2009年11月29日

追分の八坂大神

大橋町から北へ、信越線を渡って少し行くと、「追分」と言われているところがあります。

←現在はガードレールが邪魔をして、追分けられる感じではありませんが・・・。

昔(年代不明)はこんな感じ→


(写真は、「群馬県歴史の道調査報告書 三国街道」より)

現在、三国街道と言うと右側の高崎・渋川線を言いますが、古来の三国街道は左側の道です。
おそらく、昔は左側の道しかなかったのだと思うのですが、「明治前期 関東平野地誌図集成」の二万分一地図には、既に右側の道が描かれています。
同地図の作成時期は明治十三年(1880)~十九年(1886)とされていますが、明治十八年(1885)には清水峠越えの新三国街道が開通していますので、もしかすると、右側の道はそれに伴って開かれたのかも知れません。

追分の分去りには、道祖神八坂大神・愛宕神社が祀られており、傍らの標柱には「旧三国街道跡」とも書かれています。

それにしても「防犯監視中」などという看板、ずいぶん野暮な所に立てたものですが、お賽銭を盗もうとする、罰当りな輩でもいるんでしょうか?

八坂大神とは牛頭天王(ごずてんのう)のことで、スサノオノミコトがその垂迹ですが、これ、なかなか怖い神様です。
「備後国風土記」に、こんな話が出てきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昔、北の海に居た「武塔(むとう)の神」が、南の海の神を訪ねる旅の途中、ある村まで来ると、すっかり夜になってしまいました。
その村には、裕福で百もの蔵を持つ巨丹将来(こたん・しょうらい)という者と、その兄で貧しい暮らしをしている蘇民将来(そみん・しょうらい)という者がいました。

武塔の神は最初、裕福な弟の巨丹の所へ行って、一夜の宿を乞いますが、巨丹は惜しんで、宿を貸しませんでした。
次に行った、貧しい兄の蘇民の所では、こころよく宿を貸し、粗末な粟飯ではありましたが、心をこめたおもてなしをしました。
武塔の神は帰りがけに、蘇民にこう言います。
「家族には、茅の輪を腰に着けさせておきなさい。」

後に村を再訪した武塔の神は、その村に疫病を流行らせました。
弟・巨丹の一族は悉く疫病に罹って滅んでしまいますが、茅の輪を着けていた兄・蘇民の家族は疫病に罹ることはなかったと言います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この「武塔の神」が牛頭天王、つまり「八坂大神」なのです。
スサノオノミコトを祀る神社で、今も「茅の輪くぐり」の行事があるのも、この故事に因るのではないかと思われます。
一方の「愛宕神社」は、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られています。
どちらも、京都「八坂神社」境内に摂末社として祀られている神様です。

飯塚の追分の碑は、明治三十五年(1902)、近くの小字新田(しんでん)の氏子が建立しています。
新三国街道が開通して往来が増えて来ると、それにつれて厄病災厄も増えていったのかも知れません。
八坂大神愛宕神社を祀った、当時の村人達の気持ちが察しられます。

当時の村人たちの思いを活かして、野暮な「防犯監視中」という看板は、八坂大神の怖い故事を書いた看板に置き替えてみてはどうでしょう?
疫病怖さに、賽銭を盗む手も止まるのではないかと思うのですが・・・。

いやいや、それは今のご時世、甘いかも知れませんね。
巨丹だってケチで薄情な人のように書かれていますが、今なら誰だって見ず知らずの人を泊めたりしませんよね。
そうか!蘇民は、奪われる物は何も持っていなかったから、見ず知らずの人にも親切にできたのか。
とすると、一番悪いのは逆恨みをした「八坂大神」
うーん、これは考えさせられる問題ですね・・・。

【追分の八坂大神】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:02
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2009年12月02日

「続橋」から「幸宮」へ

飯塚の追分を左に入る旧三国街道を進むと、突然目の前に大河が現れます。
流れているのは、水ならぬ自動車。
昭和四十一年(1966)に開通した「高前バイパス」が、旧三国街道を分断し、向こう岸へ渡るにはしばし待たねばなりません。

「高前バイパス」を渡って200mほど行くと、四つ辻になりますが、
←昔、この辺を「続橋(つづきばし)」と呼んでいたそうです。

近くで農作業をしているお年寄りにお聞きすると、橋のことをご存知でした。

「橋ったって、大したんじゃねえんだよ。
 川が3本あって、あっちからも、こっちからも
 渡れるようになってたんだ。」


お話からすると、橋が何本も架かっていた訳ではなく、1本の橋が3本の川を跨ぐように架かっていたようです。
それにしても、昔の人は粋な名前を付けるものですね。

分去りには道祖神が付き物ですが、ここにも安永九年(1780)に建てられた道祖神が建っています。

今は、道祖神の前を西に向かう道が通っていますが、昔の地図を見ると、この道ではなく、斜めに北西に向かう道が描かれています。


現在、その道は消えてしまいましたが、昭和五十三年(1980)発行の「高崎の散歩道 第六集」には、

「ここから細い道を北上すると蓮花院の入り口に出る。自動車も通れないほどの道で散歩道としては最適である。」

と、記述されていますので、少なくともこの頃までは残っていたようです。

でも、実は、昔の道が消えずに残っているところがあります。
ちょっと道幅は広くなったようですが、「幸宮(さちのみや)神社」に行く道が、それです。

「幸宮神社」
なんと、素敵な名前でしょう。
でも、謎満載の神社です。
由緒によると、永仁六年(1298)に天皇の命により、従五位「魚取明神」として奉られた、とありますが、それなら「魚取神社」とでもすれば良さそうなものですが・・・。

そもそも「魚取社」のご祭神は「えびす様」ですが、「幸宮神社の」ご祭神は「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」で、副祭神は「彦火火出見命(ヒコ・ホホデミノミコト)」です。
う~ん、わかりません。

斯くなる上は、迷道院が無理やりこじ付けてみるしかありません。

「幸宮神社」のご祭神「猿田彦命」は、天孫「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」が天降る時、松明をかざして道案内をしたという神です。
そして、その「瓊瓊杵尊」「木花開耶姫(コノハナノ・サクヤヒメ)」との間に生まれたのが、「彦火火出見命」です。
余談ですが、一夜を共にしただけで身籠ったので、「瓊瓊杵尊」「本当に俺の子か?」と疑われた「木花開耶姫」が、それを証明するために、燃え盛る火の中で産んだという、物凄い生まれ方をした神です。

さらに、この「彦火火出見命」は、「海幸・山幸」の神話に出てくる「山幸彦」だという話もあります。
「山幸彦」は、兄の「海幸彦」に借りた釣り針を失くしてしまいますが、その釣り針を喉に引っ掛けていたのが、だったんですね。

では、「魚取社」のご祭神「えびす様」が脇に抱えているのは、何でしょう?
そう!ですよね!

ほらほらほらっ!つながってきたでしょ!
「幸宮神社→猿田彦命→瓊瓊杵尊→彦火火出見命→山幸彦→鯛→えびす様→魚取社」
ねっ!

こじ付けついでに、もうひとつ。
「えびす様」は、「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」だという説もあります。
「大国主命(オオクニヌシノミコト)」つまり「だいこく様」と一緒に、国造りをしたという神話からです。
「少彦名命」は、国造りが終わった後、「粟島(あわしま)」という島から「常世の国(とこよのくに)」に弾き飛んだと言われています。
そこから、全国にある「淡島(あわしま)神社」では、「少彦名命」を祀っているところが多いようです。

実は、ここ「幸宮神社」にも「淡島神社」が祀られているんです。
(因みに、この字は高崎藩最後の殿様、大河内輝声(てるな)の揮毫だそうです。)

「淡島神」は、婦人病治癒を始めとして安産・子授けなど、女性に関するあらゆることに霊験があると言われます。

「幸宮神社」には、この他にも沢山の神様が祀られています。
「石尊大権現」、「御嶽大権現」、「摩利支天」に、相撲の神様「野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)」まで。

これだけ神様が揃っていれば、人生のほとんどの御利益は得られそうです。
村人が、「幸宮神社」と呼んだ理由も、分かるような気がします。

【続橋の道祖神】

【幸宮神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:51
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2009年12月20日

旧三国街道 さ迷い道中記(1)

下小鳥町西の信号を北へ70mほど行くと、有名な「三国街道みちしるべ」の建つ分去りがあります。








「右越後」とある下には、写真では見難いかも知れませんが、「ぬまた、さはたり(沢渡)、いかほ、志ま(四万)、くさつ、かわらゆ道」と刻まれています。
沼田以外は、全て温泉地であるのが面白いですね。

金古宿史料によると、この道標は文化七年(1810)に、金古宿問屋の善次郎という人が建てたものだそうです。(佐藤幸雄氏「三国街道みちしるべ」より)

