2009年06月07日

いってんべー

上滝町「高崎市歴史民俗資料館」へ行ってみてください!

6月6日(土)~7月12日(日)まで、「高崎五万石騒動」の特別展示をやっています。

興味津々の私は、開催初日早々に駆けつけたのですが、二番目でした。
一番は、指出朋一さん、「あかりの資料館」の館長さんです。
お会いしたかったのですが、もう帰られた後だったようです。

特別展示会場では、ぜひ学芸員の方に説明をしてもらってください。
展示物を見ただけではわからない、五万石騒動の背景まで丁寧に説明して頂けます。
当時の農民の世の中の変化を見る目、減税陳情の真意や用意周到さ、高崎藩の言い分にも一理あることなど、興味深いお話がたくさん聞けると思います。

それにしても、この歴史民俗資料館の職員の方には、いつも感心させられます。
この日も、帰りがけに展示室の全景の写真を撮らせて頂く許可を得るため、事務所へ行ってみるとちょうどみなさん昼食中でした。
にも拘らず、館長さんをはじめ、全職員の方が出てきて下さいました。
そんな対応をしてくれる公共施設は、よそでは見たことがありません。
写真撮影も快く許可して頂き、帰る時は玄関で見送りまでして頂いたのです。

みなさん、ぜひ「高崎市歴史民俗資料館」を一度訪れてみてください。
そこには、昔がたっぷり残っています。

建物自体、木造で懐かしい趣きですが、昭和四十年(1965)まで群南村役場として使われていたものです。
昭和五十三年(1978)に歴史民俗資料館として開館しましたが、日々失われつつある民俗資料の収集・保存・研究・展示に努め、市民から寄贈された資料は17,000点に上るそうです。

どんな昔に会えるかは、行ってみてのお楽しみということにして、パンフレットからほんのさわりだけご覧いただきましょう。


休館日:月曜、祝日の翌日
開館時間:午前9時~午後4時
入館料:無料

【高崎市歴史民俗資料館】
  


Posted by 迷道院高崎at 07:31
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2009年06月10日

粕沢橋と五万石騒動

倉賀野から旧中山道松並木を辿って「粕沢橋」までやって来ました。

ちょうどその時、高崎市歴史民俗資料館で「高崎五万石騒動特別展」が開かれたというのは、何かの因縁かもしれません。

というのも、この「粕沢橋」五万石騒動の一舞台となった場所なのです。

年貢減免の願いを無視し続ける高崎藩に業を煮やし、大総代3人を先頭に4,000人の農民は高崎城の枡形木戸に押し寄せ、願書を提出します。
しかし、後日これを「強訴」と見なした高崎藩は、大総代の逮捕にかかります。
この手先となったのが、倉賀野宿の女郎屋を営みながら岡っ引きもしていた「三国屋」岩造一家です。

用心をしていた大総代ではありましたが、下中居村・佐藤三喜蔵倉賀野宿外れで、柴崎村・高井喜三郎岩鼻「万屋」で捕縛されてしまいます。
高崎城へ護送される大総代を奪還しようと、農民たちが待ち伏せていたのが「粕沢橋」でした。

護送する三国屋一家は十七、八人、橋の下や用水路に隠れて待ち伏せた農民は数十人といいます。
武器を持たない農民達は、てんでに石つぶてを投げつけますが、三国屋一家は卑怯にも、捕えた大総代を盾にし、大総代に当たるからと石を投げられない農民に、抜き身を振り回して切りかかります。
ついに奪還は叶わず、高崎城内に入牢された大総代は、翌年、東町無縁堂で処刑されてしまいます。
その辺の話は、グンブロ仲間の弥乃助さんの記事「五万石騒動・・・」をご覧ください。

「五万石騒動」は、しばらくネタにできそうです。

【粕沢橋】
  


Posted by 迷道院高崎at 08:16
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2009年06月14日

梅乃木大神と五万石騒動

旧中山道を倉賀野から岩鼻へ向かい、陸橋で高崎線を越えた左下に、「梅乃木大神」の石碑が建っています。

近所のお年寄りに聞くと、「昔は、足が丈夫になるっつって、草鞋を供えたんだけど、今あはぁ、すたれちゃったいなぁ。」というお話です。

「梅乃木大神」の由来には、二つの話が伝わっています。
ひとつは、昔、加賀前田家の飛脚が、国元と江戸を往復していたが、ある時病に倒れてこの地で亡くなったという話。

もうひとつの話は、少し脚色豊かです。

加賀前田殿様が病気になったという知らせを、急いで運んでいる飛脚が倉賀野まで来ると、女が寄ってきてしつこく引きとめるので、泊まらざるを得なくなったのだそうです。
夜が明けて辺りを見ると、そこは何もない原っぱで、飛脚は初めてムジナに化かされたことに気づき、ここで腹を切って息絶えたという話です。

いずれにしても、その飛脚の死を憐れんだ村人がここに墓を作って霊を祀り、後に梅の木に草鞋を供え、飛脚のように足が強くなることを祈願するようになったのでしょう。

面白い話はまだあって、昔(高崎線も通って無く、陸橋もない頃)はこの辺のことを「雲助、銭拾わず」と言っていたようです。
昔は、この辺は家もなく、赤城おろしがまともに吹き抜ける場所だったそうです。
「雲助」といえば、人の弱みに付け込んででもをふんだくる悪い奴というイメージですが、その雲助でさえ、あまりにも凄い寒風の勢いに、落ちてるも拾おうとしなかったといいます。

