが『あそこに薬師様があったはずだ。あの薬師様をもう一度勧請しなおして、町内の無病息災を祈願しよう』ということで、再度ここに安置することになったという。
その後、正法寺にお願いして、鬼門除薬師から厄除薬師に勧請しなおして、現在は近所の人達で大切にお守りしているということである。」

というのですが・・・、殿様が祀った薬師様にしては・・・、やけに小さいなぁ・・・と。

実は、合祀したという大雲寺には、いまも立派な薬師如来塔があるんです。

石塔には、「天保三年(1832)星宿壬辰春三月吉日 当山十七世天巖以建焉」と刻まれてるらしいので、住職が建てたものでしょうが、それがこの大きさです。

大雲寺というお寺は、弘治年間(1555~1557)箕輪村に創建、慶長四年(1599)に現在地へ移転したという由緒ある寺院です。
そして、まさに高崎城の鬼門に位置します。
さらに、井伊直政彦根に移って城下河原町に建てた寺が、名前も同じ「大雲寺」(高崎大雲寺の末寺)、そんなお寺です。

因みに、大雲寺には、少し前まで架空上の人物とされていた、軍師・山本勘助の子孫の墓もあります。

高崎城の鬼門除薬師、何で初めから大雲寺内に祀らなかったのかなぁ・・・。



  


2017年02月12日

史跡看板散歩-31 高砂町(1)

高砂町には、二つの史跡看板が建てられました。

ひとつは、「庚申塔と道祖神」



看板にあるように、ここは高崎の城下町を囲む遠構えに設けられた七口のひとつ、「江木新田口」でした。
なので、看板は「江木新田口の道祖神」とでもしてほしかったところです。

「江木新田」は、宝永六年(1709)に江木村の新田として分村された地区だそうです。
(関戸明子・奥戸井尚氏著「高崎城下町の形成過程と地域構成」)

天明三年(1783)の浅間山大噴火で、「江木新田」も軽石や降灰に覆われました。
大雲寺持ちとなっていた土地は堆積物を土中に埋め、その上に家を建てるようにしました。
そして明治五年(1872)、その大雲寺持ちの土地と「江木新田」とを合わせてできたのが、現在の「高砂町」だということです。
(田島桂男氏著「高崎の地名」)

看板にある「高砂町五本辻」がここです。


「ワタナベ薬局」「大栄高崎卸売青果市場」の間の細い道が、「大類里道」
「青果市場」の前を斜め向こうに行く道が昔の「実政(さねまさ)街道」前橋「実政の渡し」へ至る道です。

その「実政街道」を130mほど行くと、長野堰に架かる「高砂橋」です。
長野堰改修によって、雰囲気のよい川辺の遊歩道が整備されています。

右側のビルが建っている場所には、かつて「川原友禅染工場」があり、熱海にあるブルーノタウト設計の「日向家別邸」に使われた壁布は、ここで染められました。→「長野堰とブルーノ・タウト」

そして「川原友禅染工場」が染物を洗っていた長野堰の対岸では、「岩田屋水車」と呼ばれる大きな水車が回り、米を搗いていました。

写真は大正三年(1914)の三代目の水車だそうですが、昭和十九年(1944)に金属供出で失ってしまいます。





その後しばらくは、車軸台だけが残っていましたが、今はそれもありません。

「高砂橋」から50mほど先に、二つ目の史跡看板があるのですが、それは次回ということに。


  


2017年01月29日

史跡看板散歩-29 一里塚跡(九蔵町)

九蔵町一里塚跡にも、史跡看板が建ちました。




看板にもあるように、高崎市域にあったという三つの一里塚ですが、現存するのは「上豊岡(藤塚)の一里塚」だけです。

九蔵町にあったという一里塚はその痕跡も残っておらず、描かれている絵図面もないので、場所を推測するには文献の記述によるしかありません。

たぶん、「九蔵町の一里塚」のことが最初に出てくるのは、宝暦五年(1755)に西田美英(よしひで)が著した「高崎寿奈子」(たかさき・すなご)でしょう。
九蔵町之内
一、東横町 鉦打町(かねうちまち)へ出る。是より前橋、東上州、下野への通路。この町人家の裏に一里塚あり、中頃の大路あり。」

次に出てくるのが、寛政元年(1789)に川野辺寛が著した「高崎志」で、巻中の「九蔵町」の項にこうあります。
一里塚 裏町通町通リ、西側人家ノ裏ニアリ、今ハスガレテ其カタバカリ残レルノミ、上ニ稲荷ノ小祠アリ、是昔ノ本道也、」

明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した、「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)弐巻「通町」の項には、こんな記述があります。
老平云、通町ハ旧時中山道ノ往還ニシテ、・・・又本町ヨリ往還今ノ椿町ヨリ法華寺ノ前ヲ南ニ折レタリ。
其証ハ九蔵町(今ノ大雲寺ヘノ曲尺手ノ角)隅ノ屋敷ニ一里塚ノ稲荷宮アリ。其向頬天野某ノ背戸ニ千間宮アリ。此往還タルノ旧趾也。」

上記三書に出てくる「中頃の大路」、「昔ノ本道」、「旧時中山道」というのは、看板にも書かれていますが、井伊直政が高崎城下を開いた頃の「最初の中山道」のことです。

「最初の中山道」は、本町から真っ直ぐ椿町に入り「法華寺」に突き当たって南へ曲がり、通町を抜けて東へ折れ、佐野→中居→下之城を経て倉賀野の永泉寺前へ出るというルートでした。
いま一般的に「旧中山道」と呼ばれているルートは、酒井家次が城主となってから付け替えられたものです。


三書に書かれていることを総合すると、「九蔵町の一里塚」は、
「最初の中山道通り西側の人家の裏にあり、大雲寺へ曲がる角の屋敷に一里塚の上にあった稲荷宮、その反対の天野という家の後ろに千間宮(浅間宮?)がある。」
ということのようですが、これだけではまだ一里塚の場所ははっきりしません。

しかし、その後の研究が進んだのでしょうか、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」では、相当詳しく記述されています。
一里塚ノ趾
舊前橋道、九蔵町五十五番地ニアリ、明治元年ノ頃ハ人家ナク、塚上ニ一里塚稲荷ノ小祠アリシモ湮滅其趾ヲ止メズ、
後年土中ヨリ祠ノ礎石トモ見ルベキ六角形ノ花崗石、基石ヲ發見ス、
今隣地五十六番地反町徳太郎氏ノ後庭ニアルモノ是ナリ、
塚ハ文政ノ頃マデハ僅カニ存セリト云フ」

「九蔵町むかしがたり」の著者・宮野入孝氏が作成した、「明治三十七年(1904)九蔵町住民図」を見ると、五十五番地がどこかが分かります。
五十六番地・反町徳太郎氏の家も描かれています。


昭和六十三年(1988)発行の「図説 高崎の歴史」では、石原征明氏の記述でこう書かれています。
江戸日本橋から二十七里目の一里塚跡は、九蔵町の元だるま紺屋屋敷裏手にあった。」

「だるま紺屋」については、「高崎市史 下巻」「染色業」の項に、こうあります。
染色業ハ慶長年中箕輪ヨリ移リ元紺屋町ニ住シ、斯業ヲ營ミシヲ始トス、
今日ヨリ凡ソ二百年以前九蔵町ニ橋本某開業シ、爾來數代今日ニ至リ盛ニ營業セルモノアリ」

