「三ツ寺堤」から北へ700mほど行くと、保渡田(ほどた)~棟高(むなだか)への道に出ます。
そこから右折して棟高の信号へ向かうのが、旧三国街道です。
何の気なくYahoo!地図を見たら、「仙太郎稲荷神社」と書かれた所があります。
仙太郎というのが気になって、ちょっと寄り道したくなりました。
何の案内もない細い道を行くと、広い草地の中に、石とコンクリートの基礎の上にちょこんと乗った石祠があります。
Yahoo!地図に載っている位ですから、大きな神社を想像していたのですが、ちょっと拍子抜けでした。
しかも、基礎は最近作ったばかりのようで、本当にこれかい?という感じでしたが、近くの石板にはちゃんと「仙太郎稲荷神社」と刻まれています。
石板には、管理世話人の名前が列記してあり、平成二十年七月とあります。
まさに、できたてです。
石祠の正面にも「仙太郎稲荷大神」と刻まれており、側面には「明治三十七年十二月一日」とありますので、もとは古いものだったのですね。
そうなると、以前はどのような神社があったのか、気になって仕方がありません。
周囲の方にお聞きしてみたのですが、若い方や最近この地に来た方ばかりで、ご存知ありませんでした。
さて、ここから「仙太郎稲荷」の追跡です。
紆余曲折、様々な方のご協力があったのですが、決め手になったのは群馬図書館の方に探して頂いた写真でした。→
実は、群馬図書館なら、「仙太郎稲荷」が載っている郷土資料があるだろうと思って行ってみたのですが、見つからなかったのです。
司書の方も調べて下さったのですが、それでも見つからず、諦めました。
ところが、司書の方はそれからずっと調べてくれていたんですね。
翌日、「仙太郎稲荷とは書かれていないが、どうもそれらしいと思われる資料があった。」ということで、わざわざお電話を頂きました。
写真も載っているとのことでした。
そうなると、その写真に写っているのが本当に「仙太郎稲荷」かどうか、確認しなければなりません。
そこで思い浮かんだのが、石板に刻まれていた世話人のお名前です。
電話帳で調べてみると、ありがたいことに、ちゃんと載っていました。
その翌日、群馬図書館へ行ってお礼を言い、資料のコピーを頂いたその足で、電話帳で調べた世話人の方を訪ねました。
1軒目の方は不在、2軒目の方がちょうどご在宅で、写真を見てもらうと、
「あー、これそうだね。仙太郎稲荷だよ。」というお答えでした!
写真の載っていた、飯島富雄氏著「観音寺誌 祖徳流芳」(1991発行)によると、「西原の稲荷様」と書かれていて、
所在地 観音寺北中八幡街道
建立年月 明治三十七年(1904)十二月
建立者 観音寺区民
とあります。
さらに、
「観音寺の此の社は小高い丘の上に建てられてあるので、狐が穴を掘って住んでいたと云われ、最近までその狐の巣があったと云われている。
すっかり馴れっこになった狐は、お赤飯等、供へに行くと穴から出てくる。
あまり可愛いので、入れ物ごと与えて帰って来ると、食べ切った後、必ずその家の井戸端に入れ物を返しに来たとも云われているが、危害を加へないことが分かればこのように人間になつくものと思われます。」
と書かれています。
現在の「仙太郎稲荷」からは想像もできないような、メルヘンチックな場所だったんですね。
平成二十年の「仙太郎稲荷」整備の中心になった植木元治さんのお話によると、写真のお社は昭和二十三年(1948)か、二十四年に建てられたものだそうです。
その頃、この辺を襲った大型台風により、近くの観音寺の木が何本も倒され、そのヒノキの倒木を使って地元の大工さんが建てたということでした。
昔の人は、神様も、自然も、動物も、全て受入れて共生していたことが、よく分かる話です。
なぜ「仙太郎」という名前なのかは、とうとう分からず終いでしたが、その名前のおかげでいろいろな方とお会いでき、いろいろなことを考えることができました。