さて、前置きがだいぶ長くなりましたが、この「梅乃木大神」もまた、「五万石騒動」の一つの舞台となった場所です。

大総代の下中居村・佐藤三喜蔵が、「三国屋」岩造一家の岡っ引き達に取り押さえられたのが、この辺りだと言われています。
三喜蔵が人目を避けて早朝上佐野村を立ち、大総代・高井喜三郎の待つ岩鼻宿万屋へ向かってここまで来ると、待ち伏せていた十余人の岡っ引きに取り囲まれます。

三喜蔵という人は身の丈六尺(180cm)、目方は三十五貫(130kg)という巨漢で、相撲も取り剣道も心得ていたそうですから、岡っ引き達は相当手こずったようですが、なにせ多勢に無勢、無念にも三喜蔵は捕えられてしまいます。

捕えられた三喜蔵は、この後、倉賀野宿「三国屋」へ引き連れられて行き、捕えた岡っ引き達は、続けて高井喜三郎を捕えるため、岩鼻宿「万屋」へ向かいます。
「万屋」の捕り物についてのお話は、また次回・・・。


【梅乃木大神】
  


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2009年06月17日

五万石騒動の「万屋」

前回、「梅乃木大神と五万石騒動」で予告した岩鼻宿「万屋」が、どこにあったのか知りたくなって、高崎市歴史民俗資料館へ行ってお尋ねしてみました。
すると、流石です。
平成20年に資料館で企画した「史跡巡り 岩鼻」の資料を持ってきて下さいました。

その資料の表紙には、横倉興一氏作成の「岩鼻代官所(陣屋)想像図」というのが掲載されおり、そこに、「萬屋(よろずや)」というのが描かれているではありませんか。
意外と、代官所つまり岩鼻県庁のすぐそばに「万屋」はあったのです。

この「万屋」五万石騒動の舞台となったのは、大総代・柴崎村高井喜三郎が捕えられた明治二年(1869)のことです。
「三国屋」岩造一家の岡っ引き達は、倉賀野宿外れ梅の木で大総代・下中居村佐藤三喜蔵を捕えた直後、岩鼻宿「万屋」高井喜三郎の捕縛に向かいます。

「万屋」に踏み込むと、喜三郎はじめ岩鼻県庁へ来た名主達約20人ほどが茶を飲みながら雑談中でしたが、間抜けなことに岡っ引き達は喜三郎の顔を知らなかったのです。
そこで「喜三郎気をつけ!」と声を上げると、喜三郎は狼狽してこの場から逃げ出そうとします。
それを見て「あれが喜三郎に違いない!」と、一斉に飛びかかり、取り押さえてしまいます。(細野格城著・佐藤行男氏訳「高崎五万石騒動」より)

現在、岩鼻代官所跡地の広大な敷地は日本化薬の社員寮となり、代官所の面影をわずかに残しているのは、天神山古墳だけになってしまいました。
天神山の麓には、昭和三十九年(1964)当時の代官所跡地周辺地図看板が立っています。
(朱記部分は、迷道院加筆)

「万屋」のあったと思われるところに、マークを付けてみました。
そこから南(右)へ目を移してみると、「牢」と書かれているのに気が付きます。
代官所時代の牢獄があった場所です。

明治四年(1871)に岩鼻県庁が廃止され、翌年、陣屋が焼失した後も「岩鼻監獄」として、明治二十一年(1888)に現前橋刑務所が開設されるまで使われました。

この「岩鼻監獄」はまた、五万石騒動の第二総代・上中居村丸茂元次郎が、十年の刑を言い渡されて収監された所でもあります。
次回は、その丸茂元次郎についてお話ししようと思います。

【岩鼻代官所跡】
  


Posted by 迷道院高崎at 08:06
Comments(2)高崎五万石騒動

2009年06月19日

「次」か「治」か?

高崎-伊勢崎線の南大類西交差点の角に、一本の石柱が立っています。
石柱には「義人 五万石 総代 丸茂元次郎 入口」と刻まれています。

高崎五万石騒動の大総代は、柴崎村・高井喜三郎、下中居村・佐藤三喜蔵、上小塙村・小嶋文次郎の三人でしたが、喜三郎三喜蔵が斬首され、文次郎も入牢の身となったことで、第二大総代の一人に推挙されたのが上中居村の丸茂元次郎でした。

元次郎は、二度にわたって減納願書を東京の民部省に提出することを試みますが、一度は上京の途中川越町で捕えられて十日間留置されます。
二度目は願書の提出には成功したものの、身柄は高崎藩に引き渡されてしまいます。
そして、翌、明治四年(1871)、徒刑十年を言い渡されて岩鼻の牢獄で服役することになります。

元次郎と行動を共にした小塙村・山田勝弥も同じ刑期でしたが、憐れ服役中に獄死しています。
元次郎は幸いにも、無事刑期(恩赦で8年になったともいわれています)を満了し、悠々自適に余生を過ごし、天寿を全うすることができました。

非業の死を遂げなかったからか、元次郎の墓は、大々的に史跡扱いされている他の大総代の墓と異なり、上中居の丸茂家の墓地にひっそりと立っています。
それと知る人も少ないであろうことは、少し寂しい気もします。

ところで、グンブロ仲間の弥乃助さんから、先日こんなコメントを頂きました。
「今日、戒名を彫り終わった過去碑を取り付けに丸茂家の墓地に行きました。
で、丸茂元次郎らしきお墓を見つけました。
でも、元郎となっていましたが・・・。」

