2014年07月13日

史跡看板散歩 目次-1

1.嬉しいような・・・話
2.祝!名所旧跡案内板設置完了
3.番所跡
4.中村染工場
5.岡醬油醸造
6.高崎中学校跡
7.神明宮
8.旧群馬県工芸所の塀
9.瀧谷不動尊
10.大道西児育地蔵尊
11.追分の三祀神と飯塚の天王様
12.稲荷横丁
13.高崎の根本・本町
14.高崎藩武家屋敷跡
15.高崎電気館(その1)
16.高崎電気館(その2)
17.高崎小学校跡(その1)
18.高崎小学校跡(その2)
19.高崎英学校跡
20.将軍の孫
21.ハープの泉
22.向雲寺
23.興禅寺
24.小万地蔵
25.愛宕神社
26.右京柄(右京拵)
27.善念寺
28.麴屋と火伏稲荷
29.文学僧・良翁
30.御伝馬事件供養碑
31.九蔵稲荷
32.一里塚跡(九蔵町)
33.一里塚跡(倉賀野)
34.高砂町(1)
35.高砂町(2)
36.天神天満宮
37.井野町
38.村主神社
39.さんや様
40.鏡宮神社
41.日枝神社と華王寺
42.京目不動尊
43.高崎五万石騒動義人堂
44.諏訪神社(上中居)
45.和田下之城
46.矢中町のゴロゴロ山と御嶽山大神
47.太天神天満宮
48.粕沢橋と粕沢立場跡
49.下正六の石橋供養塔と観音様
50.小鶴巻古墳


  


Posted by 迷道院高崎at 00:00
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2014年07月13日

嬉しいような・・・話

前回に続いて、「おー、ついに始めてくれましたか!」
という新聞記事を。


このブログでも、しょっちゅうという感じで「史跡に説明看板を立てろ!」と叫んでいた訳ですが、やっとその気になって頂けたようです。(すみません、上から目線で・・・)

実は高崎でも、昔、立てたことがあるんですが、現在こんな状態になっちゃってます。
高崎市の、観光に対する取り組み姿勢の乏しさを悲しく思っていただけに、今回の取り組みはとても嬉しく思いました。

ただ、記事によると、「町内会に看板を立てる候補地を挙げてもらう。」という、これがちょっと心配ではあります。
例えば、「高崎城本丸跡」とか「高崎城天守閣(三層櫓)跡」などは、どこの町内会が挙げてくるのでしょうか。
町内から挙がってくるのを待つだけでなく、まずは高崎市の観光課や文化財保護課などが自ら率先してリストアップすべきだと思います。
そして、各町内にはそこに漏れている知られざる地元の史跡を挙げてもらう方がよいのではないでしょうか。

すでに「町の歴史勉強会」というのが活動している町内もありますが、そうでない町内も多いと思われます。
これを機会に、「町の歴史勉強会」が各町内で起ち上がるようになってくれたら、嬉しいですね。

しかしまぁ、わが高崎もやっと観光に力を入れてくれるようになったと喜んでいたら、こんな記事が。


先日も、下斉田田口一也さんと話していたばっかりなんです。
「富岡製糸場」が世界遺産になったことで、「横須賀製鉄所」との関係から小栗上野介が脚光を浴びることになるかも知れませんね、と。
ということで、この記事そのものは嬉しかったんですが・・・。

小栗上野介終焉の地・権田村をもつわが高崎市は、この2市のお仲間に入るつもりはないのでしょうか。
市長のお名前も「富岡」さんなんですから、大いにご縁がある訳ですし、話題性もあると思うのですが・・・。

せっかく「観光戦略の練り直しを急いでいる」んですから、どんなチャンスも逃さず捉まえて観光に活かすという、貪欲な高崎市になってほしいものです。


  


Posted by 迷道院高崎at 21:36
Comments(8)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2016年03月27日

祝!名所旧跡案内板設置完了

ひとまず、よかった、よかった!
高崎の名所旧跡に、新しい案内説明板が設置されました。



2年前に町内会に設置箇所の募集をしていて、192ヶ所の応募があった中から183ヶ所を選定したということです。
実は、募集が始まった時にもブログ記事にしたのですが、「嬉しいような・・・話」という、微妙なタイトルにしました。

案内板が設置されるのはもちろん嬉しい話なんですが、町内会に丸投げは如何なものか。
町内会によるばらつきが出て、設置すべきところに設置されないということが起こるのではないかと心配したのです。

はたしてその心配は、当たってしまったようです。
183ヶ所のリストを見ると、高崎城に関するものは一件もありません。観音山に関するものも、一件もありません。
一件もです。

対して、以前から地道に郷土史研究活動をしていた町内会からの応募数は多く、その設置個所も的を射ています。

市観光課は、これから看板設置場所のマップを作る予定とのことですが、その前に、今回漏れてしまった名所旧跡の穴を埋めていって欲しいと思います。
それには、郷土史家の先生方の指導を受け、観光課自らが主体となって、候補地を決めていくことが必要でしょう。

ま、とりあえず、新聞記事に取り上げられた名所旧跡の場所を、地図で示しておきましょうか。

【清水善造生誕地】


【旧県工芸所の塀】


【高崎電気館】


【高崎小学校(高崎学校)跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:08
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2016年05月15日

史跡看板散歩-1 番所跡

今回から、新シリーズの始まりです。

「祝!名所旧跡案内板設置完了」の記事でもご紹介しましたが、新しく高崎の名所旧跡看板が183か所に設置されました。
それを、一つ一つ訪ね歩くシリーズです。

今回は、その第一回として赤坂町「番所跡」を訪ねました。


赤坂町公民館の前に建てられているのですが、道からちょっと凹んだところなので、街道歩きの人は気づいてくれるでしょうか。

隣りの、ねず色の建物は赤坂町の山車倉です。

「萬延元年覺法寺繪圖」(1860)に、番所が描かれています。


元禄十六年(1703)に描かれた「高崎宿倉賀野宿往還絵図」では、番所長松寺側にあります。


ここにあった木戸は「内木戸」と呼ばれたもので、坂を下ったところにはもう一つ、「外木戸」というのがあったようです。

詳しくは、過去記事「続・鎌倉街道探訪記(7)」をご覧ください。

「外木戸」「内木戸」の間に、「観音堂」がありました。


ここには十一面観音が祀られていて「赤坂下町観音」と呼ばれていましたが、後に「恵徳寺」境内に移設されました。


また、「赤坂下町観音」の境内には、弘法大師が腰かけたという「大師石」というのがありました。
この石が、有名な「和田三石」のひとつ「立石」で、これも現在「高崎神社」の境内に移されています。

この近辺、見所はまだまだ沢山あるのですが、きりがないのでここまでにしておきましょう。


【番所跡】



  


2016年05月22日

史跡看板散歩-2 中村染工場

「番所跡」から50mほど坂を下ると、左へ入る小道の角にこんなものが立っています。


「公共栓」なんて知ってる人は、相当なご年配だと思うのですが、それを知ってる迷道院は・・・。

長屋などで共同で使う水道栓で、蛇口を開け閉めする取っ手が、取り外しできるようになってましたね。
水を使う人は、専用の取っ手を持ってきて蛇口を開け、水を汲んだら取っ手を外して持って帰るという仕組みです。
懐かしいなぁ。

