2009年09月13日

九蔵町むかし探し

九蔵町一里塚跡を見たくなって、愛車「赤チャリ号」で繰り出しました。

←途中、長野堰で筏に乗ったカモを発見!
一生懸命泳いでいる仲間をよそに、一人まったり休んでいる姿、なんかイイなー。

滅多に町なかには出て来ないので、来るたびに町の様子が変わっていますが、本町三丁目にある「旧・山源漆器店」の建物は、昔の姿で残っています。
「たかさき都市景観重要建築物」に指定された貴重な建物です。

←角を曲がると、天保七年(1836)創業の寝具店「金澤屋」です。

その向い側、駐車場の向こうに趣きのある建物が見えます。→
町並みの破壊によって、隠れていた昔の姿が出現したとは、何とも皮肉ではありますが。
元、お金貸しの家の蔵だそうです。

少し北へ行くと、素敵な蔵が建っています。→

大きな看板が不似合いだなぁなんて思いましたが、勝手なことを言っちゃいけませんね。
でも、木の板に「中島醫院」なんて書いてあれば、素敵だなぁ・・・と。
さて、本題の一里塚跡を見に行きましょう。

本町三丁目から、まっすぐ椿町に入るのが初期の中山道です。
入ってすぐの右側は、若者に人気の「日本一商会」、その隣はかつての「高崎三名園」のひとつ「暢神荘(ちょうじんそう)」

昔の佇まいが残る家を左に見て、正面が「法華寺」です。

そこを、右※に曲がった先に一里塚があったはずです。(※最初、間違えて「左」と記載してしまいました。すみません。)
←もちろん、一里塚はありません。
あれば、この角付近だったはずです。

旅人は、この狭い道をひしめきながら往来し、一里塚の木陰で一休みしてたんでしょうね。

前回の記事で“故郷離れて”さんに教えて頂いた、「だるま紺屋」こと「橋本染工場」の場所は、すっかり空き地になっていました。
一角をちょっとお借りして、「一里塚跡」なんていう石柱でも建てられないものでしょうか。


近くの「正法寺(しょうぼうじ)」にも行ってみました。

境内には「淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」の石仏があり、病む所を擦って平癒を願うタワシも備えられています。
グンブロ仲間の弥乃助さんが、「悪いところをゴシゴシと・・・」で紹介していますので、ご覧ください。
私は、頭、口、腹を擦ってきました。
因みに、今の菩薩像は明治三年(1870)に倉賀野の信者が寄進したもので、先代の菩薩像は左の棚上にあります。

もうひとつ、弥乃助さんが「どっちなの?」で紹介しているのが、「九蔵稲荷」です。

記事の中に書かれている「古いお稲荷さん」の発見場所が、「九蔵屋敷」跡と言われる、旧・大黒屋呉服店跡だったということです。
後に「日本生命支社」、現在は「九蔵町ビル」が建っています。

正法寺の境内には、もうひとつ、面白い言い伝えが残っているものがあります。

「九蔵稲荷」のすぐそばに建っている、ちょっと猫背のお地蔵さま
「夜泣き地蔵」と呼ばれています。
元々は、飯玉公民館近くに正法寺末寺の「妙信庵」というお堂があって、その前に建っていたそうですが、お堂が取り壊されたときに、正法寺に引き取られてきたようです。

言い伝えでは、夜泣きする子を、このお地蔵さまに連れて行って頭を撫でさせたり、子どもの被っているものをお地蔵さまに被せると、ピタッと夜泣きがとまったと言います。
ところが、子どもが帰った後、お地蔵さまはその子どもと同じ声で、かすかに泣いていたのだそうです。
翌朝見ると、お地蔵さまの頬はびっしょり濡れていたのだとか・・・。

上中居「なきんぞう」といい、石原「寝観音」といい、昔から子どもの夜泣きは、神仏にお願いするしかなかったのですね。

気がつくと、私のお腹もグーッと泣いていました。
すっかり長くなりました。今日は、この辺で引き上げましょう。

(参考図書:「高崎の散歩道 第五集」「続・徐徐漂たかさき」「九蔵町むかしがたり」)