←以前は、この写真のように分去りの中央にデンと建っていたようです。

道路が拡幅される度に少しづつ移動されましたが、いつ自動車に突っかけられて破壊されるかという危惧もあったのでしょう、昭和五十七年(1982)に下小鳥町の人々の尽力により、現在のような高い場所に据え付けられました。

今日はこの分去りを右に進んで、旧三国街道を辿る予定だったのですが、悪い癖でまたちょっと寄り道をしてしまいました。
道しるべの左側面には、「左 はるな道」と刻まれています。
その「はるな道」を100mほど行った左側に、ちょっと高くなった所があり、石祠や石仏が並んでいます。

これが、「切干塚(首塚)」伝承 第四話に出てくる、「縁切り榎の薬師様」です。

下小鳥の大虐殺から逃れた人が祀ったという薬師様ですが、目の病にご利益があるとされていたそうです。

薬師様の傍らに大きな榎の木が繁っていたということで、「榎薬師」とも呼ばれていたようですが、いつの頃からか「縁切り薬師」ということになってしまい、結婚式の衆はこの薬師様の前を通るのを避けたといいます。

ここからは私の推測ですが、この薬師様の手前には中川村方面と上小鳥方面の分去りがあり、さらに手前には旧三国街道はるな道の分去りがあります。
「分かれる」「去る」は、婚礼の場では忌み言葉です。
さらに、「榎」が、「えのき」「えんき」「えんきり」と、「縁切り」を連想させたのかも知れません。
薬師様とすれば、えらい言いがかりを付けられたものです。

そのもいつか伐り倒され、現在はイチョウの大木の下に薬師様はいらっしゃいます。

ところが、その御前には何と大量のゴミ袋が積まれ、異臭を放っていました。


積まれたゴミ袋を乗り越えて中に入ると、草むらには、石仏が無残にも転げたまま放置されています。→
いつの間に日本人は、神仏の前にゴミを捨てて平気でいられるようになったのでしょう。

でも、ここまで書いてハッとしました。
我が家の神徒壇の前にも、ゴミ箱が置いてあったのです。
人のことを言う前に、自分を振り返らなければいけませんでした。

「縁切り薬師」と呼びつつも、昔の人は薬師様を大切にしていました。
現代は、人間の方から薬師様との縁を切ってしまったのかもしれません。
本当は、「縁切られ薬師」と呼ばなければいけないのかも知れませんね。

【三国街道みちしるべ】

【縁切り薬師】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:47
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2009年12月23日

旧三国街道 さ迷い道中記(2)

あちこちと寄り道をしながら、やっと下小鳥町「三国街道みちしるべ」を右に入って、旧三国街道を進みます。

さほど街道の面影も感じられない細道を進んでいくと、頭上に上越新幹線と長野新幹線の高架が蔽い被さるように迫ってきます。

その手前に、いくつかの石造物が並んだ三角地帯があり、旧三国街道沿いだということを、かすかに感じさせてくれます。

小さなものは「馬頭観音」と刻まれています。
一番背の高い石塔は風化が著しく、文字はほとんど判読できませんが、下部にらしき彫り物があるので、おそらく「庚申塔」ではないかと思います。

ハッキリしませんが、どうも「見ザル」「言わザル」二猿のように見えます。

「庚申」については、「三尸の虫(さんしのむし)」の記事をご覧いただくとして、「庚申塔」には「見ザル、聞かザル、言わザル」三猿が描かれているものが少なくありません。

これは「申(さる)」「猿」に通じ、庚申様のお使いとされたためだそうですが、私にはどうも「見ないでね。聞かないでね。言わないでね。」と、「三尸の虫」にお願いしているように思われます。

そういえば、「庚申待ち」の夜に男女の交わりをして出来た子は、大泥棒になるという言い伝えもあります。
ご存知、石川五右衛門が、どうやらそれらしいのです。
「庚申待ち」の夜は、村中の男女が集まって寝ずにいる訳ですから、そうでも言っておかないと、ということなんでしょうね。
そんなことで、「庚申は せざるを入れて 四猿(しざる)なり」 などという川柳もあるとか。

新幹線の高架を潜ると、いきなり道が四本に分かれます。

新幹線の側道は論外として、真っ直ぐか斜め右か迷いましたが、趣きのある斜め右の道を選びました。

右手に墓地がありますが、その中にちょっと興味の湧く墓石があります。

お分かりでしょうか?→

左側にキノコのような形の墓石、
右側には笠を被っているような墓石があります。

左側のキノコ、どうやら本体は「徳利」で、上に乗っているのは伏せた「盃」のようです。

右側の墓石の「笠」も、そう見れば「盃」です。

石塔には「酒百薬の長」と刻まれているのでしょうか。
「酒百の長」と読めるのですが・・・。

いずれにしても、よっぽどお酒好きの方だったのでしょうね。

さらに道を進むと、ありゃ?
高崎・渋川線に出てしまいました。
しかたなく、先ほどの高架下五本辻に戻り、もうひとつの道を進むことにしました。

うーむ、どうでしょう旧三国街道っぽいですか?

←屋根にシャチホコを乗せた、立派なお家がありました。




もあります。→


緩やかにカーブした下り坂の先は、どうなっているのでしょう?

井野川のほとりに出ました。

橋手前の辻には、「大八衢神(おおやちまたがみ)」と刻まれた、大きな碑が建っています。

「八衢神」の元となった「道俣神(ちまたのかみ)」は、黄泉の国から命からがら逃げ帰った「イザナギノミコト」が、禊をするために脱ぎ捨てたから生まれた神様だそうです。
何か別の物からではいけなかったのでしょうか?

また、天孫「ニニギノミコト」が天降る時に、道案内をする「猿田彦」が松明をかざして待っていた場所が、「天の八衢(あめのやちまた)」という辻だったとも言います。
そのことから、「道祖神」と同じ意味で「猿田彦大神」とか「八衢神」とかを祀っているようです。

「大八衢神」が建っている場所は、ちょうど大八木村の入り口にあたります。
「大八木」「八衢神」をかけて「大八衢神」としたのでしょうが、昔の人はなかなか粋で洒落ていたんですね。

さて、今日はここまでと致しましょう。

【二猿の庚申塔】

【徳利と盃の墓】

【大八衢神】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:56
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2009年12月25日

旧三国街道 さ迷い道中記(3)

井野川に架かる「大八木二号橋」を渡り、旧三国街道を北進するものの、これといって街道らしさを思わせるものは見当たりません。

今風の住宅が建ち並ぶ風景に、昔ここを歩いた旅人達の姿を思い重ねることは困難です。


しかし、県道柏木沢・大八木線を越え福島町に入ると、趣きのある家がポツリポツリと目に入り始めます。

普通の民家ですが、白い漆喰壁が何とも言えない味を出しています。→

←道路を横断すると、その先は立派な蔵の建つ、素敵な雰囲気の通りです。

←2階に、大根が並べて干してあります。
いい風情じゃありませんか!

近くに、これまた趣きのある橋がありました。
唐沢川に架かる、その名も「ふれあい橋」というんだそうです。

自動車は通行止めになってますので、のんびり川面を眺めていられます。


蔵の道に戻って少し北へ行くと、一般のお宅のように見える塀の中に、何やら立派なお宮が祀られていました。

←恐る恐る門扉を開けて中に入ると、こんな風になってます。

どなたかの家の屋敷神なのでしょうか。

石碑には、「國幣小社出羽神社」「官幣中社月山神社」「國幣小社湯殿山神社」と刻まれています。
いわゆる「出羽三山神社」ですが、境内(?)はきれいに清掃されていて、信仰心の厚さが感じられます。

そのお隣の家を見て、びっくりです!
角地の二面に、ずらっと並べられた石造物の、その多さといったら!


交通安全と刻まれた石柱の上には、「犬のおまわりさん」が立っていて、「通学道に付き、学童に注意」と書かれています。

写真に収まっていない石造物も、まだいっぱい並んでるんです。

もしかして、グンブロガー弥乃助さんの商売敵かと思い、ご近所の方にお聞きしたら、何と!趣味で集めている方だそうです。

いやはや、世の中には、すごい方がいるもんです!

びっくりしたところで、今日はここまでに致しましょう。
それにしても福島町、面白い!

【今日の散歩道】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:29
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2009年12月28日

旧三国街道 さ迷い道中記(4)



前回、石造物だらけのお宅をご紹介しましたが、そのまん前の家には、これまた凄い石造りの蔵が建っています。



まさに、三国街道沿いの名主様か豪農か、はたまた豪商のお屋敷といった風情です。

このお屋敷に沿って東へ進むと、その角に「百度石」と刻まれた大きな石碑が建っています。

「百度石」というのは、お百度参りをする時に、社寺との間を往復する目印になるものだそうです。



ここから北へ行った所に「金剛寺」がありますが、「百度石」から「山門」までは100mほどあります。
この間を往復してお百度を踏んだら、
200m×100回=20km?
うっそー \(◎o◎)/!

