2010年09月05日

老舗と子どもとファンタジー

ここのところ、よくお邪魔するようになった金澤屋さんで、人形劇のイベントがあると、お知らせを頂きました。

お子様が対象とは思いましたが、
私も暦が還って間もないのだから、まあ、いいかなと。


そろいのTシャツを着た、金澤屋さんのお嬢ちゃん二人が、見事な開会のご挨拶をしてくれました。

可愛いお客様達は、静かにお話を聞き、
大人たちは、急いで携帯をマナーモードにしています。

人形を操っているのは、塚沢公民館を活動拠点としている「人形劇団ファンタジー」の皆さん。

今日の演目は、
 ・「ご」と言ったらサツマイモ
 ・小さな小さな大きなカブ
 ・ファンタジー

年季の入った築82年の建物と、人形劇の舞台がマッチして、いい雰囲気です。


魂を奪われたように、人形の動きに見入る子どもたち。

素直に驚き、きゃっきゃと笑い、「きれーい!」と声を上げる子どもたち。

久し振りに接した子どもたちの、無邪気で純真無垢な姿に、「ああ、子どもっていいなぁ。」と思いました。

そんな子どもたちの声と人形劇を、ほんの少し動画でどうぞ。




【金澤屋】


  


Posted by 迷道院高崎at 18:01
Comments(13)高崎町なか

2010年09月08日

本町今昔物語(1)

いつも、安中・板鼻の歴史を紹介して下さる、グンブロガー・風子さん。
その風子さんの記事にあった「板鼻昔物語」に対抗(?)して、
今日は高崎「本町今昔物語」のご紹介です。

この本は、平成16年(1998)に行われた、
「本町今昔フェスティバル」の一環として発行されました。
監修・執筆は、高崎経済大学の高階勇輔名誉教授と、郷土史家・森田秀策氏です。

「本町今昔フェスティバル」の仕掛け人は、本町の老舗茶舗・「水村園」小見勝栄社長です。
その呼び掛けに応えた本町住民の、文字通りの手づくりイベントでした。


「本町今昔物語」のあとがきで、小見社長はこう述べています。

私達が今「本町今昔フェスティバル」の一環として本書の刊行を決意したのは、バブルの弾けた構造的不況や、展望を開けない閉塞状況の社会にあって、私達の先人達がどのように生き、どのように町づくりに取り組んだのか、その歴史を学ぶことがきわめて大切なことだと気が付いたからだ。
(略)
高崎の最も古い町、交通の拠点であった本町も、空地、空店舗も多く、往時を偲ぶ歴史的建築物も、時間に任せれば崩落の宿命である。 今私達はこうした現実を直視し、未来の展望を切り開くための行動を開始すべき時と考えます。」

実は、小見社長から頂戴するまで、この本の存在を知りませんでした。
フェスティバルの時の限定販売ということもあるのですが、
「図書館にもないですよね。」と言うと、
「図書館には、渡してあると思うけどなぁ。」と仰います。

あとで、図書館の蔵書を検索してみると確かに2冊ありましたが、郷土資料室の書庫禁帯として仕舞い込まれています。
どうりで、見たことがなかった訳です。
ビデオの時もそうでしたが、図書もまた郷土の資料は、人知れず倉庫に眠り続けているようです。
大金を投じて新築する新図書館では、このようなことがないように祈るばかりです。

そんな貴重な「本町今昔物語」
次回から、その中身を少しづつご紹介していきたいと思います。


  


Posted by 迷道院高崎at 18:54
Comments(4)高崎町なか

2010年09月10日

本町今昔物語(2)

「本町」と書いて「ほんちょう」とか「ほんまち」とよむところもありますが、
高崎「もとまち」です。

慶長三年(1598)井伊直政は、和田と呼ばれていた地に城を築き、高崎と改めて城下町を整備しました。

和田時代も、この地は信州、奥州、下野・武蔵をつなぐ交通の要衝で、宿場としての機能を持っていました。


井伊直政が城を築きたいと思うその場所には、和田時代の宿場「馬上(ばじょう)宿」「金井宿」があったのです。

「馬上宿」は現在の高崎市庁舎辺り、「金井宿」は現在の高崎郵便局辺りと言われています。

そこで最初に、この宿場を城下の北端に移し、「根本の町」という意味で「本町(もとまち)」としたのだそうです。

下の図は、元禄十六年(1703)頃の本町通りの様子です。


道幅は四間(7.3m)~四間四尺(8.4m)、長さは四町八間(450m)、正確に東西方向に作られていて、春秋中日の日の出、日の入りの方向に合っているそうです。

道の両側に、びっしりと家が並んでいますが、ほとんどの家の間口は三間(5.5m)と狭く、奥行きが二十四間(43.6m)~二十七間(49.1m)という、いわゆる「鰻の寝床」でした。
中には、間口五間(9.1m)や六間(10.9m)の家もありましたが、間口の広さで税額が決まるので、ほとんどの家は間口を狭くしたようです。

図を見ると、「旅籠屋」の多いのに気が付きますが、元禄十六年の本町には36軒あったそうです。
田町には1軒もなく、新(あら)町は6軒ですから、いかに本町に集中していたかが分かります。

このような家混みで、賑わう所につきものなのが火災です。
本町も、度々、大きな火災があったため、街道に面した商店は土蔵造りにする家が多かったと言います。

次回は、本町に今も残る土蔵を探してみたいと思います。

(参考図書:「本町今昔物語」「新編 高崎市史」「高崎繁昌記」)


  


Posted by 迷道院高崎at 18:31
Comments(8)高崎町なか

2010年09月12日

本町今昔 蔵探し(1)

高崎城下は、度重なる大火に見舞われたため、蔵造りにする商家が多かったといいます。
今、本町通りを車で通っても、はほとんど残っていないように見えます。
ところが、ゆっくり歩いてみると、驚くほど多くのが残っているのに驚きます。

