2009年03月09日

伝説の樅(もみ)の木


倉賀野町上町交差点近くに、中山道倉賀野宿時代の「高札場」が復元されている。





「高札場」はもと問屋・須賀長太郎家の屋敷前で、その隣はもと脇本陣・須賀喜太郎家である。

「高札場」は通りに面しているので、目にした人も多いと思うが、その裏に「伝説の樅の木」というのがあるのはご存じだろうか。
正確には、「伝説の樅の木の子ども」なのだが。

ちょっと見には、パソコン教室の駐車場にある、クリスマス用の木にしか見えない。
だが、この木にはこんな伝説を書いた高札が立てられている。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

安政二年(1855)春三月、ちょうどお彼岸の中日であった。
倉賀野宿に大火があり、一面焼け野原となった。
百姓九右衛門宅が火元だというので、「九右衛門火事」と言い伝えられている。

だが、この大火でただ一軒だけポツンと焼け残った旧家があったという。


町の古老は、荒れ狂う猛火の中、何処からともなく大天狗が姿を現し、旧家に植えられた「楓」の老木から「樅」の老木へ、さらには屋根の上に飛び移りながら、法文を唱えていたと言い伝えている。

天狗を目撃した人々は、この旧家は普段から「古峯(こぶ)様」を信仰しているので、神社の天狗が来て助けてくれたに違いない、と話していたという。

この物語に出てくる「楓」「樅」の老木は、その後も道行く人々に出来事を語っていたというが、ついに枯死して現在の木に植え替えられたそうである。


~……~……~……~……~……~……~……~……~

「古峯(こぶ)様」とは、栃木県鹿沼市「古峯(ふるみね)神社」のことであろう。
倉賀野宿日光例幣使街道の起点であることを思えば、道中にある「古峯神社」の霊験を信じたというのも頷ける。

「古峯神社」の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)である。
日本武尊駿河焼津の原で火攻めにあった折、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)で火を止めたという故事から、火伏せの神、火防の神として敬われている。

一方、「古峯神社」天狗は、祭神のお使いとして、崇敬者に災難が起こった時、直ちに飛翔して災難を取り除いてくれるのだそうだ。

天狗は、日本神話では「猿田彦の命」として登場し、天下りの元祖・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の道案内役として、松明の火で道を照らしたという。
そこから、やはり防火の神として祀られている。

さて、葦原中国(あしはらのなかつくに)、現代の日本は、まさに猛火に包まれた状態である。
はたして、大天狗は助けに来てくれるのであろうか。
それとも、信仰心を失い、徳を積むことも忘れた現代人は、見捨てられてしまうのであろうか。

 罪多き大人たちは兎も角、
   罪なき子ども達は助かるように、
     今からでも徳を養い、祈りを捧げよう。



【倉賀野宿 高札場跡】
  


Posted by 迷道院高崎at 19:12
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2009年03月10日

女郎が架けた「太鼓橋」

中山道倉賀野宿には、「本陣」が一つ、「脇本陣」が二つもある。

「本陣」は大名や上級武士の宿泊所、「脇本陣」は宿泊が重なった時などに使う予備宿泊所である。

それが3つもあるというのは、いかに倉賀野宿が大きな宿場であったのかを示すものである。

写真は「脇本陣」の須賀喜太郎家、道を挟んだ向かい側にもうひとつの「脇本陣」須賀庄兵衛家がある。
「本陣」は勅使河原家跡、現在、ベイシアマートのある場所である。

当然、大名以外にも倉賀野宿で宿泊する旅人は多いわけで、享和三年(1803)の記録では、64軒もの旅籠(はたご)があったという。
これら旅籠の大半が、飯盛女という名の女郎を置いていた。

中町の信号を東に100m程行くと、道の下を細い道が横切っているのだが、車に乗っていると気が付かないかも知れない。

この細い道、昔は倉賀野城の堀で、板橋が架かっていたが、夕立などによる出水でしばしば破損して、往来を妨げたという。

そこで、旅籠の旦那衆が相談の上、金二百両を出し合って石の「太鼓橋」に架け替えた。
だが、この二百両という金、実は女郎達から拠出させたものであったのだ。

女郎達が決してあり余る金を持っていた訳ではない。
それは、遠く越後などの百姓家が金に困った揚句、わずかな金で売られてきた年端もいかない娘が、からだを売ってコツコツと蓄えた金であった。

倉賀野宿「藤浪屋」という旅籠を営んでいた、木部白満(きべ・つくもまろ)という人の生家に、「飯売下女年季奉公人請状」が残っている。
これは、越後国小千谷村の喜左衛門の娘「ちい」が、16歳で身売りされた時の証文である。
拾い読みをしてみよう。

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この度、よんどころ無き金子要用にて、諸親類相談の上、御当家へ連れ来たり・・・(略)
相きめの儀は、当申(さる:1824年)の八月より、来る卯(う:1831年)の二月まで、中六年六ヵ月、給金十八両と相きめ・・・(略)
万一、この者取逃がし、駆け落ちいたし候はば、早速たずね出し、相渡し申すべく候。
もし、行方相知れ申さず候はば、代り人なりとも、給金なりとも、思し召し次第に遊ばし申すべく候。
年季中、勝手がましく御いとまなど申し請けまじく候。
万一この者、頓死、病死、けが、あやまちにて、不慮に相果て候はば・・・、当国役人立会いの上、貴殿檀那寺におとり置き、後日に、法名お贈り下さるべく候。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

死んでも、故郷へ戻ることはできなかったのである。
年端も行かぬ娘の心細い気持ちはいかばかりかと、想像するに余りある。

「高崎の散歩道 第二集」の中に、倉賀野町にある、他国出身の娘の墓を調査した興味深いデータがある。

出身地を分類すると、26人中19人が越後出身。
没年齢を分類すると、
12~19歳が5人、
20~25歳が7人、
26~29歳が2人、
平均没年齢は、21歳3か月だという。

だが、もしかすると、墓に入れるだけ幸せだったのかも知れない。

ベイシアマート向かいの細い道を北に入ると、「九品寺(くほんじ)」がある。

この境内片隅に、飯盛女のものと言われる墓がある。

そのひとつに、こんな文が刻まれている。

皈元 教滝信女
寛政十一巳未年 四月廿二日 北越後長岡産 字は滝
幼年より反哺のために当初のちまたに奉公し罷在
疾して行年二十にして身まかりぬ
死生の風に散りぬ 念悼みて是に立碑するもの也
施主 日野金井 和泉屋主人

女郎達の辛い涙で架けた「太鼓橋」。
忘れてしまっては、何とも情が無い。
せめて、欄干だけでも復元して、謂れを後世に伝えたいものである。


(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」「続・高崎漫歩」)

【太鼓橋】


【九品寺】
  


Posted by 迷道院高崎at 21:42
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2009年03月14日

どきっ!