前掲の「九蔵町住民図」五十四番地に、「万染物 落合庄平」とありますが、ここの屋号が「橋本屋」で、商標が「だるま」なのです。


ここまでくれば、「九蔵町の一里塚」の場所はもう特定できたようなものです。
ただひとつ、「高崎志」「西側人家ノ裏ニアリ」という記述とは食い違いますが、通りを挟んで東西にあったと考えれば良いのでしょう。

史跡看板が建っている場所は、文献の位置とは若干ずれているように思いますが、当たらずとも遠からずということで。

次回は、もうひとつの一里塚跡へ行ってみましょう。

【九蔵町の一里塚跡史跡看板】



  


2017年01月22日

史跡看板散歩-28 九蔵稲荷

今回は九蔵町正法寺(しょうぼうじ)本堂右奥にある、「九蔵稲荷」です。





「九蔵町」という町名を見て、九つの蔵があったのかと思う方もいるようですが、看板に書かれているように「北爪九蔵」という人物に由来しています。

大坂夏の陣で手柄を立てたと伝わっているのですが、どんな手柄を立てたのかは田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から、講談調の名調子でお楽しみください。
元和元年(1615)大坂夏の陣がおこった。
徳川方の一武将である高崎城主酒井家次は武士の他に高崎城下から四人の町人を選んで従軍させた。
北爪・梶山・須藤・反町の四人、これを高崎城下四人衆という。
酒井の軍は中山道を大阪へ向かったが、北爪一人は酒井家の旗印をふところにして東海道を進んだ。
・・・大阪城下は乱戦混戦の修羅場を現じた。
そんな中で北爪はひとり主君に離れて、大阪城中に迷い込んだ。
必死の血戦のなかで、一町人の迷い子を、さして気にかけるものもなく、北爪はいつの間にか城中の一つの矢倉にたどりついてしまった。
高い矢倉から見おろせば、下は敵味方入り乱れての戦闘である。
しばしはわれを忘れてながめていたが、ふと気がついてみると、自分は酒井家の従臣である。ふところには酒井家の旗じるしがある。
そうだ、これだ。そう気がついた北爪はその旗じるしをさっとなびかせて矢倉の窓からひるがえした。
高い矢倉からひるがえった旗は剣かたばみの紋所、まがう方なき酒井家の旗じるしである。
徳川方は、酒井家次が大阪城中一番乗りをしたぞ、あれに続けとばかり勢いづいた。
大坂方は必死に守ったのに、はや敵に乗り込まれたかと、意気阻喪した。
こうして大阪落城のきっかけをつくったのは関東の片田舎、上州高崎の一町人だった。」

酒井家次はその功績で五万石から十万石に加増されて越後高田藩主として転封、九蔵家次に従って高田へ移ります。
屋敷跡に残された稲荷社を、人々はいつか「九蔵稲荷」と呼ぶようになりました。

昭和十年(1935)「九蔵稲荷」正法寺境内に移される際に発行された「九蔵稲荷再興縁起」に、こう書かれています。
(北爪九蔵)に依りて命名されたるわが九蔵町は、かうして永遠に栄えて行くのであります。
しかも九蔵の置き土産は独り町名ばかりでなく、彼が信仰怠らざりし屋敷神であった稲荷の神霊が北爪氏の退転後も九蔵稲荷と呼ばれて、地元の人達から崇敬されて来ました。
それが即ち大黒屋呉服店(二十・二十一番地)裏庭に現存する石宮であります。
然るに此由緒古き九蔵稲荷、謂はばわが町内の産土神とも見るべき九蔵稲荷が年久しく閑却されて、今や荒廃に帰せんとしつつ軈(やが)てその来歴をさへ知る者なきに至るべきを憂ひ、茲に古老に質し旧記に徴して後世の為にこの縁起を作り、併せて祭典復興、町内円満商売繫盛をこの神前に祈る次第であります。」

「九蔵稲荷」があった「大黒屋呉服店」と、「正法寺」はここです。


「正法寺」の由緒は、「寛文年中(1661~1672)ヨリ数度ノ類焼ニテ旧記不詳」ということですが、「新編高崎市史資料編14」によると、開山は本龍院日敬、文禄二年(1593)創始とあります。
享保十年(1725)と明治十三年(1880)にも火災に遭い、しばらく木造の仮本堂でしたが、昭和五十年(1975)に現在の本堂が建てられました。


寺紋は「日蓮宗橘」(井筒に橘、井桁に橘)です。


最近テレビで、似たような紋をよく見かけませんか?


頭巾の「井桁」井伊家の旗じるし、胸の「丸に橘」井伊家の家紋。
井伊家の初代・共保(ともやす)は「井戸」の傍らで生まれ、そこには「橘」の木が生えていたとかいう話かららしいです。

「日蓮宗橘」は、その井伊家の「井桁」「橘」がひとつになったような紋です。
それもそのはず、日蓮宗の開祖・日蓮上人は、井伊家から分流した貫名(ぬきな)家四代目・重忠の四男なんだそうです。

井伊直虎が養育し後に徳川四天王の一人となる井伊直政、その井伊直政がつくった城下町高崎、大坂夏の陣で徳川方を勝利に導いた北爪九蔵、井伊家とつながりのある日蓮上人の寺紋を掲げる正法寺、そこにある「九蔵稲荷」
大河ドラマの舞台となってもおかしくない高崎だと思うのですが、その高崎自身がピクリとも動かないのはなぜ!?

「正法寺」には、もう一つご紹介したいものがあります。
この、ちょっと猫背のお地蔵さま、「夜泣き地蔵」というんだそうです。

過去記事「九蔵町むかし探し」に書いたことがありますので、そちらをご覧ください。

次回は、九蔵町にあったという一里塚跡へ行ってみましょう。


【九蔵稲荷】



  


2017年01月15日

史跡看板散歩-27 御伝馬事件供養碑

「延養寺」境内にある、もう一つの史跡看板、「御伝馬事件供養碑」です。




看板には、「経緯が碑に刻まれています。」とありますが、漢文で書かれていてちょっと腰が引けます。
ま、でも、文字を追えば、その言わんとすることは何となく分かるのですが。


御伝馬事件140年を記念して平成十四年(2002)に造られた石玉垣には、現代文で刻まれているのですが、これがまた文字が見にくい。


過去記事「駅から遠足 観音山(2)」にも「御伝馬事件」の顛末が書かれていますので、そちらをお読み頂きたいと思います。

ところで、過去記事にも出てきて、看板にも書いてある「連雀町関根氏」とは、講金世話役・関根作右衛門のことで、この人は「高崎五万石騒動」で農民四千人余りが高崎城へ訴願に押し出した時にも、農民に同情して先頭に立って炊出しの世話をしたという立派な人物です。