早速確認に行ってみると、確かに墓石には「丸茂元郎」と刻まれています。
ほとんどの書籍では、と書いてあるのです。
前述の、交差点角の石柱も元次郎です。
果たしてこの墓は、本当に五万石騒動の丸茂元次郎の墓なのか?
はたまた、書籍が、あるいは墓石の字が間違いなのか?
追跡をしてみることにしました。

まずは、元次郎の生家を見つける必要がありそうです。
しかし、上中居には丸茂姓が実に多いのです。
そこで、墓地の近くのお蕎麦屋さんで、聞いてみました。
すると何と!「あー、もとじろうさんとこね。ここだよ。」と住宅地図を見せて教えてくれました。
住宅地図にちゃんと「丸茂元治郎」と書いてある家があるのです。
「あのー、明治に亡くなってる方なんですけど・・・」

でも、きっと元次郎と関係のある家だと思い、訪ねてみました。
奥様が出てきて、「あー、ひいひいじいちゃんだね。」
「だけど、字は分かんないね。前の家が本家だから聞いてごらん。」


ご本家を訪ねてみました。
「墓は間違いなく、うちのだね。」
「明治の治だと思うよ。お墓の字が間違ってるわけないから。」
「極楽寺に丸茂家の過去帳があるから、それをみれば確かだよ。」


極楽寺を訪ねてみました。
「過去帳じゃわからないね、言われた通り書くだけだから。」

またご本家に伺って「もし、後で分かったら教えてください。」と名刺をお渡ししておきました。
ということで、「次」「治」かという謎はベールに包まれたままです。
もしかすると弥乃助さん、世紀の大発見になるかもしれませんね。

明日は、高崎市歴史民俗資料館主催の「五万石騒動史跡巡り 中居地区編」に参加してきます。
ちょっと、質問しちゃおうかな?
それとも、世紀の大発見まで黙っていようかな?

【丸茂元次郎入口の石柱】

【丸茂元治郎の墓】

  


Posted by 迷道院高崎at 23:16
Comments(18)高崎五万石騒動

2009年06月21日

どちらでもいいそうです

昨日、高崎市歴史民俗資料館主催の「五万石騒動史跡巡り 中居地区編」に参加してきました。

写真中央のメガホンを持っている方がこの日の講師、高崎市史編纂専門委員の中村茂先生です。

40人ほどの参加者は、やはり中高年層で占められます。
「五万石騒動スイーツ巡り!」とでもすれば、若い方も参加してくれるのでしょうが・・・。

歩いている途中、ここ数日間気になっていた、丸茂元次郎が正しいのか、丸茂元治郎が正しいのか、資料館員の方にそっと聞いてみました。

お答えは、
「昔の人は、音(おん)が合っていれば、字は気にしなかったようです。」ということでした。
うーん、確かに歴史上の人物でもいろいろな文字を当てています。

念のため、元治郎の墓地で中村先生にも同じ質問をそっとしてみました。
お答えは全く同じでした。
字はどちらでもよかったんですね。
昔の人のおおらかさに比べ、数日間も小さなことにこだわっていた自分を笑っちゃいました。

今回の史跡巡りで最大の収穫は、
上中居諏訪神社に伝わる伝説の「抜け縄」を見られたことです。

「抜け縄」については、以前このブログの「ひいらぎさま」で紹介していますが、一度実物を見てみたいと思っていたのです。
今日は、この伝説をもう少し詳しくご紹介しましょう。

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第二総代となった丸茂元次郎は、常日頃より諏訪神社お稲荷様を厚く信奉していました。
2回目の訴願のために密かに上京した元次郎は、捕り手の目を欺くために玩具の行商人を装っていました。
ある日、急に眠気がさして道端でうとうとしていると、いつの間にか捕り手に囲まれて、縄を打たれてしまいます。
思わず、「うわぁーーーーっ!」と大声を上げた途端に目が覚めて、辺りを見回すと何事もありません。

この夢を不思議と思った元次郎は、国元の父に夢の次第を知らせました。
父は、きっと諏訪神社お稲荷様が、息子が災難に逢わぬように夢で知らせてくれたのだろうと、早速お稲荷様に御礼を言いに行き、神官の氏にもこのことを話しました。

それを聞いた氏も驚きます。
同じ晩、氏のところに、元次郎が捕われたことを知らせに東京の若者が来たというのです。
ところが、それも夢だったのです。

不思議なこともあるものだと言いながら、二人がお稲荷様へ行ってみると、拝殿の真ん中に、ちょうど人が縛られた縄を抜け出たような形で、縄が置いてあったといいます。

そこで村人達が集まって、お稲荷様にその神意を聞くために祈りますと、こう言ったそうです。
「・・・日頃我を信仰しているのでヤピッコを遣い、
 元次郎の身代わりにたたせ捕縛されたままここまできて、
 神殿において縄抜けをさせた。」


(細野格城著・佐藤行男氏訳「高崎五万石騒動」より)

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一度はお稲荷様に身代わりになってもらって捕縛を逃れ、訴願の責務も果たした元次郎ですが、そこでついに囚われの身となります。
しかし、お稲荷様のご加護は続いたのでしょう。
獄死することもなく刑期を終え、72歳の天寿を全うすることができました。

それにしても、科学的にはあり得ないと思われる「抜け縄」の話ですが、昔の人にとっては、嘘か真かはどちらでもよかったのでしょう。
そんな昔の人のおおらかな心、現代にも必要かもしれませんね。
  