ただ、昭和三十七年(1962)からの中山道の拡幅に伴い、通りに面した部分は取り壊したり、あるいは近代的な装いで覆ってしまったりしています。
左の写真も、屋根の上だけがぴょこんと顔を出していますが、明治三十三年(1900)創業の雑穀商・旧秋山商店です。

そんな訳で、本町通りを歩く時は、ぶつからないように前方に注意しつつ、道の反対側を見ていくのがコツです。

通りに面して人目を引く黒塗りの土蔵が、明治二十年(1887)創業の漆器商・旧山源漆器店の店蔵です。

明治十三年(1880)の大火、越前屋火事の後、越前屋が再建した店舗を譲り受けて創業したのが、初代・山田源右衛門でした。

源右衛門は、越前漆器の生産地・福井県鯖江市で漆関係の仕事を営んでいました。
主に漆の原液や柿渋などを東京に販売していましたが、戦後、建具や内装材の漆塗りや、漆器の修理を行っていました。
このは、道路拡幅に際し、曳き家をして残したものです。

本町通りのほとんどの家は、間口三間(5.5m)の「鰻の寝床」です。

家が無くなると、その跡はそくっと櫛の歯が抜けたようになって、「鰻の寝床」が姿を現します。

すると、その奥にある昔のも、その姿を現してくれるのです。

この蔵は、明治二十六年(1893)築造、大正十五年(1926)創業の菓子問屋・旧倉上商店のものです。

旧山源漆器店の隣に写っている店が、旧倉上商店です。

店舗は、呉服商・銀杏屋店蔵を譲り受けたもので、道路拡幅時にはやはり曳き屋をしています。

昭和三十二年(1957)、ここに名曲喫茶「あすなろ」が開店しました。

地下一階、木造二階建てで、石とタイル張りの洒落た外観だったそうです。
その頃であれば、見たことがあるはずですが、全く記憶に残っていません。

「あすなろ」は、多くの音楽愛好家、美術・文学愛好家たちのたまり場的存在でしたが、昭和三十八年(1963)道路拡幅によって鞘町に移転し、昭和五十七年(1982)には、ついに店を閉じます。
今、鞘町「あすなろ」跡は空き家のままですが、高崎の庶民文化施設として活用されることを祈っています。

この角を中央アーケード方向に曲がると、昭和十七年(1942)築造の海老原商店があります。

その佇まいは、町屋の形態をそのまま残す、風情ある建物です。

さて、本町三丁目の信号から、わずか一区間歩いただけで、こんなに長くなってしまいました。

この続きは、また次回ということに致しましょう。

(参考図書:「本町今昔物語」「中山道高崎宿史」「新編高崎市史」「本町今昔散歩道」)




  


Posted by 迷道院高崎at 19:03
Comments(13)高崎町なか

2010年09月16日

本町今昔 蔵探し(2)

蔵探しと言いながら近代的なビルの写真を載せていますが、向かって一番右の大塚酒店は、江戸時代には近江屋という屋号で味噌・醤油を製造していた老舗です。

明治に入ってから大塚酒店と名前を変え、高崎歩兵第十五連隊へ納入していました。

裏へ回ると、
当時のがちゃんと残っていました。→

←その裏道は、高崎城遠構えの水路跡です。

この道の先に「猿田彦大神」が祀られています。

トップの写真に戻りましょう。
中央にあるのは、昭和三年(1928)創業の肉屋・照和軒
美味しいコロッケで有名でしたが、現在は肉料理店「丹涼」となっています。

向かって左には、「飯島ビル」が建っていますが、1階は昭和九年(1934)創業の飯島電気です。
つい最近まで成田山入口(本町二丁目交差点)角にありましたが、昭和六十二年(1987)にここへ移転してきました。

それ以前は、明治二十七年(1894)創業の時計店・青木保太郎商店がここにありました。

←明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に、立派な広告を出しています。

しかし、それにそっくりな広告を出している店がありました。→

田町二丁目の結城屋平三郎商店です。
描いた人が、同じ村上象童という人なので、仕方ないといえば仕方ないのですが、今だったらクレームものじゃないかと思うくらいそっくりですね。


当時、時計は文明開化の象徴のような商品だったようで、高崎には多くの時計店があったようです。

「髙嵜繁昌記」にひときわ大きな広告を出している時計店が、
本町大瀧金次郎商店です。

店構えも素晴らしいですが、屋根の上の烏天狗が時計を抱えている看板には、当時の人も圧倒されたのではないでしょうか。
うたい文句の「三十ヶ年保険附」というのも、すごいです。

場所は、前回ご紹介した「あすなろ」のあった所です。
もしも今残っていたら、高崎名物になったことは間違いありません。
残念なことをしました。

ところで、国産時計のパイオニアといえば精工舎(セイコー)でしょうが、実はその精工舎高崎と深い関係があるのです。

まず、精工舎の創業者・服部金太郎の妻・まんは、高崎山本兼重郎の娘とあります。

そして、販売・修理業を営んでいた金太郎が、時計製造を始めることができたのは、機械技術家の吉川鶴彦という人がいたからだといいます。
その吉川鶴彦は若い頃、前述の結城屋平三郎商店に、時計職人として勤めていたのです。

さらに、前述の青木保太郎は、まんの生家である、連雀町の時計商に奉公をしたのち独立したと、「本町今昔物語」に書かれています。

もしも今、高崎にそれらの時計商店が残っていたら、
「国産時計誕生の地・高崎!」と言ってもおかしくはありません。
残念なことを致しました。

今日は、ここまでに致しましょう。

(参考図書:「本町今昔物語」「髙嵜繁盛記」「中山道高崎宿史」)






  


Posted by 迷道院高崎at 00:26
Comments(16)高崎町なか

2010年09月18日

本町今昔 蔵探し(3)

伊香保温泉の「湯の花まんじゅう」で有名な「清芳亭」本町支店
同支店のHPでは昭和十五年(1940)創業となっていますが、終戦後間もなくの創業だという情報もあります。

