2010年01月17日

旧三国街道 さ迷い道中記(13)

「徳昌寺」について調べてみると、いろいろ面白いことが分かってきました。
まずは、その開基から見てみましょう。

田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。

「町の中央に真言宗の天王山徳昌寺がある。
この寺は、天文二十年(1551)に武田信玄箕輪城攻めでこの地に至り、上杉、北条との戦いの和解をしようとした時、たまたま信玄が乗ってきた馬が倒れて死んでしまった。
そこでこの地に愛馬を埋葬し、『馬鳴山畜生寺』を建て、若干の寺禄を給した。」


ところが、飯島富雄氏編集の「天王山薬師院徳昌寺」という本では、ちょっと違う話が伝わっています。

実は、この足門「徳昌寺」には、その前身となる群馬郡中里村「青竜山徳昌寺」というお寺があったといいます。
その「青竜山徳昌寺」にまつわる話に、武田信玄の愛馬の話が出てきます。

「永禄六年(1563)、箕輪城落城の際の総大将・武田勝頼は、父信玄の愛馬・天久号に跨って戦ったが、その馬が陣屋にて斃(たお)れてしまった。
勝頼は数名の部下と共に『青竜山徳昌寺』を訪れ、手厚く葬ることを命じたという。
しかし、時の住職・清乘和尚は大変気骨のある方で、『当寺は畜生を葬る処ではない。』と、堅く断ったという。
勝頼は一旦は引き揚げたが、憤懣やる方なく、腹癒せに寺に火を放って全焼させてしまったと言い伝えられている。」


もともと箕輪城の祈願寺でもあったお寺ですので、この話の方が真実味がありそうです。

下って天正十八年(1590)頃、元箕輪城軍師だった岸監物忠清という人が足門に寺を開基し、荒廃していた中里「青竜山徳昌寺」を引寺して、「足門山徳昌寺」と称したとあります。
その後、「天王山薬師院徳昌寺」と改名し、現在に至っているというのです。

さて、その「天王山薬師院」という名前にも、興味深い話があります。
長くなりそうですので、その話は次回ということに致しましょう。




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Posted by 迷道院高崎 at 08:13
Comments(2)三国街道
この記事へのコメント
群馬に10年暮らしていても
まだまだ知らないことが多く・・・
三国街道が高崎から越後・寺泊まで続いていることを
おかげさまで、最近知りました。
また、今日の記事の「箕輪城」も訪れたことがあり、
歴史を思い起こすことができて楽しいです^^。
Posted by kazekaze  at 2010年01月17日 10:59
>kazeさん

いや、いや、私などその6倍暮らしていても、やっと最近知ったことばかりです^_^;

梅の時期の箕輪城址は、なかなかいいですよね。
「梅の箕輪に桜の高崎」、上手く観光につなげたいものです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年01月17日 19:41
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