2013年04月21日

春の夜嵐 昭和のおふさ(1)

もう、そんなになるんかなぁ・・・と思うのですが、3年程前、高崎内の旧三国街道をウロついてたことがあります。

で、旧群馬町金古にある常仙寺に寄った時、その参道に一体のお地蔵様が建っていました。

聞けば、昔ここにあった絹市場の建物で映画上映中火事になり、それで亡くなった15名の方を慰霊するためのお地蔵様だということでした。

その時のブログ記事。↓
  ◇「旧三国街道 さ迷い道中記(17)」

その時上映されていた映画の題名が「昭和のおふさ」で、その惨事を「春の夜嵐」という演題で、金柳亭幾之助という人が浪花節で語っていたということはわかったのですが、その中身についてまで辿り着くことはできませんでした。

ところが、ブログの力というのはすごいもので、今年の2月、この記事を読んだ「群馬の紀ちゃん」という方から、びっくりするようなメールを頂戴しました。
金古町の絹市場の惨事。当日を語る人も少なくなりました。5月16日の「地蔵祭り」に向けて、「歴史を語る」などの「集い」があれば・・・・。金柳亭の台本、富沢ミエの写真、関連の歴史研究をしている人も高齢となりました。」

おっ!?
ということは、資料もありお話を伺うこともできるのかと、すぐメールを差し上げたところ、こんなご返事を頂きました。
関係の資料がお渡し出来ます。2月16日の午前10時頃から、庚申祭りの打ち合わせ会があり、「夜嵐の関係者」もお出でになりますので。」

早速、当日お伺いすると、たくさんの資料を用意して迎えて下さいました。

同席されたKさんという方は、当時7歳で実際にその場にいて、九死に一生の思いをしたと語って下さいました。
逃げる人の下駄で踏まれた痕がしばらく体に残っていて、人が来る度に、お母さんがその痕を見せながら火事のことを話していたそうです。

というような訳で貴重な資料を頂きましたので、これから皆さんにご紹介していこうと思います。
しばし、お付き合いのほど、お願い申し上げます。

次回は、どんな惨事があったのかを詳しくお伝えします。



  


Posted by 迷道院高崎at 08:17
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2013年04月28日

春の夜嵐 昭和のおふさ(2)

昭和六年(1931)金古絹市場でどのような惨事があったのか、
「群馬の紀ちゃん」さんから頂いた、絹市場殉難者五十回忌追悼「地蔵のねがい」という小冊子の中からお伝えします。

まず、絹市場がどんな建物だったのか、小林好明さんの一文から。
東西に長い建物で、東正面は大二階で、階下には映写室がつくられました。西には舞台を設け、舞台裏に二階がありました。南北とも下屋に二階
がつけられました。南階下は土間でした。(略)
(舞台正面の緞帳を吊る漆喰壁は)向かい合った二頭の龍が、絹市場の文字の入ったくびれた繭を捧げている図柄でした。だれもがほれぼれと見上げるすばらしいものでした。

協議の結果、天井は広告で上げようということになりました。格子状に区切った天井を、上中下の三段階に分けて広告料をいただきました。一桝がトタン板半分の大きさで、広告者の希望の図柄を入れることにしました。組合員総出で各方面を回って募集し、全部をふさぐことができました。
医者の牧震太郎先生は、『広告はいらないが、天井の中央へ日の丸を。』というご要望でした。また、お産婆の松下タケさんのは桃太郎の生まれる絵でした。

落成祝は昭和五年(1930)五月五日に、広告者その他関係者を招待して盛大に行われました。」

まさか、その一年後に全焼し、一瞬にして13名もの尊い命を奪ってしまうなどとは、誰ひとり思ってもみなかったでしょう。
翌日以降さらに2名が死亡し、15名となる。

上毛新聞の記事です。
十六日午後十時四十分、群馬郡金古町上の絹市場で催された関東日日新聞社前橋支局主催、県下各郡市教育界有志後援の教育映画に於いて、高崎東校の孝女富澤ミエ子を映画化した、「昭和のおふさ」を上映中、突然二階映写室から発火し、火災は忽ち天井に燃え移って、黒煙は渦巻き、感激の涙に咽んでいた観衆は総立ちとなって泣き叫び、俄然会場は阿鼻叫喚の修羅場と化した。

