「徳昌寺」から東へ進み、足門の信号に出ます。
ここからは、高崎-渋川線の三国街道を進むことにしましょう。
足門の信号から北へ250mほど行くと、「和膳 つかさ」という看板が目に入ります。
よく見ると、小さな字ですが「箕輪城下金古宿木戸前」と書かれています。
高崎宿から二里半、最初の宿場「金古宿」の南の木戸があった所だそうです。
「これより金古宿」という看板と、最近作った感じの双体道祖神が建っています。
ただ、江戸末期の金古宿略図では、南の木戸は染谷川より北に描かれていますので、先ほどの場所とは異なることになります。
染谷川に架かる橋から南の木戸までの間は、並木になっていたようです。
現在、マルエドラッグの所にある桜並木が、その名残のような気がするのですが、群馬町誌によれば、並木は松と杉であったと記されています。どうなのでしょうか。
「金古宿」が正式に宿場となったのは慶長十四年(1609)だそうですが、少し特殊な宿場だったようです。
それは、金古宿はあくまでも行政上は農村という扱いだったからです。
ですので、宿場の住人も身分は農民で、商いは「農間渡世(のうまとせい)」と言って、農業の合間にするという建前でした。
宿内の決まりごとも多く、
・旅人が畑を通っても咎めない
・飯売女(飯盛女)に派手な服装をさせない
・遊女には野良を歩かせてはならない
・農民がキセルを咥えたまま宿役人に応対してはならない
など、随分細かいことまで禁止されていたようです。
領民を治める側としては、宿場が栄えて農民が奢侈になったり、農業を疎かにしたりすると困るという面もあったのでしょう。
そもそも三国街道は、三国峠に雪が積もらない四月から十月までの間に、通行が集中します。
ところが、その時期というのは農民にとっても農繁期ですので、忙しい中での宿場の運営には苦労が多かったようです。
大名や役人は城下町である高崎を避け、金古宿を多く利用しました。
ただ、彼らはお世話が大変な上に、特別料金(もちろん安い)なので、いいお客とは言えません。
いい客である一般の旅人は、金古宿の前後にある高崎・渋川という、大きな宿場に宿泊したがったようです。
しかも、金古宿が期待する伊香保や沢渡などへの湯治客は、柏木沢経由の近道を使って、金古宿をバイパスしてしまう有様でした。
下小鳥町にある「三国街道みちしるべ」は、金古宿問屋の善次郎という人が建てたと言いますが、湯治客を金古宿に誘導するための戦略だったのかもしれませんね。
金古宿の木戸は、明治十四年(1881)清水峠越えの三国新道が開通したのに合わせ、撤去されました。
ここからは、高崎-渋川線の三国街道を進むことにしましょう。
足門の信号から北へ250mほど行くと、「和膳 つかさ」という看板が目に入ります。
よく見ると、小さな字ですが「箕輪城下金古宿木戸前」と書かれています。
高崎宿から二里半、最初の宿場「金古宿」の南の木戸があった所だそうです。
「これより金古宿」という看板と、最近作った感じの双体道祖神が建っています。
ただ、江戸末期の金古宿略図では、南の木戸は染谷川より北に描かれていますので、先ほどの場所とは異なることになります。
染谷川に架かる橋から南の木戸までの間は、並木になっていたようです。
現在、マルエドラッグの所にある桜並木が、その名残のような気がするのですが、群馬町誌によれば、並木は松と杉であったと記されています。どうなのでしょうか。
「金古宿」が正式に宿場となったのは慶長十四年(1609)だそうですが、少し特殊な宿場だったようです。
それは、金古宿はあくまでも行政上は農村という扱いだったからです。
ですので、宿場の住人も身分は農民で、商いは「農間渡世(のうまとせい)」と言って、農業の合間にするという建前でした。
宿内の決まりごとも多く、
・旅人が畑を通っても咎めない
・飯売女(飯盛女)に派手な服装をさせない
・遊女には野良を歩かせてはならない
・農民がキセルを咥えたまま宿役人に応対してはならない
など、随分細かいことまで禁止されていたようです。
領民を治める側としては、宿場が栄えて農民が奢侈になったり、農業を疎かにしたりすると困るという面もあったのでしょう。
そもそも三国街道は、三国峠に雪が積もらない四月から十月までの間に、通行が集中します。
ところが、その時期というのは農民にとっても農繁期ですので、忙しい中での宿場の運営には苦労が多かったようです。
大名や役人は城下町である高崎を避け、金古宿を多く利用しました。
ただ、彼らはお世話が大変な上に、特別料金(もちろん安い)なので、いいお客とは言えません。
いい客である一般の旅人は、金古宿の前後にある高崎・渋川という、大きな宿場に宿泊したがったようです。
しかも、金古宿が期待する伊香保や沢渡などへの湯治客は、柏木沢経由の近道を使って、金古宿をバイパスしてしまう有様でした。
下小鳥町にある「三国街道みちしるべ」は、金古宿問屋の善次郎という人が建てたと言いますが、湯治客を金古宿に誘導するための戦略だったのかもしれませんね。
金古宿の木戸は、明治十四年(1881)清水峠越えの三国新道が開通したのに合わせ、撤去されました。
(参考図書:「群馬町誌」「金古上宿の由来」
「群馬町の文化財」「日本歴史地名大系」)
「群馬町の文化財」「日本歴史地名大系」)
【金古宿木戸前 和膳つかさ】
【金古宿 並木跡?】