ここは、人を化かす「ムジナ」がいたり、その名も怖い「幽霊石」があるという、倉賀野町の「永泉寺」

「永泉寺のムジナ」という話は、高崎の伝説の中では割合有名である。

いくつかのバリエーションがあるが、おおよそこんな話だ。

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明治の初め、永泉寺の裏に高崎-上野間の鉄道が開通した。
永泉寺の庭に住んでいたムジナの一家は、昼となく夜となく轟音をあげて通過する列車の音に悩まされるようになった。

ところが、この頃から機関士の間で不思議な噂が流れるようになる。
夜行列車が永泉寺の近くまでさしかかると、前方から同じレール上をこちらに向かって爆進してくる機関車がある。
驚いた機関士が急ブレーキをかけて停止すると、前方の機関車は影も形も消えてしまうというのだ。

そんなことが続いたある晩、宿場の病院に永泉寺の提灯をぶら下げた小僧さんがやってきた。
「永泉寺の者ですが、今、和尚さんが手を怪我したので、傷薬をください。」と言う。
看護婦さんは傷薬を渡し、代金を受け取った。
ところが、朝起きて銭箱の中を見ると、木の葉が3枚入っていたという。

お医者さんが永泉寺へ行ってみると、和尚さんは怪我ひとつしておらず、元気に庭掃除をしていた。
「さては」と、藪の中を覗いてみると、怪我をしたムジナが一匹横たわり、傍には子どものムジナが心配そうに寄り添っていたそうな。

どうやら、汽車の音に腹を立てたムジナが、機関車に化けて抗議行動をしたらしい。
ところが、寝不足のせいか、疲労のせいか、はたまた慣れによる油断のせいか、本物の機関車をよけ損ねて怪我をしてしまったんだとさ。


~……~……~……~……~……~……~……~……~

お寺の裏庭に、いかにもムジナが住んでいそうな竹藪がある。

シャッターを押して、驚いた!

藪の中で、キラッ!と何かが光った!
「スワッ!ムジナだっ!」


と思ったら、ネコちゃんだった。
おどかすんじゃない!!





永泉寺の山門を潜って左手に、「幽霊石」という物騒なものがある。

一見「お地蔵さま」に見えるが、自然石なのだそうである。

この石は、倉賀野城主であった金井淡路守秀景の奥方を埋葬する時に出てきたと言われている。
不思議なことに、その石を他の場所に移しても、いつの間にか元の所へ戻ってしまったという。
誰言うともなく、この不思議な石を「幽霊石」と呼ぶようになったとか。

永泉寺は、もともと倉賀野城の北の出城「永泉寺砦」の跡である。
城主・倉賀野氏は関東管領・山の内上杉家に従っていた。
時あたかも、上杉謙信武田信玄が川中島で合戦をしていた頃である。

倉賀野城は、永禄四年(1561)から八年(1565)の間、三度にわたって武田勢に攻め寄せられ、ついに軍門に下ることとなる。
その後、武田の命により倉賀野城主となったのが、金井淡路守秀景である。

「永泉寺砦」での戦いで、露と散った将兵の怨念が、「幽霊石」に込められたとしても不思議はない。
永泉寺を訪れた際は、手を合わせてやって頂きたい。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:07
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2009年03月15日

飯盛女の心意気

倉賀野神社の社殿前に、石製の常夜燈が2基建っている。

神社入口の説明看板によると、この常夜燈は、倉賀野宿の旅籠「三國屋」「つね」という飯盛女が寄進したものだという。

常夜燈を寄進できるほど稼ぐ飯盛女とは、さぞかし別嬪な、No.1ホステスだったに違いない。

倉賀野神社には、やはり飯盛女たちが寄進したという石玉垣が残っている。
寄進をした飯盛女の名前が刻まれているが、彼女達もトップホステスだったのであろう。


倉賀野宿飯盛女たちの働きで栄えた宿場町だった、と言っても過言ではなかろう。

その飯盛女たちの信仰を集めていたのが、「冠稲荷(かんむりいなり)」である。
倉賀野神社境内の一角にある。

だが、実際に飯盛女たちが拝んでいたのは、ここにある「冠稲荷」ではない。
ここの「冠稲荷」は、社寺廃合令により明治42年(1909)、横町から倉賀野神社に合併されたものである。


昔は堀川だった、「太鼓橋」下の小道を南に行くと、民家へ入ってしまいそうな石段がある。

そこを上がったところにあるのが元の「冠稲荷」だ。

明治42年、倉賀野神社に合併された時に、ここにあった社殿は前橋川曲町諏訪神社に売られ、常夜燈石玉垣倉賀野神社に移築された。

売られたはずの社殿が何故ここにあるかというのは、面白い話が伝わっている。

「冠稲荷」倉賀野神社に移ってからというもの、町の人の夢枕にお稲荷さんが出てきては「元の場所に戻りたい・・・」と泣くのだそうだ。
どういう訳か、お稲荷さんというのはホームシックにかかりやすいらしい。(「稲荷横丁」のお稲荷さんもそうだった。)

そこで、町内の人たちが昭和11年に、ここに社殿を建て直したという。
全国にお稲荷さんは数あれど、別荘を持っているリッチなお稲荷さんは、そうはいないだろう。

そういえば、江戸時代の高級遊女を「おいらん」と言う。
「タヌキやキツネは尾を使って人を化かすが、
      遊女が化かすにゃ尾は要らん。」
というのが語源だそうだ。
ま、落語の中の話なので当てにはならない。

ともあれ、身を売って、死んでも故郷に帰れぬ境遇ながら、
文字通り身銭を切って寄進した飯盛女
その心意気や如何!
翻って我が身を見れば、いまだ「足るを知る」の境地にあらず。
恥ずかしきかな、恥ずかしきかな。

【倉賀野神社】


【横町の冠稲荷】
  


Posted by 迷道院高崎at 23:40
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2009年03月16日

郷蔵道(ごうぐらみち)

