「土俵の天王様」から北へ150mほど行くと、「常仙寺」があります。
参道に入るとすぐ右手にお稲荷様の社があります。
立派な額には右読みで、縦に「金古」横に「守稲荷大明神」と書かれています。
「金」偏に「古」と書く「鈷(こ)」の字を用いて、「鈷守(こもり)稲荷」と呼ぶようです。
「鈷」というのは、煩悩を打ち砕き悪魔を払う法具のことだそうですが、
「金古を守るお稲荷さん」と洒落たんでしょうね。
粋なもんです。
さらに参道を進むと、石造りの立派な倉庫が建っています。
現在は使われていないのかも知れませんが、看板には「政府指定倉庫」「農産物常時検査場所」と書かれています。
倉庫の反対側には、石造りのお堂が建っていて、お堂の中には、金色燦然たる仏様が鎮座ましましておられます。(舌噛みそう)
お堂の前には、「延命地蔵尊」と書かれた石柱が建っています。
実を言うと、この字が何と読むのか分からず、「常仙寺」の奥様に教えてもらったことを、白状しておきます。
石柱には昭和四十四年(1969)とあり、
上屋敷、橋向、土俵、四ツ家の寄進者の名前が刻まれています。
どれも、味わいのある地名ですね。
さらに参道を進んで山門に近づくと、ちょっと怖い顔をした大きな石像がありました。
一見、「しょうづか婆さん」かな?と思いましたが、台石には「宗祖道元禅師御生誕八百年」と刻まれています。
「道元禅師」の像だったんですね。
隣の掲示板には、作家の三浦綾子さんのことを書いた紙が貼ってありました。
「三浦さんは敬虔なクリスチャンで、人生と真摯に向き合い、次のような言葉を残しています。
曇りという字は 〈雲〉の上に〈日〉と書きます。
この字のように、
太陽はいつでも、私達を照らしているのです。
苦しい時でも、雲の上には太陽があることを拠り所にして、乗り越えていきたいものです。」
そうか、心が曇るのは、日だ雨だと云って一喜一憂してるからか・・・。
そういえば、「降照大明神」なんてのもありましたっけ。
山門のすぐ手前に、大きなお地蔵様が建っています。
昭和六年(1931)に発生した、絹市場の火災により亡くなった15人を供養するために、翌、昭和七年に建立されたお地蔵様だそうです。
金古の絹市場は、「鈷守稲荷」のある辺りにあって、その外観や内部は劇場としても使えるような構造になっていたようで、桟敷や花道、二階座敷もあったと言います。
ここで昭和六年五月、「昭和のおふさ」という映画が上映されました。
昭和のおふさのモデルは、当時、高崎東小学校に通う富澤ミエという少女で、五歳で父を亡くし、二人の弟の面倒を見ながら母を助けるという、その孝行ぶりが映画化されたものです。
富澤ミエは、後に福田姓となり足門に在住していました。
その映画は、当日午前、午後、夜の3回に分けて上映されました。
火災があったのは夜の部で、上映中に二階映写室より出火、絹市場と「鈷守稲荷」を全焼して13名が焼死、数十名の重軽傷者(内2名が後に死亡)を出す大惨事となりました。
死亡者のほとんどが子どもで、10歳以下が6人、10歳代が7人、大人は22歳と59歳の2人です。
「常仙寺」の奥様の話では、お母様がちょうどその時に映画を見ていましたが危うく難を逃れ、その時の惨状をよく語っていたということです。
新聞も大きく取り上げたようで、当時イギリスにいた福田赳夫代議士も、英字新聞で故郷の災害を知り、驚いたと伝わっています。
絹市場は、その後新築されたものの、絹の生産も減少して、昭和十年頃には市(いち)も廃止になったそうです。
今は、「鈷守稲荷」の前に、開設者・柳澤翁之碑が建つのみです。
参道だけで、これだけの見所がある「常仙寺」ですが、山門を潜るとさらに沢山の見所があります。
それは、次回まとめてご紹介致しましょう。
