2012年11月28日

控帳 「予が見たる二宮尊徳翁」

明治三十七年(1904)袋井学術講話会に於ける、内村鑑三の講演大要より抜粋。

(内村鑑三)は嘗(かつ)て『日本及日本人』(後に『代表的日本人』と変更)なる一書を英文にて著し之を世に示したり。
録する処、西郷隆盛、日蓮上人、上杉鷹山公等なりしが、之を読んで英米人の尤も(最も)驚嘆せしは二宮尊徳先生なりしと云ふ。
彼らが異教国と称するこの国に、かくの如き高潔偉大の聖人あらんとは、彼らの意外とせしところなりしと見ゆ。
(も)し欧米人が詳(つまび)らかに先生の性行閲歴を知りえたらんには、恐らく先生を以って世界における最高最大の人物に数ふるならん。(略)

近年日本に産出せられたる書物の中にて尤も大なる感化力あるものは、二宮先生の報徳記に若(し)くものなし。予が小児らに先(ま)づ読ましめたきものは即ちこの書なり。(略)
何故にこの書がかく偉大なる感化力を有するや、他なし、之れ真正の経済なるものは道徳の基礎に立たざる可からざることを、先生の事業生涯を以って説明したるものなればなり。
即ち身を以ってこの問題の解決を為したるなり。先生は経済と道徳の間に橋をかけたり。先生の一生は経済道徳問題の福音なり。この意味において報徳記は一部のクラッシック(古典)也。経書なり。

(そもそ)も現今経済を論ずるものは大抵倫理道徳と関係もなきものと為すものの如し。(略)
アダムスミスの『富国論』は著名なり。邦人皆之を読みて経済学上の大著となす。然れども彼は之をその倫理学の一篇として書きたるものなり。
然るに現今英米の学者輩、経済学を以って単に利慾の学問とせり。(略)
先生は否(しか)らず。道徳は原因にて、経済は結果なりと断じたり。至誠勤勉正直にして初めて経済の成立するものなりとせり。(略)
今日の経済学者は先づ算盤を手にす。先生は先づ至誠の有無を質(ただ)す。吾人、先生に学ぶところなきか。

今や不景気の声高し。この救済策を以って先生に問はば先生必ず云はん。先づ之を救わざる可からず。不景気の救済は不道徳の救済ならざる可からずと。
今時の人、ややもすれば挽回策を以って農工銀行や商業銀行の設立によると為す。然れども人心腐敗すれば斯くの如きものは却って之れ不景気の前駆となり、破産の機関となり了(おう)せん。(略)
畢竟(ひっきょう:つまる処)経済の本(もと)は金にあらずして人の心にあるなり。
此の点に於いて、先生の経済論は実に敬服の外なきなり。今の経済学者は、只之を以って金銭利慾の問題となして、人の意志に関する無形の倫理道徳の問題なるを知らず、真に憐れむべきにあらずや。」
(岩波書店「内村鑑三選集4 世界の中の日本」)




  


Posted by 迷道院高崎at 18:55
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2012年11月25日

栢山へ行ってきちゃいました(2)

金治郎が母没後に引き取られたという、伯父・万兵衛のお宅が現存していました。

もっと遠くに引き取られていったものと、勝手に思っていたのですが、金治郎生家のすぐ隣でした。

「報徳記」による万兵衛は、「甚(はなはだ)吝(やぶさか)にして慈愛の心薄し」と散々の言われようですが、さすがにこの看板では、「金次郎を早く一人前にしようという親心で・・・」となっています。

もうひとつ、この看板で気になったのは、「金治郎は18歳の時に人の手に渡っていた家を買い戻し」となっていることです。
生家跡にあった看板では「隣町に売られた家が戻ってきたのは、昭和三十五年」となっていました。
「報徳記」では、金治郎万兵衛宅を辞して帰った時は、
「僅かに虚屋(あきや)を存すと雖も、数年無住の故を以て大破に及び蔓草軒を蔽へり」
となっています。
さて、その真実や如何に?

