2010年07月09日

「あん」でつながる新町宿

いつだったか、紫文師匠から聞いた、お薦めの饅頭。

新町(しんまち)・旧中山道沿い、酢屋(すや)製菓さんの「みそまんじゅう」です。

新町図書館へ行った帰りに思い出して、買い食いをしちゃいました。

紫文師匠のお薦めだけあって、皮の味噌味と白あんの甘さが口の中で行ったり来たりする、面白い美味しさが楽しめます。

この酢屋製菓さん、ご主人にお聞きすると、創業100年くらいだとか。

もともと、近くでの醸造を業としていたのですが、故あって先々代が饅頭屋に転業し、屋号は「寿」の字を使って「寿屋(すや)製菓」としたのだそうです。

ところが、誰も「すや」と読まずに
「ことぶきや」と読むので、「酢」の字に改めたのだそうです。

今のご主人は、若い頃、八島町にあった梅玉堂で修業されたそうで、昔の高崎駅界隈をよくご存知でした。

写真を撮るのがお好きだったとかで、昔懐かしい高崎駅舎の写真などが店の奥に飾ってありました。

いつかゆっくり、昔の写真を拝見しながら、お話を伺いたいものです。

酢屋製菓さんの前には、平成六年(1994)完成の行在所(あんざいしょ)公園があります。

パーゴラの天井には、昭和五十二年(1977)制定の町民憲章に因み、「明るい家庭」「福祉」「文化」「希望」「人間性」「住みよい町」の言葉が刻まれています。

行在所の庭園入口には、「新町道路元標」があり、塀には安藤(歌川)広重「木曾海道六十三次 新町」の浮世絵風景画が嵌め込まれています。
中山道新町宿を強く意識していることが窺えて、嬉しい気持ちになります。

明治天皇御一行が新町に一泊するという内示があったのは、巡幸の1年前でした。

新町の全役員で協議した結果、旧本陣の久保栄五郎宅を行在所として願い出たのですが、その場所が宿場の西端であったことから、警護上の問題が有り、また建物も狭過ぎるとして却下されてしまいます。

そこで、戸長の高橋均作氏が、町の中央部にある宅地300坪ほどを提供し、そこに新築することとなったのです。
建設費は788円でしたが、その調達に苦慮し、県に陳情して550円を借り入れ、残りは全町からの浄財を充てました。

明治天皇は、この時の北陸・東海御巡幸に際して、迎える側が無駄な費用をかけぬよう、次のような太政官示達を出していました。(抜粋)

1.御巡幸は親しく地方民情の視察であるから、虚飾等に流れて、人民の困苦迷惑にならぬようにすること。
2.道路、橋等止むを得ざるもののみを新造または修理を加うることがあっても、すべて官費として、決して人民の難儀にならぬようにすること。
3.行在所はその地方により、いかようであっても差支えない。特に修繕を加えぬよう、且つ社寺をこれに充てても苦しくない。ただし、行在所より約十町内外離れた場所に非常御立退きを定めておくこと。
4.御膳部一式、椅子テーブル等すべて持参する。別に用意せぬよう。

そのため、新町では「行在所」を新築したということが言えず、ここを「羈客所(きかくじょ)」(馬を繋ぎとめる所)と呼称することにしました。

この御巡幸に際して、実質的に行在所を新築したのは、新町だけだったといいます。

酢屋製菓さんの奥様が、「中を見てみますか?」と仰って、鍵を開けてくださいました。

思っていたより、ずっと質素な造りだったのに驚きました。
華美にならぬよう、つとめたことが良く分かります。

因みに、明治天皇はこの部屋にハンモックを吊るして寝たのだそうです。
何でも、床下からの刺客から身を守るためだとか。
明治十一年、まだまだそういう時代だったのですね。

3月になると、新町行在所「新町ひなまつり」のメイン会場になります。
創業100年の酢屋製菓さんにも、お雛様が飾られます。

ところで、タイトルの「あんでつながる・・・」は、お分かりだったでしょうか。
みそまんじゅうの「あん」、行在所の「あん」、安藤広重の「あん」なんですが・・・。

(参考図書:「新町明治百年史」「群馬歴史散歩 新町」「小さな町の物語 新町」)

【酢屋製菓】

【新町行在所】


  


Posted by 迷道院高崎at 05:54
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2010年07月11日

むかし遊女で いま稲荷

新町行在所(しんまち・あんざいしょ)の細道を入っていくと、「於菊(おきく)稲荷神社」があります。

お菊さんは新潟の貧農の娘で、宝暦年間(1751~63)に、新町宿の妓楼・大黒屋の娼妓(遊女)をしていました。

美貌で気立ての良いお菊さんは、新町随一の売れっ妓でしたが、ふとした風邪をこじらせて、足腰が立たない程の重病となってしまいます。
すると、大黒屋の待遇は一変し、行燈部屋に寝かせるという冷たい仕打ちをするようになりました。

同情した町の人は、稲荷神社の裏に小屋を建ててお菊さんを住まわせ、交替でその看病にあたったといいます。
ある夜、お菊さんの枕もとにお稲荷さんが現れると、病は奇跡的に全快します。
お菊さんは、その恩に報いるため稲荷神社の巫女となるのですが、ある時から、作物の出来具合や人の吉凶、失くし物のありかまで様々な事を言い当てるようになります。

そこから、誰言うともなく「於菊稲荷」と呼ぶようになったのだそうです。

「於菊稲荷」は、参道に並ぶ多数の鳥居が有名ですが、昭和三十六年(1961)までは、ここに随身門が建っていたのだそうです。
老朽化により倒壊しそうだったが、修繕費がないので取り壊したということです。
文政六年(1823)の建物で、県内最大のものだったそうですから、惜しいことをしました。

随身門の左手前に写っているのが、同じ文政六年に建てられた水屋です。

総欅、入母屋造りの重厚な水屋で、瓦屋根、彫り物も一見の価値ありです。



この石水盤が、また凄い!→
唐獅子牡丹が、「冰香」(ひょうこう)と刻まれた水盤を支えています。
「冰」「氷」のことだそうですから、「氷の香り」ですか?
よく分かりませんが、「無」になって祈りなさいということなのでしょうか。

狛犬ならぬ、狛狐がユニークです。

背中に子供を乗せてたり、足で押さえつけてたりしてます。(抱いてるのかな?)