この夜の観衆は、階上約百五十人、階下約六百人であったが、逃げ場を失った人々は一時に東方出入口に殺到し、階上にあった観衆は折り重なって階下に飛び降り、東側の雨戸を蹴破って場外に逃れたが、火災は忽ちこの出入口をも封鎖したので、黒煙を潜って西方の非常口に辿り着いた人々は辛うじて障子一枚を蹴破り、濛々たる黒煙と共に吐き出されたが、既に此の頃は、南北両側にある二階は墜落し、場内は全く火の海と化して逃げ遅れた人々は、ここに一団となって焼死した。」

実際に惨事に遭った小林好子さんの手記です。
思いおこせばもう五十年になりましょうか、それは私の小学校二年の春五月十六日の晩の出来事でございました。あまりにも遠い昔の事とは申しながら、私の仲良しだった飯島サダ江さんを失った悲しさは何年たっても忘れる事は出来ないのでございます。(略)

当時「昭和のお房」とも言われた高崎東小学校の生徒富沢ミエさんの親孝行が映画化され、金常館(絹市場の劇場としての名称)で幾日か上映される事になりました。各町村から順番で先生が生徒を引率しては見に行きました。サダ江さんも私も一度見たのですから行かなければ良かったのに、子供心にまた見たかったのです。(略)

事件のおきる直前の場面は、学校の遠足に遅れそうなので駅へ向かって走って居るところでした。突然東中央にある映写機の所から火が出たと思うと天井へ火が走りました。(天井画の)エナメルが火に燃えやすく火を呼んだ状態となったのです。
満員の人達は皆西口へ逃げました。私は二階で見ていた訳ですが、東の階段は火の海で行く事が出来ずに居りますうちに手すりが倒れ、人の頭に下りてそのまま西口へ出る事が出来たのです。
サダ江さんはお兄さんと見て居て西南の隅に逃げたのです。そこは入り口も出口もない角だったのです。其の所へ人々は折り重なって倒れ、そのまま焼け死んでしまったのです。」

この惨事により亡くなった15名の内、8名が6歳から13歳、15歳から18歳が5名、大人は22歳と59歳のそれぞれ1名と、いかに子供たちの犠牲が多かったかが分かります。

飯島家の墓地に、可愛い少女の石像が一体建っています。

わずか九歳で命を落とした、飯島サダエさんの石像です。

今年も、5月16日に「地蔵まつり」が執り行われます。
常仙寺のお地蔵様に手を合わせる機会がありましたら、少し足を延ばしてこちらにもお参りして頂けたらと思います。

さて次回は、金柳亭幾之助氏がこの惨事を歌にして奉納・出版した、「春の夜嵐」のご紹介です。


【常仙寺 殉難地蔵】

【飯島サダエ石像】


  


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2013年05月05日

春の夜嵐 昭和のおふさ(3)

常仙寺参道に建つ、絹市場火災殉難地蔵の台石に、「春の夜嵐 發行紀念」という文字が刻まれています。

ずっと気になっていました。

3年前、探したけれど見つからなかったものを、「群馬の紀ちゃん」さんのご厚意で、手にすることができました。

初版は、絹市場の惨事があった3カ月後の、昭和六年(1931)八月丗一日とあります。

著者の金柳亭幾之助という人物については、まだよく分からないのですが、本名は柳原幾太郎金古下宿の人だそうです。

文筆家であったのかあるいは、「春の夜嵐」を浪花節として語っていたということですから、芸人であったのか・・・。
また、この冊子の発行所が「一本木鑛泉 金柳亭」とありますので、湯屋か宿屋でも営んでいたのでしょうか。

では、金柳亭幾之助著「春の夜嵐」をご覧ください。

   金古の惨劇  春の夜嵐
                        金柳亭幾之助著
春の夜嵐出版の趣旨
本書を出版するに至りしは、純朴なる家庭の人々が、孝女おふさの映畫と聞き之を師表にせんと觀覽中の大惨事にて、誠に悼ましき限りと存じ、遭難者の靈を吊(とむら)ふべく『春の夜嵐』と題し第一版を發行したるも尚足らざるに付、茲(ここ)に其第二版を發行する所以に候。   謹白
             昭和六年九月
                      著者   金柳亭幾之助

