2010年08月30日

高崎が沈んだ日

高崎が沈んだ日物騒なタイトルですが、上滝町にある、高崎市歴史民俗資料館ミニ企画展です。

期間は、8月31日(火)~9月26日(日)
の予定です。

民俗資料館へ伺った時、職員の方全員、汗びっしょりで展示の準備をされていました。
いつも何気なく見させて頂いてますが、陰で大変なご苦労をされていたのですね。

高崎が沈んだ日まだ、展示の途中でしたが、「どうぞ、どうぞ。」ということで、見させて頂きました。

高崎が沈んだ日



ガラスケースの中には、明治四十三年(1910)の水害の絵葉書が飾ってありました。

「水害を絵葉書にするなんて!」と思いますが、当時はテレビなんてものはありませんでしたから、その様子を報道写真家が撮影して、このような絵葉書を展示したり、販売したりしたんだそうです。
その売り上げの一部は、被災者への救済資金にも充てられたようです。

高崎が沈んだ日高崎は、昭和十年(1935)にも大きな洪水に見舞われていますが、その絵葉書も展示されています。

高崎が沈んだ日



石原町「七士殉職供養塔」は、その時に殉職した七兵士の供養塔です。

実は、ここんところ何度も登場頂いてる、連雀町「さいち民芸店」さん。
そのご主人が、この「水害絵葉書」を始め、昔の高崎絵葉書を沢山集めているんです。
いつか、それもご開帳頂いて、昔の高崎を知る方々の座談会でも出来たらいいなと、密かに思っているところです。

さて、ミニ展示会「高崎が沈んだ日」、8月31日(火)からです!

ぜひ、お出かけください!


【高崎市歴史民俗資料館】





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Posted by 迷道院高崎 at 20:43
Comments(27)◆高崎雑感
この記事へのコメント
母の話では、高崎の水害があった時、中央小学校は池になってしまったそうです。

うちの母は末広町で、まだ北小がなく、中央小まで通っていたそうです。

ついでに、県外のひとがこんなに高崎の写真を撮ってくれています、地元の人ならすぐわかると思います。

http://mikkagashi.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-e8f5.html

しかし、かなりレトロだな~
Posted by tack  at 2010年08月30日 23:08
高崎水害ですかあ。まったく知らなかったです。「七士受難供養塔」も知らなかったです。兵隊さんが7人も流されたなんて。
現在の17号は戦後に開通したのですね。貼り付けられたお写真、興味深く拝見しました。先日の高崎空襲のお話もそうですがまだ小生の知らない高崎の歴史がいっぱいありますね。
昨日、高工の裏で仕事をしてて通りがかった昭和7年生まれのおじいちゃんに高崎空襲のお話を伺いました。印象に残ったのは烏川に泳ぎに行ってたら土手で艦載機の機銃掃射にあって思わず河原の茂みに飛び込んだこと。その時艦載機のパイロットの顔やマフラーまで確認できたほど低空だったそうです。非戦闘員をねらい打ちですね。おっそろしいお話でした。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年08月31日 05:35
>tackさん

中央小学校はそうでしょうね。
すり鉢の底みたいな所にありますからね。
それにしても、末広町から中央小までとは、大変なことでした。
私は堰代町だったので、高崎神社の裏を抜けてすぐでしたが。

教えて頂いたブログに訪問させて頂きました。
ずいぶん沢山の写真で紹介して頂いてますね。
ただ、その写真を見て高崎に行ってみたいと思う人がいるのか、いないのか。
そこが気に掛かります。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月31日 08:02
>柏木沢の農家おじさん様

私は、高崎の水害は知らないはずなんですが、夢で見たことがあります。
観音山の上にある水門を私が開けちゃって、下りてきたら村が水浸しになってるって夢で・・・。

機銃掃射を受けたおじいちゃんが13歳位の時の話ですね。
自分に置き換えて想像するとぞっとしますが、人間を平気で標的にできる精神状態になってしまうことも、恐ろしいです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月31日 08:21
>観音山の上にある水門を私が開けちゃって、下りてきたら村が水浸しになってるって夢で・・・。

