2009年08月14日

蛇が怖けりゃ、この神社

倉賀野下町「古堤」のすぐそばに、「諏訪神社」があります。

倉賀野城主・金井淡路守武田信玄の命により、信州諏訪神社を勧請したと言われています。

この神社には、なぜかにまつわる話が付きまとっています。

倉賀野神社に伝わる「飯玉縁起」に登場する飯玉八郎が、倉賀野神社の御手洗池に住んでいた大蛇を退治して、頭を倉賀野神社に、尾をここ諏訪神社に祀ったという話が伝わっています。

また、昔、諏訪神社の近くに「穴池」という大きな池があって、そこに大蛇が住みついていたという話もあります。
その大蛇を、下町の人達が退治したのですが、祟りを恐れて諏訪神社に祀ったのだそうです。

そこで以前は、諏訪神社の拝殿に飾る注連縄(しめなわ)は、大蛇をかたどってあったといいます。
その名残りでしょうか、拝殿の注連縄は白い布が巻いてある珍しいものです。

さらに、境内の奥には「池鯉鮒神社」というのが祀られています。
「ちりう・じんじゃ」と読むそうで、愛知県知立(ちりゅう)市から勧請された「蝮(まむし)除け」の神様だそうです。
「ちりう」「茅生」とも書き、茅(かや)の沢山生えている所という意味もあるので、そんな場所に生息しているに噛まれないための信仰なのでしょう。

もともとは、「荒神山」のちょっと東、字大道南に祀られていた小祠で、明治末期の神社整理で諏訪神社境内に移されたものです。

諏訪神社の境内には、驚くほど立派な土俵が設(しつら)えてあります。

毎年8月26日が祭礼日で、その日にこの土俵で「子ども相撲」が催されるのだそうです。
また、以前は山車も出たようですが、今は8月16日「閻魔堂」の祭りにだけ山車を繰り出すようです。

諏訪神社境内の整備には、下町町民の力が大きく関わっています。
そのことについては、5月31日の記事、「嬉しい話」をご覧ください。

(参考図書:「高崎市史民俗調査報告 第七集」「続・徐徐漂たかさき」)


【諏訪神社】

【閻魔堂】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:59
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2009年08月12日

新堤と古堤

「荒神山の一本杉」の写真を撮りに行って、そういえば、この辺に「古堤(ふるづつみ)」というのがあったなぁ、と思い出しました。

「古堤」のことを知ったのは、安楽寺にある「倉賀野八景」の額がきっかけでした。
「新・倉賀野八景」の漢詩の中に、
「雨夜更遊新湖頭」(雨夜さらに遊ぶ 新湖[しんつつみ]の頭[ほとり])
というのがあって、「新湖(しんつつみ)」とは何だろうと思って、調べてみたのでした。

倉賀野駅の100mほど東、線路沿いにある用水池が「新堤(しんづつみ)」です。

ほとりに建つ石碑には「新𦾔(旧)溜池改修記念碑」と刻まれています。
新溜池が天明六年(1786)に作られた「新堤」旧溜池がそれより古い「古堤」ということで、ともに昭和十一年(1936)に改修工事がなされました。

倉賀野の下町にある、その「古堤」が、これです。→

一見、何の変哲もない用水池ですが、かつて、この地区にとっては重要な溜池でした。

この地域の農業用水は、長野堰の末流である五貫堀川の更に下流の末水(ばっすい)であるため、いつも水量が不足がちだったようです。
そこで、旱魃に備えてつくられたのが、この「古堤」なのです。

「古堤」に隣接する高崎市立倉賀野保育所の脇に、「古堤」の由来を刻んだ石碑が建てられています。

その碑文をご紹介しましょう。

「古堤は倉賀野町字荒神にあり、面積は六反三畝五歩(6,264㎡)にして、徳川四代将軍家綱公の寛文年代(1661~1672)全国的な大旱魃起こり、時の高崎藩主年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。

その後、管理は名主、組頭、百姓代に依ってなされたが、明治に至り町の所有となり下組水利組合が管理運営にあたり、下流地域一帯の田畑を潤し、農民はその恩恵に浴す。

時は移り世は変わり、町村合併により高崎市の所有となり、幼児教育の重要なることを認めて合い謀りて、ここにその半ばを埋め立て保育所を建設するに至る。
この農民の歴史を後世に伝えんとして、この碑を建つ。
昭和五十二年四月吉日   倉賀野下組水利組合」


いやー、高崎藩は単なるバラマキ減税でなく、ちゃんと将来を見据えた施策をとっていたんですね。
さらに、昭和初期までこの溜池でを養殖し、信州の佐久まで列車輸送して、「佐久の鯉」として売っていた業者もいたといいます。
先人たち、なかなかしっかりしております。

【新堤】

【古堤】
  

Posted by 迷道院高崎at 06:22
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2009年08月09日

荒神山の一本杉

先日、天明三年(1783)の浅間山大噴火による降灰を集めて塚にしたという、「浅間山(せんげんやま)」の話をご紹介しましたが、その姿を見ながら、以前、同じような風景を見たことを思い出しました。

「倉賀野緑地公園」へ行く時に見える、この風景です。
広い駐車場の中に、ポツンと取り残されたような小山。
「荒神山の一本杉」というのだそうです。

この塚には、悲しい物語が残されています。

とある旗本の嫡男に生まれた甲阪新之助という人が、許婚(いいなづけ)がありながら、向いの邸の門番の娘、お露と恋仲になってしまいます。
それを父に知られた二人は駆け落ちをしますが、江戸からの追手が迫る中、豪雨で増水した烏川を渡り始めます。
あくる朝、倉賀野河岸近くの河原に、互いに胴を結んだ男女の溺死体がありました。
しかも女性は身籠っていたといいます。
その姿を憐れに思った村人は、河岸近くの高台に比翼塚(愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚)を立て、その上に二本の杉を植えたのだそうです。

人々は、「荒神山の二本杉」と呼んで供養していましたが、いつしか訪れる人も減り、荒れるに任せた状態となりました。
明治に入り、この一帯が開墾されて田畑となりましたが、どういう訳か水田の水掛かりが悪い上に、よく人々が怪我をし、耕す者に必ず不幸が見舞うと言われるようになります。
そこで古老の言によって、供養塔を立てて懇(ねんご)ろに弔うようにした所、それ以来、悪いことは起きなくなったということです。