そのくだりは、細野格城氏著「高崎五万石騒動」(現代語訳:佐藤行男氏)に、こう書かれています。
この時連雀町の関根作右衛門氏は大いに百姓側に同情を表され、百姓に昼食を出してやろうと同役の御用達講金世話役達へ早速参会したいと通知しました。
この通知に接したところの人々はすぐ関根方へ駆けつけ炊きだしの用意をして振る舞うということを決めました。
また同町の青果屋の小板橋彦次郎氏他一軒より幾樽となくたくさんの漬け物が贈られたり、通町のこんにゃく屋ではおでんを何千串となく差し出されたり、その他白湯、茶などを用意して接待した家は数限りなくありました。
何れも皆百姓に同情の気持を表し、親切にいろいろな便宜を与えてくれたので、一般の百姓たちの喜びはまた格別で、初め大総代の注意に三、四日分の弁当を携帯するようとのことでありました。このように歓待を受けようとは思いもよらず、意外の厚情に涙を流す者も随分見受けられました位でございます。」

今は横浜銀行になっていますが、ここに関根家の大きな屋敷があったそうです。


もう一人の「寄合町中島氏」とは、絹問屋を営む中島伊平です。


中島家の屋敷も煉瓦蔵造りの立派な建物で、明治二十六年(1893)の「近衛師団小機動演習天覧行幸」の際には行在所として、明治三十五年(1902)の「皇太子殿下東北地方行啓」では御旅館として用いられましたが、今は跡形もありません。


両家の跡地に、史跡看板を建てられないものでしょうか。


【御伝馬事件の史跡看板】


【関根作右衛門邸跡】


【中島伊平邸跡】



  


2017年01月08日

史跡看板散歩-26 文学僧・良翁

新町(あら町)「延養寺」です。


史跡看板は、山門を潜った左手にあります。



史跡看板は、文学僧と呼ばれる二十四世住職・良翁師を書いていて、「延養寺」のことについては書かれていません。
せっかくなので、平成十一年(1999)延養寺発行の「文学僧 良翁について」(森田秀策氏著)から、「延養寺」の部分を抜き出してみます。
延養寺は吠瑠璃山(べいるりさん)正法院と号し、真言宗古義高野派で高野山大乗院の末寺です。
開山は慶覚法師という方で、足利尊氏が筑紫にいた時の祈禱師であったといいます。ですから尊氏の守護仏でした弘法大師作といわれる薬師如来の石像一躯を授けて本尊としてきたといわれます。
鎌倉時代の至徳年間(1384~1387)になって岩鼻村(現在の岩鼻町)に道場を設けて、その名を延養寺にしたといわれます。
その後、上杉氏が東国の管領になってから、一時平井村(現在藤岡市)へ移った後、再び岩鼻に移りました。そして八世の良清の代になると、箕輪城主長野業政に帰依せられ、永禄四年(1561)西明屋村(箕郷町)に移りました。
天正四年(1576)、武田信玄から朱印を賜り、慶長三年(1598)十二月、十二世弘算の時に井伊直政に従って高崎の地に移り、東西四十二間、南北四十六間の土地を拝領しました。」

上の文中、「岩鼻村に道場を設けて、その名を延養寺にした」とありますが、岩鼻の字名に、その名も「延養寺」という所があるので、きっとこの辺りにあったのでしょう。


良翁師については、「高崎新聞」に詳しい記事があります。
     ◇高崎名僧列伝 「文学僧」といわれた良翁
「佐野の舟橋歌碑」については、6年前に「隠居の思ひつ記」で書いています。
     ◇鎌倉街道探訪記(14)

史跡看板にはありませんが、「延養寺」には高崎市指定文化財になっている「円空作神像」というのがあるらしいです。


円空仏は群馬県内に15体あり、その中では4番目の大きさだそうです。
「底面に梅の図が描かれているので、天神像とも考えられる。」とありますが、「延養寺」ではずっと「足利尊氏像」として伝わってきたとか。

円空さん・・・。


【延養寺】



  


2016年12月18日

史跡看板散歩-25 麴屋と火伏稲荷

創業326年の「金沢米穀店」の斜向かいにあるのは、創業450年を越えるという「麴屋」です。




「麴屋」の歴史については、「高崎新聞」に詳しく紹介されています。

また当主・飯島家代々の歴史については、いつも歴史の深掘りをしてらっしゃる箕輪初心:生方氏のブログに詳しいので、興味ある方はそちらをご覧ください。

蔵造りの工場は、麴だけに、実によい風情を醸し出しています。


解体された蔵の中にあったという「火伏稲荷」は、いま店内正面に祀られています。


その造作の見事さは、素人の迷道院にも充分伝わってきます。


まだまだ高崎には老舗と呼ばれるお店が残っており、あるいは店は閉じても蔵にお宝が眠っているという家があるはずです。
それらを、「まちかど歴史博物館」として一般公開して頂けたら嬉しいのですが・・・。


【麴屋】



  


2016年12月11日

史跡看板散歩-24 金沢米穀店

今日は、「善念寺」参道前にある、創業以来326年という老舗のお米屋さん「金沢米穀店」です。




明治三十七年(1904)発行の「群馬縣營業便覽」にも、ちゃんと載っています。


軒が歴史を語っています。


店内はもっと語っています。


十五代目となる専務取締役・金澤富夫さんは、もっともっと語っています。

金澤さんは「高崎市史の会」理事もなさっていて、高崎の歴史の中での「金沢米穀店」の在り方や、高崎の町づくりについても深く考えておられます。

NPO法人「DNA」(Design Net-works Association)のインタビュー記事をご覧ください。

上州テレビ「高崎わたしばなし」にも出演され、いいお話をされています。
どうぞお聴き下さい。

嬉しいなぁ。


【金沢米穀店】



  


2016年12月04日

史跡看板散歩-23 善念寺

元紺屋町にある、「善念寺」です。




「境内に『和田の三石』の一つ『円石』(まるいし)があります。」と書かれています。
これが、そうです↓


実はこれ「円石」の半ぺたでして、もう半ぺたは別の場所にあります。
土屋老平(おいひら)が明治十六年(1883)に書いた「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)に、こうあります。
老平云、上和田円石、古時善念寺前石橋ニ架シ由。
高崎志云、或人曰、円石ハ上和田の畠中ニ在テ最大石也。享保ノ末善念寺ノ住僧、其地主ニ請テ石工ニ命ジ切シメテ、門前橋トス云云。
予思フニ、然有ケム、現在今二面ニ存ス。
一ハ善念寺庫裡庭上池ノ汀ニ建レリ。
一ハ父武居世平ガ詠歌子日祝歌ヲ彫リ、明治十二年五月本町背成田山出張所庭中ニ建テリ。即是ナリ。其円石ノ半ノ大ナル方ナリ。

善念寺石橋、元紺屋町東方堀の上に表門有シ時ノ橋ト云。
其後天明寛政ノ間、新町矢島八郎左衛門、善念寺旦那ニシテ之ヲ請ヒ、砂賀町用水堀ニ架。
明治十一年中砂賀町協議ノ上、之レヲシテ板橋ト架替タリ。売物トナル。
予之レヲ買取、父ノ碑トス。」

現在の善念寺表門は南側にありますが、昔は東側にあって、そこを流れる用水堀の石橋として、「円石」を二つに切って使ったという訳です。


門前橋としての用を終えた「円石」の半ぺたは「善念寺」境内に残り、もう半ぺたは砂賀町の用水堀の石橋に転用された後、土屋老平に買い取られて、その父・武居世平の歌碑として「成田山光徳寺」境内に残りました。