お世話になった方々、本当にありがとうございました。
そこから右折して棟高の信号へ向かうのが、旧三国街道です。
何の気なくYahoo!地図を見たら、「仙太郎稲荷神社」と書かれた所があります。
仙太郎というのが気になって、ちょっと寄り道したくなりました。
何の案内もない細い道を行くと、広い草地の中に、石とコンクリートの基礎の上にちょこんと乗った石祠があります。
Yahoo!地図に載っている位ですから、大きな神社を想像していたのですが、ちょっと拍子抜けでした。
しかも、基礎は最近作ったばかりのようで、本当にこれかい?という感じでしたが、近くの石板にはちゃんと「仙太郎稲荷神社」と刻まれています。
石板には、管理世話人の名前が列記してあり、平成二十年七月とあります。
まさに、できたてです。
石祠の正面にも「仙太郎稲荷大神」と刻まれており、側面には「明治三十七年十二月一日」とありますので、もとは古いものだったのですね。
そうなると、以前はどのような神社があったのか、気になって仕方がありません。
周囲の方にお聞きしてみたのですが、若い方や最近この地に来た方ばかりで、ご存知ありませんでした。
さて、ここから「仙太郎稲荷」の追跡です。
紆余曲折、様々な方のご協力があったのですが、決め手になったのは群馬図書館の方に探して頂いた写真でした。→
実は、群馬図書館なら、「仙太郎稲荷」が載っている郷土資料があるだろうと思って行ってみたのですが、見つからなかったのです。
司書の方も調べて下さったのですが、それでも見つからず、諦めました。
ところが、司書の方はそれからずっと調べてくれていたんですね。
翌日、「仙太郎稲荷とは書かれていないが、どうもそれらしいと思われる資料があった。」ということで、わざわざお電話を頂きました。
写真も載っているとのことでした。
そうなると、その写真に写っているのが本当に「仙太郎稲荷」かどうか、確認しなければなりません。
そこで思い浮かんだのが、石板に刻まれていた世話人のお名前です。
電話帳で調べてみると、ありがたいことに、ちゃんと載っていました。
その翌日、群馬図書館へ行ってお礼を言い、資料のコピーを頂いたその足で、電話帳で調べた世話人の方を訪ねました。
1軒目の方は不在、2軒目の方がちょうどご在宅で、写真を見てもらうと、
「あー、これそうだね。仙太郎稲荷だよ。」というお答えでした!
写真の載っていた、飯島富雄氏著「観音寺誌 祖徳流芳」(1991発行)によると、「西原の稲荷様」と書かれていて、
所在地 観音寺北中八幡街道
建立年月 明治三十七年(1904)十二月
建立者 観音寺区民
とあります。
さらに、
「観音寺の此の社は小高い丘の上に建てられてあるので、狐が穴を掘って住んでいたと云われ、最近までその狐の巣があったと云われている。
すっかり馴れっこになった狐は、お赤飯等、供へに行くと穴から出てくる。
あまり可愛いので、入れ物ごと与えて帰って来ると、食べ切った後、必ずその家の井戸端に入れ物を返しに来たとも云われているが、危害を加へないことが分かればこのように人間になつくものと思われます。」
と書かれています。
現在の「仙太郎稲荷」からは想像もできないような、メルヘンチックな場所だったんですね。
平成二十年の「仙太郎稲荷」整備の中心になった植木元治さんのお話によると、写真のお社は昭和二十三年(1948)か、二十四年に建てられたものだそうです。
その頃、この辺を襲った大型台風により、近くの観音寺の木が何本も倒され、そのヒノキの倒木を使って地元の大工さんが建てたということでした。
昔の人は、神様も、自然も、動物も、全て受入れて共生していたことが、よく分かる話です。
なぜ「仙太郎」という名前なのかは、とうとう分からず終いでしたが、その名前のおかげでいろいろな方とお会いでき、いろいろなことを考えることができました。
お世話になった方々、本当にありがとうございました。
【仙太郎稲荷神社】