駐車場の中に、塚が取り残されている理由が分かりました。

時を経て「二本杉」は大きく育ちましたが、あるとき一本の木に雷が落ちて、真っ二つに割れてしまったそうです。
そして、その空洞になった所で乞食が火を燃したりしたため、ついに枯れて「一本杉」になってしまったとのことです。

その一本も、また枯れてしまったのでしょうか。
現在は、まだそれほど太くない杉の木が四本、塚の上に立っています。

「荒神山」のすぐそばに、小さな祠があり、石仏が祀られています。

「馬頭様」と呼ばれる、「馬頭観音」だそうです。

大正か昭和の初め頃、ここから烏川の河原に落ちて死んだ、盲目のがいました。
この馬を供養するため、近くの河川敷で桑畑を耕作していた人たちが、お金を出し合って建てたのだそうです。

当時の人達の、心優しさを物語る二つの遺跡。
由来を記した看板もないのは、いかにも勿体ないことです。
長く、後世に伝えていきたいものです。


(参考図書:「伝説の倉賀野」「倉賀野町の民俗」)


【荒神山】
  

Posted by 迷道院高崎at 17:04
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2009年07月22日

上正六の竜巻

7月19日(日)に岡山竜巻が発生し、2棟が全壊、71棟が一部損壊するなど、大きな被害が出たようです。
被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

このニュースに接し、思い出したことがあります。
旧中山道松並木の取材をしている時、上正六須永志嘉夫さんから、昭和六年(1931)にこの辺で大きな竜巻被害があったということを聞いていたのです。
いつかブログに書こうと思いながら、ずっと忘れてしまっていました。

上正六の歴史を几帳面に記録している須永さんでしたが、竜巻のあった時は小学6年生だったそうで、写真や新聞記事はお持ちでありませんでした。
そこで今日、県立前橋文書館へ行って当時の新聞記事のマイクロフィルムを探してきました。

竜巻があったのは、昭和六年六月十二日(金)の午前1時40分頃だったということです。
住家12戸が空中高く捲き上げられ、死者2名重軽傷者10数名とあります。
旧中山道の松並木も、この竜巻で大半が倒潰してしまったのですね。

当時、前橋測候所は次のような見解を示しています。
「この時の日本列島付近には、オホーツク方面の高気圧と、四国土佐灘沖の低気圧、および日本海方面の低気圧が分布していた。
高崎は、これら三つの高低気圧に挟まれる位置にあったため、気流が不安定となり、竜巻が起こったらしい。
(略)
今度のはそれほど大きなものでなく、天気図にも載らない程度であるにも拘らず、被害は全国でも稀有のものである。」


竜巻は、下佐野方面の烏川付近で発生し、正六公民館のところにあった薬師堂の屋根を吹き飛ばし、火の見櫓を倒し、旧中山道の松並木をなぎ倒して、浅間山古墳にぶつかって向きを変えたようです。
そして、上正六の家々を破壊して、和田多中下和田を通り、上信電鉄の車庫の屋根、石灰製造所の屋根などを壊して、やっと衰弱し、市の中央部方面に去ったといいます。(「高崎市史民俗調査報告書第七集」より)

高崎から遥か遠いオホーツクの気圧が影響したこの竜巻ですが、その年の9月18日、大陸では日本軍が関与したとされる南満州鉄道爆破事件が起こります。
そして、翌年5月15日の、いわゆる5.15事件により軍部の力が強くなり、ついに戦争という大竜巻が発生してしまいました。
岡山の竜巻が、そのような大竜巻発生の予兆でないことを、心から祈っています。
  

Posted by 迷道院高崎at 21:54
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2009年06月06日

粕沢の立場茶屋

大正中期から昭和初期にかけて、倉賀野から高崎方面へ進むと、写真のような風景が見られたようです。(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)

ここは倉賀野町正六(しょうろく)です。

正六とは面白い地名ですが、一説には、新田義貞の血を引いているという女性が、この地の浅間山(せんげんやま)に住んでいて、その女性が「正六位」という位階を持っていたことから、この村を正六と呼ぶようになったということです。

写真の場所は、大正半ば以降の上正六粕沢という所で、写っている家は「諸国商人宿」だそうです。
実は、この家について貴重な情報を得ることができました。
前回の「並木たずねて・・・」で、新聞の切り抜きを提供していただいた須永志嘉夫さんから頂戴した「上正六村 歴史年録」に、次のようなことが記されています。

明治の中頃、粕沢橋のたもとには、長野堰五貫堀の流れに沿って篠笹の茂る土手があり、その土手下の窪みに冷たい澄んだ水が湧き出ていたといいます。

その湧水を使って、酢饅頭をつくっていた「清水屋」というお店があったそうです。

「清水屋」が昭和初期に店を閉めた後、村越という女性が住み着いて、出稼ぎの人たちを相手に始めた木賃宿が「諸国商人宿」だということです。

遡って江戸時代には、このあたりに「粕沢の立場茶屋」というのがあったといいます。(高崎の散歩道 第二集)
茶屋ができたのは、文化年間(1804~1817)といいますから、第11代将軍・徳川 家斉(とくがわ いえなり)の頃です。
茶屋の主は、高崎宿本町に住む当代の文化人、花岡義旭(平八郎)という人だそうです。

当時の粕沢は滝もある水量の多い川で、その水を引いて池には蓮の花が咲き、鯉の泳ぐ風流な茶屋だったということです。
参勤交代の大名も、旅人も必ず立ち寄ったといいます。

←左の写真は奈良水谷茶屋ですが、こんな雰囲気だったのでしょうか。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

「高崎の散歩道 第二集」には、「粕沢の立場茶屋」「はなおかゴルフ練習場」のところであったと書いてあります。
ゴルフ練習場の名前からすると、花岡義旭のご子孫の経営だったのでしょうか。
現在は、ドラッグストア「ウエルシア」になっています。


【粕沢の立場茶屋があったといわれる場所】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:12
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2009年06月03日

並木たずねて・・・

倉賀野~高崎間の旧中山道に復元された松並木

次々と歴史遺産が消えていく中にあって、一体いつ、どのような経緯で復元されたのか、気になって仕方がありませんでした。

どこかに、経緯を記した記念碑か看板がないかと思い、松並木に沿ってずーっと歩いてみましたが、それらしいものは見当たりません。

ネットで検索しても、それらしいものは引っかかってきません。
ならば、と市役所へ電話してみました。
観光課の方が、忙しい中、親切に調べて下さいましたが、資料を見つけることはできなかったようです。
ただ、「住民の有志の方が、やられたようですよ。」という情報を頂きました。

そこで、街道沿いに古くからありそうな、お店を訪ねてみました。
最初の時計屋さんでは、
「15年前ぐらいじゃねぇかな?」というお話でした。
次のお蕎麦屋さんは、
「私は知らないけど、近くの造園屋さんが、この辺一手にやってるから、きっとわかるよ。」と教えてくれました。

その造園屋さんでは、
「並木の手入れはやってるけど、並木はうちが来た時にはもうあったよ。」ということでした。
ちょっぴり諦めかけた時、
「ガソリンスタンドの前のおじいちゃんが、昔のことよく知ってるよ。行ってみ。」と教えてくれました。
これが、大ヒットでした!

