2018年07月01日

史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑

吉井町の東のはずれ、国道254号線の「黒熊」の信号を南へ入った所に、今回の史跡看板が建っています。


看板は、2つ並んで建っています。



「浅間(せんげん)神社」はここから南へ800m、「入野(いりの)碑」は南へ1kmの所にあると書かれています。

狭い上り坂をくねくねと「入野碑」の矢印看板に導かれながら進み、上信越自動車道の下を潜ると「浅間神社」があります。


歴史のありそうな石の鳥居を二つ潜って、石段を上ります。


社殿まで、107段ありました。


「浅間神社大綱」という、立派な石碑が建っています。


史跡看板より詳しく「浅間神社」へのことが刻まれていて、後半部分に「ゴルフ場開発に伴い、奥浅間にあった石殿を境内に移した」とあります。

これが、その石殿です。


「浅間神社大綱」碑の前を進んで境内を抜けると、「入野碑」への道があります。


うへーっという感じの上りです。


ふくらはぎがつりそうになる頃、「入野碑」に辿り着きます。





ふと足元を見ると、「ゴルフ」という無粋な標杭が埋もれてました。


平成三年(1991)発行の「中世吉井の城館跡」によると、この場所は「黒熊中城」「第二砦」で、「第一砦」「浅間神社」、かつて「石殿」があったという「奥浅間」「第三砦」で、物見台・狼煙(のろし)台として使われていたということです。


ところで、地名の「黒熊」が気になって仕方ありません。
山ですから、熊が生息していたんでしょうか。

昭和五十三年(1978)発行の「多野郡誌」を見ると、こう書いてあります。
大字黑熊村
天正年間ノ頃ハ黑駒ノ稱ヲ用ヒタリトイフ
或云(或いは言う)小幡未大夫(羊太夫)家臣黑駒太郎ノ居リシ處ナレハ採リテ以テ村名トナシタリト」

「羊太夫」の家臣に「黒駒太郎」という人がいた、という訳です。

へ~、と思って調べてみました。
羊太夫伝説を伝える書き物はいくつかあるようですが、「羊太夫栄枯記」「黒熊太郎」という人物が出てきます。

羊太夫が従者・小脛(こはぎ)の脇の羽を抜いてしまったために都へ参内することができなくなり、謀反を疑われて兵を差し向けられます。
その時、羊太夫の命を受けて敵陣視察に行ったのが、黒熊太郎です。
敵陣ノ間(ま)モ何程共(いかほどとも)知レサレハ、黒熊太郎政利ヲ召(めさ)レ、汝敵陣ニ至(いたり)テ、陣古屋(小屋)ノ様子、又者(は)道ノ交(まじわ)ヒ、何程乎(か)見テ参レト有ケレハ、畏(かしこま)リ奉リ候ト、一騎乗リヌケ、敵陣近ク成リケレハ、馬ヨリ飛下リ、忍ヒ足ニテ立回クリ・・・」

戦闘の場面にも登場します。
官軍ノ前備(まえぞなえ)、岡山平治兵衛ハ、諸勢ニ後(おく)レテ打ケルカ、臼井川(碓氷川?)ヘ颯(さ)ット乗リ込ミ、向ノ岸ヘ上ラントスル處(ところ)ヘ、黒熊太郎同ク馬ヲ乗リ込ミ、續テ岸ニテ追ッ付、後ロヨリ引組ンテ、兩馬カ間ニ落ルト等ク、押ヘテ首ヲ掻キ落ス・・・」

「黒熊」というだけあって、けっこう強者だったようですが、最後は討ち死にしてしまいます。

一族郎従が皆討ち死にしたのを見た羊太夫は、金色の蝶となって天引山の方へ舞ったと見えたが、突然鴟(とび)に変じて池村の方角へ飛び去ったそうな。
黒熊太郎は、村の名に残っていつまでもいつまでも村を守ったとさ。(迷道院の想作です)
おしまい。


【浅間神社と入野碑の史跡看板】


【浅間神社】


【入野碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2018年07月08日

史跡看板散歩-99 天久沢観音堂

吉井インター直近の「牛伏山自然公園」入口に、「天久沢(あまくざわ)観音堂」の史跡看板が建っています。



「天久沢観音堂」は、ここから直線距離で400m、道のりでは800mも離れた所にありますので、現在地から観音堂までの略地図が描いてあります。
ぜひ行ってほしいという、地元の方々の気持ちがよく伝わってきます。