Posted by 迷道院高崎at 08:03
Comments(6)高崎五万石騒動

2009年06月24日

そうは言われてみたものの・・・

前回の記事で、「丸茂元じ郎」「次」でも「治」でもいいそうです、とお伝えしたのですが、気になり始めると気になるもので・・・。

「高崎五万石騒動」を伝える原典とも言える書籍が、細野格城氏の著書「五萬石騒動」です。
格城氏は十四歳の時に、実際に騒動に加わっており、後に人の勧めもあって明治四十四年(1911)にこの本を発行しています。
(写真は諏訪神社保管のもの)

ということで、原典たる格城氏の本に「丸茂元じ郎」がどのように表記されているのか、気になってきたという訳です。

そこで、高崎市立図書館へ行って原本があるかどうか調べてみました。

端末で検索すると、著者で細野格城というのは出てきません。
ただ、著者・細野平格というのがありました。
格城氏の御子息ででもあるのでしょうか。
(郷土史家で五万石騒動研究家の萩原慧先生にお尋ねしたところ、細野格城と細野平格は同一人物だそうです。2009.06.26)

「貴重本 禁帯」となっている本を、書庫から出してきて頂くと、まさに原本っぽい装丁でした。

巻末に記載されている発行年を見ても、間違いなさそうです。


わくわくしながら、頁をめくっていくと、ありました!

おー!丸茂元だ!

と、一瞬、嬉しくなったのですが・・・。

まてよ?細野格城が字を間違えていたら・・・?
と、またまた、疑問が湧いてきてしまいました。

そこで思い付いたのが、高崎歴史民俗資料館で今展示されている、五万石騒動参加者の連判状です。
連判状ならば、本人が書いているはずだから間違いありません。
我ながらいい所に気がついた!と、喜び勇んで早速資料館まで足をのばしました。

しかし、残念!
連判状は、小塙村大総代・小嶋文次郎のご子孫が保存していた17枚のみで、中居地区のものは残っていないのだそうです。
がっかりして帰りかけた時、ふと展示されている古文書に目が留まりました。
それは、丸茂元次郎山田勝弥に対する減刑の嘆願書でしたが、そこには「元郎」と記されていました。

ということで、どうやら「元次郎」が優勢のようです。
さらに白黒はっきりさせるには、戸籍を調べる手が残っていますが、果たして残っているんでしょうか?
ま、そこまでしなくても・・・、素人追跡はここまでにいたしましょう。
でも、面白かったです。  


Posted by 迷道院高崎at 08:06
Comments(4)高崎五万石騒動

2009年06月26日

岩鼻/薩摩/元次郎・・・ん?

岩鼻町交差点の西に、旧中山道を跨ぐ歩道橋があります。

この歩道橋の脇を南に入った突き当りが、昔、岩鼻代官所牢獄があった場所です。

明治になって、岩鼻代官所岩鼻県庁となり、明治四年(1871)の廃藩置県により岩鼻県庁が廃止された後も、牢獄岩鼻監獄として残りました。

道の突き当たりは、現在、近藤医院となっています。

近藤家は、岩鼻監獄典獄(現在の刑務所長)を務めていました。

入口の両脇の石垣は、よく岩鼻監獄時代のものと言われますが、実際は明治二十年(1887)に岩鼻監獄跡地が近藤家に払い下げられた時に、作られたものだそうです。

岩鼻監獄といえば、五万石騒動の第二総代・丸茂元次郎山田勝弥が収監された所です。
明治四年(1871)、共に徒刑十年を科せられましたが、気の毒にも山田勝弥は服役中に病死してしまいます。

元次郎収監中の明治十年(1877)、岩鼻監獄に57名もの囚人達が送り込まれてきます。
遠く、薩摩の地で起きた西南戦争で敗北した西郷軍の俘虜達です。
この人達は、長崎から船で横浜まで送られ、そこからは陸路で岩鼻まで来たということです。
東京-高崎間に鉄道が開通したのは明治十七年(1884)ですから、横浜から歩かされて来たのでしょうか。

元次郎は、西南戦争の囚人達とも当然知り合いになります。
その内の一人に、鬼丸源作という物凄い名前の人がいました。
鬼丸は懲役1年だったので、元次郎よりも早く放免されますが、その時、獄中で書いたという狂歌を元次郎に渡したようで、今も丸茂家に残っているそうです。
監獄地獄と詠んでいますが、面白いのを、いくつかご紹介しましょう。

     しゃばにては 色と酒とを 好めども
       地獄に住めば 食うことぞ おもふ

     地獄から しゃばに生まれて 湯に入りて
       酒食したなら これが 極楽

     地獄より しゃばに生まれて 鬼どんが
       ただ壱合の 酒に ぐらぐら


五万石騒動西南戦争も、日本という国が大きく転換する時代の悲劇といえましょう。
そんな二つの悲劇が出会った岩鼻監獄も、今はまったくその跡かけらも見当たりません。
後世に残しておくべき史跡だったのではないでしょうか。

そう思いつつ旧中山道に戻ると、道角に「陸軍用地」と刻まれた石柱を見つけました。
そうでした、明治十二年(1879)、陸軍岩鼻火薬製造所設置と同時に、岩鼻県庁跡地は、陸軍に接収されたのでした。

次回は、その跡地を散策してみましょう。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」)


【岩鼻監獄跡地】


【陸軍用地と刻まれた石柱】
  


Posted by 迷道院高崎at 07:53
Comments(13)高崎五万石騒動

2009年07月17日

久々の五万石ネタ

先月、6月26日に高崎中央公民館で、高崎観光ガイドの会主催「五万石騒動と御伝馬事件」の講演会がありました。

講師は、郷土史家で高崎五万石騒動研究会員の萩原慧先生です。

五万石騒動の背景や運動の顛末、その後の伝承運動など、熱のこもった講演で、ついに御伝馬事件の話まで辿りつきませんでしたが、大変興味深く面白くお話を伺うことができました。