「金剛寺」の朱塗りの山門には、「修験道神變加持祈禱道場」(しゅげんどう・しんぺん・かじきとう・どうじょう)という看板が掲げられています。

心の中で「たのもー!」と言いながら山門を潜ると、「わん、わん、わん!」と応答がありました。

境内には沢山の石仏や塔があったので、見せてもらおうと思ったのですが、ワンちゃんは一向に鳴き止みません。
内心「このバカ犬が!」と思っていると、ガラッと渡り廊下の窓が開き、お寺の奥様らしい方がお顔を出しました。

多少慌てて、「こんにちは。境内を見させてください。」と取り繕うと、奥様は笑顔で「はい、どうぞ。」と仰ってくれたのでホッとしました。
鳴き続ける犬を気にして「すみません、騒がせてしまって。」と言うと、「いいんですよ。犬は鳴くもんです。」というお答えに、今度はハッとしました。

「犬は鳴くもの」
そうでした。
ワンちゃんは、一生懸命じぶんの役目を果たそうとしていただけなんですよね。
いけないのは、当然という顔をしてズカズカ入り込んだ、私の方でした。
奥様の笑顔とお言葉に、自分の傲慢さを反省させられました。
だめですねー、いくつになっても・・・。

山門を出る時に振り返ると、「不悪口」と大書した紙が貼ってありました。

「十の善き戒め」とも書かれていて、左側に小さくこう書かれていました。
 不殺生(ふせっしょう)
 不偸盗(ふちゅうとう)
 不邪淫(ふじゃいん)
 不妄語(ふもうご)
 不綺語(ふきご)
 不悪口(ふあっく)
 不両舌(ふりょうぜつ)
 不慳貪(ふけんどん)
 不瞋恚(ふしんに)
 不邪見(ふじゃけん)


詳しくはこちらをご覧ください→「修験道と六波羅密」(本山修験宗天王山大覚院)