反対側には、昭和三十三年(1958)にできた高崎最初のスーパーマーケット・フードセンターがありました。

フードセンターの向かって右の木造建築が、明治十八年(1885)創業の乾物商・旧荒木商店です。

歩道上からでは、屋根しか見ることができません。

西に回ると、荒木家の蔵を見ることができます。


大通りに戻って西へ80mほど行き、
         道の反対側を見ると、面白いものが見えます。↓

パラペット看板とでも呼ぶのでしょうか、実に風情のある看板がシャッターの上に覗いています。

この姿も、道路の反対側からでないと見ることができません。

ここは、昭和三年(1928)築造の菊水画廊です。


前身は、明治三十九年(1906)創業の化粧品店・菊水商店でした。

勝手なことを言いますが、手前のシャッター壁を撤去して、全体の姿を拝みたいものです。

いや、実は不思議なことがありまして。
ついこの間、シャッター壁のない頃の菊水画廊の写真を見たんです。
いや、見たはずなんですが、今、何処を、何を探しても見つかりません。
あれは夢だったんかなぁ、と思いながらこの記事を書いているような訳です。

菊水画廊の反対側に、木造三階建ての趣きある建物が立っています。

明治三十二年(1899)創業の旅籠・旧千歳屋です。

大正十二年(1923)の火災で類焼しますが、同年中に再建されています。

昭和三十七年(1962)に廃業しましたが、よく残して頂いたと思います。

本町二丁目の角を柳通りの方に曲がると、窮屈そうに建っている木暮家の土蔵が目に入ります。

残してくれていることに、感謝しなければいけないでしょう。

いつの日か、再び表舞台に立てる日が来ることを、祈っています。

これらの土蔵や歴史的建造物は、いずれも非公開となっています。
これも、第三者の勝手な言い分ではありますが、何とか、町おこしの一環として活用して頂けないものかと思います。
資料館、あるいは喫茶店、あるいは町歩きをしている方のお接待場所として、提供して頂けたら本当に嬉しいのですが。

さて、次回は本町一丁目の蔵探しです。





  


Posted by 迷道院高崎at 20:40
Comments(12)高崎町なか

2010年09月20日

「すもの食堂」近々開店!

いよいよ、21日のオープンに向けて、急ピッチで工事が進められていました。







手書きの幟も初々しく、沢山の若者が汗を流していました。

旧・絹市場側に回って見ると、ほんとに沢山の若者が、嬉々として取り組んでいました。

金澤屋さんの七代目もいましたし、おそらく、皆さんプロの建築業の人達ではないと思うのですが、本当に一生懸命です。

心の底から嬉しくなりました!
怪我などせぬよう、頑張ってください!

駐車場へ戻る途中、夏だというのに青い毛糸の、先っちょに白い玉を付けた帽子をかぶった若者を見かけました。

見ていると、道に落ちているゴミを拾って、手にしたビニール袋に入れています。

これは、気になります。
急いで道路を横断して、声を掛けてみると、彼は高崎経済大学の学生さんなんだそうです。

首から下げたプラカードには、
「4700人の青いサンタが贈る Blue Santa Claus Project 」と書いてあります。

大学生たちの活動で、10月16日に100人を集めて、高崎の町のゴミ拾いをしてくれるんだそうです。

後でネットで調べてみたら、全国的な活動になっているんですね。
   ◇「Blue Santa Claus Project 」のHP

いやー、今どきの若者達、やるじゃないですか!
我々年寄りも何か行動を起こさないと、笑われてしまいそうです。

さあー、何をやりましょうかねー?

とりあえず、9月21日(火)「すもの食堂」オープンです!
そして、10月16日(土)「Blue Santa Claus Project 」開催です!

 高崎のがんばる若者達を、
    応援しに行こうじゃありませんか、みなさん!



【すもの食堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:06
Comments(8)高崎町なか

2010年09月22日

本町今昔 蔵探し(4)

本町二丁目の角、カラオケ屋さんとUSEN高崎支店の間の奥に、蔵の姿が見えました。

この一帯は、かつて久保川呉服店があった所です。     ↓


久保川呉服店は、明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」では、各国織物商・江州屋(ごうしゅうや)江州(上州?)支店とあるので、近江(滋賀県)の出だったようです。

昭和二十三年(1948)には、前年に始まったゑびす講市の流れで、当時、久保川百貨店と呼ばれていた当店を会場に、西毛物産展が開催され、写真ではその看板が掛けられています。

の近くへ行ってみました。

漆喰壁を維持するのは、なかなか大変なのでしょう、トタン板で覆われていました。
それでも残しておいて頂いたのは、有り難いことだと思います。

ところで、これはどなたの家の土蔵でしょう?
ご近所の方に聞いてみると、「前の家のですよ。」と道の反対側を指差します。

前の家とは、嘉多町通りの柳川町分になりますが、昔からすき焼きで有名な、信田(のぶた)牛肉店でした。

高崎で一番美味しいと評判だったすき焼き店ですが、現在、営業は冬季だけ、それも予約のみということです。
それでも評判を聞きつけて、今も各界の著名人が訪れているようです。

信田牛肉店から、湯屋横丁を通って本町へ戻る途中、駐車場に1本の煉瓦煙突が立っているのが目に入ります。

ここは、もと銭湯・成田湯(成田本町支店湯)の跡です。
2009年01月04日の記事に、ありし日の
成田湯の姿が残っていました。

建物を取り壊したのはつい最近、今年の2月だそうです。

つくづく、写真を残しておいてよかったなぁと思いますが、
昔の風景は、見かけた時が写す時なんですね。

廃業はしても煙突だけは残そうとした成田湯さんの気持ちが、痛く分かるような気がします。
この湯屋横丁高崎湯屋業発祥の地であることを、いつまでも伝えるシンボルとなることでしょう。