狛犬が暇そうにしているのが、また笑えます。

本殿の右には、比較的新しく作られたと思われる「聖徳太子堂」があり、その左には「白狐塚」があります。

もともとこの稲荷神社は、天正十年(1582)神流川合戦の際、白い狐が現れて北条氏が勝利を収め、これに感謝して社を構えたと伝えられています。
そのため、神社には土焼の白狐が多数納められ、そのかず数千にもなったといいます。
壊れるものも多く、それをまとめて埋めたのが「白狐塚」なのだそうです。

本殿の裏に回ったら、草むらでの家族が和やかに暮らしていました。

まるで、野外ステージの人形劇のように、そこだけスポットライトが当たっていました。

不思議空間、「於菊稲荷神社」でした。

そういえば、帰りがけに「ハイツ大黒屋」というアパートがあったんですけど、これ、お菊さんとは関係ないんですよね、きっと。


(参考図書:「新町明治百年史」「群馬歴史散歩・新町」「小さな町の物語・新町」)


【於菊稲荷神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:32
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2016年12月25日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(1)

今日は「史跡看板散歩」をちょっとお休みして、「幸運を呼ぶ道標」のお話をいたしましょう。

先日、ブログにこんなコメントを頂きました。


コメントを頂いた時点では伏字にいたしましたが、新町(しんまち)にお住いの大野一美さんに早速お電話を差し上げました。
すると、高崎学博士福島長治さんから「左道通行の石柱のことをブログ記事にしている人(迷道院)がいる」と聞き、ぜひ会いたいのだというお話でした。

もう7年も前に書いた「消えた一里塚」という記事のことで、「左道通行」という石柱が写っている写真というのがこれです。


もう少し大きく写っているのがこちらです。

記事の中でも書いたのですが、この道標は昭和二十五年(1950)頃撤去されたということまでは、「高崎市史民俗調査報告書第七集 倉賀野町の民俗」に記載されています。
しかし、撤去された後どうなったのかは、おそらく報告書をまとめた方にも分からなかったのでしょう。

それが、新町(しんまち)の某所に残っているという話なんですから、驚きです。
すぐに大野さんをお訪ねし、保管場所に案内して頂きました。
それは、ある施設の一角にブルーシートで覆われていました。


その日は休日で中に入ることができなかったので、後日改めて施設の了解を得て写真を撮らせて頂きました。


倉賀野松並木の中央分離帯に設置されていた時、自動車が何台もぶつかったと言われていますが、たしかに道標は満身創痍という感じに古傷が刻まれています。

それにしても、昭和二十五年頃撤去された倉賀野松並木の道標が、なぜ今ここに残っていたのでしょう。
それは、奇跡とも幸運ともいえる物語があったのです。
次回、詳しくお話いたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
Comments(4)新町(しんまち)◆高崎探訪

2017年01月01日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(2)

明けまして おめでとうございます。
今年も「隠居の思ひつ記」、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。

さて、新町(しんまち)に残っていた道標、「左道通行」の続きです。
その情報を発信して下さった大野一美さんは、新町(しんまち)にある專福寺の総代をなさっています。
今年のある日、総代の方々が專福寺に集まって会合をしていた時、神流川橋たもとにある解体中のメッキ工場・メテック関東跡地の話題になりました。

その時、むかし建設省に勤めていたことのある方から、こんな話が出たそうです。
「そういえば、メッキ工場の角に建ってる石柱は、たぶん、むかし倉賀野の中山道に建ってたやつだと思うよ。」

もともと歴史に大変興味のある大野さんは、すぐに現地へ行き、このままでは取り壊されてしまうに違いないと思いました。
そこで、次のような文書を作成して、倉賀野町近在に住む歴史家に送ったのです。


しかし何らの動きもないまま三ヶ月が過ぎ、再び大野さんが現地へ行った時には、すでに更地となった工場跡に石柱はありませんでした。

現地に案内して下さった大野さんは、「この角に建ってたんですよ。」と教えてくれました。


撤去されたのは最近なので、もしやと思ってGoogleのストリートビューを見たら、写ってました!


幸運だったのは、工場解体にあたった業者が、この石柱は何か謂れのあるものではないかと思って、その処分方法を新町支所に問い合わせてくれたことでした。
それを受けた支所の担当職員が、これはやたらに廃却すべきものではないと思ってくれたのもまた幸運なことでした。

思えばこの道標、設置以来、実に幸運続きの人生(?)であったのです。

←大正九年(1920)の中山道上正六付近。
道の両側には杉と松の並木がありました。




昭和七年(1932)南側に新しい道路が作られて、南側の並木はそのまま中央分離帯となり、その高崎側と倉賀野側の二ヶ所に「左道通行」の道標が建てられました。

当時はまだ自動車の数も少なく夜間の照明もありませんでしたから、暗い道の真ん中に立っている道標には、よく自動車がぶつかったそうです。
高崎側に建っていた道標は修復不可能なほど破損して撤去され、倉賀野側だけが幸運にも残りました。

「倉賀野町の民俗」によると、
昭和二十四、五年(1949、1950)頃に、夜半出動した消防自動車が標識にぶつかり、死者、けが人が出る事故があった。
この頃には交通量も多くなっていて、この時以降、並木と標識は取り除かれ、広い一つの道になったといわれる。」
とありますが、大野さんは「昭和三十二年(1957)~三十三年頃まで建っていたと聞く。」と仰り、上正六にお住いの須永志嘉夫さんは「昭和三十七年(1962)頃撤去された。」と仰っています。

いずれにしても、その時この道路を管轄していたのが高崎ではなく新町(しんまち)の建設省であったことから、撤去された道標は建設省新町工事事務所に引き上げられたという訳です。
もしかすると、これも幸運だったのかも知れません。

引き上げられた道標は、いつの時点かは不明ながら、建設省から松浦メッキ工場そしてメテック関東となる敷地の東南角に建てられます。
その理由も不明ですが、もしかするとコーナーの目印としてか、あるいは建物のガード石として用いられたのか。
理由はともあれ、それによって現在まで残ったことは、幸運というほかありません。

今回の工場解体にあたっても、たまたまそれが專福寺総代会で話題になったこと、総代の中に道標のことを知っている人がいたこと、それを聞いたのが歴史好きな大野さんであったこと、解体業者が支所に問い合わせたことなど、いずれも奇跡のように幸運がつながってのことです。

こう見てくると、この道標自身が、その幸運を呼び寄せていたのではないかとさえ思えてきます。
あるいは、「元あった場所に戻りたい!」と一所懸命訴えていたのかも知れません。


迷道院としては、上正六の元あった場所の近くに戻し、この道標にぶつかり命を落とした方の供養塔として、またこの道標自身の幸運にあやかって、「幸運を呼ぶ道標」として高崎の一名所にしたらと思うのですが、皆様はいかがお思いでしょうか。

2017.1.6 追記
知人でブロ友の”いちじん”さんからコメントを頂戴し、ご尊父とその友人が「左道通行」の道標のところで撮影したという写真を送って頂きました。
見ると、道標には傷一つなく文字も黒々としていて、建ててまだ間がない頃の写真と思われます。
ご尊父(前列左)の卒業アルバム(昭和十三年)に載っていた写真だそうです。
ご提供、ありがとうございました。



【「左道通行」道標が元あった場所】



  