【一】
昭和六とせは五月(さつき)のなかば
木々のこずへ(梢)の若みどり
枝より枝に鳴く鳥の
五月雨(さみだれ)烟(けむ)る其中に
香の煙は縷々(るる)として
昇るもあわれ、やけ跡に
たちしとうば(塔婆)の十と三ツ
あくる其日は若人の
悲しき別れの手向草

【二】
こゝに上州高崎の
東尋常小學生
昭和のおふさと世の人に
その孝行を讃へられ
未だ二年の生徒にて
父無き家に母親を
助けて共にいじらしく
貧しき中に弟妹を
養ふけなげな行を
いつか教えの師のきみが
知って忽ち世の人の
鏡となりし富澤ミエ子
日影の草にも花は咲く
時は來たりて高崎の
心ある人集まりて
是を世の爲、人の爲
廣く世上に知らさんと
映畫(えいが)に之をうつしけり
誠の道のありがたさ
冩眞はたちまち評判の
何處(いずく)へ行きてうつすとも
満員ならぬ事ぞなし

【三】
昭和六年五月は中の六日の日
上州金古絹市場
昭和おふさの映畫をば
上映いたす事となり
特に生徒に観せばやと
金古、國府に堤ヶ岡
清里村の小學生
皆受持ちの先生が
引率致して午前午后
晝間(ひるま)観覧致せしが
子供ごゝろにミエさんの
其孝行に感激し
家に歸えりて此話
無邪氣な子供の物語
夜にとなれば人々は
吾も吾もと連れだちて
急ぎ行きたる映冩塲
早くも滿員、立錐の
餘地なき程の其の中に
映畫はだんだん進みけり

【四】
時しも丁度十一時
機械はとまるその瞬間(とき)は
早やフイルムに火はうつり
パッと燃え出す映冩室
すは一大事と人々は
一度に立って大さわぎ
先を競ふて逃げ出だす
四方の戸をば押開き
漸く出づる其のうちに
小屋はたちまち火となりて
二階に居りし人々は
二階の窓より飛ぶもあり
逃げおくれたる人々を
助けて出だす人もあり
老いたる人をいたわりて
烟(けむり)の中をかいくぐり
ようやく救ふ者もあり
阿鼻叫喚の其の中に
天を焦して紅蓮のほのう(炎)
鳴る半鐘のそのひびき
ふせぎ働く消防手
殘りし人はあらざるかと
聲を限りに呼ぶ人や
別れて出でて名を呼んで
逢ふて互いに喜んで
手に手を取って泣く人や
又は一緒に來た人で
行衛(ゆくえ)の知れぬかなしさに
熱さも忘れうろうろと
さまよう姿のいたわしさ
時間もたちて火も消えて
灰の中より十三の
悲しき死骸の出たときは
泪に目さえ泣きはらし
あゝ一緒に映畫をば
観て居た人もわずかなる
時を經ぬれば魂は
はなれて遠き西の國
浄土にかへり給ひけり
死したる人の其の中の
桃井村のつよさんや
その妹のひで子さん
今年十五のフヂさんは
ともに揃ってきりょうよし(器量良し)
孝子(こうし)の冩眞見んものと
友と睦みて九人連れ
來たりし中の七人は
終(つい)に空しくなりにけり
金古の天田きよ子さん
又足門の繁さんも
花とみまごう美しさ
子供の時からお友達
共に手をとり八年間
學びの庭に生育し
丁度其夜も二人して
並んで楽しく見てゐたが
逃げおくれてか兩人は
共に抱きて最後まで
終(つい)にはかなく散りにけり

