「米街道を辿って(1)」の続きです。
古道への曲がり角を左折すると、下り坂の先に木立ちのトンネルがあります。
水の流れる暗い木陰は、ありがたい程ひんやりして気持ちよいのですが、ぼんやり涼んでいると藪っ蚊の猛攻撃に遭います。
木立ちのトンネルを抜け、道なりに進みます。
頭の中で、健康福祉大学グランドの青いフェンスを消去し、右の家の屋根を藁葺きに置き換えれば、昔の街道の風景が見えてくるでしょう。
さらに進むと、一貫堀に架かる橋を渡ります。
ところで、どなたか、一貫堀という名前の由来をご存知でしょうか?
倉賀野には五貫堀というのもあり、気になっているのですが・・・。
橋を渡って、鍵の手に曲がると小路は急な上り坂になります。
坂の上の大きな家が、中世から続くこの地の名家、高井家の屋敷です。
高井氏といえば、「神楽塚のねじれ杉」に登場する、進雄神社の代々の神職と同じ姓です。
元は同じ一族なのでしょうが、柴崎の高井氏に対し、中大類の高井氏は「降照(ぶってん)高井氏」と呼ばれ、このお屋敷も「降照屋敷」と呼ばれます。
「降照(ぶってん)」とは面白い読み方ですが、農作物が雨に降り込まれることを「降(ぶ)っ込む」と言い、日が照ることを「照(て)ん」と言って、降ったり照ったりすることを「降照(ぶってん)」と言うのだそうです。
「降照屋敷」の東の竹藪の中に高井家の墓地があり、そこに「圓通閣」というお堂がありました。
失礼して中を覗いてみると、どことなくデーモン小暮閣下似の仏様が祀られていて、和んでしまいました。
「降照屋敷」を過ぎて、また木立ちと竹藪のトンネルを抜けると、正面の路傍に何やら石の祠と道祖神が並んでいます。
板に、「降照大明神」と書いてあります。→

←傍らに、「降照大明神」の由来が書かれた手書きの看板が立っていました。
古城塁研究家の山崎一氏は、「高崎の散歩道 第三集」の中で次のように記しています。
「(進雄神社の)由緒書によると、高倉天皇の世(1170年頃)、柴崎から東にあたる綿貫に、虚空から俄かに神様が天降り、降天(ぶってん)大明神として崇め祀って、高井氏が奉仕し「上野一国神職」に任ぜられたと伝える。
今も中大類に「降照」という所がある。その後に柴崎へ移ったのであろう。」
また、土屋喜英氏著「続・高崎漫歩」には、
「中大類の「降照大明神」は大正三年に進雄神社へ合祀された。」
と書かれています。
しかし、現在の進雄神社の由緒書には、「降天大明神」についても「降照大明神」についても一切記載されていません。
はて、真実は神のみぞ知る、というところでしょうか。
今日も、長くなってしまいました。
この続きは、また次回ということに。


水の流れる暗い木陰は、ありがたい程ひんやりして気持ちよいのですが、ぼんやり涼んでいると藪っ蚊の猛攻撃に遭います。

頭の中で、健康福祉大学グランドの青いフェンスを消去し、右の家の屋根を藁葺きに置き換えれば、昔の街道の風景が見えてくるでしょう。

ところで、どなたか、一貫堀という名前の由来をご存知でしょうか?
倉賀野には五貫堀というのもあり、気になっているのですが・・・。

坂の上の大きな家が、中世から続くこの地の名家、高井家の屋敷です。

元は同じ一族なのでしょうが、柴崎の高井氏に対し、中大類の高井氏は「降照(ぶってん)高井氏」と呼ばれ、このお屋敷も「降照屋敷」と呼ばれます。
「降照(ぶってん)」とは面白い読み方ですが、農作物が雨に降り込まれることを「降(ぶ)っ込む」と言い、日が照ることを「照(て)ん」と言って、降ったり照ったりすることを「降照(ぶってん)」と言うのだそうです。

失礼して中を覗いてみると、どことなくデーモン小暮閣下似の仏様が祀られていて、和んでしまいました。



←傍らに、「降照大明神」の由来が書かれた手書きの看板が立っていました。
古城塁研究家の山崎一氏は、「高崎の散歩道 第三集」の中で次のように記しています。
「(進雄神社の)由緒書によると、高倉天皇の世(1170年頃)、柴崎から東にあたる綿貫に、虚空から俄かに神様が天降り、降天(ぶってん)大明神として崇め祀って、高井氏が奉仕し「上野一国神職」に任ぜられたと伝える。
今も中大類に「降照」という所がある。その後に柴崎へ移ったのであろう。」
また、土屋喜英氏著「続・高崎漫歩」には、
「中大類の「降照大明神」は大正三年に進雄神社へ合祀された。」
と書かれています。
しかし、現在の進雄神社の由緒書には、「降天大明神」についても「降照大明神」についても一切記載されていません。
はて、真実は神のみぞ知る、というところでしょうか。
今日も、長くなってしまいました。
この続きは、また次回ということに。
【降照屋敷】
【今日の散歩道】
