「金古」の信号のすぐ北に、写真のような石祠が祀られています。
「土俵の天王様」と呼ばれています。
「天王様」は、このブログでも度々登場する「牛頭天王(ごずてんのう)」のことで、疫病を流行らすとも、防ぐとも言われる神様です。
気になるのは、「土俵」です。
前回、ご紹介した「金古宿略図」にも、
「土俵」の文字が見えますので、地名であろうというのは分かります。
玉垣の内側にも、プランターにも、「土俵」の文字が書かれていますので、今もそう呼ばれているようです。
しかし、意外とその地名の由来が定かではありません。
「土俵」と聞くと、すぐ連想するのは相撲です。
「群馬町誌」にも、こんな由来が記されています。
「ある時、伝染病にかかった旅人が金古の宿に泊まり、病気が宿から町中に広まってしまった。
ちょうど江戸の相撲取りが興行に来ていたので、厄払いの相撲をしたところ、病気が無くなった。
その興行相撲をしたところなので、土俵という地名がついたという。」
うーん、もっともらし過ぎて、どうなんでしょうという感じです。
他には、金古町の郷土史研究会「十日会」の会報に、内山留一郎氏の「土俵町名の史的考察」という一文があります。
要約すると、次のような説です。
「疫病が村に入らないように『道祖神』を祀るが、侵入路を塞ぐという意味で『塞の神(さいのかみ)』ともいう。
また、『千引き石』と呼ぶ大きな石を道路に置いて、道を塞ぐこともある。
『土俵』も、俵に土を入れて疫病の侵入を塞いだものであろう。」
さあ、いかがでしょう?
「千引き石」に代わる「土俵」という説ですね。
では次に、迷道院の推理です。
「群馬町誌」の「金古宿の風景」という項の、こんな記述から推理してみました。
「宿場には必ず用水が取り入れられている。
金古宿の場合、北部は蟹沢川から取水した水路が土俵の北まで引水され、南部は牛池川から取水して現在の金古四つ角から染谷川まで、その中間は牛池川を土俵で溜めていたのであろう。
(略)
ただし、用水の調整はあまりうまくいっていなかったようで、文政十年(1827)の史料では、五月から十一月には、水があふれて宿中が水浸しになることもある、と述べられている。」
ということで、ただ単に、水の浸入を防ぐ「土俵」(土嚢)がいつも積まれていた場所だったのではないか、という推理です。
ま、いちばん夢もロマンもない説ですが・・・。
左の絵図は、金古宿の医薬業者・天田倉蔵という人が天保初年(1830頃)に発行した、「諸業高名録」の中で描かれている金古宿の様子です。
高札場が描かれていますが、その左にある石祠が「土俵の天王様」です。
人物に比べて高札や天王様が、やけに背が高いと思いませんか?
浸水に備えて、石垣で高く嵩上げしている為ではないかと想像するのですが、さて、いかがでしょう。
天田倉蔵は、上図で「眼療醫師 久良左右(くらぞう)」と書かれています。
「諸業高名録」は、金古宿の宣伝を目的としたようですが、それだけでは旅人に買ってもらえないと考えたのでしょう。
倉蔵は、三国道と北陸道の各宿場を回って、高名録に載せる広告主を募ったと言います。
高名録は、現在確認されているものだけでも84頁の大作と聞きます。
その内、金古宿分は5頁を占めているそうです。
今も昔も、誘客のためには知恵を絞り、努力をしていたのですね。
「土俵の天王様」と呼ばれています。
「天王様」は、このブログでも度々登場する「牛頭天王(ごずてんのう)」のことで、疫病を流行らすとも、防ぐとも言われる神様です。
気になるのは、「土俵」です。
前回、ご紹介した「金古宿略図」にも、
「土俵」の文字が見えますので、地名であろうというのは分かります。
玉垣の内側にも、プランターにも、「土俵」の文字が書かれていますので、今もそう呼ばれているようです。
しかし、意外とその地名の由来が定かではありません。
「土俵」と聞くと、すぐ連想するのは相撲です。
「群馬町誌」にも、こんな由来が記されています。
「ある時、伝染病にかかった旅人が金古の宿に泊まり、病気が宿から町中に広まってしまった。
ちょうど江戸の相撲取りが興行に来ていたので、厄払いの相撲をしたところ、病気が無くなった。
その興行相撲をしたところなので、土俵という地名がついたという。」
うーん、もっともらし過ぎて、どうなんでしょうという感じです。
他には、金古町の郷土史研究会「十日会」の会報に、内山留一郎氏の「土俵町名の史的考察」という一文があります。
要約すると、次のような説です。
「疫病が村に入らないように『道祖神』を祀るが、侵入路を塞ぐという意味で『塞の神(さいのかみ)』ともいう。
また、『千引き石』と呼ぶ大きな石を道路に置いて、道を塞ぐこともある。
『土俵』も、俵に土を入れて疫病の侵入を塞いだものであろう。」
さあ、いかがでしょう?
「千引き石」に代わる「土俵」という説ですね。
では次に、迷道院の推理です。
「群馬町誌」の「金古宿の風景」という項の、こんな記述から推理してみました。
「宿場には必ず用水が取り入れられている。
金古宿の場合、北部は蟹沢川から取水した水路が土俵の北まで引水され、南部は牛池川から取水して現在の金古四つ角から染谷川まで、その中間は牛池川を土俵で溜めていたのであろう。
(略)
ただし、用水の調整はあまりうまくいっていなかったようで、文政十年(1827)の史料では、五月から十一月には、水があふれて宿中が水浸しになることもある、と述べられている。」
ということで、ただ単に、水の浸入を防ぐ「土俵」(土嚢)がいつも積まれていた場所だったのではないか、という推理です。
ま、いちばん夢もロマンもない説ですが・・・。
左の絵図は、金古宿の医薬業者・天田倉蔵という人が天保初年(1830頃)に発行した、「諸業高名録」の中で描かれている金古宿の様子です。
高札場が描かれていますが、その左にある石祠が「土俵の天王様」です。
人物に比べて高札や天王様が、やけに背が高いと思いませんか?
浸水に備えて、石垣で高く嵩上げしている為ではないかと想像するのですが、さて、いかがでしょう。
天田倉蔵は、上図で「眼療醫師 久良左右(くらぞう)」と書かれています。
「諸業高名録」は、金古宿の宣伝を目的としたようですが、それだけでは旅人に買ってもらえないと考えたのでしょう。
倉蔵は、三国道と北陸道の各宿場を回って、高名録に載せる広告主を募ったと言います。
高名録は、現在確認されているものだけでも84頁の大作と聞きます。
その内、金古宿分は5頁を占めているそうです。
今も昔も、誘客のためには知恵を絞り、努力をしていたのですね。
(参考図書:「群馬町誌」「群馬町の文化財」「十日会々報」)
【土俵の天王様】