僕の記憶では芝塚の踏切、阿久沢八百屋とか赤坂輪店とかあって、踏切をわたっても南側は高砂町で、田村靴店とか梅川とかいうおにぎり屋(飲み屋)がありました。よく行きましたけど。昭和44年頃です・・・・
その頃は舗装されてたんでしょうか。でもデコボコだった記憶があります。で、芝塚の四つ角ですけど、そこには芝塚薬局。スーパー阿久沢(高砂町にあったやつ)。結構利用しました昭和49年です。
>昭和24歳さん
いやー、いつもながらの記憶力の良さに驚きますねー!
デコボコだったという記憶は、確かかもしれませんよ。
昭和四十一年頃、改めて東三条通りの全面舗装工事を始め、従来の舗装を全部剥ぎ取りながら進めたようですから。
しかも、南北両方向から進めてきたものの、芝塚十字路の手前で予算が底をつき、その辺は剥ぎ取らずに上塗りで済ませてしまったようです(笑)
前橋街道(旧17号線・元9号線)の一番高崎寄りの区間(末広町~新前橋街道踏切)は元幹線国道であることが信じられない程寂しい交通量ですね。
前橋側の新前橋街道踏切は東三条通りとの接続部が遮断時間の長い踏切と一体になっていますし、末広町側の接続も駒形線を左折するしかなく、市内に入れないため、自動車がこの区間を敬遠しているためだと思います。
恐らく末広陸橋へ北行する中央通りを開通させた際に、末広町交差点が六差路になって危険になるのを回避するため、前橋街道をひん曲げて長野堰の上を通して、末広町交差点への接続部を廃道にしたものと推測します。
一方、高砂町五差路から大類街道踏切を越えて東三条通りに至る旧京ヶ島県道との交差点は江木町ではなく江木町西交差点になっているようです。
>“ふれあい街歩き”さん
信号名、間違えました!
「江木町西」が正しいですね。
フォローして頂き、ありがとうございました。
早速、記事を修正いたしました。
末広町~新前橋街道踏切間道路は、本当に利用者は少ないですね。
でも、そのおかげで(というと変ですが)「國道九號線」の橋柱が残って、歴史を辿るきっかけになりました。
今回のテーマから外れますが、東二条通りの北端部分(高砂町五差路から前橋新道まで)が開通したのが昭和橋の銘から昭和6年であると思われます。
前橋新道が全線開通したのも昭和6年、君が代橋、聖石橋の永久コンクリート橋への架け代えも昭和6年で、陸軍大演習がきっかけになって公共事業が同時施工で盛んに行われたことが伺われます。
各資料にも書かれていますが、大恐慌による失業者雇用の意味合いもあったようですね。
そう言えば、上越線が開通して日本海側につながったのも昭和6年で、高崎にとっては一つの節目となった年のように感じます。
江戸時代からの城下町が、インフラ整備によって近代都市に変貌をとげたのだと思います。
>“ふれあい街歩き”さん
昭和6年がキーワードでしたか。
前橋新道も、県庁と高崎15連隊を結ぶために整備されたという話もありますね。
ある時期、道路整備という公共事業が経済を引っ張り、雇用を生み出した効果は認めるべきですね。
道路に代わる次世代の公共事業も必要なのでしょうが、将来を見越して本当に必要なものを、国民一人一人が考えていかなければいけませんね。
>迷道院高崎様
>将来を見越して本当に必要なものを、国民一人一人が考えていかなければいけませんね。
正にその通りであると思います。
高速道路千円乗り放題や無料化は話題にされるものの、鉄道やバス路線などの公共交通機関については誰も触れていないところが悲しく感じられます。
また、道路にしても町中の国道なのに歩道にガードレールが無かったりする場所がありますね。
>“ふれあい街歩き”さん
自転車愛用者の私としては、安全な自転車道の整備を希望します。
免許証を返納した高齢者には電動アシスト自転車の普及を図れば、健康維持による医療費削減効果もありそうに思います。
いや、明日の私の姿かも知れませんが・・・(^u^)
繰り返しのコメントですみません。
高崎バイパスがマッカーサー道路であったという話しは、都市伝説の一種であると思います。
実際に鶴の一声で実際に造ってしまったワンマンバイパスの例もあるのですが、噂が独り歩きして通称が付いてしまった道路が東京にもあります。
昭和20年代に東京から長野へ自動車で行かれた方から当時の交通事情を伺ったことがありますが、東京を出ると国道と言えども未舗装区間があちこちにあり、路面の荒れが酷いので車にスコップを搭載しなければならなかったそうです。
時間的にも、朝東京を出発しても長野へ着く頃は夕方という有り様であったとのことです。
故に軽井沢へ進駐軍将校が避暑に訪れるには専ら鉄道を利用したのではないでしょうか。
軽井沢駅で当時勤務されていた駅員さん方の座談会記録に、頻繁に進駐軍専用車を上野から仕立てて軽井沢へ運行させた様子が書かれていますし、軽井沢駅にはRTOが置かれ、一等待合室を進駐軍専用に使っていた様子も記録されております。
高崎バイパスの建設はマッカーサー指令ではなく、東京・新潟間の道路整備の一貫としてなされたのではないかと、推測します。河原で用地の確保が容易だったのと、防災のための土手の整備を一体施工して早期完工したのではないでしょうか。
全て私の憶測ですが。(笑)
>“ふれあい街歩き”さん
「マッカーサー道路」は都市伝説だったんですかー?