行ってみると、ちょうど、そのおじいちゃん(失礼!)が庭から家に入るところでした。
大急ぎで駆け寄って、「すみませーん!」と声をかけたもんだから、ビックリされたようで、申し訳ないことをしちゃいました。

「松並木が、いつ頃復元されたかご存知ですか?」と聞くと、
「うーん、あれは・・・」としばし考えておられましたが、
「ちょっと待ってて。」と家の中に入って行きました。
しばらくして、縁側から手招きをするので行ってみると、何やら冊子を数冊持っています。

なんと!ご自身でワープロを駆使して、正六地区の歴史資料を作っているのだそうです。
その資料の中から出して見せてくれたのが、右の新聞切り抜きです。

「おーっ!これですねー!!」

ちょうど日付のところが切り取られていたのですが、記事の中に「ことし三月、倉賀野バイパスが開通し・・・」とあるので、昭和五十八年(1983)とわかりました。

松並木復元のきっかけになったのも、倉賀野バイパスの開通でした。
「町内を通過していた長距離便などの車が減ったのがきっかけ。
 町に静かなたたずまいが戻り、植物や昆虫に悪影響を及ぼす排気ガスも減少し、並木復元の機運が盛り上がった。」
とあります。

復元の中心になったのは、「倉賀野公民館の染谷次雄館長、正六地区の町田新次郎区長、上町地区の武井正幸区長ら」で、「地元区長十一人と地元の社会教育団体の連名で、県に請願書を提出」したということです。

もっと知りたくなって、倉賀野交番で元倉賀野公民館長・染谷次雄氏のことを調べて頂いたら、既にお亡くなりになっていました。
交番の女性の方がすごく親切な方で、松並木のことを知っていそうな人に連絡をつけてくださいました。
先方から連絡を頂けるということで、楽しみに待っているところです。  

Posted by 迷道院高崎at 20:31
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2009年05月31日

嬉しい話

上毛新聞の「ひろば」欄に、嬉しい投稿を見つけました。

「三十数年ぶりに日の目を見る」とあります。
長い年月、山車蔵に仕舞い込んだままだったのですぐには動かせず、今回は蔵の中で見たり触ったりするだけに留めるようです。

住民の方々は廃品回収をして、山車の修復費の一部を調達しようとしているそうで、協力者が現れることを願っていると、投稿者は仰っています。


左の写真が、投稿にある倉賀野町南地区山車のかつての雄姿です。
少なくとも、三十数年前の姿ということでしょうか。

平成17年に「倉賀野まちづくりネットワーク」が発行した、「倉賀野めぐり 第三号」のパンフレットから複写させて頂きました。
このパンフレットは、ちょうど昨日、取材のために訪れた倉賀野交番で頂戴したものです。

パンフレットには、他の地区の山車の写真も掲載してありましたので、ご覧ください。




それぞれの山車は、曳きまわす時期が異なるため、すべての山車が勢ぞろいすることはないようですが、それが実現できたら素晴らしいことですね。

ところで、倉賀野の歴史に触れ始めてから、この町の独特な力を感じています。

それは、安易にお上に頼ることなく、住民自らが、財力のある人はあるなりに、無い人は無いなりに、協力し合ってこの町を作り上げてきたということを、そこかしこに感じるのです。

そして、今でも倉賀野という町に誇りを持っているということも、お話を聞かせて頂いた方々すべてに感じるのです。

倉賀野下町にある「諏訪神社」の境内に、下町山車庫があります。

その山車庫の左には、写真のような大きな石碑が立っています。

石碑は、莫大な私財を投じて諏訪神社の境内整備、山車の修復、山車庫の新築をした和田夫妻のことを讃えたものです。
昔々の話ではありません。平成三年建立の石碑です。

石碑を建立した人たちの呼び名にも、地域の力を感じます。
「大勧進」「総代」「肝煎り」「組頭」「世話人」「長寿連」「若妻連」「子供連」「若衆連」「長寿会」
宿場時代から培われてきた自主自立の精神が、現代まで脈々と受け継がれていることを感じるではありませんか。

政治・経済に閉塞感を感じざるを得ない現代ですが、こんな時こそ民の力地域の力が必要なのかもしれませんね。  

Posted by 迷道院高崎at 07:49
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2009年05月30日

消えた一里塚

「安楽寺」から旧中山道を高崎市街方面へ進むと、「あれ?」と思うほど長く続く松並木が目に入ってきます。

いつも歴史遺産の破壊を嘆いてばかりですが、この旧中山道松並木の復元は「よく、やってくれた!」と嬉しい気持で一杯になります。


倉賀野近辺の中山道松並木は、比較的最近までその姿を留めていたようです。

右の写真は、高崎で生まれ育った写真家・伊藤富太郎氏が残してくれた、大正9年(1920)当時の松並木の姿です。(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)

「高崎の散歩道 第二集」に、「高崎市史」よりとして、安政三年(1856)当時の倉賀野宿から高崎宿間の並木の本数が記されています。
   松杉   二千七百本
   新植付 八百三十五本

もともとは、松と杉の並木だったようですね。

昭和七年(1932)に道路が改修され、分離二車線になっています。南側の並木は中央分離帯となりました。(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)

同報告書によると、夜間、自動車が度々分離帯の柱に衝突し、消防自動車まで衝突するに及んで、ついに昭和二十五年(1950)頃、分離帯を取り除いたということです。
この時から、並木は片側のみになったのですね。

片側だけになってしまった並木に、今度は自動車の排気ガスが襲いかかります。
昭和三十六年(1961)には並木の多くが枯れ、倉賀野宿から和田多中間には、杉49本、松8本だけになってしまいます。
そして、枯れ残った並木も昭和三十八年(1963)にすべて伐採されてしまいました。

