二宮金治郎の生誕地、神奈川県小田原市栢山を訪ねてみました。
←この石玉垣は、あの真珠王・御木本幸吉氏が寄贈したものだそうです。
大正四年(1915)に中央報徳会が建てた「二宮翁誕生遺蹟之碑」には、このようなことが刻まれています。
その御木本幸吉氏が寄贈した259坪の敷地には、今、「尊徳記念館」が建っています。
「尊徳記念館」は、昭和三十年(1955)建設の旧記念館を、昭和六十三年(1988)「二宮尊徳生誕200年祭」事業で改築したものです。
記念館では、尊徳の遺品や資料が展示され、その生涯と偉業が模型やアニメで分かりやすく紹介されていました。
この「回村の像」は、身長180cmという金治郎の等身大で造られているそうです。
金治郎は毎日欠かさず村の隅々まで回り歩き、村民の艱難・善悪、農業に精を入れているかいないかを、ただ黙って見究めたといいます。
「二宮翁夜話」には、こんな風に書かれています。
金治郎の生まれた家が、今もなお残っているというのは驚嘆に値します。
父・利右衛門が家督を継いだ時の二宮家は、二町三反六畝余の田畑を所有していた中流農家だったということで、31坪余のけっこう大きな家です。
「報徳記」によると、母が亡くなった時は「家財既に尽き、田地も亦(また)悉(ことごと)く他の有(もの)となる、残れるもの徒(ただ)に空家而巳(のみ)」という状態だったようですが、ここの看板によると、家も隣村の人に売られて他所に移されたとあります。
売られた先がよかったのでしょうが、普通の農家の住宅として使われながら「金次郎さんの生家」として、大事にされてきたそうです。
「尊徳没後百年祭」にあたり、所有者から譲渡を受けて、昭和三十五年(1960)この地に戻り復元されました。
生家のそばに、尊徳の訓え「貧富訓」を刻んだ碑が建っています。
金治郎は、自分に相応した生活の基準を「分度」と言っていますが、遊楽と勤勉が「分度」の内か外かによって、自ずと貧にもなれば富にもなるということです。
今でもそのまま当てはまる言葉ですね。
さて、この後、近くの尊徳遺跡を回りましたが、そのお話しはまた次回。
←この石玉垣は、あの真珠王・御木本幸吉氏が寄贈したものだそうです。
大正四年(1915)に中央報徳会が建てた「二宮翁誕生遺蹟之碑」には、このようなことが刻まれています。
「 | (略)明治四十二年 三重縣鳥羽町ノ人御木本幸吉氏 其ノ地久シク湮晦(いんかい:埋もれ隠れること)ニ属スルヲ憾(うら)ミトシ 貲(し)ヲ出シテ此ノ地ヲ購(あがな)ヒ 工ヲ起シテ適當ノ設備ヲ爲シ 其ノ歳十一月十五日ヲ以テ土工ノ一切ヲ竣(お)へ 其ノ地積ヲ挙ゲテ之ヲ本会二寄附セラレタリ(略)」 |
その御木本幸吉氏が寄贈した259坪の敷地には、今、「尊徳記念館」が建っています。
「尊徳記念館」は、昭和三十年(1955)建設の旧記念館を、昭和六十三年(1988)「二宮尊徳生誕200年祭」事業で改築したものです。
記念館では、尊徳の遺品や資料が展示され、その生涯と偉業が模型やアニメで分かりやすく紹介されていました。
この「回村の像」は、身長180cmという金治郎の等身大で造られているそうです。
金治郎は毎日欠かさず村の隅々まで回り歩き、村民の艱難・善悪、農業に精を入れているかいないかを、ただ黙って見究めたといいます。
「二宮翁夜話」には、こんな風に書かれています。
「 | 深夜或は未明、村里を巡行す、惰(だ:怠け)を戒るにあらず、朝寝を戒るにあらず、可否を問はず、勤惰を言はず、只自(みずから)の勤として、寒暑風雨といへども怠らず、一、二月にして、初て足音を聞て驚く者あり、又足跡を見て怪む者あり、又現に逢ふ者あり、是より相共に戒心を生じ、畏心を抱き、数月にして、夜遊・博奕・闘争等の如きは勿論、夫妻の間、奴僕の交、叱咤の声無きに至れり」 |
金治郎の生まれた家が、今もなお残っているというのは驚嘆に値します。
父・利右衛門が家督を継いだ時の二宮家は、二町三反六畝余の田畑を所有していた中流農家だったということで、31坪余のけっこう大きな家です。
「報徳記」によると、母が亡くなった時は「家財既に尽き、田地も亦(また)悉(ことごと)く他の有(もの)となる、残れるもの徒(ただ)に空家而巳(のみ)」という状態だったようですが、ここの看板によると、家も隣村の人に売られて他所に移されたとあります。
売られた先がよかったのでしょうが、普通の農家の住宅として使われながら「金次郎さんの生家」として、大事にされてきたそうです。
「尊徳没後百年祭」にあたり、所有者から譲渡を受けて、昭和三十五年(1960)この地に戻り復元されました。
生家のそばに、尊徳の訓え「貧富訓」を刻んだ碑が建っています。
金治郎は、自分に相応した生活の基準を「分度」と言っていますが、遊楽と勤勉が「分度」の内か外かによって、自ずと貧にもなれば富にもなるということです。
今でもそのまま当てはまる言葉ですね。
さて、この後、近くの尊徳遺跡を回りましたが、そのお話しはまた次回。