万兵衛宅のすぐ近くに、村人の捨てた苗を金治郎が用水堀に植えて米一俵を得たという場所が、公園として残されています。




すごいなー!と思ったのは、そこを報徳小学校(校名もいい!)の学習田として、子どもたちに米作りの体験をさせていることです。

ここは、「日本の米づくり100選」指定水田にもなっています。

次は、金治郎のお墓があるという「善栄寺」へ行ってみました。

お墓といっても、金治郎の遺体は日光今市に葬られており、「善栄寺」二宮一族の菩提寺ということから、遺歯・遺髪を持ち帰って埋葬してあるということです。

境内には、座って宙を見つめ、何やら書いている金治郎の像があります。

この「善栄寺」では寺子屋を開いていたようですが、万兵衛の家に寄食していた金治郎が、寺子屋に通えたとは思えません。

また、箱に入れた砂に文字を書いて練習していたといいますから、紙の草子に筆で字を書いているこの姿は、作者の創作イメージなのでしょう。

台座には、「積小為大」(せきしょういだい:小を積みて大と為す)と刻まれていました。
「積小為大」について、「二宮翁夜話」にはこう書かれています。
大事をなさんと欲せば、小さなる事を怠らず勤むべし、小積りて大となればなり、凡(およそ)小人の常、大なる事を欲して小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて出来易き事を勤めず、夫故(それゆえ)(つい)に大なる事をなす事あたはず、 夫(それ) 大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり
(たとえ)ば 、百万石の米と雖(いえど)も粒の大なるにあらず、万町の田を耕すも其(その)(わざ)は一鍬づゝの功にあり、千里の道も一歩づゝ歩みて至る、山を作るも一簣(もっこ)の土よりなる事を明かに弁(わきま)へて、励精小さなる事を勤めば、 大なる事必なるべし、 小さなる事を忽(ゆるがせ)にする者、大なる事は必出来ぬものなり」 

手にしている草子には、「音もなく香もなくつねに天地(あめつち)は」と刻まれています。

これは、「二宮翁夜話」のしょっぱなに出てくる、金治郎の詠んだ道歌の一節です。

我が教へは書籍(しょじゃく)を尊まず。故に天地(あめつち)を以って経文とす。予が歌に
   音もなく 香もなく常に天地は
          書かざる経を くりかへしつゝ
とよめり。
此のごとく日々繰返し繰返して示さるゝ天地の経文に、誠の道は明らかなり。(略)
則ち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(みの)るが如き、万古不易(ばんこふえき:いつまでも変わらないこと)の道理により、誠の道に基きて、之を誠にするの勤をなすべきなり。」

手前の小さな墓石が、金治郎の遺髪と遺歯を納めたお墓です。

百五十回忌の菩提塔には、「一日に一字づつ習えば 一年に百六十五字になるぞ この小僧」と墨書されています。
まさしく「積小為大」を表していますが、気になるのは最後の「この小僧」です。

金治郎が野良仕事に出ようと善栄寺の門前まで来ると、一人の少年が真新しい手習いの草子を持って、寺に入るところでした。
呼び止めた金治郎が、少年の筆と草子を借りて書いたのが、「一日に・・・」という言葉だったそうです。

その言葉で少年を励ましたというのですが、だとしたら「この小僧」は余分でしょう。
おそらく、砂に字を書いて憶えた金治郎の、恵まれた少年への負けん気の表れだったと思うのですが、いかがでしょうか。

遺跡めぐりはまだ続きますが、長くなりましたのでまた次回。



  


Posted by 迷道院高崎at 08:24
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2012年11月21日

控帳 「五常 亡八 至誠」

「五常」とは、儒教で説く5つの徳目、「五徳」とも。
「仁」・・・思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうこと。
「義」・・・利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
「礼」・・・人間社会の上下関係で守るべきこと。
「智」・・・学問に励み、知識を重んじること。
「信」・・・言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。