2018年03月25日

史跡看板散歩-86 弁天島の芭蕉句碑

旧柳瀬橋を渡って、中島(漆の内)の信号を左へ入るのが、旧中山道です。


そこから2.7kmほど行った所に、温井川(ぬくいがわ)に架かる「弁天橋」があります。

「弁天橋」の名の通り、右手上流側の橋下に「弁財天」が祀られています。


鳥居の手前に、「弁財天由来」の説明版が建っています。


現在は川岸のこの場所は、看板にあるように以前は川の中州だったようです。
寛政十一年(1799)に実地検分され文化三年(1806)に完成されたという「五街道分間延絵図(ぶんけん・のべえず)」のひとつ、「中山道分間延絵図第四巻 本庄・新町・倉賀野」を見ると、たしかに中州です。


「芭蕉句碑」と史跡看板は、鳥居を潜った左手に建っています。



句碑に刻まれた文字は、看板とはちょっと異なるようです。


一行目の「はせを」は、「ばしょー」つまり「芭蕉」です。
句の意味は、
「結ぶ(水をすくう)より早く、冷たさが歯に沁みるような泉だなぁ」
ってな感じでしょうか。

「泉」というのが夏の季語だそうですから、夏の焼けつくような熱さの中、延々と街道を歩いてきての句なのでしょう。
もちろん、この場所で詠んだ句ではないでしょうが、川の中州の「弁天島」の木陰に建てる碑としては、よくもぴったりの句を選んだものだと思います。

この句碑を建てた久保一静は、新町宿に二軒あった本陣のひとつ「久保本陣」の当主で、名主役も務めていました。
文化九年(1812)生まれで、幕末から明治にかけて地方の俳人として活躍し、明治二十七年(1894)八十四歳で没しています。(「小さな町の物語 新町」「中山道分間延絵図 第4巻解説」)

「弁財天公園」の街道の反対側に、こんなモニュメントが建っています。


その由来を書いた看板が、隣に建っています。


看板の字はやや風化して読みにくくなっていますが、モニュメントの裏側には同じ文がしっかり刻まれていますので、いつまでもその意義が伝えられていくでしょう。

歴史を大切に残していこうという、新町という町の文化度の高さが感じられます。


【弁天島の芭蕉句碑】



  


2018年04月01日

史跡看板散歩-87 新町宿小林本陣跡

前回の「弁天橋」から東へ125mほど行った所に、今回の「小林本陣跡」があります。
この辺から見る風景は、なんとなく往時の中山道を偲ばせるような、いい雰囲気を漂わせています。


史跡看板は、昭和五十年(1975)に建てられた標柱の隣に建っています。



看板に「小林本陣」の間取図が掲載されていますが、「新町町史」には裏門まで描かれた図が載っていました。


「小林本陣」は建坪135坪余で門構えと玄関を備え、もうひとつの「久保本陣」は建坪42坪で玄関だけ、「三俣脇本陣」も玄関だけでしたが建坪は126坪あったそうです。
(中山道分間延絵図 第四巻解説)

「中山道分間延絵図」を見ると、「脇本陣代」というのもあったようで、二軒描かれています。
「本陣」「脇本陣」だけでは賄いきれない時に、臨時的に大きな旅籠屋をあてたのではないかということです。


平成七年(1995)発行の「上州路 No.251」には、「天保十四年(1843)書上帳」による、いわゆる「中山道上州七宿」の各宿の規模が一覧で掲載されています。
これを見ると、新町宿の旅籠数は、倉賀野宿よりも多かったんですね。
宿本陣脇本陣旅籠人口
新  町21431,437
倉賀野12322,032
高  崎00153,235
板  鼻11541,422
安  中1217348
松井田22141,009
坂  本2240732

新町宿の旅籠の多さは、街道の東西を神流川温井川、そして烏川が横断し、ちょっとした大雨で川が渡れなくなることが多かったこととも関係しているのでしょうか。

温井川烏川の合流点近くの林の中に、明治四十三年(1910)の大洪水を伝える記念碑が建っています。



原文は漢字ばかりで読みにくいので、「新町町史」に載っている要約文に頼りましょう。
此の地は烏川の本流に臨み天神川岸と呼ばれ、新町随一の要害の地であったが、弘安年間に(1278~1287)住民の夢枕に、虚空蔵菩薩が現れ、洪水の難から守るため汚れのない地域を此処に求めて祠り治水の工事を施せと宣託あり、住民は謹んで虚空蔵菩薩を勧請した。
この時は実に今から640年前であると刻している。
明治四十三年(1910)七月下旬より大雨が連日にわたりやまず、八月十日怒涛は土をまきおこし、大地は海の黄色の龍の如く、大波は渕に強く当たってくだけたが、虚空蔵の地は崩壊をまぬかれ、町民は安泰であったのは正に、これは虚空蔵菩薩の加護によるもの、仏徳の深きこと測り知ることが出来ぬと、世話人が謀って再興を企て、有志の寄附を仰いで境内の荒廃を修理し、大正八年三月十三日に尊像を建立した。」

川に挟まれた新町宿を水の禍から護る「虚空蔵菩薩」は、いまも散歩の途中にお参りしている人の姿を見かけます。



歴史は、つながっているのですね。


【小林本陣跡】


【虚空蔵堂】



  


2018年04月08日

史跡看板散歩-番外編 小判供養塔

「小林本陣跡」のすぐ南に、「宝勝寺」というお寺があります。


このお寺の境内に、「小判供養塔」というのがあるというので行ってみました。

それは、「八幡神社」との境、南の角にあり、まさに小判の形をしています。


右側面には「昭和四年八月十五日發掘/小判三九六枚/一分百三十三枚」とあり、左側面には「金壹百圓也/當町助成會寄附」、そして施主四人の名前が刻まれています。

これは新町のある家の庭から、小判396枚と一分銀133枚が発掘されたというのが、事の始まりでした。
この事件(?)は、翌日の東京朝日新聞に二段抜きの見出しで伝えられています。


地元の上毛新聞は、一日遅れの17日夕刊に、ほとんど同じ内容で掲載しています。
ま、さすが地元新聞で、東京朝日の「藤枝署」という誤りを、きちんと「藤岡署」と直してはいますが。


小判が出てきたというお菓子屋さんはもうありませんが、どうやらこの辺にあったようです。


新聞に載ったことで、大騒動になります。
昭和四十八年(1973)に発行された「新町明治百年史」で見てみましょう。
当時国内は不景気の真最中、各新聞紙は3~4段ぬきで報じ、各新聞とも地方版だけでなく、全国版にも登載した。
そのためか今まで行先不明の旧地主や、旧借家人まで、数日を過ぎぬうちに集った。
町の人達は小判の発見にもびっくりしたが、よくもこんなに早くこの人達が集まったものだと驚いた。
結局警察署が中に入り、小判を配分して納まった。
この人達は小判供養塔を作って宝勝寺に供養建立した。」

