2010年08月22日

高崎町役場と町奉行所

連雀町「さいち民芸店」さんに、こんな椅子が置いてあります。↓

古いものであることは分かりますが、一見、取り立てて何の変哲もない椅子に見えます。

ご主人曰く、
「これ、昔の町役場で使ってた椅子なんだよ。」
「え?どこの町役場?」
「ここに、焼き印があるんだけどね。」

見ると、「高崎町役場」と焼き印が押してありました。

そうそう、明治三十三年(1900)に高崎市になるまでは、高崎町だったんです。

明治二十二年(1889)に高崎町になったんですが、その前はというと、明治十一年(1878)に高崎驛になっています。
といっても、鉄道のではなく、宿(しゅく)に替えてそう呼んだのです。

だから、明治十七年(1884)に上野―高崎間に鉄道が開通して、鉄道の高崎駅ができた時は、きっと混乱したんでしょう。
しょうがなく、鉄道ののことは、「停車場」とか「ステンション」とか呼んだようです。

話が、脇道へ逸れました。

これが、高崎町役場の写真です。→

市制が施行された時に、そのまま高崎市役所として使われました。
前述の椅子も、きっと、高崎町役場の焼き印を付けたまま使われていたのでしょう。

この頃の市役所は、ちょうど今のスカイビルの場所にありました。

ですので、貿易会館も市役所の跡地に建てられた訳です。

スズランデパートのある所には、高崎区裁判所がありました。
俳人・村上鬼城は、ここで代書人をしていたのです。

あ、また横道へ逸れちゃいました。

明治四十四年(1911)に建て替えられた2代目市役所は、こんなモダンな建物でした。
高崎町役場の椅子は、この時も使われていたかも知れません。

ところが、昭和22年(1947)に火災に遭い、本町にあった公会堂を仮庁舎として移転しますが、そこでも火災が起きてしまいます。
たぶん、この辺りで高崎町役場の椅子は、払い下げになったものと思われます。

そして、昭和二十九年(1954)に高松町に4代目の庁舎を建てますが、そこが現在の「もてなし広場」になっています。
場所を転々とする度に大きくなって、平成十年(1998)に建てられた5代目の現・市庁舎は、高崎城の天守閣を遥かに凌ぐ21階建となりました。

「さいち民芸店」を出ようとした時、ご主人がこう言いました。
「この先に、町奉行所跡の標柱があるんだよ。」

それは初耳と、探しに行ってみたのですが分かりませんでした。
もう一度戻ってお聞きしたら、お忙しい中、一緒に来て下さいました。

この奥の木の後ろだというんですが、これは分かりっこありません。

よく見ると、ありました、ありました!

「史跡旧藩町奉行邸阯」と刻まれています。

側面には、「昭和二年 荻田建司建之」「道幅 貮間二尺」と見えます。

古城塁研究家の山崎一氏の描いた図によると、この標柱が立っている場所は「奉行所」で、「奉行邸」は、スズランデパートの所にあったようです。

いずれにしても、「町奉行所」の跡に「町役場」が、「町奉行屋敷」の跡に「裁判所」が建てられたというのは、歴史を大事にする昔の人の文化だったのでしょう。

今また、その文化が町を救う、そんな時代になってきたような気がします。


【高崎町役場があった所】

【町奉行邸阯の標柱】





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この記事へのコメント
お久しぶりです。


この椅子は博物館クラスの歴史遺産であると思います。
町役場時代は110年以上前ですし、その後の高崎空襲や度重なる火災を免れ奇跡的に残りましたね。

地元の方に以前伺ったのですが、大手前慈光通りを境にさやもーる側は空襲に罹災し、檜物町側は難を免れたとのことです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2010年08月22日 15:30
>ふれあい街歩きさん

こんにちは!