さて、次回はいよいよ、本町蔵探し最終回となります。

(参考図書:「本町今昔物語」「新編高崎市史」「髙嵜繁昌記」「中山道高崎宿史」)



  


Posted by 迷道院高崎at 19:04
Comments(8)高崎町なか

2010年09月24日

本町今昔 蔵探し(5)

湯屋横丁から本町に出ると、道の向こう側に明治二十年(1887)創業の印店・述章堂(じゅっしょうどう)があります。

四代目の上原高洞さんは日本でも有名な篆刻の達人で、国内ばかりか世界的にも活動を広げています。

平成十六年(2004)に、水村園小見社長の声掛けによって、本町住民の手で作成された町歩きマップ「本町今昔散歩道」の題字は、上原さんの書です。

述章堂の2軒左隣が、安政四年(1857)創業の茶舗・水村園です。
水村園の土蔵群は、平成十二年
(2000)に「国登録有形文化財」となりましたが、蔵を残すための多額な修復費用は、全て水村園持ちだったそうです。

このことについて、小見社長は、こんなことを仰っていました。
「道に死にそうな人が倒れていたら、放っておけないだろう?僕にとって、この土蔵は死にそうな人だったんだよ。」

高いところから眺めてみると、水村園の右隣りに、ちょこっと蔵の屋根が見えます。
ここは、江戸時代創業の造り酒屋・旧近江屋小竿家です。
本町三丁目近江屋(現大塚酒店)とは縁続きで、小竿家を「カミンチ」(上の家)、大塚家を「シモンチ」(下の家)と呼んでいたそうです。

反対側の嘉多町・覚法寺側を眺めると、けっこう蔵が点在しているのが分かります。
こうやって見ると、高崎経済大学の高階勇輔先生が「高崎は、川越とは較べものにならない程の蔵の町だったんだよ。」と仰るのが、分かるような気がします。

本町一丁目の一番西に、平成二十一年(2009)古い蔵を利用してオープンした、惣菜店「もぎたて完熟屋」があります。

この蔵は、弘化三年(1846)創業の紙問屋・白木屋紙店のものでした。

昭和四十二年(1967)にできた問屋町へ店を移してからは、ご主人の住まいとして使っていましたが、それを借り受けて改修し、「もぎたて完熟屋」を開いたのは、倉渕町で釣り堀と水産加工業を営むカネト水産でした。

水産加工業のカネト水産がお惣菜屋さんを開いたことについて、社長の原寛さんはこう仰っています。
「完熟野菜はおいしいが、日持ちなどの問題で廃棄されることが多い。
 これまで廃棄されていた完熟野菜を有効利用することで、利用者においしい野菜を提供でき、その上、農家のサポートにもなる」


さらに、この蔵を利用したことについて、嬉しい言葉も。
「この場所に出会えてラッキーでした。本町界隈には老舗があって、蔵や寺なども残っています。まちの雰囲気づくりに貢献できて活性化に役立てれば嬉しいです」

1階はお惣菜とスイーツそして野菜の直販。
お洒落な2階は昼はランチと喫茶、夜は酒席として楽しめます。

 ◇高崎に「地産地消」の総菜店「完熟屋」
(高崎前橋経済新聞)

さて、これまで見てきた、本町に残る使われなくなった蔵や建物。
「もぎたて完熟屋」さんが、ひとつのモデルになるのではないでしょうか。

21日にオープンした田町「すもの食堂」
そして、本町「もぎたて完熟屋」
今は、離れた2つの点にしか過ぎませんが、その間に残る蔵や建物を活用して、点を繋げて線にできたら、こんな素晴らしいことはありません。

いつの日か、高崎を訪れた人たちが町なかのお店をのぞきのぞき、
「あれ、もうこんなところまで歩いてきちゃたよ。」
という声を聞きたいものです。

そんな日の来ることを、心待ちにしています。



  


Posted by 迷道院高崎at 19:05
Comments(6)高崎町なか

2010年09月26日

こんな街歩きマップが欲しい

本町蔵探しの参考にさせて頂いた、「本町今昔散歩道」のマップです。





各町内に、こんな街歩きマップがあるといいな、と思います。

倉賀野赤坂・常盤・歌川町も同じようなマップがあって、観光協会のサイトからダウンロードできますが、なぜか、本町のマップは掲載されていません。

これらの街歩きマップには、大きな特徴があります。
それは、住民の方たちの手で編集されていることです。
だから、自分たちの記憶や受け継がれた街の歴史を、知って欲しいという強い思いが入っているんです。
デザイン会社に丸投げでは、この思いはまず入れられないでしょう。

昔の記憶を持つ街の人がご健在の内に、ぜひぜひ、こんな街歩きマップを作って頂きたいのです。
よろしく、よろしく、お願い致します!


  


Posted by 迷道院高崎at 17:07
Comments(4)高崎町なか

2010年09月29日

連雀町今昔 講演抄(1/3)

ちょっと前になるんですが、9月12日に高崎市総合福祉センターで、高崎郷土史会の研究発表会がありました。
いつも当ブログにコメントを頂いている、雀の子さんからの情報で、聴講に行ってまいりました。

四人の方の発表がありましたが、特に、会長の高経大名誉教授・高階勇輔先生のテーマが興味深かったので、録音させて頂きました。
テーマは「連雀町今昔 ~その史的変遷~」
連雀町生まれの先生が、記憶にある連雀町の変遷を紹介しながら、実は、高崎市民へ向けた町づくりへのメッセージというものでした。

約1時間の講演でしたが、うる抜いて30分ほどのスライドショーに編集してみました。
それでも長いので、3回に分けてご紹介したいと思います。

では、高階先生の肩の凝らない講演をお楽しみください。




  


Posted by 迷道院高崎at 07:44
Comments(6)高崎町なか

2010年10月01日

連雀町今昔 講演抄(2/3)