「忘八」とは、仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を忘れること。


「至誠」とは、きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。


「二宮翁夜話」より。

翁曰、我が道は至誠と実行のみ、故に鳥獣虫魚草木にも皆及ぼすべし(及ぼすことができる)、況(いわん)や人に於るをや、故に才智弁舌を尊まず
才智弁舌は、人には説くべしといへ共(説くことはできるかもしれないが)、鳥獣草木を説く可からず(説くことはできない)、鳥獣は心あり(心があるので)、或は欺くべしといへ共(欺けるかもしれないが)、草木をば欺く可からず(欺くことはできない)
古語に、至誠神の如しと云といへ共、至誠は則(すなわち)神と云も不可なかるべきなり、凡(およそ)世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬものと知るべし」

さらに、
古語に、内に誠あれば必ず外に顕(あら)はるゝ、とあり、瑕(きず)なくして真頭の真直なる柿の売れぬと云事、あるべからず、
(それ)何ほど草深き中にても薯蕷(ヤマイモ)があれば、人が直(すぐ)に見付て捨てはおかず、又泥深き水中に潜伏する鰻(ウナギ)(ドジヨウ)も、必ず人の見付て捕へる世の中也、されば内に誠有て、外にあらはれぬ道理あるべからず、此道理を能(よく)心得、身に瑕のなき様に心がくべし」


迷道院独白。
いま、「信を問う」と荒野で呼ばわる声がする。
問いたきものは、公約にあらず、政策にあらず。
ただその者たちの至誠なり。
内に誠あれば必ず外に顕わるという。
見逃すまい、見逃すまい。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:33
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2012年11月18日

栢山へ行ってきちゃいました(1)

二宮金治郎の生誕地、神奈川県小田原市栢山を訪ねてみました。

←この石玉垣は、あの真珠王・御木本幸吉氏が寄贈したものだそうです。


大正四年(1915)に中央報徳会が建てた「二宮翁誕生遺蹟之碑」には、このようなことが刻まれています。
(略)明治四十二年 三重縣鳥羽町ノ人御木本幸吉氏 其ノ地久シク湮晦(いんかい:埋もれ隠れること)ニ属スルヲ憾(うら)ミトシ 貲(し)ヲ出シテ此ノ地ヲ購(あがな)ヒ 工ヲ起シテ適當ノ設備ヲ爲シ 其ノ歳十一月十五日ヲ以テ土工ノ一切ヲ竣(お)へ 其ノ地積ヲ挙ゲテ之ヲ本会二寄附セラレタリ(略)」

その御木本幸吉氏が寄贈した259坪の敷地には、今、「尊徳記念館」が建っています。

「尊徳記念館」は、昭和三十年(1955)建設の旧記念館を、昭和六十三年(1988)「二宮尊徳生誕200年祭」事業で改築したものです。

記念館では、尊徳の遺品や資料が展示され、その生涯と偉業が模型やアニメで分かりやすく紹介されていました。

この「回村の像」は、身長180cmという金治郎の等身大で造られているそうです。

金治郎は毎日欠かさず村の隅々まで回り歩き、村民の艱難・善悪、農業に精を入れているかいないかを、ただ黙って見究めたといいます。

「二宮翁夜話」には、こんな風に書かれています。
深夜或は未明、村里を巡行す、惰(だ:怠け)を戒るにあらず、朝寝を戒るにあらず、可否を問はず、勤惰を言はず、只自(みずから)の勤として、寒暑風雨といへども怠らず、一、二月にして、初て足音を聞て驚く者あり、又足跡を見て怪む者あり、又現に逢ふ者あり、是より相共に戒心を生じ、畏心を抱き、数月にして、夜遊・博奕・闘争等の如きは勿論、夫妻の間、奴僕の交、叱咤の声無きに至れり」

金治郎の生まれた家が、今もなお残っているというのは驚嘆に値します。

父・利右衛門が家督を継いだ時の二宮家は、二町三反六畝余の田畑を所有していた中流農家だったということで、31坪余のけっこう大きな家です。

「報徳記」によると、母が亡くなった時は「家財既に尽き、田地も亦(また)(ことごと)く他の有(もの)となる、残れるもの徒(ただ)に空家而巳(のみ)という状態だったようですが、ここの看板によると、家も隣村の人に売られて他所に移されたとあります。