金剛寺の奥様のお話では、ご本尊は薬師如来だそうで、昔は高崎から人力車に乗って大勢の人が病気平癒のお参りに来たといいます。

その「薬師堂」が、本堂の裏側にありました。

カシノキでしょうか、大きな、大きな木の下に、こじんまりとした、でも風格のあるお堂です。

お堂の中には、何体かの石仏が安置されていますが、その中に、顔の一部が崩れている薬師如来像があります。

「顔切り薬師」と呼ばれる、この薬師様には、こんな話が伝わっています。

~~~~~~~~~~~~
昔、三国街道沿いに「弘法ヶ池」という池がありました。
ある日の日暮れどき、この池でとても美しい娘が髪をとかしていました。
そこを通りかかった一人の男が、その娘を手篭めにしようと掴みかかりました。
娘は強く抵抗して逃げようとしましたが、逃がしてなるかと、男は腰の刀を抜いて娘に切りつけました。
憐れ、娘は血しぶきを上げてその場に倒れてしまいますが、その直後、男も血へどを吐いて、その場で息絶えてしまいました。

その翌日、村人が薬師堂にお参りに行ってみると、前日まで何ともなかった薬師様の顔が、切り取られたようになっていたというのです。
誰言うとなく、「弘法ヶ池」の事件は、薬師様が娘の姿になって現れ、悪い男を退治したのだと噂されるようになりました。
それからは、この村には娘を襲う悪い男は、一切出なくなったそうです。

(群馬町誌より)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

現代、再び薬師様のお力を借りたいような事件が続いています。
薬師様に助けて頂くには、我々の信仰心も取り戻さなくてはいけないのかも知れませんね。

今日の散歩は、距離は短かったですが、中身は深いものがありました。

【百度石】

【金剛寺薬師堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:11
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2009年12月30日

旧三国街道 さ迷い道中記(5)

福島町「金剛寺」を後にして、北へ100mも行かない所に、「幸福神社」という石柱の建っている所があります。

石柱の側面には、「心のオアシス 幸福センター」と刻まれています。

社殿も建ってはいるのですが、どうも普通の神社とは思えません。

どう見ても、一般のお宅の庭に建っているようにしか見えないのです。
しかも、西側に隣接して、古くからの神社があるのです。(浅間神社)

実は、この「幸福神社」が気になって、以前から三回ほど前を行ったり来たりしていたのですが、特殊な宗教団体ではと、入るのを躊躇していました。
失礼とは思いながら、たまたま通りかかったご近所の方に様子を伺ってみると、どうやらその手のものではなさそうでしたので、思い切ってお訪ねしてみることにしました。

玄関のチャイムを押すと、品の良い奥様が出てきて下さいました。
「あのー、こちらの神社はどんな神社なんでしょうか?」
とお聞きすると、
「亡くなったお父さんが、屋敷神として建てたんですよ。
 大工さんに神社という形で建ててもらったんですけど、
 今は何もしてないんですよ。」

というお答えでした。

「ご祭神とか、御由緒というようなものはあるんですか?」
「いえ、そういうのもないんです。」
「そうですか。少し拝見させて頂いてよろしいですか?」
「ええ、いいですよ。」
「写真も撮らせて下さい。」
「はい、どうぞ。」
ということで拝見させて頂くと、これがなかなか大変な代物でした。

まずは、「幸福神社」の社殿ですが、額を見ると福田赳夫元総理大臣の書のようです。



その隣には、「桓武天皇歴代祖先慰霊碑」です。

さらに隣には、「慰霊碑建立由来」という石碑もあり、この家のご先祖様が桓武天皇だということが記されています。


そのまた隣に建っているのが、この銅像です。

「上州凡人 田嶋喜三郎之像」とあります。

側面に、この方の略歴が刻まれていますが、とても凡人とは言えない方でした。
まあ、この略歴をご覧ください。

これによると、「会社経営の傍ら、万民の幸福を願って幸福神社を建立した」とあります。

喜三郎氏が、私財を投じて設立した私設図書館、「幸福文庫」の建物です。

田嶋喜三郎氏という人をもっと知りたくなり、碑文にある著書の「幸福叢典」を見つけに、群馬図書館へ行ってみました。

書庫から探し出して頂いた「幸福叢典」は、厚さ4cmほどもある本でした。
そしてもう一冊、上州凡人氏著の「ボーフラ人生旅日記」という本も発見しました。

「幸福叢典」という本は、改訂前の書名を「心のメモ 幸福を求めて」といい、田嶋喜三郎氏が16歳から始めて57歳までの40年間、心に留まった言葉や、自身の信条等をメモしておいたものを、まとめたものだそうです。

この中に、「幸福神社」の建立由来も書かれていました。
長い文章なので要約してみます。

「人間は、自分勝手で我が儘なものであるために、苦しんだり、不幸になったりする。
幸福になるために、やるべきこと、やってはいけないことは自分自身で分かっている。
しかし、それができないのが人間らしい所で、自分に誓ってもその約束を破ってしまいがちである。
ところが、神様には嘘がつけないので、約束を実行できるようになる。
世界中のすべての宗教に共通するのは、宇宙の真理である。
この真理の法則に従う人が、幸福になれる人である。
よって、真理の法則を「真理大神」とよび、神社を「幸福神社」と命名する。」


お庭には、「幸福の碑」というのも建っていました。



850頁に及ぶ「幸福叢典」には、お伝えしたい話が沢山載っています。
いくつか、拾い読みしてみましょう。

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「真の幸福とは」(抜粋)
世の中の人の中に、現在の境遇に満足し、感謝し、幸福に毎日を暮らしている人が、果たして何人あるであろうか?
その殆どは、各自の境遇に対して、これさえなければ、あれさえなければと不平不満を持ち、また、こうもしたい、ああもしたいと、足りない足りないで不運を嘆き、不幸をかこつ人が多いことと思うのであるが、そんな人に申しあげましょう。
「汝もし、現在持てるものに不満足なら、全世界を得るとも不満足であろう」と。
世界中の人が、どんな人でも、各自現在の境遇に満足し、各自今日あるの有り難さに感謝する時、いかなる人でも、そのままで、今すぐ、たちどころに幸せになることができるでありましょう。

「難があるということ」(抜粋)
「ありがたい」という言葉の意味は、有ることが難い、つまり普通ならあり得ないことがあるので「有り難い」という感謝の意味になるというのが普通の解釈である。
ところが、別の解釈によると、「有り難い」は「難が有る」と書くので、「難儀苦労があることは有り難いことだ、感謝しなければならないことだ」というのである。
苦難が有って、それを乗り越えて行って初めて、人間が磨かれる。

「借りもの」(抜粋)
「裸にて 生まれて来たに 何不足」というのがある。
いったい我々には、本当の意味の「自分のもの」というものがあるだろうか。
それこそ、自分のものだと信じている、この自分の身体が自分のものではない。
自分のものでないからこそ、したくない病気もする、死にたくないのに死んで行くのだ。
みんな、借りものであり、預かりものだ。
借りものだから大切にしよう。借りものだから欲張ったらいけない。借りものだから貸主に安心してお任せしよう。
貸主は、神である。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

田嶋喜三郎氏は、平成十六年(2004)92歳で「真理大神」のもとに召されました。
墓は東京だそうですが、分骨されて飯塚町「長泉寺」の相川家の墓に入っています。
刻まれている戒名は、「好學院凡人文林居士」

今ごろ、宇宙から世界中の人々の幸福を願っていることでしょう。

【幸福神社】
※現在、一般公開はしていませんので、ご注意願います。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:43
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2010年01月01日

旧三国街道 さ迷い道中記(6)

読者のみなさん、明けましておめでとうございます!
本年もよろしくお付き合いのほど、お願い申しあげます。

2010年最初の出発地は、福島町「幸福神社」からです。

「幸福神社」から北へ進み、丁字路に突き当ると、目の前に大層立派なお屋敷が現れます。

この辺りから、中泉町に入ります。
きっと、昔から名のあるお屋敷なのでしょうが、旧三国街道沿いにこのような風景を残してくれているのは、嬉しいことです。

このお屋敷に沿って角を曲がるのが、旧三国街道です。

如何にも、という風景が目に入ってきます。

何ともいい佇まいです。
ただ、何とも人通りがありません。

ま、宿場ではありませんので、昔からこうなんでしょうが、茶店の一軒でも欲しいところです。
あ、この手前には、「居酒屋 源」という趣きのあるお店はありました。

大きな蔵の建つ角に、「横山林蔵翁頌徳碑」という大きな石碑が建っています。

傍らに建つ碑文の解説によると、横山林蔵という人は、明治八年(1875)の生まれで、お蚕の品種改良や薪火法という飼育法を考案し、普及に努めた人だそうです。
また、私財を投げ打って架橋や道路改修にも努めたとあります。
昔の財を成した人は、必ず、何かしら社会に還元したものなんですね。

ここを真っすぐ北へ進むと、稲荷神社があります。

鳥居にも神殿にも神社の名前が書いてありませんが、群馬町誌によると「久次郎稲荷大明神」というようです。
畔見氏の氏神として祀られたとありますが、この畔見家、冒頭に書いた立派なお屋敷がそうです。

また、前述の「横山林蔵翁頌徳碑」は、大正二年(1913)にこの神社の前に建てられたものだそうですが、平成十二年(2000)の都市計画に伴い、現在地に移されたようです。

このあと、稲荷神社手前を左折し、けやき公園に突き当って右折するのが、旧三国街道です。
道なりに北へ進むと、三ツ寺町に入り、前橋・安中線に出る直前を左折して、唐沢川に架かる「奥川橋」手前で、前橋・安中線を横断します。

唐沢川には、豊かで清冽な水が流れています。