さて、その後、現在の松並木が一体いつ、どのような経緯で復元されたのでしょうか?
その話は、次回に回すとしましょう。

ところで、倉賀野宿には一里塚もあったようです。
場所は、「安楽寺」の少し高崎寄りで、街道の両側にあったということですが、今は跡形もなく消えてしまいました。

その一里塚は、江戸日本橋から二十六里(102km)目だったそうです。
因みに、二十七里目の一里塚高崎宿九蔵町にあったということです。
現在残っている豊岡一里塚は二十八里目ということになります。

右の写真は、現在の豊岡一里塚ですが、こんなのが倉賀野に残っていたら凄かったですね。

復元された松並木が大きく育ってきたことでもあり、せめて「一里塚跡」という碑だけでも、建てられないものでしょうか。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」、高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」)

  

Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2009年05月27日

みんなまとめて安楽寺

倉賀野町安楽寺には、「穴薬師」「倉賀野八景」の他、見るものが沢山あります。

今日は、それらをまとめてご紹介することにしましょう。

「賓頭盧(おびんづる)様」
本堂の軒下に祀られています。

病のあるところを撫でると、治してくれるそうです。
膝が一番光っていました。


「二十二夜堂」
本堂の左側に建っています。

説明は「由来看板」をご覧ください。



「将軍地蔵堂」
二十二夜堂の左に建っています。

説明は「由来看板」をご覧ください。


「異形板碑」
将軍地蔵堂の左にあります。

説明は「由来看板」をご覧ください。

以上の遺跡は比較的有名なものなので、ガイドブックなどにもよく登場します。
しかし、知られざる興味深きものが安楽寺には残されています。

そのひとつが、「えな捨て場」です。

「えな」とは「胞衣」と書き、産後の「胎盤」のことです。

昔は、お産婆さんが油紙にくるんで、その家の人が寺の墓地に持って行って捨てていたといいます。
安楽寺古墳の西側斜面、お地蔵様の左に、今でもその穴が残っています。

その後ろに、昭和四十年(1965)建立の「胞衣之碑」があります。
この年は巳年で、第百二回目の「穴薬師」ご開帳を記念して建てられたようです。

もうひとつ珍しいのが、「鼠(ねずみ)供養塔」です。

古墳の北側、ちょっと高くなった所に不動明王の石像と並んで建っています。
写真ではちょっとわかりにくいですが、「鼠」の文字が刻まれています。

一説には、倉賀野脇本陣の主須賀庄兵衛が、自宅の蔵の鼠を供養するために建てたと言われています。
また、安楽寺の奥様のお話によると、倉賀野河岸の米蔵を解体する時に、沢山の鼠を殺したので、その供養のために蔵主が建てたのだそうです。

実は、この話には後日談があります。
その解体した米蔵の部材を使って、安楽寺の庫裡を建てたというのです。
安楽寺は、お寺さんには珍しく信徒はいるものの、檀家というのを持たない祈祷寺です。
今でこそ、信徒さんの勧めで裏にわずかな墓地を持っていますが、昔は貧乏寺だったのだと奥様は仰います。
それを知っていた大工さんが、解体した米蔵の部材を使って、寺の庫裡を建て直してくれたのだそうです。

そのように、安楽寺倉賀野の住民が、何かにつけて寺のために寄付を募るなどして維持してきたお寺です。
しかし、信心深い人が少なくなった現代では、なかなかそれが難しくなっているのが現状のようです。


お近くに行かれた時には、ぜひとも安楽寺をお訪ねください。
数々の遺跡を楽しんで、いろいろお願いごともいたしましょう。
そして、ご喜捨をいたしましょう。


【安楽寺】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:47
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2009年05月23日

番外編

「広報高崎」に、高崎観光ガイドの会主催で「中山道倉賀野宿を歩く」という催しが載っていました。
めったに団体行動はしない迷道院ですが、タイトルに惹かれて、今日、参加してきました。
参加してよかったなぁと思ったのは、現物を見たくて仕方なかった「河岸観音」を、この目で見られたことです。

実は、グンブロ仲間の弥乃助さんが、職権乱用によって現物を見たと聞き、臍(ほぞ)を噛んでいたのです・・・。

あまり嬉しかったので、今日は予定を変更して、「今日の良かった」をお伝えすることにします。

まず、下町の「閻魔堂」へ行くと、普段閉まっている入口や掃き出し窓が開いていて、中を見せて頂くことができました。

いつも正面からしか見られなかった、閻魔様の横顔も見ることができました。


閻魔様の後方に「阿弥陀如来」が控えていたというのも、はじめて知りました。

帰る時には、閻魔様の厄除札まで頂きましたが、このお札の威力はさぞかし強大なことでしょー!

倉賀野神社では、嬉しい若者に出会うことができました。
何でも、東京から土・日を利用して中山道を歩いているのだそうです。
嬉しいじゃありませんか!
歴史遺産は年寄りだけのものじゃありません!
若者たちのためにも、残していかなければいけませんよ、みなさん!ね、ね、ね!


もうひとつ、倉賀野神社で発見しました。
神社で発行している、社報「くらがの」というのがあるんです。
昭和61年(1986)創刊で、現在第47号だそうです。

その記事の中に、倉賀野在住の藤倉美緒さんという若い女性が、今年の2月に作ったという「飯玉縁起」の紙芝居の紹介がありました。
若い方が頑張っておられるのですよ!

そんな「よいこと」が続いた一日でした。
高崎観光ガイドの会の皆さんの、おかげです。
ありがとうございました。  

Posted by 迷道院高崎at 20:50
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2009年05月21日

倉賀野八景

倉賀野町の安楽寺には、いろいろな額が奉納されています。
「大願成就」をご参照ください。)

今日は、安楽寺に奉納されている「倉賀野八景」額のお話です。

高崎には、「何とか八景」というのがいくつかあって、「高崎八景」をはじめ、「並榎八景」「長松寺八景」そして今回ご紹介する「倉賀野八景」が知られて・・・いるかな?
群馬町と榛名町が高崎と合併したので、「金古八景」「本郷八景」も加わることになります。