売られた先がよかったのでしょうが、普通の農家の住宅として使われながら「金次郎さんの生家」として、大事にされてきたそうです。

「尊徳没後百年祭」にあたり、所有者から譲渡を受けて、昭和三十五年(1960)この地に戻り復元されました。

生家のそばに、尊徳の訓え「貧富訓」を刻んだ碑が建っています。

金治郎は、自分に相応した生活の基準を「分度」と言っていますが、遊楽と勤勉が「分度」の内か外かによって、自ずと貧にもなれば富にもなるということです。
今でもそのまま当てはまる言葉ですね。

さて、この後、近くの尊徳遺跡を回りましたが、そのお話しはまた次回。


  


Posted by 迷道院高崎at 09:32
Comments(4)◆隠居の控帳二宮金治郎

2012年11月16日

洒落たオーガニックCafe BIOSK

どこかのお宅のお庭のような、あるいは高原の別荘のような雰囲気です。




「オーガニックCafe」と私が勝手に呼んでいる、「BIOSK」(ビオスク)さんです。
「BIOSK」とは、お店の公式HPによると、「”BIO(自然食)製品専門”の小規模販売所」のことだそうです。

販売されている野菜は、無農薬・固定種にこだわっています。

今、世の中に出回っている野菜のほとんどは、「F1」(一代交配種)というタネで生産されているということで、つまり、その野菜から採取したタネを蒔いても、同じ野菜はできないということです。

「BIOSK」では、毎年毎年タネを採る「固定種」で、その土地に合った野菜を栽培することにこだわっているそうです。



毎年毎年タネを採ることにより、野菜がその土地に馴染み、気象の変化に対応できる力、農薬や肥料に頼らなくてもよい力を身に付けるのだとか。

そんな野菜を使ったお菓子には、上白糖は使わず、洗双糖・黒糖・メープルシロップを使っているそうです。

デッキテラスで、野菜&フラワー&ハーブ畑を眺めながら、身体に優しいお菓子とオーガニックドリンクを楽しむのも、なかなかいいもんでしょう。



若くて明るいオーナーの櫻井さんご夫妻、すもの食堂でお馴染みだった秋山さんが頑張っています。
みなさん、応援してあげて下さい!

今度の日曜日11月18日午後6時半から、農業のこと、タネのこと、BIOSKのことを語る「CAFE TALK」が催されます。
ぜひ、お出かけください。

BIOSK
〒370-0852
 高崎市中居町2-6-31
木・金・土・日のみ営業 
10:00~18:00
☎027-333-5753

【BIOSK】




  


Posted by 迷道院高崎at 14:31
Comments(0)◆高崎雑感

2012年11月14日

とある団地に秋が来た

秋がここまで下りてきました。

とある団地の公園です。





アメリカフウケヤキの並木も、ようやく色づいてまいりました。
ただ、この紅葉が楽しめるのは時間の問題かも知れません。

   ◇2009年11月19日 「丸刈り並木」
   ◇2010年11月13日 「フウの木の想い」
   ◇2011年11月06日 「たかさき景観まちづくり、ですか・・・」

と、まあ、毎年この時期になると、嘆いておる次第でして。
いつまた、あのチェーンソー軍団が現れるのか、戦々兢々の心地です。

おや?もう丸刈りにされていたのか!
と、思いきや、そうではありません。
今年の春から葉を付けていないんです、この木たち。

専門家ではないので分かりませんが、早すぎる丸刈りのせいだと私は思っています。


枯死したアメリカフウの切り株です。→

こんな切り株が、この並木道にはいくつもあります。





←去年バッサリやられた山茶花は、こんな具合です。

嗚呼、この悲しみを如何にとやせん。

今年は、アメリカフウの落葉を最後まで見届けてあげたいものです。



  