倉賀野宿飯盛女が架けたという「太鼓橋」跡近くに、蔵造りの建物がある。

「たかさき都市景観賞」を受けた大山家である。
もとは明治期の穀物商で「大黒屋」という商家であった。

今は門を閉ざし、内部も非公開となっているが、できれば何らかの形で観光に役立てていただきたいものである。

硝子戸の脇に、懐かしいものを見つけた。
栗本牛乳の木製牛乳受けである。

栗本牛乳は、高崎市立中央小学校の隣にあった牧場である。

話はそれるが、昔、高崎には結構あちこちに牧場があったようである。
常盤町の栗本牧場、並榎の松井牧場、豊岡の少林牧場、片岡の黒岩牧場、江木の永井牧場などがあったという。
現在は、鼻高町の長坂牧場ぐらいになってしまったのだろうか。

話を倉賀野に戻そう。
「大黒屋」脇の小路を、
「郷蔵道」(ごうぐらみち)という。

今にも風呂敷包みを背負った町人や、黄八丈を着た町娘が歩いてきそうな雰囲気ではないか。
    
放っておくのは、イカにもタコにも、もったいない。
「たかさき都市景観賞」を与えた高崎市が、何らかのアクションを起こすべきではないだろうか。

 「民のことは民に」などと逃げずに、
   「民も官も」協力して、
     数少なくなった「観光資源」を活かしていく必要がある。


【大黒屋跡】
  


Posted by 迷道院高崎at 21:51
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2009年03月18日

倉賀野山

「郷蔵道」を北へ進むと、倉賀野城主・金井淡路守が城の鬼門除けに建てたという「養報寺」がある。

さすが城主建立というだけあって、山号は「倉賀野山」、そして、その山門は実に立派な造りである。

天正4年(1576)に造られ、昭和54年(1979)に修復された。

   山門の扉彫刻             山門の天井絵


その立派な山門を潜ると、右手に柵に囲まれた石碑がある。

これは、高崎輩出の俳人・村上鬼城の句碑第一号である。

倉賀野の俳句同好者たちは、鬼城をこの寺に招いては、句会を開いていたという。

刻まれている句は、
   「小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ」
耳の病のため、音の聞こえなくなった鬼城の思いが伝わる一句である。

句碑の隣にあるは、二代目だそうだ。
一代目は、地面近く横に広く枝を張る大木で、まるで根が無いように見えたため「根なし松」と呼ばれたという。
二代目の襲名披露は、いつ頃になるのだろう。

鬼城句碑の反対側に、物置のような建物がある。

中を見ると、所々崩れた石仏が5体並んでいる。

鎌倉時代末期のもので、今は廃寺となった「長賀寺」を、明治初期「養報寺」に合併した時、移されたものらしい。
できれば、もう少し趣のある覆い屋に安置して差し上げたいものである。

本堂の左奥にも、面白いものがある。

ちょっと見には、最近造ったばかりの池とポンプ小屋に見えるが、小屋には篆刻文字で「弁財天」と書かれた看板がかかっている。

池には、大きな緋鯉と赤ちゃん鯉が、沢山泳いでいた。

さて、「養報寺」にはまだ面白い伝説があるのだが、そのお話は次回ということに。

【養報寺】
  


Posted by 迷道院高崎at 19:40
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2009年03月20日

ナンマンダブ ナンマンダブ・・・

「倉賀野山養報寺」の本堂に、「河岸観音」(かしかんのん)と呼ばれる、三十四体の仏像が安置されているそうだ。

「養報寺」のご本尊は「延命地蔵菩薩」ということだが、そこに三十四体の「河岸観音」が納まっているのには、こんな伝説があるという。
(写真:あさを社「徐徐漂たかさき」より)

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江戸時代中頃のこと、下総(千葉)行徳河岸(がし)の舟問屋常陸屋に、倉賀野まで運んで欲しいと、白髪の老人が三十四個のコモ包みを持ち込んできた。

常陸屋からその輸送を請けたのは、倉賀野河岸の舟頭惣右衛門であった。
舟が行徳を立ってその晩、惣右衛門の耳に何処からか「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」という念仏が聞こえてくる。
不思議に思った惣右衛門が舟の中を見回ってみると、その念仏は、三十四個のコモ包みから聞こえてくるのである。

これが、倉賀野河岸までの十七日間毎晩続いたので、惣右衛門はすっかり怯え、倉賀野河岸へ着くなり急いで問屋の鈴木庄右衛門の所に持ち込んだ。

ところが、半年経ってもこの荷の引き取り人が現れない。
庄右衛門が荷を開いてみると、中から出て来たのは、金ぴかの観音像三十三体大日如来像であった。
行徳常陸屋に問い合わせると、不思議な答えが返ってきた。

荷を依頼した老人は、舟賃を前払いしてどこかへ去ったが、荷が行徳を出たその後、江戸川河口に水死体となって浮いているのが発見されたという。
老人の身元も知れず、仏像をどこへ納めようとしたかもわからず、困った庄右衛門養報寺に引き取ってもらったのが、この三十四体の仏像である。

人々はこれを、「河岸観音」(かしかんのん)と呼んだという。


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「徐徐漂(ぶらり)たかさき」でこの話を紹介してくれた内山信二氏によると、西上州で西国三十三札所の観音像を全部揃えて祀ってある所は、安中下野尻の正龍寺と同市下後間の北野寺ぐらいであろうという。

倉賀野には、大変な宝物が埋もれているものである。
西国三十三ヵ所巡りを、「養報寺」一ヵ所で済むとあれば、迷道院のような物ぐさにはありがたいことである。

  白髪の老人を供養する意味でも、
     沢山の人に拝んでもらえるようにしたいものである。
  


Posted by 迷道院高崎at 19:28
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2009年03月24日

三尸の虫(さんしのむし)

「養報寺」前の路を東に向かって行くと、倉賀野-京ヶ島線に出る。

そこを倉賀野方面に向かって少し行った左側に、写真のような石碑が建っている。

石碑に書かれたご利益は、
「女の神、安産、子宝、男女の和合、霊験あらたかの大願成就」と、まるでご利益の総合商社のようである。


ここは通称「北向庚申」(きたむき・こうしん)と呼ばれている。

「庚申さま」に限らず、神様は東か南向きに祀るものだが、ここは北向きに祀られている。
北向きの観音堂や地蔵、神社は各地にあり、何らかの訳があるのであろうがよく分からない。

「庚申塔」という石碑は、結構あちこちで目にする。

何でも、人間の体内には「三尸(さんし)の虫」というのがいて、60日毎に巡ってくる「庚申(かのえ・さる)の日」の夜、人間が眠っている間に体内から抜け出して、その人間の行状を洗いざらい天の帝に告げ口するのだという。
その報告によって、その人間の寿命が決められるというのだから恐ろしい。