先生のお話を伺いながら、今と似てるなーと思いました。
長年続いた幕府政治から、明治新政府への政権交代。
農業では生活が成り立たないと訴える農民。
年貢の公民比を5:5にして欲しいという地方の訴え。
期待される新政府と、戸惑い混乱する旧政府(高崎藩)。

など、など・・・。

お話の中で、驚いたことがひとつあります。
下中居村の大総代:佐藤三喜蔵の住居が、中里村(現高崎市東中里町)に移築されて現存しているという情報です。
頂いた資料に、こう書かれていました。
「明治五壬申年(1872)、家屋新築ノ挙、同年一月二十一日、下中居村佐藤三喜蔵氏家屋ヲ曽テ買取置シ故、本日之ヲ引キ取ラント欲シ・・・」
「中里村 五十嵐勘右衛門長男 五十嵐喜一作成」とあります。

実は、「高崎の散歩道 第三集」には、下中居町発性寺近くに「三喜蔵宅跡」があると記されています。
しかし、行ってみるとそれらしきものは、跡形もありませんでした。

三喜蔵の墓は、そこからちょっと東へ行った普門寺に、それは立派なものがあります。

三喜蔵宅をなぜ残せなかったのかなぁ、とずっと思っていたのです。

前回の記事で、高崎城「しゃちほこ」「裏門」を探しに、栗崎町台新田町を探索しましたが、東中里町もすぐそばです。
ついでと言っては何ですが、移築されたという三喜蔵の家を探してみることにしました。

そして見つけました!

表札には、五十嵐勘衛と書かれていますので、五十嵐勘右衛門さんのご子孫と推察しました。

念のため確認をしようとチャイムを押しましたが、、残念ながらお留守でした。
お隣の家もまた、五十嵐姓の立派なお屋敷でしたので、図々しくお尋ねしたところ、間違いありませんでした。

その方のお話では、「明治四年(1871)に火災にあって家が焼失したため、三喜蔵の家をここに移築したと聞いている。」とのことでした。

先の文書に、「買取代価は金百六拾両なり」とあります。
どのような経緯で、三喜蔵の家を買い取ることになったかはわかりません。
ただ、多くの農民を率いての訴願活動は、おそらく莫大な出費だったことでしょう。
しかも、明治三年(1870)に三喜蔵が処刑されてしまった家の家計は、さぞかし苦しかったことでしょう。
三喜蔵は民を救うために、文字通り、財も命も投げ出した訳です。
五十嵐家が、そんな三喜蔵家を救う意味もあって、家屋の買取をしていたのではないでしょうか。

五万石騒動を伝える貴重な史跡として、この家をずっと残していってほしいものです。

【三喜蔵宅があったところ】


【三喜蔵の墓】


【移築された三喜蔵宅】
  


Posted by 迷道院高崎at 20:03
Comments(4)高崎五万石騒動

2009年07月29日

ひっそりと・・・

柳原観音堂入口の水路のほとりに、ひっそりと石碑が建っています。

あ、話は逸れますが、この水路には「地獄堰」という、恐ろしげな名前が付いています。

さて、話を石碑に戻しましょう。

「義全師碑」という銘が刻まれていますが、碑文はすべて漢文で、なんのことやらさっぱり分かりません。
(あ、それで分からないことを、「チンプン漢文」と?・・・ちがうか・・・。)

なので、五万石騒動史跡巡りの時、高崎市史編纂委員の中村茂先生に頂いた資料を参考にさせて頂きました。

元水戸藩士の小園江義全(おぞのえ・ぎぜん)という人が、ある日、武人の虚しさを感じて突然出家し、諸国遊歴の旅に出たのだそうです。
そして文化十一年(1814)この南大類の地に来た義全は、村人の願望で柳原観音の別当となってここに住み着き、寺子屋を開いて村人の教育にあたったといいます。
石碑は、その功績を讃えたものなのですね。
すべて漢文で書かれているのも、水戸学の影響を受けたものでしょうか。

義全の子が小園江丹宮(おぞのえ・たみや)といい、父の後を継いで村人たちの教育にあたりました。
その教育を受けた村人の中に、五万石騒動の中心的人物(高井喜三郎、佐藤三喜蔵、丸茂元次郎等)がいます。
訴願に至るまでの用意周到さ、組織運営の緻密さ、統率の見事さなど、丹宮からの指導あってのことといわれています。

丹宮とともに、五万石騒動の影の指導者といわれているのが、進雄神社の神官・高井左衛門大夫です。
そして、その一族である高井喜三郎が、大総代になっている訳です。
当時のこの地区の文化度の高さには、本当に驚かされます。

訴願成就を見ぬまま、刑場の露と消えた高井喜三郎の墓は進雄神社の400mほど西にありますが、大通りから入り込んでいるので、知る人は少ないようです。

墓の傍らに、辞世の句碑が建っています。
     「吾(われ)人の 為ともなれと身を捨てて
           いまいけにへ(生け贄)と なるぞうれしき」


今、世間は、来たる衆院選に向けて、大騒ぎになっています。
神社に必勝祈願をする候補者も多いと思いますが、喜三郎の墓に詣でて、心静かにこの辞世の句を噛み締めた方が、ご利益があるのではないでしょうか。

【高井喜三郎の墓】
  


Posted by 迷道院高崎at 07:24
Comments(0)高崎五万石騒動

2010年10月06日

五万石騒動 140周年

10月3日、高崎市総合福祉センターで、「今、語り継ぐ高崎五万石騒動 140周年記念の集い」という催しがありました。
大総代三人が処刑されてから、ちょうど140年なのだそうです。