高階勇輔先生の「連雀町今昔」講演録、第2回目をお送りします。

明治期の連雀町の様子や空襲の話などが出てきます。
先生独特の語り口で、楽しんで頂けると思います。




  


Posted by 迷道院高崎at 07:12
Comments(0)高崎町なか

2010年10月03日

連雀町今昔 講演抄(3/3)

連雀町「伊勢殿」について、グンブロガー昭和24歳さんが、記事にして下さいました。
  ◇「大手前の子【伊勢殿】とか。」

ありがとうございます!
おかげさまで、当時の「伊勢殿」の姿を想像することができます。

さて、今日は高階勇輔先生の「連雀町今昔」講演録、第3回目(最終回)です。

「町づくりは、歴史に学べ。」という、先生からの熱いメッセージです。




  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
Comments(2)高崎町なか

2010年11月24日

Tackさんの、おすすめブログ

「隠居の思ひつ記」にコメントを頂いているTackさんから、「面白いブログがありますよ。」と、メールで教えていただきました。

東京在住のブロガー・隼人さんの
『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
というブログでした。

全国を回って、いろいろな町の印象を軽妙なタッチで語っている、素敵な写真ブログです。
目のつけどころが、いいなぁと感じました。

高崎には、平成二十年(2008)にお見えになったようですが、わずか2年前なのに、今は既に消滅してしまった建物が写真に残されていて、懐かしい思いで拝見しました。

早速、隼人さんのブログにコメントを入れさせて頂き、「隠居の思ひつ記」でご紹介させて欲しいとお願いしたところ、快くご承諾頂きました。

他県の方が、高崎をどのように感じておられるかも知ることができて、なかなか楽しいブログです。

どうぞ、ご覧下さい。

『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌

        ◇群馬県 高崎市 その1

        ◇群馬県 高崎市 その2

        ◇群馬県 高崎市 その3

        ◇群馬県 高崎市 (再訪編)



  


Posted by 迷道院高崎at 08:25
Comments(9)高崎町なか

2010年12月08日

殿様に縁のある日(その壱)

12月4日は、やけに殿様に縁のある日でした。
まず、その午前中のお話。

県立文書館主催の「ふるさと再発見講座」が、東町労使会館であるというので行ってみました。
講演者は高崎殿様のご子孫・安藤綾信氏、演題は「駿河大納言忠長卿」です。

忠長卿は、兄の将軍・家光よりも英俊であったために疎まれたとか、家臣を手打ちにするなどの狂乱があったとか、その真偽は定かでありませんが、高崎藩主・安藤重長に預けるという形で、寛永九年(1632)高崎城内に幽閉されます。

安藤重長の数度に及ぶ赦免嘆願も空しく、翌、寛永十年(1633)ついに忠長卿に切腹の命が下ります。
憐れに思った重長は、なかなかそのことを忠長卿に伝えられません。
数か月経った後、重長忠長卿の部屋から見える庭先に、鹿柴(ろくさい:竹矢来)を組みます。
それを見た忠長卿はすべてを悟り、お付きの者に用事を言いつけて部屋から下げると、その間にひとり自刃して果てたといいます。
28歳の若さでした。

新聞記事にもあるように、綾信氏は22年前から毎年、大信寺忠長卿供養のための「忠長卿追福茶会」を開いています。
それまでも、安藤家では毎年12月に忠長卿供養のために陸膳を上げていましたが、一度、忠長卿のお墓参りをしようと大信寺に連絡を取ったのだそうです。
それが、市の方に伝わり、市長教育長まで参加することになるのですが、その後がいかにも高崎市らしい話しなので、ぜひ音声でお聞きください。



講演の後、参加者は大信寺忠長卿のお墓へ行ってお参りをしました。

忠長卿は自刃後、大信寺に葬られたものの、墓石を建てることは許されませんでした。
それを許されたのは、第五代将軍・綱吉の延宝三年(1675)、忠長卿死後42年経ってのことでした。

許された理由は、第四代将軍・家綱が若くして亡くなり、綱吉の子も生まれるとすぐ亡くなるなど不吉なことが続き、これは忠長卿の祟りに違いない、と恐れられたからだといわれています。

墓所には写真のように立派な唐門がありましたが、昭和二十年(1945)八月十四日の空襲で、焼失してしまいました。

唐門の上に枝を延ばしている老松が、伝説の「わたかけの松」です。

忠長卿が、大信寺の伽藍の手すりに片足をかけ、立腹を切って出した腸(はらわた)を投げつけたら、この松の枝に引っかかったという話が伝わっています。

その怨念から、この松は決して江戸に向かって枝を延ばさなかったとも伝えられていますが、昭和三十八年(1963)頃枯死したため、伐採して寺の客殿天井に使われたということです。

実際に忠長卿が自刃したのは高崎城内の部屋です。
その「自刃の間」は、不浄ということで赤坂町長松寺に払い下げとなりました。


この日は、めったに見られない忠長卿の御位牌を見せて頂くことができました。→

もうひとつ、貴重な品がこれです。   ↓

大坂夏の陣で徳川勢に包囲され、大阪城で自刃した豊臣秀頼の着用した陣羽織を、袈裟に作りかえたものです。

なぜ秀頼陣羽織が、この大信寺にあるのか不思議です。
この陣羽織は、天樹院より贈られたものとありますが、天樹院とは豊臣秀頼の正室・千姫です。
そして、千姫の弟にあたるのが忠長卿という繋がりになる訳です。

秀頼忠長卿には、不思議ともいえる因縁を感じます。
まず、大阪城に籠る秀頼「自決すべし」と迫ったのは、安藤重長の父・重信でした。
そして、秀頼の子もまた捕えられ殺害されますが、その名は忠長卿の幼名と同じ、国松でした。

祖父が徳川家康であったために大阪城から救出された天樹院(千姫)が、非業の死を遂げた夫・秀頼と弟・忠長の二人を悼んで、寄贈した陣羽織だったのでしょう。
そんな天樹院の意を汲んで、菩提のために袈裟にしたものだそうです。