護岸を覆う三面コンクリートは如何にも野暮で、この川には似合いません。

唐沢川に沿って200mほど進むと、路傍に石柱がいくつか建っている場所に出ます。


ここには、旧三国街道の道標があり、「右金古 左高嵜(たかさき)」と書かれてあるのでしょうが、風化が進んでいます。
今の内に保全しておいた方がよいのではないかと、心配になります。

左の写真は双体道祖神のようですが、見るも無残な姿になっています。

見ようによっては、「ムンクの叫び」のようにも見え、何かを訴えているかのようでもありますが、後ろに建つ石柱にはこう書かれています。
「この石像は三ツ寺の道祖神です。平成元年(1989)の道路改良により、この南100mの安中線端にあったものを、この地に移転したものです。」

隣の小高くなった小スペースは、
「三ツ寺たかっぱし公園」とあります。

「たかっぱし」とは何でしょう?
土地改良記念の大きな碑の裏側に、こんなことが刻まれていました。

「この記念碑の北方15mの処に、『たかっぱし』と呼ばれる高さ10m・長さ13m・幅2mの木橋があり、この橋からは大勢の人々が転落しましたが、不思議と怪我をする人がなく、また沢山のの住み家でもあり、近隣の村々にも有名な橋とされてきました。」

唐沢川が、如何に深い谷だったかということが分かります。
10mというと、水泳競技の高飛び込みでも、一番高い台です。
そこに、幅2mで長さ13mの橋ですか?
大勢の人が転落したというと、きっと欄干も付いてなかったんでしょう。
空っ風にでも吹かれたら、そりゃ落ちるでしょうね。
それにしても、落ちても怪我をしないというのは不思議な話です。
まさか、沢山のがクッション代わりになったとか・・・、え゛ーーーっ?!

今残っていれば、いい観光名所になっていたかも知れませんね。

【今日の散歩道】



  


Posted by 迷道院高崎at 00:27
Comments(14)三国街道

2010年01月03日

旧三国街道 さ迷い道中記(7)

「三ツ寺たかっぱし公園」から北へ200mほど行った所に、壁の漆喰が剥がれた土蔵が建っていました。

何気ない風景ですが、妙に郷愁を覚えてしまうのは、いったい何故なんでしょう?

さらに道なりに進むと、「三ツ寺公園」の大きな池、「三ツ寺堤」のたもとに出ます。

この「三ツ寺堤」に引き込まれている水は、新幹線トンネルの湧水なのだそうです。
日量5000トンといいますから、すごい量です。

しかし、もともとの「三ツ寺堤」は、慶安二年(1649)に造られた灌漑用の溜池です。
「三ツ寺堤」のなかった頃、この地方の土地は保水力がなく、水利にも恵まれず、日照りによる凶作に苦悩していました。
領主・安藤対馬守(高崎藩第五代藩主・安藤重信)の計らいにより、領内の農民多数動員し、乗附山の粘土を馬で運んで堤を築き、唐沢川中島川から取水して水を貯めたと伝えられています。(三ツ寺堤由来碑より)

明治初期になると天王川からの取水に変わり、大正から昭和にかけては桜やつつじが植えられて、風光明媚な堤として賑わったといいます。
現在は、前述した新幹線トンネル(上越新幹線 榛名トンネル)の湧水を取り込んでいます。

「榛名トンネル」は、昭和五十五年(19080)に完成した、日本で6番目に長い鉄道トンネル(15.4km)です。
その工事は、脆い火山性堆積物(軽石)や大量の湧水等に悩まされ、困難を極めたようです。
榛東村では、トンネル工事による陥没事故まで起きています。

しかし、それほど苦しめた大量のトンネル湧水が、今は足門町金古町の上水道の水源になり、この「三ツ寺堤」にも、清らかで豊かな水を提供してくれています。
ものごとのは、同じものの裏と表なんですね。

因みに、「三ツ寺」という地名は、かつて村内に「天昌寺」「長野寺」「宗慶寺(そうけいじ)」の三つの寺があったことによるとのことです。


「天昌寺」
は寛永二十年(1643)の創建とありますが、檀家もなくなり無縁となったため、明治五年(1872)に廃寺となり、その跡は現在、「三ツ寺天昌寺集会所」となっています。

集会所の奥には、如意輪観音像薬師堂墓地が残っていて、ここがかつて寺院だったことを偲ばせます。

「長野寺」は、箕輪城主の長野氏による開基で、武田氏に焼かれて廃寺となったそうです。
場所ははっきり分かりませんが、「三ツ寺堤」の西のほとり、庚申塔が建っている辺りがそうだったという説があります。

三つの寺の内、唯一残っているのが「三ツ寺堤」東のほとりにある、
「宗慶寺」です。
ただし、名前は「石上寺(せきじょうじ)」となっています。

「石上寺」は、もともと箕輪にあったお寺で、箕輪城主・井伊直政とともに、高崎城下の鞘町に移ってきます。
お堀端の「時の鐘」があったお寺です。

一方、三ツ寺にあった「宗慶寺」も、箕輪城主・長野業政の二男・業盛が開基した寺ですが、後に「石上寺」の末寺となります。
そして、明治二十四年(1891)に、「石上寺」高崎から三ツ寺に移転してきて、吸収合併されたという訳です。

ところで、かつてこの地域は「堤が岡村」の一部でした。
この地名にも、面白い話が伝わっています。
この地域は水利に恵まれなかったために、大小いくつもの溜池(堤)が築かれていましたが、「雨がなければ、堤がのようになる」ということからきているそうです。

いやー、地名って、歴史の無形文化財ですね。
近頃流行りの「ひらがな地名」は、後々どんな歴史・文化を伝えてくれるのでしょうか。

【三ツ寺堤】

【天昌寺跡】

【石上寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:33
Comments(3)三国街道

2010年01月06日

旧三国街道 さ迷い道中記(8)

「三ツ寺堤」の西側には、一里塚のように小高くなっている所があり、いくつもの庚申塔が建っています。

広大な圃場のおかげで、遠く榛名の山並みまで見通すことができます。
かつて旧三国街道を行き来した旅人達が、同じ風景を眺めていたかと思うと、感慨深いものがあります。

庚申塔の中に、一番大きくて面白い形をしたものがあります。

面白いのは、形だけではありません。

中央の三文字、いったい何と書いてあるのでしょう?

どうにも分からず、近くの「かみつけの里博物館」へ行ってみました。
あいにく館長さんがお留守で、古代専門の職員さんしかいらっしゃらず、謎は解けませんでした。

ふと思いついて、その足で前橋県立文書館へ行ってみました。
閉館ぎりぎりに飛び込んで、写真を見てもらったのですが、やはり分からないようでした。
でも、さすが普段古文書を扱っている職員さんです。
「庚申塔」をキーワードにして、それらしい言葉を探し出してくれました。
それが、「青面王(しょうめんおう)」です。

「庚申塔」には「庚申」と刻まれているものが多い中、「青面金剛(しょうめんこんごう)」と刻まれているものも少なくありません。
「青面金剛」は、もともと疫病を流行らす恐ろしい神様ですが、民間の庚申信仰においては、「三尸の虫(さんしのむし)」を抑える神として祀られています。
これも、「は裏と表」の類ですね。

ともあれ、「青面金剛」は浅学な私でも知っていたのですが、「青面王」というのは、恥ずかしながら初めて聞きました。

ただ、それにしても不思議なのは、「青面王」という文字は、篆書体ではこのようになるはずです。 →


「面」「王」はいいでしょうが、
「青」の字の両側の波線は余分でしょう。→

しかし、これには心当たりがありました。
実は、新保田中道祖神で、同じようなのを見たことがあるんです。

「道」の本字を、篆書体にすると、
←こうなります。
これを、新保田中道祖神では、
←こんな風に刻んであるのです。

ちょっと、ブログに掲載していいのかどうか躊躇しますが、女性の象徴を模しているのだそうです。
どうですか、庚申塔「青」の字と似ているでしょう?

「道祖神」には、このように男女の象徴を模したものが少なくありません。
以前「おちゃめ!」の記事でご紹介したのも、そうでした。

これには、諸説様々ありますが、道の分去りの「二股」から連想したとか、男女の営み子孫繁栄・五穀豊穣につながるとか・・・。

そこで、三ツ寺庚申塔「青」の話に戻りますが、両側の波線は、おそらく女性のボディラインを表しています。
そして、その中にある「青」の字は、女性の象徴を模しているのだと思います。

昔の人は何事も、良い方に、良い方に考えたのですね。
きっと、厳しく辛い暮らしの中から編み出された、とする知恵だったのでしょう。
見習いたいものです。

【三ツ寺堤の庚申塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
Comments(4)三国街道

2010年01月08日

旧三国街道 さ迷い道中記(9)

「三ツ寺公園」は、今、拡張工事の真っ最中です。

緑化推進計画の一環で、「自然環境と調和したゆとりある空間の整備」が目的だそうですが、できれば旧三国街道を復元した、歴史ゾーンを盛り込んで欲しかったところです。
これも、縦割り行政組織で、如何ともし難いところなのでしょうか。

しかし、そうでもないのかな?と思わせるのは、工事中の歩道に「三国街道」と書かれたタイルが埋め込んであったことです。→

実は、ここのところ旧三国街道を辿りながら、残念に思っていたことがあります。
ここが旧三国街道であると分かる目印が、ほとんどないのです。

そこで目に留まったのが、マンホールの蓋です。

旧三国街道のルート上にあるマンホールの蓋だけ、三国街道をデザインしたものに替えられないものかと思うのですが、如何でしょう?

「三ツ寺公園」の拡張現場のちょっと先に、大正時代の道標が残っています。→

正面には、「右・経足門至相馬、左・経三ツ寺至高崎」
右側面には、「右・経保渡田至室田及板鼻」
左側面には、「大正十五年三月、観音寺大正青年會建立」
と刻まれています。

←こちらの写真は、拡幅前の旧三国街道だそうです。

まだ舗装もされていませんが、平成四年(1992)発行の「群馬町の文化財」に於いて、「現在の三国街道」と記述されています。

その頃でも、「桶屋・鍛冶屋・酒屋・紺屋・団子屋」などの屋号で呼ばれる家もあったといいますから、つい最近まで街道の面影が残っていたんですね。

あの広い「三ツ寺公園」の中に、旧三国街道が復元されたら、どんなに素晴らしかったでしょう。
今となっては、残念としか言いようがありません。