何だか面白い話で好きだったんですが・・・。
「高崎開化扣帖」に書いてあった話です。
昭和20年代に車で長野まで行った人の話とか、軽井沢駅員さんの座談会記録とか、さすがの情報ですね!
ところで、「RTO」って何ですか?
不勉強ですみませんm(__)m
>迷道院高崎様
すみません、全て私の推測なので高崎の場合が都市伝説だったのか、否かは本当のところは謎のままです。
東京に環状2号線計画という道路計画がありまして、マッカーサー道路と呼ばれています。
戦後の復興計画の中で策定された、虎ノ門から新橋に、外堀通りに平行した100メーター幅の道路を通すという壮大な計画でした。
当時、あまりにも規模が大きい道路計画なので一般に「こんな大きい道路計画はマッカーサーの命令に違いない。」という噂がたち、独り歩きしてしまったようです。
実際にはGHQはこの道路計画にはドッジラインの支出抑制などを理由に反対していたそうです。
RTOは Railway Transportation Office の略で、GHQによる鉄道指令部です。GHQの軍人・家族らが公用、私用を問わず鉄道を利用する際の便宜を計ることを目的に、各主要駅に設置されました。地方では県庁所在地などや軍港都市が多かったみたいですが、軽井沢は外国人の利用が多かったので置かれたみたいですね。
恐らく高崎駅にも設置されていたのではないでしょうか。
>“ふれあい街歩き”さん
いやいや、「都市伝説」説もなかなか面白かったですよ。
奇しくも今夜、「やりすぎ都市伝説」って番組やってますね。
「RTO」よくわかりました!
全く知らなくて、すごく勉強になりました!
ブログの読者も、“ふれあい街歩き”さんのコメントの方が面白いや、なんて思ってるんじゃないでしょうか?
いや、私自身がそう思ってます。
いつもありがとうございます!