その先の十字路を右に曲がると、「中村染工場」の高い干し台が見えてきます。


その塀の内側に、史跡看板が立っています。


創業時の「中村染工場」は、たぶん高崎城「遠構え」の水を利用して染物を洗っていたのだと思います。


「遠構えの」の水路も今はみな暗渠になってしまいましたが、長松寺の北側には「遠構え」の水が滔々と流れ、それを利用した水車もあったのです。


「中村染工場」の北に「神武坂」という坂があるんですが、ここにその水車がありました。


「長松寺車(ぐるま)」と呼ばれたこの水車は、元禄三年(1690)に造られ昭和二十五年(1950)くらいまで使われていたようです。

三基の水車で40本の杵を搗いていたといいますから、結構な規模です。

「長松寺車」のあった場所は現在こうなっていますが、何となく面影が残っているように思えます。





「長松寺車」の水車を回していた心棒は、長松寺の庫裡の柱となってその姿を留めています。

話は戻りますが、迷道院と「中村染工場」さんとのお付き合いは、けっこう長いのです。
6年前に書いた記事「高崎の誇る注染工場」がきっかけで、それがご縁で「上州弁手ぬぐい」を染めて頂くことになったのです。
その辺のことは、「上州弁手ぬぐい物語(3)」に書いてありますので、よかったらご覧ください。

2年前、とても素敵なお店にリニューアルされました。


店内には、どれもこれも欲しくなってしまいそうな、洒落た手拭いや、手拭いを使った可愛い手作りグッズが沢山並んでいます。
まだ行ったことがないという方は、ぜひお出かけくださいますようお勧めいたします。


【中村染工場】


【「長松寺車」があった場所】



  


2016年05月29日

史跡看板散歩-3 岡醬油醸造

「中村染工場」から引き返して、赤坂町の十字路を右へ曲がると・・・。

壁に、こんな絵の描いてある家があります。

塗料の剝がれかかった看板には、「みやざわ」という文字が読めます。








「宮澤工芸」という看板屋さんです。

ガラス戸に、こんなのが貼ってあります。

相撲取りの名前が書いてないのですが、「スロースターター」とあるので、この絵を描いた平成二十四年(2012)から大関になった稀勢の里でしょうか。

「宮澤工芸」の主・宮澤君夫さんは、群馬テレビ「技に迫る」にも出演した看板絵師で、銭湯の風呂場の看板とか、映画の看板とかを描く有名な方だそうです。
残念なことに、昨年亡くなられてしまったそうですが。

「宮澤工芸」のある建物は、雰囲気のある長屋づくりです。

旧中山道の趣を残す建物ですが、いつまで残っているでしょうか。

その長屋の先に、「岡醬油醸造」の倉庫があります。

その倉庫の壁面に描かれた文字こそ、宮澤君夫さんの作品です。
「技に迫る」では、この看板を描いているシーンが放映されたそうなんですが、残念ながら迷道院は見ていません。
いつか再放送してくれるといいんですが。

史跡看板は、「岡醬油醸造」の店舗正面に建っています。




説明文の最後に、「レンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが・・・」と書かれていますが、実は「岡醬油醸造」の煙突は、昭和六年(1931)の「西埼玉地震」で倒・半壊しているんです。


この煙突、「ちい散歩」地井武男さんも、亡くなる一年前に見に来てくれてます。


地井さんが訪問してくれたのは、迷道院が初めて「岡醬油醸造」さんを訪ねた年の翌年、平成二十三年(2011)でした。
そしてその翌年、平成二十四年(2012)に突然帰らぬ人となってしまうなんて、いま思っても気持ちが落ち込みます。

あ、何だかしんみりしちゃいました。
気を取り直して・・・。

レンガ煙突の「岡醬油醸造」のすぐそばに、「山田文庫」のレンガ塀もあります。

このレンガ塀もまた、面白い歴史を持っています。
   ◇和風図書館と茂木銀行

散歩っていいですよー!
さあみなさん、史跡看板散歩に出かけましょう!

【岡醬油醸造】


【山田文庫】



  


2016年06月05日

史跡看板散歩-4 高崎中学校跡

上和田町にある史跡看板は、「群馬県立高崎中学校跡」です。
現在の「群馬県立高崎高等学校」の前身ですね。





現在、その跡地は「高崎市立第一中学校」になっていますが、空から見ると当時の写真とそう変わっていません。


史跡看板には、簡単にしか書かれていませんが、「高崎中学校」がこの地に建つまでには、実に大変な物語があります。

高崎市に於ける中等教育機関としては、明治十年(1877)に創設された「烏川学校」というのがありました。
「烏川学校」はごく短い期間しか存在しなかったためか、どこにあったかすら定かでなく、宮元町であっただとか、下横町興禅寺に置かれただとか、諸説あるようです。

当時、群馬県下の中等教育機関としては前橋にもう一校、「利根川学校」というのがありました。
ところが、明治十二年(1879)両校が県立になる際、予算上の問題で、「前橋と高崎とではわずか二里余の距離しかないので、県立中学校は一か所にまとめる」という県の決議により、「烏川学校」は廃止、「利根川学校」の方を残して「群馬県中学校」と改称します。
という訳で、高崎には中学校が無くなってしまったのです。

再び高崎に中学校が置かれることになったのは、明治三十年(1897)のことです。
すでに「群馬県中学校」「群馬県尋常中学校」という名称になっていましたが、その分校を県下に6校開設することとなり、群馬郡高崎町もその開設地の一つとなりました。

「群馬県尋常中学校群馬分校」は、赤坂「長松寺」に置かれました。

「長松寺」の本堂前に、そのことを示す石碑が建っています。

ところが、その分校開設がまた大変だったようで、初代群馬分校主任となった峰岸米造氏の講演録「高中創立当時の追憶」に、その苦労話が記されています。

時に県学務課の主席属山崎金四郎氏が私の家に来られ、当時高等師範を出てまだ僅か三年しか経たぬ私に向かって六分校の一つを引き受けてくれと云はれた。
私はその任にあらずと言ってお断りしたのだが、澤柳氏(尋常中学校長・澤柳政太郎)自ら出向いて来られて、是非高崎分校を引受けてくれと強談し、承諾するまでは膝詰め談判で動かない。(略)
澤柳氏は私に向かって実質上の校長としてやりたい様にやってくれと云はれ、一年生を二学級募集すると共に、職員を五六名探さねばならなくなった。(略)
愈々高崎へ来て見ると三月も末であったが中学校は何処にあるのか無論校舎の予定も立って居ない。やむなく赤坂町の長松寺の本堂を借りて仕事を始める事になり、又事務をとる部屋に郡役所の一室を借りて事務員と二人で愈々店開きをした。」

その分校の新入生は76名、職員は6名でした。
本堂に幕を垂らして二つの教室に分け、八畳の間を校長室と職員室で兼用するという状態だったそうです。

「長松寺」はあくまでも仮校舎なので、峰岸主任は休む間もなく本校舎建設のために奔走することになります。
しかし、土地探しはもちろん、土地の取得、校舎の建設にかかる資金の調達までしなければならないのですから大変です。