さて、来年の大河ドラマは「江 ~姫たちの戦国~」だそうですね。
この、(ごう)こそ天樹院(千姫)の母です。
ということは、忠長卿の母でもある訳です。
高崎と大いに関係のあるドラマじゃありませんか。

高崎市がこの機をどう活かすか、期待しているところでありますが・・・。

(参考図書:「高崎の名所と伝説」)


【大信寺・忠長卿墓所】




  


Posted by 迷道院高崎at 19:35
Comments(6)高崎町なか

2010年12月10日

殿様に縁のある日(その弐)

12月4日、午前中の「ふるさと再発見講座」で、元高崎藩主・安藤家の当主・安藤綾信氏の講演を聞き、その足で高崎シティギャラリーで開催される「小栗上野介展」オープニング行事へ馳せ参じました。

目当ては、德川宗家第十八代当主・德川恒孝(つねなり)氏の講演です。

德川恒孝氏は会津松平家のご出身だそうです。
小栗上野介に危険が迫る時、身重の道子夫人は権田村を脱出しますが、その落延びた先が会津藩だったことを考えると、深き因縁を感じます。

講演に先立つ、小栗上野介展実行委員長の市川平治氏の挨拶には、考えさせられるところがありました。
「小栗上野介公と、ここ高崎市とは誠に興味深い因果関係があります。
つまり、德川幕府の命運に殉じて幕閣の要職を退き、知行地の一つである上州権田村に隠棲した小栗公を、西軍の命により追補し罪なくして処刑したのは、時の高崎藩、吉井藩、安中藩等でありました。
小栗公にとっては正に敵方であります。(略)
いまや、小栗公を巡るかつての敵味方の地は一つの自治体となり、共に新しい歴史の歩みを踏み出した訳であります。
まさに、歴史の流れを感ぜずにはいられません。」


德川恒孝氏の講演にも、考えさせられることが沢山ありました。

そのひとつは、徳川時代になって日本中から戦が無くなったことによって、領地を超えたインフラ(水利、街道、通貨、度量衡など)が整備され、それによって急速に豊かな日本になったのだということです。

それまで領主が個々に蓄えていた軍資金(軍事費)を、戦が無くなったことによってインフラ整備に回す(回させる)ことができ、農地が増え、流通が増え、人口が増え、庶民の収入が増えて、物質的に豊かになった、その頂点が元禄時代であったということです。

しかし、やがて資源の開発は頭打ちになり、人口だけは増えてくるというアンバランスが起きて、経済は停滞します。
そこへ、天候不順による大飢饉が追い打ちをかけます。
各藩や幕府の財政も苦しくなった時に登場したのが、紀州藩の財政立て直しの実績を持つ徳川吉宗です。

吉宗は、幕府自ら手本を示して、各藩や庶民に倹約を奨励します。
いわゆる、「享保の改革」です。
しかし、倹約ばかりでは世の中が暗くなるので、併せて、金を掛けなくてもできる楽しみも奨めたそうです。
そのひとつが花見で、江戸城内の桜の木1200本を掘り起こして、飛鳥山に植え、隅田川沿いにも沢山の桜を植えて、庶民が楽しめる場を用意したといいます。

これによって、元禄時代の物質的な娯楽から、文化・文政時代の知的・質的な娯楽へと変わっていって花開いたのが、いわゆる「化政文化」だそうです。

吉宗のブレーンであった儒学者・室鳩巣(むろ・きゅうそう)の書いた、「名君家訓」というのも紹介されました。

「心に偽りを言わず、身を私に構えず、心素直にして外に飾りなく、作法乱さず、礼儀正しく、上に諂(へつら)わず、下に驕らず、己が約束を違えず、人の艱難を見捨てず、(略)
さて、恥を知りて首を刎ねられるとも、己がすまじきことはせず、死すべき場をば一足も引かず、常に義理を重んじてその心鉄石のごとく、また温和慈愛にして物のあはれを知り、人に情けあるを節義の士と申し候」


小栗上野介忠順という人は、正にそのような人柄であったのではないかと思います。
この日、小栗上野介を讃えた「小栗讃歌」が演奏されました。
作詞は、小栗上野介菩提寺の、旧倉渕村・東善寺のご住職・村上泰賢師です。

では、お聞きください。


德川恒孝氏は、次のような言葉で話を締めくくっておられました。

「永遠の右肩上がり経済はあり得ない。
日本に蓄積されてきた、優れた文化の再発見が必要ではないか。
それは、簡素な生活と学問、文化の豊かさ、優れた道徳観念、知足文明への道である。」


長い記事になってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。

【高崎シティギャラリー】
「小栗上野介展」は、12月12日(日)まで開催しています。(入場無料)
午前11時と、午後2時にはギャラリートーク(展示物説明)があります。





  


Posted by 迷道院高崎at 19:46
Comments(6)高崎町なか

2011年08月22日

号外!今日の「ちい散歩」

今日だったんですね!
午前9:55からのテレビ朝日「ちい散歩」
「群馬高崎城下町の マル秘上州名物&伝統の職人技に大興奮」だそうです。

たぶん、中村染工場さんが登場するはずなんです。

遅い情報で、すみませんm(__)m
見てください!