「ゆるぎなき みよをいわえる ねのひには
             いわおにおゆる まつもひきなむ」

と読むらしいのですが、意味がさっぱりです。
いろいろ調べてみて、迷道院なりに解釈してみました。

武居世平は寛政十年(1798)生まれ、明治十四年(1881)没、享年八十四歳です。
「八十二翁」となっているので、明治十二年(1879)の作ということになります。
従って、「御世」は、明治天皇の御世ということでしょう。

「子の日」というのは、年が明けて最初の「子(ね)」の日で、宮中では「子の日遊び」と言って、野辺に出かけて若菜を摘んだり(若菜摘み)、生えている松の若木を掘り取って来て(小松曳き)、若菜は食材にして長寿を祝い、若松は庭に植えて千代を祝い、歌を詠みあったということです。

こうみてくると、この歌は次のような意味になりそうです。
「動(ゆる)ぎなき明治天皇の御世を祝う子の日には、岩に生えている松でさえも引き抜きましょう」

武居世平がこの歌を詠み、土屋老平が歌碑を建立した明治十二年という年は、維新後の大きな混乱もほぼ収まり、この年の八月には明治天皇の御子・明宮(はるのみや)様がお生まれになっています。
日本中が奉祝ムードに包まれていたのでしょう。

ふと気付いたんですが、この歌、何となく国歌「君が代」に似ていないでしょうか。
そういえば、「君が代」にメロディーを付けて歌い始められたのは、明治十三年(1880)だそうです。

さて、「善念寺」へ戻りましょう。

ご本尊の阿弥陀如来ですが、真っ黒でお顔がよく分かりません。


本堂前の説明板によると、むかし火災に遭って、この阿弥陀さま、木の上に逃げて助かったとあります。
その時に焦げて黒くなってしまったんでしょうか。


「善念寺」のHPにある写真では、お顔がよく見えます。


元は、金箔貼りだったんですね。
落ち着いた優しそうなお顔をしていますが、火事にあった時は、木の上でどんなお顔をしていたんでしょうかねぇ・・・。


【善念寺史跡看板】

【善念寺の円石】

【成田山光徳寺の円石】


  


2016年11月27日

史跡看板散歩-22 右京柄(右京拵)

前回の刀工・長谷部義重つながりで、鞘町に立っている「右京柄(右京拵)」の史跡看板です。



この看板、どこに立っているかというと、これが分かりにくい。

鞘町商店街「さやも~る」通りにある「鞘町稲荷」の脇道を入った所に、隠れるように立っています。

「さやも~る」通りには、「鞘町の生いたち」という立派な石碑が設置されているので、ここが最適地だったと思うのですが・・・。



さて、「右京柄(拵)」ですが、羅漢町上利貞馬氏所有の大・小・短刀が、群馬県指定重要文化財になっています。


「右京柄」の呼び名は、看板にあるように高崎藩主・松平右京大夫輝貞の考案によるというのが通説になっていますが、さてその訳は・・・。

「日本刀大百科事典」の中で、著者・福永酔剣氏は次のように述べています。
刀の柄に鮫皮もきせず、柄糸も巻かずに、胴輪をはめて締めた柄。
この形式はすでに源平時代からあったようである。(略)
これらが江戸期に復活して、右京柄と呼ばれた。

輝貞は発明の才に富み・・・、節約を強調した八代将軍吉宗の時の老中である。
将軍の意を受けて、いわゆる右京柄を考案したことは十分考えられる。
右京柄は高価な鮫皮を用いないので、安価に仕上がることは申すまでもない。」

また、「右京拵」を帯びて下仁田戦争に参戦した祖父を持つ水原徳言氏は、「右京拵私攷(しこう:私考)という小文の中で、少し違った見解を述べています。
高崎藩松平右京大夫の家中に行われた武備には様々な藩の掟があるが、その内の一つに、大小の拵えに「右京拵」または「右京造」と呼ばれる装刀の特色がある。
私の少年時代にはまだどの家にもそれが伝えられていて、珍しくもなければ変わった様にも思われず、むしろ糸巻の無い刀に何となく物足りなさを覚えた。(略)

この形式「右京拵」が何故他藩には見られぬ様を残したのか、それは何時制定されたものか、残念乍ら私にはその制定の時を証すべき文献的資料はないので、天休院様(輝貞)御代よりの掟という伝承をそのまゝ信ずる他はない。
けれどもそれは理由のないことではない。(略)

一つにはこの元禄から享保にかけての江戸時代の風潮の中に、太平の治下にあって各種の復古的研究の始められた時でもあった。
つまり島原乱に参加した者も老衰してしまい、久しく実戦の認めるべきものもなく、それを反省し保存しようとする考え方がいわば流行の兆しにあった。(略)

それ(右京拵)太刀拵えをに移したものであって、糸巻の柄は戦陣中にあって雨に当たって長く濡れたままに放置されると型がくづれ糊がきかなくなって用に耐えなくなる。
                          「太刀と刀の違い」
それに対して素木を金物でしめて作った太刀拵えのような右京拵は影響がない。
つまりこれは野戦に耐える武器を平常の用にあてる、治にあって乱を思う姿を常に腰にせしめるという考え方に立つものである。(略)


常時の刀として帯びるものとしたところに、この制定の主要な意味があるので、単なる変化を好んだものではなく、またいたずらに贅を尽くし、また反対にその費えを惜しんだものでもない。
ゆとりのある士はそれにまかせ、勝手不如意ならば真鍮でなりと造り得る装刀の掟をその精神に於て、武辺の面目を貫かしめようとする、それがこの右京拵の意味である。」

という高崎藩独特の「右京拵」ですが、困る点もあったようです。

「日本刀大百科事典」では、
柄糸を巻いてないので、手が滑りやすい欠点。さらに固い物を切った場合、柄が早く痛んでしまう、という難点がある、というので武芸家からは排斥されていた。
結局、平和な時代の産物というので、幕末の動乱期になると、自然と姿を消していった。」

水原徳言氏も、
実は江戸の家中には、この右京拵の刀を差して外出すると、上州の田舎士と目立つので、嫌った者もあったと聞いている。
私が少年の頃に見かけた家々にこの右京拵えの大小が残っていたのは、藩の特徴であるから売却すると忽ち高崎の物と知れる。
またその多くは放ち目貫に家の定紋があるので、その家までも知れてしまう。
既に廃刀の制が行きわたってもなお、流石にその家のしるしを金に換えることをためらったから、目立たぬ刀は売っても、右京拵を残していたのだった。」

なるほど・・・。


【右京柄(拵)史跡看板】



  


2016年11月20日

史跡看板散歩-21 愛宕神社

ご無沙汰でございました。
今日は、南町「愛宕神社」です。




「愛宕神社」については、過去記事「駅から遠足 観音山(4)」でほとんど書いてしまったので、そちらをご覧頂きたいと思います。

ただ、今回改めて写真を撮りに行って、「あれ?」と思ったことがあります。
前回撮った写真と見比べてみて下さい。

はい、石柱の「村社」と刻まれていた部分がカットされています。
これって、カットする必要があったのでしょうか?
歴史を語る二文字だったと思うのですが・・・。

史跡看板に、「社宝の大太刀」のことが書いてあります。
実物を見たことはありませんが、昭和四十八年(1973)に高崎市の指定重要文化財になっていて、HPにも載っています。