当時は、地下三尺以上深い所から発掘されたものは、地主と発見者の権利ということになっていたそうです。
(小さな町の物語 新町)
一万円を手にした人たちが、百円の供養塔を建立したということですね。

騒ぎはこれで収まったのですが、そもそもこの金はどういう金だったのかということです。
「こんな大金を、当時の町人たちが持てるはずがない。」
(新町町史)
「この家は、徳川時代、岡引某が住んでいた。真面目に貯えた金なら、己の家の床下にでも埋めそうなものを、庭のしかも隣家との境目に埋められていたとは変だ。」
(新町明治百年史)

様々な噂の中で、もっともらしく語り伝えられているのが、新町宿で盗まれた加賀藩の御用金ではないかという話です。

「新町明治百年史」に載っています。
享和元年(1801)九月二十一日、金沢百万石前田侯の勘定方、土師清太夫一行が御用金を江戸に護送中、新町宿久保本陣に宿泊した。
一行の主なる役人もあと三日で江戸に着く。
やれやれ一休みと清太夫に連れられ、笛木宿のある茶屋で一杯やっていたところ、一家臣が顔色を変えて注進、御用金の内盗難で失ったものありと聞いて、清太夫は切腹した事件があった。
盗難の金高は何程か不明、いや盗難も金高もすべて一切がなかったように固く口止めされた。
急ぎ国元からこの不足分を取りよせ江戸に送り、表面は事なきを得た様だ。
切腹した勘定方は、笛木宿浄泉寺に土葬、(略)
当時の浄泉寺古文書には「遺品に御かご一丁、大小刀一振づつ、石高五百石、浄泉寺表門傍らの家にて急死す。大小を売り埋葬、小刀は笛木宿の某氏が買いたいと持参して返金なし」と記録されてあるのみ。」

たしかに、「浄泉寺」の本堂左脇には、土師清太夫の墓石があります。




戒名は「高智院殿勇雄義仰居士」、左側面には「加州金澤/土師清太夫㕝(こと)、右側面には「享和元年酉年九月廿一日」と刻まれています。

さて、「小判供養塔」のミステリー、あなたはどう解きますか?


【小判供養塔】


【土師清太夫の墓】



  


2018年04月15日

史跡看板散歩-88 高瀬屋跡

「小林本陣跡」から200mほど行くと、小林一茶が泊まったという旅籠「高瀬屋」があった場所です。



史跡看板の隣には、立派な石の説明板が建っています。


双方によって原文と解読文が読み比べられるので、なかなか面白いです。
裏面には、「建碑の記」というのが刻まれています。


それを見ると、「最近まで旅籠屋の姿を遺していた」とあります。
探してみると、平成元年(1989)発行の「新町町誌」に、かろうじてその姿が載っていました。


一茶「七番日記」というのは文化七年(1810)~十五年(文政元年/1818)に書かれた日記で、その中に、父の墓参のために江戸から故郷の信州柏原へ行く途中の、「高瀬屋」でのエピソードが記されています。

一茶江戸を発ったのは文化七年五月十日、一茶、四十八歳の時です。
新暦では六月なので、梅雨時の天気を見ながら延ばし延ばしの出立だったようですが、結果は「災いの日を選りたるよう也」と嘆いています。
出立したその日に上尾でさっそく雨にあい、合羽を買ってさらに歩いて鴻巣宿で一泊します。

江戸日本橋から鴻巣宿まで12里8町6間(約48.0km)ということですから、かなり頑張って歩いたんですね。
翌十一日も雨で、その中を鴻巣宿から新町宿まで11里22町34間(約45.7km)の距離を歩いています。
本当は、倉賀野宿くらいまで行きたかったんですかね。

それほど頑張って歩いてきたのに、雨で川留めにあい、「道急ぐ心も折れて」と言っています。
そのうえ、「雨の疲れにすやすや寝て」いたら、「夜五更(よるごこう)のころ」にいきなり起こされて寄附をせがまれたというんですから、さぞかし、むっとしたことでしょう。

史跡看板では「夜五更」「午前四時」と言っています。
そんな真夜中にと思っちゃいますが、少し解説が必要だと思いますので、ちょっと理屈っぽい話になりますがお付き合いください。

江戸時代の人は、暗くなれば「夜」、明るくなれば「朝」という暮らしでそれほど不便はなかったのでしょうが、宿場ではそうもいきません。
木戸の開け閉めや、夜番の見回りがあるので、その時刻をはっきりしておく必要があります。

そこで、夜を「暮れ六つ」の鐘で、朝を「明け六つ」の鐘で知らせていました。
そして、その「夜間」を5等分して「更」とし、「更」ごとに夜番が交替して拍子木を打ちながら夜回りしていた訳です。
「交替」という字を替」とも書き、「夜がふける」「夜がける」と書くのも、この「更」からきているのでしょう。

ということで、「更」というのは、何時から何時までというをもっている訳です。
しかも季節によって「夜」の長さは変わりますから、5等分した長さも時刻も季節によって変わりますので、「夜五更」を一概に「午前四時」とは言えないのです。


では、一茶「高瀬屋」に泊まった時の「夜五更」は何時から何時なのでしょう。
一茶が泊まった旧暦の5月11日は、新暦では6月初旬から中旬、この頃の日の入りは午後7時、日の出は午前4時半ぐらいです。(国立天文台「前橋の日の出入り」より)

ただ、「暮れ六つ」の鐘は日の入りから30分後くらい、「明け六つ」の鐘は日の出の30分前くらいに撞くといわれています。

ですので一茶「高瀬屋」に泊まった時は、「暮れ六つ」が午後7時半、「明け六つ」が午前4時ということになります。
この間を5等分すると、5番目の更、「五更」は、「午前2時18分~4時」となります。

さて、一茶は、その間の何時ころ起こされたんでしょうか?

ここからは迷道院の推測ですが、一茶「明け六つ」の鐘を聞いてないんじゃないかと思うんです。
聞いていれば、「五更のころ」なんて言わずに、「明け六つ前」とか「明け六つの頃」とか言ってるでしょうから。

じゃ、「明け六つ」前に押し掛けてきたんでしょうか。
それはいくら何でも、それはいくら何でも、ご容赦下さいです。

おそらくですが、「明け六つ」の鐘が鳴るのを待って、ただし宿を早立ちされる前に、やって来たんだと思うんです。

きっと一茶は、「明け六つ」の鐘が鳴ったのも気付かぬほど疲れて眠っていたんだと思うんですが、みなさんどう思います?