舞台に飾られていたこの絵画は、上中居村の第二総代・丸茂元次郎のご子孫、丸茂利夫さんの作です。

こちらを向いて立っているのは、五万石騒動に参加した百姓衆、背景には上毛三山や浅間山、谷川岳が描かれています。

不思議に感じるのは、左手前に座って頭を下げている白いシャツの人物です。
丸茂利夫さんのご説明によると、ご自身の姿なのだそうです。
五万石騒動で、我が身をいとわずに粘り強く訴え続けた先人たちへの、尊敬と感謝の思いがこもっている作品と感じました。

丸茂利夫さんは16歳の時、群馬勤労者集団によって制作された「高崎五万石騒動-消えない足あと」という紙芝居の原画を描いています。

「高崎五万石騒動」を初めて本にした細野格城が、高崎城への押し出しに加わったのが、同じ16歳の時でしたから、何か因縁めいたものを感じます。

記念講演は、研究会事務局長の萩原慧(さとし)先生です。

実に熱のこもった分かりやすいお話で、あっという間の1時間20分でした。

五万石騒動は、とかく農民の戦いの部分がクローズアップされがちですが、今回、萩原先生は次のような言葉で話を締めくくりました。
今までの過酷な税が減ったことによって、百姓の取り分が増えました。百姓衆はそれを元手に、新しい商業的農業・養蚕業を始めるんです。
それを始める土台が、ここでできたんです。」

子どもにも五万石騒動のことを伝えたいと、研究会の皆さんが「高崎五万石騒動かるた」を作りました。

当ブログでは、これから毎回、一枚づつご紹介していこうと思います。

研究会にはお断りしていませんが、この位なら許して頂けるのではないかと、勝手に思うことに致しました。

研究会では、「高崎五万石騒動義民記念館」の設立にも取り組もうとしています。
これは、拙ブログのコメンテータで、丸茂元次郎のご子孫でもある “いちじん”さんの発案で、燕岳登山へ行く途中で寄った、安曇野市の「貞享義民記念館」に触発されたものだそうです。
活動はこれからですが、広く市民の皆さんのご協力を頂きたいものです。

最後に、下小鳥町舞踏保存会の皆さんによる、八木節「義民・五万石騒動」のさわりをご覧頂きましょう。




  


Posted by 迷道院高崎at 19:46
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2013年02月06日

第3回 高崎五万石騒動義人祭

2月3日、高崎市東町にある「高崎五万石騒動義人堂」で行われた第3回義人祭に参加させて頂きました。

司会進行は、ブロ友のいちじんさんです。

りっぱな紋付羽織袴のいでたちは、五万石騒動を世に伝えた細野格城と髭の長さがほぼ同じになったからとのこと。
格城さんのお髭は、いちじんさんのブログからどうぞ。

翌日の2月4日は、大総代の柴崎村・高井喜三郎、下中居村・佐藤三喜蔵の二人が、この地で処刑された日です。

上毛新聞が、ちょうどその命日に義人祭の記事を掲載してくれました。

大総代辞世の句です。

 望みなき身は今日かぎり散りぬるも
    なゝたび生まれかなへてやみむ

佐藤三喜蔵 享年52歳

 吾人のためともなれと身をすてて
    いまいけにへとなりしうれしさ

高井喜三郎 享年42歳

三喜蔵喜三郎を救おうと岩鼻県庁へ願い出てそのまま捕われ、9月7日に処刑された、上小塙村の大総代・小島文治郎の辞世。
 人のため草葉のつゆと消ゆるとも
        名を後の世に残すうれしさ

小島文治郎 享年46歳

「義人堂」には、この騒動の暗雲と混濁をイメージさせるレリーフの、立派な石碑が建っています。

設計は、高崎の誇る工芸家・水原徳言(みはら・とくげん)氏です。

裏面の建設経過を見ると、なかなか大変なご苦労があったようです。

この日頂いた資料には、当時の商工会議所副会頭の吉野五郎氏が50万円を、碑石は永井石材店が寄贈したとあります。

たくさんの方々によって伝えられてきた郷土の歴史です。
「義人堂」の前に立ち、140年前の出来事を通して、世の行く末を考えてみるのもまた一興かと。


【高崎五万石騒動義人堂】


  


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2015年02月12日

号外!高崎五万石騒動義人祭

今年で第5回となる、「高崎五万石騒動義人祭」が開催されます。



「高崎五万石騒動って何だい?」と思われた方は、過去記事でざっとご覧いただけます。

江戸から明治への転換期ゆえに起きた、高崎の歴史的大事件です。
知ることで、郷土を見る目も変わってきます。
ぜひ一度、足をお運びください。

  日時:2月15日(日)午前10時~
  場所:高崎市東町200 高崎五万石騒動義人堂

      (駐車場はありません。)


【高崎五万石騒動義人堂】


  


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2015年04月19日

駅から遠足 観音山(29)

天狗党事件の次に田村仙岳の名前が登場するのは、「高崎五万石騒動」です。

「高崎五万石騒動研究会」の活動によって、知る人も多くなってきたこの事件ですが、簡単におさらいをしておきましょう。
と、思ったのですが、私が書くと長くなってしまいそうなので、その昔、ブログ仲間の弥乃助さんが書いた記事を読んでください。
ついでに、私の駆け出しのころの記事も読んで頂けたら、嬉しいです。

