2009年09月27日

「御幸新道」って?

「おしあわせ・しんどう」ではありません。
「みゆき・しんどう」って読みます。
何だか、幸せ一杯になりそうな道の名前ですよね。

「御幸」「行幸」とも書きます。
天皇が外出することだそうですが、視察を兼ねた旅行ということでもあるんでしょうか。

高崎「御幸新道」は、明治十一年(1878)に明治天皇が東北御巡幸の途中、高崎前橋に立ち寄られるということで、整備された道路だそうです。

「御幸新道」により高崎から前橋へ行くには、「実政街道」「赤土橋」を渡った後、塚沢の分去りを左に進み、明治初期に整備された「前橋新道」に入ることになります。

「高崎の散歩道 第五集」には、明治十一年の明治天皇行幸について、こんな記述があります。
「初めて上州へ行幸される明治天皇を一目拝もうと、近郷近在は言うに及ばず、五里、十里の道を歩いて山を下りてきた人々もいた。
ゴザを背負い、握り飯をたずさえて、前日までに到着した人々がこの御幸新道沿いに集まり、よい場所に陣取って野宿して待ったという。」


後に「国道九号線」となる、本町三丁目からの「前橋新道」が整備されるのは、明治二十一年(1888)のことです。

地図上に「高崎高等女学校」とあるのは、明治三十二年(1899)開校の現「県立高崎女子高等学校」ですが、昭和五十七年(1982)稲荷町に移転した跡には、ご存知、市立図書館や文化会館などが設置されました。

この地図には、まだ末広町の六本辻交差点はありません。
それどころか、末広町という町すらまだなく、赤坂村の一部でした。
末広町が新しい町として制定されたのは、明治三十五年(1902)です。
新しい道ができることによって、その沿線が発展するという構図は、今も昔も変わらないようです。
ついでに言えば、中曽根康弘元首相の生家、中曽根木材がこの地に設立されたのは、大正十一年(1922)だそうです。

昭和初期に撮影された、本町三丁目付近の写真が残されています。
(「高崎百年」より)

九蔵町側から末広町方向を見た所です。

手前には、高崎-渋川間を走っていたチンチン電車の軌道が見えます。

正面の洋館は、大正七年(1918)に落成した「公会堂」です。
講演会や音楽会、展示会、各種団体の集会など、多数の市民が集会できる公共施設として建設要望の声があった公会堂ですが、当時の市財政は大変逼迫していたようです。
そこで、市民から広く寄付金を募り、建築費のほとんどを浄財で賄ったといいます。
市民の強い郷土愛と、信頼される行政の姿を感じさせる、いい話ではありませんか。

昭和二十二年(1947)には、宮元町にあった市役所が火災で焼失したため、公会堂を一時期、市仮庁舎として使ったのですが、あろうことか、昭和二十五年(1950)に、ここでも火災を発生させ、二階部分を焼失してしまいます。
よっぽど、市の財政が「火の車」だったんでしょうね。

現在の本町三丁目付近を、同じ位置から撮影してみました。

私が懐古趣味だからなのでしょうか。
昔の街並みの方が、何となく「味がある」と感じるのですが・・・。

ツリーハウスをつくるワークショップに参加したことがあるのですが、その時のビルダーが言っていた言葉を思い出します。
「自然界には直線というものはない。
自然と一体になるツリーハウスは、できるだけ直線部分をつくらないようにするべきだ。」


日本人が木の家に安らぎを感じるのは、木目がピシッとした幾何学模様でなく、適当な「曖昧さ」「でたらめさ」があるためだとも聞いたことがあります。

「不合理が持つ合理性」とでもいうのでしょうか。
面白いですね。




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この記事へのコメント
実政街道と国道9号線の間の歴史がこれでつながりますね。
日本鉄道が前橋まで開通する以前の行幸なので馬車が使われたのでしょうか、徒歩での利用を想定した江戸時代の街道と異なり、多分に直線的な道です。

当時の行幸について調べて見ましたら、この御幸街道とは別にもう一本、道を整備したようですね。
玉村史や新町史によれば、緑野郡新町宿より那波郡玉村を経て前橋に直接、最短ルートで向かう道を行幸に合わせて整備したとのことです。
しかし、現実には新町宿本陣(行在所が原田本店近くに現存)に宿泊されたあと、利根川の出水のために新橋が渡れず、高崎経由で前橋に向かわれたそうです。
沿道の住民が落胆したために、随行員の岩倉具視、大隈重信らが新橋を渡って労を労ったことから岩倉橋の名前が付いたエピソードがありますね。

余談ですが、前橋の行在所は前橋本町の前橋藩本陣でした。現在は前橋プラザ元気21になっている場所で、千代田通り側の面に「前橋藩本陣」と「明治天皇行在所跡」の二つの石碑があります。

高崎、前橋間の御幸街道は結局、往復利用されたことになります。


末広町に高砂町、旭町に栄町、あと常盤町もそうですが、旧赤坂村の編入の際には瑞祥地名が好まれて命名されていますね。時代背景や当時の好みが反映されていて興味深いです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月28日 04:41
>“ふれあい街歩き”さん

いつもながら、記事に幅と奥行きを与えて頂き、ありがとうございます!

「岩倉橋」の由来、面白いですね。
サイクリングでここを通って、初めて由来を知ったのはつい最近です。

今は、政治家の名前を冠したりすると、あまりいいことがないようですが・・・。

高崎の行在所については、次回のネタにする予定です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月28日 07:21
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