  


Posted by 迷道院高崎at 08:35
Comments(0)高崎町なか

2011年08月28日

号外!こないだの「ちい散歩」

前々回、「号外!今日の”ちい散歩”」という記事をUPしたところ、沢山の方のアクセスを頂きました。
もしかすると、その日の「ちい散歩」の内容が書かれていると思ってご訪問頂いたのかも知れないと、ちょっと申し訳ない気がしていました。

また、高崎観光協会には、番組を見た方から「あのお店はどこ?」という問い合わせが殺到したそうです。
そこで、番組のキャプチャーをちょこっと拝借して、撮影場所のご紹介をしたいと思います。

スタートは、高崎駅
「だるま壁画」が紹介されていました。



ちいさんに、「ほら、こんな風に遊んでるところなんかも、素敵ですよ。」と誉めて頂いたのは、通称「せせらぎ通り」とよばれる東一条通の水路にあしらわれた、竹筒と草花のオブジェ。
もともと高崎城下には水路が縦横に巡っているのですが、今はみんな暗渠にしちゃいました。もってぇねぇな。




ちいさんを、「うっほっほっ!」と喜ばせた、「オリタ」焼きまんじゅう
何てったって、上州の一大名物です。
そういえば、最近やたらと肥大化している高崎駅「エキナカ」には、焼きまんじゅうを食べさせるお店ってあるんでしたっけ?




ちいさんが目に留めたのは、通称「赤レンガ通り」と呼ばれる職人の街「南銀座商店街」の、「高橋鋸店」
佇まいの良い街や店には、誰でも立ち寄りたくなるものです。




「南銀座商店街」には、柳家紫文さんもよく立ち寄る呉服店「きもの彦太郎」、蔵造りの和風喫茶店「棗」「高橋鋸店」とともに刃物を扱う、その名も「刀屋」が軒を並べ、いい雰囲気を醸し出しています。

◇過去記事「紫文師匠 ら・たんす登場!」


詳しくは紹介されませんでしたが、面白い話が沢山伝わっている赤坂町「長松寺」です。



ちいさんが懐かしそうに見上げていた「長松寺」近くのこの家、私にとっても実に懐かしいお宅なんです。

結婚するのに平屋の二間じゃ親と同居はできないと、改築するまでの間、こちらの土蔵をお借りして暮らしておりました。

今となれば、土蔵暮らしとは何と素敵なと思うのですが・・・。


ちいさんが盛んに不思議がっていた注染という技法を、群馬県でただ一社続けている「中村染工場」
放映後、沢山の方が欲しがったという「あじさい」の手拭いは、収録が6月だったということもあって在庫も少なく、すぐ完売してしまったとのことです。

◇過去記事「高崎の誇る注染工場」


ちいさんが、「あー、レンガの煙突が、素敵な佇まいですねー。」と言っていた、「岡醤油醸造」
近江商人の心得を今なお受け継ぐ社長さんは、誰が行っても丁重に迎えてくれます。

◇過去記事「日本一しょうゆ」


ちいさんの今日の一枚は、
「初夏の風になびく、中村染工場の手拭いの干し台」でした。


今回の散歩は、3時間半、6003歩と言ってました。

高崎駅から「岡醤油醸造」まで、距離にして3.7kmです。

ちいさんも言ってます。
「散歩っていいですよー!さあ、散歩に出かけましょう!」

皆様、ぜひぜひ高崎の町を歩いてみてください。

9月には、群馬DC企画としてガイド付きで「高崎城址と下町めぐり」が行われます。
 ・9月3日(土)、4日(日)、10日(土)、11日(日)
 ・集合場所:JR高崎駅総合案内所(ビジターセンター)脇
 ・集合時間:午前9時
 ・所要時間:~午後0時30分頃
 ・申し込み不要
 ・参加費:無料
詳しくは、こちら


  


Posted by 迷道院高崎at 17:03
Comments(9)高崎町なか

2011年10月29日

風船爆弾と高崎高等女学校(1)

2010年08月30日の記事「高崎が沈んだ日」の私のコメント、
「軍需工場といえば、当時の県女では風船爆弾を作っていたらしいですね。 やっぱり空襲で誘爆を起こしたと聞きます。」
に、シュワちゃんさんからこんなコメントを頂きました。

突然で失礼します。高女がその工場だったのですか? 風船爆弾は、日本火薬(岩鼻町)で、市内の高等女学校全てが参加していたようです。
県女と市女に在学中であった母と親戚が私に言っていました。 当時は徒歩で、今の群馬の森と日本火薬のところだと。
当時はパイロットの「パラシュート」の製作と言われて勤労奉仕をさせられていたとも言っていました。 女子挺身隊 というやつでしょうか。敬礼の仕方もそこで教えられたとも言っていました。
母達には疑う余地はなくパラシュートと信じて取り掛かっていたと言います。 それは、空気の入る部分のみの製作で爆弾本体は、見たこともない。だからパラシュートの説明で納得させられたと。
ウィキペディアの現在の県立前橋女子高校には風船爆弾を作っていたという記述がありますから、県女・市女で製作していた?ということもあるのか。
私は、実際資料等で確かめた訳ではなく、母の記憶が100%確かであるとは思えません。しかし、歩いて行ったと言っていましたから、行ったことは事実だと思います。県女・市女の体育館等の広いところで、残りの生徒?が製作していたのかも知れません。 しかし、母も親戚の方も全員で行ったと語っていましたが、、、」

少し前の記事だったので、高女風船爆弾を作っていたという話をどこで見たのか記憶が定かでなく、確認をしてご返事することにさせて頂きました。

で、調べた結果、「新編・高崎市史 通史編4」に、次のような記述がありましたので、ここでご報告させて頂きます。

二回目の空襲は、(略)八月五日午後九時四十分から六日午前零時八分の間、第一目標である前橋市に、(略)
その時、高崎も日高町付近、塚沢国民学校(塚沢小)付近、末広町の青果市場、県立高崎高等女学校や北国民学校(北小)辺の請地町、成田町、高崎商業学校付近の台町から住吉町辺、上並榎町などが爆撃された。
当時、女生徒が学校工場で風船爆弾を製造していた高等女学校では、岩鼻火薬製造所から運ばれていた火薬が誘爆を起こした。
現在、市立図書館になっている同校跡には、こぶ状の痕跡を残す楠の木が残っている。」


また、シュワちゃんさんのお母様とご親戚の方がお話しされていたという、岩鼻火薬所への勤労奉仕も確かにあったようです。
「高崎市教育史 下巻」「戦時教育 勤労動員等」の項には、次のような記述がありました。