そんなわけで敷地が却々(なかなか)きまらず、現在の此の六千坪が決定したのはやっと一学期も終りになってからの事である。
当時高崎に横浜の茂木銀行の支店があったが、其の支店長の松尾好国といふ人が実に中学教育に熱心で、住居も柳川町の私の隣家にあった関係上、私の宅へ毎晩の様にやって来て激励もし啓発もしてくれたものである。
私は酒は好きではないが松尾さんは大の酒好きで、或る晩私もある程度まで酔って愉快になった時、私はふと機略を弄する気持ちになった。(略)
そこで私は松尾さんの肩を叩いて、中学校が出来ないのは資金の問題なのだから貴方の銀行で極めて低利で金を貸して戴けないでせうかと頼むと、快く承諾して呉れた。
私は安心はしたが、相手が酔客だからと思って翌日大急ぎで銀行へ行って支店長に会った所が、一向話が通じない。酔って約束した事を忘れてゐるのである。
そこで昨夜の話をすると驚いて、支店長にはそんな権限はないから本店へ行って重役と相談して来るとて、結局私の申し出た金額を大変安い利息で高崎町に貸してくれることになった。」

こうやって、明治三十一年(1898)ここ上和田の地に本校舎が建設されたのです。

第一期卒業生の高松彦太氏によると、この地は元田んぼだったので土地は湿り、雨が降ると幾筋もの水流ができて、夜などは足元も危ないくらいであったといいます。
また、夜な夜な校舎の辺りを狐が啼きながら通り、昼でもイタチが顔を出すような寂しい風情だったそうです。

それから37年を経た昭和十年(1935)、校舎の老朽化を理由に校舎の移転・新築が提案されます。
そして、昭和十三年(1938)の暮れも押し詰まった十二月二十八日、乗附の地に造られた新校舎に移ることとなります。

この年は国家総動員法が施行された年で、全校職員と生徒は上和田校舎を出発後高崎神社を参拝、ラッパ隊を先頭に市内を行進して乗附校舎に入り、国旗掲揚の後、御真影を奉迎し、万歳三唱で移転式を終えたということです。

「高崎中学校」が新制の「高崎高等学校」になったのは、戦争も終って落ち着きを取り戻しつつある昭和二十三年(1948)のことでありました。
(参考図書:「高崎高校八十年史」)


【高崎中学校跡の史跡看板】


【長松寺】



  


2016年06月12日

史跡看板散歩-5 神明宮

「高崎中学校跡」の史跡看板から西へ、直線距離で120mほどの所にあるのが、並榎町「神明宮」(しんめいぐう)の史跡看板です。





説明看板にある「榎本於明神」というのは、たぶん「榎本於神明神」で、「神」の字が一つ抜けてしまったのだと思います。
「えのもと・おかみ・みょうじん」と読むのでしょう。

境内にある「神明宮由緒」の看板では、こうなっています。


どちらの看板にも書かれているのが、明応三年(1494)に始まったとされる「獅子舞」です。

「並榎町の獅子舞の流派は黒熊流だったが、明治の初めに稲荷流に変わり現在に至っている。そのせいか、並榎の獅子舞は足を踏みつける半閇(へんばい)の動作が強く、力強い踊りが特徴」
だそうです。(群馬県教育文化事業団「ぐんま地域文化マップ」)

では、その「獅子舞」を動画でご覧ください。
(高崎市の動画を一部編集させて頂きました。)

また、史跡看板には、「狛犬の台座に村上鬼城揮毫の並榎橋の親柱が使われている」とあります。
これがそうです。


橋の親柱ですからあと二本ある訳ですが、それはここから北北東400m、長野堰沿いの新「並榎橋」のところに残っています。


この親柱を使った「並榎橋」が竣工したのは昭和六年(1931)、長野堰の改修に伴い橋が架け替えられたのは昭和五十一年(1976)、使われなくなった親柱を台座に使って「神明宮」の狛犬が奉納されたのが昭和五十二年(1977)でした。

長野堰のほとりに残した二本の親柱も、目立たない場所ではありますが、よく残してもらえました。
欲を言えば、ここにも「名所旧跡看板」を立ててほしかったものです。

「神明宮」境内には、鬼城句碑もあります。
平成二十二年(2010)建立の、まだ新しいものですが。

「大雨に 獅子をふりこむ 祭可南(かな)」 鬼城

並榎町には、村上鬼城の居宅「鬼城草庵」があることから、その縁が深いのです。


「鬼城草庵」の事をブログに書いたのは、もう7年も前。
駆け出しの頃の記事ですが、よかったらご覧ください。
  ◇「崖の上の鬼城先生」

はい、今日はここまで。


【神明宮】


【並榎橋】


【鬼城草庵】



  


2016年06月19日

史跡看板散歩-6 旧群馬県工芸所の塀

「並榎橋」のすぐ近くにあるのが、「ブルーノタウト設計 旧群馬工芸所の塀」という史跡看板です。



看板には「群馬工芸所」とありますが、正しくは「群馬県工芸所」です。


「群馬県工芸所」があった場所は、いま「高崎市勤労青少年ホーム」になっています。


「群馬県工芸所」の建物は一切残っていませんが、塀の一部だけが当時のまま残されています。
この塀が、ブルーノ・タウトの設計だというのですが・・・。


大正十年(1921)四月、前橋「群馬県工業試験場」が設立され、桐生・伊勢崎・邑楽郡にその分場が置かれました。
高崎はやや遅れて、翌十一年(1922)八月に分場が置かれます。

「群馬県工業試験場高崎分場」「群馬県工芸所」と改名され独立したのは、昭和十一年(1936)四月のことです。




上の写真はいつ撮影されたものか分かりませんが、塀のデザインは今と同じです。
ブルーノ・タウト高崎にいたのは、昭和九年(1934)八月から十一年(1936)十月までですが、この塀は、はたしてその二年の間に造られたものなのでしょうか。

昭和十二年(1937)発行の「群馬縣工藝所要覽」に、次のような記述があります。
・・・群馬縣工藝所ハ昭和十一年四月一日ヲ以テ創立サレ、舊(旧)群馬縣工業試驗塲髙崎分場ハ仝(同)年三月末日廢止サレタルニ付、之ガ敷地、建物及設備ヲ繼承シ、同時ニ髙崎市ハ舊構内ニ寄宿舎ヲ新築シテ講習會受講者ノ宿舎トシ、北隣接地ヲ借入レテ染色工塲及汽罐室ヲ新築シ染色工塲内設備ノ大部分ト共ニ之ヲ寄附サレタリ。」

ブルーノ・タウトについての記述もあります。
時適ドイツ伯林(ベルリン)大學教授建築家ブルーノ・タウト博士來朝中ナリシヲ以テ、本縣ハ新工藝指導ヲ嘱託シ、同氏亦熱心ナル指導ヲ試ミ、工藝意匠上一新機軸ヲ開キ、群馬工藝ノ名聲ヲ髙メ又日本全國ノ工藝ニ新指針ヲ與ヘタリ。
昭和十一年九月、仝博士ハ土耳古(トルコ)政府ノ招聘ニ依リ「イスタンブール」大學教授トシテ赴任スル爲轉任セラレタルモ、其方針ヲ踏襲實行シツツアリ。」

ということで、建物と設備は「高崎分場」時代のものを継承したとあります。
塀についての記述は全くありません。
世界的大建築家の設計した塀とあれば、ここに記述しないはずはないと思うのですが・・・。

高崎の、いや群馬県の工芸品開発を牽引してきた「群馬県工芸所」は、昭和四十三年(1968)前橋市鳥羽町「群馬県工業試験場」に統合され、姿を消しました。

ついでですが、「群馬県工業試験場」は平成十五年(2003)「群馬県立産業技術センター」と改称し、前橋市亀里町へ移転しています。
その「群馬県立産業技術センター」には、ブルーノ・タウトの部屋が設けられていて・・・、