ただ欲を言えば、略図の向きを左に90度回転させると図と現地の方向が合うので、より分かり易くなったと思います。
ついでに言えば、案内ルート(赤線)が上信越自動車道の下を潜ってるように描かれてますが、実際は上を跨いでいますので、何かの折に修正して頂けたらと思います。
すみません、部外者がつべこべと。

その上信越自動車道を跨ぐ橋を渡ると、小高い丘の中腹に「天久沢公園」の看板が見えてきます。


駐車場に車を止めて、けっこうな鉄製の階段を上ると・・・、


なかなか、いい眺めです。


そりゃ眺めもいいはずで、武田信玄がここに陣を構えたというんですから。
実は、桜の季節も静かでいい穴場なんですよ。

(2006年4月撮影)

回廊状になってる桜の並木道から石段を上ると、「天久沢観音堂」があります。



昭和五十九年(1984)に改修された堂には、平成元年(1989)美しい天井絵と欄間絵が施されました。


観音堂の脇に、詳しい由来を書いた看板が建っています。


看板表題の「天久沢陣城」跡が、現在の「天久沢公園」です。


文中の「一郷山城」牛伏山に、



「新堀城」多比良(たひら)の普賢寺の所にあった砦です。


位置関係はこうなります。


それにしても、信玄はよくまあここまで出張ってきたものです。
「天久」という馬は、きっと天翔けるように速く走れたのでしょう。
馬に乗れる人はいいけど、ついてくる徒歩きの兵隊さんはさぞ大変だったでしょうね。

大変といえば、観音堂の正面にものすごく急な石段があります。

きっと昔はこれが参道だったんでしょう。

やめようかと思ったんですが、覚悟を決めて下りてみると、「牛伏大橋」の袂に出ました。


やれやれ、また上るしかありません。


162段ありました。
ふー。


【天久沢観音堂の史跡看板】


【天久沢観音堂】


【一郷山城跡】


【新堀城跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:13
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2018年07月15日

史跡看板散歩-100 奥平城跡

場所の説明が難しいのですが、多胡橋北詰の岩崎の信号を富岡方面へ右折して2.7km、岩平小学校を過ぎたら上奥平方面へ右折します。

そこから250mほど行くと、左側にポツンと史跡看板が建っています。
後ろのこんもりした所が「奥平城跡」です。



看板から70mほど行くと、「奥平城跡」の入り口です。


道の草は払われているんですが、奥へ行くとすっかり竹林になってしまっていて、城跡らしき姿はわかりません。


「中世吉井の城館跡」に載っている図で見ると、大手を上って来て、八幡社付近で佇んでいるようです。


「申田川」(さるたがわ)越しに、武家屋敷があったという「九台」(くだい)が望めます。


南側の「桜沢」も深い谷になっていて、敵は容易に登れそうにありませんが、すぐ近くにある「ゴルフ城」から飛び道具を使って玉を撃ち込んでくるようです。


「九台」の集落への入り口に、「史蹟奥平公廟所」の石柱が建っています。


「奥平城」の主・奥平氏は、看板に「十四世紀の末に三河国に移った」と書いてありますが、「中世吉井の城館跡」には、
天授年間(1375~80)三河国作手(つくで)に移った。
その後もこの地に奥平氏は残ったが、永禄六年(1563)武田軍の攻撃を受け落城した。」
とあります。

集落入り口から150mほど上って右へ曲がり、さらに30mほど行くと墓地があります。
そこに、「奥平家発祥之地」という大きな石碑が建っています。


隣に、「奥平氏開基 仁叟寺跡地碑」という標柱が建っていますが、現在吉井町神保にある「仁叟寺(じんそうじ)」のことで、同寺の開基は応永年間(1394~1427)と言いますから、この地に残ったという奥平氏が開基したのでしょう。
因みに「公田院仁叟寺」「公田」は、「九台」のことらしいです。

一方、三河に移って命脈を保ってきた奥平氏は、天正三年(1575)の長篠の合戦に於いて目覚しい武功を上げ、一気に家運を上げます。
長篠合戦の功により(奥平)信昌は上野国宮崎へ三万石を以て封ぜられ、次男家治は長根、四男忠明は小幡を与えられ松平を姓として故地に錦を飾った。
以後十万石の大名として系を伝えて現在まで二十六代、大分県中津城内に居住する。」
(中世吉井の城郭跡)