刀工の長谷部義重という人がどのような人物であるのか、そう多くは分かっていないようです。
いくつかの本に書かれていることを、拾い集めてみました。

(【譜】:上州刀工図譜、【覧】:上州刀工総覧、【市】:高崎市史)
文政八年(1825)武州川越在に生まれた。【譜】
義重は十三才にして父を失い、細川正義の門に入り、鍛刀の技を学び、刻苦勉励、数年の後、家禄七石を以って高崎藩のお抱え鍛冶となる。【市】
刀工を志して江戸に上ったのは天保十年(1839)頃と推定される。
当時江戸に於て津山藩の抱工細川正義の門下となり、兄弟子である城慶子正明の指導を受けたようである。【覧】
川越藩から高崎藩に養子となった輝充に従って来高し、新田町に住した。父は農業に従事していたという。【譜】
天保十一年(1840)から弘化三年(1846)の間、第十七代高崎藩主を勤めた松平輝充(てるみち)

義重が刀工として初めて世に出した作品は、弘化二年(1845)二月、刀樋に添樋のある大鋒の脇差である。
次に当たる年紀として現存するものは、約五年後の嘉永三年(1850)二月、高崎藩指南役である大戸重次の載断銘のある二尺三寸八分の、高崎打の直刃の刀であり、義重には載断銘のあるものはこの一口のみである。
推察であるが、この一刀は高崎藩御抱えに際しての試し打ちではなかろうか。この頃より高崎藩抱工として鞘町に住し鍛刀に専念したと思われる。【覧】

嘉永四年(1851)、一人旅に出て伊予大洲に至り、翌年彼の地において作刀する。【市】
判然としないことは、開業早々であり重ねて新規御抱えの身であり、何かと多忙の訳であるが、なぜ四国のはてまで旅をしたか・・・。
旅から帰って後の作品は愛宕神社の奉納太刀であったが、同時に某神社の奉納刀が同じ年紀で造られており、重ねて神社の御神体と思える両刃の剣が発見され、いづれも嘉永六年紀であるところから、推量のいきを出ないことであるが、右の奉納刀製作にあたり精進潔斎のため、伊勢から四国に入ったか、直接讃岐に参り大洲の勝国の基で槌を打ったのではなかろうかと推理する。【覧】

安政六年(1859)八月二十三日、三十五歳の若さで義重亦没す。光明寺に葬り「名譽證久居士」という。
長男虎吉は十四歳にして義重のなきあと家督を継ぎ、住吉町に移り住み、建具職となる。【市】

長谷部義重の墓があるという「光明寺」については、もう6年前の「鎌倉街道探訪記(2)」で書いたことがあるのですが、義重の墓のことは全く知りませんでした。

義重の墓は昭和の初めまで何処にあるのか知られてなかったようで、昭和五年(1930)発行の「上毛及上毛人 第163号」に、「幕末の名刀工 義重の墓を發見」という記事が載っています。
幕末時代に高崎市が生んだ名刀匠長谷部義重の事蹟に就いては餘り知られて居なかったが、今度偶然の機會から其の墓が若松町光明寺境内にあることが發見された。」
どんな偶然だったのかは書かれていませんが、その偶然に感謝しなければいけません。

早速、義重の墓を探しに「光明寺」の墓地へ出向きました。
ぐるぐると墓地内を三遍程巡り、ようやく見つけました。
「内村(鑑三)家之墓」(五代でない方)の真後ろにありました。



今回も、史跡看板のおかげで少し勉強ができました。
感謝!


【愛宕神社史跡看板】


【長谷部義重の墓】



  


2016年11月06日

史跡看板散歩-20 小万地蔵

ご無沙汰しておりました、ひと月ぶりの投稿です。

興禅寺から観音道路を西へ進み、龍広寺の手前で斜め左に入るとすぐ、左側に「小万地蔵尊」があります。






看板にある通りこの地蔵堂は、「小万」という女性がここで亡くなったのでその霊を弔うために建てられたと伝わっています。
この「小万」さんとはどんな女性なのか、看板にも二通りの説が書かれているように、よく分かっていません。

地蔵堂脇に建てられた石碑には、回国者夫婦の妻となっており、今現在では、こちらが定説となっているようです。


ただ、分からないことも多くて、そもそも「小万」は、「こまん」なのか「おまん」なのか。
女性だから「おまん」さんだろうという気もしますが、三重県の亀山市に伝わる昔話には「小万(こまん)」さんという女性が出てきます。

高崎の歴史本にも明確に仮名を振ってあるものはありません。
明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に付いている「和田古城之図」でも、「小まん坂」と逃げています。


もうひとつは、たまたま行き倒れた旅人のために、地蔵堂まで建てて供養するだろうかという疑問です。
「小万」さんが余程の別嬪さんだったのか、あるいは病んで長逗留する間に村人に慕われるようにでもなったのか。
よしんばそうだったとしても、せいぜい塚に墓石か、路傍の石地蔵がいいところで、堂宇まで建てるとは。
それに、女性を供養するなら観音様にでもしそうなものを、お地蔵様とは・・・。

で、ここからは、いつもながら迷道院の根拠なき推論です。
そのつもりでお読み頂きたい。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、「和田宿古繪圖」というのが添付されています。
「髙嵜繁昌記」「和田古城之図」とほとんど同じなのですが、これには「小万坂」という記載はなく、「此邊大おん久保ト云」(この辺 大おん窪と云う)とか、「此辺ニ大音寺ト云フ寺有 之今ハ名斗帳面ニ有」(この辺に大音寺と云う寺有り これ今は名ばかり帳面に有り)と書かれています。



大正十三年(1924)の「髙崎市全圖」では、「大音寺通」と表記されており、道は烏川の縁で止まっています。
「鎌倉小路三号」というのが「小万坂」です。


どうやらこの付近には、いつの頃か「大音寺」というお寺があったようです。
思うに、「小万地蔵堂」はそのお寺の地蔵堂ではなかったかと。

Wikipediaによると、
地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。
サンスクリット語ではクシティ・ガルバと言う。
「クシティ」は「大地」、「ガルバ」は「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。(略)
日本における民間信仰では、道祖神としての性格を持つと共に、子供の守り神として信じられている。」
とあります。

折しも今月15日は「七五三」ですが、三歳・五歳・七歳は子どもの厄年なんだそうで、その厄を落とす儀式なんだとか。
また、七歳までは神様からお預かりした子で、いつ神様にお返しすることになるかも分からない、七歳を無事に越すことができて初めて人間の子となるのだ、とも聞いたことがあります。

それほどに、昔は、小さな子どもが育たずに亡くなってしまったということなのでしょう。
流産などによる水子も今より多かったことでしょうし、場合によっては間引きなどにあう不憫な嬰児もあったことでしょう。

そのような不幸な子どもの亡骸が、この坂道を下って「大音寺」に葬られたのではないでしょうか。
もしかすると、ひっそりと烏川に流された亡骸だってあるかも知れません。

してみると、「小万」「小」「こども」「小」「万」「数多くの」あるいは「すべての」という意味と考えられないでしょうか。
「小万地蔵」は、「数多くの小さな御霊」を供養し、「数多くの子どもたち」の無事生育を願うお地蔵様だったのではないか、と私は思うのですが、いかがでしょうか。