タウトの足跡や著作、資料、タウトが指導した工芸品のレプリカなどが展示されています。

そうそう、これもついでの話ですが、「旧群馬県工芸所」前の道を北へ300mほど行くと、「紡績踏切」という面白い名前の踏切があります。
史跡看板を見たついでに、寄ってみてください。

【旧群馬県工芸所の塀】


【紡績踏切】


【群馬県立産業技術センター】



  


2016年06月26日

史跡看板散歩-7 瀧谷不動尊

上並榎町の史跡看板「瀧谷不動尊」は、その名も「瀧谷不動公民館」の前庭にあります。







男滝女滝があったという崖は、今はなだらかな芝のスロープになっていて、その面影はありません。


明治十三年(1880)の地図では、滝もあったであろう崖が、ずっと連なっている様子が見られます。


平成元年(1989)発行の土屋喜英氏著「高崎漫歩」にも、「瀧谷不動尊」の記述があります。

テニスコートの崖上に瀧谷不動といわれる所がある。以前はお堂があったそうであるが、現在では露座の不動尊の石像が祀ってある。
瀧谷不動については何の記録も歴然としないが、護国寺の記録には境内の一画にあったとある。
かつて護国寺の境内は上並榎全域にわたっていたといわれた。
大門は小字雁田あたりにあり、西は唐崎の一本松あたりまでであったそうである。
瀧谷不動が境内にあったのは、境内が広かった千年も昔のことかも知れない。
瀧谷不動にはかつて滝があった。
この滝は並榎城の外堀の水を落としていたもので、この滝に打たれて修験者が修行をしたのである。
現在テニスコートになった河原では、修験者の火渡りなども行われたこともあった。」

上の地図でも「並榎城」の輪郭は何となく分かりますが、「新編高崎市史 資料編3」には山崎一氏の残した城郭図も掲載されていて、さらに位置関係がよく分かります。


滝の下の河原には、昭和五十八年(1983)に開催された「あかぎ国体」のために、テニスコートが造られました。
これが、いま「上並榎庭球場」となっています。


庭球場へ下る坂の手前に、こんな可愛いお地蔵さまが建っています。

そして、その少し先にあるのは、テニスコートが完成して間もなく、君ヶ代橋の袂から移設された「鬼城句碑」です。



いやー、説明板の文字にふり仮名を振ってくれてるのは、ありがたいですねぇ。
史跡看板は、このように子どもにも読めるような工夫をして頂くと、大人も大変助かります。

ということで、今回も注文を付けたところで、今日の散歩はここまでと致しましょう。

【瀧谷不動尊】


【並榎庭球場の鬼城句碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:03
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2016年07月03日

史跡看板散歩-8 大道西児育地蔵尊

「大道西児育地蔵尊」、この史跡は知らなかったので、けっこう探し廻りました。
大橋町にあるというので、てっきり北高崎駅の踏切より南だとばっかり思い込んでいたのです。
町の人に聞いても、知らないという人が多く、やっと一軒の衣料品店で教えてもらうことができました。

場所は、踏切から北へ90mほど行った、「ローソン」の近くでした。



近づくと、こんな感じの、こじんまりしたお堂です。




「大道」「三国街道」のこと、その西側にあるから「大道西」なんでしょう。

このお地蔵さま、子どもの身代わりになって首を切られちゃったんですね。

たしかに、お地蔵様の頭はただの石が乗っかってるだけです。

でもね、ほんとはどうだったんでしょう。

案外、誰かが村の大事なお地蔵様の首を落としちゃって、困ってつくった話だったりして・・・。

ま、そういうの、私は好きですけど。

不思議なことってのはあるもので、別件の調べごとで土屋喜英氏の書いた「高崎漫歩」をめくっていたら、ひょいっと目に飛び込んできた一節がありました。
信越線の踏切の北にも大橋町がわずかに張り出していて、そこにお地蔵さまが祀られている。
昭和の初めころの話であろうが、子供が自動車にひかれそうになったが、道路にふせたため怪我一つなかったということで、お地蔵様の近くでは交通事故はないとのことである。」

これ、今回の「児育地蔵尊」のことですよね。
ご利益は現代にも続いているようです。
そうなると、看板は「身代わり地蔵尊」とした方が良かったのではないかと思うのですが・・・。

お堂の中に、堂宇を改築した時の記念写真が飾られています。

後ろに、昭和六年(1931)九月吉日と書かれたものが写っています。
ちょうど、「西埼玉地震」が発生した月ですが、大橋町の被害は記録にありません。
もしかすると、お地蔵さまが守ってくれたのかも知れませんね。

地蔵堂の周りにも、馬頭観音や二十二夜様の石造物が建てられています。


この地区の人達の信心深さが現代にもつながっている、素晴らしい史跡だと思います。
史跡看板の設置により、これからも語りつがれていくことでしょう。


【大道西児育地蔵尊】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:06
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2016年07月10日

史跡看板散歩-9 追分の三祀神と飯塚の天王様

「大道西児育地蔵尊」から北へ500mほどの所に、「追分の三祀神」という史跡看板が建っています。




ここにある「三祀神」(さんししん)とは、「八坂神社」素戔嗚尊(スサノオノミコト)、「愛宕神社」火産霊尊(ホノムスビノミコト)、そして「道祖神」の三つの神様のようです。


「八坂大神・愛宕神社」碑には「明治三十五年建之 新田氏子中」「道祖神」碑には「大正十五年十二月立つ 氏子中」の文字が碑背に刻まれています。

まだブログ駆け出しの7年前、ここを記事にしていました。

「八坂大神」「牛頭天王」(ごずてんのう)でもあるので、飯塚町の人は「天王さま」と呼んでいるようです。
実は、飯塚町にはもう一つ「飯塚の天王様」という史跡看板が建っている所があります。

追分の天王さまから北東へ170m、「飯玉神社」のすぐ近くです。





看板の最後に記されている、「ベンガラの赤色の一部が残っている」のは、これのことらしいです。


この辺りも、7年前にウロウロしたことがありまして、ここも見ていたと思うのですが、何の説明看板もなかったのでスルーしていました。(◇神様・仏様 てんこ盛り
やはり、史跡看板は必要なものだなぁと、あらためて思った次第であります。

また、近くには、こんな看板が立っている所もあります。


この辺に、かつて「上飯塚城」というのがあったということです。


古城塁研究家の山崎一氏によれば、「形式が和田下之城とよく似ている。城南の下之城が創築された永禄の頃、城北の支城として和田氏が築いたものではないか。」と推定しています。
また、「上飯塚城」には「下之城」同様、定着した城主が見当たらないのは、和田氏の直轄地だったのだろうと言っています。