ご近所の方のお話では、今もご子孫の方が墓参に見えるそうです。

人と土地それぞれに歴史あり。
すごいことだなぁ。


【奥平城の史跡看板】


【奥平家発祥之地碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:01
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2018年07月22日

史跡看板散歩-101 長根神社

国道254号、吉井町長根「西部コミュニティセンター入口」という長い名前の信号を左(南)に入ります。


曲がって170mほど行くと右側に「長根神社」があり、鳥居を潜った左に史跡看板が建っています。



看板に書かれている「獅子舞」については、高崎市のHPにもう少し詳しく書かれています。


社殿は、127段の石段を上った高台にあります。


「境内地は長根城跡の一部で・・・」と看板にある通り、神社は「長根城」の北東の方角、つまり鬼門に位置します。


神社の裏には、見るからに土塁と思しきものが続き、


その土塁が切れた所を入ってみると、


「本丸」跡が広がり、奥の方に「殿様の墓」が見えます。


道なりに進むと、図でいう「横宿」「光円寺」、現在「上の場公民館」の前に出ます。


公民館の前には、六地蔵と何やら東屋のようなのが建っています。
そこに、こんな看板が掛かってました。


つい、右上から縦に読みたくなってしまいますが、左上から横に読んでください。
これで見ると、六地蔵は「光円寺」というお寺の名残り、東屋のようなのは「不動堂」の堂宇だったのかなぁ、と思います。

公民館のすぐ左に、「長根城本丸跡」という石柱と、説明板が建っています。



この道の奥に「殿様(小河原家)の墓」があります。
墓地には、古い石祠や墓石、板碑がたくさん残っています。


「長根城」の図を見ていて気になって仕方なかったのが、右下に書かれている「たもと観音」です。
橋のたもとにでもある観音さまなんでしょうか。

探していると、ちょうどアジサイの剪定をしている方がいたので、「この辺に、たもと観音というのがありますか?」と聞くと、「このすぐ下だよ。右に下りる道があるだろ。」と教えて下さいました。


けもの道のような坂の先にお堂のような建物が見えます。


行ってみると、「元三大師」という扁額が掛かっていて、これではなさそうです。
左手前に折れる石段の先には立派なお堂があって、境内のあちこちに石仏が建っています。
そのどれかが、「たもと観音」なのかなぁ・・・。


と思ったら、このお堂がそうでした。


ただ、肝心の「袂観音」の由来が書いてありません。
「上野国志」にあるから、それを見ろという訳です。

しかたなく「上野国志」を見てみると、たしかに多胡郡の項に「袂之観世音菩薩縁起」という記述がありました。

毛呂權蔵著「上野国志」(明治43年発行)より

ただ、すべて漢文で、素養を持ち合わせない迷道院には読み下しができません。
どなたか漢文にお強い方、ご教示頂けたら幸いです。

ま、字面から推測すると、大体こんなことが書かれてるんじゃないかと思います。(間違ってたらごめんなさい。)
法界の数多くの衆生を救おうと、大和の国の機が熟したのを見て、千手観音菩薩は本邦の至る所に聖閣を設けた。
当寺の本尊は行基大士が彫った千手千眼観音で、その妙なるお姿と威厳は四方の人々から信仰された。
堂宇は飛騨の匠により造営されてから数百年数十世になる。

法灯が灯されたのは一千年の昔、信州伊奈郡の伊藤長者の娘の話に始まる。
その娘は玉のように艶やかで、花のように美しく、父母親族の深く厚い愛情を受けて育った。
しかし、この娘は幼い頃から仏を崇敬し、長じてくると出家をしたいと言い出して、父母の制止の言葉も聞こうともしなくなった。

娘が十七歳になった時、父母は強引に結婚をさせようとするが、娘はその日のうちに家を出て行ってしまう。
驚いた父母は親族とともに後を追い、多胡郡長根村大悲閣の近くでようやく娘に追いつき、なおも逃げようとする娘の袂を捕らえて引っ張ったところ、袂は千切れてしまった。
千切れた袂が寺の窓から堂内に入ったと見るや、娘の姿が見えなくなってしまった。
堂内には、ただ千手観音の尊像があるだけだった。
人々は大変不思議がって、それ以後、袂之観世音と呼ぶようになった。」

