2017年01月01日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(2)

明けまして おめでとうございます。
今年も「隠居の思ひつ記」、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。

さて、新町(しんまち)に残っていた道標、「左道通行」の続きです。
その情報を発信して下さった大野一美さんは、新町(しんまち)にある專福寺の総代をなさっています。
今年のある日、総代の方々が專福寺に集まって会合をしていた時、神流川橋たもとにある解体中のメッキ工場・メテック関東跡地の話題になりました。

その時、むかし建設省に勤めていたことのある方から、こんな話が出たそうです。
「そういえば、メッキ工場の角に建ってる石柱は、たぶん、むかし倉賀野の中山道に建ってたやつだと思うよ。」

もともと歴史に大変興味のある大野さんは、すぐに現地へ行き、このままでは取り壊されてしまうに違いないと思いました。
そこで、次のような文書を作成して、倉賀野町近在に住む歴史家に送ったのです。


しかし何らの動きもないまま三ヶ月が過ぎ、再び大野さんが現地へ行った時には、すでに更地となった工場跡に石柱はありませんでした。

現地に案内して下さった大野さんは、「この角に建ってたんですよ。」と教えてくれました。


撤去されたのは最近なので、もしやと思ってGoogleのストリートビューを見たら、写ってました!


幸運だったのは、工場解体にあたった業者が、この石柱は何か謂れのあるものではないかと思って、その処分方法を新町支所に問い合わせてくれたことでした。
それを受けた支所の担当職員が、これはやたらに廃却すべきものではないと思ってくれたのもまた幸運なことでした。

思えばこの道標、設置以来、実に幸運続きの人生(?)であったのです。

←大正九年(1920)の中山道上正六付近。
道の両側には杉と松の並木がありました。




昭和七年(1932)南側に新しい道路が作られて、南側の並木はそのまま中央分離帯となり、その高崎側と倉賀野側の二ヶ所に「左道通行」の道標が建てられました。

当時はまだ自動車の数も少なく夜間の照明もありませんでしたから、暗い道の真ん中に立っている道標には、よく自動車がぶつかったそうです。
高崎側に建っていた道標は修復不可能なほど破損して撤去され、倉賀野側だけが幸運にも残りました。

「倉賀野町の民俗」によると、
昭和二十四、五年(1949、1950)頃に、夜半出動した消防自動車が標識にぶつかり、死者、けが人が出る事故があった。
この頃には交通量も多くなっていて、この時以降、並木と標識は取り除かれ、広い一つの道になったといわれる。」
とありますが、大野さんは「昭和三十二年(1957)~三十三年頃まで建っていたと聞く。」と仰り、上正六にお住いの須永志嘉夫さんは「昭和三十七年(1962)頃撤去された。」と仰っています。

いずれにしても、その時この道路を管轄していたのが高崎ではなく新町(しんまち)の建設省であったことから、撤去された道標は建設省新町工事事務所に引き上げられたという訳です。
もしかすると、これも幸運だったのかも知れません。

引き上げられた道標は、いつの時点かは不明ながら、建設省から松浦メッキ工場そしてメテック関東となる敷地の東南角に建てられます。
その理由も不明ですが、もしかするとコーナーの目印としてか、あるいは建物のガード石として用いられたのか。
理由はともあれ、それによって現在まで残ったことは、幸運というほかありません。

今回の工場解体にあたっても、たまたまそれが專福寺総代会で話題になったこと、総代の中に道標のことを知っている人がいたこと、それを聞いたのが歴史好きな大野さんであったこと、解体業者が支所に問い合わせたことなど、いずれも奇跡のように幸運がつながってのことです。

こう見てくると、この道標自身が、その幸運を呼び寄せていたのではないかとさえ思えてきます。
あるいは、「元あった場所に戻りたい!」と一所懸命訴えていたのかも知れません。


迷道院としては、上正六の元あった場所の近くに戻し、この道標にぶつかり命を落とした方の供養塔として、またこの道標自身の幸運にあやかって、「幸運を呼ぶ道標」として高崎の一名所にしたらと思うのですが、皆様はいかがお思いでしょうか。

2017.1.6 追記
知人でブロ友の”いちじん”さんからコメントを頂戴し、ご尊父とその友人が「左道通行」の道標のところで撮影したという写真を送って頂きました。
見ると、道標には傷一つなく文字も黒々としていて、建ててまだ間がない頃の写真と思われます。
ご尊父(前列左)の卒業アルバム(昭和十三年)に載っていた写真だそうです。
ご提供、ありがとうございました。



【「左道通行」道標が元あった場所】



  


2016年12月25日

幸運を呼ぶ道標 「左道通行」(1)