そこで、「庚申の日」の夜は「三尸の虫」が抜け出さないように、「庚申待ち」とか「庚申講」とか言って、夜通しお経を唱えたりして眠らずにいたのだそうだ。
どうも実態は、村人たちの社交パーティであったようだが・・・。

「庚申塔」は、「庚申待ち」を18回(3年)やった記念に造られることが多いそうである。
普通は野ざらしになっているものが多いのだが、この「北向庚申」は立派な覆い屋の中にある。
それには、こんな話が伝わっている。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

一人の旅人が、倉賀野宿の出外れに近い、小さな塚の上の石に腰をおろして一服していました。
ところが、「さて、出かけようか」と腰を上げようとすると、いくら踏ん張ってみても足腰が立ちません。
困り果てた旅人が、ふと腰かけた石を見ると、その石には何か文字が彫ってありました。
よく見ると、それは「庚申さま」でした。
「しまった!」
知らぬこととは言え、神様に腰をかけてしまった旅人は、
「お許し下さい。許して頂ければ、立派に庚申さまを立て直します。」
と、一生懸命祈りました。
すると不思議にも、旅人は何事もなかったように、立ち上がることができました。

このことが大変な評判になって、遠方から沢山の人がお参りに来るようになったという。
そして、覆い屋ができ、大願成就の赤い旗や幟(のぼり)が幾本も立つようになったのだそうだ。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

昔は恐れられた「三尸の虫」も、いつの間にか絶滅してしまったようだ。
嘘をつこうが、悪事を働こうが、天帝に告げ口をする「三尸の虫」はもういない。
おかげで日本人は、困ってしまうぐらい長寿になった。
幸せのような、不幸せのような・・・。

(参考図書:「徐徐漂(ぶらり)たかさき」)

【北向庚申】
  


Posted by 迷道院高崎at 21:58
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2009年04月09日

倉賀野・歌謡・めなおし薬師

久しぶりに、「米百俵コンサート」以外の記事を書く。

今日のタイトルは
「倉賀野・歌謡・めなおし薬師」

何だか、落語の三題話のようであるが・・・。

3月24日の記事、「三尸の虫(さんしのむし)」「北向庚申」から倉賀野方面に進むと、旧中山道の信号に出る。
↑道の向こう側を見ると、「勘定奉行 小栗上野介忠順公と埋蔵金ゆかりの地」と書かれた、立派な石柱が建っている。

「・・・埋蔵金ゆかりの地」というのが気になって、「倉賀野資料館」とやらに入りたいと思ったが、シャッターが閉まっていた。
同じ建物の「若草歌謡音楽学院」のドアを開けて、ご主人らしき人に聞いてみると、「倉賀野資料館」はもう閉鎖されているとのこと。
埋蔵金とどんなゆかりがあるのか、分からずじまいであった。

食い違い交差点を南に曲がると、「米百俵コンサート」会場に借りられなかった「人権プラザ」がある。
その前を東に入る道の角に、「めなおし薬師」と書かれた看板が目にとまる。
ガイドブックには出ていない薬師様だ。

看板の矢印に従って進んでいくと、通り過ぎてしまいそうな所に「めなおし薬師如来入口」の石柱が建っている。

だが、そこには薬師様らしきものはなく、あるのは「おんなの命」という、歌詞の書かれた石碑である。

入口とあるから、この奥にあるのかとは思うが、どう考えても民家の庭である。

及び腰で、恐る恐る入ってみると、あった、あった。

おや?由来が書かれた石碑の最後に、「施工 倉賀野資料館」とある。

そういえば、入口にあった「おんなの命」という歌謡曲の歌詞碑と趣意書碑。

この家の主、木闇さんも歌謡音楽の指導をしている。
ははー、そういう繋がりだったのか。

傍らの草むらに、「左の八っ目の穴から覗いて下さい」という木札があった。

左には石板に「め」という字が八つ刻まれ、その上に目の形をした穴が開いている。

←その穴から覗くと、こんなものが見える。

そう、薬師様のお顔だ。

粋な仕掛けである。
今でも生きる、宿場町の粋な心の名残りだろうか。

倉賀野町の歴史的文化財も、放っておけば消えてしまう。
粋な人たちの思いを集め、残していってほしいと願う。


【旧「倉賀野資料館」】


【めなおし薬師】
  


Posted by 迷道院高崎at 21:56
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2009年04月14日

牛街道と井戸八幡

倉賀野町「牛街道」と呼ばれていた道がある。

「伝説の樅(もみ)の木」で紹介した高札場跡の向かいの細い道である。
高札場のある所には、倉賀野宿時代、問屋を営んでいた須賀家があった。

「牛街道」は、倉賀野宿の問屋と、倉賀野河岸をつなぐ重要な道だった。
だが、それにしては、やけに細く、やたらに曲がり曲がった道である。
それは、この道がもとは倉賀野城の堀だったからである。
道が細いので、馬は牛を追い越せず、イライラして他の道を通ったというので、「牛街道」になったらしい。

「牛街道」を烏川に向かって河畔近くまで進むと、右側に「井戸八幡」がある。

ずーっと奥に見える神社が「八幡宮」の社殿であるが、「井戸八幡」の井戸は、実は手前の小さな社の下にある。

井戸の上に社を建てて、その中に御神輿を格納している。

八幡宮の境内には、「八幡神社修復記念碑」の石碑があり、「井戸八幡」の由来が書かれている。

因みに、土台の石は倉賀野河岸の舟留め石だそうである。

~……~……~……~……~……~……~……~……~
正保三年(1646)、田口長右衛門辰政という人の夢の中に、ひと番いの鳩が現れてお告げをする。
お告げの通り、倉賀野城三の廓跡に行ってみると、そこに一夜にして井戸が出現していた。
井戸からは冷水が溢れ、光り輝く井戸の中には、八幡大神が現われていたという。
以来、里人は「井戸八幡」と呼んで、尊び、信仰した。
~……~……~……~……~……~……~……~……~

八幡宮の境内には、もうひとつ面白い石碑が建っている。

「倉賀野河岸」という題名の歌碑である。

よくよく、倉賀野という町には音楽好きな人が多いらしい。

牛の背に荷駄を載せ、のんびりと歌いながら「牛街道」を行き来する人の姿が、瞼に浮かぶようである。

【井戸八幡】
  


Posted by 迷道院高崎at 23:16
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2009年04月29日