失礼をして堂内を覗いてみると、千手観音像の前に白い布が巻き付けてあります。
もしかすると、これが千切れた「袂」


因みに、ここ「常行院」は、樹齢600年と言われる「ラカンマキ」があることでも有名です。


大変長い記事になってしまいましたが、なかなか奥深い歴史スポットでした。


【長根神社】


【長根城本丸跡】


【袂観音】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
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2018年07月29日

史跡看板散歩-102 八王子神社

吉井小学校北側の道を吉井西中学校に向かって400mほど行くと、右に「魚健」左に「花広場」のある小さな交差点があります。


その交差点を左(南)へ入って50mほど行った所に、「八王子神社」が祀られています。



「八王子」とは、「天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)が誓約(うけい)した時に生まれた五男神と宗像三女神」のことと看板に書かれていますが、もう少し説明を加えましょう。

黄泉の国から逃げ帰ってきた「伊弉諾神」(イザナギノミコト)は、穢れた身体を清めるために禊(みそぎ)をします。
その時、左目から生まれたのが「天照大神」、右目から生まれたのが「月夜見尊」(ツクヨミノミコト)、鼻から生まれたのが「素戔嗚尊」です。

イザナギは、アマテラスに天を、ツクヨミに海を、スサノオに地を治めるように命じます。
ところがスサノオはそれを嫌がり、母・イザナミの居る「根の国」へ行きたいと大声で泣きわめきます。

「どこへでも行ってしまえ!」と追い払われたスサノオは、高天原のアマテラスに別れの挨拶に行きますが、アマテラスは自分の国を奪いに来たに違いないと考え、戦闘準備をして迎えます。

そこでスサノオアマテラスに、そんな異心はないという誓約(うけい)を交わす訳です。
その証として「もし私が女神を生んだら異心があり、男神を生んだら異心はない」と。

スサノオが、アマテラスの身に着けていた玉を噛み砕いて吹き出すと、五柱の男神が生まれました。
アマテラスも、スサノオが腰に帯びていた剣を噛み砕いて吹き出すと、三柱の女神が生まれたので、スサノオへの疑いを解いた。
・・・という話です。(異なる説話もあり)

八王子つまり八柱の神は八方の方位を司るとして、疫病や災厄が村に入って来るのを防ぐ「塞の神」(さいのかみ)として信仰されたようですが、この地域では失せ物を探し出す力も高かったんですね。

さて、吉井町にはいたる所に城館跡があるのですが、ここにも「塩川の砦」というのがあったようです。


「中世吉井の城館跡」によれば、「軍事的に見て平地にあり、わずかな崖端を利用して構築した城であり、居館の趣が強い。」とありますが、「塩川城は全壊しており、城跡にかかわる遺構を発見することは困難である。」ということです。
永禄六年(1563)の武田信玄侵攻に対し、塩川城主・菅沼大善之孝は激しく抵抗したが落城した、と「箕輪軍記」に記されているようです。

図の中央、「平館」とある所には、いま黒澤家の立派な屋敷が建っています。


もっと気になったのが、左上にある「玉子湯」です。
黒澤家の相向いの方にお聞きしてみると、子どもの頃はよく行ってたよ、と仰います。
もうだいぶ前から営業してないけど、建物はまだ残っているといいます。

行ってみると、何となくこれかなぁという建物がありました。


今は空き家になっているらしく、しばらく建物の周りをウロウロしていると、怪しい奴と思われたのでしょう、隣の家の方が出てきました。
いや、実は・・・と訳を話すと、たしかにこの建物が「玉子湯」だと教えて下さいました。

それどころか、この方、「玉子湯」オーナーのお孫さんだったんです。
いや、これは大変失礼しましたとお詫びをしましたが、そのあと、いろいろとお話を伺うことができました。

お話によると、この建物の一階に見える所は実は二階で、その下に川に面した一階部分があるんだそうです。
川の対岸から撮ってみましたが、木に覆われていてよく分かりません。


この建物は湯客のための休憩棟で、浴場は現在住居になっている所にあり、渡り廊下で浴場と休憩所を行き来してたそうです。
川から汲み上げた鉱泉は休憩棟内のボイラーで加熱し、パイプで浴場へ送っていたとか。


不思議なことに、ここの鉱泉は塩分を含んでいたそうで、きっとツルツルの玉子肌になるので「玉子湯」だったのでしょう。
40年ほど前に営業を終え、いまは鉱泉も枯れてしまっているそうです。