そう考えて、私は「こまんじぞう」「こまんざか」と呼ぶことにしたいと思います。


「隠居の思ひつ記」は、またしばらくお休みさせて頂きます。



  


2016年10月02日

史跡看板散歩-19 興禅寺

「向雲寺」のすぐ東に「興禅寺」があり、ここにも史跡看板が建っています。




高崎市街地にあるお寺の多くは井伊直政箕輪から移したものですが、「興禅寺」は平安時代末期の治承元年(1177)開基という、高崎で一番古いお寺です。
天文から天正年間(1532~1591)のものといわれる「興禅寺絵図」によると、看板に書かれているように「現在の高崎公園から赤坂町に至る」広大な境内を持っていたようです。


「白龍山」という山号については、こんな伝説があります。
乾元二年(1302)正月二十四日、開山の一山国師が入院開堂の日、堂塔震動、あたりは雲霧にとざされた。
その雲の中に声があり、「興禅刹」(禅寺を興せ)という。
やがて雲が晴れると、かたわらの泉から白龍があらわれ、あれよと見るまに虚空に飛び去った。
これは護法の善神であるとして、国師は白龍山興禅寺と名付けた。」
(田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」)
開山の時期については二説ある。

この白龍があらわれたという泉が、「興禅寺絵図」で境内左上に描かれている「白龍池」なんでしょう。

現在の境内にも「白龍の井戸」と呼ばれる井戸があり、その底には今も白龍が棲んでいるらしいです。

「興禅寺」は、高崎城が出来ると城内に取り込まれることになりますが、天保十一年(1840)に現在の場所に移されます。
天保十年説もある。


その辺の経緯や、山門の天井に描かれた雲竜の話は、過去記事「駅から遠足 観音山(5)」でご覧ください。

昭和五十三年(1978)の区画整理により、「興禅寺」の墓地は八幡霊園に移され、その跡地は児童公園になりました。


その時、山門の西側に「地蔵堂」が建てられましたが、ここに祀られているお地蔵さまは「興禅寺絵図」右下にある「桃園院」の秘仏・子育地蔵尊です。



この子育地蔵尊が祀られていたからということもあるのでしょうか、第三十世住職・田辺鉄定(てつじょう)師は明治三十九年(1906)興禅寺に「高崎育児院」を設立し、孤児の養育に献身します。
「高崎新聞」の、高崎高僧列伝「田辺鉄定と高崎育児院」に詳しいので、ぜひご一読ください。

孤児の中には、不幸にして育児院で亡くなってしまう子どももいました。
その子たちの霊を慰めるための「高崎育児院墓」は、興禅寺墓地と共に八幡霊園に移されています。


最後に、「開化高崎扣帖」に載っている、育児院と子どもたちの心温まるエピソードをご紹介しましょう。
子供たちは学令期になると、寺から南小学校に通学していた。(略)
或る年の運動会、子供たちははりきって寺を出て行った。
奥さんも、その日はじめて子供たちの運動会の様子を見ようと出かけて行った。
見物席について他の子供たちの服装を見て驚いた。
孤児たちだけが和服の平常服、他の子供たちはみんな白いシャツと白いズボン。
早速寺にとって帰って、運動着を買いととのへて学校にかけつけ、子供たちに新しいシャツ、ズボンにかえてやったという。
奥さんはこの時のことを後々までよく話していたという。
子供たちも、この時ほど嬉しかったことはなかったという。」

いい話だなぁ。

ところで、10月はいろいろと予定が立て込んでまいりまして、暫し、「隠居の思ひつ記」はお休みを頂戴いたします。


【興禅寺史跡看板】


【高崎育児院墓】



  


2016年09月25日

史跡看板散歩-18 向雲寺

「ハープの泉」からシンフォニーロードを東に行き、最初の信号を右に曲がって150mほど行くと、下横町「向雲寺」参道前に出ます。


史跡看板は、山門前に建っています。



史跡看板の文中で馴染みの薄いのは、最後の方に書かれている「大行満願海上人」(だいぎょうまん・がんかい・しょうにん)でしょう。
「大行満」とは比叡山千日回峰の修業を成し遂げた人の称号であり、「願海上人」とはその大行満となった高崎出身の僧の名です。

今でこそ、「高崎新聞」「高崎名僧列伝 大行満の称号を得た願海」という記事もあり、知ってる人は知ってる人物ですが、大正末まで高崎では全くと言っていいほど知られていませんでした。

高崎願海のことが知られるようになったのは、大正十四年(1925)発行の「上毛及上毛人 99号」に、名古屋の樋口晩翠氏が寄せた一文からでした。
大行滿願海の出生に就ては、今日まで明瞭を缼(か)いて居た。
尤も其の書き遺されたものゝ言葉遣ひなどより見て、東國方面の出生なるべしとは豫想して居たのであった。
其後「葛川寺過去帳」に依って、願海の姪が上州倉賀野に居たこと、及び上州高崎にも縁者の有ったことを知って、稍(やや)其の出生に見當がついたのであるが、今だ以てその何れなるかを定むべき確證を得なかったのである。」
そして、願海の略歴・事跡が短く綴られています。

この一文を読んだ高崎の郷土史家・山内留彌氏は、同誌103号でこう述懐しています。
本紙九十九號に樋口晩翠先生の大行滿願海の御發表あり、近頃同人は高崎の出身にして姪は倉賀野町に在りしとの事が分かったと。
かゝる名僧の本市に在りし事はお恥ずかしいが全く知らなんだ。遥か名古屋からのご研究、聊(いささ)か鼻毛を抜かれた感があった。」

山内氏は、たまたま佐野村大字下中居村の普門寺に隠栖していた元向雲寺住職・山内謙介師を訪ねた折に、向雲寺願海の菩提寺であることを知ることになります。
(さ)てこれから願海の代々向雲寺が菩提所である事が知れたから尋ねた處、これは又驚くことには、願海は拙者の住所とは十數歩を距てた鍛冶町出身であらんとは。
益々自分の迂闊さにあきれかへらざるを得ない。
和尚徐(おもむろ)に曰く、願海、本姓は本見氏、父母は煙草商である。
今日は子孫も絶へてない。」

ということで、その後、山内氏をはじめ高崎の郷土史を研究している方々により、徐々に願海のことが分かるようになってきます。
中でも、向雲寺のある下横町に住み高崎市議会議員であった清水粂蔵氏は、その事跡を顕彰すべく「大行満願海宣揚会」を立ち上げ、熱心に調査・研究を重ね、昭和九年(1934)その集大成ともいえる冊子「大行満願海」を発行しています。

向雲寺には、願海の両親・本見林兵衛夫妻の墓があります。






冊子が発行された頃は、墓石の傍らに「大行満願海祖先之墓」という標柱が建っていたようですが、現在はないのでなかなか見つけることが出来ず、ご住職にご足労願って教えて頂きました。



また、昭和十一年(1936)には、清水氏等の働きかけにより、比良葛川にある願海の墓地から分骨をして、両親の墓側に埋葬されたということです。(上毛及上毛人225号)