だいたいそういう時って「寝小便」してるんです(笑)。

まあ、烏川、鏑川に堤防ができたのはいつの時代だったんでしょうか・・・・・
家内の実家は「阿久津」です。この間もお話しましたけど家の中に舟があった。
つまりあの共栄橋のところの堤防ですけどその昔はなかった。
烏川の堤防も、あの国道はその堤防の上につくられた新道でしたね。
君が代橋、聖石橋も危うく流されそうになったりしたそうですけど、「八千代橋」はしょっちゅう流されてましたね。

まあ、今は堤防も河川の浚渫もしっかり整備され堤防決壊のニュースはありませんけど・・・・・
まあ、そんなニュースになる地方の人は大変です。

その意味では、災害のない群馬です・・・・・
台風もだいたい避けちゃうし、あとは100年に一度みたいな人災ですね。山間部、心配です。

米軍の艦載機機銃掃射っていえば、僕の育った高砂町は軍需工場小島機械とかがありましたから、相当やられたらしいです。昭和20年。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年08月31日 14:33
>昭和24歳さん

してませんからっ!寝小便!(^^)

明治43年の洪水では、聖石橋、君が代橋、柳瀬橋、岩鼻鉄橋と、碓氷川・烏川の橋は悉く流されたそうです。

その頃、まだ八千代橋は掛かってなかったようですけど、我々の記憶に残ってる木橋の八千代橋は、確かによく流されてましたね。

軍需工場といえば、当時の県女では風船爆弾を作っていたらしいですね。
やっぱり空襲で誘爆を起こしたと聞きます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月31日 19:11
昭和10年の洪水、安中もかなりの被害を被ったようですが、手元にその資料がなくて詳細がわかりません。
板鼻あたりは、旧中山道の裏手に碓氷川から引いた水路がありますが(板鼻堰)、そこが氾濫して、一帯が水浸しになったという話は聞いたことがあります。

群馬は災害が少ないとよく言われますが、そこに落とし穴がなければよいのですが。。。
例えば個人的に地震などの対策をしているという話を聞いたことがないので、時々心配になります。
Posted by 風子風子  at 2010年08月31日 21:50
>風子さん

確かに、自分の地域に大災害が起きるとは、あまり考えてませんね。

行政からは、ハザードマップももらってますが、みしみて見てないのは、いけませんね。
奇しくも明日は防災の日ですか。
引っ張り出して、見てみようっと。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月31日 22:04
あれですか、迷道院さま、あの狭い八千代橋、私のうろ覚えの記憶でも木造だった様な気がしますが、と言うことはつい最近まで木造だったという事ですか?
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年09月01日 05:02
>柏木沢の農家おじさん様

八千代橋が木造から鉄骨になったのは、昭和62年だそうですから、つい最近ですね。

木橋の頃は、時代劇の映画によく使われていたそうですが、確かにそんな雰囲気でしたね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月01日 07:09
>柏木沢の農家おじさん様

水害ではなく、人災の報告です。
今日から、毎週水曜日に
箕郷文化会館にお邪魔します。
来年の2月27日(日)に
上演される「空っ風の吹く前に」の
準備のためです。

今の箕郷の文化に貢献したいのですが、
文化破壊になってしまうかもしれません。
新参者ですが
よろしくお願いします。
Posted by いちじん  at 2010年09月01日 09:31
>いちじんさん

横からすみません。

そんな人災は、大歓迎じゃないですか?
お気張りやす!

ところで、お髭は・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月01日 10:07
いちじん様、いえいえとんでもない。箕郷町の文化に貢献してくださって有り難いです。
誠に不遜な意見ですが、まだまだ都市部に比べれば文化的にも草深い地のような感じがします。どうかご存分にご活躍くださいませ。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年09月01日 19:06
>軍需工場といえば、当時の県女では風船爆弾を作っていたらしいですね。

突然で失礼します。
高女がその工場だったのですか?