そういえば、ここの地名は「塩川」でした。
それに、「玉子」は、「王子」によく似ています。

「八王子神社」「玉子湯」「塩川」と、なんだか三題噺の趣きが・・・。
はい、お後がよろしいようで。


【八王子神社】


【玉子湯跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:19
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2018年08月05日

史跡看板散歩-103 小棚薬師堂

吉井町小棚公民館から40mほど東へ行くと、吉井大橋から来る道に出ます。
そこから60mほど南へ行くと、右前方にお堂らしき屋根が見えてきます。


民家の塀に沿って小道を入ると、「小棚薬師堂」の前に出ます。



堂の中に祀られている薬師像の数の多さが、地域の人々の信仰の深さを物語っているように思います。


この辺りは、中世の時代「小棚城」というのがあったようで、現在もその輪郭を残しています。


鏑川に架かる「吉井大橋」から来る道を跨ぐ、「城裏橋」という名前の橋があります。


「吉井大橋」は昭和十四年(1939)の架橋で、その時に崖地を切り通して道ができたのでしょう。
「吉井大橋」ができるまでは、「城坂」(図の「城板」は誤り)を通って河原へ降り、「穴岡の渡し」を舟で渡ったということです。

図の一番下に「西城橋」というのがありますが、これは「二丈橋」でしょう。
「にじょう」「にしじょう」と見立てたのでしょうが、位置的にも城の西ではありません。
橋の高さが二丈=約6mということで「二丈橋」なのだと思います。


北西の一番奥まったところが「郭八幡」となっていますが、行ってみると石祠などが建っています。
石垣の一段高い所に、「八幡社」でも祀ってあったのでしょうか。


その東に、城主であったという布瀬川家の大きな建物が残っています。


その東は広い農地になっていて、「物見塚」と思しきちょっと高くなっているところが見えます。
この高さでは物見にはならないでしょうから、きっと昔はもっと高くて大きい古墳か何かだったのでしょう。


それにしても、吉井という所は古墳や城跡のなんと多い所でしょう。
古代からの重要な土地柄だったということが、よく分かります。


【小棚薬師堂】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2018年08月12日

史跡看板散歩-104 横尾応処斎渕臨の墓碑

「横尾応処斎渕臨」って?
と思いつつ、その史跡看板があるという吉井町片山へ行ってみました。

国道254バイパスの西吉井駅入口交差点を北に780mほど、もうこの先は行き止まりという所まで行くと、前方にお堂らしきものが見えます。


ここが横尾家の墓地で、入口正面に墓碑、その脇に史跡看板が建っています。



まず、何て読むんだ・・・でしょ?
「よこお・おうしょさい・えんりん」でよさそうです。
墓碑には、「應處齋教道淵臨」と旧字で刻まれています。
狩野派の絵師で、書家でもあったんですね。

墓地入り口にずらりと並んだ右から二番目の庚申塔の文字が、井池堂こと応処斎の書だそうです。


奉納額があるという「穂積神社」は、「横尾墓地」から南へ直線距離で850m。
すぐ近くなので、行って見ました。


すっかり赤錆びた看板にも、「村の逸材応処斉渕臨に依る横尾要次郎舞う式三番の奉額がある」と書かれています。


社殿を一回りしてみると、南側にすっかり退色しきった絵馬額がひとつありましたが、これなんでしょうか・・・。


吉井町郷土資料館発行の「吉井の史跡・文化財めぐり」に、
拝殿南側に横尾応処斎が慶応三年(1867)に描いた神楽舞の額が掲げてある。」
と書いてあるところをみると、どうやらこれらしいです。
何とも残念なことです。

錆びた看板に「当社(穂積神社)はこの地にあった火蛇(かじゃ)神社に・・・」と書いてあります。
「吉井の史跡・文化財めぐり」によると、その神社があったので、この地は「火蛇森」と呼ばれていたようです。

「火蛇」は落雷が水霊の変化(へんげ)である蛇体になったもので、雷神の怒りを鎮めまた雨乞いを祈って祀ったのが「火蛇神社」だということです。
本殿の側壁に蛇体が描かれているそうです。

