2010年07月30日

眠室(ねむろ)のある布団屋さん

眠室(ねむろ)のある布団屋さん本町三丁目にある、天保七年(1836)創業の寝具店・金澤屋さんです。

漆喰の白壁と黒い板壁のコントラスが実に美しい、風格ある建物です。

かつての中山道沿いには、このような建物が建ち並んでいたのでしょう。

眠室(ねむろ)のある布団屋さん現在の建物は平成15年(2003)に改装されていますが、梁や柱は昔のまま使っているので、昭和三年(1928)築造当時の風格をよく残しています。

改装にあたっては、七代目店主・本木毅さんの、昔のものを残そうという強いこだわりがあったようです。

眠室(ねむろ)のある布団屋さん入口を入って真っ先に目に留まるのが、昔懐かしいレジスターです。
なんと、昭和40年くらいまで使っていたそうですが、さすがに、お釣りが正しく出てこなくなったので、現役を退いたのだとか。

眠室(ねむろ)のある布団屋さん右の写真で、間柱のようなの、何だかお分かりでしょうか。→

私も知らなかったのですが、「唐弓」(とうゆみ)といって、弓のように弦を張って、綿をほぐす道具だそうです。

店舗の改装時、七代目はここに流木をあしらおうかと思ったようです。
ところが、その流木が意外と値段が高かったので、じゃあと、家に沢山残されていた「唐弓」を使ってみたら、これが意外にいい雰囲気だったとか。
「唐弓」は、綿打ち職人さん各々が持っていたもので、よく見ると夫々職人さんの名前が入っています。

昔は、多くの職種で「西行」(さいぎょう)と呼ばれる、全国を旅しながら仕事をする「渡り職人」がいたそうです。
職を求める時は、「手前生国と発しますは・・・。」と仁義を切って、身分を明らかにしたといいます。(履歴書じゃなかったんですね。)
綿打ち職人にもその西行さんが多く、金澤屋さんにも多い時で20人くらいの職人さんがいたそうですが、機械化が進んで大正年間にはその姿を消します。

眠室(ねむろ)のある布団屋さん2階も、店舗というより、風情たっぷりな古民家のようです。

障子に貼られているのは、昔の注文請台帳です。
             ↓
眠室(ねむろ)のある布団屋さん


〇に横一本棒が引かれているのは、納品済みという印だそうです。
眠室(ねむろ)のある布団屋さん
組子細工の欄間が、とてもお洒落です。 →

「眠室」(ねむろ)は、このドアの向こうです。↓
眠室(ねむろ)のある布団屋さん

実際に、この部屋で眠りを体験することができるんです。

部屋のカーテンが自動で閉まり、照明がだんだん暗くなって睡眠を誘い、30分ほど眠ると、また段々照明が明るくなって、心地よい目覚めができるようになっているそうです。
ちゃんと、パジャマまで貸してもらえるんですよ。
おどろきでしょう?!

平成二十年(2008)にオープンしたこの「眠室」は、店舗2階の改装に合わせて造られた、七代目こだわりの「睡眠ルーム」です。

昔の佇まいで、最新の商品を提供する。
これからの、城下町高崎再生のお手本になりそうな金澤屋さんでした。

【金澤屋】





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Posted by 迷道院高崎 at 06:57
Comments(8)高崎町なか
この記事へのコメント
金澤屋さん、お見事ですねー。
「睡眠ルーム」を作ってしまうなんて、すごいアイディア!
また、昔のものを上手に利用されていて、それが“和モダン”として
素敵な雰囲気を醸し出していますね。
改装中の様子を公開されているのも、興味深いです。
迷道院さんの取材も隅々まで行き届いていて、
楽しませていただきました^^。
Posted by 風子風子  at 2010年07月30日 08:48
金沢屋って・・・・・

やはり、加賀のでなんでしょうか?