ところで、一茶を起こしに来た連中は、なぜ「専福寺」の提灯を持っていたのでしょう。

そのお話は、次回ということに。


【高瀬屋跡】



  


2018年04月22日

史跡看板散歩-89 見通し灯籠

前回、「高瀬屋」に泊まった小林一茶のエピソードを記事にしましたが、その話に出てくる灯籠が、新町宿の東外れに建っています。


史跡看板は、そのすぐ脇に建っています。


看板の後半に書いてありますが、この灯籠は「専福寺」の住職が発願人となって再建されたものです。
それで、一茶に寄附をせがんだ男が「専福寺」の提灯を持っていたという訳です。

また、看板には「常夜燈が再建されたのは文化十二年」と書かれていますが、その後この灯籠は他の地へ売却されてしまったため、今建っている灯籠は昭和五十三年(1978)に再び復元されたものです。
その辺のことが、足元の石碑に刻まれています。


後半の部分です。
然し時流の転変は激しく、明治二十四年に髙崎市大八木村へ移されてしまった。
その後新町の有志達は、之を惜しみ幾度か復帰の交渉を重ねたがその熱意は報われなかった。
多野藤岡ライオンズクラブは創立五十周年の記念行事として見通灯篭の再建を企て、灯篭を原形に復し、再び交通安全のシンボルとし、かつは古き新町宿を偲ぶべく原地に近い国道十七号線の要所に建立して長年の要望を実現された。」

なぜ灯籠が大八木村へ移されたのかは記されておらず、表現も微妙にぼかしてる感じです。

相手方の大八木村にはもう少し詳しい話が残されていて、昭和三十二年(1957)発行の「中川村誌」の中に、こんな記述があります。
大八木の部落の中心点から、村の鎮守諏訪神社の参道入口に、屹立二十尺近い石造の高燈籠がある。
これが、先年多野郡新町から腕節の強い連中が一団、トラックで乗付て来て強談判をしたという、一茶・詩仏両大家と因縁のある、元上武国境中山道新町川原の北岸に建っていた見通し燈籠(燈台)で、浮世絵の大家渓斎永泉の木曽路道中絵にまで描かれた交通史上の貴重な文化財だったのである。(略)

一体そのような新町宿の文化財がどうして本村に来てるのかというと、それは明治廿四年の話、大八木で石燈籠が欲しいことがあり、人の噂に新町に廃物があるときいて、正常のルートを経ずに、一種のボスの手から包金で買って来た掘出し物、金毘羅大権現や文化何年は削り取って、六尺近い切石積の台上に据えると実に堂々たる威容。

今では火袋の中に電燈を引込んで、文字通りの常燈明台として村人の暗夜行路を照らしてる訳。
最近郷土意識熱が高まるにつれて、新町の文化人がこの燈籠に強い執着をもつに至ったのも尤もなことであろう。」

これが、大八木に移されたかつての新町宿「見通し燈籠」、現在は諏訪神社参道入口の「高燈籠」です。


たしかに大八木「高燈籠」には、文字を削り取った痕跡があります。


それにしても、こんな貴重な「見通し灯籠」が、なぜ新町で廃物になっていたのでしょう。

そのことについては、昭和四十六年(1971)発行の「新町明治百年史」に、こう書かれています。
明治2年、岩鼻県は神社に廃仏命令を伝える。
群馬県令では、道路わきの信仰物撤去と、民間信仰の禁止も命じた。
このため神社に祭られた仏教系の仏像なども、全部撤去され焼去された。(略)
中山道の道路に建てられてあった新町宿の見通し燈籠も、当時の人達は県令により取くづし、畑の端にでも積み重ねておいたものと思われる。

明治となって欧米崇拝の全盛期を控え、文明開化で洋風を積極的に取り入れようとして英文学が盛んな時代、和歌・俳諧などはあまり顧みられない。
俳人一茶も一般にまだ知られていない。
見通し燈籠には一茶の名は見えぬ。
一茶の七番日記を見なければ、新町宿の見通し燈籠と一茶の関係はわからない。

俳人一茶を知らない、その七番日記も見なかったらしい当時の人達が、見通し燈籠を現今さわがれている程の貴重な文化財と知る由もない。
全く知らなかったので、明治24年金20円で石原の石工とかに売却したものと思う。」

新町の人も大八木の人も、一茶ゆかりの石灯籠とは知らずに畑に放置し、売り飛ばし、文字を削り取ったのだろうという訳です。
知らなければ、そんなもんでしょうね。

それでも、物を使い回す文化が残っていた時代だから、まだよかったのだと思います。
今だったら、跡形もなく粉砕されてお終いだったでしょう。

「高崎市名所旧跡看板」によって高崎の歴史を知る人が増え、貴重な史跡がこれ以上失われることがないよう、願ってやみません。


【見通し灯籠】


【大八木高燈籠】



  


2018年04月29日

史跡看板散歩-90 於菊稲荷神社

春爛漫の「於菊(おきく)稲荷神社」です。(撮影:4月2日)


史跡看板は、一の鳥居の脇に建っていますが、ほかの史跡看板とはだいぶ趣きが異なり、神社の由来など書かれていません。


ここには8年前に訪問して記事を書いており、その中で簡単に由来も書きましたので、そちらをご覧ください。
  ◇むかし遊女で いま稲荷

その時から見ると社殿も新しくなり、随分ときれいになりました。


8年前、裏庭に住んでいた狐のファミリーも、表の「狐塚」前に引っ越して勢揃いです。


様々な願いが書かれた絵馬がずらーっと掛けられていて、たくさんの老若男女が訪れていることがわかります。


地域の人達にも愛されているようです。


「神楽殿」の隣に新しく造られた「御朱印受付所」は、ぜひ寄り込んで頂きたいところです。


御朱印やお守りももちろん頂けますが、中には貴重な宝物がたくさん展示されていて、小さな博物館のようです。
以前は見られなかった絵馬額や、蔵の中にずっと眠っていた新発見のお宝など、間近で見ることができます。

宮司さんがとても親切な方で、本には書かれていないような興味深い話を聞かせてくださいます。
私は、以前から気になっていた、境内の「於菊稲荷神社中興之神職 高橋宇吉翁寿碑」についてお尋ねしてみました。

高橋宇吉翁は、多野郡の「万場八幡宮」の神職でしたが、明治の初め、「於菊稲荷神社」の神職として新町へ来たのだそうです。

「於菊稲荷神社」は、文化・文政の頃に最も栄え、参詣の鈴の音が止むことがなかったといいます。

しかし、明治の神仏分離令により、別当寺の宝勝寺と切り離されてから荒廃していきます。

そんな中、宇吉翁は「通力自在」という、今でいえば高島易断の暦のようなものを発行し、これが評判となって神社経営に大きく寄与したとのことです。

また、新町という枠を超えた多くの人士との交流により、地域の発展にも大いに貢献したということで、人々はその功績を称えて、あのように大きな碑を建てたのだそうです。

ところで、本題とは関係ないのですが、神社のすぐ近くに、どれだけワンちゃんが好きなんだろう、というお家がありました。


とにかく、外壁にはワンちゃんの写真、地面やフェンスの上下にはワンちゃんの置物が、これでもか!ってほど飾られています。

ふと見ると、それに混じって迷道院の作った「上州弁番付表」も、貼って頂いてるじゃありませんか。


これは、光栄なことです。
ご挨拶をしたかったんですが、あいにくお留守のようでした。
いつかまた、お会いできたら嬉しいなと思っております。
ありがとうございました。