博物館クラスですか!
そういうものが、何気なく一般家庭に残っているのが凄いですよね。

そうか、高崎も空襲に見舞われたんでした。
母親も、川を渡って乗附まで逃げたとか言ってました。

その難を免れて残った歴史遺産、大切にしていきたいものですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月22日 18:37
迷道院さん

今日はお世話になりました。

そうですね。高崎も空襲を受けたんですよね。

私の母の実家は岩鼻火薬所の近くでしたので、空襲の時は(警報が鳴ると)、畑に逃げたと言っていました。
父は当時大学生で東京に居たので、高崎(当時岩鼻は群馬県多野郡岩鼻村だったのでしょうか? よくわかりません(汗))の空襲の体験はないようです。

今日ご一緒させていただいた、田町の手塚歯科医院の院長先生のお母様は藤岡出身だそうですが、その友達は(小学生だったそうです)、米軍機の機銃掃射を受けて、目の前で亡くなったそうです。

戦争は本当に悲惨です。
そういった戦争体験を訊くと、二度と戦争はおこしてはいけないと痛感します。

ちょっとズレタ内容になってしまいました。
Posted by キレイズキ  at 2010年08月22日 20:21
>キレイズキさん

いやいや、貴重なお話です。

今日もご参加頂き、ありがとうございました。
それにしても、紫文さんとのご関係は不思議でしたね。
最近、身近にそういうことばかり起きるので、ほんとにビックリし続けです。

岩鼻の火薬所も、米軍が撮影した航空写真が残ってますから、標的にはなっていたのだと思います。
危ないところでしたね。

全世界が平和になるのはいつなんでしょうか。
それともそれは、見果てぬ夢なんでしょうか。
いつか叶えたい夢ですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月22日 21:32
オフ会ではお世話になりました。
ブログ上では分からなかったことが
皆さんにお会いして
大分解けました。
感謝申し上げます。

さて、お尋ねです。
小栗上野介のご子息達は
高崎の牢獄に収監されたというのですが、
高崎藩の牢獄の場所は
この町奉行所内にあったのでしょうか?
それとも、異なる場所にあったのでしょうか?
一説に
鍛冶町辺りというのがあるのですが・・・
正確なところ(所)を教えてください。
Posted by いちじん  at 2010年08月23日 00:59
これはこれは迷道院様、またまた歴史に埋もれた貴重な物を発見しましたねえ。「高崎町役場」ですかあ。その風貌といい明治、大正ロマンを感じますね。ところで空襲なんですが。例
の家のお袋が幼少の頃、金古から前橋が真っ赤に空を染めて燃えているのを見てたって言ってましたが高崎も一部やられたんですか。ちょっと不勉強ですみません。やっぱり高崎は連隊があったからかなあ。いずれにしても戦争はイヤですなあ。フィリピンなどいまだに田舎の現地人の人々は「日本兵の亡霊がでるんだ」と言ってる所がありますよ。
ところで、昨日は大変勉強になりました。特に「高崎子供博」その存在さえしりませんでした。ぞうさんに両親が子供達を載せてあげているところがなんとも古き良き時代を感じさせました。森永キャラメルの看板も素敵でした。
お世話になりました。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年08月23日 05:26
>いちじんさん

本当に沢山の方にお集まり頂き、嬉しかったです。
夫々の皆さんの出自が、高崎の歴史に深い関わりがあるというのも、凄いことですよね。

山崎一氏作図による城下町図ですと、現在の南銀座通りとシンフォニーロードが交差する辺りが「牢屋敷」となっています。
http://img01.gunmablog.net/usr/inkyo/rouyashiki.jpg?k=1282518221

ただ、逆賊となったとはいえ、勘定奉行まで務めた小栗上野介の子が、町なかの牢に収監されたとは思えません。
おそらく、城内の牢だったんじゃないでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月23日 08:25
高崎山車まつりのとき、街中を少し歩いてみたのですが、
昔ながらの趣のあるお店があり、いいなぁと思いました。
「さいち民芸店」の前も通ったかもしれません。
木製の椅子、落ち着いた感じでいいですねー。
一脚の椅子の存在から高崎の歴史が見えてくる・・・素敵なレポートです!
わかりにくいところに保存されている史跡がありますが、
私も、何度も同じ所をウロウロすることがあります。
地元の方に訊ねるのが一番ですね^^。
Posted by 風子  at 2010年08月23日 08:53
>柏木沢の農家おじさん様

