昭和五十七年(1982)、下小鳥町奉賛会が出版した「町づくり 史蹟首塚・三国街道みちしるべ改修記念」という小冊子に、元高崎経済大学課長の福田行雄氏が、「首塚見聞記」と題した一文を寄稿しています。
他の文献とちょっと違う「首塚」伝承が語られていますので、ご紹介しましょう。
私、福田行雄が子供の頃より口伝されている聞き覚えを記してみよう。
私は今年数え八十歳を迎へ、気の利いたことの書けないことを初めからお許し願っておきます。
村の中央、現在の久保ガソリン店と井上肉店の間に橋があります。
この橋の名を郷倉の橋と云います。
この橋を渡り東へ行くと松岡金太郎さんの立派な家があり、その東の家の所に昔は高崎藩の郷倉があった。
藩の年貢米はここに貯蔵されたのである。
この年貢米取り立てに藩の役人が来て、何事につけても厳しかった。
田畑の耕作面積、家族の人数、上田、中田、田の良否等々について、人別帳により家毎に、何斗何升何合、米質の良否等々実に厳しい取り立てを行った。
この役人を検見(毛見)といい、当日は怖いものなしで威張り、酒食のもてなしは当然、あまつさへ婦女子まで要求したという。
斯くしたことが年々続くので、腹を立てた若者が決死の覚悟で役人の帰途を待伏せて、二人の役人を殺してしまったのである。
このことを聞いた殿様は激怒し、報復の機を狙っていた。
そして元和三年(1617)正月四日、農家では他所へ嫁した女達も子供を連れ、その日は生家へ帰って水入らずの正月を楽しむ風習があった。
殿様はそこを狙って兵を出し、安中藩の応援も頼んで皆殺しを図ったが、皆殺しはできなかった。
皆殺し決行の前夜、即ち三日の夜、白馬にまたがった白装束の者が現れ、「明日はこの村人は皆殺しにされるから早く逃げろ。」と、大声で村中に告げて廻った。
これを聞いて逃げた者もいたが、斬殺された者が多かったという。
そしてその時、今の梅山竜二さんの屋敷内へ逃げ込んだ者は殺されなかったという。
それは、同家から藩に出仕していた梅山治左衛門氏の家だったからだという。
ここで助かった人達は、後日になって祠を建て、石宮を安置し薬師様と称し祀った。
当時はヤン目(今の流行性結膜炎)で悩む方が、たまたま薬師様に快癒祈願をなしたる処、その霊験あらたかであった。
その話が広がり、半紙に「め」と書いたものを祠に貼り付けると快癒速やかとて、貼り紙は絶えなかった。
この祠の傍らには、大榎が繁っていた。
ところがこの大榎を「縁切り榎」と云って、結婚式の衆はここを避け、迂回したとの話もある。
(略)
次に白装束で白馬に乗った救主は、浅間神社の神様であったと伝えられている。
この神社は、高前バイパス道新効パチンコ店の駐車場の辺から、沖田(問屋町方面)の田圃道の北側に森があり、それが浅間神社であったが、今は幸宮神社へ合祀されて跡形もない。
この伝承によれば、惨劇の難を逃れた人が、相当数いたようです。
さらに、「縁切り榎の薬師様」や、「幸宮神社に合祀された浅間神社」の話も出てきて、伝説としての膨らみがあるのも興味深いところです。
次回は、萩原進氏の著書から、事件の裏面に伝えられる一説という話を、ご紹介しましょう。

←歩道の下は今も堀で、写真左上に行く道に橋が架かっていたそうです。

←左側ブロック塀の奥に建っていたといいます。今は民家になっています。
他の文献とちょっと違う「首塚」伝承が語られていますので、ご紹介しましょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「首塚見聞記」福田行雄
私、福田行雄が子供の頃より口伝されている聞き覚えを記してみよう。
私は今年数え八十歳を迎へ、気の利いたことの書けないことを初めからお許し願っておきます。
村の中央、現在の久保ガソリン店と井上肉店の間に橋があります。
この橋の名を郷倉の橋と云います。
この橋を渡り東へ行くと松岡金太郎さんの立派な家があり、その東の家の所に昔は高崎藩の郷倉があった。
藩の年貢米はここに貯蔵されたのである。
この年貢米取り立てに藩の役人が来て、何事につけても厳しかった。
田畑の耕作面積、家族の人数、上田、中田、田の良否等々について、人別帳により家毎に、何斗何升何合、米質の良否等々実に厳しい取り立てを行った。
この役人を検見(毛見)といい、当日は怖いものなしで威張り、酒食のもてなしは当然、あまつさへ婦女子まで要求したという。
斯くしたことが年々続くので、腹を立てた若者が決死の覚悟で役人の帰途を待伏せて、二人の役人を殺してしまったのである。
このことを聞いた殿様は激怒し、報復の機を狙っていた。
そして元和三年(1617)正月四日、農家では他所へ嫁した女達も子供を連れ、その日は生家へ帰って水入らずの正月を楽しむ風習があった。
殿様はそこを狙って兵を出し、安中藩の応援も頼んで皆殺しを図ったが、皆殺しはできなかった。
皆殺し決行の前夜、即ち三日の夜、白馬にまたがった白装束の者が現れ、「明日はこの村人は皆殺しにされるから早く逃げろ。」と、大声で村中に告げて廻った。
これを聞いて逃げた者もいたが、斬殺された者が多かったという。
そしてその時、今の梅山竜二さんの屋敷内へ逃げ込んだ者は殺されなかったという。
それは、同家から藩に出仕していた梅山治左衛門氏の家だったからだという。
ここで助かった人達は、後日になって祠を建て、石宮を安置し薬師様と称し祀った。
当時はヤン目(今の流行性結膜炎)で悩む方が、たまたま薬師様に快癒祈願をなしたる処、その霊験あらたかであった。
その話が広がり、半紙に「め」と書いたものを祠に貼り付けると快癒速やかとて、貼り紙は絶えなかった。
この祠の傍らには、大榎が繁っていた。
ところがこの大榎を「縁切り榎」と云って、結婚式の衆はここを避け、迂回したとの話もある。
(略)
次に白装束で白馬に乗った救主は、浅間神社の神様であったと伝えられている。
この神社は、高前バイパス道新効パチンコ店の駐車場の辺から、沖田(問屋町方面)の田圃道の北側に森があり、それが浅間神社であったが、今は幸宮神社へ合祀されて跡形もない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この伝承によれば、惨劇の難を逃れた人が、相当数いたようです。
さらに、「縁切り榎の薬師様」や、「幸宮神社に合祀された浅間神社」の話も出てきて、伝説としての膨らみがあるのも興味深いところです。
次回は、萩原進氏の著書から、事件の裏面に伝えられる一説という話を、ご紹介しましょう。
【郷倉橋のあった所】

←歩道の下は今も堀で、写真左上に行く道に橋が架かっていたそうです。
【郷倉があった所】

←左側ブロック塀の奥に建っていたといいます。今は民家になっています。