おぎょうばあさん

倉賀野の中町の信号を山名方面に曲がると、烏川に架かる「共栄橋」がある。

橋の手前を左に曲がると、すぐ右に入る道があり、その坂を下ったところが「倉賀野河岸(がし)跡」である。

江戸からの舟荷はここで揚げられ、「牛街道」を通って倉賀野宿の問屋まで運ばれたのである。

その頃は、もっと滔々と水が流れていたのであろう。

「倉賀野河岸」の開設は、戦国時代の永禄四年(1561)だそうである。

嘉永五年(1852)の記録では、河岸の保有舟数は百三十三艘、舟持十数軒、河岸問屋十数軒にも及んでいたというから凄い。

当時、烏川~利根川~江戸川を通って日本橋まで五十里余(約200km)、下り舟で三日~四日、上り舟では十七日~十八日かかったという。
気の遠くなるような日数だが、それでも大量に輸送できるので陸路よりも利用されたたのだろう。
明治十七年(1884)に東京・高崎間の鉄道開通により、「倉賀野河岸」は歴史の幕を降ろすこととなる。

「倉賀野河岸」と共に、姿を消してしまったのが舟運の守り神「大杉神社」である。

共栄橋の上流側崖上、民家の庭にある「大杉神社跡」の石碑だけがそれを伝えている。

豪華な彫刻が施された社殿は、榛東村新井の八幡神社の本殿として移されているそうだ。
一度、見に行きたいと思っている。

共栄橋のたもとには、これも知る人の少ない「御行祖母」さまという小さな石宮がある。

「おぎょうそぼ」とか「おぎょうばあ」とか呼ばれているらしい。




新型インフルエンザの恐怖が、世界を駆け巡っている今、昔の人に倣って「おぎょうばあさん」にお参りしてみてはどうだろう。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」 「続・徐徐漂たかさき」)

【倉賀野河岸跡の碑】

【大杉神社跡の碑】

【御行祖母石宮】
  


Posted by 迷道院高崎at 08:11
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2009年05月01日

雁城(かりがねじょう)

「雁城(かりがねじょう)」という美しい呼び名を持っているお城が、むかし倉賀野にあった。

「井戸八幡」から200mほど西へ行ったところにある「雁(かりがね)児童公園」が、、「倉賀野城」別名「雁城」の本丸跡である。
大きな城址碑と、城の歴史を記した石碑がなければ、それとは分からぬほど小さな公園である。

他県にも「雁城」と呼ばれた城はあるようだが、その名の謂れについてはよく分からない。
ただ「倉賀野城」の場合は、城主・倉賀野氏の家紋が、「対い雁(むかい・かりがね)」だというので、たぶんそれが由来ではないかと思われる。

この家紋、ちょっと見ると蝙蝠(こうもり)のようだが、正解は鳥の雁(かり)が向かい合っている図柄である。

戦国時代の「倉賀野城」は、当初、上杉家に属していたが、後に宿敵の武田家に属することとなる。
その家紋が、「雁」という渡り鳥とは、少々皮肉な話である。

高崎市文化財調査委員で古城塁研究家の、山崎一氏が書き残してくれた「倉賀野城址」図がある。
昭和44年(1969)当時の道路と重ね合わせてあるので、どの辺りにあったのか見当がつく。


この図を見ると、「牛街道」「太鼓橋」下の道が、「倉賀野城」の堀の跡だということがよく分かる。
旧中山道も、今より一本北の道だったというから、やはり遠堀を埋めて道にしたのだろう。

倉賀野氏がここに館を構えたのは治承年間というから、平清盛源頼朝が戦っていた1177年~1184年だ。

「倉賀野河岸」の開設は永禄四年(1561)、川中島で上杉謙信武田信玄が戦っていた頃である。

そして落城したのが天正十八年(1590)、豊臣秀吉小田原城を包囲して降伏させた年である。
その時、小田原城には倉賀野城主・金井淡路守も籠城していたといい、落城後二十日ほどで死去したとある。
つまり、小田原城陥落と共に、「倉賀野城」も主を失ったという訳だ。
何ともはや、戦いの嵐に翻弄され続けた400年の歴史であった。


「倉賀野城址」の崖上から望む烏川は、世の移り変わりをどう見続けてきたのだろう。

少なくとも、戦のない平和な時代が来たことを、安堵の気持ちで見ているに違いない。

 この川が、
  再び血の色で染まることのないように、
    心から願ってやまない。


(参考図書:「高崎の散歩道 第2集」)

【倉賀野城址】
  


Posted by 迷道院高崎at 20:50
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2009年05月09日

飯玉さまの引き合わせ

今日は、久しぶりにブログネタ取材のために散歩に出た。

旧中山道から倉賀野神社の参道に入る角に、があった。

遠目には漆喰壁に見えるのだが、近くに寄ると白色のトタン板で覆われていた。
敷地の広さとその趣きからして、昔はさぞかし名のある商家であったのだろうと思われる。

ちょうど近くのお宅で、ご年配のご夫婦が玄関のドアを直していたので、声を掛けてみた。
人間嫌いの迷道院としては、至極珍しい行動である。

「この蔵のあるお家は、昔何屋さんだったんですか?」と聞くと、
「あー、ここんちはね、酒屋だったんさー。造り酒屋だいねー。」と教えてくれた。
「そこんとこにさ、井戸があったんだい。きれぇな水が出ててなぁ。そいで、水がいいもんだからさ、酒ぇつくってたんさ。」
「前は、漆喰だったんだけどさ、はぁ痛んでボロボロ落ちるだんべ。んで、トタン張ったんだいなー。」

今はあまり聞くことができなくなった上州弁で、昔の倉賀野のことをいろいろ語り始めてくれた。

その内、奥様が「お茶でも飲んでってくださいよ。これも何かのご縁ですから。」と・・・。
恐縮してお断りしたのだが、ご主人の尽きぬ昔話を聞いている間に、お煎餅、生菓子、沢庵まで用意して頂いて、玄関先で頂戴することになってしまった。

すっかり長居をして、帰り際にふと表札を見ると「鳥井」さんという苗字だった。
神社のすぐそばに「とりい」さんとは、出来すぎでしょう!
お土産に、生菓子を包んで持たせてくれました。
「また近くに来たら寄ってくださいね。」とまで言ってくれた、素敵なご夫婦でした。
いつまでもお元気で!