前橋の空襲はひどかったようですね。

その前橋大空襲のあった8月5日に、高崎も空襲を受けています。
でも、高崎の町なか一帯が最も大きな被害を受けたのは、残念なことに、敗戦の玉音放送があった8月15日午前0時の空襲だったんです。

「高崎子ども博覧会」のビデオは、スクリーンに写した映画を、ビデオカメラで撮影したものだそうです。
貴重なものを苦労して残して頂いたことに、感謝ですね。

それにしても、あの頃の観音山は活気がありましたね。
あの活気を、再び取り戻したいものです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月23日 08:54
>風子さん

今度、高崎へおいでの時は、ぜひ「さいち民芸店」さんにお寄りください。

和風の小物や、和紙、千代紙など、素敵なものが沢山あります。
それに、何しろご主人が高崎の生きた歴史を、よくご存知です。
お話を聞くだけでも楽しくて、ついつい長居をしてしまうお店です。

地元の人が知っている歴史を掘り起こす、そんな場が設定できるといいな、と思っています。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月23日 09:00
昨日は貴重なお時間ありがとうございました。

高崎の街ですけど・・・・・
リアルタイムではなかなか分からない部分があります。
過ぎてみて初めて、「あああるべきだった」とか「こうすべきだった」とか。
まあ、将来に向けての想像力でしょうか・・・・・

観音様100周年とかで再建のお話重要でしたね。
コンクリートの建造物、6、70年が寿命とか、人間もですけど(汗)。
その意味では、高崎名物観音様、市民の問題として、音楽センターの再建もいいですけど・・・・・
観音様は高崎の「ランドマーク」でもあるわけですから最優先されてしかるべきと思います。

お疲れ様でした。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月23日 09:23
>昭和24歳さん

チャリでのご参加ビックリしましたが、ありがとうございました!

前の晩は、着物姿で折りたたみチャリに乗っていた紫文師匠にもびっくりしましたが。

市民も、行政を頼らない心意気を持たないといけない時代かもしれません。
そういう市民を見れば、逆に行政の方が「何かしなくちゃ」という気になるかもしれませんし。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月23日 09:50
再び、牢屋敷について

高崎の古地図をありがとうございました。

上州路344号(32ページ)に
小栗又一(上野介の養子)は
高崎の石上寺(現東京電力)に
監禁されていて、
戊辰閏(1868年)4月7日に
従者3人と共に、
高崎牢屋敷に引き出され、
一度の取調べもなく斬首され、
梟首(きょうしゅ)された。
とありました。
  小板橋良平
   「小栗上野介と忠順と小栗騒動」

又一氏は石上寺に監禁され、
牢屋敷で・・・
ということは
城内の労屋敷には
入っていなかったようです。
Posted by いちじん  at 2010年08月23日 17:58
>いちじんさん

そうでしたか、石上寺に。
で、牢屋敷で斬首ですか。
酷い扱いですね。
それも、忠順の弁明をしに行って、そのまま捕えられたんでしたよね。

通常(?)の首切り場は確か別の場所にあったような気がしますが、手元に資料がありません。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月23日 22:34
行政って、統治なんですね・・・・・

悲しいかな民の声は届きません(笑)。
あのロシア革命でさえ貴族間の政権争いでしたから。
まあ、明治維新もそうです・・・・・

少なくとも地方はそうであってほしくないですね。
で、音楽センター建設の時の市民への寄付のお願いとかですけど・・・・・
姉に聞いたら「憶えてない」と。
っていうか、奉加帳が回ったのはいわゆる「市民」のところへであって、「町民」には(笑)。
多分あの時代ソレどころじゃあなかったかも知れませんから・・・・・
「一般市民が寄付」っていう一つの口実のために(笑)。
ましてあの時代昭和30年代、戦後です。僕のオヤジたちが行政、政治を信じているはずがありませんでしたから。元赤子の身ですから。

