昭和四十八年(1973)に発行された、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」の中に、「首塚」の伝説が載っています。
この本で「首塚」のことを知ったという人も少なくないでしょう。
むかし、高崎城つき五万石といわれる村々の中の、ある村でのことである。
殿様の命を受けた検見(毛見)の役人が来た。
その役人の検見のやり方は甚だ厳しく、農民達の哀訴嘆願を聞き入れなかった。
そこでこれを恨んだ農民は、同志を集めて役人二人を襲い、殺してしまった。
殿様は激怒した。
そして報復の期をねらっていた。
正月四日、農家では、遠くに嫁に行った女達も、その日は里帰りするのが例になっていたから、その部落出身の人達はみんな実家に帰って、水入らずの正月を楽しんだ。
殿様はそこを狙って、兵を出して一部落を包囲、農民を皆殺しにした。
しかも首と胴と別々に切り離して埋めてしまった。
このことは一部落皆殺しだから、誰も知らず、どこへも漏れないはずだった。
ところが、たまたま用事があってそこから洩れていた一人があって、事があらわれてしまった。(略)
首塚は知っている人でなければ、なかなか分からない人家の庭畑の様な所にあり、夏など桑の丈に隠れて見つけにくい。
胴塚は別に胴塚と呼ばれておらず、かつては桑畑だった所だが、平地ではあるし、古老ででもなければそれと知る人もない。
この話では、村民の中に難を逃れた人がいて、その人が後々この惨劇を伝えていった、ということになっています。
昭和四十八年当時の「首塚」は、文中にあるように、知る人ぞ知る存在だったようですが、「枉冤旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)が建立される以前は、もっと目立たない存在だったようです。
大きな「枉冤旌表之碑」の後ろに隠れるようにして、「三界万霊(さんがいばんれい)」と刻まれた小さな自然石が建っています。
これが、元々「切干塚(首塚)」に建っていた慰霊碑だと思われます。
下小鳥町の「町内誌」には、次のような逸話が書かれています。
「三界万霊碑の周囲に草や雑木が繁るので、それを刈り取り清掃すると、病気に罹ったり不幸なことが起きる。
そこで、周囲の土地所有者である三者が、慰霊のため土地十歩(ぶ:坪と同じ)を寺(蓮花院)に寄付し、霊域とした。」
その時に、蓮花院が出した受納書が残っていて、明治三十年(1897)となっています。
「枉冤旌表之碑」が建立されたのは、明治三十四年(1901)、その後、塚を嵩上げして整備したのは、昭和五十七年(1982)のことです。
整備のきっかけは、昭和五十八年に開催される「あかぎ国体」でした。
「あかぎ国体」開催に向けて、高崎市の指導により市内24地区に「住みよい町づくり運動協議会」がつくられました。
その一環として、下小鳥支部では全国から集まる人達に下小鳥町の文化財を紹介しようと、広く町民に協力を求め、470名から188万円の浄財を得て、「首塚」と「三国街道みちしるべ」の改修・整備がされたのです。
次回は、そのとき出版された「町づくり 史蹟首塚・三国街道みちしるべ改修記念」(発行:下小鳥奉賛会)小冊子の中から、元経済大学課長・福田行雄氏が、子どもの頃から聞いていたという「首塚」の話を、ご紹介いたしましょう。
この本で「首塚」のことを知ったという人も少なくないでしょう。
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むかし、高崎城つき五万石といわれる村々の中の、ある村でのことである。
殿様の命を受けた検見(毛見)の役人が来た。
その役人の検見のやり方は甚だ厳しく、農民達の哀訴嘆願を聞き入れなかった。
そこでこれを恨んだ農民は、同志を集めて役人二人を襲い、殺してしまった。
殿様は激怒した。
そして報復の期をねらっていた。
正月四日、農家では、遠くに嫁に行った女達も、その日は里帰りするのが例になっていたから、その部落出身の人達はみんな実家に帰って、水入らずの正月を楽しんだ。
殿様はそこを狙って、兵を出して一部落を包囲、農民を皆殺しにした。
しかも首と胴と別々に切り離して埋めてしまった。
このことは一部落皆殺しだから、誰も知らず、どこへも漏れないはずだった。
ところが、たまたま用事があってそこから洩れていた一人があって、事があらわれてしまった。(略)
首塚は知っている人でなければ、なかなか分からない人家の庭畑の様な所にあり、夏など桑の丈に隠れて見つけにくい。
胴塚は別に胴塚と呼ばれておらず、かつては桑畑だった所だが、平地ではあるし、古老ででもなければそれと知る人もない。
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この話では、村民の中に難を逃れた人がいて、その人が後々この惨劇を伝えていった、ということになっています。
昭和四十八年当時の「首塚」は、文中にあるように、知る人ぞ知る存在だったようですが、「枉冤旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)が建立される以前は、もっと目立たない存在だったようです。

これが、元々「切干塚(首塚)」に建っていた慰霊碑だと思われます。
下小鳥町の「町内誌」には、次のような逸話が書かれています。
「三界万霊碑の周囲に草や雑木が繁るので、それを刈り取り清掃すると、病気に罹ったり不幸なことが起きる。
そこで、周囲の土地所有者である三者が、慰霊のため土地十歩(ぶ:坪と同じ)を寺(蓮花院)に寄付し、霊域とした。」
その時に、蓮花院が出した受納書が残っていて、明治三十年(1897)となっています。
「枉冤旌表之碑」が建立されたのは、明治三十四年(1901)、その後、塚を嵩上げして整備したのは、昭和五十七年(1982)のことです。
整備のきっかけは、昭和五十八年に開催される「あかぎ国体」でした。
「あかぎ国体」開催に向けて、高崎市の指導により市内24地区に「住みよい町づくり運動協議会」がつくられました。
その一環として、下小鳥支部では全国から集まる人達に下小鳥町の文化財を紹介しようと、広く町民に協力を求め、470名から188万円の浄財を得て、「首塚」と「三国街道みちしるべ」の改修・整備がされたのです。
(下小鳥町町内誌より)
次回は、そのとき出版された「町づくり 史蹟首塚・三国街道みちしるべ改修記念」(発行:下小鳥奉賛会)小冊子の中から、元経済大学課長・福田行雄氏が、子どもの頃から聞いていたという「首塚」の話を、ご紹介いたしましょう。