同校(県立高崎高等女学校)の勤労動員はこのほかにも行われており、十八年(1943)には岩鼻火薬工場をはじめ、学年別に(略)農村への出動がなされた...
十九年には範囲の拡大もあって、工場として榛名航空高崎工場、倉賀野須賀工場、日清製粉高崎工場、(略)堤ヶ岡の飛行場造りもこれに加わった。
これら勤労動員と並行して十九年になると学校工場の開設が相次ぎ、同校もその波の中に入った。
校舎内施設として、講堂、雨天体操場、東館一教室、旧校舎前に急増されたバラック四教室が利用され、三、四年生が主力となって風船爆弾の製造や薬包作業に従事した。


シュワちゃんさんのおかげで、うろ覚えだったことを改めて調べることができました。
ありがとうございました。

また、「風船爆弾」にも俄かに興味が湧いてきて、調べてみたら、これもまた面白いことが分かってきました。
そのお話しは、また次回ということに。


  


Posted by 迷道院高崎at 20:38
Comments(10)高崎町なか

2011年11月03日

風船爆弾と高崎高等女学校(2)

シュワちゃんさんのコメントがきっかけで、「風船爆弾」のことをもう少し知りたくなりました。

「風船爆弾」という言葉は、ずいぶん前に聞いていました。
アメリカ「原子爆弾」というとてつもない兵器を開発している時に、日本では「紙風船」に爆弾をくくりつけて風任せとは・・・、なんて思ってました。

何となく、風船に花の種やメッセージを結びつけて飛ばし、それが遠く離れた地に落ちて・・・などという、そんな絵柄とも重なって。

「風船爆弾」については、無差別攻撃兵器として戦犯問題が起こることを恐れ、終戦時、陸軍省の証拠隠滅命令によってすべて処分され、関係者もずっと口を閉ざしてきたということです。

そんなことで、「風船爆弾」の実態が明らかにされてきたのは、昭和も終わりに近い頃だったとか。

「風船爆弾」を使ったのは日本が初めてではなく、1849年(嘉永二年)のイタリア独立戦争において、オーストリア軍がベニス攻撃に使っています。
日本では、満州事変後の昭和八年(1933)頃、国境を越えて相手側に宣伝ビラを撒くことを目的とした小気球が開発されていました。
この開発をしたのが、旧陸軍第九技術研究所(通称「登戸研究所」)第一課第一班で、後に「風船爆弾」を開発することとなる部署です。

「風船爆弾」アメリカ本土を目指して発射されたのは、敗戦色の濃くなった昭和十九年(1944)、神風特別攻撃隊が初出撃した直後の11月3日でした。
このことから、「風船爆弾」はいかにも負け戦のやぶれかぶれで行われたように思っていたのですが、その開発を始めたのは日米開戦から10カ月後、まだ日本側に勢いが残っていた昭和十七年(1942)の9月頃だったようです。

同年12月に、千葉県一宮海岸から直径5mの気球を試験的に飛ばし、飛行時間5時間を計測しています。
当時の上空の風速が時速100kmだったので、飛行距離は500kmと推測していますが、アメリカまでは遥か7,000km以上あります。
翌年春の実験により、気球の直径を6mにすれば1,000kmの飛行は可能として、潜水艦でアメリカ西海岸の沖数百kmまで近づき、そこから発射する案も出ましたが、いよいよ「玉砕」の語も聞かれ始める戦況となり、潜水艦を使う余裕は既にありませんでした。

気球の高度維持装置の発明と、直径10mの気球採用による実用試験の結果、日本本土からアメリカ本土まで到達できる見込みがついたのは、開発開始から1年以上も経過した昭和十八年(1943)の末でした。

そして、決戦兵器として2万発の「風船爆弾」を製作することが決まった時は、すでに昭和十九年(1944)の夏になっていました。

そこから、わずか数カ月で1万発の「風船爆弾」を完成させたのです。
全国の手漉き和紙の産地では民間用の生産をすべて中止し、「風船爆弾」用和紙の大量生産を始めました。
気球1個当たり、使用する和紙は約600枚だというのです。

また、気球を貼り合わせるためのコンニャク糊製造のため、全国の店頭からコンニャクが姿を消したとも言われます。

そして全国でおびただしい数の勤労動員が始まり、女子挺身隊、学徒隊の乙女達が昼夜二交代12時間労働の突貫作業で、1万発の気球が造られていくのです。

送風機で空気を入れる満球テストに合格すると、彼女たちは「万歳」を叫び、逆に破裂したりすると口惜しがって泣き崩れたそうです。

完成した「風船爆弾」は昭和十九年(1944)11月3日、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の発射基地から、初めてアメリカ本土へ向けて放たれました。

翌年の春までに放球した「風船爆弾」は9,300個、そのうち約1,000個がアメリカ大陸に到着したと推計されています。

しかしその到着状況を日本軍に知られることを恐れたアメリカが、徹底的な報道管制を布いたため、「風船爆弾」の成果はよく分かっていないようです。
唯一報道されたアメリカ側の人的被害は、報道管制のため「風船爆弾」のことを知らずに不発弾に触れた、ピクニック中の民間人6人(女性1人と子供5人)の爆死です。
昭和二十年(1945)5月5日とされていますので、偏西風が弱まって「風船爆弾」を放球できなくなってから2カ月も経った時のことです。
そしてその3カ月後、日本広島には、原爆が投下されました。

いろいろなことを考えさせられる、「風船爆弾」でした。

         ◇Wikipedia「風船爆弾」
         ◇「高崎女子高校同窓会報」より

(参考図書:林えいだい氏著「写真記録 風船爆弾 乙女たちの青春」
元第九陸軍技術研究所少佐・武田照彦氏著「ふ号兵器の開発」)


  


Posted by 迷道院高崎at 17:15
Comments(6)高崎町なか