なかなか見所の多い飯塚町です。
みなさんも、ぜひお出掛けを。


【追分の三祀神】


【飯塚の天王様】


【内町堰】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2016年07月17日

史跡看板散歩-10 稲荷横丁

相生町住吉町の境目を西に入る細い道が、「稲荷横丁」です。



横丁を30mほど入った左側に、朱塗りの社があります。
そこに建っているのが、今回の「稲荷横丁」の史跡看板です。


以前、「稲荷横丁」の記事を書いたのが7年前、「隠居の思ひつ記」駆け出しの頃です。

その時は気が付かなかったんですが、今見ると、お社の中には何だか怪しいものも祀ってあります。


これも、「下の病」に効くんでしょうかね。

看板に書かれている、「三国街道口の木戸」があった位置には、こんなブロックタイルが埋め込まれています。→

「相生町木戸」の想像図があります。
隣町の、四ッ屋町に住んでいた土屋喜英氏の画です。↓




北側から見た絵ですね。
右にあるお社が、「稲荷横丁」のお稲荷さんなんでしょうか。

木戸跡タイルの道の反対側にあるのが、明治三十年(1897)創業の「深澤陶器店」です。

昔からこの店の名物になっているのが、信楽焼の大きなタヌキです。↓






近頃すっかりコモで身を包んでいて、全身を拝むことができないのですが、「酔っ払いが悪戯するんで・・・。」とは、ご主人の談。
「徳利を下げるたぁ持ってかれっちゃうし、ブラジャーするやつぁいるし、口はおっ欠く、大事なとかぁおっ欠く・・・。」という悪さに業を煮やして、コモで包むようにしちゃったんだとか。

でも、今日は「隠居の思ひつ記」読者にだけ、特別にご開帳して頂きました。
どうです、愛嬌のあるいいタヌキでしょう?

「稲荷横丁のキツネ」「木戸番のタヌキ」、セットで名物にしたいところですがねぇ。

不心得者さえいなければ・・・。
勿体ないことです。

明治三十七年(1904)発行の「群馬県営業便覧」には、「陶器店 深澤弥平治」(深澤陶器店)の道向こうに、「陶器 深井寅次郎」というのが記載されています。


深井寅次郎はここに窯を築いて陶器を製造しており、「今戸屋」と呼ばれていました。

「開化高崎扣帖」に、こんな記述があります。
相生町の中ほど東側の深井陶器店は、先代深井貞次郎まで陶器の製造を業としていた。
深井家は元来高崎旧藩の士であったが、道楽が昂じたのか、或は内職が維新後本業になってしまったのであろうとは当主の弁である。
東裏に窯を築き、産地瀬戸から陶土を取り寄せ、時には技術者も招いて新しい技術を習得し、盛んな時には四、五人の職人で焼いていて、高崎近辺から遠く信州まで販路を広げていた。
明治十八年相生町に移り住んで以来大正の末期まで続いていたと云う。」

この深井の窯は、高崎の窯業の先駆的役割も果たしたようです。
その後も深井の窯で仕上がった大橋町西沢某は近辺の陶土で焼き、また住吉町にも三世川太平が高商の東に窯を築き、南町の吉井の窯で仕上がった小板橋竹次郎は旭町に、南町の女部田陶器店も何代かに亘って焼いていた。
これ等は、植木鉢、コンロを主とする今戸焼と言われるものが多く、誰云うとなく「今戸屋」と呼ばれた。
終戦近く燃料が統制される頃には、窯の煙は見られなくなってしまったが、南町の女部田の分家、女部田恵之吉は終戦後十年近く、下和田町において焼いていた。」
(段落の区切りを若干編集しました。)

「深井陶器店」があった場所は、いま駐車場になっています。

「深澤陶器店」のご主人によれば、しばらくタイル関係の仕事をしていたそうですが。

ところで、相生町の北隣の住吉町に、もうひとつの「稲荷横丁」があります、いや、ありました。
もっとも、「稲荷横丁」とは呼んでいなかったようですが・・・。

三国街道の一本東の細道を北へ行って大通りに出る手前、そこにかつて「宝珠稲荷」というお稲荷さんがありました。

明治の初め頃、住吉町の住人が日光参詣の帰り道に、どこかでお稲荷さんがついて来てしまったので、ここにお祀りしたというんですが。


いつの間にか、取り壊されてしまいました。

ちょうど、軽ワゴンが止まってるあたりにあったんだそうです。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」によれば、例年五月十五日に祭礼を行い、東京浅草から榛名山太々講の一行が参詣に来ていたということです。

見られる時に見ておかないと、見たい時には見られないということはよくあることです。

「宝珠稲荷」に通ずる細道には、きっともうすぐ見られなくなる昭和の風景が、今ならまだ残っています。



見られる内に見ておいた方がいいですよ。


【稲荷横丁の史跡看板】


【相生町の木戸跡】


【深澤陶器店】


【宝珠稲荷があった場所】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:05
Comments(6)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2016年07月24日

史跡看板散歩-11 高崎の根本・本町

今回の史跡看板、どこにあるか分かりますか?



速度取り締まり中のお巡りさんみたいに、こっそり隠れてます。


看板に使われている写真は、ここから100mほど西、本町一丁目の角です。

正面の黒い蔵造りは、壁面に「中仙道、三国道」と道しるべが書いてあったことで有名な、薬種商「大津屋」です。

現在の本町一丁目角がこれ。

となれば、さっきの史跡看板、写真右手前の植え込みあたりに建てるのが、一番いいと思いませんか?

ぜひ、再考願いたいものです。

看板の「高崎の根本・本町」というタイトルですが、寛政元年(1789)に高崎藩士・川野辺寛 (かわのべ・かん)が著した「高崎志」に、「本町ハ髙崎根本ノ町也」と書かかれています。


高崎がまだ和田と呼ばれていた頃、和田城の東側を街道が通っており、「金井宿」「馬上宿」という宿場町がありました。
井伊直政箕輪から移るための新しい城(高崎城)を築く時、その宿場町が城域の中に入ってしまうことになりました。


そこで、その宿場町を、新しく開く中山道沿いで城下町の北の入口に位置する場所に移しました。
そして、その町はもともと高崎の根本(こんぽん)の町であったということで、「本町」と名付けたという訳です。

看板には、伊能忠敬小林一茶が泊まったという旅籠「金升屋」のことも書かれてますね。
「金升屋」の広告が、文政十年(1827)に江戸で刊行された「商家高名録」に載っています。

ここには、「金舛屋庄三郎」となっていて、旅籠業の他に「金齢丹」という痰に効く薬も売っていたようですね。

どの辺にあったのかというのは、天保二年(1831)に書かれた「中山道高崎宿往還絵図」というのに載っています。


高札場の角から間口の間数を足していくと30間半(55.45m)になるので、現在の「水村園」の少し西辺りになりそうなんですが。

茶舗「水村園」は、安政四年(1857)創業の老舗です。

「水村園」は、自前の史跡看板を店先に建てています。

実は、この史跡看板が、今回の高崎市による名所旧跡看板設置の原点となったのです。



「水村園」社長・小見勝栄氏の、高崎市観光課への働きかけが実を結んだと聞いております。

「本町は、高崎根本の町」と言われるだけあって、まだまだ多くの名所旧跡があります。
 ・伝馬問屋梶山家と高札場跡
 ・佐渡御金蔵跡
 ・遠構え跡
 ・湯屋横丁

ぜひとも、史跡看板の追加設置をして頂きたいと思います。

またもや注文で終わってしまいますが、今日はここまでと。

【高崎の根本・本町史跡看板】


【水村園】



  


2016年07月31日

史跡看板散歩-12 高崎藩武家屋敷跡

この史跡看板も、ちょっと見逃しそうなんですが、高崎神社前の道を南に行って、お堀に出る70mほど手前の駐車場に建っています。





看板に、安政四年(1857)の城下絵図が載っていますが、


字が小さくてどこが武家屋敷なのかよく分からないので、「新編高崎市史 資料編5」の付図「髙崎御城内外畧圖」(年次不詳)で見てみましょう。


「士屋鋪」「士屋シキ」と書いてあるのが、藩士のお屋敷です。
上級職の藩士は城内、それ以下の藩士は城外に住んでいたようで、「長屋」「長ヤ」は下級藩士や足軽クラスなのでしょう。