今日は「史跡看板散歩」をちょっとお休みして、「幸運を呼ぶ道標」のお話をいたしましょう。

先日、ブログにこんなコメントを頂きました。


コメントを頂いた時点では伏字にいたしましたが、新町(しんまち)にお住いの大野一美さんに早速お電話を差し上げました。
すると、高崎学博士福島長治さんから「左道通行の石柱のことをブログ記事にしている人(迷道院)がいる」と聞き、ぜひ会いたいのだというお話でした。

もう7年も前に書いた「消えた一里塚」という記事のことで、「左道通行」という石柱が写っている写真というのがこれです。


もう少し大きく写っているのがこちらです。

記事の中でも書いたのですが、この道標は昭和二十五年(1950)頃撤去されたということまでは、「高崎市史民俗調査報告書第七集 倉賀野町の民俗」に記載されています。
しかし、撤去された後どうなったのかは、おそらく報告書をまとめた方にも分からなかったのでしょう。

それが、新町(しんまち)の某所に残っているという話なんですから、驚きです。
すぐに大野さんをお訪ねし、保管場所に案内して頂きました。
それは、ある施設の一角にブルーシートで覆われていました。


その日は休日で中に入ることができなかったので、後日改めて施設の了解を得て写真を撮らせて頂きました。


倉賀野松並木の中央分離帯に設置されていた時、自動車が何台もぶつかったと言われていますが、たしかに道標は満身創痍という感じに古傷が刻まれています。

それにしても、昭和二十五年頃撤去された倉賀野松並木の道標が、なぜ今ここに残っていたのでしょう。
それは、奇跡とも幸運ともいえる物語があったのです。
次回、詳しくお話いたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
Comments(4)新町(しんまち)◆高崎探訪

2010年07月11日

むかし遊女で いま稲荷

新町(しんまち)行在所の細道を入っていくと、「於菊(おきく)稲荷神社」があります。

お菊さんは新潟の貧農の娘で、宝暦年間(1751~63)に、新町宿の妓楼・大黒屋の娼妓(遊女)をしていました。

美貌で気立ての良いお菊さんは、新町随一の売れっ妓でしたが、ふとした風邪をこじらせて、足腰が立たない程の重病となってしまいます。
すると、大黒屋の待遇は一変し、行燈部屋に寝かせるという冷たい仕打ちをするようになりました。

同情した町の人は、稲荷神社の裏に小屋を建ててお菊さんを住まわせ、交替でその看病にあたったといいます。
ある夜、お菊さんの枕もとにお稲荷さんが現れると、病は奇跡的に全快します。
お菊さんは、その恩に報いるため稲荷神社の巫女となるのですが、ある時から、作物の出来具合や人の吉凶、失くし物のありかまで様々な事を言い当てるようになります。

そこから、誰言うともなく「於菊稲荷」と呼ぶようになったのだそうです。

「於菊稲荷」は、参道に並ぶ多数の鳥居が有名ですが、昭和三十六年(1961)までは、ここに随身門が建っていたのだそうです。
老朽化により倒壊しそうだったが、修繕費がないので取り壊したということです。
文政六年(1823)の建物で、県内最大のものだったそうですから、惜しいことをしました。

随身門の左手前に写っているのが、同じ文政六年に建てられた水屋です。

総欅、入母屋造りの重厚な水屋で、瓦屋根、彫り物も一見の価値ありです。







この石水盤が、また凄い!→
唐獅子牡丹が、「冰香」(ひょうこう)と刻まれた水盤を支えています。
「冰」「氷」のことだそうですから、「氷の香り」ですか?
よく分かりませんが、「無」になって祈りなさいということなのでしょうか。

狛犬ならぬ、狛狐がユニークです。

背中に子供を乗せてたり、足で押さえつけてたりしてます。(抱いてるのかな?)

狛犬が暇そうにしているのが、また笑えます。

本殿の右には、比較的新しく作られたと思われる「聖徳太子堂」があり、その左には「白狐塚」があります。

もともとこの稲荷神社は、天正十年(1582)神流川合戦の際、白い狐が現れて北条氏が勝利を収め、これに感謝して社を構えたと伝えられています。
そのため、神社には土焼の白狐が多数納められ、そのかず数千にもなったといいます。
壊れるものも多く、それをまとめて埋めたのが「白狐塚」なのだそうです。

本殿の裏に回ったら、草むらでの家族が和やかに暮らしていました。

まるで、野外ステージの人形劇のように、そこだけスポットライトが当たっていました。

不思議空間、「於菊稲荷神社」でした。

そういえば、帰りがけに「ハイツ大黒屋」というアパートがあったんですけど、これ、お菊さんとは関係ないんですよね、きっと。


(参考図書:「新町明治百年史」「群馬歴史散歩・新町」「小さな町の物語・新町」)