願海は、孝明天皇や当時二歳の皇子・祐宮(さちのみや・明治天皇)の加持祈禱を行い、各地で勤王思想を普及させていたこともあり、「勤王僧」などと呼ばれています。

その勤王僧・願海の骨が眠る墓の斜向かいに、高崎「清香庵」という鰻料理屋の店主でやはり勤王思想の持ち主であった、田島尋枝の墓があるというのも、奇しき因縁のように思われます。


叡山に於ける願海は容貌威厳深刻で近づき難いところもあり、回峰行の修験中に戒めのため大数珠で従者たちを打ったりしたこともあったといいます。

それでも従者たちはそれを怨みとも思わず、以前にも増して親しんでいったと伝わるほど、尊敬されていたようです。

願海は、安政五年(1858)東叡山輪王寺宮の推挙で、紀州粉河寺(こかわでら)の住職となります。
ところが、尊王攘夷派の浪士に追われていた絵師・冷泉為恭(れいぜい・ためちか)を匿ったことがきっかけで、願海自身も浪士に追われる身となり、各地を遍歴したのち江州(近江)葛川に草庵「渓草蘆」を結び、その庵で明治六年(1873)五十一歳の生涯を終えます。

「渓草蘆」での寂しい暮らしぶりを示す逸話が、清水粂蔵氏著「大行満願海」に載っています。
願海が葛川の草庵に籠っていた時、誰れ訪れる人もなく只藤八といふ村の者に用聞きさしてゐた。
竿の先へ木の札を吊るしたものを備へて置き、用事のある時は此れを立てゝ目標(めじるし)とした。
藤八は毎日其庵の傍を通って炭焼きに行ってゐたので、其竿が目につくと立寄って用を辨ずることにしてゐたと云ふ。」

今はまた、願海の名も忘れられようとしていますが、この史跡看板設置を機に、多くの高崎市民に知られることを願います。


【向雲寺史跡看板】



  


2016年09月18日

史跡看板散歩-17 ハープの泉

「将軍の孫」像のすぐ近くにある史跡看板、「ハープの泉」です。




「ハープの泉」は、平成十二年(2000)の建設省(現国土交通省)「てづくり郷土(ふるさと)賞」を受賞しています。


史跡看板の文言は、その選定文(申請文?)をほぼそのまま使っているようですが、いつ造られたものか、誰のデザインに依るものかなど、詳しいことは書かれていません。

調べてみると、デザインは東京の環境デザイン設計会社・前田環境美術株式会社によるもので、完成は平成十一年(1999)であるということが分かりました。

完成年を手掛かりに新聞記事を探したところ、ありました。
平成十一年八月七日の落成だったんですね。


記事によると、「午前九時から午後八時までの毎時に音楽が流れる」とあります。
でも、そのことは「ハープの泉」周辺に掲示されてませんから、高崎を訪れた人はきっと知らずに通り過ぎてしまっているでしょう。
いや、もしかすると、市民でも知らない人がいるかもしれません。

そこで、「ハープの泉」から流れる音を使って、スライドショーをつくってみました。


車の走行音に紛れてしまう程度の音量で、新聞記事にあるような「時報の役割も果たす」とは思えません。
さらに、「からくり時計」のような派手なアクションもありませんから、毎正時を楽しみに待つ人もいないでしょう。

ならば、聞きたい人がボタンを押した時に音楽が流れるようにした方が、良いのではないでしょうか。
その方がよっぽど市民に親しまれ、来高者へのおもてなしにもなると思うのですが。

それと、夏は木陰が欲しい!
関係者の方、ぜひご一考下さいますよう。


【ハープの泉】



  


2016年09月11日

史跡看板散歩-16 将軍の孫

シンフォニーロード沿いのお堀端に建つ、ブロンズ像「将軍の孫」とその史跡看板です。




ただ、書かれていることを読んでも、なぜこれが高崎の名所旧跡として看板を建てる対象になったのか、さっぱり分かりません。
どれひとつ、高崎とつながりのある事柄がないのです。

台座に埋め込まれているプレートから、「高崎ライオンズクラブ」の20周年記念で寄贈されたらしいことだけは分かります。

しかし、なぜこの像を選定したかという理由は書かれてません。

「将軍の孫」像の足元にある説明板の内容も、史跡看板とほぼ同じことが書かれているだけです。

そこで、いつもお世話になっている画家で染色家のYさんに、何かご存知のことがないか尋ねてみたところ、当時のライオンズクラブ会員だった方に問い合わせてくださいました。

結果は、特に高崎との結びつきはないということで、少しがっかりでした。

迷道院としては、乃木将軍の子乃木保典が高崎歩兵第15連隊小隊長として日露戦争に出征し戦死したこととか、江戸幕府初代将軍の孫徳川忠長が高崎城内で自害したことと、暗に結びつけたと思いたかったのですが・・・。

「高崎ライオンズクラブ」は、昭和三十八年(1963)六月に発足、20周年記念事業として昭和五十七年(1982)十一月に「将軍の孫」像を建てています。
当初は、高崎郵便局北側の小公園に建てられました。


しかし小公園では人の目に触れにくいということで、平成六年(1994)にシンフォニーロードが開通したのを機に、平成九年(1997)現在地へ移設されました。

はたして、この史跡看板は必要だったのでしょうか。
むしろ、ここの堀に突き出している、「出桝形」(でますがた)の史跡看板こそ欲しかったように思います。


城郭における「桝形」というのは、四角く囲われた空間に敵を誘き入れて、周囲の狭間から弓や鉄砲で攻撃するという構造のことを言うらしいです。
ところが高崎城「出桝形」はそれとは違う、ちょっと珍しいものだと聞いたことがあります。

これは、ど素人・迷道院の勝手な思い込みなのですが、高崎城「出桝形」は、その北側にある「東門」を防御するためのものではないでしょうか。
「高崎市史資料集1 高崎城絵図」の解説によると、
東門は通用門で、他の門と異なり平屋建ての粗末な門である・・・棟門には潜り戸があり、いかにも通用門らしい門である。」
という風に、武士の他、商人も出入りする通用門だったようです。

城内へ出入りする門としては、「子の門」「大手門」「東門」「南門」がありますが、他の門に比較して「東門」は確かに粗末で、防御には劣る構造に見えます。


この弱点をカバーするための備えが「出桝形」で、東門前に迫った敵の横腹に矢玉を射掛けるという目的だったのかも知れません。
城郭に詳しい方のご教示を頂けると幸いです。

今では、ピシッと直線的な「出桝形」ですが、明治三十年頃はこんな様子で、きっと江戸時代もこんな風だったんでしょう。


「シンフォニーロード」が計画された当初、高崎駅から高崎市庁舎まで真っ直ぐ道を通す予定で、その線上にある「出桝形」は崩してしまおうということになりました。
それを聞いて猛反対したのが、当時の郷土史家たちです。
幸いその声が聞き入れられて、「シンフォニーロード」「出桝形」を避けるように、微妙なカーブの現在のコースに変更されたと聞きます。


ここには、そんな「出桝形」を残してくれた先人を讃える史跡看板こそが、相応しいと思うのですがいかがでしょうか。


【「将軍の孫」像】



  