前回「高崎の根本・本町」の記事で、高崎城を造るために町を移したという話をしましたが、その高崎城も明治五年(1872)に陸軍省の所管になると、今度は城内に住んでいた高崎藩士がすべて城外に移されることになりました。
その辺のことは、過去記事「続・鎌倉街道探訪記(4)」に書いてありますので、よかったらご覧ください。

史跡看板が建っている道向こうは、内村鑑三の居宅跡です。


ここにも史跡看板があって然るべきと思うのですが・・・。

それともう一か所、ぜひ史跡看板を建ててほしい場所が柳川町にはあります。


なぜかという理由は、土屋喜英氏著「高崎漫歩」にある、こんな逸話を読めば分かっていただけると思います。
柳川町の一番地は、柳橋の角の一画で、ここに通称赤門浅井といわれる家老職も勤めたことのある浅井家が移り住んだ。その敷地は六百坪もあったといわれる。
なぜ、赤門と呼ばれていたのか判然としないが、浅井家は城中にいたころは、三の丸の大手門近くの城代屋敷におり、当時赤い門でもあったのであろうか。

現在の一番地には東向きに黒塗りの塀とケヤキ造りの門があり、わずかに面影を残している。(残念ながら今はありません)
この黒塀の屋敷に作詞家の山崎正がいたことがあり、『粋な黒塀、見越しの松に、あだな姿の洗い髪・・・』という『お富さん』の歌詞はここで生まれたのである。

今どき「お富さん」なんて言っても、「イメージキャラクターでしょ?富岡製糸場の。」と言われそうなんで、一応、YouTubeを貼り付けときます。


群馬芸術協会会員・金井恒好氏も、「開化高崎扣帖」山崎正のことを書いています。
山崎正は、高崎を、そして柳川町を、こよなく愛していた。
『粋な黒塀 見越しの松』は、彼が好きだった城下町高崎であると同時に、柳川町のイメージでもあったのだ。
『仇な姿の洗い髪』は、その頃の柳川町を歩けば、ここかしこに見受けられた艶やかな姿でもあった。(略)

戦後復帰した山崎正は、柳川町の一画電気館のそばに『幌馬車書房』を開いた。
ここから、炭坑節、常磐炭坑節をはじめとする多くの民謡、歌謡曲が生まれたことは言うまでもない。

歌舞伎歌謡と銘打った『お富さん』の歌詞を山崎正から手にした渡久地政信は、思案の末、当時人気絶頂の岡晴夫に歌わせようとして作曲したが折も折り、岡はコロンビアレコードへ移籍が決定した直後だった。
止むを得ず、『赤いランプの終列車』でデビューして以来、パッとしないままでいた無名の新人春日八郎に、急きょ変更して吹き込んだ。
その時は、これがまさか六十五万枚も売れるヒット曲になろうとは予想だにしなかった。(略)

かくて、一世を風靡した歌と共に、郷土出身の作詞家山崎正の名は、永く庶民の心の中に生き続けるであろう。」

しかし残念ながら、高崎をこよなく愛した山崎正の名は、わが高崎では忘れられつつあります。
ところが、お隣の前橋のほうで、その名が語りつがれているというのですから、なんともはや。

前橋「東和銀行本店」脇の坂道を下って、馬場川を渡ったすぐ先に、いかにも昭和の風情を漂わせている小料理屋があります。

このお店こそ山崎正の夫人が開き、現在はご子息が跡を継いでいる「つくし」です。

「お富さん」の歌詞を柳川町の居宅で仕上げた山崎正は、昭和二十八年(1953)に前橋へ移り住み、昭和三十一年(1956)に「前橋音頭」(作曲・山口俊郎、歌・三橋美智也)を作詞しています。

現在前橋で盛んに踊られている「前橋だんべえ踊り」は、平成二年(1990)この「前橋音頭」をもとにアレンジされたものだそうです。

また「前橋文学館」では、平成十八年(2006)に「山崎正・歌謡曲の世界」という企画展を実施しています。

その山崎正の原点ともいえるわが高崎の町がピクリとも動いてないことに、実に残念な思いを抱きます。

ぜひ山崎正の居宅跡に「お富さん発祥の地」という史跡看板を建て、高崎が生んだ大作詞家・山崎正を語り継いでいこうではありませんか。


【高崎藩武家屋敷跡史跡看板】


【内村鑑三居宅跡】


【山崎正居宅跡】


【つくし】



  


2016年08月07日

史跡看板散歩-13 高崎電気館(その1)

ここを「史跡」と言うのかどうか分かりませんが、柳川町の一角にある映画館「高崎電気館」の史跡看板です。





「電気館」も、ブログ駆け出しの頃に記事にしていました。
   ◇電気館通り(2009年01月10日)

大正二年(1913)開業時の「電気館」の写真が、「高崎百年」に載っています。

確かに、なかなかモダンな建物です。

「高崎百年」によると、当時はまだ「活動写真」と呼んだ無声映画だったが、連日立ち見が出るほどだったとあります。

この後、高崎には次々と映画館がオープンしていきます。

「新編高崎市史 通史編4」には、高崎の映画館の変遷図が載っています。


このように、かつては沢山あった高崎の映画館ですが、昭和後期になると次々と銀幕が閉じられていきます。

その中にあって、高崎の映画館の走りだった「電気館」が最後までその姿を留めているというのは、この高崎においては実に珍しいことなのであります。

そして今もなお、「電気館通り」という看板を付けた街路灯がずらっと残っているというのも、これまた素晴らしいことなのであります。

ずっと残っていてほしいものです。

「電気館」の裏通りへ入ってみると、古き柳川町の佇まいがそこに残っています。


前回の「高崎藩武家屋敷跡」の時に、作詞家・山崎正の話をしましたが、「電気館」の史跡看板にも山崎正の名が出てきます。

看板には「当館の側に書房を開いていた・・・」とあるのですが、その書房はどこにあったのか。
前回の記事で、「幌馬車書房」という名だということまでは分かっているのですが。

「電気館」近くに昔から住んでいる方数人にお尋ねしたのですが、みなさん山崎正はよくご存知でしたが、「幌馬車書房」というのは聞いたことがないと言います。
ただ、思わぬ収穫もあって、山崎正の両親がこの場所に住んでいた、ということを教えて頂きました。


さて、「幌馬車書房」はいったいどこにあったのか。
次回に続きます。


【高崎電気館】


【山崎正の両親が住んでいた所】



  


2016年08月14日

史跡看板散歩-13 高崎電気館(その2)

山崎正がやっていたという「幌馬車書房」がどこにあったのか、どうしても知りたくて調べを続けました。

いろいろ調べていく内に、山崎正「幌馬車詩人社」という同人会に所属していたことが分かってきました。
もしかすると、「幌馬車書房」「幌馬車詩人社」の誤りなのではないか、と思うようになりました。
「書房」というので「書店」「本屋」をイメージしていましたが、同人会の事務所だったのかも知れません。
であれば、近くの人が知らないというのも肯けます。