昔の面影を残す参道を進むと、水車の回る素敵なお庭を発見した。

ご主人と思しき方がいたので、「こんにちは!」と声をかけた。
あれ?今日の迷道院、おかしいぞ。
先ほどのご夫婦の人懐こさが、うつってしまったのだろうか。

「はい?」とこちらに来たご主人に聞くと、水車はご主人の手作りだそうである。
そればかりか、四阿(あずまや)も手作りだという。
このご主人も、心安く「中に入んない。」と言って下さったが、流石に今日は、ご遠慮申し上げた。

人嫌いの迷道院が、ちょっぴり人好きになったのだろうか。
それとも、参道の懐かしい佇まいのせいだろうか。
もしかすると、倉賀野神社「飯玉さま」のお引き合わせだろうか。

その「飯玉さま」については、また次回。

  


Posted by 迷道院高崎at 20:58
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2009年05月11日

飯玉さま

前回の「飯玉さまの引き合わせ」に登場する、倉賀野神社への参道を「宮原小路」と呼ぶそうである。

平安時代の末、この一帯は「宮原荘(みやはらのしょう)」という荘園だったというのが謂れであろう。

その「宮」の起源は古く、紀元前まで遡る。

倉賀野神社の由緒によると、「上毛野君(かみつけぬのきみ)」の祖と言われる「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が、紀元前50年?に「崇神天皇(すじんてんのう)」の命を受けて東国を平定する折り、陣中としたこの地に松を植え、都から持参した「亀石」という石を御魂代(みたましろ)として、祭祀をしたのが始まりだという。

この「亀石」は、当時、都で猛威をふるった疫病を鎮めたといわれる、「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊であった。
そこから、この「宮」「大国玉明神(おおくにたまみょうじん)」と呼ばれていたという。

時は下って江戸時代になると、「飯玉大明神(いいだまだいみょうじん)」と名前を変える。
今でも近隣の人は、倉賀野神社のことを「飯玉さま」と呼ぶ。
その名前の由来となったのが、本殿向拝の彫刻に表されている「飯玉縁起(いいだまえんぎ)」の伝説である。

神社のHPには、こう書かれている。

~……~……~……~……~……~……~……~……~
光仁天皇の御代(770〜780)、群馬郡の地頭・群馬太夫満行には8人の子がいた。
末子の八郎満胤は文武の道に優れ、帝から目代(もくだい)の職まで賜るようになる。
これを妬んだ兄たちは八郎を夜討ちにして鳥啄池(とりばみのいけ)の岩屋に押し込めてしまう。

3年後八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄達ととその妻子眷属まで食い殺した。
その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂い、年に一人の生贄を許すこととした。

やがて小幡権守(おばたごんのかみ)宗岡の家が贄番に当たる年となり、父と16才の娘海津姫は悲運に嘆き悲しむのであった。

都から通りかかった奥州への勅使、宮内判官(くないほうがん)宗光はこれを聞き、海津姫とともに岩屋の奥へ入っていく。

真っ赤な舌をのばし爪を立て怒り狂う八郎大蛇と、一心に琴を弾き法の功徳を説く勅使宗光
すると八郎は琴の音に随喜の涙を流し、これまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変えた。

そして天空に舞い上がり「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん。」と宣言し、群馬と緑埜(みどの)両郡境の烏川のあたりに飛び去り姿を消した。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

八郎大蛇がいたという「鳥啄池(とりばみのいけ)」跡というのが、神社の東、道を隔てたところにある。

参道の改修工事により整備されたようであるが、江戸時代には深さ八尺(2.4m)の池があったという。
さらに、「宮原の一つ松」というのが、東西十二間(21.8m)の枝を広げていたらしい。

それにしても、なぜいきなり「飯玉さま」が出て来たのだろう?
その謎解きは、また次回ということに・・・。

【鳥啄池跡】
  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2009年05月13日

「亀石」と「飯玉さま」

今日の話は長くなりそうです。

←前回ご紹介した「飯玉さま」に出てくる「鳥啄池(とりばみのいけ)跡」に置かれている石ですが、「平亀石」と言うそうです。

そういわれると、亀に見えてくるから不思議ですね。

でもこの「平亀石」は、前回書いた御魂代(みたましろ)の「亀石」とは別物です。
「亀石」は今でも本殿に大切に奉安されているそうですが、残念ながら御開帳はしていないとのことです。

また、これも前回書いたことですが、「亀石」「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊で、そこから倉賀野神社のご祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」とされております。

ところで「飯玉さま」のことですが、「飯玉」と名のつく神社はどうも群馬県に多いようです。
群馬県神社名鑑によると県下に27社、内、高崎は4社が「飯玉神社」という名称だそうです。
何となく「ご飯」に関係ありそうな名前ですが、実はその通りで、ご祭神の多くは食物の神様「保食神(うけもちのかみ)」です。
この神様は、日本書紀にこんな神話として登場します。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が、「月夜見尊(つくよみのみこと)」「保食神(うけもちのかみ)」という神を見てくるように命じました。
「保食神」は、「月夜見尊」をもてなすために、米飯や魚や肉をを用意するのですが、何とそれを口から吐き出したというのです。
それを見た「月夜見尊」は怒って、「保食神」を斬り殺してしまいます。
今度は、そのことを聞いた「天照大神」「月夜見尊」を怒ります。
「もうお前とは会いたくない。」と言って、それ以降、太陽と月は別々に出るようになったのだそうです。
そして、斬り殺された「保食神」の遺体からは、いろいろな穀物や牛馬、蚕が生まれ出たといいます。


~……~……~……~……~……~……~……~……~

さて、ここからは私のまったくの推論、私論です。
なぜ「亀石」を御魂代(みたましろ)とした神社に、「保食神」つまり「飯玉さま」の言い伝えが残っているのかという謎解きです。

「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が祀った「亀石」は、東国平定の戦いを無事務めるための神様でした。
倉賀野神社の社殿は、それより下ること1300年後の建長五年(1253)に倉賀野城主・倉賀野三郎高俊が建替えたと言われています。
そして、社名を「飯玉大明神」と呼ぶようになったのは、さらに下って江戸時代のことです。
その頃には、「亀石」「雨乞い石」として信仰されるように変わってくるのです。

神社は、その時々の人々の願いや祈りの場として存在します。
戦の絶えない時代にあっては、その勝利のためや災厄を免れるための祈りの場となり、平時にあっては、五穀豊穣や平穏な暮らしを祈る場として、変化していったと思われます。

「飯玉縁起」「八郎大蛇」が過去の恨みを悔い改めて「龍神」になったという話は、それを裏付けているような気がします。
「龍神」は水の神様です。
「龍神になって烏川の辺に飛び去った」というのも、稲作に必要な水の恵みと関係するでしょう。
「亀石」「雨乞い石」になったというのも、稲作と大いに関係がありそうです。
考えてみれば、「倉賀野」という地名も、「穀物を格納する倉のある喜ばしい平野」というのを連想させます。