2016年09月04日

史跡看板散歩-15 高崎英学校跡

南銀座通りの一角にある史跡看板、「高崎英学校跡」です。




「高崎英学校」については、よく分からないことも多く、その場所についても確かな記録がありません。
新編高崎市史編纂委員・清水吉二氏も、その著書「動乱の高崎藩」で、このように述べています。
この英学校も分からない事だらけで、その全体像はほとんど捉えられていないからである。
第一、檜物町にあったというが、檜物町のどこにあったのかさえも今もってわからない。」

このあと、清水氏は次のように場所を推定していきます。
まず建物だが、設立当初は石上寺を校舎に当てたが、やがて、檜物町に仮校舎を建てて移転した。
仮校舎といっても、輝剛(大河内輝聲の弟・てるかた)、山崎(輝剛の側役、精一)等十数人が寝泊まりしていたのだから小屋掛け程度のものではあるまい。それだけの建物から考えると、かなりの面積を持つ土地が必要となる。
今、英学校開設の八年前、幕末、文久二年(1862)の「上野国群馬郡高崎檜物町鍛冶町興禅寺向雲寺等絵図面」を見ると、檜物町でただ一ヵ所、それにふさわしい場所がある。
檜物町四つ角の東北隅、九間三尺幅(約十七メートル)、奥行き十間五尺幅(約十九メートル)の土地(現在、角谷金物店)だけは持ち主の名前が記入されていない。
そこ以外は全て三間から四間幅の狭い土地か、持ち主の名が記入されている土地である。」
住谷金物店のあった場所は現在佐々木法律事務所になっている。

ということで、この場所しかないだろうと言っており、史跡看板もその場所に建っている訳です。


この「高崎英学校」の価値は看板に書かれている通りなのですが、迷道院にはもっと興味深いことがあります。
高崎藩の飛び領・銚子で起きたある事件と、この「高崎英学校」の不思議とも思える因縁物語です。

そのことについては、3年前、「銚子・高崎・英学校」シリーズに書きましたので、ご一読いただけたら嬉しいです。
   ◇銚子・高崎・英学校(1)
   ◇銚子・高崎・英学校(2)
   ◇銚子・高崎・英学校(3)
   ◇銚子・高崎・英学校(4)

リンクをすべて見て頂いた方は、相当お疲れになったことと思います。
今回は、ここまでと致しましょう。


【高崎英学校跡史跡看板】




  


2016年08月28日

史跡看板散歩-14 高崎小学校跡(その2)

今日は、史跡看板には書かれていないけれども、「高崎小学校」の誕生に大きな貢献をした、市川左近という人のお話です。



市川左近は羽前国東置賜郡一本松柳村(現山形県米沢)の神官の家に生まれ、一旦は神職を継ぎますが、学問を志して江戸に出て、二十数年湯島聖堂で修学に励んだのち漢学者になったという、博学多識の人だったようです。
文久二年(1862)五十歳の時、高崎藩士・飯野金八の招きによって高崎に来て、田町に漢学塾を開いたところ多くの入門者を得たといいます。

その評判が、学問好きな高崎藩主・大河内輝聲の耳に入ったのでしょう、再三にわたって輝聲から招請があったといいます。
初めなかなか応じなかった左近も、遂に断り切れず、藩籍に入って藩士らの指導にあたることになりました。

その時、輝聲左近に塾を開かせたのが鞘町で、後にここが高崎で最初の小学校「鞘町小学校」となる訳です。
「鞘町小学校」がどこにあったのかよく分からないのですが、昭和四十九年(1974)発行の「高崎市立中央小学校 百年のあゆみ」には、こんな写真と説明が載っています。


現在は、こんな風景のところです。


輝聲左近に開かせた塾に「積小館」という名を付け、扁額まで書いて与えたのだそうです。
「積小」とは、「小さなことを積み上げる」という意味ですが、もしかすると二宮尊徳の遺した「積小為大」という言葉からとったのかも知れません。

まさに、左近はその「積小」を地でいった人で、いろんなエピソードが残っています。
「高崎市教育史 人物編」からご紹介しましょう。
左近の風体はずんぐりで肥満型、その上猫背で斜視であった。頭は髪を前で結い、後頭部は剃り落として、自ら空気抜きと称していた。
日常の生活は質素、倹約を旨とし、他人の目からは『けちんぼう先生』そのものと見られていた。
節約の様子は、衣服を損じないためのあんどん袴。下駄は減らないように固く節の多いもの、しかも横に穴を余分にあけて鼻緒が切れても短くして使う。
入浴は年間を通して水。
紙は、受け取った書状などの余白を切り取って、これに細字で書きつけていた。」
という異形な風貌で、いかにも頑固そうです。

ところが、仕事は人の数倍こなすという多忙ぶりで、
早朝は家老の長坂邸にゆきその子弟を教えて朝食をとり、帰宅後昼まで塾生を指導、直ちに津田邸(重臣宅)へ伺い昼食をとってその子弟を教え、夕食頃は商家の子弟を教えるというような訳で、家庭で食事をとる暇もなかったという。」
(高崎市教育史 上巻)

そういう生活ぶりですから、数千金の蓄えがあったといいます。

そんな「けちんぼう先生」が、明治六年(1873)の「鞘町小学校」「烏川学校」開設に際し、一千円とも二千円とも言われる大金をぽんと寄付したのだそうです。
市内の豪商たちは口実を設けて出資を避けようとしていましたが、「けちんぼう先生」の寄付を知って、寄付をするようになったので、立派に学校が設立されたという話が伝わっています。

史跡看板には、「町民から募った約四千五百円の寄付により建てられた」とありますが、これはいつの時点のことを言っているのでしょうか。
「バルコニーが付いたモダンな建物」とも書かれてますので、明治二十八年(1895)の「コの字型校舎」のことを言っているのかも知れませんが、どうも話が錯綜しているように思えます。

「高崎市教育史 上巻」によると、明治十年(1877)に建てられた「高崎小学校」の建築費は総額4,472円余、その財源は有志者寄付3,100円、残りは駅内区入費(町税?)であったとあります。


前回も書きましたが、「高崎小学校」は開設後2度の校舎増改築を行っています。
明治二十二年(1889)の「高崎尋常小学校」となる時の校舎建設費は、4,500円とあります。(高崎市立高崎中央小学校 百年のあゆみ
これが、寄付金で賄われたかどうかは書かれていないので分かりませんが、高崎の財政状態が裕福であったとは思えませんので、おそらく寄付金が占める割合は大きかったと推測されますが、全額寄付によるとも思えません。


「コの字型校舎」となった明治二十八年(1895)の増築では、建築費3,125円86銭4厘。
この時の有志者寄附金1,834円30銭、町費1,291円56銭4厘となっています。(高崎市教育史 上巻)


ま、ともあれ、いずれにおいても高崎の人々が造り育てていった小学校であったことには違いありません。
そのきっかけをつくったのが、「けちんぼう先生」市川左近だったということを忘れてはいけないでしょう。

市川左近は、「高崎尋常小学校」校舎建設の翌年、明治二十三年(1890)に七十八歳でこの世を去りました。

できれば、立派な「コの字型校舎」で学ぶ子どもたちの姿を見てほしかったものです。

いま、「龍広寺」に、静かに眠っています。
一度、お参りして差し上げてください。



【高崎小学校跡】


【市川左近の墓】