上の写真の「倉賀野八景」額は、明治年代のものだそうで、絵や文字もだいぶ薄くなって判読できません。
先人が書き残してくれていますので、ご紹介しましょう。

養報寺落雁  雁の来る ことにして待つ 溜井かな
九品寺晩鐘  暮れのかね 秋にもあきを かさねけり
安楽寺晴嵐  人声も かれぬ並木の あらしかな
大杉の月    水音の かよう梢や けふの月
太鼓橋涼    橋筋の するりと涼し 夕景色
烏川帰帆    羅(うすもの)に 風のつつまる 船路かな
飯玉の松    額(ひたい)うつ 松のしづくや 初時雨
八幡の雪    月花の 場所も替わらぬ 雪見かな

実は、隣には新しい「倉賀野八景」の額が奉納されています。

平成になってから奉納されたもので、戊寅(つちのえ・とら)とありますから平成十年(1998)です。
文字もハッキリとしてはいるのですが、読めません。
篆書体で書かれた七言律詩になっているのです。
これには、大変困りました。

図書館へ行って、新型ウィルスに怯えながら篆書字典を引くこと3時間、頑張ってはみましたが、どうにも判読できない文字が6文字残ってしまいました。
作者は奉納当時94歳、刻字された方も87歳という御年です。
ご存命ならば、104歳、97歳ということになりますので、お聞きするには、ちと・・・。

ということで、県立歴史博物館の学芸員さんに教えてもらおうとしましたが、日程の折り合いがつきません。
市の文化財保護課の方にも相談しましたが、「篆書はどうも・・・」ということでした。
斯くなる上は、安楽寺のご住職に聞いてみようと思い立ち、お寺を訪ねてみました。

すると、「燈台もと暗し」「案ずるより産むが易し」「下手な考え休むに似たり」「当たって砕けろ」「虎穴に入らずんば虎児を得ず」・・・。
なんだかわかんなくなっちゃいましたが、住職の奥様の「あー、訳したものがありますよ。」の一言で、簡単に解決してしまいました。
高崎在住の文芸評論家、故・江口恭平氏の書いた「飯島仲秋と倉賀野八景」という一文のコピーを、頂戴することができました。

この一文には、飯島仲秋氏の人となりや、新「倉賀野八景」作詩の経緯も書いてありましたが、今日は七言律詩のご紹介のみに留めておきましょう。(横書きにしてあります。)

  倉賀野八景
雪時嘗賞弁天景  (雪時かつて賞す 弁天の景)
雨夜更遊新湖頭  (雨夜さらに遊ぶ 新湖[しんつつみ]の頭[ほとり])
九品晩鐘響郷倉  (九品の晩鐘 郷倉に響き)
孤城落雁群烏洲  (孤城の落雁 烏洲に群がる)
花光爛漫薬師夕  (花光爛漫 薬師の夕べ)
月色玲瓏古墳秋  (月色玲瓏[れいろう] 古墳の秋)
遙望飯玉青嵐後  (遥かに望む飯玉 青嵐の後)
河岸白鷺似帰帆  (河岸の白鷺 帰帆に似たり)

この他にも安楽寺には、ご紹介したいものがたくさんあります。
次回は、それらをまとめてお話しいたしましょう。  

Posted by 迷道院高崎at 22:28
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2009年05月19日

大願成就

「穴薬師」のある、倉賀野町安楽寺「大願成就」と書かれた額が奉納されています。

よく見ると、その文字は古銭の「寛永通宝」を並べて作られています。

「寛永通宝」には一文銭と四文銭があるそうですが、どちらなのでしょう。
因みに、銭形平次が投げつけていたのは四文銭の方だそうです。
ついでに調べてみると、四文銭1,000枚で一両になるとか。

「寛永通宝」と聞くと、江戸時代の通貨という気がしますが、何と、昭和二十八年(1953)まで法的には通用していたというから驚きです。
実際に使われていたのは、明治中ごろまでということです。
「大願成就」額の奉納は明治二十六年(1893)とありますから、使わなくなった「寛永通宝」を無駄にせず、御礼に使ったものでしょう。

どんな大願が成就したのかが、額の下の紙に書かれています。

「明治26年(1893)高崎市八幡原町菓子製造業 原田常八氏が、妻女の眼病平癒を当山の本尊七仏薬師如来に祈願したところ、霊験あらたかに快癒し、その御礼参りに「寛永通宝」で上記の文字を書き、御本尊さまに奉納してくれたものです。」

原田常八夫妻の喜びが、伝わってくるようではありませんか。

安楽寺には古銭で書かれた奉納額がもうひとつあります。
大正六年(1917)高崎市菓子商の奉納とありますから、先の原田常八氏と何か関係があるのでしょうか。

こちらは、一厘銭を使っています。

この明治生まれのちっちゃな通貨も、「寛永通宝」と同じく昭和二十八年(1953)まで通用していました。
因みに、一厘銭1,000枚で1円だそうです。
ところが現在、古銭ショップでは900円の値が付いています。
わからんもんですねー。

実は、安楽寺には、もうひとつ立派な献額があるんです。
それは、また次回ということに・・・。(ひっぱりますねー)  

Posted by 迷道院高崎at 20:27
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2009年05月17日

穴薬師

倉賀野町の西外れに「安楽寺」というお寺があります。

ちょうど歩道橋があって、その上から撮ったのが左の写真ですが、本堂の後ろに小山のようなものがあります。

この小山は、7世紀後半につくられた横穴式の古墳だそうです。

普通、お寺のご本尊というのは本堂に安置されているものですが、このお寺のご本尊は古墳の石室の壁に掘られた七体の薬師様です。
一般的には「七仏薬師」と呼ばれていますが、穴の中の薬師様なので「穴薬師」と言われることもあるようです。

右の写真を見ると、古墳の横腹に建物が食い込んでいるのがよくわかるでしょう。

「穴薬師」のお姿を見ることができるのは、12年に1度の御開帳の時だけです。
巳年の4月8日と決まっているそうですから、あと4年後ということですね。

4年も待てないという方は、左の写真を見てください。

いつもお世話になっている「あさを社」様のご厚意で、「続・徐徐漂(ぶらり)たかさき」掲載の写真を複写させていただきました。

安楽寺に伝わる話によると、奈良時代の天平九年(737)に、諸国行脚をしていた行基(ぎょうき)という偉いお坊さんが、一夜で七体の薬師様を彫ったと言われています。
真偽の程は分かりませんが、暗い穴の中に七体もの薬師像を彫るには、それなりの理由があったのでしょう。

