「実政街道」の記事を書いている内に、どうしても「実政の渡し」跡へ行ってみたくなりました。
上毛新聞社発行「群馬の川」に、利根川・烏川にあった「渡し」と、その廃止後に架けられた「橋」の比較図がありました。
「実政の渡し」は、前橋の小相木(こあいぎ)村と宗甫分(そうほぶん)村の間にあったということですから、現在の南部大橋の辺りになります。
「実政の渡し」には、元和二年(1616)開所とされる「真政(実政)番所」があり、下目付1人、足軽2人が詰めていたといいます。
渡し船の定員は45人で、水かさが多い時は34、5人に減らしたそうです。
意外と、沢山乗れたんですね。
馬1匹は人間7人分として計算し、荷物が多い時もその分、乗せる人を減らしたようです。
「実政番所」は高岸上にあったようですが、天明三年(1783)の浅間山大噴火による泥流で、流失被害に遭っているようです。
その時の泥流のものすごさが、想像できる話ですね。
この辺の村は江戸時代末期には疲弊し、他の地へ流出する農民も多かったそうです。
そこで前橋藩は、農家の二男・三男に助成を与え、新建百姓として農業従事者を増やす策をとります。
その結果、民家の無かった宗甫分村は、天保五年(1834)には家数10軒、米三俵を上納できるまでになったといいます。(松平藩日記)
さて、「実政の渡し跡」ですが、川の両岸をうろうろしたものの、これという痕跡が見つかりません。
前橋刑務所下の「南町公園」へ行くと、ゲートボールを楽しむ元気なお年寄り達がいました。
そばへ行って、「この辺に実政の渡しというのがあったようなんですが、聞いたことありますか?」
とお聞きすると、ご婦人が、一番高齢と思われるおじいちゃんに、大きな声で聞いてくれました。
するとおじいちゃん、即座に「あー、あったよ。」
「今でも、跡があるんだよ。
その橋(南部大橋)渡った、下(しも)んとこだい。」
と、教えてくださいました。
←ということで、南部大橋を小相木側に渡りながら左下を見ると、「あー、あれかな?」と思う大きな石が2つ、川の中に突き出るようにありました。
渡し船を繋留した石なのでしょうか。
小相木側から対岸を見ると、けっこうな川幅です。 →
当時は、もっと川も深かったのでしょうから、時によっては命がけの渡りだったことでしょう。
「実政の渡し」は、明治の初め、県庁裏(現在の群馬大橋のすぐ上流)に「曲輪橋」が架けられて、廃止されます。
そして、曲輪橋回りの「前橋新道」の利用が増えてくると、「実政街道」という名前も、次第に人々の記憶から消えていったようです。
さて帰ろうと、利根川自転車道を高崎に向けて走り出して、思わず「あった!」と叫んでしまいました。
何と、「史跡 真政(実正)の渡し」と刻まれた石柱が立っているではありませんか!
以前から、そしてこの日も、何回もこの前を通っていたのです。
ここは、弓道場のあるところなので、練習を見ながら暫く佇んでいたこともあります。
人間ってのは、こんなもんなんですね。
関心の無いものは、見てても見えず、
関心を持てば、見なくても目に入る。
いろんなことを考えながら、家路につきました。
上毛新聞社発行「群馬の川」に、利根川・烏川にあった「渡し」と、その廃止後に架けられた「橋」の比較図がありました。
(一部修整:迷道院高崎)
「実政の渡し」は、前橋の小相木(こあいぎ)村と宗甫分(そうほぶん)村の間にあったということですから、現在の南部大橋の辺りになります。
「実政の渡し」には、元和二年(1616)開所とされる「真政(実政)番所」があり、下目付1人、足軽2人が詰めていたといいます。
渡し船の定員は45人で、水かさが多い時は34、5人に減らしたそうです。
意外と、沢山乗れたんですね。
馬1匹は人間7人分として計算し、荷物が多い時もその分、乗せる人を減らしたようです。
「実政番所」は高岸上にあったようですが、天明三年(1783)の浅間山大噴火による泥流で、流失被害に遭っているようです。
その時の泥流のものすごさが、想像できる話ですね。
この辺の村は江戸時代末期には疲弊し、他の地へ流出する農民も多かったそうです。
そこで前橋藩は、農家の二男・三男に助成を与え、新建百姓として農業従事者を増やす策をとります。
その結果、民家の無かった宗甫分村は、天保五年(1834)には家数10軒、米三俵を上納できるまでになったといいます。(松平藩日記)
さて、「実政の渡し跡」ですが、川の両岸をうろうろしたものの、これという痕跡が見つかりません。
前橋刑務所下の「南町公園」へ行くと、ゲートボールを楽しむ元気なお年寄り達がいました。
そばへ行って、「この辺に実政の渡しというのがあったようなんですが、聞いたことありますか?」
とお聞きすると、ご婦人が、一番高齢と思われるおじいちゃんに、大きな声で聞いてくれました。
するとおじいちゃん、即座に「あー、あったよ。」
「今でも、跡があるんだよ。
その橋(南部大橋)渡った、下(しも)んとこだい。」
と、教えてくださいました。
←ということで、南部大橋を小相木側に渡りながら左下を見ると、「あー、あれかな?」と思う大きな石が2つ、川の中に突き出るようにありました。
渡し船を繋留した石なのでしょうか。
小相木側から対岸を見ると、けっこうな川幅です。 →
当時は、もっと川も深かったのでしょうから、時によっては命がけの渡りだったことでしょう。
「実政の渡し」は、明治の初め、県庁裏(現在の群馬大橋のすぐ上流)に「曲輪橋」が架けられて、廃止されます。
そして、曲輪橋回りの「前橋新道」の利用が増えてくると、「実政街道」という名前も、次第に人々の記憶から消えていったようです。
さて帰ろうと、利根川自転車道を高崎に向けて走り出して、思わず「あった!」と叫んでしまいました。
何と、「史跡 真政(実正)の渡し」と刻まれた石柱が立っているではありませんか!
以前から、そしてこの日も、何回もこの前を通っていたのです。
ここは、弓道場のあるところなので、練習を見ながら暫く佇んでいたこともあります。
人間ってのは、こんなもんなんですね。
関心の無いものは、見てても見えず、
関心を持てば、見なくても目に入る。
いろんなことを考えながら、家路につきました。
(参考図書:「群馬の川」「群馬県の地名」)
【史跡実政の渡し 石柱】