さて、田村仙岳です。

細野格城「高崎五万石騒動」を読まれた方の中には、仙岳さんにあまり良い印象を持っていない方もいるかも知れません。

この中に出てくる「西光寺の大根投げ」という話で、仙岳さんがこんな登場のしかたをしてくるからでしょう。

(句読点は迷道院加筆)
役人の方では突然の事ではあり、大根が雨霰れの如くに降り來り、避け樣とも何とも詮(せん)(すべ)なく呆然(ぼんやり)として惘(あき)れて居られました。
此時も矢張り田村仙岳師も居りましたので、百姓方は日頃田村師を蛇蝎視して居たもので在るから、大勢は張り烈(裂?)けん斗(ばか)りの大音聲にて、淸水寺の田村坊主は隱密に來て居るのだ。
坊主を引き摺り出して歐(たた)き殺せ(など)と口々に罵り、中には師を目かけて瓦礫抔を投げる樣な事に成りましたので、役人の方も今や迚(とて)も鎭撫處(どころ)でなく、浮か浮かして居ては其身が危うくなり恁(かかっ)て來たものだから、寺の裏口の雨戸を破り逃げ走って脱(のが)れましたが、其中には寺の裏の溝(どぶ)へ落ち込み、履物は勿論大切なるものを遺夫(失?)して、雫の滴下(したた)る衣服を其儘絞りもせず、逢々(ほうほう)の体で城下指して駆け付け、右の旨を重役に訴えた。」

仙岳さん、農民にはえらく評判が悪いです。
「蛇蝎」、つまり蛇か蠍(さそり)のように見られていたというんですから。
ところで、なぜ仙岳さんが、この騒動の舞台に登場してくるのかということです。

格城は、このように書いています。
當時藩士以外に於いて藩主に御目見へ以上の優待を受けし者數多(あまた)在りしと雖(いえど)も、石原村淸水寺の住職田村仙岳、南大類村觀音の別當小園江丹宮(おぞのえ・たみや)の両氏程、城内に對し信用を得た者は殆ど無った。
斯樣(かよう)な譯で在ったから、藩の重要事件には何時も諮問に與(あずか)り、此減納訴願に就ひても初めより諮問が有った。」

藩の相談役というか知恵袋というか、事件が起こればいつもそこに仙岳さんがいた訳です。
だから、天狗党の騒動の時にも下妻まで武器を回収に行ったりしたんですね。
農民の言う「藩の隠密だ。」という言葉も、当たっているように思えます。

しかし格城は、同じ「高崎五万石騒動」〔最後の顛末〕の項で、こう言っています。
尚ほ申上げ殘した事柄が少しござります、夫れは斯うである。
田村仙岳師の事は、本編所々に顕るゝが如き無髪の偉僧にて、水滸傳中の「ゝ(ちゅ)大和尚」の如き磊落率直な謂はば一種の變人で、氣骨稜々人世百般の出來事には自己を損(すて)て相怜(あわれ)てふ、復(また)得易からざる脱俗僧である。
何條本件の樣な事柄に默止して居られ樣、藩と農民側の表裏に亘って斡旋した事は一両度ではなかったが、誠意赤心(偽りのない真心)のある所が間々一汎より曲解誤認されて徹底しない所が西光寺大根投げの時の様に反って惡感情を惹起せしめたこともあるが、此は農民側の觀測(おもい)が足らない誤解邪推より起こったこと。
尋常普通の人なら一遍に怒ってしまう。自分が是れ程に盡力するのに、何故其れが知了(わから)ない乎(か)、了解(わから)なければ己れには己れの考が有ると見切をつけるが普通であるが、田村氏は却々(なかなか)さうでない。
万望(どうか)して百姓の苦惱の輕量(かるから)むことを衷心より思って居られた・・・」

自分を捨てても人を憐れむという、俗世間にはめったにいない得難い人物である。
普通の人なら悪しざまに言われればすぐ怒って、「勝手にしろ!」と放り投げてしまうところだが、仙岳さんはそんなことはせず、どうにかして農民の苦悩を軽くしたいと思っていた人物なんだ、と言っているのです。

さらに、
兎に角、東鄕に小園江師あり西鄕に田村師在って、圓滿なる勞を執(と)られました爲め、東鄕二十三ヶ村、西鄕の内田村師の居村石原村それに乘附村等より一人として罪人を出さなかったのは、僥倖な事でござりました。」
と、仙岳の功績を認めています。

仙岳の慈悲心は、騒動が終焉した後も引き続き農民に向けられています。
段々方がついて、夫れぞれ處分せらるべきものは罪の多少を酌量して懲役に服される者が出來たので、田村師は平素の俠氣傍觀するに忍びず、氣の毒である可愛相であると測隱の心禁ぜんとして禁ずる能わず、千思万考種々胸中に畫た末、碓井郡神山驛の名主岡田平六、並に群馬郡(現今佐波郡)南玉村の名主町田孝五郎の両人に懇談する所あって、外役として使役いたしたいと岩鼻監獄へ出頭に及んだ處遂に聞届けになりて、十余人の入監者は外役との事で非常に喜んだと云ふ。
何んで囚人が外役を喜んだと云に、監督が緩やかである斗(ばか)りでなく食事の際抔(など)雇主より雑菜御馳走を與へらるゝも亦因をなして居ると云ふ。
尤も百姓騒動の懲役囚斗でなく、半分は他の囚人を交へ使ったので、懲役人の内には多少自己の誤解を知らずして田村師を恨んで居る者もあったが、この事が知れてからは恨む所か、田村師の慈悲深い温ひ情愛に富だ坊さんであると謂ふことが心中へ徹底したので、今迄僻見(ひがみ)根性を起して愁(うれい)て居た連中も、ガラリと悟る所があったと云ふが左(さ)もあるべき筈で、慈愛の同情は何時かは同化さすと云ふ事だが、之れが眞に僧侶の云ふ菩薩行とでも謂ふのでございませう。
田村師の行動に就ては、世間毀譽褒貶の辭(ことば)に富んだ人だが、人の善事は美擧として賞讃するは當然の事で、功過相刹の偏見は余りに狭量かと、自分は自己の信じたこと丈けを申上げる次第であります。」