【三国街道の埋め込みタイル】

【旧三国街道の道標】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:05
Comments(9)三国街道

2010年01月10日

旧三国街道 さ迷い道中記(10)

「三ツ寺堤」から北へ700mほど行くと、保渡田(ほどた)~棟高(むなだか)への道に出ます。
そこから右折して棟高の信号へ向かうのが、旧三国街道です。

何の気なくYahoo!地図を見たら、「仙太郎稲荷神社」と書かれた所があります。

仙太郎というのが気になって、ちょっと寄り道したくなりました。

何の案内もない細い道を行くと、広い草地の中に、石とコンクリートの基礎の上にちょこんと乗った石祠があります。

Yahoo!地図に載っている位ですから、大きな神社を想像していたのですが、ちょっと拍子抜けでした。

しかも、基礎は最近作ったばかりのようで、本当にこれかい?という感じでしたが、近くの石板にはちゃんと「仙太郎稲荷神社」と刻まれています。
石板には、管理世話人の名前が列記してあり、平成二十年七月とあります。
まさに、できたてです。

石祠の正面にも「仙太郎稲荷大神」と刻まれており、側面には「明治三十七年十二月一日」とありますので、もとは古いものだったのですね。

そうなると、以前はどのような神社があったのか、気になって仕方がありません。

周囲の方にお聞きしてみたのですが、若い方や最近この地に来た方ばかりで、ご存知ありませんでした。

さて、ここから「仙太郎稲荷」の追跡です。

紆余曲折、様々な方のご協力があったのですが、決め手になったのは群馬図書館の方に探して頂いた写真でした。→

実は、群馬図書館なら、「仙太郎稲荷」が載っている郷土資料があるだろうと思って行ってみたのですが、見つからなかったのです。
司書の方も調べて下さったのですが、それでも見つからず、諦めました。
ところが、司書の方はそれからずっと調べてくれていたんですね。

翌日、「仙太郎稲荷とは書かれていないが、どうもそれらしいと思われる資料があった。」ということで、わざわざお電話を頂きました。
写真も載っているとのことでした。

そうなると、その写真に写っているのが本当に「仙太郎稲荷」かどうか、確認しなければなりません。
そこで思い浮かんだのが、石板に刻まれていた世話人のお名前です。
電話帳で調べてみると、ありがたいことに、ちゃんと載っていました。

その翌日、群馬図書館へ行ってお礼を言い、資料のコピーを頂いたその足で、電話帳で調べた世話人の方を訪ねました。
1軒目の方は不在、2軒目の方がちょうどご在宅で、写真を見てもらうと、
「あー、これそうだね。仙太郎稲荷だよ。」というお答えでした!

写真の載っていた、飯島富雄氏著「観音寺誌 祖徳流芳」(1991発行)によると、「西原の稲荷様」と書かれていて、
所在地  観音寺北中八幡街道
建立年月 明治三十七年(1904)十二月
建立者  観音寺区民

とあります。

さらに、
「観音寺の此の社は小高い丘の上に建てられてあるので、狐が穴を掘って住んでいたと云われ、最近までその狐の巣があったと云われている。
すっかり馴れっこになった狐は、お赤飯等、供へに行くと穴から出てくる。
あまり可愛いので、入れ物ごと与えて帰って来ると、食べ切った後、必ずその家の井戸端に入れ物を返しに来たとも云われているが、危害を加へないことが分かればこのように人間になつくものと思われます。」

と書かれています。

現在の「仙太郎稲荷」からは想像もできないような、メルヘンチックな場所だったんですね。

平成二十年の「仙太郎稲荷」整備の中心になった植木元治さんのお話によると、写真のお社は昭和二十三年(1948)か、二十四年に建てられたものだそうです。
その頃、この辺を襲った大型台風により、近くの観音寺の木が何本も倒され、そのヒノキの倒木を使って地元の大工さんが建てたということでした。

昔の人は、神様も、自然も、動物も、全て受入れて共生していたことが、よく分かる話です。

なぜ「仙太郎」という名前なのかは、とうとう分からず終いでしたが、その名前のおかげでいろいろな方とお会いでき、いろいろなことを考えることができました。
お世話になった方々、本当にありがとうございました。

【仙太郎稲荷神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:34
Comments(4)三国街道

2010年01月13日

旧三国街道 さ迷い道中記(11)

「仙太郎稲荷」から棟高の信号へ出ると、現三国街道高崎-渋川線に合流してしまいます。
それも何か味気ない気がして、足門の名刹「徳昌寺」へ寄り道してみることにしました。

旧三国街道から外れて、中島川に沿って北へ進むと、道端に石仏が一体、ぽつんとおわしました。

何の気なくその奥の道を覗くと、白壁の建物と立派なお堂が目に入りました。

ただ、どうも個人の方のお庭のように見えますので、入り込むのを躊躇していました。
ちょうど、シルバー人材センターの方が数人、お庭の掃除をされていましたので、お尋ねしてみました。

「こちらは、個人の方のお庭なんですか?」
「そうですよ。すごいでしょー。」
「すごいですねー。このお堂もそうなんですね?」
「あー、そうだいね。だけど村の人はよくお参りに来てるよ。」
「あー、そうなんですか。じゃ、見させて頂いてもいいんですかね。」
「あー、いんじゃないかい。」

ということで、入ってみました。

いやー、立派なお堂です!

素人目にも、とても形の良いお堂です。

石段の下に、このお堂の建立由来が刻まれた石碑がありました。
「薬師如来は、十二の大誓願を発し、一切衆生の病苦を救い、光明を与えて種々の事業を成さしむ佛である。
当薬師は古来眼を患う人々から篤い信仰を受けてきたが、昭和二十二年(1947)農地解放により旧朱印領を失い、次第に境内地及びお堂の荒廃が目立ち、その復興に心を痛めていたところ、信心施主中澤昇翁の多額の浄財により、茲に薬師堂並びに浄域の再建と整備を見るに至った」


多額の浄財を提供したという中澤昇翁は、たぶん三益半導体工業(株)の創設者・中澤正朗氏(2001年逝去:80歳)のご父君と思われます。
渋川にある堂宮入秀(どうみやいりひで)社寺建築(株)のHPによると、現在の薬師堂は、平成十一年(1999)に中澤正朗氏の名前で建設されたことになっていますので、石碑にある話はそれ以前のことのようです。

石段を登ると、いくつもの石造物がありましたが、その中に「足門村発祥之地」と刻まれたものがありました。

本を開いたような形のモニュメントには、こう書かれています。
「足門の地名の起源
    他人に問えば
    足の御門(たらしのみかど)
    御名そのもの」

「足の御門とわ 当薬師堂を建立なされました
 第十二代景行天皇様の御事で 本名を
 大足彦忍代別尊(おおたらしひこ おしろわけ
 のみこと)と称され 日本武尊の御父君に当る
 大王と云われる程の大器であったと伝えられる」


薬師堂の建つこの塚は、もともと古墳だったようで、地図にも「薬師塚古墳」と記されています。
古代の群馬郡は、豪族「車持君(くるまもちのきみ)」が住んでいいた所から、「車(くるま)郡」と呼ばれ、それが「群馬(くるま)郡」となって上野国府が置かれるほどの重要な地でした。
先のモニュメントに書かれていることも、まんざら伝説とも言えない気がします。
そんな由緒ある地名の、「群馬郡」「群馬町」も、平成の大合併で消滅してしまいました。

石造物の中に、なんと「青面王(しょうめんおう)」と刻まれた庚申塔がありました。
あー、もう少し早く見つけていれば「三ツ寺堤」の庚申塔の謎が、もっと早く解決したのにと思いました。
その隣には、なぜか「小便小僧」がいます。
「しょうめん」「しょうべん」の洒落でしょうか・・・?


薬師堂の近くに、ものすごく立派な土蔵が建っていました。
これも中澤家の土蔵で、薬師堂と同じく堂宮入秀社寺建築(株)の建設です。
平成十二年(2000)の建設ですが、ここまでくると、もう芸術です!

「徳昌寺」へ寄り道するつもりが、その前で引っ掛かかってしまいました。
ま、これが「さ迷い道中記」たる所以と、ご容赦願いましょう。

【足門の薬師堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:16
Comments(4)三国街道

2010年01月15日

旧三国街道 さ迷い道中記(12)

どぶのゴミのように、あっちへ引っ掛かり、こっちへ引っ掛かりしながら、ようやく足門町「徳昌寺」にやってまいりました。

立派な山門が目に飛び込んできますが、その向こうに見える鐘楼は、さらに圧巻です。

入ってみると、鐘楼の前に「勤勉の碑」と刻まれた、石碑が建っています。

文字は、元内閣総理大臣・福田赳夫氏の書です。
福田赳夫元総理は足門の生まれですし、「徳昌寺」の宗派、真言宗豊山派の檀徒総代でもありました。

この立派な鐘楼の寄進者は、同じく足門出身で、福田赳夫元首相の秘書も務めたことのある、中沢勤氏です。
ゴルフや株をなさる方には、いろいろ思うところのある人物かも知れません。

鐘楼の作者は、昭和五十八年(1983)に厚労省の「卓越した技能者(通称:現代の名工)」に認定された、沼田市出身の宮大工・杉田大吉氏です。
鐘楼は、総高さ:約15m、総欅(けやき)造り。
梵鐘は、高さ:約2m、直径:0.9m、重量:1トン。

いったい、幾らぐらいするものなのか見当もつきませんが、昭和六十二年(1987)の完成ですから、ちょうどバブル期の始まり頃だった訳です。
中沢勤氏の寄進は鐘楼に留まらず、山門、土塀、水屋、日本庭園にまで及んでいます。

中沢勤氏は、バブル崩壊後の平成十四年(2002)に逝去、氏の創設したSTT開発(株)も同年民事再生手続きに入ります。
生者必滅、盛者必衰という言葉もありますが、波乱万丈の生涯といえましょう。

「徳昌寺」自身も、波乱の歴史があります。
かつては、徳川家代々の御朱印により、十一石一斗余の所領を持ち、租税も免除されて、不自由ない運営ができていたようですが、明治六年(1873)の火災で、堂宇伽藍を全て焼失してしまいます。
翌年、檀徒の肝煎りで仮本堂兼庫裡を建設し、手狭ながらも何とか凌いでいたといいます。

それでも、戦前までは大地主であり、上げ米や小作料でかなりの収入があったようですが、それを一変させたのは、昭和二十四年(1949)米国の占領政策として行なわれた、農地解放でした。