【於菊稲荷神社】



  


2018年05月06日

史跡看板散歩-91 新町宿高札場跡

「ハラダのラスク」発祥の中山道店の斜向かいに、同店の駐車場がありますが、そこに「高札場跡」の史跡看板が建っています。



看板に「高札場」の写真が載っていますが、これは新町宿のものではなさそうです。
たぶん、信州・追分宿のものだと思うのですが、注釈を付けておかないとまずいのではないでしょうか。

史跡看板が建てられる前にも、「高札場跡」を示す標柱は建っていたのですが、民家の敷地内でした。


その標柱もあたらしくなっていますが、前あった標柱には高札場の大きさが、
 高さ一丈二尺(約4m)
 長さ三間(約5.5m)
 巾一間(約2m)
と記載されています。
追分宿の高札場は、
 高さ九尺(約2.7m)
 長さ九尺(約2.7m)
 巾一間(約1.8m)
だそうですから、
新町宿のはけっこう大きかったんですね。

「中山道分間延絵図」に、新町宿「高札場」が描かれています。


「高札場」の左側(倉賀野側)が「落合新町」、右側(本庄側)が「笛木新町」です。

もともと、この両町は「落合村」「笛木村」という独立した村でしたが、慶安四年(1651)に両村が伝馬役を命ぜられて宿場として成立し、「新町」とか「新宿」とか呼ばれたようで、正式に「新町宿」となったのは元文年間(1736~41)だそうです。(日本歴史地名体系)

中山道の整備が終わったのは慶長九年(1604)頃と言われますから、「新町宿」はまさに「新しい宿場」ということになります。

その「新町」が、古き宿場の面影を残していて、街道歩きを楽しむ人の姿が絶えない町になっているのは、嬉しいことです。


【高札場跡】




  


2018年05月13日

史跡看板散歩-92 柳茶屋の芭蕉句碑

新町宿の東の端にある「八坂神社」です。


その「八坂神社」の鳥居の横に、「芭蕉句碑」と史跡看板が建っています。



近くには、史跡看板は要らなかったんじゃないの?と思うくらいの、立派な説明看板が建っています。




双方の看板を見ると、芭蕉がこの場所にあったという「柳茶屋」に来て句を詠んだようにも思えちゃいますが、そうではないみたいです。

江戸時代の俳人・柏木素龍という人がまとめた句集「炭俵」に、芭蕉庵によく通っていた俳人たちと詠み交わした内の一句として載っています。
傘に 押わけみたる 柳かな

こんな意味だそうです。
春雨のしとしとと降る中を、傘をさして外出していると、道端に大きな柳の木があり、もう若芽がだいぶんふくらんで、道の方にまで枝が垂れている。
ほかの樹木の枝なら、傘が破れるので避けて通るところだが、柔らかそうな、しなやかな柳の枝なので、わざと開いたままの傘で、垂れている柳の枝を押し分けてみた。
傘の紙にふれる柳の小枝、はらはらと落ちる雨雫、まさに雨中の春の柳であることだ。
季語は〈柳〉で春。〈押わけみたる〉の〈みたる〉は、〈してみた〉の意で、〈押し分けて〉柳をつくづくと見たというのではあるまい。」
(「新編日本古典文学全集 松尾芭蕉集」小学館)

看板によると、「柳茶屋の芭蕉句碑」は寛政五年(1793)~天保五年(1834)に、「柳茶屋」のそばに建てられたとあります。

「中山道分間延絵図」では、「八坂神社」「天王」と表記されてます。
「延絵図」は、寛政十一年(1799)に実地検分されて、文化三年(1806)に完成されたというんですが、「柳茶屋」らしきものは見当たりません。


「芭蕉句碑」も、けっこう転々としたらしいです。
「新町明治百年史」に、こんなことが書かれています。
(芭蕉句碑の)建主の湛水は医者で小淵健夫氏の先祖、白水は笛木玄次郎氏先祖で共に郷土の俳人である。(略)
明治の末に藤岡市の浅見作兵衛翁が、行楽園の築庭をする時、神流川近い田野に倒れていた碑石を発見し、其の地主から譲りうけ、行楽園の林中に建てたのがこの句碑だ。
浅見翁歿後昭和26年、藤岡市、原歯科医院主・原徳人氏が譲りうけて、氏の庭園に移し、句会を催して愛蔵していた。
当町史編纂委員はこれを聞き、町の文化財として永久に新町で保存したい希望のところ、原氏はこの気持ちをよく理解されすすんで寄贈された。
(昭和29年/1954)地元有志の奉仕作業で八坂神社の境内中山道に面して建てられた。」

昭和四十二年(1967)八坂神社境内に児童遊園地が設けられたということで、面白いものが滑り台に這い上がってます。


感心したのは、社の前にポリ箱が置いてあって、その中に「八坂神社」の謂れを書いた説明文が入っていたことです。


なかなかやるもんです、新町


【柳茶屋の芭蕉句碑】



  


2018年05月20日

史跡看板散歩-93 新町七区の諏訪神社

上武大学の東にある「諏訪神社」です。


ここには、史跡看板が2つ建てられています。



どちらの看板にも、「毘沙吐村」(びさどむら/びしゃどむら)という地名が出てきます。

変わった地名ですが、韮塚一三郎氏著「埼玉県地名誌 名義の研究」によると、
ビシャトのビシャは歩射(ブシャ)の転訛で、村の社の春祭りに歩射を行なったためにおこった。
なおビシャトのトは処の意である。
なお、歩射田はビシャのための行事の共有田をいう」
ということです。

その「歩射」が分からなかったのですが、こういうものらしいです。
御歩射(オビシャ)
騎射(ウマユミ)に対して、歩射(徒弓/カチユミ)で的を射る行事。
関東地方東部の神社で主に年頭に行われていた悪魔をはらい豊作を祈る農村行事。
弓で奉射的(ブシャマト)と呼ばれる大的を射て、当たった矢数でその年の天候や作物の出来具合を占った。 」
(ことばさあち)

「毘沙吐村」ですが、2つの看板に書かれていることを合わせると、「安政七年(1860)まで神流川の東、埼玉県上里町にあったが、弘化三年(1846)の大洪水で壊滅状態となり、神流川の西、新町下河原に村を移した。」ということです。