これですかね。
アクリルの波板に覆われててよく見えませんが、龍のことみたいです。


庚申塔と甲子塔があるという「弘福寺」へも行ってみました。


六地蔵の向こう側に、たしかに「井池堂」と刻まれている二つの塔が並んで建ってはいましたが・・・。


これだけでは何とも消化不良というか欲求不満というか、もやもやした気分なので、もう一か所看板に書かれていた「辛科神社」へも行ってみることにしました。

次回に続きます。


【横尾応処斎渕臨の墓碑】


【穂積神社】


【弘福寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2018年08月19日

史跡看板散歩-105 辛科神社

前回の続きで、応処斎渕臨(おうしょさい・えんりん)の奉納額があるという、吉井町神保「辛科(からしな)神社」へ行ってみました。

鳥居の左側に史跡看板が建っています。



立派な随神門があります。


ここの随神は珍しくて、狛犬のような金属製の神獣が門番をしています。
右側の神獣の上に板絵がありますが、これが応処斎の奉納額なんでしょうか。


奉納額は左側にもあります。


裏側にもあります。


さらに、社殿の右側面にもあるんですが、これは相当褪色しています。


これらのどれかが、あるいはすべてが応処斎の作なのでしょうが、いずれのものにも銘がありません。

宮司さんは、「随神門裏側のは間違いないと思うが・・・。」と仰るのですが。
うーん、ここでもまた応処斎に近づいたような気がしません。

帰宅して、ネットで応処斎を検索してみましたが、何もヒットしません。
ただ、画像検索でヒットしたものが一枚ありました。
現在リンクが切れてしまっていますが、たしかに「應處齋淵臨筆」と銘が入っています。


弟子が280余人もいたという絵師なのに、残っている作品はこんなもんなんでしょうか。
ここで分からなければもう諦めようかと思いながら吉井郷土資料館へ行くと、これがいい情報をつかむことができたんです。

応処斎のご子孫が、「穂積神社」の近くで直売所をやっているというのです。
これは行かない訳にいかないでしょう。

次回に続きます。


【辛科神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:35
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2018年08月26日

史跡看板散歩-106 仁叟寺の応処斎

吉井郷土資料館で得た情報から、「穂積神社」近くの直売所のご主人・横尾さんにお会いすることができました。

五代前のご先祖が応処斎で、ご自宅には作品や門人帳などが残っているそうです。
いきなり見せてほしいとも言えなかったのですが、応処斎の作品は神保「仁叟寺」と、穴岡「弥勒寺」にもあるよと教えて頂いたので、まずはそちらを調べてみることにしました。

「仁叟寺」のHPを見ると、たしかに応処斎による天井絵が開山堂鐘楼に施されているとあります。


行ってみると、立派な山門の左奥に鐘楼があります。


雨には直接あたらないものの、風や紫外線の影響でしょう、けっこう褪色しています。


もうひとつの開山堂は、本堂から続く建物で、外から天井絵を見ることはできません。


不躾ではありましたがチャイムを押して奥様に訳をお話しすると、法要が始まる直前であったにもかかわらず、堂内に入れて頂くことができました。

見事な天井絵、しかも絵柄も色もくっきりしていました。


慶応三年(1867)に奉納されたもので、110枚あるそうです。
因みに、鐘楼の天井絵は25枚、嘉永六年(1853)のお釈迦様降誕会の際に納められたものだそうです。

応処斎の銘の入った一枚もあるというのですが、時間がなくてそれを見つけることはできませんでした。
ですが、やっと応処斎に近づけた気がして、少し気分がよくなりました。

そして情報を頂いたもう一か所、「弥勒寺」へも行ってみたいという気持ちが強くなりました。
そのお話は、次回ということに。


【仁叟寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:56
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2018年09月02日

史跡看板散歩-107 弥勒寺の応処斎

吉井町穴岡「弥勒寺」に、横尾応処斎の作品はあるのでしょうか。
「弥勒寺」のHPを見てみましたが、応処斎のことはまったく書かれていませんでしたので、電話をかけてお聞きしてみました。

すると、「銘はないのだが応処斎の作品だと言われている掛け軸があって、お盆の時期だけ本堂に掛けます。」ということでした。
そこで、その日を待って行ってみました。

「弥勒寺」は、「応処斎墓碑」から西へ直線距離で1.2kmの所にあります。


参道をずーっと進んだ一番奥に、がっしりした造りの山門が南向きに建っています。


山門を潜って振り向くと、お寺の説明板。


きれいな芝地には、お寺の名前にふさわしく「弥勒菩薩」のブロンズ像があります。


立派な鐘楼の先に、本堂があります。



奥様のご案内で本堂に上げて頂くと、左右にぜんぶで十幅の軸が掛かっていました。



どうやら、亡者が地獄の十王に審判を受けている様子を描いたもののようです。
一見、新しそうに見えますが、つい最近表装をし直したんだそうで、明治期に寄贈した檀家数人の名前が絵の裏に書かれていたということです。