【五】
尚も哀れをとどめしは
翌日倒れし利人君
可愛い妹サダ江さん
隣の家の聖愛さん
其妹さんの映代さん
前の家の繁子さん
連れだち仲よく來たりしが
火事と見るより立ちあがり
さあ大變だ、皆來いよ
數多(あまた)の人と諸共に
外にと出でて見廻せば
續いて出でしと思ひしに
一人も居らぬに驚きて
あゝサダ江や映代さん
あの繁さんは如何(どう)してと
呼べど叫べど答えなし
今は吾身を打忘れ
最(も)一度入りて助けんと
再び火中に飛入りて
聲を限りに名を呼べど
何の答もあらざれば
はげしくふりくる火の中を
右に左に尋ねしも
今はせんかた盡(つ)きにけり
吾身は火炎に焼かるとも
連れ來りし人を助けんと
思ひし事も水の泡
終に全身火に焼かれ
窓より外に飛び出だし
殘りし人がありますと
言ふて其場に倒れけり
居合す人は驚きて
醫師の手當をうけさせる
早速前橋赤十字
連れて行たる甲斐もなく
惜しや若木の櫻花(さくらばな)
夜半(よわ)の嵐に散らしけり

【六】
全部合わせて十四人
此世は夢かまぼろしか
野邊の送りもしめやかに
香の烟は縷々として
焼けたる跡に十三の
塔婆と共に世の人の
寄せる泪の語り草
幾世經るとも盡きざらん

(終り)

惨劇の状況、人々の心情を、巧みな七五調で著した名文だと思います。

ところで、映画の題名「昭和のおふさ」「おふさ」とは、いったい誰なんでしょう?
次回は、「おふさ」さんについてお話しすることに致しましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:36
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2013年05月12日

春の夜嵐 昭和のおふさ(4)

金古絹市場で上映された映画の題名は、「昭和のおふさ」でした。
「昭和の・・・」とあるのですから、きっと大正か、明治か、あるいはそれ以前の人に違いありませんが、「おふさ」というのはいったい誰のことなのでしょう。

「昭和のおふさ」と呼ばれた富澤ミエさんは、幼い時に父を亡くし、弟の面倒を見ながらお母さんをたすけて「孝女」と呼ばれたということなので、そんなキーワードでググってみたところ、修身の本にそれらしき「ふさ」を見つけました。

もう少し高学年向けの本で見てみましょう。

どうも、いま一つよく分からないので、さらに探してみると、大正十二年(1923)発行の「少年少女お話しの泉」という本に、「孝女ふさ」というお話が載っているのを見つけました。

おふささんは、播磨国加東郡三草村(現・兵庫県加東市上三草)の人でした。
さらに調べてみると、地元の方が、「ふるさと加東の歴史再発見」というブログの中で、「孝女ふさ」について詳しい記事を書いておられました。
とても良い話です。どうぞ全文をお読み頂きますように。

   ◇「孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語」①
   ◇「孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語」②
   ◇「孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語」③
   ◇「孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語」④

余談ですが、この方のブログを拝見すると、何となく迷道院と同じ思いを持つ方のようで、親近感を感じております。

ということで、おふささんが播磨の人で、時代的には江戸時代、どのような話かということも分かってきました。
では、「昭和のおふさ」と呼ばれた富澤ミエさんは、どのような孝女だったのでしょう。
次回は、そのお話しです。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:58
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2013年05月19日

春の夜嵐 昭和のおふさ(5)

映画「昭和のおふさ」のモデルとなった富澤ミエさん(大正十三年生れ)が、絹市場殉難者五十回追悼記念誌「地蔵のねがい」に手記を寄せています。
その手記に、ミエさん自身が生い立ちを綴っておられますので、ご紹介いたします。
長い文ですので、2回に分けてお届けします。

「思い出の記」    福田(旧姓富澤)ミエ

私は五歳の六月に父を亡くしました。腎臓炎のため、百日余りを病床にあっての後での死、残されたものは幼い三人の子、頼りになる親戚もなく、母は初七日が済むとすぐ、働かなければなりませんでした。

その頃、女のする仕事は殆どなかったのですが、幸いタドン工場で働かせて頂く事になり、一キロほど離れた所でしたが、朝早くから出かけて行きました。その母を見送りながら、一歳の弟は、後姿の見えなくなる迄泣きつづけて居たものでした。時には泣きやまぬ弟にもらい泣きして、三人で声をあげて泣いていると、近所の方が何事かと、のぞいてくれて、慰められた事も二度や三度ではありませんでした。

