高崎市下小鳥奉賛会出版の「町づくり 史蹟首塚三国街道みちしるべ改修記念」という小冊子に、当時、高崎高校教諭だった吉永哲郎氏が、一文を寄稿しています。
昭和十五・六年頃「東京日日新聞」(現毎日新聞)の群馬版に、県下の埋もれた人物や史蹟を県民に広く紹介しようという意図から、「新上毛外史」が連載されていた。(のち、毎日新聞前橋支局編として一冊になった。)
大東亜戦争という時局から、収集された資料や実地調査の結果は、内容上のことから全て発表することはできなかったようだ。
国府の住谷某氏の「切干塚」の伝承は、当時発表されなかったものの一つである。
東京日日新聞の支局に寄せられた住谷某氏の書簡の一部を掲げてみよう。
高崎市ニ近イ群馬郡六郷村下小鳥ノ西浦ト云フ所ニ、昔多数ノ死体ヲ埋メタト云ハレル塚ガアル。
元和二年、此ノ地ノ領主松平丹波守ノ検地奉行ガ、アマリニモヒドイ縄入レヲ行ッタ為ニ、村民憤激、役人ノ帰途ヲ待伏セシテ殺害シタ。
藩デハ大イニ怒リ、犯人ノ探査ヲ行ッタガ、ツイニ検挙ニ至ラナカッタ。
秋ガ過ギ冬ガ訪レタ。
藩ガ如何ナル手段ヲ取ルデアラウカ、不安ナ内ニモ正月ハ近ヅク。
気味ノ悪イ静寂ノ中ニ、元和三年正月ノ元日ヲ迎ヘタ。
一方藩デハ、自藩ノ藩士ダケデハ手不足ヲ感ジ、安中城主水野氏ノ加勢ヲ得テ、総勢数十百人、正月四日ノ夜半、村ヲ遠巻キニ囲ンデヂリヂリト迫ッテ行ッタ。
神ナラヌ身ノ誰カ是ヲ知ルモノゾ。無心ニ眠ル幼児ニモ遠慮ナク、毒刃ハ突刺サレタ。
泣イテ手ヲ合ワセル老婆、余命幾何モナイ老爺モ、菜ッ葉ヲ切ルヨウニ斬殺サレタ。
親ヲカバフ子モ、妻ヲ思フ夫モ、数秒ノ前後ノ差コソアレ、情ケ容赦モナク血煙リノ下ニ倒レタ。
一刀ヲアビテ泣キ叫ンデ逃ゲル者ヲ追ッテ、二太刀、三太刀、戸障子ヲ蹴破ッテ乱入スル騒音ノ間ニ物凄イ必死ノ悲鳴、ソレハ厳寒ニ見セラレタ哀レナル地獄絵図ダッタ。
残虐ナル血ノ報復ガ行ワレタ後、両藩ノ武士達ハ血刀下ゲタママ物凄ク笑ッタ。
生キトシ生ケル者ハ一人残ラズ斬ラレ、カクシテ下小鳥ノ部落ハ完全ニ廃滅シタ。
現在ノ村民ノ先祖等ハ、ソノ後ニ土着シタモノダト云フ。
村人ノ死体ハ一ヶ所ニ山積ミトサレ埋メラレタ。
里人ハ今ニ切干塚ト呼ンデヰル。
どうでしょう。
「切干塚(首塚)伝承 第一話」でご紹介した、「枉冤旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)の読み下し文より、ずっと物語としては洗練されている気がしませんか。
ただ、この伝承によれば下小鳥村は完全に廃滅している訳ですから、では誰がこれほど生々しく伝えたのでしょう?
加害者である、高崎藩士でしょうか?
もしそうだとすれば、280年の長きに亘って、これほど怨嗟に富んだ話として伝わるものでしょうか?
実は、この難を逃れた村民がいたという話も伝わっているのです。
次回は、そのお話をご紹介しましょう。
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「元和三年下小鳥大虐殺」吉永哲郎
昭和十五・六年頃「東京日日新聞」(現毎日新聞)の群馬版に、県下の埋もれた人物や史蹟を県民に広く紹介しようという意図から、「新上毛外史」が連載されていた。(のち、毎日新聞前橋支局編として一冊になった。)
大東亜戦争という時局から、収集された資料や実地調査の結果は、内容上のことから全て発表することはできなかったようだ。
国府の住谷某氏の「切干塚」の伝承は、当時発表されなかったものの一つである。
東京日日新聞の支局に寄せられた住谷某氏の書簡の一部を掲げてみよう。
高崎市ニ近イ群馬郡六郷村下小鳥ノ西浦ト云フ所ニ、昔多数ノ死体ヲ埋メタト云ハレル塚ガアル。
元和二年、此ノ地ノ領主松平丹波守ノ検地奉行ガ、アマリニモヒドイ縄入レヲ行ッタ為ニ、村民憤激、役人ノ帰途ヲ待伏セシテ殺害シタ。
藩デハ大イニ怒リ、犯人ノ探査ヲ行ッタガ、ツイニ検挙ニ至ラナカッタ。
秋ガ過ギ冬ガ訪レタ。
藩ガ如何ナル手段ヲ取ルデアラウカ、不安ナ内ニモ正月ハ近ヅク。
気味ノ悪イ静寂ノ中ニ、元和三年正月ノ元日ヲ迎ヘタ。
一方藩デハ、自藩ノ藩士ダケデハ手不足ヲ感ジ、安中城主水野氏ノ加勢ヲ得テ、総勢数十百人、正月四日ノ夜半、村ヲ遠巻キニ囲ンデヂリヂリト迫ッテ行ッタ。
神ナラヌ身ノ誰カ是ヲ知ルモノゾ。無心ニ眠ル幼児ニモ遠慮ナク、毒刃ハ突刺サレタ。
泣イテ手ヲ合ワセル老婆、余命幾何モナイ老爺モ、菜ッ葉ヲ切ルヨウニ斬殺サレタ。
親ヲカバフ子モ、妻ヲ思フ夫モ、数秒ノ前後ノ差コソアレ、情ケ容赦モナク血煙リノ下ニ倒レタ。
一刀ヲアビテ泣キ叫ンデ逃ゲル者ヲ追ッテ、二太刀、三太刀、戸障子ヲ蹴破ッテ乱入スル騒音ノ間ニ物凄イ必死ノ悲鳴、ソレハ厳寒ニ見セラレタ哀レナル地獄絵図ダッタ。
残虐ナル血ノ報復ガ行ワレタ後、両藩ノ武士達ハ血刀下ゲタママ物凄ク笑ッタ。
生キトシ生ケル者ハ一人残ラズ斬ラレ、カクシテ下小鳥ノ部落ハ完全ニ廃滅シタ。
現在ノ村民ノ先祖等ハ、ソノ後ニ土着シタモノダト云フ。
村人ノ死体ハ一ヶ所ニ山積ミトサレ埋メラレタ。
里人ハ今ニ切干塚ト呼ンデヰル。
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どうでしょう。
「切干塚(首塚)伝承 第一話」でご紹介した、「枉冤旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)の読み下し文より、ずっと物語としては洗練されている気がしませんか。
ただ、この伝承によれば下小鳥村は完全に廃滅している訳ですから、では誰がこれほど生々しく伝えたのでしょう?
加害者である、高崎藩士でしょうか?
もしそうだとすれば、280年の長きに亘って、これほど怨嗟に富んだ話として伝わるものでしょうか?
実は、この難を逃れた村民がいたという話も伝わっているのです。
次回は、そのお話をご紹介しましょう。