いにしえの、豪商の趣です。

維新より、その経済成長と計るように発展してきましたね。

人造都市、まあ城下町ってそんなもんです。

信濃屋、越前屋、越中屋、近江屋・・・・・

16世紀の都市計画。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年07月30日 14:41
>風子さん

なかなかのお店ですよ!
外からだと、ちょっと敷居が高く見えますが、ぜんぜん!

私なんぞ厚かましく「ちょっと中を見させて下さい。」
と入りこんだんですが、快く案内して下さいました。
どなたも、みんな気さくな方ばかりです。

お近くにお出での節は、ぜひ!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月30日 20:35
>昭和24歳さん

たぶん、加賀からなんでしょうね。
すみません、調査不足です。

そういえば、金沢には「高崎」っていう店があるんでしたよね。

町づくりの主体が、豪商から行政に変わった辺りから、
町の姿が変わってきたような気がしますが・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月30日 20:44
「中曽根は信州だし、小渕だって新潟・・・・」

田中角栄さんのお話。

たしか、井上工業上野支店の給仕をされてたころの述懐。

迷道院さん、高崎の商家のルーツを調べてみるのも面白いのではないでしょうか。
つまり、高崎城開闢にあたり、城主の名残の地方から続々と商人が参集、城下町を形成。

まあ、僕は碓井郡豊岡村、川向うの出自です。
で、父の代まで萬や兼業農家でしたけど・・・・
それこそ、当時の子どもたちにとっては高崎の街に出るってえのは、今にすれば「東京」へ行くような感じだったわけです。

そんな城下町高崎を繁栄させた商人の歴史・・・・・
因みに、前述したと思いますが、「水村園」、「金子園」、「豊田園」は狭山の出自で、狭山における菩提寺はご一緒とか・・・・

今はありませんけど、「魚屋」さんとかのルーツ、とくに内陸の上州で海産物を商うそのルーツは興味があります。

そういえば、同級生の「平野屋」さんは大きな海産乾物問屋でした、九蔵町の。
青果では「八百為」さんでしたでしょうか、中通りの。その他、呉服の久保川(本町)とか・・・・
皆さんのルーツはどちらなのか。

二中のころ、社会科の教諭で「戸塚先生」という偉い先生がおられましたね、安中から風呂敷包で通ってこられていた。

「百姓をバカにするやつは許さん !!」

とかで、エライ剣幕で怒っておられた光景が今でも脳裏に。
その戸塚先生は「秩父事件」の大家です。

「高崎なんて、地方の食いつめもんが当てた街だ」

そもそも、高崎城開闢以前の「たかさき」(和田)ってどんな街だったんでしょうか?
まあ、和田城(屋敷城)も存在していたようですし。

嗚呼、アッチーーーッ !!
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年07月31日 09:36
>昭和24歳さん

こっちーーーっ!!

いや、心頭滅却すれば・・・、無理ですね!

商家のルーツを調べるのも、面白そうですね。
たぶん、生粋の高崎人は皆無に近いんでしょうけど。
ま、生粋の江戸っ子てのもほとんどいないようですし、そもそも生粋の日本人だって・・・。

和田は、東山道や鎌倉道の宿場町だったらしいですね。
馬上宿と金井宿というのが和田城の南北にあって、高崎城ができるにあたって本町に移動したということです。

24歳さんの担任だった、石原征明先生にでも、講義して欲しいところですね。
頼んでくれませんか?
同窓会にも来てませんでしたね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月31日 19:15
>24歳さんの担任だった、石原征明先生にでも、講義して欲しいところですね。

まあ、不肖の生徒でしたから・・・・・

そんなお願いしたら、先生きっとビックリしちゃうかもしれません(笑)。

まあ、ぜひ聴講したいですね、高崎の歴史。

セットしませんかみなさんで・・・・

頼んでみますけど。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月01日 08:35
>昭和24歳さん

世に「不肖の子ほど可愛い」という言葉もある位で(^^)

よろしくお願いいたします!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月01日 09:24
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