それ以降、布施や志納金に頼るしかなく、寺の運営は相当苦しい状態だったようです。
やむなく境内の一隅を使って貸住宅も営んでいましたが、昭和五十八年(1983)、居住者の不始末によりそれも全焼してしまいます。

その後の、中沢勤氏ら檀徒の人々による、昭和の大寄進だった訳です。

中沢勤氏の寄進による「勤勉の鐘」は、毎日4回、打ち鳴らされます。

その鐘の音は、まさに諸行無常の響きなのかも知れません。
(参考図書:飯島富雄氏編「天王山薬師院 徳昌寺」)


【徳昌寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:24
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2010年01月17日

旧三国街道 さ迷い道中記(13)

「徳昌寺」について調べてみると、いろいろ面白いことが分かってきました。
まずは、その開基から見てみましょう。

田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。

「町の中央に真言宗の天王山徳昌寺がある。
この寺は、天文二十年(1551)に武田信玄箕輪城攻めでこの地に至り、上杉、北条との戦いの和解をしようとした時、たまたま信玄が乗ってきた馬が倒れて死んでしまった。
そこでこの地に愛馬を埋葬し、『馬鳴山畜生寺』を建て、若干の寺禄を給した。」


ところが、飯島富雄氏編集の「天王山薬師院徳昌寺」という本では、ちょっと違う話が伝わっています。

実は、この足門「徳昌寺」には、その前身となる群馬郡中里村「青竜山徳昌寺」というお寺があったといいます。
その「青竜山徳昌寺」にまつわる話に、武田信玄の愛馬の話が出てきます。

「永禄六年(1563)、箕輪城落城の際の総大将・武田勝頼は、父信玄の愛馬・天久号に跨って戦ったが、その馬が陣屋にて斃(たお)れてしまった。
勝頼は数名の部下と共に『青竜山徳昌寺』を訪れ、手厚く葬ることを命じたという。
しかし、時の住職・清乘和尚は大変気骨のある方で、『当寺は畜生を葬る処ではない。』と、堅く断ったという。
勝頼は一旦は引き揚げたが、憤懣やる方なく、腹癒せに寺に火を放って全焼させてしまったと言い伝えられている。」


もともと箕輪城の祈願寺でもあったお寺ですので、この話の方が真実味がありそうです。

下って天正十八年(1590)頃、元箕輪城軍師だった岸監物忠清という人が足門に寺を開基し、荒廃していた中里「青竜山徳昌寺」を引寺して、「足門山徳昌寺」と称したとあります。
その後、「天王山薬師院徳昌寺」と改名し、現在に至っているというのです。

さて、その「天王山薬師院」という名前にも、興味深い話があります。
長くなりそうですので、その話は次回ということに致しましょう。

  


Posted by 迷道院高崎at 08:13
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2010年01月20日

旧三国街道 さ迷い道中記(14)

足門「徳昌寺」の正式名称は、「天王山薬師院 徳昌寺」と言います。

「徳昌寺」に残る慶安二年(1649)の御朱印状によると、
「上野國群馬郡足門村薬師堂領同村之内八石余
 牛頭天王領三石壱斗余
 合(計)拾壱石壱斗・・・」
を任せるとあります。

この中にある、「薬師」「天王」を冠して「天王山薬師院 徳昌寺」としたものと思われます。

その「薬師」にまつわるお堂が、「徳昌寺」の境内にあります。

このお堂は、「聖天堂(しょうでんどう)」と呼ばれていますが、実はその昔、薬師堂として近くの薬師塚上にあったものを、昭和六年(1931)に移築したものだそうです。

この「薬師塚」こそ、1月13日の記事に書いた、あの「薬師塚」のことです。

では、お堂が無くなってしまった「薬師塚」は、その後どうなったのでしょうか。

実は、「薬師塚」の近くにも大きな塚があり、その上にはかつてお稲荷様が祀られていたそうです。
そのお稲荷様は、明治四十二年(1909)に近くの八坂神社に合祀されて、お社が空き家になっていました。

そこで、空き家になっていたお稲荷様のお社を、空き地になった「薬師塚」に移して、「薬師堂」としてリニューアルオープンしたという訳です。

しかし、このお社はもともと古いものだったため、たちまち荒廃してしまったといいます。
それを多額の浄財を寄進して修復したのが、1月13日の記事でご紹介した、中沢昇翁だったのです。

右の写真が、中沢昇翁が寄進したという「薬師堂」の姿です。

さて、「徳昌寺」に移築された「薬師堂」改め「聖天堂」の話に戻りましょう。
「聖天堂」には、その名前の由来となった「大聖歓喜天自在像」(通称:聖天様)が安置されています。

この「聖天様」は、もともと高崎城下にあった「時の鐘」のお寺、「石上寺」の宝物でした。
「徳昌寺」「石上寺」の末寺でもあったため、廃藩置県により廃寺となった「石上寺」の形見として、「聖天様」を贈与されたのだそうです。

ただ、「聖天様」は秘仏で、実物を見た人は、ほとんどいないと言います。
年に一回、住職が身を清め、秘仏を油で炒りながら読経し祭典を行うのみで、一切御開帳はされません。
一般の人がうっかりお姿を見ると、目が潰れると言われています。

ところが、この「聖天様」の写真は、なぜか公開されているのです。

ご覧になりますか?

目が潰れてでも見たいという人は、左の画像をクリックしてみて下さい。

なお、生じた結果について、当方は一切責任を負いませんので、お断りしておきます(^u^)

一方、山号である「天王」とは、「徳昌寺」から北へ300mほど行った所にある、「八坂神社」のことです。

「八坂神」「牛頭天王(ごずてんのう)」ともいい、「スサノオノミコト」でもあります。

ここもそうですが、それらの神様を祀った神社を、「天王さま」と呼ぶ地域が多いようです。

思えば、「追分の八坂大神」からスタートした、「旧三国街道 さ迷い道中記」でしたが、足門まで来て「八坂神社」に辿り着くとは、何とも不思議な気がします。

しかし、ここがゴールではありません。
まだまだ続きますので、よろしくお付き合いくださいますように。

【徳昌寺】

【薬師塚】

【八坂神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:45
Comments(4)三国街道

2010年01月22日

旧三国街道 さ迷い道中記(15)

「徳昌寺」から東へ進み、足門の信号に出ます。
ここからは、高崎-渋川線三国街道を進むことにしましょう。

足門の信号から北へ250mほど行くと、「和膳 つかさ」という看板が目に入ります。

よく見ると、小さな字ですが「箕輪城下金古宿木戸前」と書かれています。

高崎宿から二里半、最初の宿場「金古宿」南の木戸があった所だそうです。

「これより金古宿」という看板と、最近作った感じの双体道祖神が建っています。

ただ、江戸末期の金古宿略図では、南の木戸染谷川より北に描かれていますので、先ほどの場所とは異なることになります。

染谷川に架かる橋から南の木戸までの間は、並木になっていたようです。
現在、マルエドラッグの所にある桜並木が、その名残のような気がするのですが、群馬町誌によれば、並木は松と杉であったと記されています。どうなのでしょうか。


「金古宿」が正式に宿場となったのは慶長十四年(1609)だそうですが、少し特殊な宿場だったようです。

それは、金古宿はあくまでも行政上は農村という扱いだったからです。
ですので、宿場の住人も身分は農民で、商いは「農間渡世(のうまとせい)」と言って、農業の合間にするという建前でした。

宿内の決まりごとも多く、
 ・旅人が畑を通っても咎めない
 ・飯売女(飯盛女)に派手な服装をさせない
 ・遊女には野良を歩かせてはならない
 ・農民がキセルを咥えたまま宿役人に応対してはならない

など、随分細かいことまで禁止されていたようです。
領民を治める側としては、宿場が栄えて農民が奢侈になったり、農業を疎かにしたりすると困るという面もあったのでしょう。

そもそも三国街道は、三国峠に雪が積もらない四月から十月までの間に、通行が集中します。
ところが、その時期というのは農民にとっても農繁期ですので、忙しい中での宿場の運営には苦労が多かったようです。

大名や役人は城下町である高崎を避け、金古宿を多く利用しました。
ただ、彼らはお世話が大変な上に、特別料金(もちろん安い)なので、いいお客とは言えません。
いい客である一般の旅人は、金古宿の前後にある高崎・渋川という、大きな宿場に宿泊したがったようです。
しかも、金古宿が期待する伊香保沢渡などへの湯治客は、柏木沢経由の近道を使って、金古宿をバイパスしてしまう有様でした。

下小鳥町にある「三国街道みちしるべ」は、金古宿問屋の善次郎という人が建てたと言いますが、湯治客金古宿に誘導するための戦略だったのかもしれませんね。

金古宿木戸は、明治十四年(1881)清水峠越えの三国新道が開通したのに合わせ、撤去されました。

(参考図書:「群馬町誌」「金古上宿の由来」
「群馬町の文化財」「日本歴史地名大系」)


【金古宿木戸前 和膳つかさ】

【金古宿 並木跡?】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:12
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2010年01月24日

旧三国街道 さ迷い道中記(16)

「金古」の信号のすぐ北に、写真のような石祠が祀られています。

「土俵の天王様」と呼ばれています。

「天王様」は、このブログでも度々登場する「牛頭天王(ごずてんのう)」のことで、疫病を流行らすとも、防ぐとも言われる神様です。

気になるのは、「土俵」です。
前回、ご紹介した「金古宿略図」にも、
「土俵」の文字が見えますので、地名であろうというのは分かります。

玉垣の内側にも、プランターにも、「土俵」の文字が書かれていますので、今もそう呼ばれているようです。

しかし、意外とその地名の由来が定かではありません。
「土俵」と聞くと、すぐ連想するのは相撲です。
「群馬町誌」にも、こんな由来が記されています。

「ある時、伝染病にかかった旅人が金古の宿に泊まり、病気が宿から町中に広まってしまった。
