天神町の児童公園内にある、「天神天満宮」です。
この日は、「天神さま」の神紋でもある梅が、満開で迎えてくれました。
看板には、町名が決まってから「天神天満宮」を創ったように書いてありますが、もともとの字名が「天神」ということは、それ以前にも「天神さま」は祀られていたのでしょう。
看板にもあるように「天神さま」といえば菅原道真。
「学問の神様」として祀られることが多いようです。
ただ、この場所は今でこそ住宅が密集していますが、昔は一面の田んぼだったようです。
そんな所に「学問の神様」を祀ったりするものでしょうか。
確かに、近くに「塚沢小学校」があるにはありますが、この学校が「塚澤尋常小学校」として開校されたのは明治二十二年(1889)です。
この地が「天神」という字名で呼ばれていたのは、それよりずっと前からでしょうから。
隠居の勝手な思いつきが頭に浮かんでくるのは、こんな時です。
上州名物といえば「雷(らい)と空(から)っ風」。
一面の田んぼともなれば、空っ風もすごかったでしょうが、身を隠す場所もない夏の雷はもっと怖かったことでしょう。
菅原道真は死して雷神となり、醍醐天皇がいる清涼殿に落ちて何人もの公卿や近衛が命を落とし、そのショックで醍醐天皇まで亡くなったと伝わります。
その道真を雷神として祀ったのが京都の「北野天満宮」だそうですから、天神町の「天満宮」も雷神を祀ったんじゃないでしょうか。
また、菅原道真には牛がよくなつき、道真もまた牛をこよなく愛育したとも伝わります。
牛は、農作業に欠かせない大切な生き物です。
その大切な牛を疫病や災厄から守るために祀ったとも考えられます。
妄想はさらに広がります。
明治四十三年の地図で、字「天神」の南をくねくねと通っている道が、「実政(さねまさ)街道」です。
「真政街道」とも書かれます。
もしかすると、「真」と「道」の字から「道真」を連想して、「天神さま」をお祀りしたのかも知れません。
さあ、みなさんはどう思われますか?
ところで「実政街道」ですが、実は7年ほど前にちょっとだけ辿ってみたことがあります。 → ◇実政街道
この時は、塚沢小学校の所で古い道が消えてしまっていたので、その先は辿ってないのですが、「実政街道」はそこから何本かに分かれていたようです。
いずれの道も最終的には「井野川」を渡って日高に向かうことになります。
「高崎市史民俗調査報告書 第五集 貝沢町の民俗」に、「実正往還」と書かれた道があります。
この道沿いに「貝澤實政道路擴幅工事記念碑」という石碑が建っていて、この道が「実政街道」だったことが分かります。
いつかまた、この先を辿ってみたいと思っています。
この日は、「天神さま」の神紋でもある梅が、満開で迎えてくれました。
看板には、町名が決まってから「天神天満宮」を創ったように書いてありますが、もともとの字名が「天神」ということは、それ以前にも「天神さま」は祀られていたのでしょう。
看板にもあるように「天神さま」といえば菅原道真。
「学問の神様」として祀られることが多いようです。
ただ、この場所は今でこそ住宅が密集していますが、昔は一面の田んぼだったようです。
そんな所に「学問の神様」を祀ったりするものでしょうか。
確かに、近くに「塚沢小学校」があるにはありますが、この学校が「塚澤尋常小学校」として開校されたのは明治二十二年(1889)です。
この地が「天神」という字名で呼ばれていたのは、それよりずっと前からでしょうから。
隠居の勝手な思いつきが頭に浮かんでくるのは、こんな時です。
上州名物といえば「雷(らい)と空(から)っ風」。
一面の田んぼともなれば、空っ風もすごかったでしょうが、身を隠す場所もない夏の雷はもっと怖かったことでしょう。
菅原道真は死して雷神となり、醍醐天皇がいる清涼殿に落ちて何人もの公卿や近衛が命を落とし、そのショックで醍醐天皇まで亡くなったと伝わります。
その道真を雷神として祀ったのが京都の「北野天満宮」だそうですから、天神町の「天満宮」も雷神を祀ったんじゃないでしょうか。
また、菅原道真には牛がよくなつき、道真もまた牛をこよなく愛育したとも伝わります。
牛は、農作業に欠かせない大切な生き物です。
その大切な牛を疫病や災厄から守るために祀ったとも考えられます。
妄想はさらに広がります。
明治四十三年の地図で、字「天神」の南をくねくねと通っている道が、「実政(さねまさ)街道」です。
「真政街道」とも書かれます。
もしかすると、「真」と「道」の字から「道真」を連想して、「天神さま」をお祀りしたのかも知れません。
さあ、みなさんはどう思われますか?
ところで「実政街道」ですが、実は7年ほど前にちょっとだけ辿ってみたことがあります。 → ◇実政街道
この時は、塚沢小学校の所で古い道が消えてしまっていたので、その先は辿ってないのですが、「実政街道」はそこから何本かに分かれていたようです。
いずれの道も最終的には「井野川」を渡って日高に向かうことになります。
「高崎市史民俗調査報告書 第五集 貝沢町の民俗」に、「実正往還」と書かれた道があります。
この道沿いに「貝澤實政道路擴幅工事記念碑」という石碑が建っていて、この道が「実政街道」だったことが分かります。
いつかまた、この先を辿ってみたいと思っています。
【天神天満宮】
【貝澤實政道路擴幅工事記念碑】