【正法寺】




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この記事へのコメント
正法寺ですか・・・・・
懐かしいですね。僕は高砂町だったので正法寺とか大雲寺は遊び場でした。
九蔵町の四つ角は昔は商工会議所で、その隣の川崎家具は僕の祖母の弟が創業でした。辞めちゃいましたけど、この間。
で、本町3丁目のところは東京電力でしたね。確か小学校3年の時ポスターかなんかで入選した僕の作品が展示されたのを憶えています。
まあ、九蔵町もですけど僕の記憶で鮮明なのは本町2丁目の久保川呉服店の趣でした。
まあ、戦後しばらくまでは呉服の町でしたね高崎は。先日上毛新聞に「絹小沢」の歴史が載ってましたけど戦前戦中、そして戦後を通じて高崎の長野堰沿い、並榎から大橋、請地、末広と染物工場がいくつも並んでました。今は全くなくなりましたが・・・・・
まあ、アレです。九蔵町のチョイとしたお店もピンサロ、田町の勧角証券の跡地もピンサロ。
昔の電車通りが「ピンサロ通り」です(笑)。
まあ、しばらく前ですけど、ビッグカメラが真っ赤に塗装して市の外観条例にそぐわないとかで塗り直し命令みたいのが出されましたけど・・・・・
街のど真ん中が「ピンサロ」だらけじゃあ外観も糸瓜もありません。中央銀座通りも「中央ピンサロ通り」に変貌です(笑)。

ますますのご健筆ご期待申し上げます。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年09月13日 10:58
丁度、高崎新聞のコラム(高崎学)で椿町の由来が今回のテーマで取り上げられていました。九蔵町の成り立ちとほぼ同じ頃みたいですね。

橋本染工場さんは、2007年版の市街地図では記載されていますので空き地になったのはごく最近と思われます。

地図つながりの話ですが、明治18年の地図では本町三丁目から進んできた旧中山道は法華寺にぶつかると左に曲がる鍵の手になっていて、末広町五差路から法華寺前までの東一条通りはこの時点ではなかったようです。
そして旧一里塚のあったとみられる三差路(橋本染工場の手前)は旧前橋街道との追分になっています。旧前橋街道は東二条通りにぶつかった後左に曲がって大栄青果市場の横を斜めに進み、高砂橋を渡り、駒形線のJRアンダーパスを斜に横切り、飯玉町方面に進みます。

旧一里塚が後世まで残された理由のひとつとして、追分の目印になっていたことも加えられるかもしれませんね。


話は逸れますが、東一条通りの下(正確には歩道の下)には今でも水路が暗渠でありますが、この水路の水を利用することによって、染工場や造り酒屋や味噌製造がこの通り沿いに出来たのでしょうか。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月13日 15:05
>昭和24歳さん

お寺が遊び場でしたか!
私は、神社でしたが・・・。
本町二丁目の「久保川呉服店」ですかー。
覚えてないんですよねー。
さすが、記憶の達人!

本町三丁目のことを、年寄りは「東電角」なんて言ってましたね。
「後藤時計店」と「清水刀剣屋」は、まだご健在で、ちょっぴり嬉しいです。

まぁ、大通りは仕方ないですが、裏通り、路地は何とか残したいものです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月13日 20:23
>“ふれあい街歩き”さん

>明治18年の地図では・・・末広町五差路から法華寺前までの東一条通りはこの時点ではなかったようです。

明治40年の地図でも、まだないですね。
大正年間に東三条通が旧駒形街道と合流して市内に入り、前橋新道につながって国道9号線になったので、この頃かもしれませんね。

仰る旧前橋街道は「実政街道」と呼ばれた古道のようで、ちょうどこれから辿ってみたいと思っていた道でした。

ありがとうございました。
また教えてください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月13日 21:05
色々と紹介頂き、ありがとうございます。
橋本染工場が解体したのは最近でしたっけ?
古い町並みが色濃く残るこの地域。
古い建物こそ生かしてほしいと感じますね。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年09月14日 23:59
>弥乃助さん

「橋本染工場」さん、最近みたいですね。
今、弓町付近の区画整理が進んでいるみたいなので、九蔵町界隈もいずれ変わっていってしまうんでしょうね。
何とか、新・旧調和させた、風情ある町並みにして欲しいところですけどねー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月15日 12:16
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