ちょうど江戸の相撲取りが興行に来ていたので、厄払いの相撲をしたところ、病気が無くなった。
その興行相撲をしたところなので、土俵という地名がついたという。」


うーん、もっともらし過ぎて、どうなんでしょうという感じです。

他には、金古町の郷土史研究会「十日会」の会報に、内山留一郎氏の「土俵町名の史的考察」という一文があります。
要約すると、次のような説です。

「疫病が村に入らないように『道祖神』を祀るが、侵入路を塞ぐという意味で『塞の神(さいのかみ)』ともいう。
また、『千引き石』と呼ぶ大きな石を道路に置いて、道を塞ぐこともある。
『土俵』も、俵に土を入れて疫病の侵入を塞いだものであろう。」


さあ、いかがでしょう?
「千引き石」に代わる「土俵」という説ですね。

では次に、迷道院の推理です。
「群馬町誌」「金古宿の風景」という項の、こんな記述から推理してみました。

「宿場には必ず用水が取り入れられている。
金古宿の場合、北部は蟹沢川から取水した水路が土俵の北まで引水され、南部は牛池川から取水して現在の金古四つ角から染谷川まで、その中間は牛池川土俵で溜めていたのであろう。
(略)
ただし、用水の調整はあまりうまくいっていなかったようで、文政十年(1827)の史料では、五月から十一月には、水があふれて宿中が水浸しになることもある、と述べられている。」

ということで、ただ単に、水の浸入を防ぐ「土俵」(土嚢)がいつも積まれていた場所だったのではないか、という推理です。
ま、いちばん夢もロマンもない説ですが・・・。

左の絵図は、金古宿の医薬業者・天田倉蔵という人が天保初年(1830頃)に発行した、「諸業高名録」の中で描かれている金古宿の様子です。

高札場が描かれていますが、その左にある石祠が「土俵の天王様」です。
人物に比べて高札天王様が、やけに背が高いと思いませんか?
浸水に備えて、石垣で高く嵩上げしている為ではないかと想像するのですが、さて、いかがでしょう。

天田倉蔵は、上図で「眼療醫師 久良左右(くらぞう)」と書かれています。

「諸業高名録」は、金古宿の宣伝を目的としたようですが、それだけでは旅人に買ってもらえないと考えたのでしょう。
倉蔵は、三国道北陸道の各宿場を回って、高名録に載せる広告主を募ったと言います。
高名録は、現在確認されているものだけでも84頁の大作と聞きます。
その内、金古宿分は5頁を占めているそうです。

今も昔も、誘客のためには知恵を絞り、努力をしていたのですね。

(参考図書:「群馬町誌」「群馬町の文化財」「十日会々報」)

【土俵の天王様】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:29
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2010年01月27日

旧三国街道 さ迷い道中記(17)

「土俵の天王様」から北へ150mほど行くと、「常仙寺」があります。
参道に入るとすぐ右手にお稲荷様の社があります。
立派な額には右読みで、縦に「金古」横に「守稲荷大明神」と書かれています。
「金」偏に「古」と書く「鈷(こ)」の字を用いて、「鈷守(こもり)稲荷」と呼ぶようです。
「鈷」というのは、煩悩を打ち砕き悪魔を払う法具のことだそうですが、
「金古を守るお稲荷さん」と洒落たんでしょうね。
粋なもんです。

さらに参道を進むと、石造りの立派な倉庫が建っています。
現在は使われていないのかも知れませんが、看板には「政府指定倉庫」「農産物常時検査場所」と書かれています。

倉庫の反対側には、石造りのお堂が建っていて、お堂の中には、金色燦然たる仏様が鎮座ましましておられます。(舌噛みそう)

お堂の前には、「延命地蔵尊」と書かれた石柱が建っています。
実を言うと、この字が何と読むのか分からず、「常仙寺」の奥様に教えてもらったことを、白状しておきます。

石柱には昭和四十四年(1969)とあり、
上屋敷、橋向、土俵、四ツ家の寄進者の名前が刻まれています。
どれも、味わいのある地名ですね。

さらに参道を進んで山門に近づくと、ちょっと怖い顔をした大きな石像がありました。
一見、「しょうづか婆さん」かな?と思いましたが、台石には「宗祖道元禅師御生誕八百年」と刻まれています。
「道元禅師」の像だったんですね。

隣の掲示板には、作家の三浦綾子さんのことを書いた紙が貼ってありました。
「三浦さんは敬虔なクリスチャンで、人生と真摯に向き合い、
 次のような言葉を残しています。
    曇りという字は 〈雲〉の上に〈日〉と書きます。
    この字のように、
    太陽はいつでも、私達を照らしているのです。

 苦しい時でも、雲の上には太陽があることを拠り所にして、
 乗り越えていきたいものです。」


そうか、心がるのは、だとって一喜一憂してるからか・・・。
そういえば、「降照大明神」なんてのもありましたっけ。

山門のすぐ手前に、大きなお地蔵様が建っています。

昭和六年(1931)に発生した、絹市場の火災により亡くなった15人を供養するために、翌、昭和七年に建立されたお地蔵様だそうです。

金古絹市場は、「鈷守稲荷」のある辺りにあって、その外観や内部は劇場としても使えるような構造になっていたようで、桟敷や花道、二階座敷もあったと言います。
ここで昭和六年五月、「昭和のおふさ」という映画が上映されました。

昭和のおふさのモデルは、当時、高崎東小学校に通う富澤ミエという少女で、五歳で父を亡くし、二人の弟の面倒を見ながら母を助けるという、その孝行ぶりが映画化されたものです。
富澤ミエは、後に福田姓となり足門に在住していました。

その映画は、当日午前、午後、夜の3回に分けて上映されました。
火災があったのは夜の部で、上映中に二階映写室より出火、絹市場「鈷守稲荷」を全焼して13名が焼死、数十名の重軽傷者(内2名が後に死亡)を出す大惨事となりました。
死亡者のほとんどが子どもで、10歳以下が6人、10歳代が7人、大人は22歳と59歳の2人です。

「常仙寺」の奥様の話では、お母様がちょうどその時に映画を見ていましたが危うく難を逃れ、その時の惨状をよく語っていたということです。
新聞も大きく取り上げたようで、当時イギリスにいた福田赳夫代議士も、英字新聞で故郷の災害を知り、驚いたと伝わっています。

絹市場は、その後新築されたものの、絹の生産も減少して、昭和十年頃には市(いち)も廃止になったそうです。
今は、「鈷守稲荷」の前に、開設者・柳澤翁之碑が建つのみです。

参道だけで、これだけの見所がある「常仙寺」ですが、山門を潜るとさらに沢山の見所があります。
それは、次回まとめてご紹介致しましょう。

(参考図書:「群馬町誌」「金古町誌」)


【常仙寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:35
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2010年01月30日

旧三国街道 さ迷い道中記(18)

見所多い参道を通って、やっと「常仙寺」の山門に辿り着きました。

「常仙寺」は、慶長十四年(1609)の開基とされています。

「金古宿」が正式に宿場となったのが、やはり慶長十四年と言いますから、宿場整備の一環であったのかも知れません。

寺の広い敷地は、三国街道を通って攻め込む敵を迎え撃つための兵の集結場でもあり、宿場が火災に見舞われた時などの避難所でもあります。
そのため、宿場・街道から大分奥まった所につくられています。

しかし、避難所となるべき「常仙寺」自体、安永か天明の頃でしょうか、殿堂伽藍ことごとく焼失する火災に見舞われています。
本堂は、天明二年(1782)に再建されますが、それから168年後の昭和二十五年(1950)、庫裡から発生した火が、渡り廊下を伝って本堂にまで達し、再び焼失してしまいます。
現在の本堂は、昭和四十年(1965)に再建されたものだそうです。

山門を潜ると、左手に立派な鐘楼が建っています。
昭和四十三年(1968)の落慶だそうです。

植え込みに、「知足石(ちそくいし)」がありました。

「吾唯足るを知る」

好きな言葉です。

本堂の前には、「鐘の声 久遠にとどけ 秋彼岸」と刻まれた鐘塔が建っています。
どなたかの寄進かと思ったら、鐘に「為妻久子菩提」と鋳込まれていました。
奥様の為に、建立されたんですね。

その向こうには、「只管打座(しかんたざ)」という言葉を思い出す、あばら骨の浮き出た僧の石像があります。

無言の迫力とは、こういうものかも知れません。
圧倒されます。

「ローラーはんこ」みたいなのもありました。

「摩尼車(まにぐるま)」と言うんだそうです。

車に書かれているのは、観音経の経文です。

「一回一誦」と刻まれていますが、この車を一回転させると観音経を一回読んだことになるというんですから、有り難いものなんですね。

本堂を右に回った所に、「精進童子」と書かれた小僧さんの石像がありました。
ちゃんと箒を持ったその姿、なかなか可愛いですよね。

梅が咲いたら、また来たいなあ、と思わせてくれます。

駐車場にも、興味深いものがあります。
「清竹現仏性」と刻まれているのでしょうか。
礎石には、「竹箒感謝報恩之塔」とあります。
碑面や礎石上面の縞模様は、竹箒の掃き目を表していたんですね。

裏面には、次のような碑文が刻まれていました。
「小子 昭和二十二年住山以来五十八年
 この間浄境の清掃に費消した竹箒は凡そ五千本
 箒の恩澤と竹霊に対してこの塔を建立し
 深甚なる敬意と感謝の真心を捧ぐ
 平成十七年(西紀2005年)秋彼岸 当山十九世 大智全苗 敬白」


今は、85歳になる奥様が、毎朝境内を掃き清めていらっしゃいます。
「おかげさまで、風邪をひかないの。」という言葉が印象的でした。
「常仙寺」にお見えになったら、ぜひ境内の箒の掃き目にも、目を留めてみてください。
そこにれているかもしれません。

さて、今日は「常仙寺」境内の見所を、一挙にご紹介しようと思ったのですが、大分長くなってしまいました。
残りは、次回にまわすことに致しましょう。
それほど、見所の多い「常仙寺」です。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:59
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