しかし、「飯玉大明神」が、再び「大国魂神社」と社名を変える時がきます。
明治十年(1877)、日本最後の内戦「西南戦争」のあった年です。
その後、明治二十七年(1894)には日清戦争、明治三十七年(1904)には日露戦争が勃発します。
そして、明治四十三年(1910)に「倉賀野神社」と改称されますが、それでも昭和二十年(1945年)まで断続的に戦争は続きました。

曲がりなりにも太平の世が続いている今、「妬まず、恨まず、民のため」という「飯玉縁起」の教えを語り継ぐために、「飯玉さま」という呼び名を復活してはいかがでしょうか。

長い記事を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

【倉賀野神社】
  


Posted by 迷道院高崎at 08:04
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2009年05月16日

みんなまとめて倉賀野神社

倉賀野神社には、沢山の神様が集まっています。
今日は、それらの神様をまとめてご紹介して、そろそろ倉賀野神社を後にしたいと思います。

まずは、「冠稲荷(かんむりいなり)」です。
このお稲荷さんは、以前「飯盛女の心意気」でご紹介しています。
ホームシックにかかり、昔住んでいたところに帰りたいと駄々をこねて、別荘を作ってもらったお稲荷さんです。

そういえば、「お稲荷さん」「飯玉さま」とつながりがあるのです。
飯玉神社のご祭神「保食神(うけもちのかみ)」「うけ」とは食物のことですが、「うか」とも言ったそうです。
そんなことから、同じ食物の神様に、古事記では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、日本書紀では「倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)」と書く神様がいます。
この神様が、稲の神つまり「お稲荷さん」になったようです。

さらに、「うが」という音をとって「宇賀神(うがじん)」という民間信仰の神様が生まれ、仏教の「宇迦耶(うがや)」と音が似ていることから、これとも結びついてしまうようです。
梵語の「ウガヤ」というのは、白蛇のことだそうです。
そして、この白蛇弁財天の宝冠の中に住んでいるのだそうです。

ほらほら、「飯玉縁起」と結びついてきたでしょう?
「八郎大蛇」は蛇です。
琴を弾いて八郎を悔い改めさせる彫刻の姿は、弁天様そっくりです。

「冠稲荷」の隣に祀られている「甲子大黒天(きのえね・だいこくてん)」は、金運、台所の神様だそうです。

もともとは、ヒンズー教の神様で、夜や暗黒を支配する夜叉神だと言います。
だから、「大黒天」なんですね。

じゃ、何で金運、台所の神様なの?「甲子」って?という謎を解き始めると、また長くなりそうですので、次の機会にしましょう。

境内の隅には、「北向道祖神」という双体道祖神があります。

昔は別の場所にあって、しかも「南向き」だったのだそうです。
ただ、狭い農道の角にあって、農民が天秤棒を担いで通るのに邪魔だったので、向きを「北向き」に直したと言います。(「続・高崎漫歩」より)

やがて倉賀野神社に移された時、そのまま北向きに祀られてしまったということですが、きっと移した人も「北向き」に何か意味があると思ったんでしょうね。
意外と、実用的な理由でした。

さて、この後は、高崎に向かって中山道を歩いてみます。  


Posted by 迷道院高崎at 08:17
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2009年05月17日

穴薬師

倉賀野町の西外れに「安楽寺」というお寺があります。

ちょうど歩道橋があって、その上から撮ったのが左の写真ですが、本堂の後ろに小山のようなものがあります。

この小山は、7世紀後半につくられた横穴式の古墳だそうです。

普通、お寺のご本尊というのは本堂に安置されているものですが、このお寺のご本尊は古墳の石室の壁に掘られた七体の薬師様です。
一般的には「七仏薬師」と呼ばれていますが、穴の中の薬師様なので「穴薬師」と言われることもあるようです。

右の写真を見ると、古墳の横腹に建物が食い込んでいるのがよくわかるでしょう。

「穴薬師」のお姿を見ることができるのは、12年に1度の御開帳の時だけです。
巳年の4月8日と決まっているそうですから、あと4年後ということですね。

4年も待てないという方は、左の写真を見てください。

いつもお世話になっている「あさを社」様のご厚意で、「続・徐徐漂(ぶらり)たかさき」掲載の写真を複写させていただきました。

安楽寺に伝わる話によると、奈良時代の天平九年(737)に、諸国行脚をしていた行基(ぎょうき)という偉いお坊さんが、一夜で七体の薬師様を彫ったと言われています。
真偽の程は分かりませんが、暗い穴の中に七体もの薬師像を彫るには、それなりの理由があったのでしょう。

薬師如来は、東方の「浄瑠璃浄土」に住んでいて、「瑠璃光を以て衆生を病苦から救う」と言われています。

安楽寺の山門には、「瑠璃光殿」と書かれた立派な額が掛けられています。

「瑠璃」とは、深い青色の宝石「ラピスラズリ」のことだそうです。
医薬の無い時代、病に苦しみ暗澹たる思いの人々の前に、瑠璃色の光の中から薬師様が現れたとしたら、どんなに救われることでしょう。
そんな思いが「穴薬師」を刻ませ、行基伝説を生んだのだと思います。

実は、薬師様のおかげで病が治ったという証が、安楽寺には残っているのです。
そのお話は、また次回。  


Posted by 迷道院高崎at 20:04
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2009年05月19日

大願成就

「穴薬師」のある、倉賀野町安楽寺「大願成就」と書かれた額が奉納されています。
よく見ると、その文字は古銭の「寛永通宝」を並べて作られています。

「寛永通宝」には一文銭と四文銭があるそうですが、どちらなのでしょう。
因みに、銭形平次が投げつけていたのは四文銭の方だそうです。
ついでに調べてみると、四文銭1,000枚で一両になるとか。

「寛永通宝」と聞くと、江戸時代の通貨という気がしますが、何と、昭和二十八年(1953)まで法的には通用していたというから驚きです。
実際に使われていたのは、明治中ごろまでということです。
「大願成就」額の奉納は明治二十六年(1893)とありますから、使わなくなった「寛永通宝」を無駄にせず、御礼に使ったものでしょう。

どんな大願が成就したのかが、額の下の紙に書かれています。

「明治26年(1893)高崎市八幡原町菓子製造業 原田常八氏が、妻女の眼病平癒を当山の本尊七仏薬師如来に祈願したところ、霊験あらたかに快癒し、その御礼参りに「寛永通宝」で上記の文字を書き、御本尊さまに奉納してくれたものです。」