五万石騒動で罪に問われた人が獄中の懲役で苦しまないよう、獄の外で農家の手伝いをする「外役」に就けるよう、仙岳さんは岩鼻監獄にまで出向いてお願いしたというのです。
これには、仙岳さんに悪感情を抱いていた農民たちも、仙岳さんの本当の慈悲心を悟ることができたようです。
細野格城は、とかく世間では仙岳さんを毀誉褒貶の人物であると言っているが、それは余りに狭い偏見である、と信念を以て語っています。

だいぶ引用が長くなりましたが、「高崎五万石騒動」に書かれている仙岳さんをご紹介しました。

次回は、その後の仙岳さんについてお話ししようと思います。

  


2017年04月16日

史跡看板散歩-40 高崎五万石騒動義人堂

東町(あずまちょう)の、「高崎五万石騒動義人堂」です。



「高崎五万石騒動」は、語れば長い物語なんですが、この文字数でよく核心を突いている説明文だと思います。
この騒動はよく百姓一揆と捉えられたりもしますが、武器を持って豪農・商家を襲うような類とは全く違い、公平な税制を求めた整然たる市民運動でありました。
初期の明治政府における混乱が生んだ悲劇だと言っても良いでしょう。

犠牲者の慰霊・顕彰のために建立された「義人堂」は、水原徳言氏のユニークな設計です。


碑文は、田島武夫氏と萩原進氏の撰です。




五万石騒動の大総代三人が斬首されたここは、「無縁堂」と呼ばれていました。
川野辺寛著「高崎志」(寛政元年)にこう書かれています。
無縁堂ハ羅漢町ノ東八町バカリニアリ、是モ赤坂ノ内也、四面反畝ニシテ、森ノ中ニアリ、高崎ノ荼毘所也、
開基未詳、慶長ノ頃ヨリ、新紺屋町金剛寺ノ持也ト云、初ハ羅漢町ノ東矢島ト云所ニアリ、故ニ矢島山ト号ス、
其地町家ニ接近ナルヲ以テ、安藤氏ノ長臣安藤丹下、請テ今ノ地ニ移スト云、未詳、旧地今ニ存セリ、
堂五間、四面、西向、萱葺也、本尊阿弥陀、又閻魔ノ木像アリ。
庫裡 五間ニ一一間、萱葺也。
鐘楼 二間四方。」

森の中にある荼毘(だび)所で、萱葺の堂宇と庫裡、鐘楼もあったようです。
初めは羅漢町にあったが、町家に近いのでここに移ったということですね。

「無縁堂」は、明治以降も引き続き高崎市の火葬場として利用されました。


しかし、かつては一面の田んぼだった「無縁堂」周辺も、次第に人家が密集してきます。
寺尾地区から永福寺境内山上への火葬場誘致の陳情があったこともあり、昭和九年(1934)同地に新しい火葬場が完成して、「無縁堂」はその役目を終えます。

「義人堂」の天井部に組まれている梁は、もしかすると「無縁堂」の遺材なのかも知れません。


「義人堂」の周りには、今も「無縁堂」の遺物と思われるものが転がっています。


その中には、火葬後の灰を埋めた場所に建てたらしい「灰塚石」も見られます。


そして、幕末動乱期の慶応元年(1865)に「無縁堂」の露と消えた、水戸浪士・猿田忠夫主従の墓もあります。


水戸天狗党の軍資金調達を目的に、上州各地の富豪を勧誘・強要して回り、板鼻から高崎に来る途中で捕縛され斬首された、主従六人の慰霊碑です。

ここ「無縁堂」跡地は、高崎の忘れてはならない史跡の一つです。


【高崎五万石騒動義人堂】



  


2018年11月08日

号外!高崎城押し出しウォーキング!

明治二年(1869)十月十七日、柴崎村天王の森(現進雄神社)に集結した高崎藩古領(五万石)の農民約四千人が、年貢減免の願書を手に高崎城大手門へ押し出し(デモ行進)を決行しました。

来年がその150年目ということで、「高崎五万石騒動150周年記念行事」を企画しています。

さて、そのプレイベントとして「高崎城押し出しウォーキング」を実施するため、着々と準備を進めてきました。




そして11月11日(日)、ついにその日がやってきました!


ぜひ当日、「高崎城押し出し」を見に来てください。

できれば、あなたも押し出しに参加してみませんか。
参加方法は、二通りあります。

1.フルコース参加 残3人まで
    (途中バス利用 普門寺-義人堂-安国寺-
           高崎城-大森院-進雄神社-普門寺)
・集合場所  下中居町「普門寺」
駐車場有
・集合時間  午前10時
・参加費用  3,000円
・申込み先  実行委員会事務局 吉井一仁    
電話090-1600-4082

2.ショートコース参加(徒歩 安国寺-高崎城)
・集合場所  慈光通り「安国寺」前
駐車場無し
お近くの有料駐車場をご利用ください
・集合時間  午前11時
・参加費用  無料
・申込み先  当日安国寺前にて

みなさんのご参加を、心よりお待ちしております!


【普門寺】

【安国寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 17:57
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