風船爆弾は、日本火薬(岩鼻町)で、市内の高等女学校全てが参加していたようです。
Posted by シュワちゃん  at 2011年10月17日 00:29
>シュワちゃんさま

コメントありがとうございます!

何の本に書いてあったか失念しましたが、そんなことを読んだ記憶があります。
高崎市史だったか、実録たかさきだったか・・・。

すみません、あいまいな記憶で。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年10月17日 07:59
いえいえ、唐突に失礼しました。
記述があったのですか、私、見てみたいです。

そうしますと私が聞いた内容が正確でなかったのかも知れません。ごめんなさい。
県女と市女に在学中であった母と親戚が私に言っていました。
当時は徒歩で、今の群馬の森と日本火薬のところだと。

当時はパイロットの「パラシュート」の製作と言われて勤労奉仕をさせられていたとも言っていました。女子挺身隊
というやつでしょうか。敬礼の仕方もそこで教えられたとも言っていました。
母達には疑う余地はなくパラシュートと信じて取り掛かっていたと言います。
それは、空気の入る部分のみの製作で爆弾本体は、見たこともない。だからパラシュートの説明で納得させられたと。
ウィキペディアの現在の県立前橋女子高校には風船爆弾を作っていたという記述がありますから、県女・市女で製作していた?ということもあるのか。

私は、実際資料等で確かめた訳ではなく、母の記憶が100%確かであるとは思えません。
しかし、歩いて行ったと言っていましたから、行ったことは事実だと思います。
県女・市女の体育館等の広いところで、残りの生徒?が製作していたのかも知れません。
しかし、母も親戚の方も全員で行ったと語っていましたが、、、

高崎の市史をきちんと記録保存しているところってどこなのでしょうか。
やはり、新しく出来た中央図書館なのでしょうか。母が関っていることなので真実を知りたいです。

突然でたいへん失礼しました。
Posted by シュワちゃん  at 2011年10月17日 09:03
>シュワちゃんさま

いえいえ、お聞きになった話は間違いではないと思います。
岩鼻の火薬所で風船爆弾を作っていたということも、本で読んだことがあります。
図面も載っていたように記憶します。
学徒動員も、おそらくされていたんでしょうね。

私の方が不確かな記憶なので、何の本に載っていたかもう一度調べてみます。

郷土史の資料は中央図書館に多数ありますが、高崎市史は中央図書館以外にも、ほとんどの図書館で置いていると思います。
Posted by 迷道院高崎  at 2011年10月17日 09:20
中央図書館ですね。ありがとうございます。
市内各高校、記録は必ずあるのでしょうが業務としては教えてくれないのでしょうね。

一日中、紙を触っているため擦り傷を負って痛い思いをしたとか。
「誘爆」というのも、その何かの書籍なのでしょうか。

母が当時住んでいたところは、市女のすぐ隣で昭和町です。
母が言うには、空襲警報と共に母の両親と大きな下水設備の中に身を隠し直後に大きな振動と爆音は忘れられないと言います。
それは、県女の西側の道路に一度だけ空爆というより一発だけ間違えて落としてしまったという印象があったそうです。
それが一番近い空襲であったと。

母は18歳くらいでしたから、真実は知らないでしょう。経験した以外は。

昭和町から岩鼻町までは、いまでも歩くのは少々きつそうですね。
当時はたいへんな時代でした。
失礼しました。
Posted by シュワちゃん  at 2011年10月17日 10:07
>シュワちゃんさま

高崎経済大学の先生が、「歴史はオーラルヒストリーが一番大事なんだよ。」と仰ってましたが、お母様のお話はまさにそれですね。

私もますます興味が湧いてきました。
また何か分かったら教えてください。
こちらでも、もう少し調べてみます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年10月17日 19:45
またしても
登場してすみません。

