「実政街道(1)」の続きです。
高砂町と北通町の山車倉庫前を過ぎると、JRと駒形街道の立体交差に出ます。
ガード下を潜ってから、左折して右斜めに進むと、「実政街道」の続きです。
少し行くと、東三条通りに出ますが、それを突っ切って細い道に入ります。 →
そういえば、高崎の「なんとか条通り」というと、この東三条通りという名前がよく出ますが、「三条」があるということは、「一条」「二条」もあるんですよね。
9月20日(日)に、「たかさきアートフリマ」が催される「せせらぎ通り」が「東一条通り」で、高島屋の西側の通りが「東二条通り」でしたっけ。
東四条というのもあるようで、他にも、西一条・二条、北一条・二条・三条、南一条・二条・三条もある(あった?)んだそうです。
どなたかご存知の方、教えて頂けるとありがたいのですが。
話が横道に逸れましたので、「実政街道」に戻しましょう。
東三条通りを突っ切って道なりに進むと、「一貫堀」に架かる「赤土橋」を渡ります。
昔、この辺りは「赤土村」と呼ばれていたそうで、その名の通り赤土の田園地帯だったようです。
この橋の近くに、村の若者が力自慢をするために使った「力石」というのがあったと、「高崎の散歩道 第五集」に書かれています。
現在は、塚沢公民館の玄関脇に置かれています。 →
「赤土橋」近くに水車小屋があって米を搗いていたとありますから、搗き上がるまでの間、力自慢でもしていたのでしょう。
重い石を持ち上げた屈強な若者の、得意げな顔が目に浮かびます。
若者に負けじと無理をして、腰を痛めるお年寄りもいたりして・・・。
「赤土橋」を渡ってしばらく行き、塚沢中学校西側の丁字路を左に入ると、古びた木の鳥居が目に入ってきます。
飯玉公民館の玄関前ですが、石祠と道祖神があります。
この辺に昔「妙信庵」というお堂があって、そこにお地蔵様が建っていました。
それが、「九蔵町むかし探し」でご紹介した「夜泣き地蔵」です。
丁字路へ戻って、「実政街道」を北へ行こうとすると、すぐ塚沢小学校の丁字路に突き当ってしまいます。
明治四十年(1907)の二万分一地形図では、「実政街道」は、この先ずーっと北東へ向って進んでいくようです。
いつかまた、この先の消えた「実政街道」を辿ってみたいと思います。

ガード下を潜ってから、左折して右斜めに進むと、「実政街道」の続きです。

そういえば、高崎の「なんとか条通り」というと、この東三条通りという名前がよく出ますが、「三条」があるということは、「一条」「二条」もあるんですよね。
9月20日(日)に、「たかさきアートフリマ」が催される「せせらぎ通り」が「東一条通り」で、高島屋の西側の通りが「東二条通り」でしたっけ。
東四条というのもあるようで、他にも、西一条・二条、北一条・二条・三条、南一条・二条・三条もある(あった?)んだそうです。
どなたかご存知の方、教えて頂けるとありがたいのですが。
話が横道に逸れましたので、「実政街道」に戻しましょう。

昔、この辺りは「赤土村」と呼ばれていたそうで、その名の通り赤土の田園地帯だったようです。

現在は、塚沢公民館の玄関脇に置かれています。 →
「赤土橋」近くに水車小屋があって米を搗いていたとありますから、搗き上がるまでの間、力自慢でもしていたのでしょう。
重い石を持ち上げた屈強な若者の、得意げな顔が目に浮かびます。
若者に負けじと無理をして、腰を痛めるお年寄りもいたりして・・・。

飯玉公民館の玄関前ですが、石祠と道祖神があります。
この辺に昔「妙信庵」というお堂があって、そこにお地蔵様が建っていました。
それが、「九蔵町むかし探し」でご紹介した「夜泣き地蔵」です。

明治四十年(1907)の二万分一地形図では、「実政街道」は、この先ずーっと北東へ向って進んでいくようです。
いつかまた、この先の消えた「実政街道」を辿ってみたいと思います。
【赤土橋】
【赤土村の力石】
【夜泣き地蔵のあった所】