参道に入るとすぐ右手にお稲荷様の社があります。
立派な額には右読みで、縦に「金古」横に「守稲荷大明神」と書かれています。
「金」偏に「古」と書く「鈷(こ)」の字を用いて、「鈷守(こもり)稲荷」と呼ぶようです。
「鈷」というのは、煩悩を打ち砕き悪魔を払う法具のことだそうですが、
「金古を守るお稲荷さん」と洒落たんでしょうね。
粋なもんです。
さらに参道を進むと、石造りの立派な倉庫が建っています。
現在は使われていないのかも知れませんが、看板には「政府指定倉庫」「農産物常時検査場所」と書かれています。
倉庫の反対側には、石造りのお堂が建っていて、お堂の中には、金色燦然たる仏様が鎮座ましましておられます。(舌噛みそう)
お堂の前には、「延命地蔵尊」と書かれた石柱が建っています。
実を言うと、この字が何と読むのか分からず、「常仙寺」の奥様に教えてもらったことを、白状しておきます。
石柱には昭和四十四年(1969)とあり、
上屋敷、橋向、土俵、四ツ家の寄進者の名前が刻まれています。
どれも、味わいのある地名ですね。
さらに参道を進んで山門に近づくと、ちょっと怖い顔をした大きな石像がありました。
一見、「しょうづか婆さん」かな?と思いましたが、台石には「宗祖道元禅師御生誕八百年」と刻まれています。
「道元禅師」の像だったんですね。
隣の掲示板には、作家の三浦綾子さんのことを書いた紙が貼ってありました。
「三浦さんは敬虔なクリスチャンで、人生と真摯に向き合い、次のような言葉を残しています。
曇りという字は 〈雲〉の上に〈日〉と書きます。
この字のように、
太陽はいつでも、私達を照らしているのです。
苦しい時でも、雲の上には太陽があることを拠り所にして、乗り越えていきたいものです。」
そうか、心が曇るのは、日だ雨だと云って一喜一憂してるからか・・・。
そういえば、「降照大明神」なんてのもありましたっけ。
山門のすぐ手前に、大きなお地蔵様が建っています。
昭和六年(1931)に発生した、絹市場の火災により亡くなった15人を供養するために、翌、昭和七年に建立されたお地蔵様だそうです。
金古の絹市場は、「鈷守稲荷」のある辺りにあって、その外観や内部は劇場としても使えるような構造になっていたようで、桟敷や花道、二階座敷もあったと言います。
ここで昭和六年五月、「昭和のおふさ」という映画が上映されました。
昭和のおふさのモデルは、当時、高崎東小学校に通う富澤ミエという少女で、五歳で父を亡くし、二人の弟の面倒を見ながら母を助けるという、その孝行ぶりが映画化されたものです。
富澤ミエは、後に福田姓となり足門に在住していました。
その映画は、当日午前、午後、夜の3回に分けて上映されました。
火災があったのは夜の部で、上映中に二階映写室より出火、絹市場と「鈷守稲荷」を全焼して13名が焼死、数十名の重軽傷者(内2名が後に死亡)を出す大惨事となりました。
死亡者のほとんどが子どもで、10歳以下が6人、10歳代が7人、大人は22歳と59歳の2人です。
「常仙寺」の奥様の話では、お母様がちょうどその時に映画を見ていましたが危うく難を逃れ、その時の惨状をよく語っていたということです。
新聞も大きく取り上げたようで、当時イギリスにいた福田赳夫代議士も、英字新聞で故郷の災害を知り、驚いたと伝わっています。
絹市場は、その後新築されたものの、絹の生産も減少して、昭和十年頃には市(いち)も廃止になったそうです。
今は、「鈷守稲荷」の前に、開設者・柳澤翁之碑が建つのみです。
参道だけで、これだけの見所がある「常仙寺」ですが、山門を潜るとさらに沢山の見所があります。
それは、次回まとめてご紹介致しましょう。
(参考図書:「群馬町誌」「金古町誌」)
【常仙寺】