五歳の私には弟達の昼食の才覚もなく、母の所へ一歳の弟を背負い、三歳の弟の手を引いて行きました。
そんな毎日が続き、夏が過ぎ、秋が終わり、冬になっての雪の日でした。いつもの通り、弟達をつれて、降る雪に傘をさして、歩き出したのですが・・・。
その頃の私の履物は、差し歯の下駄でした。少し歩くと下駄に雪が付いてダルマのようになってしまいます。自分の雪を落とすと弟の下駄が雪ダルマ、雪はどんどん降っているのです。この時ほど母の工場が、遠く感じられた事はありませんでした。

背中の弟は泣き出すし、歩いている弟も冷たくて泣き出すし、下駄の雪を電信柱に叩きつけながら落としている私も、たまらなくなって泣き出してしまったのです。ちょうど通りかかった小父さんが、歩いている弟を背負ってくれて、私の手を引いて、母の工場へ連れて行ってくれた思い出は、子供心にも有難く、今でも鮮やかに胸に残って、生涯忘れる事が出来ません。

次の年、私は小学校へ行く年齢でした。学校へやれば子守りができず、母は働かなければならず、で、一年就学を延期して頂くために、学校へお願いに行ったそうですが、弟達を学校へ連れてきても良いと言われ、有難くて、涙して帰って来たそうです。

私は、弟達をつれて、東尋常小学校へ通いました。時間に遅れたことも、おもりで勉強の出来なかった事も度々ありました。
弟達の夕食も私が作りました。吹きさらしの水道で米をとぎ、冷たさのあまり、口の中で手を温めては水を使いました。バケツに水を汲み、母が帰って来る頃までにはヤカンにお湯を沸かしておくのです。
火を燃すのも、あの頃はケンタや薪といったもので、家中を煙にして湯を沸かしたものでした。今思えば、弟たちに何を食べさせていたのでしょう。

時には、残業で帰りの遅い母を待ちくたびれて寝てしまった弟達を見ながら、八時九時になっても帰らぬ母に、何事もないようお守り下さいと、長い時間神様に手を合わせて待っていたのです。
「お世話になりました。」と、いつも隣の家に声を掛けてくる母のその声を聞き、ワッと泣き出してしまった事もありました。

一年二年と過ぎ、私が三年生の春、弟が一年生に、五年生の春、下の弟も私が学校へ通いはじめて五年目でやっと、一年生にして頂きました。

お母さんとミエさん姉弟

(つづく)


  


Posted by 迷道院高崎at 12:50
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2013年05月26日

春の夜嵐 昭和のおふさ(6)

「昭和のおふさ」と言われた富澤ミエさんの、「思い出の記」つづきです。

文字通り、母は真黒になって働きました。なりふりかまわず、生きることに精一杯だったと思います。

夜、暗くなってから、汽車を見に連れて行ってもらったことが何回かありました。暗い野原で、時々通る汽車を数えたり、大声で走り去る汽車に呼びかけたりしたものです。
母は、私が大きくなってから言いました。「何度汽車みち(母は線路をこう呼んでいました)へ行ったかしれなかったが、喜んで遊んでいるお前達を見ると、死んだ気になれは何でも出来る。」と、思い直しては帰って来たそうです。
その当時の女の賃金はきっと安かったのでしょう、働かなければ食べられないと、休む日とて一日もなく働いてくれたようです。

近所の子供達がお菓子を持っていれば弟達も欲しがります。その時は、すぐおにぎりでした。小さな手で作るおにぎりはまるで野球のボールのようなものだったのです。
そして、私も年一回の遠足も子守りのために行く事が出来ず、学校で友達みんなが出て行くのを見送って居た顔は、泣き出さんばかりの笑い顔だったに違いありません。その後姉弟三人には広過ぎる校庭で、大声あげてかけまわって遊んだ日もありました。

たった一度、母のお弁当を持っていった遠足の覚えがありますが、あれは少林山だったでしょうか・・・。お菓子も果物も何もなくも、その遠足に行けたということで、私は最高に幸せでした。
でも六年生の修学旅行にはやってもらいました。私の好きだった黒いカリントを少し持たせてもらって、大喜びで汽車に乗ったのを覚えてます。

