「仙太郎稲荷」から棟高の信号へ出ると、現三国街道の高崎-渋川線に合流してしまいます。
それも何か味気ない気がして、足門の名刹「徳昌寺」へ寄り道してみることにしました。
旧三国街道から外れて、中島川に沿って北へ進むと、道端に石仏が一体、ぽつんとおわしました。
何の気なくその奥の道を覗くと、白壁の建物と立派なお堂が目に入りました。
ただ、どうも個人の方のお庭のように見えますので、入り込むのを躊躇していました。
ちょうど、シルバー人材センターの方が数人、お庭の掃除をされていましたので、お尋ねしてみました。
「こちらは、個人の方のお庭なんですか?」
「そうですよ。すごいでしょー。」
「すごいですねー。このお堂もそうなんですね?」
「あー、そうだいね。だけど村の人はよくお参りに来てるよ。」
「あー、そうなんですか。じゃ、見させて頂いてもいいんですかね。」
「あー、いんじゃないかい。」
ということで、入ってみました。
いやー、立派なお堂です!
素人目にも、とても形の良いお堂です。
石段の下に、このお堂の建立由来が刻まれた石碑がありました。
「薬師如来は、十二の大誓願を発し、一切衆生の病苦を救い、光明を与えて種々の事業を成さしむ佛である。
当薬師は古来眼を患う人々から篤い信仰を受けてきたが、昭和二十二年(1947)農地解放により旧朱印領を失い、次第に境内地及びお堂の荒廃が目立ち、その復興に心を痛めていたところ、信心施主中澤昇翁の多額の浄財により、茲に薬師堂並びに浄域の再建と整備を見るに至った」
多額の浄財を提供したという中澤昇翁は、たぶん三益半導体工業(株)の創設者・中澤正朗氏(2001年逝去:80歳)のご父君と思われます。
渋川にある堂宮入秀(どうみやいりひで)社寺建築(株)のHPによると、現在の薬師堂は、平成十一年(1999)に中澤正朗氏の名前で建設されたことになっていますので、石碑にある話はそれ以前のことのようです。
石段を登ると、いくつもの石造物がありましたが、その中に「足門村発祥之地」と刻まれたものがありました。
本を開いたような形のモニュメントには、こう書かれています。
「足門の地名の起源
他人に問えば
足の御門(たらしのみかど)
御名そのもの」
「足の御門とわ 当薬師堂を建立なされました
第十二代景行天皇様の御事で 本名を
大足彦忍代別尊(おおたらしひこ おしろわけ
のみこと)と称され 日本武尊の御父君に当る
大王と云われる程の大器であったと伝えられる」
薬師堂の建つこの塚は、もともと古墳だったようで、地図にも「薬師塚古墳」と記されています。
古代の群馬郡は、豪族「車持君(くるまもちのきみ)」が住んでいいた所から、「車(くるま)郡」と呼ばれ、それが「群馬(くるま)郡」となって上野国府が置かれるほどの重要な地でした。
先のモニュメントに書かれていることも、まんざら伝説とも言えない気がします。
そんな由緒ある地名の、「群馬郡」も「群馬町」も、平成の大合併で消滅してしまいました。
石造物の中に、なんと「青面王(しょうめんおう)」と刻まれた庚申塔がありました。
あー、もう少し早く見つけていれば「三ツ寺堤」の庚申塔の謎が、もっと早く解決したのにと思いました。
その隣には、なぜか「小便小僧」がいます。
「しょうめん」と「しょうべん」の洒落でしょうか・・・?
薬師堂の近くに、ものすごく立派な土蔵が建っていました。
これも中澤家の土蔵で、薬師堂と同じく堂宮入秀社寺建築(株)の建設です。
平成十二年(2000)の建設ですが、ここまでくると、もう芸術です!