スミマセン。ひねくれちゃって・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月24日 15:37
>昭和24歳さん

ハハ(^^)ハハ
ひねくれちゃってますか。

確かに我々の世代、素直になれないとこがあります。
あの頃教わった先生の中に、そういう人がいたことにも影響されてるかも知れませんね。

ただ最近、民の声が届いたのかな、ということもあったりしてますので、声の出る限りは出し続けようと思ってます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月24日 20:45
>声の出る限りは出し続けようと思ってます。

心が広い !!
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月24日 20:49
>昭和24歳さん

了見は狭いです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月24日 21:42
迷道院様

お越いただき、ブログにお取り上げいただき、有難うございます。

椅子は、それほど大げさなモノではありませんので、弊店にお出でいただければ、どなたでもお座りいただけます。

街の色々な事ども、歩いて調べてお知らせください。
空襲のこと、忘れてはならない悲惨な出来事ででしたが、私が気になっているのは、当時、街中で、沢山防空壕なるモノがいたる所で掘られましたが、結局ほとんど役にはたたなかった、
という話です。
戦時中作られた防空壕が、今でも高崎のどこかに残っているのか、もしご存知でしたら教えてください。
観音山には、小生の子供のころ幾つか残っていた覚えがあります。
Posted by 雀の子  at 2010年08月24日 21:48
>雀の子さん

先日は、すっかり長居をしてしまいまして。
おかげさまで、面白い記事が書けました。
ありがとうございます。

私がこの目で見た防空壕は、堰代町のあるお宅でした。
小学2年の時の担任の先生が、その家を借りていて、一度、中を見せてもらいました。

もうひとつは、今の和田橋の所に、おそらく和田城の土塁跡だと思うんですが、その崖にに横穴があって、人が住んでいたんです。
たぶん防空壕だったろうと思います。


探せばきっと、まだ残っているのかも知れませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月24日 22:32
防空壕

実家にあしました。

烏川の端に実家はありましたので、家から川に降りるところに、コンクリートで固めれらた立派なのが・・。

父(大正15年生れ)が子どもの頃(多分大学に入る前位でしょう)に、職人?が来て作っていったそうです。
久しく父親とも話をしていないので、今度会ったら確認してみたいと思います。

私が子どもの頃には、立派な鉄の扉が付いていました(ジメジメした湿気の多い場所だったので、何年(何十年)毎に付け替えていたのだと思います。

つい最近の護岸工事でその場所も埋められてしまいましたけれど・・。
Posted by キレイズキ  at 2010年08月25日 00:11
>迷道院高崎さま
21、22日とありがとうございまいした。
また
>キレイズキさま、というより近藤君
ありがとう。

近藤君の家はなにしろ岩鼻監獄、もとよりこの不思議な縁で結ばれてしまいましたね。

高崎の空襲といえば、ウチの母は、岩鼻の火薬所の空襲を逃れるため、高橋(たかばし、中仙道の高崎線の高架橋)に布団を持って逃げたそうです。岩鼻の火薬所に落とされた焼夷弾、空中でゆらゆらとしながら、パッと広がる火のかたまりは、とても怖かったけれど、どんな花火よりキレイだったといっていました。は、
「焼夷弾の美しさを見たら隅田川の花火なんてとてもとてもかなわない、ばからしくて見られないよ」という母の言葉天の邪鬼な血を受け継いだ紫文にはよくわかる悲しい言葉です。
前の家のおばさんは炊けたばかりの米がもったいなくて、火に掛けた釜ごと風呂敷で背負って逃げたものの、気づいたら背中の皮が全部剝けていたとか、色々な話を聞きました。
「空襲が終わった後に、スコップを持った十五連隊の兵隊さん達が走って来たけど、手遅れでなんにも役に立たなかったんだよ」と言ってました。
焼夷弾が流されたのかして、火薬所よりも田んぼのほうの被害の方が多かったそうです。
Posted by 紫文  at 2010年08月25日 01:23
紫文さん、