薬師如来は、東方の「浄瑠璃浄土」に住んでいて、「瑠璃光を以て衆生を病苦から救う」と言われています。
安楽寺の山門には、「瑠璃光殿」と書かれた立派な額が掛けられています。
「瑠璃」とは、深い青色の宝石「ラピスラズリ」のことだそうです。
医薬の無い時代、病に苦しみ暗澹たる思いの人々の前に、瑠璃色の光の中から薬師様が現れたとしたら、どんなに救われることでしょう。
そんな思いが「穴薬師」を刻ませ、行基伝説を生んだのだと思います。

実は、薬師様のおかげで病が治ったという証が、安楽寺には残っているのです。
そのお話は、また次回。  

Posted by 迷道院高崎at 20:04
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2009年05月16日

みんなまとめて倉賀野神社

倉賀野神社には、沢山の神様が集まっています。

今日は、それらの神様をまとめてご紹介して、そろそろ倉賀野神社を後にしたいと思います。

まずは、「冠稲荷(かんむりいなり)」です。
このお稲荷さんは、以前「飯盛女の心意気」でご紹介しています。
ホームシックにかかり、昔住んでいたところに帰りたいと駄々をこねて、別荘を作ってもらったお稲荷さんです。

そういえば、「お稲荷さん」「飯玉さま」とつながりがあるのです。
飯玉神社のご祭神「保食神(うけもちのかみ)」「うけ」とは食物のことですが、「うか」とも言ったそうです。
そんなことから、同じ食物の神様に、古事記では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、日本書紀では「倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)」と書く神様がいます。
この神様が、稲の神つまり「お稲荷さん」になったようです。

さらに、「うが」という音をとって「宇賀神(うがじん)」という民間信仰の神様が生まれ、仏教の「宇迦耶(うがや)」と音が似ていることから、これとも結びついてしまうようです。
梵語の「ウガヤ」というのは、白蛇のことだそうです。
そして、この白蛇弁財天の宝冠の中に住んでいるのだそうです。

ほらほら、「飯玉縁起」と結びついてきたでしょう?
「八郎大蛇」は蛇です。
琴を弾いて八郎を悔い改めさせる彫刻の姿は、弁天様そっくりです。
昔話って、ほんっっっとに、面白いですねぇ。

「冠稲荷」の隣に祀られている「甲子大黒天(きのえね・だいこくてん)」は、金運、台所の神様だそうです。

もともとは、ヒンズー教の神様で、夜や暗黒を支配する夜叉神だと言います。
だから、「大黒天」なんですね。

じゃ、何で金運、台所の神様なの?「甲子」って?という謎を解き始めると、また長くなりそうですので、次の機会にしましょう。

境内の隅には、「北向道祖神」という双体道祖神があります。

昔は別の場所にあって、しかも「南向き」だったのだそうです。
ただ、狭い農道の角にあって、農民が天秤棒を担いで通るのに邪魔だったので、向きを「北向き」に直したと言います。(「続・高崎漫歩」より)

やがて倉賀野神社に移された時、そのまま北向きに祀られてしまったということですが、きっと移した人も「北向き」に何か意味があると思ったんでしょうね。
意外と、実用的な理由でした。

さて、この後は、高崎に向かって中山道を歩いてみます。  

Posted by 迷道院高崎at 08:17
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2009年05月13日

「亀石」と「飯玉さま」

今日の話は長くなりそうです。

←前回ご紹介した「飯玉さま」に出てくる「鳥啄池(とりばみのいけ)跡」に置かれている石ですが、「平亀石」と言うそうです。

そういわれると、亀に見えてくるから不思議ですね。

でもこの「平亀石」は、前回書いた御魂代(みたましろ)の「亀石」とは別物です。
「亀石」は今でも本殿に大切に奉安されているそうですが、残念ながら御開帳はしていないとのことです。

また、これも前回書いたことですが、「亀石」「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊で、そこから倉賀野神社のご祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」とされております。

ところで「飯玉さま」のことですが、「飯玉」と名のつく神社はどうも群馬県に多いようです。
群馬県神社名鑑によると県下に27社、内、高崎は4社が「飯玉神社」という名称だそうです。
何となく「ご飯」に関係ありそうな名前ですが、実はその通りで、ご祭神の多くは食物の神様「保食神(うけもちのかみ)」です。
この神様は、日本書紀にこんな神話として登場します。

~……~……~……~……~……~……~……~……~……~

「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が、「月夜見尊(つくよみのみこと)」「保食神(うけもちのかみ)」という神を見てくるように命じました。
「保食神」は、「月夜見尊」をもてなすために、米飯や魚や肉をを用意するのですが、何とそれを口から吐き出したというのです。
それを見た「月夜見尊」は怒って、「保食神」を斬り殺してしまいます。
今度は、そのことを聞いた「天照大神」「月夜見尊」を怒ります。
「もうお前とは会いたくない。」と言って、それ以降、太陽と月は別々に出るようになったのだそうです。
そして、斬り殺された「保食神」の遺体からは、いろいろな穀物や牛馬、蚕が生まれ出たといいます。


~……~……~……~……~……~……~……~……~……~

さて、ここからは私のまったくの推論、私論です。
なぜ「亀石」を御魂代(みたましろ)とした神社に、「保食神」つまり「飯玉さま」の言い伝えが残っているのかという謎解きです。

「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が祀った「亀石」は、東国平定の戦いを無事務めるための神様でした。
倉賀野神社の社殿は、それより下ること1300年後の建長五年(1253)に倉賀野城主・倉賀野三郎高俊が建替えたと言われています。
そして、社名を「飯玉大明神」と呼ぶようになったのは、さらに下って江戸時代のことです。
その頃には、「亀石」「雨乞い石」として信仰されるように変わってくるのです。

神社は、その時々の人々の願いや祈りの場として存在します。
戦の絶えない時代にあっては、その勝利のためや災厄を免れるための祈りの場となり、平時にあっては、五穀豊穣や平穏な暮らしを祈る場として、変化していったと思われます。

「飯玉縁起」「八郎大蛇」が過去の恨みを悔い改めて「龍神」になったという話は、それを裏付けているような気がします。
「龍神」は水の神様です。
「龍神になって烏川の辺に飛び去った」というのも、稲作に必要な水の恵みと関係するでしょう。
「亀石」「雨乞い石」になったというのも、稲作と大いに関係がありそうです。
考えてみれば、「倉賀野」という地名も、「穀物を格納する倉のある喜ばしい平野」というのを連想させます。