元禄十五年(1702)の絵図では、たしかに神流川の東に描かれています。


絵図で見る通り、烏川神流川の合流点に突き出しているような村で、まさに「歩射」によってその年の天候を占い、悪魔を祓わずにはいられない「処」だった訳です。

「毘沙吐村」が如何に川に翻弄されたか、「新町町誌」から、拾ってみましょう。
毘沙吐村は、古くは45町歩の耕地を所有していたが、年々の洪水による川欠け(土地流失)の連続によって、承応四年(1655)の検地帳によると、24町8反8畝24歩と約半分に減少していた。
その後の洪水によって17町歩の耕地を失い、さらに文政七年(1824)には畑2町6畝を洪水によって失い、この段階で耕地は5町2反2畝24歩と、(略)八分の一に減少している。
このような村柄に追い詰められた毘沙吐村は天保十三年(1842)には、次に掲げる隣接村々へ出作することになった。(略)
当時の村の耕地面積5町2反歩、出作面積22町3反歩余という極めて不均衡の所有形態であった・・・」

そこへ追い打ちをかけたのが、弘化三年(1846)の大洪水です。
この年の6月中旬から7月上旬にかけて大雨が降り続き、実に66%の土地が流失し、神流川に面した家25軒、烏川通りの家2軒が濁流に呑まれました。
その年の10月、村民は神流川対岸の笛木新町字下河原への全村移住を決意します。

笛木新町側との交渉や、代官への願書提出を経て、岩鼻陣屋から正式に移住許可が出たのは、嘉永元年(1848)のことでした。
そしてまず龍光寺諏訪神社を遷座し、新しい土地での平安な暮らしを祈ったのです。

しかし、全村民が移住するというのはそう簡単ではありません。
移住を逡巡する村民もいる中、安政三年(1856)またもや神流川の濁流が村を襲い、残っていた家の内4軒が流されます。
全村民の移住が完了したのは安政四年(1857)、実に9年の歳月が必要でした。

時は明治に変わり、行政区や税制が改められると、「毘沙吐村」にまた問題が持ち上がります。
上野国新町字下河原に移住しながら、武蔵国賀美郡毘沙吐村となっているのは名実に反し不都合であると、新町側からの合併話が出てきます。

毘沙吐村側では今まで通りにしたいと武蔵国の方に嘆願をしますが、新町側は明治九年(1876)から毎年のように県や郡に願書を出し続け、ついに明治十二年(1879)合併が決定します。

合併後は「川岸町」と改称され、「毘沙吐村」という地名は失ってしまうことになりました。
明治十八年(1885)の「二万分一迅速図」には、「旧毘沙吐村」と表記されています。


この歴史が、「諏訪神社」境内の「沿革之碑」(昭和十年/1935建立)に刻まれています。


新町へ移住した「毘沙吐村」はこうして消滅しましたが、実は「毘沙吐」という大字は、まだ埼玉県側に残っているんです。


現在だれも住んではいませんが、平成二十二年(2010)時点では2世帯あったらしいです。

平成22年(調査日 2010年10月1日)の国勢調査(総務省統計局)による

ということで、史跡看板の主題は「海老虹梁」「笠付庚申塔」なんですが、なぜか「毘沙吐村」の方がすごく気になった迷道院でした。


【新町七区の諏訪神社】



  


2018年05月27日

史跡看板散歩-94 新町宿諏訪神社元宮

新町駅の線路向こうにある「諏訪神社元宮」


史跡看板は、2つ建っています。
ほほーと思ったのは、この看板が敷地に対してちょっと斜めに建っていることでした。
つまり看板の面が道の方向を向くようにしてあるんです。
新町らしい、細やかな気遣いだなと思いました。




ただ、この「諏訪神社元宮」の看板、後半の説明文については、ちょっと残念に思います。
「新町町誌」にある「諏訪神社(五区)」についての説明文をそのまま使ってしまったので、「元宮」の地で読むとこんがらがっちゃいます。

こんな風に書き換えるとよかったんじゃないでしょうか。
元宮の石祠があるここ小字本屋敷には、旧笛木村の鎮守諏訪神社が建っていました。
承応三年(1654)落合村と笛木村が合併して新町宿になった時、諏訪神社は街道の北に移されました。
現在5区にある諏訪神社です。
元あった場所には石祠を祀り、これを元宮としました。」

字図に両社の位置を書き込むと、こんな感じになります。


ところで、「元宮」の隣の建物なんですが、すごく素敵だと思いませんか。


「岡崎醤油株式会社」の建物です。

倉庫か物置として使ってるのかなと思って窓から覗くと、人の姿が見えます。
目が合ってしまったので、一応会釈をしてすぐ離れたのですが、どうにも好奇心が抑えられません。
しばらく外でウロウロしてましたが、意を決して、木製のドアをガタン!と押して中へ入りました。

瞬間、小津安二郎の映画の中に飛び込んでしまったような感覚でした。
事務所の中の趣きも、振り向いた若い女性の清楚で美しい顔だちも、まるで映画のワンシーンのようでした。

会社のパンフレットがあれば頂きたかったのですが、パンフレットはないけどもと、A4一枚にまとめた会社概要をコピーしてくれました。

パンフレットに書いてある会社の歴史は、
 創業 1751年(宝暦元年)8月 群馬県新田郡
 移転 1923年(大正12年)5月 群馬県多野郡新町
とあるだけでした。

もっと詳しく知りたくなったので、調べてみました。
(「新町町史」、「近江日野の歴史第七巻」)

創業者は蒲生郡内池村(現滋賀県日野町)の岡崎傳左衛門という、いわゆる近江商人です。
宝永元年(1704)上州新田郡本町村(藪塚本町)に、「近江屋」という名前で酒造業を始めます。
宝暦元年(1751)に醤油・味噌の醸造も始めたので、「岡崎醤油」としてはこの年を創業年としたのでしょう。

文化十四年(1817)に、藤岡上町(現藤岡市)の近江商人小沢武右衛門から店と蔵を譲り受け、「近江屋孫九郎」という店を開きます。
大正三年(1914)に「近江屋」「岡崎商店」と改称、大正十二年(1923)新町に新工場を建設して藤岡から移転し、藪塚にあった本店も新町に移します。

ということで、この素敵な建物は大正十二年当時のものだそうです。
いつまでも使い続け、残していってほしいと切に思います。

「岡崎醤油」の建物があまりにも素敵だったので、つい「諏訪神社」の話が雑になってしまいました。
次回は、「元宮」の引っ越し先、5区の「諏訪神社」の話をしたいと思います。


【諏訪神社元宮】



  


2018年06月03日

史跡看板散歩-95 新町五区の諏訪神社

前回の「諏訪神社元宮」の場所から移設されたのが、五区にある「諏訪神社」です。


「元宮」の史跡看板は、ここに建てれば説明文そのままでよかったのにと思います。


旧中山道沿いの一の鳥居から参道を50mほど進むと、境内に入ります。


二の鳥居を潜って直角に曲がると神殿があるような配置になってますが、これについては、こんな話があります。
伝えによると中山道の南側に小千木良と呼ばれた旧家が北向きに参道の直前にあった。
笛木村からこの神社が遷座される際、神殿と向きあう形になるので、不敬に当たらぬようにと神社を東向きにしたのだという。」
(新町の神社と寺院)

拝殿前に、石造りの立派な由来碑が建っています。


最後の段に、明治三十九年(1906)の社殿全焼のことが刻まれていますが、日露戦争大勝祝賀会の神社の提燈が火元だったそうです。(新町の神社と寺院)

昭和十年(1935)に再建された本殿には、素晴らしい彫刻が施されています。



花咲か爺にしちゃ変だな、と思いつつ他の二面を見ると・・・、

楠木正成新田義貞だったので、児島高徳だと分かりました。
「太平記」がモチーフだったんですね。

境内の一番奥へ行って見ると、こんなのがありました。


洪水で埋まっちゃったのかと思いましたが、そうじゃありませんでした。


後ろ側に埋まっているのが、昔の「二の鳥居」、こんな風に建っていました。


手前に埋まってるのが、昔「一の鳥居」です。


新町「残す文化」を代表するような鳥居ですね。
すばらしい!