【於菊稲荷神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:32
Comments(12)新町(しんまち)

2010年07月09日

「あん」でつながる新町宿

いつだったか、紫文師匠から聞いた、お薦めの饅頭。

新町(しんまち)・旧中山道沿い、酢屋(すや)製菓さんの「みそまんじゅう」です。

新町図書館へ行った帰りに思い出して、買い食いをしちゃいました。

紫文師匠のお薦めだけあって、皮の味噌味と白あんの甘さが口の中で行ったり来たりする、面白い美味しさが楽しめます。

この酢屋製菓さん、ご主人にお聞きすると、創業100年くらいだとか。

もともと、近くでの醸造を業としていたのですが、故あって先々代が饅頭屋に転業し、屋号は「寿」の字を使って「寿屋(すや)製菓」としたのだそうです。

ところが、誰も「すや」と読まずに
「ことぶきや」と読むので、「酢」の字に改めたのだそうです。

今のご主人は、若い頃、八島町にあった梅玉堂で修業されたそうで、昔の高崎駅界隈をよくご存知でした。

写真を撮るのがお好きだったとかで、昔懐かしい高崎駅舎の写真などが店の奥に飾ってありました。

いつかゆっくり、昔の写真を拝見しながら、お話を伺いたいものです。

酢屋製菓さんの前には、平成六年(1994)完成の行在所(あんざいしょ)公園があります。

パーゴラの天井には、昭和五十二年(1977)制定の町民憲章に因み、「明るい家庭」「福祉」「文化」「希望」「人間性」「住みよい町」の言葉が刻まれています。

行在所の庭園入口には、「新町道路元標」があり、塀には安藤(歌川)広重「木曾海道六十三次 新町」の浮世絵風景画が嵌め込まれています。
中山道新町宿を強く意識していることが窺えて、嬉しい気持ちになります。

明治天皇御一行が新町に一泊するという内示があったのは、巡幸の1年前でした。

新町の全役員で協議した結果、旧本陣の久保栄五郎宅を行在所として願い出たのですが、その場所が宿場の西端であったことから、警護上の問題が有り、また建物も狭過ぎるとして却下されてしまいます。

そこで、戸長の高橋均作氏が、町の中央部にある宅地300坪ほどを提供し、そこに新築することとなったのです。
建設費は788円でしたが、その調達に苦慮し、県に陳情して550円を借り入れ、残りは全町からの浄財を充てました。

明治天皇は、この時の北陸・東海御巡幸に際して、迎える側が無駄な費用をかけぬよう、次のような太政官示達を出していました。(抜粋)

1.御巡幸は親しく地方民情の視察であるから、虚飾等に流れて、人民の困苦迷惑にならぬようにすること。
2.道路、橋等止むを得ざるもののみを新造または修理を加うることがあっても、すべて官費として、決して人民の難儀にならぬようにすること。
3.行在所はその地方により、いかようであっても差支えない。特に修繕を加えぬよう、且つ社寺をこれに充てても苦しくない。ただし、行在所より約十町内外離れた場所に非常御立退きを定めておくこと。
4.御膳部一式、椅子テーブル等すべて持参する。別に用意せぬよう。

そのため、新町では「行在所」を新築したということが言えず、ここを「羈客所(きかくじょ)」(馬を繋ぎとめる所)と呼称することにしました。

この御巡幸に際して、実質的に行在所を新築したのは、新町だけだったといいます。

酢屋製菓さんの奥様が、「中を見てみますか?」と仰って、鍵を開けてくださいました。

思っていたより、ずっと質素な造りだったのに驚きました。
華美にならぬよう、つとめたことが良く分かります。

因みに、明治天皇はこの部屋にハンモックを吊るして寝たのだそうです。
何でも、床下からの刺客から身を守るためだとか。
明治十一年、まだまだそういう時代だったのですね。

3月になると、新町行在所「新町ひなまつり」のメイン会場になります。
創業100年の酢屋製菓さんにも、お雛様が飾られます。

ところで、タイトルの「あんでつながる・・・」は、お分かりだったでしょうか。
みそまんじゅうの「あん」、行在所の「あん」、安藤広重の「あん」なんですが・・・。

(参考図書:「新町明治百年史」「群馬歴史散歩 新町」「小さな町の物語 新町」)

【酢屋製菓】

【新町行在所】


  


Posted by 迷道院高崎at 05:54
Comments(28)新町(しんまち)