さらに調べていくと、その同人誌「幌馬車」が、高崎図書館の書庫に三冊ほど所蔵されていることが分かりました。


昭和十二年(1937)発行のものを見ると、「幌馬車詩人社」の住所は「高崎市江木町二三七(高槻方)」とあり、残念ながら柳川町ではありません。
ということは、山崎正が主宰していた同人会ではないということで、ちょっと落胆しました。
しかし巻末の「消息」欄に次のような記述を見つけ、ささやかな喜びを味わうことはできました。
山崎正
九月二十日以來北支戰線に奮闘中、二十六日病得て○○野戦病院に入院、十月四日更に○○陸軍病院に轉院、砲煙彈雨の中に在りても猶詩作を忘れず、身を以て書いた作品數十篇を歌謡集『漁火』として近日出版の由。」

さらに迷道院を欣喜させたのは、昭和二十一年(1946)発行の「幌馬車」誌でした。
消息
山崎正氏
同氏經營の『幌馬車書房』は九月中旬高崎市柳川町三二番地に移轉、『日本作歌者協會』員に推薦さる。」

やはり、「幌馬車書房」でよかったんです。(後で、古書店であったことが判明します。)
しかも、番地まで書いてあるじゃありませんか。
さらに驚くことに、その番地は、前に教えて頂いた、山崎正の両親が住んでいたという場所だったんです。


史跡看板に書いてある通り、たしかに「電気館の側」でした。

ここで気になったのは、山崎正「粋な黒塀」の所からここへ引っ越したのかということなんですが、同誌の「編輯部員住所錄」を見ると「高崎市柳川町一 松浦方 山崎正」となっているので、32番地はあくまで「幌馬車書房」として使っていて、住んでいたのは1番地、しかもそこは借家だったということも分かりました。

最後に、取材で得たお話を一つ。
あの黒塀の家にはね、ほんとにお富さんという女性が住んでたのよ。見越しの松もあって。
この辺は、ほら、花柳界でしょ。
お富さんもそういう女性だから、ほんとに洗い髪できれいだったの。
だから「お富さん」の歌が出た時、あぁ、ここのことを歌にしたのねって、この辺の人はみんな言ってたの。
お富さんの歳?そうねぇ、50歳くらいだったかねぇ。
でも、借金してね、大変だったみたい。
独り暮らしだったから、亡くなって一週間くらいしてから見つかったのよ。」

お富さんが住んでいたという、黒塀に見越しの松があった家は、現在コイン駐車場になっています。


「お富さん」が発表され大ヒットしたのは、昭和二十九年(1954)のことでした。
「電気館」での歌謡ショーの後に、山崎正の家で撮った写真が残っています。


時はまさに「戦後復興期」から「経済成長期」に入り、人々の娯楽文化が一気に花開く時でありました。

ここに、山崎正の略歴をご紹介しておきましょう。
(参考資料:前橋文学館発行「山崎正・歌謡曲の世界」)

大正五年(1916)東京亀戸に生まれる。本名・松浦正典。
母の再婚により高崎に移住。
高崎中学(現高崎高校)卒業後、東京美術学校入学。
この頃から作詞にも関心を持ち始め、高橋掬太郎の門下生となる。
昭和11年(1936)歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる。
昭和12年(1937)高崎歩兵十五連隊に入隊。
昭和13年(1938)満州チチハル陸軍病院から歌謡集「踊る支那兵」を、見舞いに来た民間人に秘かに託し、内地に投函する。
帰還後、慰問文が縁で前橋の料亭「鳥辰」の長女・ふみ子と結婚。
昭和16年(1942)作詞した「暁の門出」「茶作り次郎長」「軍歌千里」の三曲が、近藤広の作曲でレコード発売。
長男・正幸誕生。
昭和17年(1942)次男・薫(現つくし店主)誕生。
昭和19年(1944)再び招集。東部三八部隊に陸軍兵長として入隊。
三男・義明誕生。
昭和21年(1946)高崎市柳川町に古書店「幌馬車書房」を開店。
昭和22年(1947)自由作詞家連盟の同人誌「歌謡街」を創刊。
昭和26年(1951)単身上京、文化放送に所属。ラジオのコマーシャルソングなどを手掛ける。
個人誌「河童」創刊。
昭和28年(1953)「お富さん」を仕上げたのち、住居を前橋に移す。
昭和29年(1954)渡久地政信作曲で「お富さん」発売。
昭和30年(1955)高崎電気館を借り切り、「お富さん祭り」を開催。
昭和31年(1956)「前橋音頭」作詞。
昭和34年(1959)前橋市石川町に「山崎歌謡教室」を開設。
昭和37年(1962)「太田囃子」「伊勢崎囃子」作詞。
昭和39年(1964)社団法人日本作詞家協会理事に就任。
昭和43年(1968)山崎正永眠。享年52歳。
  

【高崎電気館】


【幌馬車書房があった所】


【お富さんが住んでいた所】


【山崎正が住んでいた所】



  


2016年08月21日

史跡看板散歩-14 高崎小学校跡(その1)

お堀端の「東京電力」前に建っているのが、「高崎小学校跡」の史跡看板です。
傍らに生えている松の木は、「高崎小学校」時代に植樹されたもので樹齢およそ百年と伝わっています。




この場所にあったという「石上寺」(せきじょうじ)は、貞観十六年(874)在原業平によって箕輪の地に草創され、井伊直政と共に高崎へ移ったという由緒ある寺です。


維新直前の慶応三年(1867)、「石上寺」は高崎藩校「文武館」(遊芸館)の仮校舎「和漢学校」として使用されています。


そして明治元年(1868)に「文武館」の新校舎が完成して仮校舎を引き払うと、明治三年(1870)「高崎藩英学校」に使用されますが、やがて「英学校」檜物町に移り、「石上寺」跡は無住の地となります。
高崎藩の祈願寺であったということで檀家もなく、維新後は禄も失って経営できなくなったということでしょう。
明治二十二年(1889)旧群馬郡三ツ寺村にあった末寺の「宗慶寺」と合併し、寺名は「石上寺」の方を残して、いま三ツ寺町にあります。

明治五年(1872)になって、明治政府は国民皆学を目指し、全国に小学校の設置を進める太政官布告を出します。(学制発布)
その年に県下で発足できたのは、前橋「厩橋学校」(現桃井小学校)だけでした。
高崎は遅れて翌明治六年(1873)、市川左近という人の私塾「積小館」を利用して、県下で7番目となる小学校を開設します。
これが看板に書かれている「鞘町小学校」です。

ただ看板には、「鞘町小学校が明治十年に焼失したのを機に、翌年、石上寺跡に高崎小学校の校舎を建てた」とありますが、これには少し疑義があります。

「鞘町小学校」の焼失については、「新編高崎市史 通史編4」にこう書かれています。
ここ(鞘町小学校)は同時に烏川学校も置かれ、伝習学校(教員養成学校)ともなった・・・(略)
この烏川学校は明治十年十二月十五日に出火、市川左近の居宅とともに焼失している。」

ということで、焼失したのは明治十年(1877)十二月十五日のことです。
それより前の明治十年(1877)一月には既に「高崎小学校」の新築校舎が落成していますので、看板の記述は何かの勘違いではないでしょうか。

だいいち、県はすでに明治八年(1875)の時点で、小学校用地として「石上寺」の跡地に目を付け、熊谷権令・楫取素彦は、内務卿・大久保利通宛に「上野国高崎町石上寺境内小学校敷地ニ御下渡伺書」というのを提出しているのですから。(群馬県史 資料編17)