しかし、「飯玉大明神」が、再び「大国魂神社」と社名を変える時がきます。
明治十年(1877)、日本最後の内戦「西南戦争」のあった年です。
その後、明治二十七年(1894)には日清戦争、明治三十七年(1904)には日露戦争が勃発します。
そして、明治四十三年(1910)に「倉賀野神社」と改称されますが、それでも昭和二十年(1945年)まで断続的に戦争は続きました。

曲がりなりにも太平の世が続いている今、「妬まず、恨まず、民のため」という「飯玉縁起」の教えを語り継ぐために、「飯玉さま」という呼び名を復活してはいかがでしょうか。

長い記事を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

【倉賀野神社】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:04
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2009年05月11日

飯玉さま

前回の「飯玉さまの引き合わせ」に登場する、倉賀野神社への参道を「宮原小路」と呼ぶそうである。

平安時代の末、この一帯は「宮原荘(みやはらのしょう)」という荘園だったというのが謂れであろう。
その「宮」の起源は古く、紀元前まで遡る。

倉賀野神社の由緒によると、「上毛野君(かみつけぬのきみ)」の祖と言われる「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が、紀元前50年?に「崇神天皇(すじんてんのう)」の命を受けて東国を平定する折り、陣中としたこの地に松を植え、都から持参した「亀石」という石を御魂代(みたましろ)として、祭祀をしたのが始まりだという。

この「亀石」は、当時、都で猛威をふるった疫病を鎮めたといわれる、「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊であった。
そこから、この「宮」「大国玉明神(おおくにたまみょうじん)」と呼ばれていたという。

時は下って江戸時代になると、「飯玉大明神(いいだまだいみょうじん)」と名前を変える。
今でも近隣の人は、倉賀野神社のことを「飯玉さま」と呼ぶ。
その名前の由来となったのが、本殿向拝の彫刻に表されている「飯玉縁起(いいだまえんぎ)」の伝説である。

神社のHPには、こう書かれている。

~……~……~……~……~……~……~……~……~……~
光仁天皇の御代(770〜780)、群馬郡の地頭・群馬太夫満行には8人の子がいた。
末子の八郎満胤は文武の道に優れ、帝から目代(もくだい)の職まで賜るようになる。
これを妬んだ兄たちは八郎を夜討ちにして鳥啄池(とりばみのいけ)の岩屋に押し込めてしまう。

3年後八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄達ととその妻子眷属まで食い殺した。
その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂い、年に一人の生贄を許すこととした。

やがて小幡権守(おばたごんのかみ)宗岡の家が贄番に当たる年となり、父と16才の娘海津姫は悲運に嘆き悲しむのであった。

都から通りかかった奥州への勅使、宮内判官(くないほうがん)宗光はこれを聞き、海津姫とともに岩屋の奥へ入っていく。

真っ赤な舌をのばし爪を立て怒り狂う八郎大蛇と、一心に琴を弾き法の功徳を説く勅使宗光
すると八郎は琴の音に随喜の涙を流し、これまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変えた。

そして天空に舞い上がり「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん。」と宣言し、群馬と緑埜(みどの)両郡境の烏川のあたりに飛び去り姿を消した。

~……~……~……~……~……~……~……~……~……~

八郎大蛇がいたという「鳥啄池(とりばみのいけ)」跡というのが、神社の東、道を隔てたところにある。

参道の改修工事により整備されたようであるが、江戸時代には深さ八尺(2.4m)の池があったという。
さらに、「宮原の一つ松」というのが、東西十二間(21.8m)の枝を広げていたらしい。

それにしても、なぜいきなり「飯玉さま」が出て来たのだろう?
その謎解きは、また次回ということに・・・。

【鳥啄池跡】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2009年05月09日

飯玉さまの引き合わせ

今日は、久しぶりにブログネタ取材のために散歩に出た。

旧中山道から倉賀野神社の参道に入る角に、があった。

遠目には漆喰壁に見えるのだが、近くに寄ると白色のトタン板で覆われていた。
敷地の広さとその趣きからして、昔はさぞかし名のある商家であったのだろうと思われる。

ちょうど近くのお宅で、ご年配のご夫婦が玄関のドアを直していたので、声を掛けてみた。
人間嫌いの迷道院としては、至極珍しい行動である。

「この蔵のあるお家は、昔何屋さんだったんですか?」と聞くと、
「あー、ここんちはね、酒屋だったんさー。造り酒屋だいねー。」と教えてくれた。
「そこんとこにさ、井戸があったんだい。きれぇな水が出ててなぁ。そいで、水がいいもんだからさ、酒ぇつくってたんさ。」
「前は、漆喰だったんだけどさ、はぁ痛んでボロボロ落ちるだんべ。んで、トタン張ったんだいなー。」

今はあまり聞くことができなくなった上州弁で、昔の倉賀野のことをいろいろ語り始めてくれた。

その内、奥様が「お茶でも飲んでってくださいよ。これも何かのご縁ですから。」と・・・。
恐縮してお断りしたのだが、ご主人の尽きぬ昔話を聞いている間に、お煎餅、生菓子、沢庵まで用意して頂いて、玄関先で頂戴することになってしまった。

すっかり長居をして、帰り際にふと表札を見ると「と〇い」さんという苗字だった。
神社のすぐそばに「と〇い」さんとは、出来すぎでしょう!
お土産に、生菓子を包んで持たせてくれました。
「また近くに来たら寄ってくださいね。」とまで言ってくれた、素敵なご夫婦でした。
いつまでもお元気で!

昔の面影を残す参道を進むと、水車の回る素敵なお庭を発見した。

ご主人と思しき方がいたので、「こんにちは!」と声をかけた。
あれ?今日の迷道院、おかしいぞ。
先ほどのご夫婦の人懐こさが、うつってしまったのだろうか。

「はい?」とこちらに来たご主人に聞くと、水車はご主人の手作りだそうである。
そればかりか、四阿(あずまや)も手作りだという。
このご主人も、心安く「中に入んない。」と言って下さったが、流石に今日は、ご遠慮申し上げた。

人嫌いの迷道院が、ちょっぴり人好きになったのだろうか。
それとも、参道の懐かしい佇まいのせいだろうか。
もしかすると、倉賀野神社「飯玉さま」のお引き合わせだろうか。

その「飯玉さま」については、また次回。

  

Posted by 迷道院高崎at 20:58
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2009年05月01日

雁城(かりがねじょう)