義母は昭和元年生まれ
しかも生まれたのは京目町。
少女の頃
直ぐ近くの岩鼻の
火薬所に務めていました。

よく誤爆したので
その音がした時は家の人が
心配して火薬所まで
迎えに来てくれたという話を
聴いたことがあります。

風船爆弾を
コンニャク糊で
貼り付けて作ったことなど・・・
もう一度
聴いてみたいと思います。
Posted by いちじん  at 2011年10月18日 09:10
>いちじんさん

どうぞ、どうぞ。
何度もご登場いただいて、嬉しく思っていますので。

お義母さんが火薬所にお勤めだったとは。
それは、ご家族は心配されますよね。

それにしても、爆弾を風船に吊るして飛ばすとは・・・。
もう、風頼み神頼しかなかったんですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年10月18日 09:47
「オーラルヒストリー」ですか。説得力ありましたが、私の頃とは違いそれぞれの立場で戦っていたのかとため息が出ました。
母は、昭和2年生まれです。
いちじん様の義母さんと同じ時代で同じ経験をしているかも知れません。
ヒロポン(覚醒剤)の話しも出て来るかも知れません。下記の書籍に。

中央図書館に聞きました。
開館と同時に所蔵図書とし、
地域資料コーナーの「高崎市史通史編」に記載されているかも知れないとのことでした。もちろん学校(尋常小学校、高等小学校、国民学校、ニ中三中、高崎高校の引越しの経緯など)ことや15連隊、中央小の水害のことも書いてあるでしょう。
http://lib.city.takasaki.gunma.jp/contents/files/no48.pdf
Posted by シュワちゃん  at 2011年10月18日 16:24
>シュワちゃんさま

行動が速いですね!
中央図書館へ行かれましたか。

私も、何かにつけ図書館へ行っては、資料を漁っています。
これだけの蔵書が利用できるというのは、有難いことですね。
それに、館員の方々が実に親切です。
「こんな資料を探しているのですが。」というと、どんなに時間がかかっても探してくれます。

大いに利用したいですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年10月18日 22:52
知らなかった話が・・・

義母に火薬所の話を
すると
その仕事をする前に
蚕の雌雄を見分ける仕事を
していたそうで
下仁田や県外などへも
出かけて行ったそうです。

ひよこの雌雄の鑑別は
知っていますが
そんな仕事が在ったのだそうです。
そこで
蚕の雌雄の違いを
図示してもらいました。
60年以上前のことでしたが
カイコの尻の方を押さえると
メスには4個
オスには1個
印が出るとのことでした。

よくカイコの卵を「種」と言っていましたが
種を取る農家では
良い卵を産ませるために
カイコのうちから
オスとメスを分けて
育てるのだそうです。

雌雄の鑑別する機会は
今は殆ど
在りませんが
いつか、義母の往年の腕を
見られればと思っています。
Posted by いちじん  at 2011年10月19日 01:12
>いちじんさん

へ~~~っ!!
面白い話ですねー!
最近は、人間も雌雄の別がはっきり分かりませんが・・・。

水害の話から、随分話題が広がりましたね。
面白い話をありがとうございました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年10月19日 09:08
迷道院高崎さま、

いえいえ、電話で聞きました。なかなか行けませんが、親切であることは私も感じました。
風船爆弾製作の内容は、本が出ているようでがおおよそ全国区のようです。高崎ではどんな動きがあったのか知りたいです。
一生懸命国の命令に従事しても、時の流れで覚えている人は一握り、彼女達の汗は何だったのでしょうか。
岩鼻の現場を再現してでも、私達は後世に伝えて行きたいですが、、トホホですね。

すでにご存知かと思われますが、県女の記述があります。
http://www.glocalfive.net/tlg/jp/history7_j.html
Posted by シュワちゃん  at 2011年10月20日 00:26
>シュワちゃんさま

私もなかなか図書館へ行けず、シュワちゃんさまにご返事ができず申し訳ありません。

群馬の森の周辺は、火薬所跡の建物が立ち入り禁止のまま放置されていますね。
私も、あそこを戦争遺跡として伝えていくべきだと思っています。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年10月20日 16:56
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