あとでは求める事の出来ない卒業写真も買ってはもらえぬ苦しい生活の中でも、母は、ワラ一本でも人様のものには手をつけるな、人に後ろ指を差されるような事は決してするな、弟達の手本になれ、といつも私に言って居りました。
おかげ様で、何の苦もないような顔をして、伸び伸び育ってきたのも、母や周囲の方々のおかげと感謝して居ります。

幸い、家中が健康に恵まれ、私も小学校を卒業すると、高崎市役所の給仕にして頂きました。
その時の市長さんが、「女の子は手に職をつけておいたほうが良いのでは」と言って下さいまして、東校の校長先生と相談して、看護婦学校へお世話くださいました。
それからは、昼は給仕、夜は看護婦学校へ通い、ようやく資格を得て、十五歳の時から看護婦として働くようになりました。

幼い頃から今迄、無事過ごして来られたのも、その時その時の私の周囲にいて下さった方々の厚いお情けと温かい思いやりの心に恵まれたからと、感謝という言葉では言いつくせぬほど心にとめております。
その当時の私の立場なら誰でもやらなければならなかった当たり前の事をしたのですが、皆々様のあたたかいお心づかいで、映画にして頂きました。
その映画が不慮の事故につながり、多くの方々の生命を・・・と思うと残念でなりません。

或る年でした。金古に住んで居られる方から、お地蔵様の話を聞きました。
早速案内して頂き、お参りしましたが、その折、お寺のうらにあるお墓と、足門のお墓にもお参りさせて頂いた事があります。

その後も、五月十六日になると、じっとしては居られず、勤めに出かける前にと、朝四時起きで一生けんめい自転車をこいで来たのです。
だいじに持ってきたつもりの矢車草も芍薬の花も、風にもまれてしおれかかってはおりましたが、朝早い老夫婦の家でお水を頂き、お参りを済ませ、ホッとした思いで帰った事が何回かあります。
その頃だったでしょうか、お寺の藤の花が見事な花をさかせていた覚えがありますが・・・。
◇     ◇     ◇
縁あって、金古の地に嫁いで来たのも何かの因縁でしょうか。
今は幸せな日々を過ごさせて頂いております。此の地に来てからは折に触れてはお参りさせて頂いておりましたが、近くにお住いの遺族の方から三十三年忌を聞きまして、当時、金古小学校の校長先生であったお隣の故飯塚半兵衛先生と、お寺に伺い、回向させて頂きました。

その折の御遺族様の胸中、いかばかりだったかとお察し申し上げます。
そして亡くなられた方々のご冥福を、心より深く深くお祈り申し上げます。


ミエさんは、昭和二十七年(1952)に金古町福田重美さんと結婚、三人のお子さんに恵まれました。
子育てのためにいったんやめた看護婦の仕事も、昭和三十九年(1964)から再開して昭和五十三年(1978)まで続けています。
その後は各種の地域ボランティア活動に熱心に取り組み、厚生大臣表彰を受けるほど尽力されました。

おそらくは、映画のモデルになったという喜ぶべきことが、ミエさんにとってはいつまでも心のトゲとなって残っていたのでありましょうが。
その一生は最後まで、人々の模範となる孝女でありました。

金古絹市場の惨事と昭和のおふさのお話しは、ここまでと致します。
資料をご提供頂いた「群馬の紀ちゃん」さんと金古町の方々に、御礼を申し上げます。
また、お付き合い頂いた読者の皆様に、感謝申し上げます。
ありがとうございました。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:14
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2017年05月24日

番外 高崎の孝女みえ

5月18日の「創刊130周年上毛新聞プレーバック」に、昭和六年(1931)旧群馬郡金古町で起きた、絹市場の火災が取り上げられていました。


絹市場の火災のことや、「高崎の孝女みえ」とか「昭和のおふさ」とか言われても何のことやらという方も多いと思いますので、4年前のブログ記事を再掲することにいたしました。
ご覧いただけたら幸いです。



  


Posted by 迷道院高崎at 12:21
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