「徳昌寺」へ寄り道するつもりが、その前で引っ掛かかってしまいました。
ま、これが「さ迷い道中記」たる所以と、ご容赦願いましょう。
それも何か味気ない気がして、足門の名刹「徳昌寺」へ寄り道してみることにしました。
旧三国街道から外れて、中島川に沿って北へ進むと、道端に石仏が一体、ぽつんとおわしました。
何の気なくその奥の道を覗くと、白壁の建物と立派なお堂が目に入りました。
ただ、どうも個人の方のお庭のように見えますので、入り込むのを躊躇していました。
ちょうど、シルバー人材センターの方が数人、お庭の掃除をされていましたので、お尋ねしてみました。
「こちらは、個人の方のお庭なんですか?」
「そうですよ。すごいでしょー。」
「すごいですねー。このお堂もそうなんですね?」
「あー、そうだいね。だけど村の人はよくお参りに来てるよ。」
「あー、そうなんですか。じゃ、見させて頂いてもいいんですかね。」
「あー、いんじゃないかい。」
ということで、入ってみました。
いやー、立派なお堂です!
素人目にも、とても形の良いお堂です。
石段の下に、このお堂の建立由来が刻まれた石碑がありました。
「薬師如来は、十二の大誓願を発し、一切衆生の病苦を救い、光明を与えて種々の事業を成さしむ佛である。
当薬師は古来眼を患う人々から篤い信仰を受けてきたが、昭和二十二年(1947)農地解放により旧朱印領を失い、次第に境内地及びお堂の荒廃が目立ち、その復興に心を痛めていたところ、信心施主中澤昇翁の多額の浄財により、茲に薬師堂並びに浄域の再建と整備を見るに至った」
多額の浄財を提供したという中澤昇翁は、たぶん三益半導体工業(株)の創設者・中澤正朗氏(2001年逝去:80歳)のご父君と思われます。
渋川にある堂宮入秀(どうみやいりひで)社寺建築(株)のHPによると、現在の薬師堂は、平成十一年(1999)に中澤正朗氏の名前で建設されたことになっていますので、石碑にある話はそれ以前のことのようです。
石段を登ると、いくつもの石造物がありましたが、その中に「足門村発祥之地」と刻まれたものがありました。
本を開いたような形のモニュメントには、こう書かれています。
「足門の地名の起源
他人に問えば
足の御門(たらしのみかど)
御名そのもの」
「足の御門とわ 当薬師堂を建立なされました
第十二代景行天皇様の御事で 本名を
大足彦忍代別尊(おおたらしひこ おしろわけ
のみこと)と称され 日本武尊の御父君に当る
大王と云われる程の大器であったと伝えられる」
薬師堂の建つこの塚は、もともと古墳だったようで、地図にも「薬師塚古墳」と記されています。
古代の群馬郡は、豪族「車持君(くるまもちのきみ)」が住んでいいた所から、「車(くるま)郡」と呼ばれ、それが「群馬(くるま)郡」となって上野国府が置かれるほどの重要な地でした。
先のモニュメントに書かれていることも、まんざら伝説とも言えない気がします。
そんな由緒ある地名の、「群馬郡」も「群馬町」も、平成の大合併で消滅してしまいました。
石造物の中に、なんと「青面王(しょうめんおう)」と刻まれた庚申塔がありました。
あー、もう少し早く見つけていれば「三ツ寺堤」の庚申塔の謎が、もっと早く解決したのにと思いました。
その隣には、なぜか「小便小僧」がいます。
「しょうめん」と「しょうべん」の洒落でしょうか・・・?
薬師堂の近くに、ものすごく立派な土蔵が建っていました。
これも中澤家の土蔵で、薬師堂と同じく堂宮入秀社寺建築(株)の建設です。
平成十二年(2000)の建設ですが、ここまでくると、もう芸術です!
「徳昌寺」へ寄り道するつもりが、その前で引っ掛かかってしまいました。
ま、これが「さ迷い道中記」たる所以と、ご容赦願いましょう。
【足門の薬師堂】