こんな晩くに、お疲れ様。

>前の家のおばさんは炊けたばかりの米がもったいなくて、火に掛けた釜ごと風呂敷で背負って逃げたものの、気づいたら背中の皮が全部剝けていたとか

ホント、戦時体験は、その経験者にとっては真剣なことなのでしょうが、全くその重大さ(危険度)が実感できない人間にとっては、失礼ながら滑稽に見えることもありますね。

「たかばし」・・・

随分久し振りに聞きました。
そうそう、あの高架橋、そう言ってましたね。でも良く覚えてましたね。
その記憶力に脱帽です。
Posted by キレイズキ  at 2010年08月25日 01:52
>キレイズキ様へ

はじめまして。

郡の境が気になったので調べてみましたら、当時岩鼻村は群馬県群馬郡岩鼻村でした。

この辺りは烏川を挟んで北側が群馬郡(ただし、現玉村町の角淵地区以東は佐波郡)、南側が多野郡(ただし、現高崎市寺尾町より西北は群馬郡)であるようです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2010年08月25日 03:44
迷道院様、期せずして皆様のコメントで戦争のお話を拝読させていただきました。防空壕、ここいらへんでは農家の裏の竹藪に素掘りで掘ったといいます。それは竹の根を張っている所が丈夫だからだそうです。それから焼夷弾は昔、祖母から聴いた話ですがずいぶん田んぼに落ちて田植えが終わったばかりの田んぼがダメになったそうです。
戦後65年の歳月が流れ戦争体験者の方が少なくなりつつある今にこれらの話を語り続けなければならないと思いますね。よく言われる事ですけど。あと私が興味あるのは8月15日を境にして人々の考えや価値観が「進め一億火の玉だ!」から「天皇は人間であるアメリカ式の民主主義を」に変わった混乱をどのようにして受け止めたのかという事です。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年08月25日 05:20
>キレイズキさん、紫文師匠
>ふれあい街歩きさん、柏木沢の農家おじさん様

みなさん、雀の子さんの問いかけにお答え頂き、ありがとうございました!
おかげさまで、中身の濃いお話を沢山聞くことができました。

私が見せてもらった堰代町の防空壕は、竪穴式でした。
上に鉄板の蓋が付いてましたが、あれではたぶん、いざという時は役に立たなかったんじゃないでしょうか。

「たかばし」付近は、「梅乃木大神」を探しに散々歩き回りました。
http://inkyo.gunmablog.net/e49258.html
五万石騒動の、高井喜三郎が捕えられたのもこの辺でしたよね。
http://inkyo.gunmablog.net/e49707.html

少し涼しくなったら、岩鼻界隈の散策会でも企画してみようかな?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月25日 06:50
皆様、こんにちわ♪

先日は、大変お世話になりました。

今日、91歳の患者様が見えたので、高崎の村役場の話を聞いてみました。91歳とは思えぬほど頭脳明晰でいらっしゃって、はっきりと覚えているとおっしゃってました。15連隊の事も良く覚えているそうです。

それから、処刑場の話が出ていましたけれど、駅からまっすぐ市役所方面に行くと、南銀座通りとぶつかって交差点になっています。その角に、小林駐車場さんがあるのですが、そのあたりが処刑場だったと聞いています。私自身は何のエビデンスも持っておりませんが、土地台帳というのを見ると、その場所が以前なんだったかが分かるそうです。

これからも宜しくお願いいたします。
Posted by てづかゆりこ  at 2010年08月25日 14:51
>ゆりこさん

おー、これはこれは、ご訪問ありがとうございます!
こちらこそ、宜しくお願い致します!

先日の「いろり」では、大輪の花が咲いたようでございました。
ありがとうございました!

その91歳のご婦人、一度お会いしてお話を伺いたいような気分です。
高崎の昔を知っている人の話を、ビデオで残したいなぁと思い始めているんです。

なるほど、土地台帳か!
今まで、図書館で時間を掛けて調べていましたが、その手がありましたね。

やはり、三人寄れば文殊の知恵。
それに加えて、弁天様の知恵も。
ありがたいことです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月25日 19:03
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高崎町役場と町奉行所
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