2009年10月09日

北の遠構え

「高崎の散歩道 第六集」の表紙に、どなたの挿絵か分かりませんが、中山道三国街道の分岐にあったという、「大津屋」(薬屋)が描かれています。
図書館のラベルで隠れていますが、右下に高崎-渋川間を走る「鉄道馬車」が描かれていますので、明治二十年代から三十年代の風情なのでしょう。
今の本町一丁目交差点の北西角ですが、現在は覚法寺の檀家専用駐車場になっています。

この辺も、すっかり街道の面影は無くなってしまいましたが、それでも、昔を偲ばせる建物がいくつか残っていました。

四ツ屋町側の歩道に、「高崎城遠堀跡」と書かれたタイルが埋め込んであります。 →

路地のように見えるのが「遠堀」の跡です。

今でも、この路地の下には水が流れているはずです。

「遠堀」というのは、高崎城下町をぐるっと囲むように巡らされた水路のことで、「遠構え」とも言います。

「遠構え」には七つの木戸を設けて、人の出入りを監視していたそうです。

「遠構え」の水は大橋町長野堰(新井堰)から取水し、三国街道の西沿いに南へ下り、この四ツ屋町で街道を横切って、東へ向かいます。

四ツ屋町「遠構え」跡の路地を通り抜けることはできませんが、ぐるっと回って成田町へ行くと、また「遠構え」跡が姿を見せます。

路地を入ったところにあるので、ちょっと見過ごしてしまうかも知れませんが、「猿田彦大神」が祀られています。
看板の裏には、ちゃんと「遠構え」の説明も書かれています。

この北には、「成田山光徳寺」があります。
昔は参道に住んでいた人たちが、を作っていたそうです。
「猿田彦大神」の幟に、「大門講」と書かれていますので、今もその人達が守っていてくれるのかもしれません。
ありがたいことです。

昔の成田山への参道は、三間(5.4m)足らずの幅だったそうですが、「遠構え」の水路を渡るために、石橋が架けられていました。
この石橋は、時の鳶職連の醵金により架けられたものだそうです。
ありがたいことです。

嬉しいことに、「遠構え」が道になった後、その石橋成田山境内の「太子堂」前に移設し、今も残されています。
先人たちの、物を大切にする気持ちと心意気には、頭の下がる思いです。

余談ですが、「成田山光徳寺」は比較的新しいお寺で、明治十年(1877)に千葉県成田山新勝寺の出張所として開設したそうです。
どうもそのきっかけとなったのは、前年の明治九年に高崎城内三の丸にあった、城主・大河内家の祈願寺「威徳寺」光徳寺の場所に移したことにあるようです。
ここは、江戸期に問屋年寄を長年務めた梶山家の持地で、寺を維持するために成田山の出張所を併設して、参詣者増を図ったのではないかと言われています。

その後、成田山出張所の賑わいに隠れるように、「威徳寺」の名は消えていきますが、その内陣が今でも成田山内に残っています。

また、境内にある「和田三石」のひとつ「上和田の円石」前の水屋は、高崎城の裏門を利用したものだそうです。

さらに、前出の梶山家の裏には、佐渡から三国街道を通って江戸へ運ぶを、一時保管する「御金蔵」があったといいます。
梶山家の前には、高崎宿でただ一ヶ所の「常設高札場」もあったそうです。
現在、その痕跡すらなく、知る人も少ないと思います。
願わくば、せめて、その跡を示す「石標」でも設置できないものでしょうか。

(参考図書:「高崎の散歩道 第十二集下」)


【「高崎城遠堀跡」の埋め込みタイル】

【「遠構え」の猿田彦大神】





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この記事へのコメント
遠堀の幅、規模を見ていると堀の役割は防衛や水運でなく、生活用水(利水)や城下町の範囲を明確にするためではなかったのかと思います。(丁度、江戸市中の朱引き線のような役割と思います。)

遠堀の跡に現在、東二条通りが通っていますが、高崎市の調査報告書では、真町の道路拡張に伴う発掘調査の際に遺構が発見されているようですね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年10月09日 14:33
>“ふれあい街歩き”さん

何だか、ぴょんっと飛び越せそうな感じですものね。
仰るような、利水や範囲の線引きという役割はあったと思います。

遠堀の詳細についてはあまり記録が残ってないようですが、享保年間に書かれたという「高崎城大意」によると、「虎口を附けて石垣あり。かねて堅固を構え、用害を専らにする・・・」とあるようです。

寛政年間に書かれた「高崎志」では、「高崎城の総構えは、・・・龍廣寺門前に至るまで土堤を築き・・・」とあるので、土塁が巡らされていたようですね。

真町の発掘調査では、幅5.2m、深さ1.5mの堀跡が発見されているようです。
全ての遠堀がその規模だったかどうかは分かりませんが、何だか、高崎中をほじくりかえしたくなっちゃいますね(^u^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年10月09日 22:51
おはようございます。先日メールでいただいた通りでした。私が見たのは遠構えの跡だったんですね。どうりで昔を語っているはずだ。
成田山の猿田彦もちょうど先日、車で横を過ぎた際に見つけました。あそこらへんも風情がありますよねぇ。
またまたちょうど、『大津屋跡』の写真背景に見えるマンションへも昨日仕事で行ってたりして…。『大津屋』の存在も初めて知りました。明日父に知ってるか問うてみます(父も歴史や史蹟などが大好きなんですよ)。


『むかしむかし…ここには〇〇が確かに建っていたんだぁ…』とか、『これは今のどの辺りなんだろう?』と想像するのってワクワクしますよね?建物は跡形もなくても、空間は例え何百年経とうが当時と変わらないですものね。そこに先人の魂があればなおさらですね!
Posted by チロ  at 2009年11月06日 04:16
>チロさん

おー!そうでしたか、やっぱり!
それにしても、よくあの狭い路地に入ろうと思いましたね。
そういう私も、いまだにそういう所が好きで、よく潜り込んでいますが・・・。
まさにタイムトンネルですよね、路地って。

大気中には、昔の空気ってのが塊になって残っていると言われますね。
路地にはそんな空気が残っているのかもしれません。

昔のことを知ると、今の風景が違って見えるというのが楽しいです。
お父上と、昔のことを語りながら親子散歩というのもいいですね。
昔の高崎を楽しんでください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年11月06日 07:11
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