>迷道院高崎様
とんでもございません。おそれ多いことです。
書いているうちに止まらなくなってしまって…。
勉強させて頂きます。m(_ _)m
>“ふれあい街歩き”さん
いえいえ、そのご謙遜振りがまた、お人柄を感じさせます。
これからも、よろしくお付き合いの程を。
はじめまして。高崎在住の者です。貴ブログは以前から拝見していたのですが、今回初めてコメントさせていただきます。
道路交通を中心に郷土に関する様々な事に興味を持ち始めたのですが、浅学ゆえまだまだ知らない事ばかりです。私もブログをやっており、昨年までは防衛関係の記事を中心にやっていたのですが、今年からは道路交通紀行的な記事を強化して行きたいと思っております。
そこでまず群馬県道を中心に調べているのですが、その第一歩を近所の県道129号線としました。先日実走撮影を行って経路にある清水橋を通ったのですが、撮影後に貴ブログの記事を見つけました。知らなかったとは言え「國道九號線」と書かれた橋柱を撮らなかったのは、とても残念でした。日を改めて撮影に行きたいと思っております。
ところで恐縮ながらお聞きしたいのですが、「高前バイパス」の開通年が1966年というのは知られています。倉賀野バイパスは1983年と聞きいています。ではその間の区間、すなわち和田多中町交差点から君が代橋交差点まではどうなっていたのでしょう?国土地理院の1961年撮影の航空写真を見るとあまり広くはありませんが、道路らしきものはすでにあったようです。「高崎百年」には常磐町や並榎町のコンクリート舗装の狭い道路の写真が紹介され、「国道17号線の舗装は昭和27年に完成」と紹介されています。昭和27年の新道路法に基づいて国道17号線に指定されたのは和田多中から市街地を通って前橋新道へ抜ける路線だと思っていましたが、烏川側のコンクリート道路も当初から国道17号線の指定を受けていたのでしょうか?昭和46年生まれの私にとってはチンプンカンプンです。御教示いただければ幸いです。
長々と失礼いたしました。またコメントさせていただくかもしれませんが、御容赦ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo
>SACさん
コメント、ありがとうございました。
以前から拙ブログをご覧頂いているとのこと、併せて感謝申し上げます。
SACさんのブログも拝見いたしました。
実際に走破されて、細かくコースの写真も載っているので、臨場感が感じられていいですね。
その写真が、時を経てから大切な歴史資料になると思います。
さて、ご質問の件ですが、「新編高崎市史通史編4」に、次のような記載があります。
「国道10号の新道路は、昭和23年度より上佐野から城南球場南側を通って、高崎公園、旧38部隊の土地も利用して幅員9mとして、聖石橋から君ヶ代橋までが着工された。
並榎-常盤町間の烏川左岸の復旧工事と合併した工事や、聖石橋-和田多中間や城南小学校付近の烏川築堤の拡幅および上信電鉄との立体交差と舗装工事も行われ、一期・二期工事が26年度に竣工した。
なお、27年に新しい道路法が制定され、それまでの国道9、10号は廃止され、新たに国道17、18号となった。
その後まもなく27~29年度には、両国道の舗装工事が行われた。しかし、高崎-前橋間は幅員が9mしかなく、渋滞が激しくなり、高前バイパスの建設が計画されていった。」
ということで、お尋ねの「和田多中町交差点から君が代橋交差点まで」は、聖石橋を境に2回に分けて工事が行われたようですね。
また、「烏川側のコンクリート道路」は竣工当初のわずかの間は国道10号だったということですね。
こんばんは。わざわざ調べていただき感謝いたします。疑問が解消されてまさに霧が晴れたような気分です(笑)
旧国道10号との関係で考えなければいけなかったのですね。ところで、もう一度御記事を読み直したのですが、旧国道10号は「本町三丁目の角で分岐して・・・」とありますが、本町1丁目交差点を経て美峰酒類の十字路を右折して君が代橋へ抜ける道が旧国道10号なのでしょうか?もしそうだとすれば、木戸米穀店の所から急に道幅が広くなるのも旧国道に関係するのでしょうか?
話は旧国道9号に戻りますが、数年以内に国道17号を指定当初のルートで日本橋から新潟まで走破する計画を立てています。廃道となっている区間を除き、どれが旧道だったのかを調べています。群馬はもちろんですが、埼玉や新潟も分からない部分が多く、道路探求の奥の深さを感じています。
本日、夜勤明けで再び清水橋へ行って来ました。今まで見過ごして来た旧国道の遺構を見る事が出来て本当に感激しています。御記事が無ければ知る事はありませんでした。本当に感謝します。橋柱に切断されたパイプが残っていましたが、昔はアーチでも架かっていたのでしょうか。往時に思いを馳せ、夜勤明けの疲れも吹き飛びました。
貴ブログを知ったのは五万石騒動について調べていた時に検索で辿り着きました。今後も拝見させていただきますので、どうかよろしくお願いします。
またまた長々と書いて失礼しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumoす。
>SACさん
「國道九號線」の橋柱、確認されましたね。
ちょっと気が付かないですよね。
お役に立ててよかったです。
旧国道10号線のルートは、ご推察の通りです。
たしかに木戸米穀店のところから急に道が広くなってますよね。
この理由はよく分かりません。
でも、気になっているとある日突然解決することがあるので、心に留めておきます。
国道17号の全線走破、ワクワクしますね。
事故に気を付けて、お出かけください。
レポート、楽しみにしています。