「徳昌寺」について調べてみると、いろいろ面白いことが分かってきました。
まずは、その開基から見てみましょう。
田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。
「町の中央に真言宗の天王山徳昌寺がある。
この寺は、天文二十年(1551)に武田信玄が箕輪城攻めでこの地に至り、上杉、北条との戦いの和解をしようとした時、たまたま信玄が乗ってきた馬が倒れて死んでしまった。
そこでこの地に愛馬を埋葬し、『馬鳴山畜生寺』を建て、若干の寺禄を給した。」
ところが、飯島富雄氏編集の「天王山薬師院徳昌寺」という本では、ちょっと違う話が伝わっています。
実は、この足門の「徳昌寺」には、その前身となる群馬郡中里村の「青竜山徳昌寺」というお寺があったといいます。
その「青竜山徳昌寺」にまつわる話に、武田信玄の愛馬の話が出てきます。
「永禄六年(1563)、箕輪城落城の際の総大将・武田勝頼は、父信玄の愛馬・天久号に跨って戦ったが、その馬が陣屋にて斃(たお)れてしまった。
勝頼は数名の部下と共に『青竜山徳昌寺』を訪れ、手厚く葬ることを命じたという。
しかし、時の住職・清乘和尚は大変気骨のある方で、『当寺は畜生を葬る処ではない。』と、堅く断ったという。
勝頼は一旦は引き揚げたが、憤懣やる方なく、腹癒せに寺に火を放って全焼させてしまったと言い伝えられている。」
もともと箕輪城の祈願寺でもあったお寺ですので、この話の方が真実味がありそうです。
下って天正十八年(1590)頃、元箕輪城軍師だった岸監物忠清という人が足門に寺を開基し、荒廃していた中里の「青竜山徳昌寺」を引寺して、「足門山徳昌寺」と称したとあります。
その後、「天王山薬師院徳昌寺」と改名し、現在に至っているというのです。
さて、その「天王山薬師院」という名前にも、興味深い話があります。
長くなりそうですので、その話は次回ということに致しましょう。
まずは、その開基から見てみましょう。
田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。
「町の中央に真言宗の天王山徳昌寺がある。
この寺は、天文二十年(1551)に武田信玄が箕輪城攻めでこの地に至り、上杉、北条との戦いの和解をしようとした時、たまたま信玄が乗ってきた馬が倒れて死んでしまった。
そこでこの地に愛馬を埋葬し、『馬鳴山畜生寺』を建て、若干の寺禄を給した。」
ところが、飯島富雄氏編集の「天王山薬師院徳昌寺」という本では、ちょっと違う話が伝わっています。
実は、この足門の「徳昌寺」には、その前身となる群馬郡中里村の「青竜山徳昌寺」というお寺があったといいます。
その「青竜山徳昌寺」にまつわる話に、武田信玄の愛馬の話が出てきます。
「永禄六年(1563)、箕輪城落城の際の総大将・武田勝頼は、父信玄の愛馬・天久号に跨って戦ったが、その馬が陣屋にて斃(たお)れてしまった。
勝頼は数名の部下と共に『青竜山徳昌寺』を訪れ、手厚く葬ることを命じたという。
しかし、時の住職・清乘和尚は大変気骨のある方で、『当寺は畜生を葬る処ではない。』と、堅く断ったという。
勝頼は一旦は引き揚げたが、憤懣やる方なく、腹癒せに寺に火を放って全焼させてしまったと言い伝えられている。」
もともと箕輪城の祈願寺でもあったお寺ですので、この話の方が真実味がありそうです。
下って天正十八年(1590)頃、元箕輪城軍師だった岸監物忠清という人が足門に寺を開基し、荒廃していた中里の「青竜山徳昌寺」を引寺して、「足門山徳昌寺」と称したとあります。
その後、「天王山薬師院徳昌寺」と改名し、現在に至っているというのです。
さて、その「天王山薬師院」という名前にも、興味深い話があります。
長くなりそうですので、その話は次回ということに致しましょう。