【五区諏訪神社】



  


2018年06月10日

史跡看板散歩-96 神流川合戦古戦場

新町の東端、「神流川橋」の袂に、「神流川合戦古戦場跡」の石碑やら、史跡看板やら、いろんなものが建っています。




これらが建っている場所は、小字名で「陣馬」と呼ばれ、滝川方が陣を構えた場所と伝えられています。
その場所にいま自衛隊が陣を構えているというのも、なにやら面白いことです。


その対岸の小字「勝場」北条方が勝鬨を上げたところ、本庄の小字「御陣馬」北条方が陣を構えたところと伝わるなど、神流川合戦に由来するとされる字名が残っています。

「新町七区の諏訪神社」に出てくる「毘沙吐村」は、まさに主戦場であったに違いありません。
「神流川合戦」の看板に書かれている「東歌」(あずまうた)について、「毘沙吐村」から移された「七区の諏訪神社」に説明看板が建っています。


お時間のある方は、動画でご覧ください。


次回は、北条方が滝川方の首実見を行ったという「首塚八幡宮」を訪ねてみます。


【神流川合戦古戦場史跡看板】



  


2018年06月17日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(1)

新町の南端と言っていいでしょう、藤岡に近い字「実見塚」(じっけんづか)に、「首塚八幡宮」があります。



「実見塚」という字名は、看板にもあるように、神流川合戦で討ち取った者の「首実見」をし、それを埋めた「塚」があったという言い伝えからきているようです。

前からある史跡看板には、ここの西に「胴塚」もあると書いてあります。


行って見ると、民家と民家の間の路地の奥に、それらしい鳥居が見えます。


そこは藤岡市の指定史跡で、「胴塚稲荷古墳」となっています。


こちらの看板には、逆に「首塚」のことが書かれています。

ところがその「首塚」ですが、どうも首を埋めたのはここじゃなさそうなんです。
「新町明治百年史」に、こんな話が載っています。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

ということで、骨が出てきたのは「堂場」という所だそうなんです。


崩した塚があったのは「境野翁頌徳碑」あたりだというので、字「堂場」と思しき地域を歩き回ってみましたが、その碑が見つかりません。
「堂場郵便局」や、昔からやっていそうな店に飛び込んで聞いてみましたが、そんな碑は見たことがないと言います。

新町支所へも行ってお尋ねしましたが、初めて聞く話だということです。
それでも、調べてみて分かったら連絡を頂けるというので、名刺を渡しておきました。
すると1時間ほどして電話があり、「碑のある場所が分かった。」というのです。

新町商工会の所に「堂場墓地」というのがあり、そこに「境野清衛」という人の碑が建っているということでした。
しかし、そこは字「堂場」から北へ直線距離で1kmも離れています。
「?」とは思いましたが、行って見ることにしました。

長くなりそうなので、次回へ続けます。


【首塚八幡宮】


【胴塚稲荷古墳】



  


2018年06月24日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(2)

「新町商工会館」「新町公民館」の建物の先にあるのが「堂場墓地」です。


「境野翁顕彰碑」は、墓地北の三差路にありました。
正確には、「境野清衛翁碑」でしたが。


養蚕技術の研究と伝習に生涯を尽くした人物のようです。


おどろきました。
墓地の北西角に「閻魔堂」があるんですが・・・、


その脇に、「神流川合戦戦歿者供養塔」というのが建ってるじゃありませんか。


その左側面には、
天正十年盛夏 滝川北条両軍六万数千 神流川ヲ中心ニ合戦ス 多数の戦歿将士ハ 茲ニ埋葬サルト伝ハル
当山四百二十年祭式典に嚴修スルニ当リ 供養塔一基建立シ回向ヲ呈ス
昭和三十九年四月二十一日 宝勝寺」
と刻んであります。
前回の「新町明治百年史」の記載とぴったし合うじゃありませんか。
再掲します。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

たしかに、ここ「堂場墓地」の所なら、塚を崩した土で道を補修したという「泉横丁」はすぐ近くです。


因みに、「宝勝寺」小判供養塔のあるお寺、「泉横丁」はその小判が発見されたところです。

それにしても、「首塚八幡宮」近くの字「堂場」から遠く離れたこの墓地が、なぜ同じ「堂場」なんでしょう。
「閻魔堂のある場所」「堂場」なんでしょうか。
ということは、「字堂場」にも何らかの「お堂」があったんでしょうか。
それとも、首を失った「胴」が散らばっていた「胴場」なんでしょうか。
うーん、わからん。

さて一方、「首塚八幡宮」のある「実見塚」からは、どうも骨は見つかってなさそうです。
新町10区実見塚地内にある塚は、昔から神流川合戦の首塚と伝えられている。
塚の上に古い石のほこらがあるも文字等の刻まれた形跡はない。
昔は塚の上に老松あり、塚の高さも2丈近く(6m余)あったので、武州児玉町から塚の上にある老松が見渡せたと言われている。
明治、大正の頃、ひそかに塚を掘りかえし、刀剣類を捜す人達があって、塚がくずれ、現在は低い。
昭和37年(1962)建碑当時は、塚とは名ばかりで台地となっていた。
塚一面に雑木、雑草がおい茂るヂャングルであった。
それでもこのほこらに願かける人もあって、草むらをかき分け、参拝に見えられた跡がある。首から上の病には祈願すれば効験があると言われている。
建碑の有志の方々が、このヂャングルの雑木、雑草を除き、かやの古木(相当年数を経過したもの)1本を残し、合戦の由来を刻した首塚跡と首塚八幡宮の石碑2基の建設に奉仕した。」
(新町明治百年史)

ここ、本当に「首塚」だったんでしょうか?


ま、その昔、数人の支配者の野望によって、将兵、軍馬、それに巻き込まれた住民が、この一帯で多くの命を落としたことは事実なのでしょう。

最後に、神流川合戦の顛末をうまくまとめてある、「胴塚稲荷古墳」の説明板をどうぞ。



【神流川合戦戦没者供養塔】


【境野清衛翁碑】