「雁城(かりがねじょう)」という美しい呼び名を持っているお城が、むかし倉賀野にあった。

「井戸八幡」から200mほど西へ行ったところにある「雁(かりがね)児童公園」が、、「倉賀野城」別名「雁城」の本丸跡である。
大きな城址碑と、城の歴史を記した石碑がなければ、それとは分からぬほど小さな公園である。

他県にも「雁城」と呼ばれた城はあるようだが、その名の謂れについてはよく分からない。
ただ「倉賀野城」の場合は、城主・倉賀野氏の家紋が、「対い雁(むかい・かりがね)」だというので、たぶんそれが由来ではないかと思われる。

この家紋、ちょっと見ると蝙蝠(こうもり)のようだが、正解は鳥の雁(かり)が向かい合っている図柄である。

戦国時代の「倉賀野城」は、当初、上杉家に属していたが、後に宿敵の武田家に属することとなる。
その家紋が、「雁」という渡り鳥とは、少々皮肉な話である。

高崎市文化財調査委員で古城塁研究家の、山崎一氏が書き残してくれた「倉賀野城址」図がある。
昭和44年(1969)当時の道路と重ね合わせてあるので、どの辺りにあったのか見当がつく。


この図を見ると、「牛街道」「太鼓橋」下の道が、「倉賀野城」の堀の跡だということがよく分かる。
旧中山道も、今より一本北の道だったというから、やはり遠堀を埋めて道にしたのだろう。

倉賀野氏がここに館を構えたのは治承年間というから、平清盛源頼朝が戦っていた1177年~1184年だ。

「倉賀野河岸」の開設は永禄四年(1561)、川中島で上杉謙信武田信玄が戦っていた頃である。

そして落城したのが天正十八年(1590)、豊臣秀吉小田原城を包囲して降伏させた年である。
その時、小田原城には倉賀野城主・金井淡路守も籠城していたといい、落城後二十日ほどで死去したとある。
つまり、小田原城陥落と共に、「倉賀野城」も主を失ったという訳だ。
何ともはや、戦いの嵐に翻弄され続けた400年の歴史であった。


「倉賀野城址」の崖上から望む烏川は、世の移り変わりをどう見続けてきたのだろう。

少なくとも、戦のない平和な時代が来たことを、安堵の気持ちで見ているに違いない。

 この川が、
  再び血の色で染まることのないように、
    心から願ってやまない。


(参考図書:「高崎の散歩道 第2集」)

【倉賀野城址】
  

Posted by 迷道院高崎at 20:50
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2009年04月29日

おぎょうばあさん

倉賀野の中町の信号を山名方面に曲がると、烏川に架かる「共栄橋」がある。

橋の手前を左に曲がると、すぐ右に入る道があり、その坂を下ったところが「倉賀野河岸(がし)跡」である。

江戸からの舟荷はここで揚げられ、「牛街道」を通って倉賀野宿の問屋まで運ばれたのである。

その頃は、もっと滔々と水が流れていたのであろう。

「倉賀野河岸」の開設は、戦国時代の永禄四年(1561)だそうである。

嘉永五年(1852)の記録では、河岸の保有舟数は百三十三艘、舟持十数軒、河岸問屋十数軒にも及んでいたというから凄い。

当時、烏川~利根川~江戸川を通って日本橋まで五十里余(約200km)、下り舟で三日~四日、上り舟では十七日~十八日かかったという。
気の遠くなるような日数だが、それでも大量に輸送できるので陸路よりも利用されたたのだろう。
明治十七年(1884)に東京・高崎間の鉄道開通により、「倉賀野河岸」は歴史の幕を降ろすこととなる。

「倉賀野河岸」と共に、姿を消してしまったのが舟運の守り神「大杉神社」である。

共栄橋の上流側崖上、民家の庭にある「大杉神社跡」の石碑だけがそれを伝えている。

豪華な彫刻が施された社殿は、榛東村新井の八幡神社の本殿として移されているそうだ。
一度、見に行きたいと思っている。

共栄橋のたもとには、これも知る人の少ない「御行祖母」さまという小さな石宮がある。

「おぎょうそぼ」とか「おぎょうばあ」とか呼ばれているらしい。




新型インフルエンザの恐怖が、世界を駆け巡っている今、昔の人に倣って「おぎょうばあさん」にお参りしてみてはどうだろう。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」 「続・徐徐漂たかさき」)

【倉賀野河岸跡の碑】

【大杉神社跡の碑】

【御行祖母石宮】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:11
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2009年04月14日

牛街道と井戸八幡

倉賀野町「牛街道」と呼ばれていた道がある。

「伝説の樅(もみ)の木」で紹介した高札場跡の向かいの細い道である。

高札場のある所には、倉賀野宿時代、問屋を営んでいた須賀家があった。

「牛街道」は、倉賀野宿の問屋と、倉賀野河岸をつなぐ重要な道だった。
だが、それにしては、やけに細く、やたらに曲がり曲がった道である。
それは、この道がもとは倉賀野城の堀だったからである。
道が細いので、馬は牛を追い越せず、イライラして他の道を通ったというので、「牛街道」になったらしい。

「牛街道」を烏川に向かって河畔近くまで進むと、右側に「井戸八幡」がある。

ずーっと奥に見える神社が「八幡宮」の社殿であるが、「井戸八幡」の井戸は、実は手前の小さな社の下にある。

井戸の上に社を建てて、その中に御神輿を格納している。

八幡宮の境内には、「八幡神社修復記念碑」の石碑があり、「井戸八幡」の由来が書かれている。
因みに、土台の石は倉賀野河岸の舟留め石だそうである。
~……~……~……~……~……~……~……~……~……~
正保三年(1646)、田口長右衛門辰政という人の夢の中に、ひと番いの鳩が現れてお告げをする。
お告げの通り、倉賀野城三の廓跡に行ってみると、そこに一夜にして井戸が出現していた。
井戸からは冷水が溢れ、光り輝く井戸の中には、八幡大神が現われていたという。
以来、里人は「井戸八幡」と呼んで、尊び、信仰した。
~……~……~……~……~……~……~……~……~……~
八幡宮の境内には、もうひとつ面白いものがある。

「倉賀野河岸」という題名の歌碑である。

よくよく、倉賀野という町には音楽好きな人が多いらしい。

牛の背に荷駄を載せ、のんびりと歌いながら「牛街道」を行き来する人の姿が、瞼に浮かぶようである。

【井戸八幡】
  

Posted by 迷道院高崎at 23:16
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