市川左近は、「鞘町小学校」焼失後すぐに私立の小学校「積小学校」を開設し、漢学を教えています。
明治二十三年(1890)に市川左近は没しますが、学校は門人によって継続され、明治二十四年(1891)に名称を「積小学館」と改めています。

さて、明治十年(1877)「石上寺」跡地に新設された「高崎小学校」の、貴重な写真が残っています。


門柱の看板を見ると、「髙崎學校」となっています。
また写真右奥には、「時の鐘」の鐘楼が見えます。
後に、北隣の「玉田寺」境内に移設されるのですが、この時はまだ「石上寺」境内にあったのですね。

一般に「高崎小学校」の校舎は、史跡看板の写真にあるような「コの字型校舎」として知られていますが、そうなるのはまだずっと後のことです。
明治十年(1877)の敷地と校舎の平面図があります。


校舎は、中庭のある「ロの字型」です。
学校の名称も、正式には「高崎第一小学校」とか「第一番高崎小学校」と称していたようです。

「高崎第一小学校」は次第に受け入れ生徒数が増大し、それに対応するため、さらに北側の「石上寺」跡地も払い受けて敷地を拡大します。
そして明治二十二年(1889)に「ロの字型校舎」を取り壊し、新たに東西に長い二棟の「並列型校舎」が新築されます。
この時、学校の呼称も「高崎尋常小学校」となりました。


そして明治二十八年(1895)さらなる生徒数増加に校舎が不足し、新たに校舎の増築がなされます。
ここで、後々まで語り継がれる「コの字型校舎」になった訳です。



その後も、学校区や学校名は変遷を続け、明治三十五年(1902)には「高崎中央尋常小学校」となります。
明治四十一年(1908)には「高崎高等小学校」と併合して「高崎中央尋常高等小学校」となり、大正十二年(1923)には常盤町の新校舎に移転します。

昭和十四年(1939)には「高崎市中央尋常小学校」と改称、さらに昭和十六年(1941)に「高崎市中央国民学校」、そして昭和二十二年(1947)ようやく「高崎市立中央小学校」となって、現在に至っている訳です。

だいぶ話が長くなってしまいましたが、「高崎小学校」を語るときにどうしても欠かせないのが、前述の市川左近という人物です。
次回は、そのお話をさせて頂きます。


【高崎小学校跡史跡看板】


【三ツ寺町の石上寺】



  


2016年08月28日

史跡看板散歩-14 高崎小学校跡(その2)

今日は、史跡看板には書かれていないけれども、「高崎小学校」の誕生に大きな貢献をした、市川左近という人のお話です。



市川左近は羽前国東置賜郡一本松柳村(現山形県米沢)の神官の家に生まれ、一旦は神職を継ぎますが、学問を志して江戸に出て、二十数年湯島聖堂で修学に励んだのち漢学者になったという、博学多識の人だったようです。
文久二年(1862)五十歳の時、高崎藩士・飯野金八の招きによって高崎に来て、田町に漢学塾を開いたところ多くの入門者を得たといいます。

その評判が、学問好きな高崎藩主・大河内輝聲の耳に入ったのでしょう、再三にわたって輝聲から招請があったといいます。
初めなかなか応じなかった左近も、遂に断り切れず、藩籍に入って藩士らの指導にあたることになりました。

その時、輝聲左近に塾を開かせたのが鞘町で、後にここが高崎で最初の小学校「鞘町小学校」となる訳です。
「鞘町小学校」がどこにあったのかよく分からないのですが、昭和四十九年(1974)発行の「高崎市立中央小学校 百年のあゆみ」には、こんな写真と説明が載っています。


現在は、こんな風景のところです。


輝聲左近に開かせた塾に「積小館」という名を付け、扁額まで書いて与えたのだそうです。
「積小」とは、「小さなことを積み上げる」という意味ですが、もしかすると二宮尊徳の遺した「積小為大」という言葉からとったのかも知れません。

まさに、左近はその「積小」を地でいった人で、いろんなエピソードが残っています。
「高崎市教育史 人物編」からご紹介しましょう。
左近の風体はずんぐりで肥満型、その上猫背で斜視であった。頭は髪を前で結い、後頭部は剃り落として、自ら空気抜きと称していた。
日常の生活は質素、倹約を旨とし、他人の目からは『けちんぼう先生』そのものと見られていた。
節約の様子は、衣服を損じないためのあんどん袴。下駄は減らないように固く節の多いもの、しかも横に穴を余分にあけて鼻緒が切れても短くして使う。
入浴は年間を通して水。
紙は、受け取った書状などの余白を切り取って、これに細字で書きつけていた。」
という異形な風貌で、いかにも頑固そうです。

ところが、仕事は人の数倍こなすという多忙ぶりで、
早朝は家老の長坂邸にゆきその子弟を教えて朝食をとり、帰宅後昼まで塾生を指導、直ちに津田邸(重臣宅)へ伺い昼食をとってその子弟を教え、夕食頃は商家の子弟を教えるというような訳で、家庭で食事をとる暇もなかったという。」
(高崎市教育史 上巻)

そういう生活ぶりですから、数千金の蓄えがあったといいます。

そんな「けちんぼう先生」が、明治六年(1873)の「鞘町小学校」「烏川学校」開設に際し、一千円とも二千円とも言われる大金をぽんと寄付したのだそうです。
市内の豪商たちは口実を設けて出資を避けようとしていましたが、「けちんぼう先生」の寄付を知って、寄付をするようになったので、立派に学校が設立されたという話が伝わっています。

史跡看板には、「町民から募った約四千五百円の寄付により建てられた」とありますが、これはいつの時点のことを言っているのでしょうか。
「バルコニーが付いたモダンな建物」とも書かれてますので、明治二十八年(1895)の「コの字型校舎」のことを言っているのかも知れませんが、どうも話が錯綜しているように思えます。

「高崎市教育史 上巻」によると、明治十年(1877)に建てられた「高崎小学校」の建築費は総額4,472円余、その財源は有志者寄付3,100円、残りは駅内区入費(町税?)であったとあります。


前回も書きましたが、「高崎小学校」は開設後2度の校舎増改築を行っています。
明治二十二年(1889)の「高崎尋常小学校」となる時の校舎建設費は、4,500円とあります。(高崎市立高崎中央小学校 百年のあゆみ
これが、寄付金で賄われたかどうかは書かれていないので分かりませんが、高崎の財政状態が裕福であったとは思えませんので、おそらく寄付金が占める割合は大きかったと推測されますが、全額寄付によるとも思えません。


「コの字型校舎」となった明治二十八年(1895)の増築では、建築費3,125円86銭4厘。
この時の有志者寄附金1,834円30銭、町費1,291円56銭4厘となっています。(高崎市教育史 上巻)


ま、ともあれ、いずれにおいても高崎の人々が造り育てていった小学校であったことには違いありません。
そのきっかけをつくったのが、「けちんぼう先生」市川左近だったということを忘れてはいけないでしょう。

市川左近は、「高崎尋常小学校」校舎建設の翌年、明治二十三年(1890)に七十八歳でこの世を去りました。

できれば、立派な「コの字型校舎」で学ぶ子どもたちの姿を見てほしかったものです。

いま、「龍広寺」に、静かに眠っています。
一度、お参りして差し上げてください。



【高崎小学校跡】


【市川左近の墓】