Posted by 迷道院高崎at 08:58
Comments(4)◆高崎雑感願い

2012年11月11日

藤塚の一里塚

隆起した国道18号跡から高崎へ向かって土手下の道を400mほど歩くと、群馬県で唯一現存する一里塚「藤塚の一里塚」があります。

しかし、こちら側から見ると目立たないものですね。

国道の向こう側に見えるのが北の一里塚、こちら側の大きな椋の木が立っているのが南の一里塚です。

南の一里塚の根元には、いくつかの石祠や石塔が建っています。

左から二つ目の石祠の中には「八坂神社」の木札が納められており、左側面には「三豊岡邨(むら)」と刻まれていて、この塚が豊岡村分であったことが分かります。

北の一里塚上には大きな木の代わりに鳥居とお社が建っています。

中山道が国道になり、その後の拡幅工事もあり、その度に北へ北へと移設されて、現在の姿になったのでしょう。

鳥居には「浅間神社」、社には「富士山」の額が掲げられています。

ここには昔から「富士浅間社」が祀られていたので、この塚を「富士塚」と呼び、字名の「藤塚」もここからきたものだということです。
そのことから、北の一里塚八幡村藤塚分となっていました。

ここには「一里塚」を示す看板が立っていませんので、それと知らずに前を通り過ぎる人も多いようです。

南の一里塚の東側には、「群馬県指定 一里塚」の石柱と解説版が、草に埋もれそうに建っています。

この解説板はなかなかよくできていて、中山道のこと、一里塚の基礎知識、この一里塚の整備の過程が分かりやすくまとめられています。
しかし、どうも耐候性には欠けるようで、不鮮明になりつつあります。
材質などを再検討して、もう一度整備して頂けないものでしょうか。
併せて、車を運転している人にも分かるような大きな表示を、国道側に向けて建って頂けたらなおいいのですが。

最近は、街道歩きを楽しむ方が増えてきたようで、国交省でもそれを意識して一里塚周辺の整備をしているようです。
街道らしく松をたくさん植えて、植栽の仕方も工夫した跡が見えます。

しかし残念ながら、排気ガスのせいか枯死した松も何本かあり、モニュメントとして配置した石も、伸びた草に覆われています。
現存する群馬県内唯一の一里塚で、県指定史跡にもなっている場所なので、景観的にもいまひとつ力を入れて欲しいところです。

併せて、「倉賀野の一里塚」「九蔵町の一里塚」の跡にも、説明板を設置して欲しいと思います。
そういえば、「九蔵町の一里塚」の記事に、野火止次郎さんという方からコメントを頂いたことがあります。
この方は、中山道一里塚について研究されていて、その成果をHPで公開してらっしゃいます。
 ◇「中仙道一里塚の研究」

ところで皆さん、一里塚から東へ750mほど行ったところに、こんな木橋がかかっているのをご存知でしょうか。

中豊岡乗附を結ぶ橋なので、「中乗橋」(なかのりばし)といいます。

高崎で木橋というと、「佐野橋」はよく知られているのですが、「中乗橋」は土手に上らないと見えないので、もしかすると知らない方も多いかも知れません。
かつては、少林山のだるま市というと、みんなここを行き来するので、すぐ脇にもう一本仮設の橋を渡して、一方通行にしたといいます。

この橋からの眺めが、けっこう素敵なんですよ。

ぜひ一度、お散歩コースに入れてみて下さい。

ただし、橋を渡った先にちょっと不気味なものもあるので、あまり薄暗くなってからはやめた方がいいかも・・・。


【藤塚の一里塚・浅間神社】


【中乗橋】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:55
Comments(6)中山道

2012年11月07日

控帳 「二宮金次郎 天保の大飢饉を救う」

ユーチューブで、こんなのを見つけた。
平成十七年(2005)放送、NHK「その時歴史が動いた」第233回。
途中、はしょっているところもあるが、「報徳記」の内容をよくまとめているように思う。







金治郎の史跡を訪ねてみたくなった。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:36
Comments(2)◆隠居の控帳二宮金治郎