応処斎の銘はありませんでしたが、きっとそうなのでしょう。
これでやっと気が済みました。

まったく知らなかった「横尾応処斎渕臨」、この後どこかでその作品に出合えるかもしれません。
その時を楽しみにしています。


【弥勒寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2018年09月09日

史跡看板散歩-108 辛科神社禊殿

吉井町神保を流れる大沢川に、「城橋」という橋が架かっています。


「辛科神社」を守護した豪族・神保氏の「植松城」があったので、「城橋」なんでしょう。


その橋の袂に、どういう訳か頂部が雨だれにでも穿たれたような道しるべが建っています。


「左辛科神社」と刻まれています。
「辛科神社」はここから西へ直線距離で1kmほどです。

「城橋」を渡ると道は右にカーブしますが、その正面の石垣の上に建っているのが「辛科神社禊殿(みそぎでん)」です。


一見、民家か集会所のように見えますが、軒下を見るとこんな彫り物があります。


史跡看板には、「辛科神社」から「禊殿」まで「茅の輪」を送る神事のことが書かれています。


「茅の輪神事」が行われるのは7月31日だということで、残念なことに今年はもう終わってます。

どこかに写真でもないかと探してみたら、「吉井町誌」に載ってました。


よくある「茅の輪くぐり」というのは、鳥居とか境内に茅の輪を立てておいて、参拝者が輪の中を潜るというものですが、「辛科神社」のはちょっと違うようです。

「吉井町誌」には、このように書かれています。
みそぎまつり、別称を「茅の輪の神事」といい、太陽暦前は六月三十日であったが現在は七月三十一日夜執行されている。
直径六尺(約1.8m)の「茅の輪」を神主が奉持して「かけながす大山本の五十鈴川、八百万代の罪は残らじ」と神歌を唱えつつ沿道の男女を輪くぐりさせて、その年の疾病災厄をはらい去る神事で、神輿の渡御とともに辛科神社を出発いたし、二粁東方の大沢川に至り、茅の輪を流し去る夏の夜の神事として古くより行われている。」

来年はぜひ行ってみたいなぁと思いました。


【辛科神社禊殿】


【辛科神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2018年09月16日

史跡看板散歩-109 頌徳三碑

吉井町多胡小学校のすぐ北、セイタカアワダチソウの向こうに「頌徳三碑」はあります。


草がなければ、こうらしいです。


ただ、石灯籠は今建ってません。
もしかすると、小学校の通学路なので、子どもが登ったりすると危険だから、かも知れませんね。

史跡看板ですが・・・。


そうですか、としか言いようがないのですが・・・。
三碑です↓


上毛新聞社発行の「群馬県人名事典」を見ると、向井周彌は、
県会議員時代、活発な言論と関羽髯の風貌で鬼将軍と言われた。
与志井銀行甘楽社監査役、帝国農会、地方森林会評議員など産業の改良増産に尽くした。」
と書いてあります。

江原文作については、
甘楽用水、三名川貯水池の建設、十国峠改修、多胡橋架設など公共事業に尽くした。
豪放果断の気質で愛郷の至情にあふれ、皆からの信望を集めていた。」

大澤良太郎については載ってなくて、長男・要八が載っています。
昭和二十一年まで教職を続け、のち多胡村助役、村長、教育長を歴任。
円満高潔な人格者で、子弟教育と教育諸条件の整備改善に情熱を捧げる。」

そんな要八を育てた父・良太郎については、「吉井町誌」に書かれていました。
性温良恭倹(きょうけん:人に対しては恭しく、自分自身は慎み深く)で、人に教えるに春風の如く、世に聞達(ぶんたつ:名が知れわたる)を求めず、愛郷心に富んだ・・・」

  鬼も居り 仏も居りて 泡立草   迷道院

石灯籠があった場所には、こんな石が無造作に置いてありました。


大きな兎が、猫のお尻をかじろうとしてて、それを犬がじっと見ているような・・・。
見えません?


【頌徳三碑】



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Posted by 迷道院高崎at 06:58
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