原田常八夫妻の喜びが、伝わってくるようではありませんか。

安楽寺には古銭で書かれた奉納額がもうひとつあります。
大正六年(1917)高崎市菓子商の奉納とありますから、先の原田常八氏と何か関係があるのでしょうか。

こちらは、一厘銭を使っています。

この明治生まれのちっちゃな通貨も、「寛永通宝」と同じく昭和二十八年(1953)まで通用していました。
因みに、一厘銭1,000枚で1円だそうです。
ところが現在、古銭ショップでは900円の値が付いています。
わからんもんですねー。

実は、安楽寺には、もうひとつ立派な献額があるんです。
それは、また次回ということに・・・。(ひっぱりますねー)  


Posted by 迷道院高崎at 20:27
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2009年05月21日

倉賀野八景

倉賀野町の安楽寺には、いろいろな額が奉納されています。
>「大願成就」をご参照ください。)

今日は、安楽寺に奉納されている「倉賀野八景」額のお話です。

高崎には、「何とか八景」というのがいくつかあって、「高崎八景」をはじめ、「並榎八景」「長松寺八景」そして今回ご紹介する「倉賀野八景」が知られて・・・いるかな?
群馬町と榛名町が高崎と合併したので、「金古八景」「本郷八景」も加わることになります。

上の写真の「倉賀野八景」額は、明治年代のものだそうで、絵や文字もだいぶ薄くなって判読できません。
先人が書き残してくれていますので、ご紹介しましょう。

養報寺落雁  雁の来る ことにして待つ 溜井かな
九品寺晩鐘  暮れのかね 秋にもあきを かさねけり
安楽寺晴嵐  人声も かれぬ並木の あらしかな
大杉の月    水音の かよう梢や けふの月
太鼓橋涼    橋筋の するりと涼し 夕景色
烏川帰帆    羅(うすもの)に 風のつつまる 船路かな
飯玉の松    額(ひたい)うつ 松のしづくや 初時雨
八幡の雪    月花の 場所も替わらぬ 雪見かな

実は、隣には新しい「倉賀野八景」の額が奉納されています。
平成になってから奉納されたもので、戊寅(つちのえ・とら)とありますから平成十年(1998)です。
文字もハッキリとしてはいるのですが、読めません。
篆書体で書かれた七言律詩になっているのです。
これには、大変困りました。

図書館へ行って、新型ウィルスに怯えながら篆書字典を引くこと3時間、頑張ってはみましたが、どうにも判読できない文字が6文字残ってしまいました。
作者は奉納当時94歳、刻字された方も87歳という御年です。
ご存命ならば、104歳、97歳ということになりますので、お聞きするには、ちと・・・。

ということで、県立歴史博物館の学芸員さんに教えてもらおうとしましたが、日程の折り合いがつきません。
市の文化財保護課の方にも相談しましたが、「篆書はどうも・・・」ということでした。
斯くなる上は、安楽寺のご住職に聞いてみようと思い立ち、お寺を訪ねてみました。

すると、「燈台もと暗し」「案ずるより産むが易し」「下手な考え休むに似たり」「当たって砕けろ」「虎穴に入らずんば虎児を得ず」・・・。
なんだかわかんなくなっちゃいましたが、住職の奥様の「あー、訳したものがありますよ。」の一言で、簡単に解決してしまいました。
高崎在住の文芸評論家、故・江口恭平氏の書いた「飯島仲秋と倉賀野八景」という一文のコピーを、頂戴することができました。

この一文には、飯島仲秋氏の人となりや、新「倉賀野八景」作詩の経緯も書いてありましたが、今日は七言律詩のご紹介のみに留めておきましょう。(横書きにしてあります。)

  倉賀野八景
雪時嘗賞弁天景  (雪時かつて賞す 弁天の景)
雨夜更遊新湖頭  (雨夜さらに遊ぶ 
新湖[しんつつみ]の頭[ほとり])
九品晩鐘響郷倉  (九品の晩鐘 郷倉に響き)
孤城落雁群烏洲  (孤城の落雁 烏洲に群がる)
花光爛漫薬師夕  (花光爛漫 薬師の夕べ)
月色玲瓏古墳秋  (月色玲瓏[れいろう] 古墳の秋)
遙望飯玉青嵐後  (遥かに望む飯玉 青嵐の後)
河岸白鷺似帰帆  (河岸の白鷺 帰帆に似たり)

この他にも安楽寺には、ご紹介したいものがたくさんあります。
次回は、それらをまとめてお話しいたしましょう。  


Posted by 迷道院高崎at 22:28
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2009年05月23日

番外編

「広報高崎」に、高崎観光ガイドの会主催で「中山道倉賀野宿を歩く」という催しが載っていました。
めったに団体行動はしない迷道院ですが、タイトルに惹かれて、今日、参加してきました。
参加してよかったなぁと思ったのは、現物を見たくて仕方なかった「河岸観音」を、この目で見られたことです。

実は、グンブロ仲間の弥乃助さんが、職権乱用によって現物を見たと聞き、臍(ほぞ)を噛んでいたのです・・・。

あまり嬉しかったので、今日は予定を変更して、「今日の良かった」をお伝えすることにします。

まず、下町の「閻魔堂」へ行くと、普段閉まっている入口や掃き出し窓が開いていて、中を見せて頂くことができました。

いつも正面からしか見られなかった、閻魔様の横顔も見ることができました。


閻魔様の後方に「阿弥陀如来」が控えていたというのも、はじめて知りました。

帰る時には、閻魔様の厄除札まで頂きましたが、このお札の威力はさぞかし強大なことでしょー!

倉賀野神社では、嬉しい若者に出会うことができました。
何でも、東京から土・日を利用して中山道を歩いているのだそうです。
嬉しいじゃありませんか!
歴史遺産は年寄りだけのものじゃありません!
若者たちのためにも、残していかなければいけませんよ、みなさん!ね、ね、ね!


もうひとつ、倉賀野神社で発見しました。
神社で発行している、社報「くらがの」というのがあるんです。
昭和61年(1986)創刊で、現在第47号だそうです。

その記事の中に、倉賀野在住の藤倉美緒さんという若い女性が、今年の2月に作ったという「飯玉縁起」の紙芝居の紹介がありました。
若い方が頑張っておられるのですよ!

そんな「よいこと」が続いた一日でした。
高崎観光ガイドの会の皆さんの、おかげです。
ありがとうございました。  


Posted by 迷道院高崎at 20:50
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