2012年11月04日

隆起した国道18号



藤塚「大神宮様」から国道の向こう側を見ると、堤防にしては妙に膨らんだ格好になっているのに気が付きます。



藤塚歩道橋の上から見るとちょっとした小山のようで、国道がそれを避けるように曲がっているのが分かります。

高崎側から見ると、小山に上る道が二股に分かれています。
左側は堤防上への道、右側の道はこの先でぷつんと途切れていますが、これが昔の国道18号だと言われても、俄かには信じられないでしょう。

このことについて「高崎の散歩道 第十集」には、こんな記述があります。

昭和三十年代に中山道南側にあった吉田家でこんなことが起こった。
家の柱が急に少しづつずれるので、八幡地区から当時選出された加部市会議員に相談したところ、中山道がコンクリートで舗装されているので、コンクリートが膨張し、柱を押すのだろうなどとみんなで考えた。
しかし六月ごろ碓氷川へひび割れが生じ、川底に段ができ、なお地割れしていることがわかり、村中の大騒ぎになった。
また調べてみると堤防の一部が隆起していることや亀裂が入っていることも分かってきた。
市や土木関係の人々も加わって調査した結果、少林山の周りにも何ヵ所か土地の亀裂、陥没を発見した。
そこで四国の地滑りについての権威者に調べてもらったところ、日本アルプスの雪解け水が浸透してその圧力により弱い地盤の所を吹き上げ、地滑りを起こすのではないか、したがって水を抜けば地滑りは止まるということで、早速、市や県によって少林山東のカニ沢の崖に隧道を掘り水を抜くことにしたが、掘り進んでいくうち機械の故障で中止となった。
この間、拠点を定め細かに測量してみると、大崖が南へ動いている、いや北へ動いているということで問題が発展し、全国的な問題になってしまった。
そこで京大の教授はじめ全国の地質・土木の学者や当局の担当者が集まり再調査したところ、少林山の丘陵全体が三十メートル下で頁岩層となっていて、碓氷川の底へ傾斜している。
この層の上を地下水が流れその影響で地滑りが起こるという結論に達した。
対策としては、少林山下にコンクリートの杭を大量に打ち込んだため最近は地滑りもなくなった。
この間、吉田家では家の前の中山道が二階の高さまで上がってしまい、道を通る人が『お宅はえろう落ち込んでしまったのう』とは、中山道の隆起したことを知らない人の言葉であったと、吉田良太郎翁は、藤塚と共に生きてきた過去の災害記録を淡々と語ってくれた。」

昭和34年(1959)4月頃、民家の立てつけ等に多少の狂いが出たのが、事の始まりでした。
その時は、建物のせいだろうとあまり気にしなかったそうですが、7月になって急に変形が激しくなり、土間のコンクリート等が破壊し始めました。
翌35年(1960)6月になると、国道に300mにわたる亀裂が発生し、隆起が始まります。
隆起は、7月には8cm、10月には1m、翌年6月になると3~5mにも達し、家屋15戸倒壊、橋梁一基倒壊という大きな被害も出しました。
(昭和58年10月群馬県土木部砂防課発行「少林山地すべり」より)

その時の写真が、国土交通省砂防事例集の中に残されています。



堤防上には、赤く錆びついた「少林山地すべり防止区域」の看板が今も建っていて、地すべりにつながるような土木工事を禁じています。

少林山の地滑り対策工事は、発生直後の昭和三十五年(1960)から平成十一年(1999)までの長きにわたって続けられました。

その間、様々な対策工事が行われましたが、最終的には達磨寺本堂裏の滑り易い土を取り除くという、大掛かりな工事となりました。




その時伐採されたケヤキの木は、平成九年(1997)に建てられた総門に使われています。

そして、土を取り除いた一帯は、広大で見晴らしの良い公園に生まれ変わり、そんな地すべりがあったことなど感じさせません。

ただそこに建てられた大きな看板だけが、40年にわたる自然との格闘の歴史を語り継いでいます。



【隆起した国道跡】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:13
Comments(4)中山道